インドネシア研究と地域振興・地域づくりの二本柱

私自身は、元々、35年前からインドネシア地域研究を仕事としてきましたが、その途中で、25年前から地域振興や地域づくりについても自分なりに経験と専門性を深める努力をしてきました。
ですから、専門は何ですか、という質問に対しては、インドネシア地域研究と地域振興・地域づくりの二本立て、と答えるようにしてきています。
地域振興・地域づくりを強く意識するようになったのは、1995年に、インドネシア東部地域開発政策アドバイザーを務めてからでした。
それ以前の1993年から2年間は、日本の産業政策が東南アジア諸国の産業発展にとって有効かどうか、という課題に取り組んでいました。ちょうど、世界銀行から『東アジアの奇跡』(East Asian Miracle)という報告書が出て、市場原理主義だった世銀が日本型の産業政策に一定の評価を与えたことが注目されました。日本の産業政策のなかで、数社による寡占的な業種でいかにコンテストベースの競争政策を持続的に進めるか、という適切な政府介入、政府=民間の関係というものが議論されました。
その後、全く意識していなかった地域開発政策という分野へ入っていきます。それまでに行ってきた研究は、中央省庁よるマクロな政策が主であり、一国研究として「インドネシアは」というアプローチでした。
ところが、地域開発では、対象の地域が主語になります。それまで、日本の産業政策をサーベイするなかで、産業再配置政策の歴史的展開については調べていたのですが、インドネシアの各地域の状況については、一国という単位のなかで大まかにしか把握していませんでした。
実際にスラウェシ島最大の都市であるマカッサルに赴任して、インドネシア東部地域の各地や農漁村、離島部などの現場を歩きました。そこで地域開発政策の観点で重要なのは、政府と民間(住民)とがどのような関係をつくり、民間(住民)がイニシアチブをとれる環境をどう作っていくのか、それを促すための適切な経済的刺激をどのようにうまく入れて活用するのか、といった点であることを実感しました。それは、程度の差こそあれ、日本の産業政策における政府介入や政府=民間関係の在り方などとある意味共通するものであったことに気づきました。
地域開発政策アドバイザーとしてのメインの相手は地方政府であり、彼らの見解や考えが民間(住民)レベルでのニーズや意識を反映しているかどうか、どのように両者の適切な関係をつくることができるのか、それを彼ら自身が納得して自分たちでつかみ取れるか、といったことを考えながら仕事をしていました。
そして、アドバイザーであるから当然の提言や助言を出さず、彼らの気づきを促し、彼ら自身が作り出したと認識できるような、敢えて教えない、ファシリテーター的な政策アドバイザーを目指しました。
インドネシアでも、日本から来た専門家に対しては、すぐに効果の上がる、手っ取り早い解決策を求める傾向が強いものです。しかし、私は自分がその土地に馴染みの深くない「よそ者」であることを強く意識しました。解決策が必要であれば、それは、「よそ者」から与えられるものではなく、その土地の人々が自らのものとして編み出すものである、という態度で通しました。
インドネシアでのべ5年間の地域開発政策アドバイザー業務を終えて帰国し、派遣元のJICAで帰国報告を行ったときに、ある方から言われた言葉を忘れることができません。
曰く、あなたのやったことは評価できない。あなたが助言したから先方の政策に生かされたという検証ができない。何月何日に発した助言が何月何日にこのように政策に反映された、それは日本のおかげだ、というのがないと評価できない、と。
実際、私が提言した内容を地元政府高官が発言する現場には、何度も出くわしました。でも、それは借り物ではない彼の言葉でした。彼なりに私の提言を咀嚼し、自分の言葉で発言したのでした。それを「私がインプットしたからそう言った」と主張することは、自分にはできませんでした。
私は、ポリシーペーパーを書いてその通りやりなさい、と助言する政策アドバイザーにはなりませんでした。「よそ者」としてその土地に長くいる彼らと一緒に考え、ときには彼らからすれば頓珍漢なアイディアさえ入れつつ、議論の流れを見ながら再度私なりの意見を入れ、というプロセスを繰り返しました。
「よそ者」である自分が、その土地の未来に対して責任を取ることはできません。その責任を取るのはそこに暮らす人々であり、地元の地方政府です。ある意味、私なりの無責任を貫くことにしました。
それから今に至るまで、彼らとの関係はずっと続いています。ときには、アドバイスを求められることもあります。ただ、自分が果たしてどの程度彼らにとって役に立てたのかについては、胸を張って「これだけ役に立った」ということはできずにいます。
ただ、あのとき、あの時代を共有していた、一緒に課題の解決策を真剣に議論し合った、そんな経験が今も彼らを信頼する基盤になっているような気がします。おかげさまで、インドネシアでは、34州中28州を訪問し、地域振興等について真剣に議論してきました。
世間的にはこれでよいのかどうかは疑問ですが、これが自分のスタイルなのだ、と思うことにしています。
以上のような経緯を経て、今では、インドネシアでも日本でも、中央省庁と仕事をすることはあまりなくなり、地方自治体や地域コミュニティと一緒に何かをするほうへ比重が移ってきています。インドネシアへの出張も今や、ジャカルタではなく、ほとんどが地方への出張となりました。
果たして、日本でも上記のようなやり方や考え方は有効なのか、といつも自問しています。そのときに、参考になるのは、論文を多数書いた研究者ではなく、日本中の地域という地域を歩いてきた宮本常一氏のアプローチです。インドネシアの地方をまわる際にも、彼のやり方は本当に参考になりました。
そして、今、インドネシアの地域も、日本の地域も、その直面する根本課題が「地域アイデンティティをどのように持続・発展できるか」という共通課題であることを意識するようになりました。地域振興・地域づくりについて、インドネシアの地域と日本の地域とをパラレルに見ながら、この2国以外の地域についても同様ではないかと考えるようになりました。
国境を越えて、ローカルの視点から、地域と地域をパラレルに、あるいは複層的にみていくことで、国家単位では見落とされてしまいがちな、より本質的に課題に迫れるのではないか、という意識が自分には年々強まってきています。
というわけで、インドネシア地域研究(とくに政治経済の現状分析)は継続していきますが、それにプラスして、国家という枠組みを超越した地域振興・地域づくり(とそれが創る新しい未来像)を意識した活動を続けていきたいと考えていきます。
数え切れないぐらい堪能したインドネシア・マカッサルの夕陽。
自分にとって最も重要な景色の一つ。

