「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

スラバヤで1泊、蟹カレーを食べる

5月15日、バトゥでの用務を終えて、スラバヤに1泊しています。16日の朝、ジャカルタへ向けてスラバヤを発ちます。

この間、スラバヤでは、複数の家族による自爆テロ事件が5月13・14日の2日間に相次ぎました。家族全員で自爆テロを行うという、これまでにない新しい形のテロが起きてしまいました。

この種のテロは、どこで起こるか分からないという恐怖があります。道行く人が突然何かするのではないか。目の前の人が爆弾を抱えているのではないか。そんな不安はなかなか払拭できるものではありません。

また、顔を隠し、眼だけ出して長いイスラムの服装をしている女性が不審者としてみられ、いくつかの場所で入場を断られたりする話も聞こえてきます。

いつ何時、誰がテロを引き起こすか分からない・・・。街中の見知らぬ人々を信用できなくなっている。実際の自爆テロで数十人の方々が犠牲になったのに加えて、今、スラバヤの街中では、そうした不信感が大きくなっている印象を受けました。

暴動のように、物理的に目に見える形で騒ぎが大きくなっている場合には、できるだけそのような場所を回避することが望ましいことは言うまでもありません。

しかし、テロ事件のように、いつどこで誰が起こすのか分からない、運命によっては防ぎようのない状況に陥るものは、予防措置として、周辺の不審者に注意を払うような行動を採らざるを得なくなり、精神的に落ち着かない状況が続いていきます。

たとえ、周辺の様子を絶えず不審なものはないかと注意を払い続けたとしても、それを察知して確実に防げるとは思えないからです。

そんなことを色々考えながら、スラバヤに1泊することにしました。周辺状況を自分なりによく観察し、大丈夫だと判断して、夕食を食べに出かけました。

行く先は、久々に食べたかった、Hai Nanの蟹カレー。

店は営業していましたが、中は閑散としていて、普通なら午後8時には満席となるのに、ガラガラのままでした。それでも、お客さんが来てくれたのは嬉しいらしく、フロアマネージャーは笑顔で対応してくれました。もちろん、蟹カレーは、いつも通りの美味しさで、大満足でした。

見えない恐怖を感じながらも、普段通りの生活を続け、スラバヤは決してテロに屈しないことを静かに示し続けること。今のスラバヤの人々にできることは、やはりそういうことなのだと思います。

スラバヤでこんな事件が起こってしまった、と市民に率直に謝り、先頭に立って現場を歩き、被害者を慰問するスラバヤ市のリスマ市長の姿から、人々は前を向く勇気をもらっているように見えます。街中には「テロに屈しない」「スラバヤのために祈る」といった手書きの横断幕が掲げられていました。

今回の自爆テロ犯は、必ずしも貧しい家族ではなかったと見られています。貧しさだけがテロへ走らせるのではなく、心が満たされない、社会から疎外された、そんな精神的な部分にカルトのささやきが忍び込んでくるのでしょうか。

SDGsが目指す誰も見捨てない社会は、所得向上だけを目的とするのではなく、こうした精神的な面をどのように内包していくかも問われています。それは、やはり、人が人を信用できる、知らない人でも信頼できるような、いわゆる信頼社会をどう作っていくか、ということと関わってくるものと考えます。

自分たちの身の回りから始められることは何か。きっと、一人ずつ、自分の信頼できる他人を増やしていく。そのためには、自分も他人から信頼される人間になっていく。もう一度、一つずつ、社会を作り直していく必要を認識させられているのかもしれません。

スラバヤの3教会自爆テロに思うこと

滞在先の東ジャワ州バトゥ市で5月13日朝、同州の州都スラバヤ市の3つの教会で自爆テロがあったとの報道を知りました。その後も、用務の合間、報道を追いかけていました。

5月13日は日曜日で、日曜の朝のキリスト教の教会と言えば、もちろん日曜礼拝があります。たくさんの信者が集まる日曜礼拝の時間を狙った事件でした。

警察発表によると、3つの自爆テロは、ISに合流してシリアから戻った一家族による犯行だったとのことです(注:後に、警察は、「シリアへは行っていなかった」と訂正しました)。父親、母親と二人の幼児、息子2人が別々の教会を襲い、多数の人々を巻き添えにして、自爆しました。

この事件で注目される点が3点あります。

第1に、複数箇所への同時多発自爆テロだったということです。同時多発テロを行うには、複数のテロリストが連絡を取り合いながら犯行するものですが、どこかでその兆候を治安当局に見つけられると、中止となるか単発で終わります。同時多発テロは、それが起こればテロへの恐怖は一気に増します。治安当局は、テロリスト間の情報の傍受でそれを未然に防いできたものと思われます。

でも、今回は、同時多発テロが起こりました。それは、第2に、犯行が一家族によって行われたためです。

一つの思想に染まった家族が、実行してしまった今回のケースは、幼児や10代の子どもを引き連れて実行された点で、世界に大きな衝撃を与えています。なぜ、この家族はこのような犯行を行うに至ってしまったのか、そこへ至るまでに何かできなかったのか。社会からの疎外感が彼らを過激思想・カルトへ走らせたとしたら、それはなぜなのか。

過激行為を未然に防ぐためにも、社会が考えなければならない課題のようにも思えます。

そして第3に、場所がスラバヤだったということ。スラバヤの治安の良さは、警察の能力の高さと評価されてきました。ジャカルタで何か事態が起こると、スラバヤから警察が応援に派遣されることが常でした。スラバヤの治安状況がインドネシアのそれのバロメーターともみられてきました。

そのスラバヤで今回の事件が起こったということは、治安面を見ていくうえで大きな意味を持ちます。すなわち、スラバヤがバロメーターであるという前提が正しければ、この種の事件はインドネシアのどこでも起こり得ることになるからです。その意味で、スラバヤの警察のプライドを大きく傷つける事件でもありました。

筆者が危惧するのは、こうした流れを利用しようとする政治勢力が現れてくることです。とりわけ、現段階で再選が有望と見られる現大統領を追い落とすためには、どんな手段でも活用したい勢力が、このような事件を利用して世間に恐怖心を煽って自分たちへの支持を半ば強制するのではないか、という危惧です。

もっとも、現時点では、活動禁止処分を受けたHTIも含め、自爆テロを厳しく批判する声明が次々に出されています。他方、SNS上でテロを支持・擁護するような発言を見かけたら警察へ告発する、というような動きが早くも始まっています。

