インドネシア研究と地域振興・地域づくりの二本柱

私自身は、元々、35年前からインドネシア地域研究を仕事としてきましたが、その途中で、25年前から地域振興や地域づくりについても自分なりに経験と専門性を深める努力をしてきました。
ですから、専門は何ですか、という質問に対しては、インドネシア地域研究と地域振興・地域づくりの二本立て、と答えるようにしてきています。
地域振興・地域づくりを強く意識するようになったのは、1995年に、インドネシア東部地域開発政策アドバイザーを務めてからでした。
それ以前の1993年から2年間は、日本の産業政策が東南アジア諸国の産業発展にとって有効かどうか、という課題に取り組んでいました。ちょうど、世界銀行から『東アジアの奇跡』(East Asian Miracle)という報告書が出て、市場原理主義だった世銀が日本型の産業政策に一定の評価を与えたことが注目されました。日本の産業政策のなかで、数社による寡占的な業種でいかにコンテストベースの競争政策を持続的に進めるか、という適切な政府介入、政府=民間の関係というものが議論されました。
その後、全く意識していなかった地域開発政策という分野へ入っていきます。それまでに行ってきた研究は、中央省庁よるマクロな政策が主であり、一国研究として「インドネシアは」というアプローチでした。
ところが、地域開発では、対象の地域が主語になります。それまで、日本の産業政策をサーベイするなかで、産業再配置政策の歴史的展開については調べていたのですが、インドネシアの各地域の状況については、一国という単位のなかで大まかにしか把握していませんでした。
実際にスラウェシ島最大の都市であるマカッサルに赴任して、インドネシア東部地域の各地や農漁村、離島部などの現場を歩きました。そこで地域開発政策の観点で重要なのは、政府と民間(住民)とがどのような関係をつくり、民間(住民)がイニシアチブをとれる環境をどう作っていくのか、それを促すための適切な経済的刺激をどのようにうまく入れて活用するのか、といった点であることを実感しました。それは、程度の差こそあれ、日本の産業政策における政府介入や政府=民間関係の在り方などとある意味共通するものであったことに気づきました。
地域開発政策アドバイザーとしてのメインの相手は地方政府であり、彼らの見解や考えが民間(住民)レベルでのニーズや意識を反映しているかどうか、どのように両者の適切な関係をつくることができるのか、それを彼ら自身が納得して自分たちでつかみ取れるか、といったことを考えながら仕事をしていました。
そして、アドバイザーであるから当然の提言や助言を出さず、彼らの気づきを促し、彼ら自身が作り出したと認識できるような、敢えて教えない、ファシリテーター的な政策アドバイザーを目指しました。
インドネシアでも、日本から来た専門家に対しては、すぐに効果の上がる、手っ取り早い解決策を求める傾向が強いものです。しかし、私は自分がその土地に馴染みの深くない「よそ者」であることを強く意識しました。解決策が必要であれば、それは、「よそ者」から与えられるものではなく、その土地の人々が自らのものとして編み出すものである、という態度で通しました。
インドネシアでのべ5年間の地域開発政策アドバイザー業務を終えて帰国し、派遣元のJICAで帰国報告を行ったときに、ある方から言われた言葉を忘れることができません。
曰く、あなたのやったことは評価できない。あなたが助言したから先方の政策に生かされたという検証ができない。何月何日に発した助言が何月何日にこのように政策に反映された、それは日本のおかげだ、というのがないと評価できない、と。
実際、私が提言した内容を地元政府高官が発言する現場には、何度も出くわしました。でも、それは借り物ではない彼の言葉でした。彼なりに私の提言を咀嚼し、自分の言葉で発言したのでした。それを「私がインプットしたからそう言った」と主張することは、自分にはできませんでした。
私は、ポリシーペーパーを書いてその通りやりなさい、と助言する政策アドバイザーにはなりませんでした。「よそ者」としてその土地に長くいる彼らと一緒に考え、ときには彼らからすれば頓珍漢なアイディアさえ入れつつ、議論の流れを見ながら再度私なりの意見を入れ、というプロセスを繰り返しました。
「よそ者」である自分が、その土地の未来に対して責任を取ることはできません。その責任を取るのはそこに暮らす人々であり、地元の地方政府です。ある意味、私なりの無責任を貫くことにしました。
それから今に至るまで、彼らとの関係はずっと続いています。ときには、アドバイスを求められることもあります。ただ、自分が果たしてどの程度彼らにとって役に立てたのかについては、胸を張って「これだけ役に立った」ということはできずにいます。
ただ、あのとき、あの時代を共有していた、一緒に課題の解決策を真剣に議論し合った、そんな経験が今も彼らを信頼する基盤になっているような気がします。おかげさまで、インドネシアでは、34州中28州を訪問し、地域振興等について真剣に議論してきました。
世間的にはこれでよいのかどうかは疑問ですが、これが自分のスタイルなのだ、と思うことにしています。
以上のような経緯を経て、今では、インドネシアでも日本でも、中央省庁と仕事をすることはあまりなくなり、地方自治体や地域コミュニティと一緒に何かをするほうへ比重が移ってきています。インドネシアへの出張も今や、ジャカルタではなく、ほとんどが地方への出張となりました。
果たして、日本でも上記のようなやり方や考え方は有効なのか、といつも自問しています。そのときに、参考になるのは、論文を多数書いた研究者ではなく、日本中の地域という地域を歩いてきた宮本常一氏のアプローチです。インドネシアの地方をまわる際にも、彼のやり方は本当に参考になりました。
そして、今、インドネシアの地域も、日本の地域も、その直面する根本課題が「地域アイデンティティをどのように持続・発展できるか」という共通課題であることを意識するようになりました。地域振興・地域づくりについて、インドネシアの地域と日本の地域とをパラレルに見ながら、この2国以外の地域についても同様ではないかと考えるようになりました。
国境を越えて、ローカルの視点から、地域と地域をパラレルに、あるいは複層的にみていくことで、国家単位では見落とされてしまいがちな、より本質的に課題に迫れるのではないか、という意識が自分には年々強まってきています。
というわけで、インドネシア地域研究(とくに政治経済の現状分析)は継続していきますが、それにプラスして、国家という枠組みを超越した地域振興・地域づくり(とそれが創る新しい未来像)を意識した活動を続けていきたいと考えていきます。
数え切れないぐらい堪能したインドネシア・マカッサルの夕陽。
自分にとって最も重要な景色の一つ。