マンズィーニ氏と小松理虔氏は同じことを言っていたのか

昨日、小松理虔『新復興論』の感想めいたことをこのブログで呟いてみた。が、その後、よくよく考えてみたら、5月15日のブログで呟いたマンズィーニ氏のソーシャル・デザインの話と同じことを言っているのではないか、ということに気づいた。
マンズィーニ氏は、「ローカル」の広さが違う人々のあいだで、対等で質の高い対話が成り立つためには、フラットな関係をつくることが重要である、とする。そのためには、対話をする人々どうしが、誰が正しいかを決めるのではなく、「一緒に何かをやる幸せ」に価値を見い出すコラボラティブな関係づくりが求められてくる。そこでは、弱さや本音をさらけ出せる環境、安心して各人どうしが信頼し合える関係が生まれ、質の高い対話が成立していく。
小松氏は、目標達成や課題解決のみを重視するような、リアリティに囚われた真面目の度合いを下げて、多くの人々に関わってもらえるような環境づくりが、地域づくりでは重要だと論じる。そこではある種のゆるさが大事で、何かを一緒にやって楽しかったり、嬉しかったりすること自体が地域づくりの一端になる、という実感がある。こうした状況をそれとなく促す役割をアーティストが担っている。
小松氏は最近、『ただ、そこにいる人たち』という報告書を出した。報告書自体はまだ読んでいないが、そこへ至る彼の浜松での経験について書かれたエッセイをネット上で何本か読んだ。そこで彼が主張したのは、徹底的に寄り添うのでも突き放すのでもない、そうした二項対立ではない関わり、ふまじめで個人的な興味や関心、「いるだけでもいい」という低いハードルが、課題を社会に開き、既存の当事者の枠を超える新しい関わりを作り出すということである。
小松氏がそれを定義した「共事」という言葉は、マンズィーニ氏の主張するコラボラティブな関係づくりと相通じるものがある。その空間に一緒にいる、一緒に何かをしている。それは何かの目的を達成するための手段や方法ではない。そのこと自体に意味があり、それがもしかすると予期せぬ新たな何かを生み出したり、全く関係がないと思われた人々へ誤配さたりするのかもしれない。
地域づくりにおけるよそ者の関わり方については、いろいろと考えることもあるが、おそらく、よそ者が地域のためと称して、目標を設定して課題解決をできるだけ効率的にかなえようとする手法は、その地域の人々にとっての「共事」とはならず、よそ者の目的への地域の人々の動員で終わるだろう。そんな事例をこれまで、インドネシアの援助という名の現場で嫌というほど見てきた。そしてそれらと同じことが、震災後の東北でも見られたことに落胆した。
その意味でいうと、マンズィーニ氏のソーシャル・デザインも、小松の新復興論も、言わんとすることや方向性は同じではないかという気がしてきた。両者とも、精緻に理論化する必要もない。いや、してはいけないのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ。そこで醸成されるゆるやかな共感や信頼感。それらが人々の安心できる環境を生み出し、その環境の質をどのように高め、安心し続けられるようにしていくかを楽しく、愉快に、そして面白く考えていけるのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ、楽しさ、面白さ。それをつくるのではなく、自ずとつくられる環境の醸成。新型コロナの有無にかかわらず、在野の我々が目指すべき、これからの楽しい地域づくりのキーワードになるような気がする。
まだ、マンズィーニを深く読み込んだわけではない。ただ、なんとなくそんな風に感じた、ということに過ぎない。
いわき市の道の駅「よつくら港」(2015年9月19日撮影)

小松理虔著『新復興論』を読了

購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。

あいにくまだ同氏とは面識はないが、東日本大震災後の彼の活動は興味深く、ツイッターなどにおいて、自分で勝手に追いかけていた。
私自身、福島のことを考える際、「復興」という言葉を素直に受け止められなかったり、様々な現象を「福島」という地名で一般化されてしまうことに強い違和感をずっと感じていた。
自分の出身地である福島市における福島の人々と、いわき市を含む浜通りの「福島」の人々との微妙な心理的距離や、福島市在住の人々によるあたかも自分が福島全体を代表しているかのような言動が跋扈するなかで、インドネシアなど海外とも深く付き合ってしまって、福島については出戻りのような自分が自分の立ち位置をどこに置いたらいいのか、悩み続けるなかで、小松氏の発信になんとなく親近感を抱いていた。
『新復興論』は、よそからの借り物ではない、小松氏が地元での生活経験のなかから、自分の言葉で自分の思想を編み出していくプロセスを経ながら書き上げたもので、二者択一の単純な議論や政治性を排除した、他の専門家の真似のできない内容だと感じた。
とくに、リアリティとの関わり方に関して、地域づくりにおけるコミュニティデザイナーとアーティストとの役割の違いを明確にしていた点に思わずうなづいた。
いくつもの珠玉の言葉があった。いくつか自分なりにまとめてみる。
「アーティストは事実を伝えるのではなく、真実を翻訳するのだ」という古川日出男氏の言葉の引用。アーティストは課題を提示する人であり、そこには、現状に対する批判精神が込められているのが当然である。アーティストが社会的課題を解決するのではない。行政などの意図に応じて作品制作を行うなど、リアリティに囚われすぎると弊害が生じる。土地の歴史や文化を掘り起こし、そこだから存在するものを大事にする。それを進めるにもアートの力が有効である。
原発を含む福島のエネルギーをめぐる歴史は、外部から求められての「敢えての依存」が時が経つにつれて「無意識の依存」へ変わっていった歴史であった。それに伴って、福島では、自らが犠牲となって国策に貢献したのにその後結果的に差別を受けるという「方法的差別」を繰り返してきた。そうした福島と同様の経験を持つ人々は世界中に存在する。アートを通じて、それら世界の様々な場所で闘っている人々と連帯すべきだ。
外部者を排除した地域づくりは前に進められない。様々な人々に関わってもらうには、まじめの度合いを下げるしかない。復興事業の多くはまじめに行われすぎている。まじめの度合いを下げるのにアートの役割がある。徹底して楽しむこと、そして小さく展開すること。不まじめさによって、予期せず偶然に誰かへ情報が誤配され、その誤配から全く新しい何かが生まれる可能性がある。ゆるさの効用がある。
原発事故を障害として捉える。治癒して元に戻るケガではなく。障害としての原発事故をむしろ価値と捉え、共存を図る。
この最後の障害論は、まさに、今の新型コロナウィルス感染拡大の現状にも当てはまるものだろう。そうだとするならば、地域づくりの場合と同様、アートにも、閉鎖状態を和ませる以上の、何らかの果たせる役割があるような気がする。また、まじめすぎるのもよくないのかもしれない。
『新復興論』は地域づくりの現場に関わる方々はもちろん、地域づくりを教える教師やそれを学ぶ学生にとっても示唆の大きい内容である。そして、それぞれの経験に照らして、地域づくりにおける自分なりの思想や考え方を見つける良い材料になるものと思う。
小松氏の今後の活動や言論についても、引き続き注目していきたい。

村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

* * * * *

 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
* * * * *
教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

ステイホーム、だからこそつながる

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ステイホーム。不要不急の外出を控える。行動自粛。友人や知人とも会わない。皆さんと同じように、私もそんな毎日を送っています。

動いてつなげるのが私の仕事のスタイル。でも、インドネシアへも福島へも行けず、東京の自宅で家族と過ごしています。

幸い、自宅の庭では、今、ツツジなどの花が咲いていて、なごみます。

そんななか、いつもお世話になっている「鳴子の米プロジェクト」から、追加でのお米の注文依頼が来ました。

同プロジェクトは、農家と消費者を直接結んで、消費者が農家を支えるCSA(Community Supported Agriculture)の実践で、「ゆきむすび」というお米を生産・販売しています。

「ゆきむすび」は在来の耐冷品種を復活させたものです。消費者へ直販することで、生産者が年々広がる遊休地・耕作放棄地でその在来品種を栽培し、消費者とともに地域の農業を守り、地域活性化を進める取り組みを続けています。
 鳴子の米プロジェクトのサイトはこちらから → http://www.komepro.org/
同プロジェクトは東京都内で、アンテナショップを兼ねた「むすびや」というおむすび屋さんを運営しているのですが、新型コロナの影響で閉店、そのために用意していた「ゆきむすび」が余ってしまいました。その余剰米を買ってほしいという注文依頼でした。
ちょうど、我が家でもお米を追加注文しようかと思っていたタイミングだったので、すぐに注文しました。来るのが楽しみです。
* * * * *
続いて、福井県で農業を営む友人から連絡がありました。彼の農園からは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めました。1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供します。
 ベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
彼のところのベビーリーフは、プロ用ということもあり、一般に売られているものとは明らかにモノが違います。こんなお買い得なベビーリーフはまずないです。
当面、200組を用意とのこと。注文はお早めに。
* * * * *
物理的に友人や知人には会えないけれど、つながることは決して難しくはありません。きっと、個々人レベルでは、こんなささやかな思い合いが今、起こっていることでしょう。
何かあったときの思い合い。ステイホームがそれを妨げることはありません。
ステイホーム、だからこそつながるのかもしれません。そんな心の通う思い合いから、新型コロナ後に私たちが創りたい、新しい社会が垣間見えるのではないでしょうか。

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初めての小湊鐵道、味のあるローカル線

1月11日に市原湖畔美術館での「宮本常一から学ぶ」のイベントに参加するため、五井から高滝まで、初めて小湊鉄道に乗った。市原湖畔美術館への最寄駅は高滝で、高滝駅から市原湖畔美術館までは徒歩で約20分だった。

JR内房線で五井駅につき、跨線橋上で、JRの改札を出ることなく、そのまま真っすぐ進むと小湊鐵道の乗換口。世話好きな小湊鐵道のおばさんが案内してくれる。

自動販売機で切符を買う。今回買ったのは、五井~高滝間の往復割引券。上総鶴舞と高滝の間が乗り降り自由の切符で、往復1420円。通常運賃は片道930円なので、往復で400円程度お得になる。

