自ら学ぶ地域を増やし、そう促せるよそ者を育てる

以前から、思っていること。

地域の人々は、自分たちが生活する地域について、どこまで知っているのだろうか。自分たちのところには何もない、と言って、よそから来るもののほうが優れている、素晴らしいと思ってはいないか。

よそのほうが優れている、素晴らしいって、何をもって言えるのだろうか。

自分たちしか持っていないもの、それは何か。

自分たちでは取るに足りない、大したことないと思っていたものが、よそ者にとっては、価値のあるものだったりする。そして、そこで、地域の人々は自分たちの持っているものが価値のあるものだと気づく。

でも、よそ者が常に正しいとは限らない。自分たちでその価値を確信できない限りは・・・。

今、思うこと。

地域の人々が、自分たちが生活する地域について、より深く持続的に自分たちで学ぶ機会を創る。

地域と地域をつなげながら、学ぶ機会を創るノウハウを他の地域へ広めていく。同時に、学び方、教え方の手法を深める。

そして、地域の人々の気づきを自然とうながせる、適切なよそ者を育てる、増やす。

よそ者は決して教えてはならない。気づかせるのだ。地域の未来を創るオーナーシップは、常に地域の人々にある。

すべては、地域の人々が、もうこれ以上、よそ者にだまされないために。よそ者は、地域の人々からもう必要でなくなれば、黙って立ち去るのみ。

私が教えないコンサルティングを標榜している理由、私なりの美学。日本はもとより、世界中のどこでも。

ただ今、東京でおこもり中です

スラバヤ出張中に体調を悪くし、帰国した12月1日はあまり具合がよくなかったので、ひたすら眠り、翌2日には、体調も回復し、正常に戻りました。

2日は、大学時代のゼミのOBの勉強会「竹内記念フォーラム」に出席しました。恩師である故竹内啓一先生(社会地理学)を偲び、教え子たちが自主的に開催しているもので、1年に2回開かれます。

毎回、OBの一人が発表、それを話題に自由討論するという形で、私もちょうど1年前、「宮本常一、地元学、メタファシリテーション:いまの私の活動を支える三本柱」と題して、発表しました。中身について興味のある方は、個別にご連絡ください。

その後、今週中に終わらせなければならない原稿作業が3本重なってしまったので、ここしばらくは、自宅からレンタルオフィスへ行って、こもって書いています。でも、量が多いためか、ちょっと遅れ気味です。

3本のうちの1本は、明後日発行予定の「よりどりインドネシア」第11号なのですが、もしかすると、1~2日、発行を遅らせるかもしれません。あらかじめ、ご容赦のほどをお願いいたします。

と、今回は、状況報告のみなのですが、最後に、ちょっとつぶやきを。

東京23区内で、オフィス、シェアオフィスあるいはコワーキングスペースが欲しいなと思っている方はいらっしゃいますか。一緒にそんな空間を作ってみたいな、と思っていらっしゃる方はいますか。

秋ももう終わりですねぇ。

遊志庵を訪ねる

今回の大分・佐伯訪問の一つの目的が、佐伯にある遊志庵を訪ねることでした。

この遊志庵は、研究者である岩佐礼子さんという方がご親族の実家の古民家を改修し、地域の人々の憩いの場、よそから来た人たちとの交流の場にしようと運営されている場所です。詳しくは、以下の遊志庵のページをご覧ください。

 遊志庵

ゆったりとくつろげる雰囲気の空間で、しばし、岩佐さんと語り合いました。よそ者、古民家、地元学など、様々な共通用語が出てきました。

語り合いのなかで、地域と交わるといっても、それぞれの地域によって交わりやすさの温度差があり、こうした場所が必要だという認識がどう生まれてくるのか、といったことを考えていました。

急がず焦らず、自分自身も土の人の地域社会になじませつつ、風の人でもある自分の特性を生かしながら、土の人とともに、そこの風土自体と日常生活の中にある価値を認識していけるような活動になるといいなあ、と、私自身の今後の活動のことも含めて、思いました。

福島市の私の事務所と同じ敷地内にある古民家を、どのように地元の公共の場として生かしていくか。それが今後の私の活動の課題の一つだからです。

ともかく、皆さんも是非、遊志庵を訪れてみてください。ここから何かが始まるような気がしてくる場所です。

それにしても、JR代行バスで着いた海崎駅前から遊志庵までの道は、青空が映え、秋の深まりを感じさせる、とても素敵な風景が広がっていました。

「勝手に師匠」を囲む会に出て

みぞれ混じりの冷たい雨の中、東京に来訪した私の「勝手に師匠」を囲む会に出席しました。友人から声をかけていただき、行ってみると、初めてお会いする方々もいて、なかなか楽しい会となりました。

私が「勝手に師匠」とお呼びする方は何人かいますが、今回のこの「勝手に師匠」は、地域の人々が主体となり、自分たちで自分たちの地域を元気にしていく手法を私が学んだ方でした。

「勝手に師匠」と勝手に名付けているのは、私が彼から直接教えを受けたわけではなく、彼のやり方を私が勝手に学んだためでした。私がこのやり方に出会ったのは今から16年前でした。

そして、どうしても本人に会いたくなり、2003年頃、勤務先の有休をとって、この「勝手に師匠」と、もう一人別の私の「勝手に師匠」も参加するある会合へ出るため、盛岡市まで追っかけをしてしまいました。そのときには、2人の「勝手に師匠」本人に会えた喜びで、とても嬉しく、感激したことを思い出します。

その後、インドネシアでその手法を使ったフィールド・ワークショップを3回、別々の農村において1泊2日で試行しました。JICA短期専門家として行ったのに、その手法でワークショップを行うと、その最後に、日本に援助を求めるような発言は村人から出てこないのでした。3回ともそうでした。