都電荒川線沿いの可憐な花たち

我が東京の自宅の最寄り駅は大塚駅。JR山手線と都電荒川線(さくらトラムという別称があるらしい)とが交差する駅です。

大塚駅の周辺は、今の季節、地元の方々によって植えられた花々が咲き誇っています。とくに、大塚駅の南側、向原駅までの都電の線路に沿って植えられたバラは有名です。近年、大塚駅南口が整備され、駅を出てすぐの通路の両側にも、様々なバラが植えられています。
我が東京の自宅は、大塚駅の北側です。一昨日(5/26)、所用で郵便局へ出かけました。郵便局は都電の線路のすぐ脇にあります。たまたま、郵便局は混んでいて、ソーシャル・ディスタンスを守るため、郵便局の外に出て、順番を待っていました。
まだ10人ぐらい後だったので、外でブラブラしながら、都電の線路を眺めていました。子どもの頃から、電車を見るのが好きで、今でも、時間を忘れて、いつまでも電車を見続けていると幸せな気分になります。
よくみると、線路の間に、小さな黄色や白色の花がたくさん咲いていました。
それだけで春!という気分になるのですが、そこへ都電が来るのです。
こんな何の変哲もない風景、けっこう好きです。
足元に目を移すと、南口のバラほどは目立たないものの、色々な花が植えられていました。
そんな花々のなかで、特に目を引いたのが、次の花でした。
紅白の花で、上が白、下が赤。あまり見かけないようで、何だかよく見るような・・・。何という名前の花か、思いつかなかったので、調べてみました。
チェリーセージという花でした。
大輪のバラもいいのですが、こんな紅白の可憐な花もいいものだなと思いました。
春の大塚は、けっこう花を楽しめます。

村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

* * * * *

 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
* * * * *
教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

新自宅へ移るのはのんびりと

今住んでいる家の隣に、新しい家が建ちました。私たちの新自宅です。
庭から見ると、こんな風に見えます。向かって左側が、今、住んでいる自宅です。

2階+ロフトというつくりで、屋根には太陽光パネルと太陽熱ヒーターが載っています。
太陽光パネルで発電し、売電はせず、蓄電池に貯めて使います。冷蔵庫用などに電力会社からの電力も使いますので、完全なオフグリッドではありませんが、セミ・オフグリッド、という感じです。
すでに、3月半ばに鍵は引き渡され、内装は終わっており、後は引っ越すばかりなのですが・・・。

新自宅につけるスロープや家の周りのタタキ、門を含む外構がまだでき上がっておらず、まだ工事中です。
今日は、アマゾンに頼んだ宅配の荷物が「住所不明」ということで届かず、再配達される、という事態がありました。通りに面しているのですが、工事中で、どうもよく分からないまま、当方へ連絡することもなく、荷物を持ち帰ったようです。
万事がのんびりペースで進めているので、外構も終わっていないし、新自宅への引っ越しも当初の予定よりずっと遅れそうです。急がなければいけないわけでもないので、ゆっくり引越しするつもりです。
新自宅へ引っ越した後、今の家は、借家かシェアハウスにして、どなたかにお貸ししたいなあと思っています。また、敷地内にもう一軒ある、通りに面した建物は、シェアハウス(またはオフィス?)+私の仕事スペースにする予定です。いずれも、私たちののんびりペースで進めているので、いつ完成するか、まだ分からない状況です。
のんびりペースにお付き合いできる方に借りていただければ、お互いに居心地がいいのではないか、と勝手に思っています。
ご希望の方はいらっしゃいますか? いらっしゃったら、別途、個別にご連絡ください。庭には、花見のできる桜の木や柿の木などもありますよ。
新自宅の様子は、今後もおいおい、お知らせしていきます。

庭の桜に一輪の桜花

1ヵ月ぶりのブログ更新、となりました。

記録的な株価暴落を記録したこの日。

我が家の庭の古い桜の木に一輪の花が咲きました。

戦後、妻方の一家が東京に住み始めたときに植えられた木で、もう70年以上経っています。毎年毎年、そろそろ枯れるかと思いつつ、どうやら今年も咲いてくれるようです。

全体でどのぐらい咲くのだろうか。

今年も我が家の庭で、ささやかなお花見ができるといいな。

梅の咲き始め

数日前、妻と一緒に、東京の自宅からちょっと離れたところにある、子安天満宮菅原神社の前を通ったら、赤梅と白梅が咲き始めていた。

子安天満宮菅原神社は、名前のとおり、菅原道真公を祀る神社で、室町時代に巣鴨の保坂徳右衛門が屋敷神として邸内東の台地に勧請したとされる。江戸時代には、巣鴨・真性寺が別当となり、天神山と呼ばれていたらしい。

天神さまということで、合格祈願などが行われていそうなのだが、よくあるような絵馬などは見られない。社殿は閉められており、社殿入口の穴からお賽銭を入れるようになっている。

いつ来ても人のいない、静かな境内で、しばし祈る。

境内には、ゆずと思しき柑橘類がたくさん実っていた。

春はもうすぐ。1月が終わる。

福島市の冬の風物詩「光のしずくイルミネーション」

福島市の冬の風物詩といえば、「光のしずくイルミネーション」である。1月31日まで、福島駅東口広場とパセオ通り及びその周辺で、総電球数20万個が夜を光で彩っている。

