友人であるマカッサル市長代行が任期終了

5月13日、私の友人がマカッサル市長代行としての一年の任期を終えた。最後は、マカッサル市に大規模社会的制限(PSBB)と呼ばれるセミ・ロックダウン措置を発動し、新型コロナウィルス対策の陣頭指揮を採っていた。

彼と出会ったのは1996年4月、インドネシア国家開発企画庁(BAPPENAS)所属のJICA長期派遣専門家(インドネシア東部地域開発政策アドバイザー)として、マカッサルの南スラウェシ州開発企画局(BAPPEDA)に赴任したときだった。
BAPPEDAで職員全員を前に赴任の挨拶をした際、私は生意気にも「私にカネや援助を期待する人はこの場から去っていただいてかまわない」と述べたとき、そこにいた半数近くがゾロゾロと退場していった。その光景を今でもよく思い出す。
そのときに残った者たちと一緒に活動しようと思った。彼はその残った者たちの一人だった。
その後、彼を含めた若手職員とほぼ毎日夕方、寛いだ雰囲気の中で、地域開発政策に関する様々な議論をざっくばらんに行なった。それらの若手職員の多くが今、南スラウェシ州政府幹部として大活躍している。
彼もそうしたうちの一人だった。常に何か新しいことを考えようとしていた姿が今も脳裏に残っている。
BAPPEDAでの彼は、特定の部門に特化する対応ではなく、とくに総務・管理畑で重要な役割を果たした。その後、州知事選挙などを通じて、州政府内で政治的な派閥対立が先鋭化したときも、うまく立ち回って生き残り、着実に出世の階段を上がっていけた。
今の南スラウェシ州知事(彼も古くからの友人の一人だが)にも重用され、1年前、マカッサル市長代行に任命された。
マカッサル市長は空席だった。マカッサル市長選挙が行われたが、現職が汚職疑惑で立候補できず、立候補したのは1人(インドネシアの地方首長選挙は正副のペアで立候補するので正確に言えば1ペア)だった。彼は地元有力実業家の一族で、当選は間違いないと思われていた。インドネシアの選挙では無投票当選はなく、信任投票のような形で、立候補した1ペアは投票箱と戦う、という構図になった。そして選挙結果は、投票箱の勝利だった。
この結果、市長職は空席となり、2020年以降に改めて選挙を行うまでの間、州知事が任命し内務省が承認する市長代行が置かれることになった。複数の候補の中から、当時、州研究開発局長を務めていた彼が州知事によって抜擢された。
2017年1月、彼は家族を連れて、日本へ旅行に来た。そのとき、リクエストに応じて、1日、富士・箱根を案内し、新宿でハラルラーメンを食べてもらった。
彼の後任は、現職の南スラウェシ州BAPPEDA局長。国立ハサヌディン大学林業学部教授でもあり、同学部教授でもある州知事の後輩にあたる。市長代行の任期が当初の予定通りの1年で、延長されなかった理由は不明である。
ともかく、今は、市長代行を終えた彼にご苦労さまでしたと言いたい。次回、マカッサルへ行ったら、シーフードかチョト・マカッサルを一緒に食べたいものだ。

田谷さんのベビーリーフが届いた!

マスクが大量に売られているのだが・・・

5月1日のブログでも触れた農園たやの田谷さんのベビーリーフが今日届きました。

農園たやは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めたのですが、それを購入したところ、今日、クール宅急便で、東京の我が家に届きました。
箱を開けると、それはそれは立派なベビーリーフが・・・。
届いた今が一番新鮮で絶対おいしい!、ということですぐにいただきました。

レストランじゃないので、盛り付けは格好よくないのはお許しを。

まず、何もつけずに生で食べると・・・おいしい!
野菜の味が濃く、そのまま食べて本当においしい。
続いて、去年、馬路村へ視察に行ったときにお土産でいただいた柚子ドレッシングをかけてみると・・・もちろんおいしい!
ドレッシングがおいしいのはもちろんですが、べビーリーフ本来の味がしっかりのこる。野菜の味が消えないのです。
あっという間にベビーリーフをひと盛り食べ終え、もうひと盛り追加しました。
しばらく、田谷さんのベビーリーフを味わえる喜びが続きます。
皆さんもいかがですか。
1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供しています。
農園たやのベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
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そうそう、ベビーリーフを運んできてくださった配達員の方には、ダリケーのペイフォワードで購入したチョコレートを差し上げました。
ダリケーのペイフォワードについては、5月2日のブログで紹介しました。

ダリケーのペイフォワードの情報・購入はこちらから → https://dari-k.shop-pro.jp/?mode=f2

あなたがペイフォワードでダリケーの対象製品を購入すると、それに見合う数のチョコレート菓子が医療従事者にギフトされます。

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

貧困の津波

京都のチョコレート製造販売会社、ダリケー。インドネシア・スラウェシ島産のカカオを使ったチョコレートや、非食品を含む様々なカカオ製品を製造・販売しています。

おそらく、インドネシア産のカカオを使ったチョコレートを日本で製造販売しているのは、ダリケーともう1社ぐらいでしょうか。

スラウェシということで、私も、ダリケーのアドバイザーとして、お手伝いをしてきています。毎年恒例の、スラウェシのカカオ農家を訪問するツアーの引率をずっと務めています。

ダリケーについての詳しい話は、同社のホームページ(https://www.dari-k.com/)をご覧ください。

そのダリケーが今、ペイフォワードという取り組みを始めています。

新型コロナウィルスの影響で、他者と同様、ダリケーも多くの在庫を抱えることになりました。そのままでは、スラウェシのカカオ農家からの買付を続けられなくなってしまうかもしれません。でも、そもそもダリケーは、国際価格に翻弄されるカカオ農家に寄り添うことを目的に事業を始めた経緯があります。

新型コロナウィルスに翻弄される今、ダリケーは社会に対して何をなすべきなのか。ダリケーも含めて、関わる人々がウィン=ウィンを共有できるような仕組みとは何か。

考えに考えた末に、出した結論が、今回のペイフォワードです。

すなわち、新型コロナウィルス対策の最前線で懸命に対応している医療従事者への感謝の気持ちを自社のチョコレートで示す。そこで、趣旨に賛同していただいた方にチョコレートを購入してもらい、その販売量に合わせて、医療従事者にチョコレートを届ける。

ダリケーの在庫を減らすことができ、カカオ農家からの買付も継続できます。

医療従事者の方々にとって、チョコレートは決して必需品ではないかもしれません。でも、たとえほんの束の間でも、ホッとするひと時を味わえる。そのチョコレートの裏に、たくさんの方々が応援している気持ちが伝わります。

チョコレートには、そんな誰かが誰かのことを思う、思い合う、そんな気持ちと気持ちを通わせる力があるはずです。

名も知れぬ誰かが医療従事者である誰かのことを思ってくれている。その実感。

ペイフォワードで購入したチョコレートを味わう購買者も、今頃、自分の知り合いでも何でもない医療従事者である誰かを思う。

そして、そんな思い合い(思い愛?)の根本は、スラウェシのカカオ農家が作ってくれたカカオにある。そんなカカオ農家のことを思う。カカオ農家は、自分たちのカカオを使った製品が日本の医療従事者の力になっていることを思う。