こうした自由で公正な発言や議論を妨げるような動きは、政治的に対立するどちらからも現れてくるものと見られます。

スラバヤの悲劇に対して、インドネシア各地で連帯の表明が相次いでいます。それは、亡くなった方への追悼、負傷者への献血に駆けつける市民、宗教の違いを超えた集会の実施など、またたく間に広がっていきました。

今日、一連の動きを追いかけながら、時々泣きそうになる自分が居ました。そして、3年間住んだスラバヤのことが、自分にとっても大切な場所になっていたことに改めて気づきました。

友人や知人の安否を確認し、無事の知らせにホッとしている自分。そして、友人から送られてきた、まったく客のいないギャラクシーモールの写真に、今回の事件の市民へ与えた心理的影響の大きさを感じずにはいられませんでした。

筆者はスラバヤを信じています。スラバヤが今回の事件で揺らぐことはない。スラバヤはスラバヤであり続ける、と。今後も、スラバヤの友人や知人を信じ続け、彼らと会うためにスラバヤに行き続けること、を誓います。

食品加工業振興に関するスラバヤ出張

11月26~30日、スラバヤへ出張してきました。今回は、JICAによる「東ジャワ州の中小食品加工業振興に向けた食品加工技術普及・実証事業」の一環で、日本の中小企業による食品加工技術普及・実証のお手伝いでした。

東ジャワ州は、インドネシアのなかでも、中小企業レベルでの食品加工業の一大中心地であり、州政府の開発目標においても、農林水産品加工による産業発展を重視しています。この普及・実証では、とくに油を使用しない食品加工機械の技術普及に焦点が当てられています。

ご承知の通り、インドネシアでは、食品製造における油の使用量が多く、とくに、スナック菓子などではほぼすべてに使われていると言っていい状態です。しかも、その油のほとんどはパーム油であり、しかも同じ油を何度も使うことが一般的です。このため、油の摂取量が必然的に多くなり、健康的な食品がなかなか出回らない状態にあります。

そこで、日本で食品加工機械を製造している中小企業が、自身の持つノンオイルでの菓子製造技術をインドネシアで普及・実証したいという熱意を持ち、1年間、本案件で機械と技術の紹介・普及活動を行ってきました。

機械が設置された東ジャワ州食品・飲料・包装工業支援所では、ワークショップもたびたび開かれ、たくさんの中小企業者が参加し、ノンオイルでの菓子製造の実際を体験することができました。なかには、トウモロコシや米などの材料を持参し、試作した参加者もいました。また、東ジャワ州内だけでなく、他州からも視察者が相次ぎました(今回の滞在中に、南カリマンタン州商工局から視察団が来ていました)。

こうしたなかでの、私の役目は、東ジャワ州商工局職員に対して、11月29日の午前中、食品加工業との関連で日本の地域産業振興の事例を紹介する、インドネシア語での講義を行うことでした。

食品加工業の振興に当たっては、原材料を供給する農林水産業や、製品を販売する商業・マーケティングとの関係を常に意識することが重要であるというメッセージを伝えるために、日本の地域振興の歴史、地域おこしの事例、農商工連携の事例、6次産業化の事例などを紹介しました。

食品加工機械の導入や施設の整備に関して、日本では様々な政府からの補助金や助成制度があることを紹介したうえで、参加者には、インドネシアでの現状についても議論してもらいました。

制度上は、一定の審査を経たうえで、中小企業が購入した機械・機器に関して、国内産機械価格の30%、輸入機械価格の25%を補填するという制度が工業省にあるのですが、その予算総額が2017年度はわずか110億ルピア(約1億円)程度しかないということで、活用するのがなかなか難しい現状があります。

この手の案件で日本の技術や機械を紹介しても、結局、コストがかかるという理由で、案件終了後、次の展開へ向かわずに技術や機械が放置される、という話をよく聞くので、そのような話をあえてしたのです。

東ジャワ州商工局は、幸いにも、今回の技術や機械を何とかして活用したいという意欲を強く持ち、モチベーションも高い様子でした。日本側も、引き続き、価格低下への努力を続けると言明し、インドネシア側も、機械・機器の購入を促す政策的措置を検討していくことを相互に確認できました。

今回は珍しく、滞在中に体調を悪くしてしまい、万全の状態での講演とならなかったのですが、他のチームメンバーの皆様の助けを受けて、何とか用務を果たすことができました。

それにしても、食品加工業振興の議論をしながら、「インドネシアでは、まだ機械をどう使うかのレベルにとどまっている」ことを痛感しました。本当に食品加工業を振興させたいのなら、食品加工機械を製造する工業をどう作っていくかを考える必要があるからです。

日本の食品加工機械メーカーは、大企業だけでなく、中小企業が有力な担い手となってきました。今のインドネシアは日本の1970年代に似ていると思われますが、その頃の日本には、数多くの中小食品加工メーカーが存在し、日本の食品加工業を支えていました。

今のインドネシアにも、食品加工機械メーカーは存在しているといいますが、機械ユーザーのニーズに合わせて、オーダーメイドで機械を造れるメーカーはほとんどありません。そんな企業が増えていったら、インドネシアの食品加工業は自ずと発展していけるようになるのではないか。もしかしたら、たとえば、同じ東南アジアのタイは、もうそのレベルに来ているのかもしれません。

2017年のインドネシア出張は今回で最後になると思います。次回のインドネシア出張は、2018年1月末に、別の案件でジャカルタ1週間の予定です。

グンポルの労働者送り出し機関を訪問

今日(9/25)は、グンポルにある海外への労働者送り出し機関であるLPK Prima Duta Sejati (PDS) を訪問しました。

PDSは1999年に設立され、インドネシア労働力省から認定された送り出し機関として、これまで香港、台湾、シンガポールへ、様々な職種のインドネシア人労働者を送り出してきました。単に送り出すだけでなく、送り出しの前に、送り出し先の言語習得と、職種に応じた職業訓練を施しています。

実際、メイド向けには掃除機の扱い方、洗濯機の扱い方、送り出し先に合わせた調理方法、乳幼児への対処法などの訓練が行われます。介護士向けには、ベッドに寝たきりの方に対する介護手法や、歩行器を使った歩行訓練への補助方法、トイレでの介助法などが訓練されます。

訓練機関は約6ヶ月間で、香港、台湾、シンガポールに受け入れ関係機関も設置し、20年かけて培ってきたノウハウを存分に活用しているということでした。

新たに、PDSは日本の技能実習研修生向けの日本語研修と技能研修を始めました。今後、日本からの様々な職種の技能実習生の受け入れ要請に応える送り出しを行っていくとのことです。

技能実習生の受け入れに興味のある日本企業があれば、是非教えて欲しいということでしたので、ご興味のある方や情報のある方は、個別メールにて matsui@matsui-glocal.com までご連絡ください。