今回の福島滞在でも、パセオ通りで眺めることができた。

今や、日本中のあちらでもこちらでも、LED電球を使ったイルミネーションが花盛りで、他と比較して際立たせるには、ただ光らせるだけではない、何らかのプラスアルファが必要である。それも、ポジティブなプラスアルファが・・・。

この福島市の冬の風物詩は、東日本大震災の後に始まったと記憶している。パセオ通りに植えられ、電飾を施された木の一つ一つに、福島に少しでも希望をもたせようとするかのような詩が一つ一つ掲げられていた。その詩に私も勇気づけられたものだった。

今は、それはない。電飾を施された木々だけが立っている。

人々は今、このイルミネーションに何を思うのだろうか。

一人ひとりの状況は違うだろうが、希望は取り戻せたのだろうか。新たな希望は生まれたのだろうか。

夕方5時過ぎ、イルミネーションの光るパセオ通りを行き交う人々の姿はほとんど見られなかった。

光のしずくは、どこか寂しげだった。

初詣に行って、初耳の「夏詣」

正月は1日、2日は家でゴロゴロしていたが、3日は近くの天祖神社へ初詣に出かけた。正月三が日を過ぎると、今年の破魔矢を得られなくなるかもしれないからだ。

我が家は、一応、天祖神社の氏子。初詣の際に、去年の破魔矢を神社に持っていって、新しく今年の破魔矢をいただいてくるのが、毎年の恒例行事。予想通り、初詣の人々で、天祖神社の前は行列ができていた。4列に並んで順番に拝礼する。

初詣に来た人のなかには、ご朱印をもらうために社務所に並んでいる人もけっこういた。へーっと思っていると、ご朱印をもらうためのご朱印帳も販売している。

拝礼してすぐ、ふと下を見ると、「都電神社めぐり」という冊子が置かれているのに気がついた。

ほおーっ、都電沿いの神社をスタンプラリーのようにまわるのか、と思ったら、飛鳥山の七社神社、雑司が谷の大鳥神社、そしてここ大塚の天祖神社の3社しか載っていない。

なぜこの3社、と思ったら、共通点があった。夏詣を行っているのである。

夏詣、とは初耳だが、神道の世界ではなにかそんなものがあったっけ?

「都電神社めぐり」には以下のように記されていた。

我々日本人は大晦日に「年越しの大祓」で一年の罪穢れを祓い清め、翌日の元日は新しい年の始まりとして、その都市の平穏を願い神社・仏閣に詣でる「初詣」を行います。その始まりから6ヵ月、同じく罪穢れを祓い清める「夏越しの大祓」を経て、過ぎし半年の無事を感謝し、来る半年の更なる平穏を願うべく、年の半分の節目として、7月1日以降に神社・仏閣に詣でます。

ほおーっ、そうなんですかと思っていると、すぐ次に次のように書かれていた。

この新たな習慣を「夏詣」と称して、我が国の守り伝えるべき風習となるよう、共に育てていきたいと思います。(夏詣実行委員会)

夏詣って、新しいものなのだった。もっと人々に神社へ来てもらうために、新しく作ったイベントのことだったのである。ちなみに、夏詣期間中(7月1~7日)は、限定のご朱印がもらえるとのこと。ご朱印をもらうのも一種のスタンプラリーだった。

あと10年もすると、夏詣するのが普通だって思うような世の中になっているのだろうか。この手のものは、結構たくさんあるような気がする。こうして、知らない間に、「伝統」とか「風習」とかが、場合によっては、何らかの意図を持って作られていくのかもしれない。そう考えると、どうしても敏感にならざるを得ない。

2019年大晦日、でも世界は常に動いている

2019年がもうすぐ終わる。

大晦日に紅白を視なくなって久しいが、今年は、TV5 Mondeでフランスのアニメ映画を視た後、BBCを視ている。昨年は、ネットで見つけた、ロシアの大晦日番組を家族で視ていた(今年やっていたかどうかは確認できなかった。残念)。

トップニュースは、米国によるイラクの親イラン組織への爆撃に抗議する、イラクの米国大使館への激しいデモの様子だった。そして、カルロス・ゴーンのレバノンへの逃走、オーストラリアの制御できない大規模な火災。香港では、年末年始、依然として大規模なデモが続いている。

世界は常に動いている。

そして、年末年始を厳しい状況で迎えなければならない、様々な境遇の人々がいる。

そんなことを思いながら、東京の自宅で、妻と一緒に、ナマスを作っていることが、ささやかではあるが、恵まれていることなのだと改めて感じ、それに感謝する。

想像力。他者への想像力をさらにさらに研ぎ澄ませていきたい。

1年の終わり。それは新たな始まり。

門松を立てる?

もうすぐ新年。我が家では、毎年、門松を立てる。長年知り合いの方が御用聞きにやってきて、塀の前の穴に門松を立ててくれるのが、年末の恒例行事の一つである。

門松といっても、大きな竹が3本立っている、よく絵にあるものではなく、このへんでは、細い松の木を立てるのが普通である。

我が家の近所の門松については、2019年1月に次のブログ記事を書いたので、参照してみて欲しい。

 我が家の近所の一風変わった「門松」

我が家の従来の門松は、上のブログ記事で説明したものよりもずいぶん小ぶりなものだ。でも、今回は、ちょっと様相が違った。知り合いが御用聞きに来なかったのである。

その理由は、今、自宅を建てていて、門や塀がない状態だから、のようである。

それでも、門松は立てたいよね、ということになり、毎年、正月飾りを買う屋台(御用聞きに来る知り合いがやっている)で小さい松の木を一緒に買って、自分たちで付けてみた。