きっぷを買って跨線橋を降りると、小湊鐵道のプラットフォームだ。列車はすでにプラットフォームに待機、気動車だ。

車体にはKTKの文字。Kominato Tetsudo Kabushikigaishaの略なのか。キハ207。

台風19号の影響で、この日は五井から上総中野までは行かず、養老渓谷での往復運転だった。五井駅のプラットフォームには、なぜかイノシシの像が。その言われについて書かれたものは見当たらなかった。

五井駅の小湊鐵道の車庫には、少なくとも3編成が待機していた。

列車は定刻通りに発車。2両編成で、後部車両に車掌が乗っている。

車両内の天井には扇風機があり、中央部に排気筒、その脇に冷房用のエアコンが設置されていた。つり革は丸い輪がストレートにぶら下がっている。乗降口は一車両に前後2ヵ所のみである。

列車は、40~50キロ前後のゆっくりした速度で、左右にけっこう揺れながら、単線を走っていく。

車窓の外は、冬の農業地帯。水田はもちろんのこと、野菜畑なども広がる。現時点で耕作中のところはほとんどなく、枯れた草が放置されたままのところが多かったが、一部で耕作へ向けての準備をしているところも見られた。

途中の上総牛久周辺は商業・住宅地区となっていて、この沿線では最もにぎやかな地域だった。

他方、台風19号などの影響で、光風台駅前など、数ヵ所に倒壊したままの建物が残されていたほか、瓦屋根の一部が飛ばされた部分を青色のビニールシートで覆い、その上に土嚢などを置いて、風で屋根が飛ばないようにしている住宅も点々と見受けられた。

そうした家々は、五井から上総牛久までの間により多く見られたが、内陸の高滝の周辺でも見られた。それらの家の方々は、この正月をどんな気持ちで迎えられたことだろうか。

五井を出て40分ほど揺られながら、高滝に到着。高滝駅は小さな駅だった。

ちょうど、市原高滝湖マラソンが行われていて、高滝駅の手前の加茂公民館にたくさんのジャージ姿の老若男女の姿が車内から見えた。思ったよりもにぎやかな印象だったが、それはこのときだけだった。

イベントが終了し、市原湖畔美術館を後にした午後5時半頃には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。昼食を食べる時間がなかったので、途中の寿司屋で空腹を満たした後、高滝駅へたどり着いたのは午後6時半過ぎ。駅には誰もいなかった。

プラットフォームへ出ると、線路にいた野良犬がギャンギャン吠えてくる。近寄ってくるでもなく、遠巻きにしながら、いつまでも吠え続けていた。

定刻通りに五井行の列車が到着。乗客は私一人だった。2両目の車両の唯一人の乗客。

乗客がいないせいなのか、列車の揺れが来たときよりもずいぶん大きく感じる。途中の上総山田駅から1人乗り、2両目の乗客は2人になって、そのまま五井に着いた。

小湊鐵道は、実に味のあるローカル線だった。乗降客数は年々減少しており、歌声列車やトロッコ列車など、ユニークなイベントも試みているが、間違いなく、存続の是非も問われてくる。

小湊鐵道をめぐる沿線の様々な物語をどのように様々な人々から手繰り出し、また新しい物語を作っていけるか、注目していきたい。

市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。

福島市の冬の風物詩「光のしずくイルミネーション」

福島市の冬の風物詩といえば、「光のしずくイルミネーション」である。1月31日まで、福島駅東口広場とパセオ通り及びその周辺で、総電球数20万個が夜を光で彩っている。

今回の福島滞在でも、パセオ通りで眺めることができた。

今や、日本中のあちらでもこちらでも、LED電球を使ったイルミネーションが花盛りで、他と比較して際立たせるには、ただ光らせるだけではない、何らかのプラスアルファが必要である。それも、ポジティブなプラスアルファが・・・。

この福島市の冬の風物詩は、東日本大震災の後に始まったと記憶している。パセオ通りに植えられ、電飾を施された木の一つ一つに、福島に少しでも希望をもたせようとするかのような詩が一つ一つ掲げられていた。その詩に私も勇気づけられたものだった。

今は、それはない。電飾を施された木々だけが立っている。

人々は今、このイルミネーションに何を思うのだろうか。

一人ひとりの状況は違うだろうが、希望は取り戻せたのだろうか。新たな希望は生まれたのだろうか。

夕方5時過ぎ、イルミネーションの光るパセオ通りを行き交う人々の姿はほとんど見られなかった。

光のしずくは、どこか寂しげだった。

自ら学ぶ地域を増やし、そう促せるよそ者を育てる

以前から、思っていること。

地域の人々は、自分たちが生活する地域について、どこまで知っているのだろうか。自分たちのところには何もない、と言って、よそから来るもののほうが優れている、素晴らしいと思ってはいないか。

よそのほうが優れている、素晴らしいって、何をもって言えるのだろうか。

自分たちしか持っていないもの、それは何か。

自分たちでは取るに足りない、大したことないと思っていたものが、よそ者にとっては、価値のあるものだったりする。そして、そこで、地域の人々は自分たちの持っているものが価値のあるものだと気づく。

でも、よそ者が常に正しいとは限らない。自分たちでその価値を確信できない限りは・・・。

今、思うこと。

地域の人々が、自分たちが生活する地域について、より深く持続的に自分たちで学ぶ機会を創る。

地域と地域をつなげながら、学ぶ機会を創るノウハウを他の地域へ広めていく。同時に、学び方、教え方の手法を深める。

そして、地域の人々の気づきを自然とうながせる、適切なよそ者を育てる、増やす。

よそ者は決して教えてはならない。気づかせるのだ。地域の未来を創るオーナーシップは、常に地域の人々にある。

すべては、地域の人々が、もうこれ以上、よそ者にだまされないために。よそ者は、地域の人々からもう必要でなくなれば、黙って立ち去るのみ。

私が教えないコンサルティングを標榜している理由、私なりの美学。日本はもとより、世界中のどこでも。

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭

11月29日、「先端農業視察コース」の2日目は、復興のための新しい農業の試みを進めているプロジェクトを視察した。

広野町振興公社は、国産バナナの生産を試みていた。

日本でバナナと言えば、生食用だけが注目されるが、バナナの花も食用、葉は包装用と活躍する。たとえばバナナの葉を使って、脱プラスチックの動きを加速できないか。

バナナ以外に、パパイヤも試みていた。パパイヤも実だけでなく、葉も食用(やや苦いが)に適する。栄養食品として、様々な活用が期待できる。

お土産に、バナナ1本をもらって食べてみた。インドネシアの現地での完熟バナナの味を知っている身からすると、それを思い起こさせるとても美味しいバナナだった。やはり、国産だと何かが違う。

バナナの次は、イチゴ。大熊町での大規模イチゴ「工場」。

販売先は確保されていて、効率を徹底的に追求し、夏季にケーキなど業務用イチゴを生産することで、一般用の冬季イチゴと合わせて採算を取ろうとしている。

これも一つのやり方で、帰還困難地域を抱える大熊町に将来の希望をもたらす事業の一つという位置づけ。雇用創出の面もあるが、ロボット等の導入もありうると思われた。

イチゴの次はレタス。川内村でのLED光源を使った野菜工場を見学。

極めて衛生的で、気象条件に左右されず、安定した価格で供給できる。まさに野菜工場。風評の影響を受けない、新しい農業としての川内村の答えの一つなのだろう。

近くの工業団地には、バングラデシュの方が所有する企業が、ハラル対応食材を生産する工場を建設する予定。高齢化の進む川内村の今後の農業はどうなっていくのだろうか。

レタスの次は、葛尾村の胡蝶蘭。企業などの贈答向けの需要がかなりあるとのこと。

AIで適温に調整されたハウス内には、見事な胡蝶蘭が並ぶ。販売も順調なようで、葛尾村の新しい産業としての期待がかかる。

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭。いずれも、東日本大震災+原発事故の後、既存の農業の再開がままならない状況下で、新しい希望の種として始まった事業である。

