初めての小湊鐵道、味のあるローカル線

1月11日に市原湖畔美術館での「宮本常一から学ぶ」のイベントに参加するため、五井から高滝まで、初めて小湊鉄道に乗った。市原湖畔美術館への最寄駅は高滝で、高滝駅から市原湖畔美術館までは徒歩で約20分だった。

JR内房線で五井駅につき、跨線橋上で、JRの改札を出ることなく、そのまま真っすぐ進むと小湊鐵道の乗換口。世話好きな小湊鐵道のおばさんが案内してくれる。

自動販売機で切符を買う。今回買ったのは、五井~高滝間の往復割引券。上総鶴舞と高滝の間が乗り降り自由の切符で、往復1420円。通常運賃は片道930円なので、往復で400円程度お得になる。

きっぷを買って跨線橋を降りると、小湊鐵道のプラットフォームだ。列車はすでにプラットフォームに待機、気動車だ。

車体にはKTKの文字。Kominato Tetsudo Kabushikigaishaの略なのか。キハ207。

台風19号の影響で、この日は五井から上総中野までは行かず、養老渓谷での往復運転だった。五井駅のプラットフォームには、なぜかイノシシの像が。その言われについて書かれたものは見当たらなかった。

五井駅の小湊鐵道の車庫には、少なくとも3編成が待機していた。

列車は定刻通りに発車。2両編成で、後部車両に車掌が乗っている。

車両内の天井には扇風機があり、中央部に排気筒、その脇に冷房用のエアコンが設置されていた。つり革は丸い輪がストレートにぶら下がっている。乗降口は一車両に前後2ヵ所のみである。

列車は、40~50キロ前後のゆっくりした速度で、左右にけっこう揺れながら、単線を走っていく。

車窓の外は、冬の農業地帯。水田はもちろんのこと、野菜畑なども広がる。現時点で耕作中のところはほとんどなく、枯れた草が放置されたままのところが多かったが、一部で耕作へ向けての準備をしているところも見られた。

途中の上総牛久周辺は商業・住宅地区となっていて、この沿線では最もにぎやかな地域だった。

他方、台風19号などの影響で、光風台駅前など、数ヵ所に倒壊したままの建物が残されていたほか、瓦屋根の一部が飛ばされた部分を青色のビニールシートで覆い、その上に土嚢などを置いて、風で屋根が飛ばないようにしている住宅も点々と見受けられた。

そうした家々は、五井から上総牛久までの間により多く見られたが、内陸の高滝の周辺でも見られた。それらの家の方々は、この正月をどんな気持ちで迎えられたことだろうか。

五井を出て40分ほど揺られながら、高滝に到着。高滝駅は小さな駅だった。

ちょうど、市原高滝湖マラソンが行われていて、高滝駅の手前の加茂公民館にたくさんのジャージ姿の老若男女の姿が車内から見えた。思ったよりもにぎやかな印象だったが、それはこのときだけだった。

イベントが終了し、市原湖畔美術館を後にした午後5時半頃には、もうすっかり辺りは暗くなっていた。昼食を食べる時間がなかったので、途中の寿司屋で空腹を満たした後、高滝駅へたどり着いたのは午後6時半過ぎ。駅には誰もいなかった。

プラットフォームへ出ると、線路にいた野良犬がギャンギャン吠えてくる。近寄ってくるでもなく、遠巻きにしながら、いつまでも吠え続けていた。

定刻通りに五井行の列車が到着。乗客は私一人だった。2両目の車両の唯一人の乗客。

乗客がいないせいなのか、列車の揺れが来たときよりもずいぶん大きく感じる。途中の上総山田駅から1人乗り、2両目の乗客は2人になって、そのまま五井に着いた。

小湊鐵道は、実に味のあるローカル線だった。乗降客数は年々減少しており、歌声列車やトロッコ列車など、ユニークなイベントも試みているが、間違いなく、存続の是非も問われてくる。