小さい門松に輪飾りを付けた。まあ、とりあえずの門松。

自宅は2020年1~2月頃に完成の予定。来年は、通常通りの門松を立てられそうだ。

自ら学ぶ地域を増やし、そう促せるよそ者を育てる

以前から、思っていること。

地域の人々は、自分たちが生活する地域について、どこまで知っているのだろうか。自分たちのところには何もない、と言って、よそから来るもののほうが優れている、素晴らしいと思ってはいないか。

よそのほうが優れている、素晴らしいって、何をもって言えるのだろうか。

自分たちしか持っていないもの、それは何か。

自分たちでは取るに足りない、大したことないと思っていたものが、よそ者にとっては、価値のあるものだったりする。そして、そこで、地域の人々は自分たちの持っているものが価値のあるものだと気づく。

でも、よそ者が常に正しいとは限らない。自分たちでその価値を確信できない限りは・・・。

今、思うこと。

地域の人々が、自分たちが生活する地域について、より深く持続的に自分たちで学ぶ機会を創る。

地域と地域をつなげながら、学ぶ機会を創るノウハウを他の地域へ広めていく。同時に、学び方、教え方の手法を深める。

そして、地域の人々の気づきを自然とうながせる、適切なよそ者を育てる、増やす。

よそ者は決して教えてはならない。気づかせるのだ。地域の未来を創るオーナーシップは、常に地域の人々にある。

すべては、地域の人々が、もうこれ以上、よそ者にだまされないために。よそ者は、地域の人々からもう必要でなくなれば、黙って立ち去るのみ。

私が教えないコンサルティングを標榜している理由、私なりの美学。日本はもとより、世界中のどこでも。

アスティくん、さようなら

福島市の私のオフィスは、古民家「佐藤家住宅」とサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」の2つが建つ敷地内にある。

佐藤家のマスコット的存在だったのが、大きなオス犬のアスティくんである。今日(12/6)、定例の打ち合わせのため、佐藤家を訪ねると、アスティくんが先週、私が福島市を離れた後、亡くなったことを知った。

すでに火葬され、小さくなっていた。

先週、福島市のオフィスにいたときは、急に冷え込んだせいか、体調を崩し、床に横たわっていた。エサも受け付けず、だいぶ吐いた様子だった。

そこで、餌を水に溶かし、注射器で口の中に注入してみた。体内に食べ物が入ったせいか、少し元気になった様子で、自分で立ち上がろうとしていた。結局、立ち上がれなかったけれど・・・。

もう相当な歳だった。老衰だった。

私を見ると、尻尾を振って匂いをかぎに来たものだった。おじいさん犬だったが、可愛かった。他方、見知らぬ人が来ると、ガンガンに吠えまくった。

アスティくん、さようなら。あちらの世界でも、楽しく過ごしてね。

寒さをいっそう感じる季節になった。

大田黒公園で紅葉を愛でる

12月4日に、福島第2原発視察を含む、福島イノベーション・コースト構想推進機構主催のツアーを終えて、富岡町からオフィスのある福島市へ向かうか、いったん自宅のある東京へ向かうか、悩んだ末に、東京へ戻った。

このところ、ずっと家にいないことが多かったり、天候の具合などのせいか、妻と紅葉を愛でる日にちがなかなかうまく取れなかった。そこで、12月5日は、例年通り、妻と紅葉を愛でに出かけることにした。

場所は、去年と同じく、荻窪の大田黒公園。

今年の紅葉は、昨年よりもやや遅めの感じ。昨年の今頃は紅葉の赤が冴えていたが、今年は、むしろ、緑色→オレンジ色→赤色のグラデーションの妙を楽しめた。

太陽の陽の光の当たり方で、微妙に葉の色合いが移ろいゆくのが、何とも言えず美しい。瞬間瞬間で色合いが変わっていく。絶対に人工的には作れない、美しさ。

そんな色の移ろいを観ながら、アフガニスタンで銃弾に倒れた、中村哲さんのことを思っていた。

二の酉へ行ってきた

上野で打ち合わせの後、妻と一緒に、巣鴨大鳥神社の二の酉へ行ってきた。

巣鴨大鳥神社の酉の市、今年は一の酉が11月8日、二の酉が11月20日だった。一の酉のときは福島にいたので、今年は二の酉のみ。

酉の市では、もちろん、家内安全・商売繁盛を祈るとともに、毎年、小さい熊手を購入するのだが、それ以外の楽しみがある。

それは、巣鴨大鳥神社手前のパン屋さんが出す屋台でケーキドーナツを買い、揚げたてホクホクを近くの公園で頬張ること。そして、肉屋さんで揚げたてのメンチカツを買って、帰宅して食べること。

でも、今日はランチが揚げ物だったので、腹ごなしに巣鴨から歩いて自宅へ帰ってから、ドーナツとメンチカツをいただいた。北風が肌に冷たかった。

束の間の福島市内の秋景色

11月11~12日は福島。11月12日の午前中、税務署と法務局へ行って書類を受け取った後、街中で束の間の秋を楽しんだ。

福島大学附属小学校のイチョウ。見事に黄色く色づいていた。こんなところにイチョウ並木があるのに気がつかなかった。

少し色づいた信夫山(三山のなかのこれは湯殿山)。前にある建物は、東日本大震災後の仮設住宅の跡。

信夫山の麓の福島県立美術館・図書館の紅葉。太陽の光が雲に見え隠れして、光の加減がすぐ変わるので、なかなかいい感じの光にならない。

わずか30分弱の、束の間の秋景色。

昨日、香港では、至近距離で警告なしに警官が若者へ発砲。今日の香港中文大学では、キャンパス内に警察が入り、6,000発の催涙弾が撃ち込まれた。

未来の祀りふくしま2019、オーストラリア・チームとの3日間

8月8日朝、インドネシア出張からの帰国早々、東京の自宅にしばし寄った後、福島へ移動し、詩人の和合亮一さんと合流して、今年の「未来の祀りふくしま2019」を構成する二つのアーティスト・グループと会いました。