そんな思い合いが繰り返され、広がっていったら、そのような世界は幸せな世界になるのではないでしょうか。

コロナ後に私たちが目指す未来の一端は、もう始まっているのかもしれません。

そして、そして、ペイフォワードでダリケーのチョコレートを購入した方々は、医療従事者やカカオ農家やダリケーのことだけでなく、ほかの方々への感謝の気持ちも現れるかもしれません。それは、たとえば、ダリケーのチョコレートを配送してくださった宅配業者とか・・・。

誰かを思い、誰かから思われる。それが連鎖となって、次から次へとつながっていく。自分は一人ではないと、みんなが思える世界。新型コロナが強いる、物理的に遮断される社会は、だからこそ生まれる思い合いの連鎖が、あたかも想像の共同体のようになり、つながっていく、他者を信じられる世界へつながっていくのかもしれません。

未来を悲観したり、諦めたりしたくはありません。ダリケーのペイフォワードのさらにその先に、新型コロナ後の新しい世界が少し見え始めたような気がしています。

貧困の津波

ステイホーム、だからこそつながる

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

ステイホーム。不要不急の外出を控える。行動自粛。友人や知人とも会わない。皆さんと同じように、私もそんな毎日を送っています。

動いてつなげるのが私の仕事のスタイル。でも、インドネシアへも福島へも行けず、東京の自宅で家族と過ごしています。

幸い、自宅の庭では、今、ツツジなどの花が咲いていて、なごみます。

そんななか、いつもお世話になっている「鳴子の米プロジェクト」から、追加でのお米の注文依頼が来ました。

同プロジェクトは、農家と消費者を直接結んで、消費者が農家を支えるCSA(Community Supported Agriculture)の実践で、「ゆきむすび」というお米を生産・販売しています。

「ゆきむすび」は在来の耐冷品種を復活させたものです。消費者へ直販することで、生産者が年々広がる遊休地・耕作放棄地でその在来品種を栽培し、消費者とともに地域の農業を守り、地域活性化を進める取り組みを続けています。
 鳴子の米プロジェクトのサイトはこちらから → http://www.komepro.org/
同プロジェクトは東京都内で、アンテナショップを兼ねた「むすびや」というおむすび屋さんを運営しているのですが、新型コロナの影響で閉店、そのために用意していた「ゆきむすび」が余ってしまいました。その余剰米を買ってほしいという注文依頼でした。
ちょうど、我が家でもお米を追加注文しようかと思っていたタイミングだったので、すぐに注文しました。来るのが楽しみです。
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続いて、福井県で農業を営む友人から連絡がありました。彼の農園からは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めました。1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供します。
 ベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
彼のところのベビーリーフは、プロ用ということもあり、一般に売られているものとは明らかにモノが違います。こんなお買い得なベビーリーフはまずないです。
当面、200組を用意とのこと。注文はお早めに。
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物理的に友人や知人には会えないけれど、つながることは決して難しくはありません。きっと、個々人レベルでは、こんなささやかな思い合いが今、起こっていることでしょう。
何かあったときの思い合い。ステイホームがそれを妨げることはありません。
ステイホーム、だからこそつながるのかもしれません。そんな心の通う思い合いから、新型コロナ後に私たちが創りたい、新しい社会が垣間見えるのではないでしょうか。

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福島で友人とインドネシアを熱く語る

1泊2日で福島。東京へ戻る前に、友人である福島市の会社社長と会った。初めてのインドネシアから帰ったばかりの彼から、インドネシアの話を聞きたい、というリクエストがあったからだ。

中国、ベトナムとビジネスを進めてきた彼は、初めて行ったインドネシアで、以前、ベトナムに行ったときに感じたような、ほとばしるような感覚を感じ、それからインドネシアで頭がいっぱいになった様子だった。

今日は、それに輪をかけるように、私が様々な情報を、系統立てずにまくし立てたものだから、消化不良に陥ってしまったようで、申し訳なく思った。

それでも、自社の若手社員を対象に、一人ぼっちになれる海外研修をやりたいと言う話が出た。福島出身の若手社員にマイノリティになる経験をさせる、という話になり、インドネシアでならば、こんなふうに研修したらいいのではないか、と、話は大いに盛り上がった。

彼の来年は、インドネシア・イヤーになるかもしれない、ということだった。必要あれば、もちろん、しっかりサポートするよ、と言った。

渋谷敦志「まなざしが出会う場所へ」写真展をみて

どうして
見つめ返すのか
困難を生きる
人びとの眼を

今日(6/8)、友人である写真家・渋谷敦志さんの「まなざしが出会う場所へ~渇望するアフリカ」という写真展を観に行ってきました。場所は、東京・ミッドタウンのフジフィルム・スクエア1階の富士フィルム・フォトサロンです。

写真展の詳細は、以下のサイトをご覧ください。

 困難を生きる人びとのまなざしに向き合う
 【写真家たちの新しい物語】
 渋谷敦志写真展「まなざしが出会う場所へ —渇望するアフリカ—」

この展覧会は、2019年1月に出版された彼の著書『まなざしが出会う場所へ ― 越境する写真家として生きる』を踏まえて、とくにアフリカで出会った様々な「まなざし」を伝える写真展でした。


ちょうど今日は、午後3時から、渋谷さんのギャラリートークがありました。トークでは、彼のこれまでの写真家としての人生、写真にかける思い、アフリカで出会った様々なまなざしとその背景、これからのことなどが話され、写真展に来られた方々が熱心に耳を傾けていました。

飢餓や戦闘の現場で、写真家としての無力感を感じ、実際に現場で役に立つことをしなければならないとして、写真をやめようと思ったこと。

それを何度も繰り返しつつも、写真家として、そのまなざしが出会う場所に、自分が居ること自体に重要な意味があると納得できるようになったこと。

渋谷さんは、そうした苦しみのなかから、自分なりのオリジナルな写真家としてのスタイルを確立しようとし続けていました。

掲げられた写真にある一人一人のまなざしと向かい合いながら、彼らの人生を思っていました。そして、彼らにとって、ふと現れた一人の写真家のまなざしはどのように受けとめられたのか、考えていました。

決して言葉で理解し合えるわけではない。でも、そこで出会ったまなざしが、出会った双方の人生にとって、何らかの意味を持つということはあるかもしれない。

少なくとも、まなざしの相手のことを思える想像力は持ち続けていたい、と思いました。

写真展は、東京では6月13日まで、その後は、富士フィルム・フォトサロン大阪で6月21日~7月4日まで開催です。

皆さんも是非、アフリカの方々の様々なまなざしに出会いに行かれてみてください。そして、渋谷さんの著書『まなざしが出会う場所へ ― 越境する写真家として生きる』も、是非、読んでみてください。

椏久里珈琲で美味しいコーヒー&お菓子と突然の弾き語り

6月1・2日は、福島市で東北絆まつりが開催されて、多くの観客でにぎわったようです。友人の話だと、市内は交通規制がかかっていて、メイン会場の市役所へ行くのも大変だった様子。