この手法は、外部者が関わることで、内部者が自分の足元に目を向け、自分たちの地域をもっとよく知ることによって、自分たち自身が地域を良くしていく主体であることを自覚して動く大事なきっかけを生み出します。

この手法は今こそ、日本の、そして世界中のコミュニティで必要とされているのではないかという確信があります。外部者がコミュニティ開発プロジェクトをスムーズに進めるための道具ではなく、そこのコミュニティの住民自身が自分たちで動いていくための手法なのです。このため、自分たちにとって楽しく、面白く、興味深いものでなければ、持続しないことになります。

大学の研究者にもこの手法を教える方がいらっしゃいますが、多くの場合、論文を書いたらおしまいで、外部資金がなければ、実践も含めた形で継続的に関わるケースは意外に少ないのではないか、という話が出ました。

私自身は、日本のローカルでも、他国のローカルでも、様々な形で、身近なところから実践していきたいと考えています。その際、自分が別に学んできたファシリテーション手法も合わせながら、より効果的なやり方を試みていきたいです。

この手法は、地元学といいます。きっと、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。

2001年に地元学と出会ったことが、その後の私の人生に大きな影響をもたらしました。

その意味で、「勝手に師匠」には勝手に深く感謝しています。まだまだ不勉強ですが、折に触れて、厳しく見守っていただけるよう、精進していきます。

我が家の梅が咲き始めました。

「日本はすごい」の裏側

「日本はすごい」という言葉をよく耳にします。そして、その言葉を聞いて、日本は本当にすごいと素直に感動する人もいれば、なんだかそういう言葉を胡散臭く感じる人もいることでしょう。

私は後者です。大体において、日本人が自分で「日本はすごい」という、あるいは外国人に「日本はすごい」と言わせて、日本人が喜ぶのはいいのですが、で、それで? と思ってしまうのです。

なんだか、「ねえねえ、私はすごいのよ」と自分で自分を慰めているような気になってくるのです。

そういえば、昔、ある時点から、就職のときの面接試験が変わったという印象があります。

私が面接を受けるときに先輩たちから言われたのは、「自分が自分が・・・」と自己中心的な態度で前面に出るな、分からないことは恥ずかしがらず正直に「分からない」と言え、聞かれたことにだけ答えなさい、というようなものでした。新入社員の自己紹介は、奥ゆかしい、自分は未熟者である、といった内容が多かったと記憶しています。

ところが、ある時期からそれが変わりました。面接では、「自分はこんなことができます」「自分はこんな素晴らしい人間です」と自己アピールすることが大事だという風潮になり、みんなそうし始めました。それは今も続いています。新入社員の自己紹介も、いかに自分は優れた人間であるか、いかに組織に貢献できる能力のある人間であるか、という内容へ変わっていました。

今や、採用する側も、自分が自己アピールして企業や組織に入った人間なので、そうした自己アピールは自明のこととなっているかのようです。

奥ゆかしい時代に社会人になった私から見ると、自己アピールで自分が優れた人間であると堂々と言える人々は、なんだか本当に優れた人間で、私の時代の人間の能力をはるかに超えて、素晴らしい世の中を作っていくのだろうな、と思ってしまうほどでした。

でも、現実を見ると、そんな「すごい」人たちを採用した企業や組織が厳しい状況に置かれていて、そこで働く「すごい」人たちの能力を発揮させていないように感じるのです。

何となくフツーであることが蔑まれるような、そんな雰囲気の中で、もしかしたら、自分自身を「すごい」と形容した人々が、実際の自分とのギャップに悩み、その形容どおりに演じることに疲れてしまっているのかも知れません。

そして、そういう人は、自分を「すごい」と思ってくれる人、そう言ってくれる人をどこかで探し続けているのでしょう。そう思ってくれる人、そう言ってくれる人がいてはじめて、自分の存在に安心できるのではないでしょうか。

今の日本は、もしかしたらそんな状況なのかなと思います。日本は「すごい」と誰かに言って欲しい、共感して欲しい。そして、自分は捨てたものではないと日本は自分で思いたいのではないでしょうか。

私は、本当にすごい人は自分を「すごい」などとは言わないと思っています。誰かに評価してもらいたいとも思っていないし、誰かと比べて自分のほうが優れているという思考にもならないのだと思います。それは、自分にとってはごくフツーのことであり、無理して背伸びをしたり、役職や立場に合わせて演じたりする必要もないのです。

だから、「日本はすごい」の裏側にあるのは、日本の自信のなさなのではないかと思うのです。自分に自信がないから、自分より弱そうな誰かをいじめたり、他人を侮蔑したりして、自分が彼らよりも上であると思い込みたいのです。

そんなことにかかわらずに、我々はフツーに生きて、自分を大きく見せて無理やり演じることもなく、楽しく過ごしていけばいいのではないか。そんなふうに思います。

本当にすごいならば、それは自分で「すごい」と言わなくとも、他人から「すごい」と言われなくとも、すごいのではないでしょうか。

地域づくりの勉強をしていて、私の勝手に師匠の一人から学んだことがあります。世界で一番すごい料理人は誰か、と。それは、家族のために毎日食事を作ってくれる母親や父親です。

それは、実にフツーのことです。1日3食、1年365日、毎年1095回、家族の健康を思いながら食事を作り続ける彼らこそ、世界で一番すごい料理人だと。

フツーであることが実はすごいことである、当たり前の中にあるすごさ、というのを私は学びました。

どうせなら、「日本はすごい」などという必要のない日本を目指したいものです。当たり前のすごさをきちんと認識しながら。