二つのアーティスト・グループですが、オーストラリア・チームとシアトル大学チームの二つです。実は、2018年12月28日、大雪の日、和合さんの誘いを受けて、この両チームの関係者とお会いし、福島でどのようなアート活動を行うのか、一緒にブレーンストーミングをしておりました。

そして、8月10日にはいわき市立美術館、11日には飯舘村の山津見神社で、オーストラリア・チームと和合さんとのコラボ・イベントに参加しました。これら一連の流れのなかで、地域とのアートの関わり方について、自分なりに色々と考えることができました。

今回は、オーストラリア・チームとの3日間について書きたいと思います。

8月11日、飯舘村・山津見神社でのコラボレーション・パフォーマンス

オーストラリア・チームは、和歌山大学の加藤久美先生、サイモン・ワーン先生、アダム・ドーリング先生が中心となり、ブリスベーンからパフォーミング・アーティストのジャン・ベーカー・フィンチ(Jan Baker Finch)さんとパーカッショニストのジョイス・トー(Joyce To)さんの2名を招聘しました。

チームは8月2日から9日まで、主に飯舘村に滞在して、どのような表現を作っていくかを練っていきました。飯舘村という地に根差した様々な場所(ひまわり畑、御影石加工所、製材所、廃材置き場など)を訪れ、関係者の方々から色々な話をお聴きし、その話とその場所にある音、色、匂い、風などを感じ踏まえながら、その場にて即興でパフォーマンス+パーカッションを試みました。

飯舘村での経験を踏まえ、それを咀嚼したうえで、8月10日、いわき市立美術館で「福島ー新しい光をさがして」と題するアートイベントに結実させました。このイベントは、ブリスベーンからの二人に和合さんを交えた3人によるもので、いわき市立美術館は、「人々が自然とともに生きる音や風景をテーマにした、ダンス、音楽、詩によるコラボレーション。三人のアーティストが、福島の風景、歴史、伝統、人々の暮らし、そこに込められた思いなど、『福島の美しさ(光)』を再発見し、表現します」と紹介しています。

 いわき市立美術館の紹介チラシ

パフォーミング・アートを含む現代アートを重視するいわき市立美術館の通路などの空間を利用して、このイベントが行われました。

美術館の入口から始まり、徐々に中へ中へ通路を移動し、その後、再び、入口のほうへ通路を戻り、最後は、階段の上で詩を詠む和合さん、そのすぐ下の通路で踊るジャンさん、階段の入口で音を奏でるジョイスさん、という動き。

観客が場所を移動する、という動きは面白かったのですが、実はいわき市立美術館では割と普通のことなのだそうです。

この3人、事前に大まかな流れを確認したのみで、入念な打ち合わせもリハーサルもなく、即興で演じていきました。

日本語が全く分からないジャンさんは、和合さんの詩の抑揚や声の大小、間の取り方から何を表現しているかをつかむ。そのジャンさんの動きが和合さんの詩の朗読のしかたに影響を与える。それを把握してジョイスさんのパーカッションが奏でられ、3人があたかも一緒に呼吸しているかのような、感じ、感じられる、誰かが誰かにただ合わせるのではない、3人の間の何とも形容しがたい緊張と共鳴の1時間が演じられていきました。

後で彼らに訊いたところ、ジャンさんは和合さんの詩の朗読における意図をかなり正確に把握していました。また、ジャンさんやジョイスさんのパフォーマンスの背景にある飯舘村の素材について、和合さんもそれを感じながら朗読をしていたとのことでした。

パフォーマンスの後は、オーストラリア・チームが飯舘村でどんな活動をしてきたか、映像を交えて紹介され、観客の皆さんと対話が行われました。

8月10日のいわき市立美術館のイベントについては、以下のような、いくつかのメディアで報じられました。

 鎮魂と再生願う「祀り」 詩、ダンス、音楽で表現 いわき(福島民報)
 福島第1原発事故 鎮魂と再生祈り 詩朗読とダンスコラボ いわき(毎日新聞)

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翌日の8月11日は、同じくこの3人で、飯舘村の山津見神社の社殿にて、コラボレーション・パフォーマンスを同神社へ奉納するアートイベントが行われました。

山津見神社は虎捕山津見神社とも呼ばれ、1051年に創建された伝統のある神社です。産業の神、交通安全の神、海上安全・豊漁の神、良縁結びの神、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳があり、地元の人々から信仰を集めてきました。山頂の本殿は、海上の漁船にとっての道標にもなったといいます。また、山神の神使としての狼に対する信仰が篤く、社殿の天井には、狼を描いた242枚の天井絵がありました。

震災後の2013年4月1日、社殿が火災により焼失しました。もちろん、天井絵もすべて焼失しました。

その後、地元の方々の深い思いを受けて、山津見神社を再建することになるのですが、天井絵の再現は不可能と思われました。しかし、天井絵が写真で残されていることが分かりました。

その写真は、焼失の数日前にたまたま神社を訪れた、前述の加藤先生とサイモン先生によって撮られていたのでした。二人は、写真をもとに天井絵を復元させたいと動き、東京芸術大学保存修復日本画研究室の荒井経先生に働きかけ、荒井先生と学生たちが「山津見神社オオカミ天井絵復元プロジェクト」として取り組みました。

そして、2015年6月、山津見神社の社殿は再建され、天井絵の復元作業も進められ、2016年8月11日、オオカミの天井絵242枚が神社へ奉納されました。

そうなのです。2019年8月11日は、復元されたオオカミの天井絵がや山津見神社へ奉納されてからちょうど3年目なのでした。加藤先生とサイモン先生は、天井絵が奉納されてから3年間実施してきたアートプロジェクトの集大成として、この日に、ブリスベーンからの二人と和合さんの3人によるコラボレーション・パフォーマンスを奉納したのでした。