私自身も、インドネシアと日本とを繋ぐ一環として、インドネシア人技能実習生制度が本当の意味での人材育成に資するような形で運営されていくように、微力ながら関わっていきたいと思うようになりました。

そして、何らかの研修終了証明書が発出され、それがインドネシア側で認知され、研修生の帰国後の再就職に役立てられるような仕組みを、様々な方々と一緒に作っていきたいと思い始めました。

さしあたり、日本にいるインドネシア人技能実習生が、インドネシア語でいつでも相談できるホットラインを作りたいと考えています。ご賛同・ご協力いただける方は、個別メールにてご連絡ください。

来週はインドネシア・東ジャワ州へ

今晩(9/23)の便で東京を発ち、9/30までインドネシア・東ジャワ州へ行きます。24日夜と29日夜はスラバヤ泊、25〜28日はマラン泊です。

今回の用務は、今までとはちょっと異なり、民間ベースの用務で、今後の展開を考えると、なかなかチャレンジングなものです。

インドネシアの地方と日本の地方とをつなぐという意味でも意義があり、私にとっても、新たな分野への挑戦になりそうな予感がします。また、これから私たちが、どのような社会を作っていくのか、ということにも大きく関わってくるような気がします。

ちょっと思わせぶりな書き方になりましたが、調査研究ではなく、かといってがっちり儲けるビジネスでもなく、社会起業家というほどかっこよくもない感じです。泥臭くて、収益がそんなに上がらない、でも大きな意味があるもの、と捉えています。

ともかく、久々のスラバヤ、マランを味わってきます。

スラバヤの食は劣化しているのか

3月26日〜4月5日は、借りていたアパートの部屋の片付けなどでインドネシア・スラバヤとマランへ行っていましたが、食べ歩きも、もちろん忘れませんでした。

スラバヤへ行ったら食べたくなる食べ物も味わいましたが、その中には、明らかに味が落ちたものがいくつかありました。どうして、こんなに味が落ちてしまったのか、ちょっと残念でした。

これまでの経験から独断と偏見でいうと、インドネシアで食べ物の美味しい街といえば、ジャワ島ではスラバヤ、スマラン、マラン、バンドンあたりでしょうか。もちろん、ジャワ島の農村部で食べる何の変哲もない食事でとても美味しいものに出会うこともよくあります。

たとえば、スラバヤの5つ星ホテルの一つ、マジャパヒトホテルのコーヒーショップで出されるアップル・ストゥルーデル。

マジャパヒトホテルは、オランダ植民地時代にはオレンジホテル、日本占領期にはヤマトホテルと呼ばれた、コロニアル風建築のホテルで、一泊の価値があると思います。

オランダ植民地時代からの独自レシピで、このホテルの前身のホテル以来、出してきた名物スウィートです。これが食べられるのは、インドネシアではここだけです。

上が今回2017年4月2日に食べたもの、下は2016年12月8日に食べたもの、です。二つの写真を比べれば、その違いがよく分かります。

アップル・ストゥルーデルは、りんご餡と生地を交互に重ねたケーキ菓子で、その美味しさに重要な役割を果たすのが、甘すぎないりんご餡とサクサクの生地です。

以前の下のものは、生地がサクサクで、上部に冷たいクリームがしっかり入っていて、甘さだけでなく、冷たさも味わえ、ナイフでサクッと切るのが難しいほど、生地がしっかりしていました。

今回のものは、生地のサクサク感がなく、真ん中に入る生地がしっかりしておらず、また、クリームの質も以前より落ちていました。

生地のサクサク感がないのは、冷凍保存していたものを解凍して出してきているのも理由の一つでしょう。冷凍ものを出すようになって、明らかに生地のサクサク感がなくなり、味が落ちました。もちろん、昔のアップル・ストゥルーデルはもう戻ってこないかもしれません。

他にも、中華系の麺店エンペラー・ラーメンの辛味肉味噌そばも、残念な味になっていました。

常連だったチプトラ・ワールド店は閉店してしまったので、今回は、トゥンジュンガン・プラザ店で食べてみました。

味噌がドバッと載っていて、何よりも、味噌の下の麺がほぐされてなく、くっついたままの状態でした。味噌と絡める前に、麺をほぐさなければなりません。麺の茹で具合はやわからすぎ。肉味噌の味も辛さやパンチが効いていません。

ちなみに、以前、よく食べていた辛味肉味噌そばは、下の写真です。

肉味噌と細切りジャガイモが絶妙に絡み、汁なし麺のなかでも最も好きだった麺の一つでした。写真を見比べると、違うメニューのようにも見えますが、同じメニューなのです。

これら二つのほかにも、いくつか残念な食がありました。食材コストや労働コストの上昇が料理の質の劣化を招いている可能性があります。

でも、人気店にはますます客が集中していて、長蛇の列になっています。一方、いったん質が落ちると支店の数が減ってどんどん劣化します。スラバヤでも、こうした二極分化が進んでいて、前者の数が増えていないのかもしれません。

ソトアヤム・チャ・ハールのように、屋台同然だった店が評判になり、メニューはソトアヤム(鶏肉の実だくさんスープ)だけなのに、広い敷地で営業するようになるケースもあります。

スラバヤ全体として食の劣化傾向が起こっている、とまでは断定できないかもしれません。しかし、飲食業界での競争はますます激しくなり、かつての有名店でも、名物料理を持っていても、うかうかしていられない、という状況であることは確かなようです。

友人とスラバヤ街歩き(2)

プネレ墓地周辺を歩いた後、スラバヤ街歩きの友人I氏のバイクにまたがって、スナン・アンペルへ行きました。ここは、アラブ人街として知られているところで、観光地としても人気があります。

まず、スナン・アンペル地区の地区長をすでに30年以上も務めている、町の顔とでもいうべきC氏にご挨拶。普通ならば地区長に型どおりの挨拶をして、すぐに歩き始めるのですが、C氏はとても話好きで、スナン・アンペルに関する話が止まりません。友人I氏ともとても親しい様子です。

しばらく歓談して、友人I氏と歩くのかと思ったら、C氏も一緒について来てくれることになりました。私はスナン・アンペルは2回目の訪問だったのですが、実際、スナン・アンペル地区の主ともいうべきC氏と一緒に歩くと、また違ったものが色々見えてとても面白かったです。

C氏の家がある通りは下の写真のようなのですが。

一つ向こう側の通りに入ると、店が並んで人通りが多くなります。

スナン・アンペル大モスクの裏にも行ってみました。前回は行かなかったところです。人で溢れています。参拝者は24時間訪れ、とくに休息日の金曜の夜はたくさんの参拝者で大にぎわいとなるようです。