小湊鐵道をめぐる沿線の様々な物語をどのように様々な人々から手繰り出し、また新しい物語を作っていけるか、注目していきたい。

久々の新宿中央公園

昨日と今日は、所用で妻と新宿へ。用事を済ませた後、新宿中央公園へ久しぶりに行ってみた。

大学生だった頃はよく来た新宿中央公園だが、それからずっと長い間、訪れることはなかった。昔のイメージとはずいぶんと変わった気がした。

それでも、まだ秋の名残が感じられる景色に彩られていた。

イチョウ以外の木々の葉は、ほとんどがもう落ちていた。ちょうどお昼時で、南側からの陽の光がいい具合にイチョウを照らしていた。

少しだけだが、まだ紅葉も。

新宿中央公園の入口って、昔もこんなだったのだろうか。記憶が定かではない。

学生の頃に比べると、イチョウの色づきが2週間程度遅くなっている印象だ。

久々の新宿中央公園は、イチョウの色づきを楽しめた、のどかで穏やかな昼下がりだった。

昨晩、ベルリンの壁崩壊後の東欧諸国で、為政者が情報統制に精を出し、独裁色を強めていることを伝えるドキュメンタリーを視た。そこで起こっていたことは、まさにこの国でも起こっていること、そのものだった。

大田黒公園で紅葉を愛でる

12月4日に、福島第2原発視察を含む、福島イノベーション・コースト構想推進機構主催のツアーを終えて、富岡町からオフィスのある福島市へ向かうか、いったん自宅のある東京へ向かうか、悩んだ末に、東京へ戻った。

このところ、ずっと家にいないことが多かったり、天候の具合などのせいか、妻と紅葉を愛でる日にちがなかなかうまく取れなかった。そこで、12月5日は、例年通り、妻と紅葉を愛でに出かけることにした。

場所は、去年と同じく、荻窪の大田黒公園。

今年の紅葉は、昨年よりもやや遅めの感じ。昨年の今頃は紅葉の赤が冴えていたが、今年は、むしろ、緑色→オレンジ色→赤色のグラデーションの妙を楽しめた。

太陽の陽の光の当たり方で、微妙に葉の色合いが移ろいゆくのが、何とも言えず美しい。瞬間瞬間で色合いが変わっていく。絶対に人工的には作れない、美しさ。

そんな色の移ろいを観ながら、アフガニスタンで銃弾に倒れた、中村哲さんのことを思っていた。

上野駅から富岡駅へ

上野駅から特急「ひたち」に乗り、終点のいわき駅(昔は平駅だった)で乗り換え、富岡駅まで来た。

いわき駅から富岡駅までは普通列車だが、車輌は、昔の「スーパーひたち」の旧特急車輌で、乗り心地抜群。いわきと富岡の間を1日に2往復しているというが、それに乗れてラッキーだった。

富岡駅から見る風景には感慨深いものがある。

この写真は、2015年9月19日に撮影した、富岡駅の様子。ホームは残っているが、その向こうには、フレコンバッグの山が積まれているだけだった。

富岡駅の周辺もきれいに整備されていた。崩壊した建物はなくなり、新しい建物が立っていた。当時、駅すぐの場所にあった慰霊碑は、見当たらなかった(下の写真は2015年9月19日)。

常磐線は、富岡駅=浪江駅の間がまだ不通。来年2020年3月には全線復旧・開通となるばく、工事が進められている。それに合わせて、あの夜の森の桜並木も、避難困難区域を解除して、観られるようにしたいそうだ。

現在、夜の森の桜並木の一部は、まだ通行できないままだ。

束の間の福島市内の秋景色

11月11~12日は福島。11月12日の午前中、税務署と法務局へ行って書類を受け取った後、街中で束の間の秋を楽しんだ。

福島大学附属小学校のイチョウ。見事に黄色く色づいていた。こんなところにイチョウ並木があるのに気がつかなかった。

少し色づいた信夫山(三山のなかのこれは湯殿山)。前にある建物は、東日本大震災後の仮設住宅の跡。

信夫山の麓の福島県立美術館・図書館の紅葉。太陽の光が雲に見え隠れして、光の加減がすぐ変わるので、なかなかいい感じの光にならない。

わずか30分弱の、束の間の秋景色。

昨日、香港では、至近距離で警告なしに警官が若者へ発砲。今日の香港中文大学では、キャンパス内に警察が入り、6,000発の催涙弾が撃ち込まれた。

遊志庵を訪ねる

今回の大分・佐伯訪問の一つの目的が、佐伯にある遊志庵を訪ねることでした。

この遊志庵は、研究者である岩佐礼子さんという方がご親族の実家の古民家を改修し、地域の人々の憩いの場、よそから来た人たちとの交流の場にしようと運営されている場所です。詳しくは、以下の遊志庵のページをご覧ください。