加藤先生やサイモン先生の招きで、今回お世話になり、オオカミの天井絵の復元に注力してきた飯舘村の方々が社殿に入り、オオカミの天井絵の下で、パフォーマンスを観賞しました。

和合さんの締めくくりの詩は「狼」。彼もまた、山津見神社の焼失、再建、オオカミの天井絵復元の一連の流れをずっと注視してきました。人と自然とのつながり、人々を結びつける力、震災によって帰らなかった命、翻弄された人々の思い、残された自分たちの故郷への思い。そんな様々な思いを胸に、山津見神社の狼をイメージして作られた「狼」。和合さんは、ずっと前から、この山津見神社で「狼」を朗読したいと願ってきました。

この「狼」、実は2018年5月、和合さんをインドネシア・マカッサル国際作家フェスティバルに招待したときに、夜のメインイベントで、壇上で日本語のまま朗読し、会場で大反響を呼んだ詩でした。私が聴くのはそのとき以来2度目でした。

彼ら3人は、ここでも即興ベースで演じました。ジャンさんのまるで何かが乗り移ったかのような舞、ジョイスさんの絶妙なパーカッション、そして、復元されたオオカミの天井絵の下で和合さんが朗読する「狼」。

ものすごかった・・・。

場の力・・・。まさしく、ここで、この場所で演じられなければならなかったのだ、と実感しました。和合さんの「狼」はここで朗読されなければならなかったのでした。

天井絵のオオカミたちが3人に乗り移っていたのかもしれません。3人の間の緊張と共鳴に加えて、即興なのに、何かが彼らを導いていたような、そんな不思議な気分になりました。

いつの間にか、自分の左目から、すうっとひとすじの涙が・・・落ちていきました。

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即興と即興のせめぎ合いが、緊張と共鳴と結合を生み出す。あらかじめ作られた何かではなく、そのとき、その場所だからこそ作られた、奇跡のパフォーマンス。

それは、どうやっても、二度と同じには再現できない。その瞬間に立ち会うことでしか得られない、はかなく消え、しかし、ずっと心にのこるもの。

あれはいったい、なんだったのだろう。ずっとそれを思い続けています。

ブリスベーンからの二人が飯舘村での滞在から得たものがあるからこそ、それがいわき市立美術館や山津見神社でのパフォーマンス表現に結実し、だからこそ、飯舘村の方々にとってもよそよそしくない、自分たちのどこか深いところに、心地よく突き刺さってくるような、言葉にならない何かを感じていたのかもしれません。

そこではもう、演じる人と観る人という垣根がいつのまにか溶けて、両者とも同じ時間、同じ場所を共有して一緒に何かを創っている、という感覚になるのではないかとさえ感じました。

一緒に何かを創る。地域とのアートの関わり方の神髄もまた、そこにあるのだということを実感した3日間でした。

自宅の地鎮祭を行いました

私的な話で恐縮ですが、東京の自宅を新築することになり、本日(7/5)、地鎮祭を執り行いました。

これまで約2年をかけて、建築事務所とゼロから中身をじっくり話し合ってきて、先月、ようやく旧宅を解体し、地鎮祭にこぎつけた次第です。

我が家が氏子となっている天祖神社の神主さんの指導に従い、施工者の建設会社さんを中心に場所が設営され、スルメの結び方なども教授されました。

神さまをお呼びし、建設の進捗と家の安全を祈り、妻と私の施主2名で鍬入れを行いました。神さまにお帰りいただいた後、建設区域の四隅に、米と塩をまき、区域に沿って酒を注ぎました。

これまで、新築へこぎつけるまでには、様々なハードルがありましたが、これで建設へ向けての一つの区切りを終えることができました。

私たちの家族の色々な思いが詰まった新しい自宅、どんな家になるのでしょうか。順調に行けば、来年初めに完成の予定です。楽しみに見守っていきます。

日本は何によって外国人労働者に選ばれる国になるのか

●外国人が日本を選ぶ理由が議論されていない

「日本は、外国人労働者によって選ばれる国にならなければならない」という文言をよく聞く。韓国や台湾など、他のアジア諸国との外国人労働者争奪競争を意識したもので、そのためには、外国人労働者への法的保護を強め、これまでより働きやすい環境を整えることが必要、といった論調がみられる。

しかし、重要なことが一つ抜けている。すなわち、外国人労働者は何をもって日本を選ぶのか、その理由についての議論が全く見られないのである。

このこと一つとっても、昨今の外国人労働者をめぐる議論が、日本側、彼らを活用する側からの視点からしか行われていない、極めて一方向的な議論に終始していることが分かる。そう、政府も民間も、誰も外国人労働者側のことなんか本気で考えていないのだ。自分たちの人手不足が解消すれば、誰でもいいというような状況なのである。

なぜ外国人労働者は日本に来たいのか。他国ではなく、日本を選ぶのか。あるいは逆に、何を売りにすれば、彼らは自分たちの就労先として日本を選ぶのか。この辺りを、しっかりと調査した形跡はうかがえない。

外国人労働者への法的保護を強め、これまでより働きやすい環境を整えることは、もちろん重要である。その場合には、どれだけ他国よりも法的保護を強めるのか、働きやすい環境を整えるのか、ちゃんとアピールする必要があるのではないか。

地域おこしの一環で新産品開発・販売促進を試みる際、どこもかしこも同じような饅頭や漬物を作ってしまう、という批判をよく聞く。そのときに、他の類似製品と何が違うのか、同じ種類であればどのように他より優れているのか、説明できなければ、その新産品はアピールできない。お客さんから選ばれる商品にはならない。

もし政府が、選ばれる国になるために外国人労働者への法的保護を強め、これまでより働きやすい環境を整えるというなら、他国よりも優れている点をきちんとアピールすべきなのである。