モスクの敷地内にあった古い墓は、墓標のみを残して、柵の向こうに新たに移されました。

人々が「聖水」の入った壺に群がっています。でもC氏によると、その聖水たる所以は明らかではなく、飲用に適するのかどうかを計ったこともないので、その辺のただの水ではないか、それを有難がって飲んでいるのはよくわからん、と言っていました。

敷地の隅にチャオ氏の奥さんの家族の墓があります。チャオ氏は華人系でアンペル地区の地主の一人です。

アンペル地区の最大の地主だったのは、アラブ系のバスウェダン一族で、現在、ジャカルタ州知事選挙に出ているアニス氏はその子孫にあたります。

スナン・アンペル大モスクにつながる商店街とその入り口。

この入り口の門の欄干、AMPEL SUCIと書かれた両側を磨いたところ、ジャワ文字が彫られているのが最近発見されたそうです。でも、古代ジャワ文字なので、まだ解読されていないのだとか。

商店街の中にある小さな礼拝所。電光掲示板の数字もアラビア語表記です。ふと見ると、右側にあの人の来訪を告げるビラが貼ってありました。

スナン・アンペル地区も、古い建物が壊され、新しい建物に建て替えられていますが、古い建物もまだ残っています。その一つは、香辛料の販売と調合を行う店でした。香辛料を調合したマサラコーヒー(Kopi Rumpah)も売っています。

実は、私もよく行った、ジャカルタの某有名インド料理店で使うスパイスは、この店から供給されているのだそうです。先代がインド人からスパイスの調合の仕方をじかに習って習得したとのこと。

スナン・アンペル地区を歩いて、最後は、50年以上前からあるという、サルカムという小食堂で緑豆カレー(Gulai Kacang Hijau)。でも豆だけでなく、肉(おそらくマトン)も一緒に入っており、マリヤム・パンと一緒に食べました。C氏は、パンをちぎってカレーの中に入れてから食べよというので、そうしてみました。うーん、美味しい。

C氏にお礼を言い、I氏のバイクにまたがってホテルまで送ってもらい、今回の街歩きは終了しました。スラバヤには、まだまだ自分の知らない面白い場所がありそうで、今後も機会があれば、街歩きを続けたいと思います。

そして本日(4/2)夜、スラバヤまで迎えに来てくれた別の友人の車に乗せてもらって、マランへ到着しました。

友人とスラバヤ街歩き(1)

アパートの部屋の契約が終了し、マランへ行くまでスラバヤで過ごすのは今日土曜日と明日日曜の半日。そこで今日は、スラバヤ街歩きの友人I氏と一緒に、プネレ墓地周辺とスナン・アンペルの二箇所を歩きました。

ホテルに迎えに来てくれたI氏のバイクの後ろに乗って出発。最初に訪れたのは、プネレ墓地です。

この墓地は、オランダ植民地時代の墓地で、埋葬されているのはオランダ人が多いのですが、他にもドイツ人などの西欧人、アルメニア人なども埋葬されています。

すでに1920年代に埋葬は停止され、現在までに、亡骸のほとんどは別の場所へ移動されているとのことです。所有者が全て判明した後は、公園にする計画があるようです。広さ15ヘクタールもあります。

下の写真は、火葬場の跡。

1841〜1844年に蘭領東インド総督を務めたPieter Merkusの墓もありました。
そのすぐ近くに、墓標の朽ちた小さな墓があります。この墓は、蘭領東インド専属写真家のOhannes Kurkdjianというアルメニア人の墓で、蘭領東インドの今の残る写真のほとんどは彼の手によるものだそうです。
このプネレ墓地周辺には昔からバリ人が多く住んでいます。実は、初代大統領のスカルノもこの近くに住んでいました(厳密にはプネレ地区ではないようです)。スカルノはスラバヤのこの辺りで生まれ、母親はバリ人ですので、バリ人コミュニティの存在が安心感を与えたのかもしれません。
たしかに、ここからバリ島のシンガラジャやデンパサールへの直行バスが出ていますし、スラバヤで最も有名なバリ風のナシ・チャンプルの店もこのプネレ墓地のすぐそばにあります。
このプネレ地区は、墓地があるためか、以前から葬儀関係の仕事を行う人々が多い場所のようです。しかし、近年、プネレ地区から他所へ移っていく人が増え、バリ人集落としての一体感がなくなってきている様子です。
このプネレ地区で、I氏の友人のK氏がコーヒーとジャムゥ(ジャワの伝統薬用飲料)を出すカフェを1年ほど前から開設し、ちょっとしたコミュニティスペースになっていました。今回も、ちょうど、女性を対象にしたSNSに関する研修会が行われていました。
このカフェの建物は、植民地時代は植民地官吏の家だったそうです。
K氏はもともと地元紙の新聞記者だったのですが、スラバヤの伝統や歴史に造詣が深く、新聞記者を辞めて、カフェを運営するとともに、伝統や歴史を生かしたTシャツや雑貨を製造販売しています。カフェの裏に作業場があり、今はちょうど、政治団体向けのTシャツを作っているところでした。
ふと見ると、日本語で書かれたこんなものも。
I氏やK氏とスラバヤの都市としての発展の歴史や今後の課題などについて、いろいろと意見交換をしているうちに、気がつくと2時間近くもダベっていたことに気づきました。
一息ついたところで、再びI氏のバイクの後ろにまたがり、スナン・アンペルへ向かいました。この続きはまた次回。

スラバヤの郵便局から船便

昨日で部屋の片付けが終わってホッとしていましたが、部屋を引き払う前にやらなければならないことが残っていました。スラバヤから日本へダンボール箱5個、ジャカルタへダンボール箱1個を送る作業です。

日本へ送るダンボール箱は、元をたどれば日本から送ってきていたものも含まれるのですが、地域振興、地域づくり、スラウェシ地域開発などの資料や本で、それに文房具などが追加されたものです。

ジャカルタへ送るのは、過去に記念品やお土産などでいただいたバティックなどの布地やシャツなどが主で、ジャカルタの「アジト」(昨年25年ぶりに舞い戻ったインドネシア大学大学院留学時代の下宿)へ送ります。

緊急に必要なものはないので、スラバヤの郵便局から日本宛のは船便で送ることにしました。ジャカルタ宛は、通常のトラック便です。

昨日、お世話になった友人から運転手と車を使わせていただき、郵便局へダンボール箱6個を運びました。スラバヤから海外へ送る場合には、近所の小さな郵便局ではなく、中央郵便局まで出向いて処理した方が良いようです。専用の窓口があります。営業時間は朝7時から夜10時まで、土日祝は休みです。