 遊志庵

ゆったりとくつろげる雰囲気の空間で、しばし、岩佐さんと語り合いました。よそ者、古民家、地元学など、様々な共通用語が出てきました。

語り合いのなかで、地域と交わるといっても、それぞれの地域によって交わりやすさの温度差があり、こうした場所が必要だという認識がどう生まれてくるのか、といったことを考えていました。

急がず焦らず、自分自身も土の人の地域社会になじませつつ、風の人でもある自分の特性を生かしながら、土の人とともに、そこの風土自体と日常生活の中にある価値を認識していけるような活動になるといいなあ、と、私自身の今後の活動のことも含めて、思いました。

福島市の私の事務所と同じ敷地内にある古民家を、どのように地元の公共の場として生かしていくか。それが今後の私の活動の課題の一つだからです。

ともかく、皆さんも是非、遊志庵を訪れてみてください。ここから何かが始まるような気がしてくる場所です。

それにしても、JR代行バスで着いた海崎駅前から遊志庵までの道は、青空が映え、秋の深まりを感じさせる、とても素敵な風景が広がっていました。

雨の中、花菖蒲を眺めにいく

6月18日、日曜日の東京は、一日中、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でした。でも、この日は私たち2人にとって特別の日。

そう、もう20何回も過ぎた結婚記念日。一緒に、紫陽花や花菖蒲を見に行こうということになって、雨の中、出かけました。

スマホ・アプリの気象レーダーで雨雲の動きを確かめながら動いたはずなのに、途中で何度も激しい雨に出くわしたのは、日頃の行いのせいかもしれません。

行先は明治神宮。北参道の入口に紫陽花があり、明治神宮の中には菖蒲園があるので、両方見られる、ということで行ったのですが。

北参道の入口の紫陽花はたしかにありました。でも、数株程度、ほんの少し。「明治神宮で紫陽花って聞いたことないなあ」という妻の言い分がまあ正しかったようです。

一人500円を払って、菖蒲園へ行きました。いやー、色とりどりの様々な花菖蒲が咲き誇っていて、なかなか見事でした。

雨滴に濡れた花菖蒲は、美しさがより際立つように感じました。

菖蒲田はゆるやかにカーブを描いていて、周りの鬱蒼とした緑あふれる木々とともに、ここが本当に東京のど真ん中とは到底思えないような風景を作っていました。

ちょうど、真ん中に橋が渡されていて、そこが写真撮影のスポットとなっています。
あいにくの雨のおかげで、菖蒲田を訪れる人の数も少なく、じっくりと味わうことができて、とてもよかったと、ここはやはり、物事をポジティブに捉えてしまいます。

南池へ行くと、夕方近いというのに、白い蓮の花が見事に咲いていました。

明治神宮の参道の木立は、雨で靄のように烟っており、訪問者の少なさも相まって、一段と厳かな雰囲気を感じました。

明治神宮での散策を終えて、二人ともとても空腹になったので、帰宅前に、原宿の南国酒家(英語表記だと South China Restaurant なのですね)で少し腹ごしらえ。

久々の五目焼きそばに大満足でした。

マカッサルをバイクタクシーで歩く

今回のマカッサル滞在中、愛用したのがバイクタクシーでした。バイクタクシーはインドネシア語でオジェック(Ojek)と呼ばれ、バイクの後ろにまたがって移動するものです。

ジャカルタなどと比べると、マカッサルはこれまでオジェックが相対的に少ない町でした。1980年代ぐらいまで交通手段はベチャ(輪タク)と乗合(ペテペテ)が主で、あとは白タクをチャーターするという形でした。マカッサルにメータータクシーが現れるのは1990年代初めで、その後、タクシー会社の数は2000年代に入って急速に増えました。

インドネシアでバイクタクシーを初めてスマホで呼べる仕組みを入れたのは、ゴージェック(Gojek)という会社で、ジャカルタで開始したのは2011年頃でした。スマホのアプリで行く先を定めてバイクタクシーを呼ぶと、読んだ場所の近くのバイクタクシーが示され、あと何分で呼び出し場所へ着くか、行く先までの料金がいくらかがスマホ上に示されます。

マカッサルでゴージェックがサービスを開始したのは、この1〜2年ぐらいのことです。今回も、まずはゴージェックをスマホで呼んでみました。しかし、リクエストを出してからバイクタクシーを見つけるまでの時間が長すぎて、5分経っても見つからないような状況が何度もありました。