そして、そこには政府からの補助金が活用され、行政の肝いりによる第三セクターのような形で進められている。今はとにかく軌道に乗せることに懸命なのは当然だが、今後、どうやって持続性を維持していけるか。また、地域の先端ではない地場の営農活動や地域社会の中に、これからどのような関係性を持って根づいていくか。

しばらく間を置いて、これらの事業を再度訪問し、様子を見守っていければと思う。

高知県のデビューゲート

高知県では、1次産業×2次産業×3次産業の6次産業化を推進している。

そして、6次産業化を目指す企業や団体に対して、スタートアップ研修、実践研修、アップグレード研修の機会を提供している。

実践研修を終え、県外への販売拡大を目指す企業や団体には、アップグレード研修を施し、そこで実際に試作した製品の試験販売の場として、「デビューゲート」を設けている。

デビューゲートは、農産物直売所+スーパーマーケット+県産加工製品販売所を統合した「とさのさと」の県産加工製品販売所「セレクトマーケット」の一角にある。デビューゲートの名前は「いっちょういったん」である。

この「いっちょういったん」に並べられた加工製品は、6次産業化製品とされるものである。色々なアイディアの詰まった興味深い製品が並べられている。その一方で、本当にマーケットでの需要に呼応したものなのか、あるいは需要を掘り起こせるものなのか、多少疑問を感じる製品も少なくなかった。

また、アップグレード研修の成果として一緒くたに並べることが、果たして来客者の興味を引くのか、という点も気になった。

県としてそのような場を提供すること自体は評価できるが、同時に、6次産業化という名における現時点での振興策の限界も感じられた。既存の研修の枠を超えるような製品が生まれることも必要で、研修する側の発想や視野の広さも吟味されていく必要を感じた。

これらはあくまでも、個人的な感想です。

未来の祀りふくしま2019、オーストラリア・チームとの3日間

8月8日朝、インドネシア出張からの帰国早々、東京の自宅にしばし寄った後、福島へ移動し、詩人の和合亮一さんと合流して、今年の「未来の祀りふくしま2019」を構成する二つのアーティスト・グループと会いました。

二つのアーティスト・グループですが、オーストラリア・チームとシアトル大学チームの二つです。実は、2018年12月28日、大雪の日、和合さんの誘いを受けて、この両チームの関係者とお会いし、福島でどのようなアート活動を行うのか、一緒にブレーンストーミングをしておりました。

そして、8月10日にはいわき市立美術館、11日には飯舘村の山津見神社で、オーストラリア・チームと和合さんとのコラボ・イベントに参加しました。これら一連の流れのなかで、地域とのアートの関わり方について、自分なりに色々と考えることができました。

今回は、オーストラリア・チームとの3日間について書きたいと思います。

8月11日、飯舘村・山津見神社でのコラボレーション・パフォーマンス

オーストラリア・チームは、和歌山大学の加藤久美先生、サイモン・ワーン先生、アダム・ドーリング先生が中心となり、ブリスベーンからパフォーミング・アーティストのジャン・ベーカー・フィンチ(Jan Baker Finch)さんとパーカッショニストのジョイス・トー(Joyce To)さんの2名を招聘しました。

チームは8月2日から9日まで、主に飯舘村に滞在して、どのような表現を作っていくかを練っていきました。飯舘村という地に根差した様々な場所(ひまわり畑、御影石加工所、製材所、廃材置き場など)を訪れ、関係者の方々から色々な話をお聴きし、その話とその場所にある音、色、匂い、風などを感じ踏まえながら、その場にて即興でパフォーマンス+パーカッションを試みました。

飯舘村での経験を踏まえ、それを咀嚼したうえで、8月10日、いわき市立美術館で「福島ー新しい光をさがして」と題するアートイベントに結実させました。このイベントは、ブリスベーンからの二人に和合さんを交えた3人によるもので、いわき市立美術館は、「人々が自然とともに生きる音や風景をテーマにした、ダンス、音楽、詩によるコラボレーション。三人のアーティストが、福島の風景、歴史、伝統、人々の暮らし、そこに込められた思いなど、『福島の美しさ(光)』を再発見し、表現します」と紹介しています。

 いわき市立美術館の紹介チラシ

パフォーミング・アートを含む現代アートを重視するいわき市立美術館の通路などの空間を利用して、このイベントが行われました。

美術館の入口から始まり、徐々に中へ中へ通路を移動し、その後、再び、入口のほうへ通路を戻り、最後は、階段の上で詩を詠む和合さん、そのすぐ下の通路で踊るジャンさん、階段の入口で音を奏でるジョイスさん、という動き。

観客が場所を移動する、という動きは面白かったのですが、実はいわき市立美術館では割と普通のことなのだそうです。

この3人、事前に大まかな流れを確認したのみで、入念な打ち合わせもリハーサルもなく、即興で演じていきました。

日本語が全く分からないジャンさんは、和合さんの詩の抑揚や声の大小、間の取り方から何を表現しているかをつかむ。そのジャンさんの動きが和合さんの詩の朗読のしかたに影響を与える。それを把握してジョイスさんのパーカッションが奏でられ、3人があたかも一緒に呼吸しているかのような、感じ、感じられる、誰かが誰かにただ合わせるのではない、3人の間の何とも形容しがたい緊張と共鳴の1時間が演じられていきました。

後で彼らに訊いたところ、ジャンさんは和合さんの詩の朗読における意図をかなり正確に把握していました。また、ジャンさんやジョイスさんのパフォーマンスの背景にある飯舘村の素材について、和合さんもそれを感じながら朗読をしていたとのことでした。

パフォーマンスの後は、オーストラリア・チームが飯舘村でどんな活動をしてきたか、映像を交えて紹介され、観客の皆さんと対話が行われました。

8月10日のいわき市立美術館のイベントについては、以下のような、いくつかのメディアで報じられました。

 鎮魂と再生願う「祀り」 詩、ダンス、音楽で表現 いわき(福島民報)
 福島第1原発事故 鎮魂と再生祈り 詩朗読とダンスコラボ いわき(毎日新聞)

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翌日の8月11日は、同じくこの3人で、飯舘村の山津見神社の社殿にて、コラボレーション・パフォーマンスを同神社へ奉納するアートイベントが行われました。

山津見神社は虎捕山津見神社とも呼ばれ、1051年に創建された伝統のある神社です。産業の神、交通安全の神、海上安全・豊漁の神、良縁結びの神、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳があり、地元の人々から信仰を集めてきました。山頂の本殿は、海上の漁船にとっての道標にもなったといいます。また、山神の神使としての狼に対する信仰が篤く、社殿の天井には、狼を描いた242枚の天井絵がありました。

震災後の2013年4月1日、社殿が火災により焼失しました。もちろん、天井絵もすべて焼失しました。

その後、地元の方々の深い思いを受けて、山津見神社を再建することになるのですが、天井絵の再現は不可能と思われました。しかし、天井絵が写真で残されていることが分かりました。

その写真は、焼失の数日前にたまたま神社を訪れた、前述の加藤先生とサイモン先生によって撮られていたのでした。二人は、写真をもとに天井絵を復元させたいと動き、東京芸術大学保存修復日本画研究室の荒井経先生に働きかけ、荒井先生と学生たちが「山津見神社オオカミ天井絵復元プロジェクト」として取り組みました。

そして、2015年6月、山津見神社の社殿は再建され、天井絵の復元作業も進められ、2016年8月11日、オオカミの天井絵242枚が神社へ奉納されました。

そうなのです。2019年8月11日は、復元されたオオカミの天井絵がや山津見神社へ奉納されてからちょうど3年目なのでした。加藤先生とサイモン先生は、天井絵が奉納されてから3年間実施してきたアートプロジェクトの集大成として、この日に、ブリスベーンからの二人と和合さんの3人によるコラボレーション・パフォーマンスを奉納したのでした。

加藤先生やサイモン先生の招きで、今回お世話になり、オオカミの天井絵の復元に注力してきた飯舘村の方々が社殿に入り、オオカミの天井絵の下で、パフォーマンスを観賞しました。