というわけで、常にメジャー路線を避けて行動する、あまのじゃくな私は、絆まつり見物には行きませんでした。その代わり、6月1日は、友人からの誘いを受けて、今月のケーキとコーヒーを味わうため、椏久里珈琲へ行きました。

椏久里珈琲には、毎月変わるケーキをいただくため、最低でも、1ヵ月に1回は顔を出すようにしているのですが、今回は、それに加えて、友人が「紹介したい人がいる」ということで、いそいそと出かけたのでした。

その方は、福山竜一さんという、シンガーソングライターでした。これまでにも、椏久里珈琲で何度かミニコンサートを開いている方です。

今回は演奏が目的ではなかったようですが、やはりギターは担いで来られており、椏久里珈琲のマスターご夫妻からの要請により、急遽、生の弾き語りをしていただきました。

いきなり「やれ」と言われたせいか、最初はあまり声が出ていませんでしたが、徐々に声が出始め、とくに高温のファルセットがとてもきれいで、やさしい感じの素敵な歌い方でした。

椏久里珈琲のマスターご夫妻をイメージして作った「アグリの大地で」、福山さんの故郷をイメージして作った「トマト色の黄昏」、どちらも、歌とともに歌詞がジーンと来ました。

福山さんを紹介してくれた友人のために歌った「ケセラセラ」、実は、私にとっても、歌ってもらってよかったと思えるものでした。歌に救われた気分でした。

福山さんのCDを1,000円で購入しました。もちろん、サイン付きで。

CDは、椏久里珈琲の店内、またはオンラインショップで購入できます。オンラインでの購入はこちらから。

福山さんのブログはこちら → ヤングの秘密の小部屋

福山さんの歌を聴いていたので、うっかり食べ忘れそうになったのが、椏久里珈琲の今月のケーキ。今回のセレクションは、コンヴェルサシオン。

曰く、「サクッ」とバターの甘い風味、「しっとり」とアーモンドのかぐわしい香り。異なる食感と風味が一つになった完成度の高いフランス菓子です。

あまり奇をてらっていない、庶民的なお菓子ですが、香ばしくてコーヒーにぴったりの美味しさでした。

いつもなら、満席で座れないのが椏久里珈琲の土曜の午後なのに、絆まつりのためか、珍しく、店内はお客さんもまばらで、マスターご夫妻も交えて、ゆったりと過ごすことができました。生の弾き語りも堪能できて、なんだか、思いがけず、ちょっと贅沢な土曜の午後になりました。

福山さん、ありがとうございました。そのうち、また、歌を歌いにいらしてください。もっとたくさんの人に聴いてもらいたいです!

東京の我が家の桜が満開、来年の今頃は・・・

東京の自宅には、妻方の先代が戦後すぐに植えた桜(ソメイヨシノ)の木が一本あります。おかげさまで、毎年、自宅の庭でお花見を楽しむことができます。

ほかにも、我が家の近くには、ネットには載らない、穴場的な桜並木があります。昨日通ったら、ちょうど満開でした。

この桜並木では、地元の商店会がさくらまつりをするのですが、なぜか、いつも満開から1週間後に開催なのです。

でも、この桜並木の見どころは、満開の桜だけではありません。散るときの桜吹雪が、それはそれは見事なのです。さくらまつりは、実は桜吹雪を楽しむためなのかもしれません。

我が家の庭にも、近くの桜並木にも、今は桜が咲き誇り、とても気持ちのいい季節になりました。

我が家の庭には、桜以外にも、様々な花が咲き始めています。

来年の今頃も、きっと、また家の庭の桜の木を見ながら、ささやかなお花見をしていることでしょう。

私たちの家族だけでなく。

ここに集う、インドネシアなどからの新しい友人たちと一緒に・・・。

もし、シェアハウスが完成していたなら・・・。

完成しているかどうか? それは、神のみぞ知る・・・ですね。

池袋でマカッサルの中学生一行と面会

3月7~16日はインドネシアへ出張していました。

色々とバタバタしていたため、ブログの更新ができない状況でした。そのときの様子も、適宜バック・デイトしながら、少しずつ、ブログを更新していきます。

インドネシアから帰国後、すぐに宮城県塩釜へ行き、その後、福島で長時間の打合せとビジネスセミナーに出て、終電1本前の新幹線で東京の自宅へ戻ったので、3月19日の午前中はしばしゆっくり休もう、と思っていたら・・・。

携帯のSNSにインドネシア人の友人から「今日、午前10時に池袋で面会って約束したよね?」というメッセージ。あれ、21日夜の約束じゃなかったの?、と返したら、19日午前と21日夜の2回会うという約束だったはず、との返事。

二度寝して起きたのが午前9時半。まずい、と思って、「10時半に行くから」と返事をし、慌てて、池袋へ向かいました。

池袋に着くと、友人は、20人ぐらいの中学生を連れてきていました。マカッサルのボソワ国際中学校に通う中学生たちで、日本への研修旅行2日目でした。

サンシャインのポケモンセンターの前で、私から軽くあいさつした後、彼らはポケモンセンターのなかへ消えていきました。その後は、しばし、友人と引率の中学校の先生と懇談。熱の出た子がいたので、薬局へ熱さまシートを買いに行きました。

しばらくして、おそろいのポケモンの袋とともに、嬉しそうに出てきた中学生たち。アニメのことをもっと知りたい、という子が多いようでした。

サンシャインの前で記念写真を撮った後、次の目的地へ向かう彼らとお別れしました。

そして、私は、午後の用事へと向かいました。

友人の1年近く前の死を今日初めて知った

インドネシア人の友人A氏がカナダの大学で博士号を取得しました。彼はとても嬉しくて、これまでお世話になった友人・知人・恩人にお礼のメッセージを送っていました。

彼とは2001年に初めて会いました。マカッサルで同世代の若者たちと一緒に、小さな図書館を作るなどの社会活動を行っていました。私ともかかわりの深い、後のマカッサルのイニンナワ・コミュニティにつながる、ささやかな活動をしていました。

そんな彼と彼の仲間たちと一緒に行動するきっかけは、2002~2003年に彼らと一緒に、南スラウェシ州の村で、日本の学生とインドネシアの学生とがともにフィールドワークを行うプログラムを実施したことでした。

このプログラムは、日イの学生が1週間程度村に入って、村の方々のお宅にホームステイしながら、村の方々と対話するなかでそこでの生活から様々なことを学びます。

当初、学生は「村の問題をどう解決するか」「村をどう発展させるか」を考えようとするのですが、現場での学びのなかから、村の方々が気づかないような村の生活の価値や良さを見い出します。そして、村での生活の最後に、彼らが学んだ事を村の方々に分かるような方法(寸劇など)で発表し、村での活動への協力に感謝を表します。