スラバヤ中央郵便局

まずは、ジャカルタへ送る分。これはすぐに窓口で手続きが終わり、重さも10キロ程度だったので、普通便で約1週間、料金は62,500ルピアで済みました。

さて、日本向けのダンボール箱です。

船便はPaket Pos Biasa Luar Negeri(外国向け普通小包)、航空便はPaket Pos Cepat Luar Negeri(外国向け速達小包)と呼ばれ、さらにEMSがあります。

ダンボール箱を持ち込むと、「中身は何か」と聞かれました。本、資料、文房具など個人用のもので商業用ではないというと、「本ということにしろ。それ以外の余計なことは書くな」と言われ、結局、すべて「本」ということになりました。何度も聞かれたのは、「バッテリーは入っていないだろうな」ということでした。

そして、中身を開けることを覚悟していたのですが、幸いなことに、それはなしですみました。

郵便局の職員から「会社名などが外に見えると商業用とみなされるので、その部分を全部テープで隠すように」と言われました。さらには、すべて茶色のテープで覆い隠し、下地の文字が見えないようにすべし、とも言われました。

今回のダンボール箱は前回使った引越会社のものを流用したので、結局、すべてを茶色のテープで覆い尽くすことになりました。でも、郵便局の職員が手際よくテープで隠していくのを見ていて、さすが慣れているな、と思いました。最後に、SEGEL(封印)と書かれたテープをぐるっと貼ります。

テープで覆い尽くされて梱包されたダンボール箱に差出人名・住所と受取人名・住所を油性マジックで書き、箱の重さを計ります。5箱のうち1箱が31キロありました。1箱の重さを30キロ以下にしなければならないとのことで、せっかく綺麗に「封印」した箱をもう一度開封し、中身の一部を別の軽そうな「封印」を解いたもう一つの箱へ入れ替え、何とか5箱とも30キロ以下に収めました。もちろん、もう一度「封印」テープを貼りました。

なお、1箱当たりの相当金額を書類に書かなければならないのですが、「個人用なのでできるだけ低く抑えたい」と言うと、郵便局職員は「最低は1箱50万ルピアだから、それでいこう」とアドバイスしてくれました。1箱4200円ぐらいの計算になります。

もうすでに金曜礼拝の時間が迫っていましたが、郵便局職員の配慮で、料金の支払いも済ませることができました。今回の料金の目安は、30キロで127万8000ルピア(約1万1000円程度)で、速達小包だとこの約3倍、EMSだと約5倍ぐらいの金額になるようです。

船便なので、日本の宛先に着くまでには約1〜2カ月程度かかるそうです。日本の税関がどれぐらいの関税をかけるかは分かりませんが、これでインドネシアで支払う分は終了です。

金曜礼拝の時間になり、友人の車の運転手も礼拝へ行ってしまったので、郵便局でぼーっと運転手が戻ってくるのを待っていました。この中央郵便局は、いつ来ても、本当に風情があって、ただいるだけでも気持ちがいいのです。

高い天井が居心地のいい空間を作っています

オランダ時代のものと思しき郵便ポスト像

この場所には初代スカルノ大統領が子供のころ通った学校がありました

郵便局から船便を出し終えて、昼食の後、アパートに戻ると、本当に部屋の中に何も物がなくなり、2年前、この部屋を始めてみた時と同じ状態に戻りました。アパートの事務所へ鍵を返して、この部屋とお別れとなりました。

部屋の片付けが済んでしまった

今日、アパートの部屋の片付けが概ね済んでしまいました。もう少し時間がかかるかと思っていたのですが。

荷造り作業中の地元NGOメンバーの一人

3月28日に友人が、29日に地元NGOが、それぞれアパートの部屋を見に来て、譲って欲しいものを物色していきました。荷物を運ぶトラックの用意などもあるだろうし、彼らが来るのは31日、アパート契約の最終日かな、と思っていました。

ところが昨日の夕方、両者から「明朝9時にうかがう」と連絡が来ました。こちらは31日だと思っていたので、ちょっとびっくりし、彼らが来る前に、昨晩、自分の必要なものを選り分ける作業を急遽しなければならなくなりました。

今朝、アパートの管理事務所に物品搬出願いを出し、台車を借りて、彼らが来るのを待ちました。ところが、今朝になって急に、業務用エレベーターが故障。一般用エレベーター2基のうち1基が故障中なので、3基あるエレベーターのうち1基しか動いていない状況となりました。

私の部屋は21階にあり、エレベーターなしには荷物を運び出せません。しかし、3基中1基しか動いていないため、エレベーターは超満員状態が続いていました。こんな状況で、荷物を搬出できるのか、焦りました。

最初に来たのは、28日に会った友人の運転手とその兄貴の2人。彼らは、本棚、机、椅子、プリンター、本、その他もろもろのものを持って行ってくれました。

彼らがまだ作業している間に、NGOメンバー3人もやってきました。私のインドネシア語の本を彼らの運営する図書館へ寄付する約束をしていたのです。彼らにも本棚、本、その他を譲りしました。

幸い、故障していたエレベーター1基が動き始めたため、荷物の搬出でものすごく困る事態にはならずに済みました。11時半前、両者とも荷物を積み終え、アパートを出て行きました。

引っ越しと同じかそれ以上の荷物を積んだかもしれません

荷物がほとんどなくなって、がらーんとした部屋に一人で佇んでいると、いかに自分の荷物が多かったかをしみじみと感じるのでした。

明日で、この部屋ともお別れ・・・。

iPhoneがとうとう死んだ、と思った

私のインドネシアなど海外で主に使う携帯電話は、iPhone 5s。アップルストアでSIMフリー64GBを買って以来、もう3年以上使っています。

2年ぐらい前から電池の持ちが悪くなったと感じていて、ようやくつい最近、電池交換を初めてしましたが、それ以後は、また昔のように快適に動いてくれています。

このiPhone 5sにインドネシアのキャリアのSIMを入れて、日本でも使っているのですが、海外ローミングはオフにしているので、日本ではWifiのあるところでのみSNSを使い、ないところでは、Wimaxの一番安いのを使ってつなげています。

この愛機ともいうべきiPhone 5sが今朝、突然動かなくなりました。なぜかマカッサルの帆船の写真が画面に写っていて、指でスライドしても、スリープ/スリープ解除ボタンを押し続けても、一向に画面は帆船のままで反応しません。