もっとも、外国人労働者が、そういった点を重視して日本を選ぶかどうかは、やはり確認しなければ分からない。ただ、昨今のメディア報道や私自身のインドネシア人技能実習生・元実習生らとの関わりのなかから、見えてきたことがある。

高い賃金を理由に日本を選ぶ者もたしかにいる。でも、それ以上に、彼らが日本にあこがれる理由があるのだ。

それは、日本の高い技術・技能を学びたい、という理由である。

●日本で技術・技能を学びたい

彼らの頭のなかには、1970~1980年代の高度経済成長を成し遂げた日本のイメージがあり、それを体化させた日本製品の高品質への尊敬がある。彼ら自身、そうした日本製品を手にし、あるいは手にできなくとも、羨望のまなざしで日本製品を見ながら育ってきた。

時代は変わり、我々日本にいる者たちは、彼らのあこがれたそれは過去の日本であり、実際には多くの技術や技能における熟練が失われ、技の継承が難しい時代になっていることを知っている。家電製品を見るまでもなく、韓国や台湾や中国がもはや世界市場で重要な地位を占め、日本もそれら市場プレーヤーの一つに過ぎなくなったことは、国家としては悲しく寂しいことであろうが、急速に変化する時代のなかで、その現実をきちんと受け入れなければならない。

そこで、過去の日本にまだあこがれを抱き、それを学べるのではないかと思って日本を選ぶとするならば、受入側はどうすべきなのか。

もはや後継者はいないと思って継承を諦めていた技術や技能を、もう一度、引っ張り出してきて、彼らに教え込むことはできないだろうか。

発展を急いだ国々では、釘やネジを正確に造ったり、ハサミをきちんと研いだり、道具や工具や産業機械を自前で製造・管理したり、建築の際に安全に作業する手順など、そうした基礎的な部分が疎かなまま、最先端技術やIT/AIへ一気に飛びつこうとしている様子がある。何かあったときに、ベーシックへ戻って自前で問題を解決できる技術や技能が求められているはずである。

もっとも、それは外国人労働者だけでなく、日本人労働者でも同様なのだが・・・。しかし、日本人労働者がそうした現場に来たがらないという現実もある。日本人が見つからないから外国人、という安易だが背に腹は代えられない状況がある。

日本で技術や技能を学びたい、という外国人労働者が来たなら、受入側は彼らにきちんと教えてくれるだろうか。そうあってほしいと思うのだが。

●日本で学んだ技術や技能を活かすために

日本へ行ったら技術や技能が学べる、としても、日本で学んだ技術や技能が、外国人労働者の祖国や地元で生かされなければ意味はない。

そこで、外国人労働者が日本へ来る前に、できれば地元の政府や企業の関係者を交えて、日本でどのような技術や技能を学んでくるのが帰国後に地域への貢献になるのかを話し合い、適任な候補を選抜し、彼に地域からの期待を背負う形で日本の受入企業で学んでもらう、という道筋をつけるべきだと考える。

日本の受入企業側も、そうした使命をもって受け入れた外国人労働者を手荒に扱うことはできないはずだ。なぜなら、受入企業が長年培ってきた技術や技能を尊敬し、それを学ぼうとする稀有な人材は、いまや日本のなかで探し出すことが難しいからである。だったら、受入企業を敬う外国人労働者に対して、それを託し、たとえ日本でなくとも、世界のどこかで匠の技が伝承され、世の中に役立てるような形で伝承されていくことを望むはずだと思うからである。

もしこれが実現できるならば、技能実習制度は本当の意味での技能実習となり、技能実習生を受け入れて育てた企業は、収益や利潤だけではない、技術・技能教育機関として、日本の地域のなかに存続していく価値を持つことになる。地域に企業が残っていくための一つの方策として、本来的な意味での技能実習制度が活用できるのではないか。そうした企業を表彰し、指導者企業という称号を与えて行政が存続を支援する政策を採ることも有用である。

そしてまた、受入企業が当たり前だと思っている日常的な作業を再評価し、それが技術・技能修得プロセスをきちんと踏んでいることを「見える化」させることも重要であろう。それによって、作業の意味付けがより深まり、本当の意味での技能実習と意識できるようになるはずである。

●本当の技能実習で、日本を人材育成のコアに

私自身は今後、以上のようなことを実現させたい。技能実習制度を本当の意味での技能実習にする。そのことが、日本を他国から差別化し、技術や技能を学びに来る人材を引き付けたい。技能実習を通じて、アジアにおける人材育成のコアとしての役割を日本が果たすように促したい。

インドネシアの地方の現場と日本の地方の現場の両方を知る自分だからこそ、その両者のニーズをつなぎ合わせ、両方の地方にとってウィン=ウィンになるような仕組みづくりを試みたい。

地方政府や地元企業家と一緒に、技術や技能を学ぶ意欲と使命感を持った人材を発掘・選抜。その技術・技能を教え人を育てられる日本の受入企業を見つけてつなぐ。日本での技能実習プロセスをしっかりモニタリング。祖国へ帰国後、その人材が地域の現場で何をするのか、学んだ技術や技能はどのように活かされているのかについて、地方政府や地元企業家と一緒にずっとモニタリングしていく。

●だから私はインドネシアの地方へ行く

だからこそ、私はインドネシアの地方へ行く。自分たちの地方をどうしていきたいのか、真剣に考え、行動しようとしている地方へ行く。その地方が直面する様々な課題は、日本の地方のそれと本質的に変わるものではない。その課題を解決・緩和するためにどのような人材をどのように育成していくか。

それは、単なる数合わせではない。日本側で不足する人数を揃えて調達すればいい、という話ではない。地方の期待を背負った大事な人材を日本でしっかり育てる、ということなのである。前にブログで触れた、固有名詞で捉える世界なのである。