そこで、試しにグラブ(Grab)を使ってみました。

グラブだと、リクエストしてすぐにバイクタクシーが見つかり、しかも料金が同じ行く先でもゴージェックよりやや安く出ます。こちらの方がゴージェックよりも新しくサービスを始めたので、あまり知られていないということもあるかもしれません。

グラブだと、どんなに低い料金でも、終了後、以下のような形で、メールで領収証が送られてきます。

この領収証には、利用した時刻、バイクタクシーの運転手名、出発地と終了地の住所、料金の内訳と総額が明記されています。

ちなみに、ゴージェックだと、アプリには記録が残りますが、領収証はメールで送られてきませんでした。

ただし、アプリで呼んだときのナンバープレートの番号と実際のバイクのそれとが違うケースが多々ありました。グラブに登録したときの番号と違うのは、新しいバイクに買い換えた、たまたまその日は友人のバイクを借りた、といった理由でした。バイクタクシーは運転手のスマホで登録されているようなので、違う運転手が来るということはありませんでした。

今回は、マカッサル国際作家フェスティバルの会場までホテルから行くのに大変重宝しました。昨今のマカッサル市内は、ジャカルタほどではないにせよ、交通渋滞がひどくなっていて、バイクでの移動のほうが早いケースもよくありそうでした。

バイクタクシーに乗っていたおかげで、腕がけっこう日に焼けるということはありましたが、快適に市内を移動することができました。

他に、車を借りるグラブ・カーも使いましたが、こちらも通常のメータータクシーよりも半分ぐらいの料金でした。ただし、いくつかの場所に寄って、立ち寄った場所でしばし待ってもらうような場合は、行先変更が柔軟にでき、待たせることのできるメータータクシーのほうが適しているでしょう。

5月20日と21日に使った、私がいつも使っているレンタカーの運転手は、ゴージェックやグラブのようなシェアライドの普及で、商売あがったりと不満顔でした。彼とも長い付き合いがあり、なんとも複雑な気持ちになりました。

相馬・原釜で記念植樹

今日は、弟に誘われて、相馬市の原釜尾浜海岸で行われた記念植樹の会へ行って来ました。

この原釜は、小学生の頃、家族で海水浴に来たことのある海岸です。先の東日本大震災では、津波の被害を受け、ここでも多くの人々が犠牲となりました。

海岸から少し入ったところには、高さ約5メートルの堤防が築かれ、その堤防の上の公園で記念植樹が行われました。

開会式での相馬市長の挨拶などの後、各班に分かれて、苗木を植え始めました。海岸側にはクロマツの苗木を、内陸側には市民が選んだ広葉樹の苗木を植えました。私の班はクロマツの植樹、小さいシャベルで苗木を10本ぐらい植えました。

植樹を終了後、いったん集まった後、自分の名前を書いた杭を立てて欲しいと言われましたが、もはやどこに植えたのかわからない状況でした。やむなく、自分が植えたと思しき1本の横に杭を立てました。

慣れない作業で、シャベルを持った右腕が痛くなってしまいましたが、天候にも恵まれ、楽しいひとときとなりました。

でも、この植えた苗のどれぐらいが本当に育つのでしょうか。この堤防の土は山から削ってきた山砂で、栄養分がほとんどないそうです。今後、関係機関が手入れをしていく際に栄養分の補給もするのでしょうが、何とかうまく育って欲しいと思いました。

今週の後半は福島

3月16日から18日までは、福島市の実家に来ています。

もう少し早く東京の自宅を出る予定だったのですが、ちょっと色々もたもたして、福島に着いたのはもう夕方でした。

実家の周りは、数ヶ月前からアパート2棟の建設工事中。この土地を持つ地主さんが、実家の敷地を除く土地にアパートを建てています。それ以前は、何軒かの貸家があったのですが、それを全部壊して、アパートを建てているのです。

実家の近辺には、こうして新しく建てたアパートやこれから新しく建てるアパートが幾つも見られます。

ピークの時期はもう過ぎたようですが、福島市では、原発のある相双地区から避難してこられた方々の住宅やアパートの建設が数年前から盛んに行われてきました。除染関係者などの需要もあるかもしれません。実際、福島市でアパートなどの賃貸物件を探すのがけっこう大変だという話が数年前から聞こえていました。

この土地の地主さんは亡き父の幼なじみで、その由で、ずっと前から、借地に建てられた我が実家に対して、とてもよくしてくださっています。本当ならば、我が家の借地もアパート建設のために取り上げられていたに違いありません。