アパートの借りている部屋の片付けは佳境に入っており、明後日までに引き払わなければならないのに、よりによってこんな時に愛機が動かなくなるなんて・・・。iPhone 5sはとうとう死んでしまった、と思いました。

片付けをする気になれず、スラバヤのアップルストアがどこにあるのかも分からないので、とりあえず、携帯電話屋が集まっているWTCへ向かいました。

ウェブで見ても、アップル製品を売っている店はすぐ出てくるのですが、修理できる店は見当たらないのです。アップルストアという名の洋品店さえありました。

WTCに着いて、アップル製品を売っている店に行くと、店員は「うちは売っているだけだから」とつれない返事。まあ、修理はできないだろうと思っていたので、仕方ないなあと思い、アップル製品の修理ができるところはどこか尋ねると、スラバヤには2箇所あるとのことでした(マリナ・モールの3階とあともう一つは忘れました)。

でもその店員は優れていました。「リスタートすればいいんだよ。スリープ/スリープ解除ボタンとホームボタンを同時に押してさ。ちょっとやってみるね」と言って試みると、ちゃんと元どおり、動くようになりました。

開いているアプリが多すぎて、使用メモリがいっぱいになっていただけでした。「ちゃんと終わったらアプリをこまめに消してね」と微笑んで、店員は去って行きました。

そういえば、iPhone 5sの再起動って、これまでほとんどしたことがなかったと思いました。遅ればせながら、今日、強制的に再起動させる方法を知りました。

3年目に入った愛機との付き合いも、まだしばらくは続けられそうです。

ソト・アヤム屋のイメージを変える店

今日のインドネシアは、ヒンドゥー教の「正月」ニュピで祝日。友人に誘われて、ランチを一緒にしたのですが、行き先はソト・アヤムの店。

ソト・アヤムは、ちょっと煮込んだスープに鶏肉の入った濃い味のスープのことで、ジャワ島ではどこでも食べられる庶民の味です。私も大好物なのですが、地方地方によって味付けが異なり、それを探訪して味わうのが楽しみの一つです。

中ジャワや東ジャワでは、ソト・アヤムの中にご飯(インドネシア語でナシと言います)を入れて食べるのが一般的で、それはナシ・ソト・アヤムと呼ばれます。不思議なことに、ジャカルタではご飯とソト・アヤムを別々に出すのが一般的です。私は、ナシ・ソト・アヤム派です。

場末のありふれた屋台で食べるのが普通なので、そんな質素な感じのところかと思って行った先は、ソト・アヤム・チャッ・ハール。噂には聞いていましたが、これがとんでもないソト・アヤム屋でした。

ダーッと広い店内。隣のカフェとの境までたくさんの席が用意されています。メニューはなく、ソト・アヤムの一つのみ。ただし、肉はムネ肉かモモ肉か、ご飯はソトに混ぜるか分けるか、が訊かれます。

場末のソト・アヤム屋では、ソト・アヤム以外に、うずら卵や鳥皮、テンペなどが目の前にあって、それを適宜とって食べる仕組みですが、この店のテーブルにそれらはありません。レジの脇に、うずら卵の串刺しと鳥皮の串刺しが1本それぞれ5000ルピアで売られていて、別途買う仕組みになっていました。

さて、評判のソト・アヤムですが・・・

ラモンガン風(ソト屋はラモンガン県出身者が多いことに由来しているらしいです)ということで、例によってお馴染みのクルプッの粉をかけ、レモンを絞り、サンバルとケチャップ・マニスを適宜かけて、いただきます。

私がふつう食べるラモンガン風のソト・アヤムに比べると、ずいぶん濃厚でこってりした感じの味わいでした。屋台のものよりもボリュームもやや多めです。

個人的には、もう少しサラッとしているほうが好みなのですが、まあ、これはこれでいけるかな、と思いました。

この店は、つい数年前までは、今の店の先のビルの前の軒先を借りて、細々とやっていた場末のソト・アヤム屋に過ぎなかったそうですが、車が前によく停まるようになり、評判が評判を呼んで、あっという間に、店が大きく拡張したようです。

このような成功物語は、ちょっと長い時間を同じ町で過ごすと、いろいろあることに気づくように思います。以前は屋台だったのに今では有名レストラン、という事例のスラバヤで最たるものは、ワポ(Wapo: Warung Pojok)というレストランです。名前の通り、端っこの屋台だったのが、今ではショッピングモールに支店を出すほどになりました。値段が安く、ボリュームが他店の倍以上あるのが売りになっています。

インドネシア各地で、こうした小さな無数の成功物語が産まれていることでしょう。そして、その裏には、またたくさんの失敗物語もあるに違いないのです。

マーベルシティ・モールを探検

スラバヤに無事到着しました。早速、準備のためにやるべきことをいくつか行い、夕方に小一時間寝てから、街へ出ました。

今夜の行き先は、マーベルシティ・モール。以前、スラバヤに住んでいたときはまだ建設中だったモールで、つい最近オープンしたと聞いたので、行ってみました。

マーベルシティはモールとアパートが敷地内に隣接し、その間をちょっとした広場のような形で結んでいます。飲食店がたくさん入っているようなので、行ってみたのですが・・・。

まだ半分ぐらいが工事中で、入居店舗も多くなく、閑散としている割には、若者や家族連れがけっこう来ていました。メインは地下にあるロッテマートで、ここで買い物をするために来るような感じでした。

意外にも、ジャカルタなどでおなじみの系列フランチャイズの飲食店は少なく、本格的な食事というよりも、軽く食べる感じの店がほとんどでした。その一つ、369カンティーンへ行ってみました。

この店は、スラバヤに本店がある上海小籠包の店として有名な369(ジャカルタのマンガ・ブサールにある支店は在留邦人によく知られています)の新規店で、ライス&サンドイッチ、という副題が付いています。

ちょっと寄って、軽くライスボウルやサンドイッチを食べる、というスタイルの店で、369のオーナーの息子が店を出したらしいです。

私が頼んだのは、マンチェスター風エビのライスボウル、というもの。ライスボウルは料理によって、バターライスか炒飯か白飯になっており、このマンチェスター風はバターライスでした。

小エビのフライにソースがかけられたものでした。でもどうしてマンチェスターでエビなの?と店員に聞いたら、「ソースがイギリス・ソースなので」という答えが返ってきました。

インドネシアでイギリス・ソースというのは、日本でいうとウスターソースに当たります(でも、ちょっと味が違うような気もしますが)。369らしいと思ったのは、それでもちょっと中華っぽく味付けてあり、バターライスもくどくなくて、けっこう美味しくいただきました。