技能実習制度を本当の技能実習にする。これは、かつて日本の専門家が海外へ出て行って人材育成を行ったこととは逆に、外国から来た研修生に対して日本の受入企業が指導し、日本で人材育成を行う、ということである。これまでに海外での様々な人材育成のノウハウを蓄積してきたJICAやAOTSなどの政府機関が、技能実習制度を本当の技能実習とすることに役割を果たせる可能性があるのではないか。

●介護・看護でも、農業でも必要な人材育成

以上の話は製造業をイメージしていたが、介護・看護や農業でも同様である。

急速な高齢化が進むアジアでは、遠くない将来、多くの介護・看護人材が必要になる。日本は、そうした介護・看護人材を量的に育成するだけでなく、いずれ各国で介護・看護人材を育成できる指導者的人材を育てて輩出することを考えるべきである。今、日本で受入れている介護・看護人材をそのような目で育てていくことが求められてくる。

農業でも、技能実習では単なる労働力ではなく、農業経営のできる人材育成と位置づけるべきである。農業労働者ではなく農業経営者となった彼らは、帰国後、自分の農村でのリーダー的存在となり、村づくりや産品振興の先頭に立って、地域のために活躍できる人材となっていくはずである。

●特定技能は「労働者」、技能実習と明確に分ける

2019年4月から始まった特定技能は、研修生ではなく「労働者」という色彩が濃い。単純労働も可能という解釈であり、単に高賃金を求める外国人労働者は、こちらのカテゴリーに含まれていくことだろう。

ただ、少なからぬ企業は、特定技能では転職が認められることから、3年間縛り付けられる技能実習を選好するものとみられる。だとするならば、ここではっきり、技術や技能を教えて人材育成するならば技能実習、人手不足解消のための労働者として雇うならば特定技能、と分けるべきと考える。

そして、技能実習をきちんと行う企業は、たとえ経営が厳しくとも、人材育成企業として行政が称え、政策的な優遇措置を採って地域に存続させる。一方、労働者として特定技能ビザで雇った外国人労働者は、日本人労働者と同様の権利を認め、転職もやむなしとする。

もっとも、特定技能ビザで雇ったとしても、技術や技能の修得を図り、技能国家試験の上級に合格させるなど、人材育成に貢献した企業は、技能実習の場合と同様に、人材育成企業として行政が支え、地域に存続させることを考えるべきであろう。

●人材育成を通じて送り出し国の地方と日本の地方をウィン=ウィンに

日本が外国人労働者に選ばれる国になるために、外国人労働者への法的保護を強めたり、これまでより働きやすい環境を整えることは基本中の基本である。そして、技術・技能を学びたいという彼らも、いつまで過去の日本へのあこがれを抱き続けるかは定かでない。日本が彼らに選ばれる理由をもっと真剣に考える必要がある。

そして、彼らの評価が変わらない今のうちに、送り出し国の地方にとっても、受け入れる日本の地方にとっても、地域活性化の観点からウィン=ウィンとなるような事例・仕組みづくりを始めることに意味がある。

ここに書いたことは、理想論かもしれない。でも、ことインドネシアに関して、インドネシアと日本とをつなぐプロとして、私はそれを実現させたい。興味を持たれた方は、是非、ご連絡いただきたい。

そして、彼ら外国人労働者が単なる人手としてではなく、地域活性化にとっても戦力として生かしていける可能性について、別途、このブログで論じることにしたい。

伊藤若冲展を観に行く

今回の福島滞在中に行きたいと思っていたのが、福島県立美術館で開催中の「伊藤若冲展」。ようやく時間の取れた4月13日(土)、気合を入れて、開場時間の午前9時半に合わせて実家を出ました。

実家から会場までは自転車でわずか5分。今回はすごく混んでいるし、土曜日だし。でも、朝早くだったら、入れるかも。

でも甘かったです。

開場前、すでに長い列。ともかく、列に並びました。

雲一つない青空、快晴。天気がよくて良かったです。

行列に並んでから約30分経って、ようやく、美術館の中に入れました。

展示会場は5つに分かれ、若冲の作風の変化を順に追って観られるように配置されていました。でも、入館者がとても多くて、作品をじっくりと観ることができないほどでした。

屏風絵や襖絵などは、少し遠くから全体をゆったり眺めたいのですが、とにかく人が多くて、無理でした。

サクッと1時間程度で観るのを切り上げましたが、入館者はその後も次々にやって来ていました。バスを仕立てたツアーで来たお客さんもたくさん。すごいなー、若冲の人気。

個人的には、サクッと観るのを切り上げたせいかもしれませんが、前回の「若冲が来ました」のときよりはややインパクトが薄く感じました。

それでも、若冲の描く直線・曲線、線を組み合わせた構図の的確さ、迷いのなさがとても印象的でした。それ故に、作品の一つ一つが驚くほどシンプルに、観る人の心に迫ってくるのだと感じました。

穴のあいた蓮の葉。立ち上がっていくその姿を、福島の復興になぞらえて、力を与えてもらっている、という風に感じている、ようです。

若冲展の前半は今週いっぱいで終了し、一部の展示を入れ替えた後半が来週以降となるようです。

常設展を観て美術館らしさを少し味わった後、ふたつやま公園へ行って、雪を被った吾妻連峰と安達太良連峰に会いに行きました。

福島にいた子どもの頃、毎日見ていた吾妻と安達太良。今も福島に帰ると再会できて、ほっとした気分になります。私自身の脳裏に焼き付いた原風景がなのです。

隣の森合運動公園の桜が見事でした。

先週までの東京での桜に続いて、福島でも桜を楽しめました。

そして、毎月1回は行きたいと思っている常連の椏久里珈琲で、今月のケーキとコーヒーを味わいました。

焼きたてクロワッサンも追加!

おだやかな、春の福島の一日でした。

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