すでに、地主さんの息子さんと、実家の近くに住む私の弟との間で、土地に関する話もきちんと了解しており、母もしばらくは安心して実家で暮らすことができそうです。

今回の里帰りは、実家にいる母と色々と相談することが目的です。今後、福島にいる時間がこれまでよりも長くなるため、この実家にお世話になることも多くなりそうだからです。さっそく、色々と助言や要望を聞くことができました。

ジャカルタの夕陽と汚水(追記済)

出張最後の今日は、ジャカルタでいくつかの用務を行い、夕方から、たまたま一緒に便で帰国する友人とジャカルタの北海岸をまわってから、空港へ向かいました。

ジャカルタ市内にいると渋滞に巻き込まれるので、帰国便への搭乗時間まで、ジャカルタの北海岸にできた新しいスポットへ行ってみました。北海岸沿いのプルイット・シティというモール+高層アパートです。

ちょうど、日の入りの時間に近かったので、あまりいいポイントではありませんでしたが、夕陽を眺めました。

マカッサルの海に沈む大きな夕陽は何者にも代えがたく好きなのですが、ジャカルタの夕陽もまた別の趣がありました。

振り返ってみると、ジャカルタで生活していた時には、夕陽なんて見たことも気に留めたこともなかったように思います。でも、マカッサルでは、1990年代の滞在のときには、毎日のように、仕事を終えて帰宅後、幼い娘を抱っこしながら、家族3人で一緒に夕陽を眺めたものでした。

ジャカルタの友人たちが、フェイスブックやツイッターにジャカルタの夕陽の写真をアップしていますが、今日だけはその仲間に少し慣れたような気がします。

夕陽を満喫していると、突然、ドボドボドボ・・・という音が聞こえて、下の海を見ると・・・。

黄色く濁った水が海へ放出されていました。色や匂いからして、汚水ではないかと思います。その下の菅からは、色の付いていない水が放出されていました。

おそらく、このモールやアパートからの汚水でしょうか。汚水処理がきちんと施された後の水であることを祈るしかありません。

ジャカルタの意外に素敵な夕陽と、ドボドボと排水される黄色い汚水。その両方ともが、ジャカルタという街を象徴しているように感じられました。

下北沢の不思議な店でスープカレー

本当に久しぶりに、東京・下北沢へ行きました。

何を食べようか迷った末、スープカレー屋へ。実は、下北沢は有名なスープカレー屋が3〜4軒もある、スープカレー好きにはたまらない町でした。

寒い風が吹き付けるなか、今回訪れたのは、スープカレー・ポニピリカ。下北沢の北、肉屋直営のバルの上の2階にある、なかなか居心地の良い店でした。

スープカレー自体は、皮カリカリのチキン、チキンと野菜、野菜、ベーコンと野菜などから選び、ザンギ(タレに染み込ませた鶏の唐揚げ)、焼きチーズ、きのこ4種などからトッピングを選び、辛さのレベルとご飯の量を選びます。スープは、トマト、魚、エビの3種類のベースから一つを選びます。

今回は、特別メニューであるエゾシカ肉のハンバーグと野菜に、ザンギときのこ4種をトッピングし、辛さはやや辛の3、ご飯は普通盛り、スープはトマトベースを頼みました。

これまで、スープカレーというものをほとんど食べたことがなかったので、どう食べたらいいのか、よくわからなかったのですが、店のテーブルに食べ方が紹介されていました。

それによると、(1)スープを味合う、(2)ご飯をスプーンに乗せて、スープに浸して食べる、(3)スープの具を食べる、(4)最後にご飯をスープの中へ入れて、おじやのようにして食べる、ということのようです。まあ、どのようにして食べてもよいのでしょうが・・・。

この店のスープカレーは、注文を受けてからスパイスを配合するため、出てくるまで時間がかかるとされていますが、出てきたものは、予想よりもしっかりスパイスが効いていて、丁寧に作ってある印象があります。なかなかの美味しさでした。

この店は居心地がよく、すっかり落ち着いてしまったのですが、店の中に色々面白いものがありました。たとえば、画面に映し出されたクイズに全問正解するとカレーがタダになるとかいう「クイズBOX」というのがあり、他の客が挑戦して、ピンポーン、ピンポーン鳴っていました。今やレアな品らしいです(下写真の右側、カップルが遊んでいる機械)。

他には、次のようなラクダの人形。

吊る下げられたポーチからちょこんと顔を出しているなあ、と思って、中から取り出すと・・・。

ゼンマイ仕掛けの動くラクダさんでした。これはどの外国製のおもちゃなのでしょう?