和合さんの締めくくりの詩は「狼」。彼もまた、山津見神社の焼失、再建、オオカミの天井絵復元の一連の流れをずっと注視してきました。人と自然とのつながり、人々を結びつける力、震災によって帰らなかった命、翻弄された人々の思い、残された自分たちの故郷への思い。そんな様々な思いを胸に、山津見神社の狼をイメージして作られた「狼」。和合さんは、ずっと前から、この山津見神社で「狼」を朗読したいと願ってきました。

この「狼」、実は2018年5月、和合さんをインドネシア・マカッサル国際作家フェスティバルに招待したときに、夜のメインイベントで、壇上で日本語のまま朗読し、会場で大反響を呼んだ詩でした。私が聴くのはそのとき以来2度目でした。

彼ら3人は、ここでも即興ベースで演じました。ジャンさんのまるで何かが乗り移ったかのような舞、ジョイスさんの絶妙なパーカッション、そして、復元されたオオカミの天井絵の下で和合さんが朗読する「狼」。

ものすごかった・・・。

場の力・・・。まさしく、ここで、この場所で演じられなければならなかったのだ、と実感しました。和合さんの「狼」はここで朗読されなければならなかったのでした。

天井絵のオオカミたちが3人に乗り移っていたのかもしれません。3人の間の緊張と共鳴に加えて、即興なのに、何かが彼らを導いていたような、そんな不思議な気分になりました。

いつの間にか、自分の左目から、すうっとひとすじの涙が・・・落ちていきました。

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即興と即興のせめぎ合いが、緊張と共鳴と結合を生み出す。あらかじめ作られた何かではなく、そのとき、その場所だからこそ作られた、奇跡のパフォーマンス。

それは、どうやっても、二度と同じには再現できない。その瞬間に立ち会うことでしか得られない、はかなく消え、しかし、ずっと心にのこるもの。

あれはいったい、なんだったのだろう。ずっとそれを思い続けています。

ブリスベーンからの二人が飯舘村での滞在から得たものがあるからこそ、それがいわき市立美術館や山津見神社でのパフォーマンス表現に結実し、だからこそ、飯舘村の方々にとってもよそよそしくない、自分たちのどこか深いところに、心地よく突き刺さってくるような、言葉にならない何かを感じていたのかもしれません。

そこではもう、演じる人と観る人という垣根がいつのまにか溶けて、両者とも同じ時間、同じ場所を共有して一緒に何かを創っている、という感覚になるのではないかとさえ感じました。

一緒に何かを創る。地域とのアートの関わり方の神髄もまた、そこにあるのだということを実感した3日間でした。

真の技能実習のイニシアティブは送り出し側にある

6月にインドネシアのパダン、マカッサルを訪問し、技能実習や特定技能をめぐる現地での状況や反応を色々と見てきた。そして、技能実習の一番基本的なところが間違っていることを痛感した。それは何か。
すなわち、本当の技能実習を行うならば、そのイニシアティブは送り出し側になければならない、ということである。
西スマトラ州パダン市内のある日本語研修センター(LPK)にて
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公益財団法人国際研修協力機構(JITCO)が記すように、技能実習制度の目的・趣旨は、我が国で培われた技能、技術又は知識(以下「技能等」という。)の開発途上地域等への移転を図り、当該開発途上地域等の経済発展を担う「人づくり」に寄与するという、国際協力の推進である。
これは、常に強調されることではあるが、実態とはかけ離れている。
文字通り読めば、日本側で移転したい技能・技術又は知識があり、それを学びに開発途上地域等の人材に移転を図り、人づくりに貢献する、ということになる。
これを読む限りでは、外国人材にどこで技能・技術又は知識を移転するかは特定されていない。従来の経済協力のように、日本人専門家を派遣して当該開発途上地域等で移転してもよいし、日本に来てもらって移転してもよい。
日本は、どんな技能・技術又は知識を移転したいのか。それならば、日本に技能実習のイニシアティブがある。従来の経済協力ではそれが明確だった。
日本が移転したい技能・技術又は知識のなかで、日本に来てもらわないと移転できないものは何か。本当ならば、それも吟味しなければならない。
現状からすれば、そうした日本から移転したい技能・技術又は知識とは、たまたま偶然に、日本で人手不足となっている職種の技能・技術又は知識、ということなのだろうか。
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まやかしもいい加減にしてほしい。
インドネシアで、技能実習生がどのように募集されているのか。インドネシアでは、労働省が決めた人数を各州に割り振り、各州の労働局が窓口となって割り当てられた人数を満たすことに躍起になっている。
筆者も西スマトラ州労働局と最初にコンタクトした際、「日本では何人必要なのだ?」といきなり聞かれた。州労働局がその人数を用意するというのだ。
大事なのは人数なのだ。溶接の仕事をしていた人が日本で溶接を学ぶ、という風にいちいち丁寧に人を探していたのでは、人数を満たすことなどできない。まして、鳶(とび)といった職業はインドネシアでは見かけない。
現実には、そうした前職経験のない、仕事が見つからない失業青年たちの応募が想定されている。若者の失業対策として、日本への技能実習は有益なプログラムと受け止められているのだ。
では、誰がインドネシア労働省に必要人数を求めているのか。日本は政府としては行っていないはずである。それを行っているのは、インドネシアにおける送り出し+日本における受入れの過半を扱っている某団体である。
技能実習制度は、本来ならば、もともと持っている技能・技術又は知識を高めるために、日本で研修を行うという制度である。それが形骸化していることは、誰もが知っている公然の事実である。
インドネシアで話を聞くと、日本へ行く前に、日本で何を学ぶのか、どこで研修するのか、了解して日本へ向かう技能実習生はごく少数であり、ほとんどは、日本に着いてはじめて、どこで研修するのかがわかる、という。
でも、彼らのビザは発給されている不思議・・・。えっ、履歴書や前職経験は問題ないのか・・・。
そこには深い闇がある。
その深い闇について、ここでは触れないが、技能実習のそもそも論のところから誤っていて、その誤りが訂正できないほど、闇が深くなっているということ。
つまり、もし、その誤りをすべて本気で正したら、もしかすると日本経済は動かなくなるかもしれない、という状態なのだと察する。だから、闇は闇のまま放置される・・・というのだろう。開き直りなのだ。
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学ぶというイニシアティブと教えるというイニシアティブは、本来、どちらが最初なのか。今の技能実習は、教えるというインセンティブが先にある、と読める。でも、教わる(学ぶ)側がその技能・技術又は知識を教わる動機が強くなければ、教えるという行為は有効にならない。
筆者は、学ぶ側のイニシアティブが最初だと考える。何を学びたいかが明確ならば、それを教える相手を的確に探すことができる。技能実習生の研修への取り組みはずっと熱心になり、教える側もその熱意を受けて、それが彼らの帰国後に生かされると信じて、一生懸命に教える。
自分が日本で何を学ぶのか、どこで学ぶのか、分からない者は、日本で技能実習を受ける動機が「いくら稼げるか」以外にはなくなる。それでも、自分の適性と何の関係もなかった技能・技術又は知識を身につけ、技能国家試験に合格する者さえいる。それは、この技能実習制度の成果ではなく、実習生個人の類まれなる努力によるものでしかない。
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筆者は、学ぶ側のイニシアティブをまず重視したい。日本へ何を学びに行くのか、その認識を明確にしたいと考える。日本へ行く動機が明確になれば、日本語の勉強により集中できるはずである。
日本へ行って学ぶ動機としては、個人の持つ動機以外に、インドネシアの地域が自らの地域をどのように開発していくか、その開発のためにどのような人材が必要か、という観点から、地域から期待される人材を技能実習へ送り出す、ということが考えられる。
たとえば、今回訪問した西スマトラ州パヤクンブ市の副市長は、インドネシア料理として名高いルンダン(牛肉のココナッツ煮)で地域おこしを試みながら、他の農産物などの食品加工業を起こしたい、パヤクンブ市を商人の町からものづくりの町へ変えていきたい、という明確な方向性を示した。
こうした地方政府の意向を受けて、将来の食品加工業を担える人材を育成したい、インドネシアで学べるもの・マレーシアで学べるもの・日本で学べるものを峻別し、日本で何を学ぶかを明確にする。それが明確になれば、筆者が学ぶ目的に適した日本の受入先を懸命になって探すことになる。
探した後、受入先に対して、単なる人手不足対策ではなく、送り出す地方政府がこのような意図をもって学ばせに来る人材であることを懇切に説明し、納得してもらったうえで、受け入れてもらう。目的を達成するための綿密な実習計画を受入先と策定し、その進捗をモニタリングする。実習終了後、インドネシアの当該地方へ戻った実習生が今度は地域でどのように活用されるかを地方政府と協議し、その活動状況をずっとモニタリングしていく。
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こうしたプロセスならば、本当の技能実習にだいぶ近づくのではないか。
このプロセスはとても面倒で手間がかかる。でも、人材育成とは本来そういうものであろう。筆者の目が黒いうちは、帰国実習生をずっと追いかけていきたいと考えている。
もちろん、目的意識を持った彼らを日本の企業が受け入れることが、その企業の立地する日本の地方にとっても有益なものとなるように努めていかなければならない。すなわち、インドネシアの実習生を送り出す地域にとっても、彼らを受け入れる日本の地域にとっても、どちらもプラスになる形を目指さなければならない。
外国人材を日本の地方活性化のための戦力としてどのように活かすのか。
この点については、別途、しっかりと論じてみたい。