この店では、いくつかの種類の飲み物はお代わり可能で、足りなくなると継ぎ足してくれます。

私の隣の席の子供連れは、2人の小さい子供が雄叫びをあげながら机上で創作活動を激しく行っていて、それが終わると、親が子供を連れて逃げるように店を出て行きました。その残骸を店員が愚痴ひとつ言わずに綺麗に片付けていました。

このほか、ロッテマートのすぐ近くに、友人のやっている「おにぎらず」の店がありましたが、今回は夕食後だったので、次回、また来てみようと思います。

マーベルシティ・モールは、まだまだ未完成のような状況でしたが、他のモールにあるような、タクシー乗り場がないのに困りました。歩道もなく、車で来ることのみを前提にしている作りです。

私はタクシーで来たのですが、マーベルシティ・モールでは帰りのタクシーを捕まえられず、モールを出て、しばらく10分ほど歩いて、ようやく道端で捕まえることができました。

早速、来て早々、スラバヤで大汗をかいてしまいました。

4月5日までスラバヤ、マラン

今夜のエアアジアで再びインドネシアへ向かいます。

ちょうど、海外から日本へ桜を観に来る方が多いせいか、LCCといえども、思ったよりも運賃が高かったのですが、やむをえません。帰国日がなかなか決まらなかったので、帰りも、ジャカルタから片道のLCC(タイガー+スクート)です。

今回は出張ではなく、プライベートです。スラバヤで2年間借りていたアパートの部屋の契約を3月31日で終了するため、部屋に置いたままになっている私物の片付けを行うのが主たる目的です。

スラバヤへ行く頻度が昨年来大きく減ってしまい、部屋を借り続けるのが経済的負担になったというのが理由です。これからの活動の中で、今後、スラバヤをどう活用していくかも考えてきたいと思います。

スラバヤ行きを友人たちに知らせたところ、縁あって、マラン市にあるムハマディヤ大学も訪問することになりました。スラバヤでの片付けが終わった後、マランへ移り、同大学の教員である友人が色々と予定を組んでくれています。

帰国は4月5日午前中です。それでは、行ってきます。

スラバヤ出張を終えて帰国へ

2月26日に始まった今回のスラバヤ出張ですが、あっという間に終わりを迎えました。

日本ではきっとひな祭りの今日、午前中、インドネシア全国食品飲料事業者連合(GAPMI)のアディ・ルクマン議長がワークショップ会場を訪問し、今回使った食品加工機械を見て回りました。

やはり、彼も油を使わないせんべい菓子の製造に興味がある様子で、とても興味深そうに見ていました。

あっという間に終わった感のある今回の出張でしたが、食品加工機械に命をかけている中小企業経営者の生きざまと熱意に改めて心を打たれました。85歳を超える彼が、機械の間を立ち回りながら、スタッフに指示を出し、機械を操作し、説明をする、そのバイタリティーをただただ感嘆しながら眺めていました。

そして、彼が最大限に私にも気を遣ってくださるのでした。本当に、こちらが恥ずかしく思うほど、気を遣ってくださるのです。そして、それに十分に応えられていないのではないかという気がずっとしていました。

この食品加工機械に対する東ジャワ州の関係者の関心は高く、たしかに、日本側とインドネシア側に両者のニーズにマッチした案件なのだと改めておもいました。

これから、スラバヤから飛行機に乗り、ジャカルタで乗り継いで、明日の朝、東京へ戻ります。その後、3月9〜14日にまたインドネシアです。こんどは、マカッサルです。

ワークショップで嬉しかったこと

今回の食品加工機械に関するワークショップ、昨日から2日間、別の参加者によるワークショップが行われました。

ワークショップで取り上げるのは、せんべい焼き機とエクストゥルーダーです。せんべい焼き機は、上板と下板の二つの分厚い鉄板で型を押し、熱を加えてせんべいにする機械です。

一方、エクストゥルーダーは、2本のスクリューを組み合わせながら徐々に外へ物体を押し出す装置で、水と熱の力でフワッとした物体ができ、それを外へ押し出します。押し出された物体を切り、味をつけ、さらに乾燥機で熱風乾燥すると、油を使わずに、揚げせんべいのような、パリッ、サクッとした食感の「せんべい」を作ることができます。

昨日は、主に、せんべい機の使い方を学び、今日はエクストゥルーダーについて学ぶという内容でした。でも今日、開始時間の午前9時に会場へ入ると、参加者が皆、機械の周りに見当たりません。まだ来てないのかな、インドネシアではよくあることだし、と思っていたら、それは間違っていました。彼らはどこにいたのでしょうか。

彼らは全員、準備室に入っていました。

準備室は、実際にワークショップの機械で使う原材料を用意する場所で、昨日は、せんべいの素になるタネのレシピを丁寧に教え、そのタネを使ってせんべい機でせんべいを作ってみたのでした。

でも、彼らは昨日の復習をしていたのではありませんでした。昨日学んだことをもとに、自分たちでレシピを考案していたのでした。チョコレートを使ってみたい、ココナッツミルクを入れたい、レモン汁を加えてみたい、と、自らも菓子を製造販売している彼らは、幾つかの独自のレシピを作り、それをせんべい機で試そうとしていました。

教えられたことはその通りする、しかし自分たちで新しいものを創る能力は乏しい。これは、インドネシア人の特質として、日系企業などでよく言われていることです。しかし、彼らは、どうしても自分たちのレシピを試したいのでした。

我々のチームリーダーは、「こんなに積極的に自分たちで何かやりたいと言ってやってしまうワークショップ参加者は初めてだ」と目を丸くしながら、とても嬉しそうでした。

実際、彼らのレシピで作ったせんべいは、より香ばしく、レモンの微妙な酸っぱさが隠し味になっていて、とても美味しいものでした。自分たちのレシピを試し、我々のチームリーダーからその成果に二重丸をもらった彼らは、本当に嬉しそうでした。

ワークショップが終わって、反省会の中で、参加者のリーダー格の女性が質問しました。せんべい1枚の重量からすると、せんべい機で1日に何キログラムのせんべいを作れるか、エクストゥルーダーを使った場合と彼らの手作業とを比較した際の生産性がどれぐらい異なるか、等など、細かい技術的な質問をいろいろしました。

チームはその一つ一つに丁寧に答えていました。すると、一連の質疑応答の後、質問した参加者が謝り始めました。こんなに細かいことをいろいろ聞いて失礼ではなかったか、と。我々からは、そんなことは全く失礼ではなく、逆に、意味のない美辞麗句をもらうよりもずっと嬉しいし、とても良かったと答えました。