机の上には、ヨーロッピアンな男の子の像がありました。他の机の上には、また別々の似たような像が置かれていました。

丁寧に作られたスープカレーを美味しくいただき、食後に飲んだオーガニックスパイスのチャイ(ホット)もいい味でした。

この店のホームページも、なかなか面白いです。

 スープカレー ポニピリカ

下北沢では、小田急線が地下になり、ガード下に密集していた商店が撤去され、駅前がきれいになって、昔の面影が失われつつあるように感じました。それでも、ちょっと北側を歩くと、シモキタらしさがまだ少し感じられるのでした。

我々の結婚生活の原点

今日は、妻の用事に付き合って、東京都内の某市へ出かけました。

この某市は、我々が結婚して初めて生活した街でもあります。駅周辺はすっかり変わり、新しいショッピングセンターができていました。古ぼけた公会堂は、新しいコミュニティセンターに変わっていました。

反面、我々が毎日のように利用していたスーパーマーケットはなくなり、家電量販店に変わっていました。路地裏にあったはずの八百屋も総菜屋もなくなっていました。

さて、我々が結婚して最初に暮らしたアパートはどうなっているのか、気になって行ってみました。当時は新築、今や築27年の中古アパートです。

まだきれいに建っていました。このアパートの2階に住んでいました。2DKの小さな作りでしたが、二人で生活を始めるには十分な広さでした。

ここが我々の結婚生活の原点、ともいえる場所です。

ここでの生活はわずか1年で終わり、その後、インドネシアへ赴任したのでした。

久々に歩いたこの街、「とても住みやすかった」という思い出がよみがえります。路地裏の雰囲気はあの頃のままでした。

この某市がどこか、もう分かってしまった方もいるかもしれませんが・・・。

巣鴨の知る人ぞ知る地元キャラ

先日、巣鴨駅前を歩いていたら、謹賀新年の看板とともに、クリスマス・イルミネーションの名残のような、灯りがキラキラ光っていました。

今の流行りは、青色なのでしょうか。そういえば、渋谷の公園通りの「青の洞窟」というイルミネーションが話題になっていました。

その巣鴨駅前のイルミネーションの下に、何かが立っていました。

見たことのないキャラクターでした。頭には角、いや兜をかぶり、腰に刀を差し、顔は鳥のようです。

巣鴨といえば、有名なキャラクターは、すがもんです。巣鴨地蔵通り商店街の公式イメージキャラクターで、地元ではけっこう有名です。巣鴨駅から地蔵通り商店街へ向かうと、商店街の入口に「すがもんのお尻」もあって、なでることができます。

私の持っている、小さいすがもんはこちら。

ちなみに、すがもんのホームページはこちらです。

 すがもんのページ

でも、今回、巣鴨駅前で見たのは、すがもんとは違います。はて?

新たな巣鴨のゆるキャラか、と思ったら、違いました。

巣鴨一丁目商店会のキャラクター、その名は「すいっち」でした。巣鴨一丁目の短縮形である「巣一」から来ているようです。次のページをご参照ください。

 すいっち:巣鴨紹介ブログ

キャラクターグッズがいろいろ販売されている「すがもん」に比べたら、「すいっち」は本当に無名のキャラクター、巣鴨の知る人ぞ知るキャラです。といっても、知らない人が圧倒的に多いように思います。

巣鴨のすがもんとすいっち。これから、両者がどんなふうに絡んで、巣鴨をより面白くすることに貢献するのか。あまり期待はしませんが、見ていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか

ずっと前から、故郷は一つでなければならないのだろうか、と考え続けています。

生まれた場所は一つしかないので、生まれ故郷は一つだけです。でも、「故郷」と呼べるような場所は、生まれ故郷と同じ場所である、とは限りません。

私にとっては、生まれ故郷は福島県福島市、その後、父の仕事の関係で福島県二本松市原瀬に2年、二本松市内に1年住んで、また福島市へ戻りました。

高校卒業まで福島市にいて、大学浪人中は埼玉県川口市、大学入学後は東京都東村山市、国立市、就職後は再び川口市、小金井市、そして、東京都区内に移りました。

さらに、インドネシアのジャカルタに2年、東京に戻った後、マカッサルに5年、また東京に戻った後、マカッサルに1年半、1ヶ月おいて再びマカッサルに2年、ジャカルタに3年、スラバヤに2年、そして今は東京に・・・、というふうに、点々としてきました。