このプログラムを通じて、フィールドでの行動を共にした学生たちは真の友人となり、各方面で活躍する現在も、強いネットワークで結ばれています。

このプログラムの日本側オフィサーだったのがSさんで、今回、A氏は彼女にもお礼をしたくて、コンタクトをしようとしてきました。

ところが、連絡しても一向に反応がないというのです。Sさんのフェイスブックページは、昨年4月以降、更新されていないということでした。

A氏に頼まれ、関係者に訊ねていたところ、今朝になって、Sさんが昨年4月に、アフリカで亡くなられていたという情報を、プログラム参加者の一人だった友人から知らされました。その友人は、Sさんが亡くなる前日、夕食を共にしていたということでした。

Sさんは、上記のフィールドワーク・プログラムの仕事の後、長い闘病生活に入りました。同プログラムに関わった友人・知人たちは、Sさんに生きてほしい、生き延びてほしい、とずっと願い続けました。そして、幸運にも、Sさんは病に打ち勝ち、仕事に復帰しました。

復帰後は、英国の大学院で学んだ後、アフリカにわたり、国際協力活動により一層取り組んでいる様子でした。

1年近くもSさんが亡くなったことを知らずにいた自分を恥じました。

フィールドワーク・プログラムを一緒に手掛けた15年ほど前、インドネシアの村の現場で、これからの学生たち・若者たちが造っていく未来を共に語り合ったのを思い出します。そして、Sさんの存在がマカッサルの若者たちの活動を後押しし、イニンナワ・コミュニティに結実していくさまを、私はずっと見てきたのでした。

明日は何が起こるか分からない。だから今を懸命に生きるしかない。

Sさんと語り合った、目指すべき未来を、プログラムに関わった友人・知人とともに造り続けていくことを、改めて心に誓いました。

Sさん、もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、どうぞ安らかにお休みください。そして、ずっと見守っていてください。

福寿草がたくさん咲く季節になりました。

バトゥで思いがけない出会い

11月13日、友人である、日本の某大学の先生の紹介で、バトゥである農民夫妻と会うことになりました。

面会の指定場所は、カフェでもレストランでもなく、あるお店。友人の家なのでゆっくり話ができる、ということだったのですが、ちょっと不安になりました。

そのお店の場所を突きとめて、行ってみると、コピー屋でもあり、電気屋でもあり、という不思議なところでした。ますます不安になりました。

本当に、ここなのか?

店番をしている女性は私の来訪をすでに知っていて、2階へ上がるように促してくれました。

2階へ上がると、面会予定の農民夫妻がにこやかに座っていました。そして、しばらくすると、その店の主人らしいご夫婦がやってきました。

実はね、と奥さまが話し始めました。

え、と驚く自分。

なんと、奥さまは、戦後、インドネシアに残って独立戦争を戦った残留日本兵として最後に亡くなった、故アフマド小野さんの長女アツコさんでした。

アフマド小野さんは3年前に亡くなられましたが、生前にお会いしたいと思っていて、かなわずに終わっていました。まさか、こんな形でご遺族にお会いするとは。

農民夫妻とアツコさんの旦那さんは、イスラム教の先生が同じ方で、それで、日本人だということで、気を利かせてくれたようです。

その後、皆んなで色々な話に花が咲きました。

毎月食べたくなる、椏久里のケーキ

10月も、いつもの間にか、もう終盤へ入ってきました。スラウェシ中部地震関連の情報収集を続けているうちに、悶々とした気分の日々になり、正直言って、ちょっと気持ちが鬱屈してしまいました。

そんななか、無性に、あのケーキが食べたくてしょうがなくて・・・。

福島で時間があれば、必ず食べに行く、それが椏久里のコーヒーとケーキです。毎月、ラインナップが変わるケーキは、食べに行かないと本当に損した気分になってしまうほどです。今回は、10月11日に行きました。

 椏久里のホームページ

10月のケーキは4種類ありましたが、11月になったら食べられないかもしれない2種類を味わってきました。

これは、モーゼルヴァイン・クレームトルテ。ドイツ・モーゼル産のシャープでフルーティーな白ワインのクリームと、みずみずしい福島産シャインマスカットを使用したドイツ菓子、というのが、椏久里のホームページでの説明です。

ドイツ菓子、というのは、そこの部分が硬くて薄い焼き菓子になっていて、サクッとしているのが特徴です。それがなんとも言えず、好きです。

続いては、秋のおなじみ、モンブラン。キャラメル化させたメレンゲに生クリームと和栗特有のやわらかい香りと甘さを引き出した自家製和栗甘煮をのせ、ラム酒のきいたマロンクリームで仕上げた、ということです。

口のなかでふわっととろけるメレンゲと生クリームの組み合わせが、なんとも言えず良いです。カウンター越しに、「和栗を剥くのは大変なのよー」「栗はね、こうやって剥くのよー」といった、ミユキさんとの掛け合いが、またいつものごとくとても楽しいひとときです。

今回のコーヒーは、マラウィ・ミスク。満ち足りたひとときを過ごすことができました。

閉店間近となり、お客さんも少なくなって、いつも今月のケーキ情報を送ってくださるSKさんと一緒に、マスターとその奥様のミユキさんと話が弾むうちに、スラウェシ中部地震の話になりました。

突然、マスターが走り出して、どこかへ行ってしまったかと思ったら、封筒を片手に戻ってきました。「ウチからも少しだけどよろしく」と。

今回の募金の呼びかけでは、全く見ず知らずの方々も含めて、たくさんの方にご信用いただけて、本当にありがたいものだと思っています。

募金とともに、皆さんのスラウェシを思う気持ちが、私の信頼できるマカッサルの友人たちと被災地の方々に届くようにと、願っています。

さて、11月も、また椏久里のケーキも食べに行けるといいのですけれど・・・。

本当に、オススメのケーキですよ。皆さんもぜひぜひ。

INSISTネットワークへの1回目募金送金報告など

本日(10/12)、募金第2弾で対象としているINSISTネットワーク(Disaster Response Team INSIST Networks)へ、1回目の募金として、22万4280円を送金しました。

なお、送金手数料1480円は、当方で負担させていただきました。

この額は、本日のレート、1円=134.6ルピアで換算され、3018万8088ルピアとなりました。なお、INSISTネットワークからは、すでに「入金を確認した」との連絡があり、協力してくださった日本の方々へ感謝申し上げます、との言葉が述べられておりました。

今回は、銀行振込と現金手渡しで募金をいただいた方15名の分のみを送金しました。なお、Polcaでの分は今回は含めず、10月末に送付したいと考えております。

今回の送金でご協力いただいた方々は次の通りです。お名前は省略し、イニシャル1文字のみ表記しております。

また、送金明細は以下のとおりです。

●INSISTネットワークの主な活動

INSISTネットワークの活動の様子は、逐次、フェイスブックにて紹介しておりますが、ここで、いくつか要点をかいつまんでご紹介します。

・救援物資を積んだトラックをマカッサルからすでに2台出発させました。

・まずは被災状況と支援対象とすべき地域を調査し、パル市、ドンガラ県、シギ県の支援対象とすべき地域に複数の詰所を設置しました。救援物資はこの詰所に集められたのち、配給されています。

・救援物資の配給に当たっては、乳幼児や妊婦、高齢者など、避難住民の状況に応じて物資を配給するほか、配給を受ける個々人の名前を特定させて、受取人には受取票へ署名をしてもらっています。これは物資配給の際に取り合いになることを防ぐとともに、ここの避難住民の状況に関するデータ収集の意味も持たせています。