おいおい老い展を見学

3月25日は夕方、アート千代田3331で開催中の「おいおい老い展」を見に行きました。25日が最終日でした。

イベント自体は3月21日から開催していたのですが、どうしても期間中に時間が取れず、しかも24日は疲労困憊で休息を余儀なくされたため、この25日しか行ける余裕がなくなってしまいました。

でも、行ってよかったです。そして、とても楽しい展覧会でした。

介護を施設の中だけに留めるのではなく、地域やコミュニティと接点を持たせることによって、介護と生活、生きるということとをよりビビットに結びつけると、介護をする側も受ける側も楽しくなる、アイディア。

介護という仕事が、こんな風にすると魅力的になり、若い世代も楽しく関わっていくことができるというアイディア。

そんな魅力的なアイディアが67点、しかも、それは机上の空論ではなく、実際にプロジェクトとして試されていくものばかり。

4月から福島市で開業するサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」のことを考えながら、実に様々なヒントを得ることができました。そして、さらなるアイディアが湧き出てくるような、ワークショップを「しみずの里」でやってみたい気持ちになりました。

そして、同じように高齢者介護の課題に直面する韓国や台湾、遠くない将来に高齢化社会を迎えるインドネシアなどの国々のことを思いました。

外国人材を介護などの分野に日本で受け入れるのは、単に人手不足を補うという意味だけでなく、今後に向けて、介護という仕事を魅力的にしていける人材を世界へ向けて育成することにもつながるのではないか、と。

そう考えると、この「おいおい老い展」は、決して日本だけのものではない、何らかの形で国外の同様の課題を抱えている、抱えることになる人々にとっても、きっと有用なことなのではないか、と思いました。

介護福祉士が地域づくりに関わる、という視点が新鮮に感じられました。そして、そうなんだよな、と展示を見ながら何度もうなづきました。

ここに提示されたようなプロジェクトを生み出すプロセス自体を、それに関わった方々にとっていかに楽しいものにするか、も、とても重要だと感じました。

新たなたくさんの刺激を受けた「おいおい老い展」。この間、このプロセスをマネージしてきたstudio-Lの皆さんに改めて敬意と感謝を申し上げます。

外国人技能実習関連講習を受講しました

2月12~15日の4日間、福島市で外国人技能実習制度関係者養成講習を受講しました。

今回の講習は4種類。敢えてすべてを受講しました。すなわち、監理団体向けの技能実習監理責任者等講習、技能実習生の受入企業向けの技能実習責任者講習・技能実習指導者講習・生活指導者講習の4種類です。

これらは法令講習で、2020年4月から、技能実習に関わる監理団体の監理責任者・外部役員・外部監査役と、受入企業の技能実習責任者は、講習受講が義務化されるということです。また、技能実習指導者と生活指導者は各事業所(工場など)ごとに配置されますが、この講習を受けていると、優良技能実習実施者として、加点評価になります。

これらの講習は3年間有効で、3年毎に更新する必要があります。

敢えて4種類の講習をすべて受けたことで、技能実習の関係者に対して講習でどのような内容が教えられているか、実際に監理責任者、技能実習責任者、技能実習指導者、生活指導者となる方々はどのような方々なのか、技能実習の現場では何が問題となっているのか、などを知ることができました。

講習を通じて分かったのは、2017年11月に施行された技能実習法は、もしそれをきちんと遵守するとなると、本当は、実に厳しい法律であるということです。

監理団体や技能実習実施者(受入企業)が守るべき内容は、ほぼすべてが法律の条文によって定められています。たとえば、監理団体が定期監査などで受入企業において賃金未払いや残業代の計算間違いなどの不正を発見した場合、法律の条文によると、監理団体はその是正を指導するとともに、労働基準監督署へ通報しなければならないと定められています。

すなわち、監理団体は不正に対して指導するだけでなく、その不正の存在を通報しなければ、法律違反になる、ということです。その内容にも依りますが、法律違反となると、監理団体の認可取り消しになりえます。

技能実習計画と違う実習を行ったことを表沙汰にしたくない場合、どう処理するでしょうか。

まず、監理団体が計画と異なる実習を行っていることを知りながらそれを通報しないと罰せられます。次に、技能実習日誌に実際に行った実習の内容を記載すると、計画とは違うことが明らかになり、罰せられます。あるいは、日誌の内容を計画通りに行ったと記載した場合、嘘の記載をしたことになり、罰せられます。

つまり、どう転んでも、バレたら必ず罰せられる、というわけです。

実際にはどうでしょうか。監理団体と受入企業とが共謀して、不正がバレないように隠蔽することが多いのではないかと想像します。監理団体は、実習生1人当りいくらという形で受入企業から監理費を支払われています。いってみれば、顧客である受入企業に対して、監理団体が厳しく処することは相当に難しいはずです。

政府は、今回の技能実習法を通じて、悪徳監理団体や不良受入企業を技能実習から排除することを目的としていたとも考えられます。基本的に、監理団体や受入企業を信用していないからこそ、このような厳しい法律によって監督しようとしたのだと思われます。

こうして、私自身は今回、技能実習制度について講義できるぐらいになりたいと思って受講しました。そのレベルに達したかどうかは不明ですが、技能実習法を遵守するだけでも、ネガティブ・イメージが蔓延する技能実習は相当に適正化するのではないか、と感じました。

政府は、今年4月から新しい在留資格「特定技能」を創設し、技能実習とは別の労働力としての外国人材を受け入れられるよう、入管法を改正しました。

その中身についてはまだまだ不明点が多いのですが、技能実習を3年終えた実習生の相当部分が「特定技能」1号へ移行することが予想されます。「特定技能」には監理団体は関われませんが、外国人材のリクルート・サポートを行う登録支援機関ができます(新設の出入国在留管理庁の認可が必要)。この登録支援機関が正しく機能できるかどうかが重要になってくると思われます。

以前、下記のブログにも書きましたが、技能実習を本来の意味での技能実習へ正していく必要があると考えています。

 インドネシア人技能実習生の活用に関するコンサルティングを行います

インドネシアの地域産業人材需要を知り、どのような人材が必要かを考え、それにマッチングできる日本の地域産業の状況を意識したうえで、インドネシアの地方政府の認知の下に技能実習生を日本で受け入れる。実習を終了しインドネシアへ帰国した後、彼らがどのように地域で貢献していくかをずっとフォローする。私自身は、これらを一貫して行なうことが可能です。

併せて、実習生を受け入れた日本の地域産業・企業が今後どのように地域経済振興・地域再生に関わっていけるのか、そうした外国人材を地域づくりのための戦力として生かしていけるかどうか、といったことにも関わることが可能です。

 外国人材を地域づくりの戦力に

インドネシア人の技能実習を行っている監理団体や受入企業などで上記のような助言を行うアドバイザーの必要な団体、外部役員や外部監査役が必要な監理団体などございましたら、matsui@matsui-glocal.com へご連絡ください。

また、新設の「特定技能」に関わるインドネシア人向けの登録支援機関の設立・運営についても、お手伝いできればと思います。インドネシアの現場と日本の現場を知り、技能実習関連講習を受講済、現地語(インドネシア語)で現地地方政府・企業等との適切なやり取りが可能です。インドネシアは全国どの地方ともコンタクト可能です。

関心のある方は、matsui@matsui-glocal.com へご連絡ください。

東京の我が家の庭に、遅咲きの梅の花が一輪咲きました。

しみずの里が福島市に4月オープン、入居者募集中

私がお手伝いしている、福島市泉のサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」は、いよいよ、4月1日のオープンへ向けて、着々と完成に近づいています。

 しみずの里ホームページ

この「しみずの里」では、デイサービス、居宅介護支援、訪問介護、訪問看護のサービスも提供します。食事は温かい美味しいものを毎回手作りで提供します。

ただ今、入居者を募集中です!