これまでに挙げた場所はどこも、自分にとって、懐かしく愛おしい大事な場所になっています。何度か再訪するたび、そこで生きていた、生活していた自分(たち)を臨場感を感じながら思い出します。就職前までに住んだ家は、全てが跡形もなく無くなっており、自分(たち)がそこに居たという物理的な証は、もはや見つけることはできません。それでも、そこに行けば、いや、行かなくとも、行けなくとも、その場所とそこに居た自分(たち)を思い出すのです。

東日本大震災後に訪れた母校・
二本松市立原瀬小学校(2012年3月)

危険建築物として取り壊された
二本松市立原瀬小学校跡(2013年8月)

長く住んだ場所以外に、出張などでたくさんの場所を訪れ、色々な人々に会い、色々な思い出を作ってきたのですが、なぜか、それらの場所で思い出したくもない、嫌いになった場所を一つも思い出せないのです。

そんななかで、故郷は一つじゃなくていいのではないか、と強く思うようになりました。そのきっかけは、東日本大震災に伴う原発事故で突如故郷を失った人々の存在でした。自分の意思ではなく、ある日突然に、自分の居場所を去らなければならない、それも自然災害ではなく人災によって、というのは本当に理不尽なものです。それに加えて、自らの判断で自主的に避難した人々もいました。そんな様子を見ながら、自分の故郷でもある福島のことを思っていました。

強制的にせよ、自発的にせよ、避難した方々は、自分の生活の場である故郷を離れたわけです。新しい生活の場所をいずれ戻るための一時的な滞在場所と捉えるか、元の場所での生活を断念して新しい生活の場所と捉えるか、それは人によって、世代によって、場合によっては同じ家族の中でも、異なることでしょう。

でも、一時的な滞在にせよ、定住にせよ、今、生活している場所を「故郷」と思えるならば、そのほうが楽しいだろうし、気持ちも楽になるのではないか、という気がします。第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生も楽しいのではないか、と。

状況や立場は異なりますが、サラリーマン転勤族も、自分の意思とは必ずしも関係なく、あちこちへ移動します。彼らもまた、第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生になれば楽しいのではないか、と思います。

自分にとっての「故郷」がたくさんあればあるほど、自分の関わった人々が増え、自分のことを思ってくれる人々が増えていく。そんな場所が世界中いたるところにあれば、どこへ行くにも安心した気持ちになれるような気がします。

戸籍や住民票といった公式書類ではなく、そこを故郷と思ってくれる人を増やすような、ファンクラブのような試みを、日本中、世界中でやってみたら面白いかもしれません。それは、ふるさと納税の豪華賞品を介在させるようなものではなく、言葉にできないような、個々人にとっての愛おしさや思い出を大切にする、多くの人々に「故郷」と思ってもらえるような場所になる、ということです。

故郷を愛おしむのは同じ日本人に限ったことではありません。アニメやポップカルチャーの愛好者とは別に、日本に住んだことがあり、日本のために何かをしたいと思っている外国の方々は少なくありません。そんな方々のための「故郷」に日本が、日本の地方がなる、ということはできないでしょうか。

逆に私のように、インドネシアとの関係が切れなくなって、インドネシアのあちこちの地方を愛おしく思い、そこのために何かを一生懸命やりたい、と思ってしまう外国好きの日本人も多いことでしょう。

高知県馬路村は、ユニークな手法で村のマーケティングに成功した場所ですが、そこには、日本人全員の「故郷」になりたい、という彼らの願いが込められているのでした。

自分の「故郷」を増やすのは、ふるさと納税で興味を持った市町村から始めてもいいかもしれません。商品だけでなく、実際にその市町村へ行き、人々と出会う中で、本当の「故郷」になるかもしれません。物理的に人口が減っても、「故郷」と思う人が増えていくのは、それが新しい何かを生み出すきっかけになるかもしれないと思うのです。

私の「故郷」は、これからまだまだ増えていくことでしょう。というか、増やしていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか。そして、「故郷」の数をこれから増やしていきませんか。