・救援物資を配るだけでなく、地域の人々どうしの助け合いを促す活動もしています。たとえば、被害が比較的少なかった山間部の農村などで生産された農産物を購入して都市へ運び、都市の避難住民へ配給する、といった仲介をしています。現在、このプログラムに参加する近隣の農民を募っているようです。

・また、詰所で避難住民が衣服を選んだ後、あるおばさんが、残った衣服を枕に仕立て直して皆に使ってほしい、といった申し出をしたそうです。こうした、避難住民どうしが助け合うことで、今後の中長期的なコミュニティ再生への端緒をも築こうとしています。

決して大規模ではないにしても、また災害救助のプロフェッショナル集団ではないにしても、こうして、一つ一つ丁寧に避難住民と向き合い、彼らの主体性を尊重しながら、中長期のお付き合いを意識しつつ、実のある支援を試みているINSISTネットワークを、私たちも温かく見守っていければなと思っています。

●募金第2弾はまだまだ継続中です!

募金第2弾は、1回目の送金が終わりました。しかし、INSISTネットワークへの募金自体は、まだ継続しております。引き続き、ご協力をお願いいたします。

インドネシア在住の方などは、直接、彼らの銀行口座へ振り込んでいただいて結構です。入金は現地通貨(ルピア)となります。

 口座番号:3419-01-017682-53-2
 銀行名・支店名:BRI Unit BTP Tamalanrea
 銀行支店所在地:Ruko BTP, Jl. Tamalanrea Raya No. 16D,
         Tamalanrea, Makassar 90245, Indonesia.
 口座名義:Yayasan Payo Payo
 銀行SWIFTコード:BRINIDJA

日本からの募金は、銀行口座振込とPolcaの二本立てにしたいと思います(現金手渡しもも可能です)。

銀行口座振込は、ご信用いただけるならば、以下の私の口座宛にお振込いただき、お手数ですが、振り込んだ旨をメールにて matsui@matsui-glocal.com へお知らせください。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
 口座番号:2268635
 口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。募金は一口1000円から受け付けております。なお、下記サイトは10月末までの1ヶ月間のみ有効となっております。

 スラウェシ中部地震被災地支援第二弾、INSISTネットワークへの支援

なお、Polcaでは募金総額の10%を手数料としてPolcaへ支払う必要が出てきます。第1弾では私がそれを全額自己負担いたしましたが、負担額が2万円以上と相当に大きくなってしまいました。今後は、募金総額の90%を支援先への実際の送金額とさせていただきたく思います。誠に恐縮ですが、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

以上、皆様のご理解をいただき、支援活動の第2弾を引き続き行なっていきたいと思います。改めまして、引き続き、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

スラバヤの3教会自爆テロに思うこと

滞在先の東ジャワ州バトゥ市で5月13日朝、同州の州都スラバヤ市の3つの教会で自爆テロがあったとの報道を知りました。その後も、用務の合間、報道を追いかけていました。

5月13日は日曜日で、日曜の朝のキリスト教の教会と言えば、もちろん日曜礼拝があります。たくさんの信者が集まる日曜礼拝の時間を狙った事件でした。

警察発表によると、3つの自爆テロは、ISに合流してシリアから戻った一家族による犯行だったとのことです(注:後に、警察は、「シリアへは行っていなかった」と訂正しました)。父親、母親と二人の幼児、息子2人が別々の教会を襲い、多数の人々を巻き添えにして、自爆しました。

この事件で注目される点が3点あります。

第1に、複数箇所への同時多発自爆テロだったということです。同時多発テロを行うには、複数のテロリストが連絡を取り合いながら犯行するものですが、どこかでその兆候を治安当局に見つけられると、中止となるか単発で終わります。同時多発テロは、それが起こればテロへの恐怖は一気に増します。治安当局は、テロリスト間の情報の傍受でそれを未然に防いできたものと思われます。

でも、今回は、同時多発テロが起こりました。それは、第2に、犯行が一家族によって行われたためです。

一つの思想に染まった家族が、実行してしまった今回のケースは、幼児や10代の子どもを引き連れて実行された点で、世界に大きな衝撃を与えています。なぜ、この家族はこのような犯行を行うに至ってしまったのか、そこへ至るまでに何かできなかったのか。社会からの疎外感が彼らを過激思想・カルトへ走らせたとしたら、それはなぜなのか。

過激行為を未然に防ぐためにも、社会が考えなければならない課題のようにも思えます。

そして第3に、場所がスラバヤだったということ。スラバヤの治安の良さは、警察の能力の高さと評価されてきました。ジャカルタで何か事態が起こると、スラバヤから警察が応援に派遣されることが常でした。スラバヤの治安状況がインドネシアのそれのバロメーターともみられてきました。

そのスラバヤで今回の事件が起こったということは、治安面を見ていくうえで大きな意味を持ちます。すなわち、スラバヤがバロメーターであるという前提が正しければ、この種の事件はインドネシアのどこでも起こり得ることになるからです。その意味で、スラバヤの警察のプライドを大きく傷つける事件でもありました。

筆者が危惧するのは、こうした流れを利用しようとする政治勢力が現れてくることです。とりわけ、現段階で再選が有望と見られる現大統領を追い落とすためには、どんな手段でも活用したい勢力が、このような事件を利用して世間に恐怖心を煽って自分たちへの支持を半ば強制するのではないか、という危惧です。

もっとも、現時点では、活動禁止処分を受けたHTIも含め、自爆テロを厳しく批判する声明が次々に出されています。他方、SNS上でテロを支持・擁護するような発言を見かけたら警察へ告発する、というような動きが早くも始まっています。

こうした自由で公正な発言や議論を妨げるような動きは、政治的に対立するどちらからも現れてくるものと見られます。

スラバヤの悲劇に対して、インドネシア各地で連帯の表明が相次いでいます。それは、亡くなった方への追悼、負傷者への献血に駆けつける市民、宗教の違いを超えた集会の実施など、またたく間に広がっていきました。

今日、一連の動きを追いかけながら、時々泣きそうになる自分が居ました。そして、3年間住んだスラバヤのことが、自分にとっても大切な場所になっていたことに改めて気づきました。

友人や知人の安否を確認し、無事の知らせにホッとしている自分。そして、友人から送られてきた、まったく客のいないギャラクシーモールの写真に、今回の事件の市民へ与えた心理的影響の大きさを感じずにはいられませんでした。

筆者はスラバヤを信じています。スラバヤが今回の事件で揺らぐことはない。スラバヤはスラバヤであり続ける、と。今後も、スラバヤの友人や知人を信じ続け、彼らと会うためにスラバヤに行き続けること、を誓います。

柳津の「小さな宿の勉強会」は今回でなんと第484回

1月12日は会津坂下で用務を済ませ、さて次はどこへ行こうかと思っていたところ、今回案内してくれる友人が、柳津(やないづ)へ行くというので、付いて行きました。

友人が連れて行ったのは、柳津温泉の「花ホテル滝のや」という宿でした。なんでも、友人は私をこの宿のご主人に会わせたい、というのです。まあ、私自身、特別な予定もなかったので、そこまで言うならお会いしてみよう、ということで同行したのでした。