そして、正式オープンに先がけて、完成内覧会を開催します! 

日時は、2019年3月22日(金)・23日(土)の午前10時~午後4時まで。

この機会に、是非、環境の良さを実際に味わってみてください。

福島駅から飯坂電車で泉駅下車、徒歩5分です。当日は私もいる予定です。

他では味わえない、素敵な環境です。

いらっしゃったなら、必ずそれが分かります!

しみずの里」の南側の同じ敷地内には、国登録有形文化財「佐藤家住宅」があります。福島市内唯一の茅葺きの大規模古民家です。

この「佐藤家住宅」は、明治6年に建造され、広い芝生の庭園には、地名の由来となった「泉」が湧き、茅葺きの兜屋根、合掌造りの大空間、囲炉裏、蔵など、古き良き日本の原風景を感じられる空間がそのまま残されています。

「佐藤家住宅」を地域遺産として末永く守り続けるために、この空間から様々な活動が生まれる場づくりをしていきます。

もちろん、「しみずの里」の入居者の皆さんが、ゆったりと楽しく過ごせる場所として輝かせていきます。

大きな茅葺き屋根の風格ある古民家。四季折々に咲き誇る花々や様々な果実。吾妻山からの伏流水がコンコンと湧いてくる泉。

ベンチに腰掛けながら、大きな空を見上げるのもよし。

ウグイスの鳴く林の中で、タケノコを探すのもよし。

泉のなかでスイカやビールを冷やして、セミの声、夏を楽しむもよし。

近所の方々や子どもたちがふらっとやってきて、わっと歓声を上げる。

そば打ち名人もやってきて、美味しい日本酒を楽しむ秋。

囲炉裏の火を囲んで、外国から来られた方々と和やかに語らう夜。

音楽会や映画上映会、勉強会、セミナー、お茶会、薪能・・・。

何だか、ここにいるだけで温かく、ほっこりしてくるような・・・。

日本一、いや世界一幸せな場所になったらいいな、と思います。

そんな場所を「しみずの里」で一緒につくりませんか。入居される方は、その仲間だと勝手に思っています。

ご関心のある方は、matsui@matsui-glocal.com へお気軽にお知らせください。ご連絡をお待ちしています。

外国人材を地域づくりの戦力に

このタイトルにちょっと違和感を感じる方がいるかもしれません。なぜそう考えるのか。少し書いてみたいと思います。

2018年6月、ひょんなことから、北陸経済連合会の関連団体である北陸AJECが主宰する共同調査「北陸企業の外国人材の採用・活用-現状と課題-」のメンバーに加えていただき、報告書の1章を執筆することになりました。

この調査自体は、もともと北陸の大学などへの留学生を中心とした高度人材を地域がどのように活用するか、という観点から行われていたものです。ただ、北陸企業の現場では、やはり技能実習制度に係る問題が高い関心を示していることから、それについて私が担当することになったのです。この関連で、2019年3月26日に金沢市で講演することになりました。

2019年4月からは改正入管法による新たな在留資格「特定技能」が創設され、技能実習から特定技能へ、研修から労働力へ、大きな転換が進んでいくという見方がメディアなどに散見されます。現在、様々な角度から、この動きについてウォッチし、今後どのように改革を進め、方向性を打ち出していくのが望ましいか、自分なりに色々と思案中です。

それは、今まさに直面している人手不足問題にどう対応していくかという問題を超えて、これから20年、30年後の日本社会がどのようになっていくのか、どうなっていくのが人々にとって望ましいのか、幸せになるのか、ということまで構想(妄想?)したうえで、今の動きを捉えていかなければならない、と個人的に思っているからです。

たとえば、地域を再生・活性化させるには、「よそ者、若者、ばか者が必要だ」といった議論がありますが、どんな「よそ者、若者、ばか者」が必要で、彼らがどのように必要なのか、どのように振る舞うのか、といったことをより深く広く考える必要があります。

そこで、ふと思うのです。「よそ者、若者、ばか者」って、性別とか出自とかで制限されるのか、と。そして、日本人に限られるのだろうか、と。

「よそ者、若者、ばか者」が地域社会やそこの人々と関わるときには、適切な関わり方というものがあります。そこに移住するだけが関わり方ではないのです。時々住んでみたり、複数拠点の一つにしたり。遠くに住みながらもずっとその地域を気にしながら応援し続ける、というのもありだと思います。

そこで、次のような考えが頭に浮かびました。

人口流出や高齢化、過疎によって人口わずか1000人の地域。もしもその地域が好きで、気になって、応援したいと思う応援団が(たとえば)10万人存在すると分かったら、その地域は、そこに住んでいる1000人のためだけの場所ではなくなるはずではないでしょうか。

きっと、そこに住んでいる人には、なぜ、よその人が10万人も自分の地域を好いてくれているのか、分からないかもしれません。そこで言えることは、よその人には、そこに住んでいる人には感じられない何らかの価値や魅力を感じている、ということです。もしかすると、それは地元の人々にはあまりにも当たり前すぎて、何も感じないのかもしれません。

その地域が好きだというファンを、別に日本国内だけに限定する必要はありません。世界中にその地域のファンが何万人もいる、ということを意識した地域づくりや地域振興は、今までのそれとは確実に違ったものになるはずです。

この着想は、実は、高知県馬路村がどうやって存続し続けてきたか、ということから得たものです。馬路村農協の様々なユズ加工品を通じて、村の人口の何倍もの馬路村ファンが全国にいるのです。

海外の方々にもそうしたファンになってもらうことは可能ですよね。

村から若者が流出してしまい、若い世代といえば、外国からやってきた技能実習生ぐらい、というところも少なくないかもしれません。でも、3年もの長期にわたって地域で生活する彼らは、「よそ者、若者、ばか者」になれるのではないでしょうか。

日本国外で応援してくれるその地域の外国人ファン。その地域で生活する技能実習生たち。それらの外国人材を、地域づくりの戦力として活用する方策を考える時代になってきたのではないでしょうか。

地方にとってこそ、外国人材との共生は待った無しの状況です。外国人材を入れるか入れないか、という悠長なことは言っていられない状況だと思います。そうだとするならば、共生を超えて、地域の外国人材を「よそ者、若者、ばか者」としてどのように地域のために活用するか、を考え始め、準備する時期にもう来ているのだと思います。

「よそ者、若者、ばか者」って、性別とか出自とかで制限されるのか、と。そして、日本人に限られるのだろうか、と前述しました。外国人材だけでなく、様々な人材を地域づくりの戦力にしていくのだと思います。

そのために努力することは、必ずしも、英語を勉強することではありません。

それは、地域の魅力を高めることです。

地元の人が魅力だと思っていることと、よそ者が魅力と感じるものは同じとは限りません。それを意識しながら、地域の魅力を高める。それは新しく作った魅力でもいいのです。

そのためには、どうしたらいいのか。

このブログで、今後、折に触れて、私なりの考え方を示してみたいと思います。

なお、私自身は、日本だけでなく、インドネシアでもアフリカでも、世界中どこでも、地域づくりに関しては、まったく同じく、提示してきた(提示していく)考えです。

先日のインドネシア・中アチェ県の県都タケゴンの市場にて。
中アチェ県農業局の友人による撮影。
中アチェ県の地域づくりについて同様に考えていきます。

古民家の囲炉裏を囲んで新年の宴

1月5日は福島へ戻り、囲炉裏を囲んで新年の宴をしました。

我がオフィスのある福島市泉の敷地内には、明治6年に建てられた茅葺屋根の古民家で国登録有形文化財である「佐藤家住宅」があります。

そして、「佐藤家住宅」の北側に、30部屋ほどのサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」を建設中です。「しみずの里」は本年4月オープン予定で、入居者を絶賛募集中です。詳しくは、以下のサイトをご覧ください。ご興味のある方は、私のメールアドレスまでご連絡ください。