近所の天神様で紅梅が咲き始め

妻と神社へ初詣した後、前から気になっていた天神様へもお参りに行ってみました。

この天神様は、いつもの散歩コースにあって気にはなっていたのですが、なんか小さな神社があるな、ぐらいにしか思わず、もう25年以上住んでいるのに、天神様だとも気付かずにいました。

名前は子安天満宮。あるいは菅原神社。れっきとした天神様で、もちろん菅原道真公を祀っています。

建立されたのは16世紀半ばで、江戸時代には、湯島天神、亀戸天神などと並ぶ有力な天神であったようです。

我が家の近くにこんな天神様があるとは。やはり、自分の足元をしっかり見つめていかなければなりませんね。

行くと、賽銭箱はなく、本殿の入り口のサッシ戸に小銭の入れ口があり、賽銭を入れられるようになっていました。賽銭を入れると、チャリーンという音が響きます。

本殿の両側には梅の木がありましたが、本殿に向かって右側の梅がもう咲き始めていました。紅梅でした。

春の訪れはまだ先ですが、今年一年、よい年となる希望を感じるような紅梅でした。もちろん、しっかりお参りし、お祈りいたしました。

改めて、皆さんにとって、素晴らしい年となりますよう、お祈り申し上げます。

元旦に銀座〜丸の内を歩く

2017年、新しい年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

早速、今年中に自分が実現したいことを7つ書き出しました。そのうちの1つは、このブログ「ぐろーかる日記」を毎日更新すること、です。

どうでもよいような、たわいのない内容もあるかと思いますが、お付き合いいただければありがたいです。

ところで、今日は夕方から、元旦の銀座から丸の内を家族3人で歩いてみました。年末からのイルミネーションで残っているところはどこか、と検討し、まず、汐留カレッタへ行ってみたら、あいにく、1月1・2日は全館休館のため、イルミネーションも休みでした。

でも、旧新橋停車場の周りでは、木々につけられたイルミネーションが下からLEDライトで照らされて、流れる音楽に合わせて色が変わる、という演出がありました。

そのまま銀座へ行くと、中央通りにはイルミネーションが輝いていました。

人通りの少ない、静かな銀座中央通りでしたが、聞こえてくる声のほとんどは、日本語ではありません。開いているH&Mの前にバスが乗り付けていました。

赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。どうやら、観光客が買い物を終えたのに、バスがなかなか迎えに来ない様子でした。

銀座から有楽町を通って、丸の内へ向かいます。この通りも人はほとんどいません。静かな通りでイルミネーションが輝いています。

通りには路上駐車中の車が何台か並んでいます。そのなかに、日の丸や菊の紋章をつけた車やバイクがあり、その周辺では、黒服を着た男性たちがお辞儀やらしている様子が見えました。

通りを車が通らないので、車道の真ん中で写真を撮っている人々がいます。その多くは、やはり観光客のようでした。

最後は、東京駅。

元旦なので、店のほとんどは閉まっていて、人通りもほとんどなく、とても静かな町並みでした。そして、出会う人々のほとんどは、日本語以外の言葉を話す人々でした。

そんな東京も、明日からは、徐々に日常の賑わいを取り戻していくことでしょう。こんなふうに、ちょっと非日常を感じられる元旦の東京もいいものです。

ただし、歩きながらちょっと小腹が空いても、飲食店も皆閉まっているので、自宅へ戻るまでは我慢せざるをえなかったのが少々辛く感じました。

晩秋の東京で遅ればせながら紅葉狩り

バタバタしているうちに、秋はどんどん遠ざかっていきました。

今年は無理かなと思いつつ、12月1日に某シンクタンクでインドネシア経済についてブリーフィングを行った後、翌2日、妻と一緒に東京の神代植物公園へ行きました。

東京なので、まだ紅葉は残っていて、なんとか間に合いました。

神代植物公園といえば、バラ園も有名ですよね。季節が晩秋ということもあり、咲き誇るという感じではありませんでしたが、バラも色々と咲いていました。ついつい、写真を撮ってしまいます。

これから冬を迎えるこの晩秋という季節に、はかなさというか、寂しさというか、しかし、心が満たされている、言葉にならない不思議な気持ちをいつも抱いてしまいます。

今年ももうすぐ終わっていくのだな。しみじみと、そしてぽつんと、そう思うのです。

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晩秋に出会えて一段落。12月7日から、急に入った今年最後のインドネシア出張(3泊5日)でスラバヤへ行ってきます。

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