着いてしばらくすると、行政関係の別の来客があり、成り行き上、事情も分からないまま、私も同席することになりました。皆さんの話の内容は分かりましたが、これまでの経緯や中身については全く関知しないので、ともかく、じっと黙っていることにしました。

このときの私以外の方々の議論について、ここでは触れませんが、地域の現場でよく見かける様々なものの一端がここにもありました。

この宿に私を連れてきた友人は、夜、会津坂下で用事があるということで、私は急遽、この宿に1泊するということになりました。そして、たまたま、その夜はイベントがあるので、それにもぜひ顔を出してほしい、と言われました。

そのイベント、というのが、「小さな宿の勉強会」花ホテル講演会、というものでした。今回で第484回。えーっ、484回も続いている勉強会って、いったい、どんなものなのだろうか。しかも、柳津という小さな町の小さな宿でそれが続いているとは・・・。

急に興味がわいてきたので、この会に参加することにしました。

宿のご主人から渡された資料によると、この会の第1回は2001年2月2日に開催されて、毎月3~4回ぐらいのペースで、ずーっと継続されています。

今回の第484回は、いなわしろ民話の会に所属する鈴木清孝さんという方が「会津の民話:親父の冬がたり(冬だからこそ、語りのおもてなし)」と題する講演でした。

福島県内の会津地方より面積の狭い都府県が全国で21あることや、冬の雪多き気候が豊かな水を作り出す場所として会津の「津」という意味があることなど、会津に関する豆知識をお話しいただいた後、いくつかの冬に関係する唱歌を皆で歌い、冬に関するいくつかの民話を会津弁で語ってくださいました。

参加された方々は高齢の方が多かったのですが、皆さん、民話が好きで、語り部をやっていらっしゃる方々でした。全会津民話の会という名前の下に、18団体、200人が会員となり、500~600話(基本は150話程度)の民話の語りを行っている、というのにも、軽く驚きました。会津ではまだまだ民話が愛されているように感じました。

鈴木さんの講演が終了すると、参加者が集って、オードブルや鍋を囲みながら懇親会へ移ります。今回は、県立会津大学の副学長を務めていらっしゃる程先生も参加されていて、とても熱心に皆さんのお話を聞いていましたし、私も個人的に色々とお話をすることができてとても有益でした。

間もなく500回を迎えようというこの「小さな宿の勉強会」を主宰している花ホテル滝のやのご主人である塩田恵介さん。まさに、地域な中で様々な人々をつなげ、それを地域に生かす種まきをずっと地道にされていることに深い感銘を受けました。それは、決してすぐに芽を出すものでも、成果主義に即した即効性のあるものでもないかもしれませんが、こうした営みが続いているということ自体に大きな意味があると感じました。

塩田さんはまた、柳津という一つの町に留まらず、奥会津地方の地域づくりに関わる方々のまとめ役も果たされていて、とくに、災害で一部不通となっているJR只見線の復旧に関して、沿線市町村と連携して動いていらっしゃる姿には、本当に脱帽です。まさに、奥会津、いや会津の地域づくりのキーマンの一人なのでした。

私の友人がなぜ、私を塩田さんに会わせたいと思ったのかがようやく理解できました。

そして、わずか数時間前にお会いしたばかりの私に、塩田さんはこの「小さな宿の勉強会」での講演を依頼するのでした。これは、快諾しないわけにはいきません。この3月に「グローカルな視点からみた地域づくり」(仮題)でお話しすることを約束しました。そして、塩田さんからは、只見線復旧と絡めて話してほしいとの注文も受けました。

宿の24時間かけ流しの快適な温泉に浸かりながら、この日の柳津での出会いの偶然と講演を含むこれからの柳津や奥会津との関わりのことをぼーっと考えていました。そして、やっぱり、現場に即すると、次から次へと色々なアイディアが湧き出てくることに改めて気づきました。

外は雪、マイナス13度の柳津で、温泉のせいもあるでしょうが、とても温かな、そしてしっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれた一日でした。

柳津に連れて来てくれた友人と塩田さんはじめ、「勉強会」でお会いできた皆さんに感謝申し上げます。

自分にしかできないことを高める

先日、友人から人生相談を受ける機会がありました。何かアドバイスできるような立派な人生など歩んでいるわけではないですが、ともかく、彼より少しシニアだということで、お会いすることにしました。

話を聞きながら、自分も、かつて、いや今も、自分の生きていく道筋について悩んできているということを改めて思いました。

ポジティブ全開の人も含めて、どんな人でも、自分に対して正直になったとき、今まで歩んできた道を少しも後悔しない人はいないのではないか、と思います。自分が計画した通りのベストな人生を歩んでいると実感している人はいないのではないか。

でも、自分が歩んできた道がベストだったのだ、と思って生きることは大事なことだと思います。思い描いたベストな人生ではないかもしれないけれど、今の自分は過去からの様々な出来事の因果関係の連鎖のうえに成り立っていて、後から振り返ると、これで良かったのだと肯定しないと、やっていられないように感じるのです。

相談した友人は、現状への不満と漠然と「こういうことをしたい」という思いは持っているのですが、その思いはまだホワッとした状態で、それをまだ明確に具体的にできていない様子でした。

そのときに、自分がやりたいこと、それを実現するために何をしなければならないか、ということを考えたとき、年齢や家族構成などを考慮すると、できるだけそれを無理なくできる方法を考えたほうが良さそうです。

自分の比較優位は何かも自覚しておくことが重要でしょう。比較優位がないものを実現するためには、ものすごい労力と努力を必要とします。たとえば、インドネシアに関するコンサルティングを行ないたいという場合に、既存のコンサルタントにはない何を比較優位とするのか、が問われてきます。

残念ながら、友人がそれを実現するためには、それこそ、ものすごい労力と努力を必要とすることが明らかでした。

しかし、今、自分で関わっている仕事から派生する形で、比較優位を作っていくことのほうが無理なくできる場合もありえます。友人の場合、今の仕事は、日本で専門家がほとんどいないある外国に関わるものでした。ですから、少し努力すれば、友人はその国の専門家になることができるのです。

生きてきた証は、自分にしかできないことを高めていくことで培われるものです。自分がこの世に生きた意味や証は、自分にしかできないことを世の中で実現することで生まれてくる。それは、自分という個を、アイデンティティを、明確にすることでもあります。

友人には、今の自分の状況を冷静に把握し、できるだけ無理なく、自分にしかできないことを高めていくのがいいのではないか、とアドバイスしました。

と、そこで気づきました。これは、地域が生き生きとしていく、生き残っていくことと同じではないか、と。その地域の持つ地域性をしっかり理解し、そこから他にはない、その地域にしかできないことを見つけ、それを高めていく。

そして、自分にしかできないことを高める人々が集まる地域が、自らの地域にしかできないことを高めていけるのではないか、と。

振り返って、私自身、自分にしかできないことは何なのか、改めて考えています。そして、自惚れではなく、それは、確かにある、ということを確信しています。

それは、小さい頃からずっとやりたいと思っていた、ホワッとした思いが徐々に具体的なイメージにフォーカスしてきているのでした。研究所で研究員を務めたことも、開発援助の実務に関わったことも、NGOで活動したことも、独立して自由に動け回れるようになったことも、後から振り返ると、すべてつながっているのでした。

家族を養うという意味での生活を考えれば、後悔する気持ちが全くないわけではありませんが、自分はこういう生き方をしたかったのだ、そこに意味があるのだ、という気持ちのほうが勝っている気がします。

さて、来年はどうなりますことやら。楽しみです。

起き上がりムンクさんに癒される?