 しみずの里ホームページ
 しみずの里ブログ
 しみずの里インスタグラム

「佐藤家住宅」全景。手前の池は泉という地名の基になった泉。
145年前に建てられた「佐藤家住宅」はもともと養蚕農家の茅葺きの家で、
佐藤家は元県知事も輩出した名家。(2017年4月撮影)

今回の新年の宴は、「佐藤家住宅」と「しみずの里」に関わる方々の新年会でした。

囲炉裏を囲んで餅を焼き、福島の正月料理を食べ、竹を切った特製お猪口でとっておきの日本酒を味わう、という催しでした。

何といっても、福島を代表する正月料理と言えば、いかにんじん。松前漬から昆布を抜いたようなものですが、両者には関係があるようです。

「時代は幕末。幕府が梁川藩(現伊達市梁川町)と松前藩(現北海道松前町)の領地を移し替える国替えを行った。その時、いかにんじんが北海道に渡ったのか、松前漬が本県にもたらされたのかは定かではない」(出所:【食物語・いかにんじん】ルーツ謎めく名脇役 素朴な味わいと食感

下の写真の左上がいかにんじんです。

日本酒も美味しく、正月料理もはずんで、いつもよりずいぶん飲んでしまいました。寒かったですが、囲炉裏の火を見ていると、本当に心が和んでくるのが分かります。

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今年は、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」が4月にオープンするのに合わせて、国登録有形文化財「佐藤家住宅」を管理・運営するための法人化を含む組織づくりを行っていきます。

この「佐藤家住宅」をめぐる空間を、サービス付き高齢者住宅「しみずの里」の入居者だけでなく、地域住民の方々、外国の方を含む地域外の方々、子どもたちからお年寄りまで、誰もが楽しく、気持ちよく、生き生きと過ごせる空間にしていきたいと願っています。

よろしければ、「佐藤家住宅」を一度見にいらっしゃいませんか。また、この空間で何か催し物をしてみたい方、一緒に何かしてみたい方、古民家再生に関心のある方などいらっしゃいましたら、私のメールアドレスまでお気軽にご連絡ください。

勉強会、読書会、懇親会、ワークショップ、セミナー、お稽古ごとの練習、ゲートボール、子どもの遊び場、演奏会、映画上映会など、いろいろできると思います。

今年8月、ちょっと面白い企画がこの空間で行われるかもしれません。まだ構想段階ですが、どうぞお楽しみに。

しみずの里ブログも書いています

私の福島のオフィスは、明治6年に建てられた国重要有形文化財の古民家「佐藤家住宅」の敷地内にあります。この古民家は、庭も広くて、敷地面積は三千坪にもなります。

福島駅から車で10分足らず、飯坂電車の泉駅から徒歩3分、という街中に近いところに、こんな空間があるのは、奇跡と言えるかもしれません。

ここを何とかして守っていけないだろうか。そんな気持ちを持っています。

オーナーの佐藤さんは、この古民家の北側に今、サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」を建設中です。古民家と広い庭のある空間で、幸せを感じる暮らしをしてほしい。そんな願いからだと言います。

たしかに、この環境と空間でゆったりと老後の生活を送れるのは、すてきなことのような気がします。

そして、「しみずの里」の入居者だけでなく、近隣の地域の人々や古民家に興味を持つ人々、子どもたちや外国からのお客さんなど、様々な方々がここで交わり、幸せで楽しい気分ですごせるような、そんな場所になったらいいなあと思います。

そのような気持ちから、素人仕事ではありますが、しみずの里のホームページを立ち上げ、ブログを書き始めました。よろしければ、以下のサイトを覗いてみてください。

 しみずの里ホームページ(http://shimizunosato.com

また、ツイッターとインスタグラムも始めました。

 しみずの里(福島市)ツイッター(https://twitter.com/shimizunosato

 しみずの里インスタグラム(https://www.instagram.com/shimizunosato/

昨日は、地域の有志の方の「蕎麦と酒を楽しむ会」という催しが古民家「佐藤家住宅」であり、昼間から、美味しいお酒と打ち立ての蕎麦を楽しみました。

こんな雰囲気の味わえる、サービス付き高齢者向け住宅は、日本全国でも、あまりないのではないかと思います。

サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」は平成31年(2019年)4月のオープンを予定しており、現在、入居者を募集中です。

ご興味や関心のある方は、以下へご連絡ください。現地見学も承っています。

これからどんな空間になっていくか、していくか。とても楽しみです。

サービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」開設準備室
福島市泉字清水内3
Tel. 024-563-1695

佐伯で再びMALTA

9月22日、さいきミュージック・アートクラブ主催のMALTAコンサートのため、大分県佐伯市に来ました。

同クラブは昨年11月にMALTAコンサートを開催しましたが、今回は、MALTA氏の2度目の佐伯でのコンサートです。

筆者は、なぜか同クラブの会員にされてしまっており、今回のコンサートでも、会場でのポスター貼りやコンサート終了後の跡片付けなどに関わりました。

今回のMALTAコンサートですが、1回目よりも演奏する姿が元気で、ずいぶんノッていたように見えました。この1年で、佐伯がだいぶ気に入った様子で、演奏自体も、なかなか熱いものを感じる、とても充実したものでした。MALTA氏のほかの6人の演奏のレベルの高さも、改めて感じられたひとときでした。

観客の反応も昨年よりもずっとよく、楽しめたコンサートでしたが、観客数自体は昨年より少なかったのが残念でした。

今回の目玉は、コンサート終了後の「晩餐会」。会場を移し、MALTA氏とメンバー6人を招いて、彼らに対する慰労会のような催しです。

佐伯在住・出身、あるいは佐伯にゆかりのある声楽家、サックス奏者、ビオラ奏者、女性ダンサー・グループ、大分の有名な変面パフォーマーなどが次々に演じていき、それをMALTA氏やその他この会に出席した方々が一緒に楽しむ、という趣向でした。

下の写真は、会の終了時に、挨拶をするMALTA氏です。最後は、MALTA氏による三本締めでした。

おんせん県の大分県で温泉のない佐伯市は、市民有志が音楽で街を元気にする「音泉」都市を標榜して、昨年、任意団体である「さいきミュージック・アートクラブ」を立ち上げました。

佐伯は大分県の一番南端に位置して交通も不便なので、コンサートをしたアーティストは必ず1泊せざるを得ません。このため、それを逆手に取り、コンサートが終わった後に、地元のファンとの懇親の機会を作り、アーティストにとって思い出に残る場所として記憶に残したいという狙いがあります。

前回の佐伯での寺田尚子さんのコンサートの後も、懇親会があり、寺田さんが懇親会の場でいきなりバイオリンを弾き始め、ちょうど誕生日だった友人の前でハッピーバースデーを奏でる、といったハプニングも起こりました。アーティストにとっても、地元の方々にとっても、単に音楽を楽しむだけでない、一緒に触れ合える機会が作れるのは、地理的に悪条件だからこそなのかもしれません。

MALTA氏は本当に佐伯が気に入った様子で、コンサートのアンコール終了後、ステージから「佐伯に来年も来るよ!」と叫んでいました。

商業的な興行に留まらない、心と心のふれあいが生まれ、アーティストに愛着を持ってもらえるような街になることも、これもまた、一つの地域づくりの在り方だろう、と思い、支持していきたいです。何よりも、それは楽しいから。アーティストも地元の人々も楽しくなって愛し合えるような、佐伯がそんな街へ育っていく可能性を見つめています。

明日(9/23)は午前4時半の高速バスで大分空港へ発ち、羽田経由でスラバヤまで飛びます。今月3回目のインドネシア出張です。

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