私は、相手が誰であろうと、聞きたいと思ったことは同じように聞いてほしい、と付け加えました。そんな質問を正々堂々とする参加者がいたことが、私もとても嬉しかったからです。

ワークショップの開会式で、参加者の自己紹介と自分の製品の説明をし合う、ということも、会場の飲食品・包装センターが取り入れていきました。

また、エクトゥルーダーのような価格の高い機械を中小企業がどうやって使えるようにするか、という議論も行われました。価格が高いけれど使ってみたい、なぜなら生産性が大幅に向上するからだ、原材料がたくさんあるのでもっと生産量を増やしたい、ではどうしたら、エクストゥルーダーをみんなで使えるか。

そんな議論をワークショップの最後のほうでしていると、「皆んなで協同組合を作ろう」「協同組合の組合員で資金を出し合い、銀行からの融資を受けたらエクストゥルーダーを買えるのではないか」「みんなが平等に機械を使えるように順番をはっきりさせる」、などなどの意見や考えが表明され、いつの間にか、参加者全員が等しくエクストゥルーダーを使ってみたいという雰囲気になっていきました。

もしかすると、高価な機械をいくつかの中小企業がシェアしながら活用する、というモデルは、彼らインドネシア人の中から現れてくるかもしれない、と思いました。もしそんなモデルがこの東ジャワから生まれたら、もちろん世界へ貢献することになり、シェアリング・エコノミーの新しい一つの形態となるかもしれない。そんなことまで、考えてしまうような、参加者の熱気に煽られていました。

そんな風に思われる、今回の機械たちとそれを製造した大阪の中小企業は、きっと幸せ者なのだと思いました。

クエティアウを食べながら、思わずハッとしたわけ

今回は、チームで一緒に夕食をとる日々です。今日の夜は、スラバヤの大手水産会社の重役L氏からのご招待がありました。

「道端の庶民的な食堂でクエティアウ(米粉で作った平たい麺)を食べよう」という話で、チームリーダーは、「ビールは多分ないだろうな」と少し落胆気味でした。今日はクエティアウを食べて、早々に引き上げるものとチームメンバーは思っていました。

L氏の指定した店に着くと、たしかに庶民的な飾り気のない食堂でしたが、道端の屋台のような場所とは違いました。

以前、スラバヤに住んでいるときに、こういう雰囲気の店でよく一人で夕飯を食べたよな、けっこう同じような雰囲気の店ってあるもんだな、よく行ったあの店はもうどこかへ移ってしまったな、などといい気分で過ごしていました。

「ここは、クエティアウとカエルと鳩がうまいんだ」とご満悦のL氏がどんどん注文していきます。L氏は気を利かせて、ビールも持ち込んでくれていました。チームリーダーは大喜びです。

あんかけクエティアウが出てきました。うーん、美味い。

そして、クエティアウを食べながら、ハッと気がつきました。もしかして・・・。

そう、昔よく行った、あの店だったんだ、と思い出しました。スラバヤの以前の自宅のすぐそばにあり、毎週のように食べに行ったDepot Purnama。

やっぱり!たしかに同じ名前の店です。

給仕のおねえさんがチラチラ私を見ています。声をかけると、もちろん覚えていると。調理場にはオーナーの親父さんがいて、すぐに私だと分かりました。

スラバヤに住んでいてくたびれたときに、Depot PurnamaのNasi Cap Cai Babi(豚肉入り中華飯)に何度救われたことか、数え切れません。これを食べると、不思議なことに元気になるのです。豚肉入り八宝菜とご飯の間に目玉焼きが敷かれていて、具の腸詰めや臓物の美味しかったこと。

そして、L氏との面会が初めてでないことも分かりました。3年前、彼ら一族の集まりになぜか招かれたとき、その集まりの主催者が彼で、挨拶をしていたのです。そして、共通の知人の名前が何人か出てきました。そして「趣味は食べること!」と一緒に叫んで、盛り上がりました。

L氏はまだまだ注文を続けます。カエルの唐揚げ、カエルの豆醤スープ、Cap Cai、炒めクエティアウ、焼きそば、ナシゴレン・・・。

Depot Purnamaは、私のスラバヤでの大切な場所の一つであり続けているのでした。

焼きそばも美味しかった!

食品加工機械のワークショップ

昨日から、食品加工機械のワークショップが始まりました。東ジャワ州飲食・包装研修センターが東ジャワ州内の県・市から選抜した中小企業12社が参加しました。

今回で、すでにワークショップを3回実施しており、1回あたり10数社が参加しますので、これまでに30社前後がワークショップを受けたことになります。

このワークショップでは、大阪の幸和工業の制作したエクストゥルーダー、乾燥機、回転式味付け機のほか、煎餅用の機械などを実際に使って、製品を作ってみる、というものです。

今回の食品加工機械の特徴は、油を使わないでサクッ、パリッとした製品を作るというもので、油で揚げたものの多いインドネシアで、健康ブームも相まって、ノンオイルの加工食品を普及させる一歩とも位置付けられるかと思います。

「機械はぜひ使いたいのだが、価格が高いので我々には無理」という声も聞かれました。高価な機械をどのようにシェアし、活用できるか、知恵を絞る必要があります。

ワークショップ参加者、政府、日本側が一緒になって知恵を絞り、この東ジャワ州から機械のシェア活用モデルを作っていければと思います。

スラバヤに着きました、が・・・

ジャカルタ経由でスラバヤに着きました。

今回はガルーダだったのですが、機内で見たガルーダの機内誌COLOURがなかなか面白かったので、いただいてきてしまいました。

日本時間で、もう間も無く日付が変わりますので、今は、これぐらいにして、後ほど、追加したものを掲載します。

スラバヤは日本と時差が2時間ありますので、まだ午後9時台。空港で荷物が出て来るのを待っています。

(1時間後)

荷物が出てくるのを待っているのですが、出てきません。羽田からスルーで荷物はスラバヤで受け取れるという話だったのですが。

どうも、ジャカルタでの乗り継ぎ時間が短くて、スラバヤ便に荷物を乗せられなかったようです。たしかに、羽田からジャカルタの便は、ガルーダ国内線第3ターミナルから一番遠い駐機場に着き、バスでイミグレのある第2ターミナルへ移動、そして第3ターミナルへ移動しました。

乗り継ぎ時間は約1時間半、それでも時間が短かったと言えるのかどうか、よく分かりませんが、ガルーダでインドネシアの国内線に乗り継ぐ方は、このような事態も想定されておいたほうがいいと思います。

荷物は、次のジャカルタ発スラバヤ行きの便で来るということで、もう1時間ぐらい待たされています。

お、やっと出てきました。(午後10時40分)

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