福島のインドネシア人コミュニティとつながる

昨晩(11/18)、友人を通じて、福島のインドネシア人コミュニティとつながり、焼肉パーティーに招かれました。

今後の活動の一翼として、インドネシア人技能実習生に対する相談窓口の役割を果たしたいと考えていますが、これまで、なかなかつながる機会がありませんでした。これからの展開がとても楽しみです。

噂では、福島にも少なからぬインドネシア人技能実習生がいるようなのですが、街中で出会うことはまずないし、福島県も福島市も、むしろベトナムへの関心が高く、インドネシアのイの字も聞こえてこないような状況に見えました。

でも、福島市をはじめ、二本松市、本宮市、川俣町など、けっこうな数のインドネシア人技能実習生がおり、彼らは「コミュニタス福島」というゆるやかな組織を通じて、つながっているのでした。今回お会いした方々も、この「コミュニタス福島」のメンバーです。

彼らは、コンクリートの型枠を作って据え付ける作業をする実習生でした。受け入れてくれた会社の社長が一軒家を用意してくれて、そこに5人で住んでいました。現場は県内のあちこちにあり、けっこう広い範囲を移動しているようでした。

最初のころは、習ってきた日本語が役に立たなかったと言います。現場の言葉は福島弁、その違いになかなか慣れなかったようです。私が連発する福島弁が大受けでした。

また、初めのころはよく怒られていたそうですが、最近では「いいがら、それ、俺やっとっから」(もういいよ、それは私がやっておくよ)、と言われることが多く、怒鳴られたり怒られたりすることはあまりなくなったそうです。というか、悪くとれば、諦められてしまったのかもしれませんが。

ともかく、彼らにとって、今の社長はとてもいい人で、自分たちは恵まれていると感じているようでした。

それでも、いくつかのケースを聞くと、明らかに、それらはミス・コミュニケーションによる誤解でした。

たとえば、休日なのに働かされる、という話。「きっとそれは、得意先からの納入期限まで時間がないので休日出勤させるということで、日本人でも同じだよ」と話してあげると、彼らはみんな納得します。でも、それを、会社側から彼らにうまく説明できていないようなのです。

また、別のケースでは、実習生は一人で6台の機械を見ているのに、日本人はそれを2人で見ているのは不公平だ、という話。「きっとそれは、実習生のほうが技能的に日本人よりもできるから任せているんだよ」と話してあげると、彼らはまた納得。暗黙の裡に、日本人のほうがインドネシア人よりできるのに、と思い込んでいるのでした。今の企業に、インドネシア人をいじめている余裕などないと思います。

彼らと話をしながら、こんなミス・コミュニケーションを初期段階で一つずつ解きほぐしてあげるだけで、ずいぶんとお互いが気持ちよく活動できるはずだと確信しました。実際には、それが分からないまま、相互に不信感を募らせ、ある日突然、感情が爆発する、といったケースが少なくないと思うのです。

そうした意味で、インドネシア人技能実習生だけでなく、彼らを受け入れている企業や農家の皆さんにとっても、相談窓口にもなりたいと思っています。

このブログを読んでいる方で、関心のある方は、メールmatsui@matsui-glocal.com)または電話(090-3217-5845)、FAX(024-505-4294)にて、お気軽にご連絡ください。

福島高校合唱団第60回定期演奏会を聴いて

昨晩は仙台に1泊し、イモニウォークの疲れをとって(?)、朝、JR普通電車で福島へ移動しました。実家で昼食をとって少し休憩した後、ママチャリに乗って向かった先は、福島市音楽堂。

今日は、ここで、福島県立福島高等学校合唱団第60回定期演奏会を聴きに行きました。私の母校であるだけでなく、実は、私もかつて、所属していました。当時の福島高校は男子校でしたので、所属していたのは、もちろん男声合唱団。そう、当時は福島高等学校男声合唱団でした。
今は男女共学となったため、男声がとれて、福島高校合唱団となっている様子。実際、現在の団員は、圧倒的に女性のほうが多く、福島高校といえば男声合唱団だった自分としては、正直言って、最初からちょっと違和感を感じる雰囲気がありました。
今回は、合唱団創団70周年記念演奏会も兼ねており、OB(共学後のOGも含む)がかつて演奏した曲目を現役団員も入って歌う特別ステージがあり、それを聴くのも目的の一つでした。

私が所属していた時の高麗先生に学んだ団員たちは今も「梅声会」という親睦組織を作っており、そのメーリングリストで、今回のステージに参加するメンバーの募集や練習日程などが案内されていました。
私も同期の友人たちから参加を勧められたのですが、長年歌わなかった間に声がもう本当に出なくなってしまい、かつ、直前までインドネシア出張が入っていて練習に出られそうもなかったため、参加しませんでした。でも、節目の演奏会ということで、演奏会だけは聞きに行こうとは思っていたのです。
現役団員のステージは、混声ということで、最初はちょっと面食らったのですが、徐々に慣れ、彼らの一生懸命で若々しい様子を微笑ましく聴けるようになりました。
続いて、OB(OG)を交えたステージが3本。まず、男声合唱ではおなじみの「月光とピエロ」はさすがに年齢の高さを感じさせる演奏でした。次は、10〜20年前の混声になってからの後輩メンバーによるモンテベルディ「マドリガル」から3曲。相当練習したのでしょう、予想以上に素晴らしい演奏で、とても良かったです。
そして、我々の世代を含む男声時代のメンバーによるケルビーニ「レクイエム」からの「ディエス・イレ」と「オフェルトリウム」の2曲。これは福島高校管弦楽団のオケ付きでの演奏で、指揮はかつて指導を受けた高麗先生。
写真がちょっとピンボケですが、雰囲気は伝わるでしょう。私が団員だったとき、先輩は「オフィルトリウム」で合唱コンクール全国大会金賞を取り、我々は高校1年のとき、「ディエス・イレ」で先輩とともに2年連続金賞受賞を狙ったのですが、東北大会で金賞を取ったものの、1点差で全国大会へ行けなかったのでした。
当時と比べれば、合唱もオケもまだまだという感じではありましたが、コーラスの厚みの部分に往年の輝きが随所に感じられ、あっという間に、高校時代の自分にタイムスリップし、いろんな記憶が瞬時に蘇ってきました。
演奏後、ステージに乗った同期から「歌いたかっただろ?」と聞かれたのですが、なぜか歌いたかったとは思えませんでした。物理的にあんな声はもう出ないのもありますが、合唱って、自分にとっては大事な宝物のようなものだけど、今の自分の現実世界とは別の世界にある、という気がしてしまったのです。
振り返ってみると、私が団員だった頃の男声合唱団は、文化系というよりも体育会系に近い組織だったような気がします。目標は合唱コンクールで金賞をとること。そのために、部活では毎日校内をランニングし、腹筋を鍛え、週5日練習し、夏には鬼のような合宿を1週間続け、コンクールが全てに優先する日々でした。
我々のときだって、定期演奏会ももちろん開催しましたが、コンクール優先なので、楽しかったという思い出があまり浮かんできません(でも、女子高校の女声合唱団とのジョイントコンサートを何回か開いたのは楽しかったかな)。
今日の後輩たちの定期演奏会を見ていると、団員たちが色々と工夫をしながら、自分たちも楽しみつつ、お客さんに楽しんでもらおうという姿勢がよく伝わってきました。高校生らしい、と言ってしまえばそうなのですが、ポップス・ステージなんて、私の頃にはまずありえないステージだったけれど、なんだかとても楽しそうで、本当に微笑ましかったです。これも、男女共学になったからなのかもしれません。
真面目で一生懸命な様子がうかがえた現役団員の姿が、私にとっては最大の収穫でした。我々の時代とは違う、新しい時代の君たちの合唱団を作っていってほしいと思いました。
それはそうと、きっと、今日の観客の中には、私と同じ頃に合唱をやっていた方々、もしかすると私の知っている方々が、もちろんシニア世代として、来ていたのではないか、という気がしました。でも、何十年ぶりかで再会するといったサプライズはありませんでした。
長い間、福島から、そして合唱から遠ざかっていた私を知っている人など、おそらくいないはずなのに、もしかしたらいるのではないか、なんて余計なことを思ってしまうのは、やはりここが福島だからなのかもしれません。
さて、人恋しさや郷愁はそこへ置いて、私は前へ進むことにしよう。そう決めて、ママチャリに乗って、さっと実家へ戻りました。

やたら知人に出会う、今回のジャカルタの宿

昨日(7/10)からジャカルタに来ています。いつもは、東ジャカルタの私のアジトに泊まるのですが、今回は、調査団の一員としてなので、他の団員と同じホテルに宿泊しています。

このホテルに初めて泊まったのは1980年代後半で、それ以来、何度か泊まっているのですが、昔よりもいろんな面で進歩が見られます。とくに食事は、以前はとにかく美味しくなかったという記憶したなかったものです。今も決してものすごく美味しいとは思いませんが、そこそこ食べられるレベルになりました。

部屋が広いのがこのホテルの特徴ですが、かつてはバスタブ付きの部屋が少なかったのです。今はほとんどの部屋にバスタブが付いています。ベッドもよくなりました。

近年、日本の関係オフィスがジャカルタの中心部よりも南へ移ってきたせいか、日本からの出張者の滞在ホテルも南へ移ってきている様子があります。

今回のこのホテル、見た目だけでも、日本人客の比率が高いです。昔のプレジデント・ホテルほどではありませんが。

そして、そのせいか、知人に必ずと言っていいほど出くわします。昨晩のチェックイン時、今朝、朝食をとるためにエレベーターを降りた時、外での仕事を終えてホテルに戻ったロビーで、別々の知人に複数会いました。

今までの経験からしても、相当な確率です。というか、いつもはアジトに宿泊なので、日本人に会わないジャカルタライフが普通だったので、ビックリしているだけなのですが。

今日の夕食で食べた、ランデブーのゴーヒョン(肉詰め巻き揚げ)は相変わらずのおいしさでした。このたびスラバヤに着任されたT氏とこの店でご一緒したことを思い出しつつ。

日本橋ふくしま館MIDETTEでビックリな出会い

先日、福島県三春町のFUKUSHIMARTで知り合ったSさんから、「今、東京です」という電話をもらいました。

Sさんは、福島市でゴボウやモロヘイヤなどを練りこんだうどんを製造している方なのですが、東京の日本橋ふくしま館MIDETTEで、その自慢のうどんを出しているので、食べに来てほしい、ということでした。

正午に用事があったので、午後1時過ぎに行くと返事をしたら、「大丈夫ですよー」という答え。あんまり人が入っていないのかなあ、と思いながら、行ってみました。

日本橋ふくしま館MIDETTEというのは、神田と日本橋のちょうど中間あたりにある、福島県のアンテナショップです。

MIDETTEというのは、外国語ではなく、実は福島弁で、「見ていって(ね)」という意味です。

さっそく、Sさんご自慢のゴボウうどんセットをいただきます。

ゴボウうどんの真ん中に、何か、ワカメのようなものが載っています。よく見えないので、ご飯の上に載せたら、分かりました。

レーザーで切断したのだそうです。そりゃあ、ずいぶんコストがかかったね、と言うと、「そうなんですよー。でもうどんの値段には転嫁できないです」と嬉しそうに答えてくれました。
うどんにゴボウが練りこまれていて、それにさらにゴボウが載り、ゴボウの和え物とゴボウのかりんとうが付く、というまさにゴボウづくし、でした。ゴボウの香りを感じながら、うどんを美味しくいただきました。
Sさんは、むろうどん製麺所を経営していますが、福島市の公設地方卸売市場の敷地内で、「お福さんのひっぱりうどん」というお店も出しています。ただし、昼過ぎには営業終了となるので、早めのお昼を食べに行くことになります。
さあ、うどんを食べ終えたので、店を出ようとしたら、どこかで見かけたものが売られていました。
郡山市の西北にある石筵地区の蜂蜜でした。数年前、私は友人たちと一緒に、石筵地区を訪れたことがあります。石筵地区は、コミュニティによる共有林管理をずっと続けてきた集落で、そのときは、水田に水を入れる前に水路の清掃を集落成員総出で行う「堰上げ」の様子を見に行ったのでした。つい最近、NHKの番組でも全国放送されたので、ご覧になった方もいると思います。
今回は、そのときにお世話になったGさんの奥様がMIDETTEに来られていて、蜂蜜を売っていました。その時の話をしばらくして、Gさんがお元気でいらっしゃる様子をお聞きした後、あの時にお土産でいただいたのと同じ大きさの蜂蜜を1瓶購入しました。
とてもおいしい高品質の蜂蜜なのですが、残念ながら、福島市の街中ではお目にかかったことがありません。郡山市では売っているのでしょうか。福島の地元で買えないのがちょっと残念です。いしむしろ養蜂園のリンクはこちらです(https://www.fukulabo.net/shop/shop.shtml?s=6334)。
さらには、高校時代の親友で今は福島県庁の高官として地域復興の先頭に立っている友人Nさんにも、店内で偶然に会い、お互いにビックリでした。
ただ単にSさんのうどんを食べに行っただけだったのに、こんなビックリな出会いがあるとは、思いませんでした。うーん、やっぱり、動くと出会いますねえ。
おいしい福島に出会いに、皆さんも是非、MIDETTEにいらしてみてください。楽しい気分になること、間違いなしです。福島県は、知られざる美味しいモノの宝庫なのです。
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