柳津の「小さな宿の勉強会」は今回でなんと第484回

1月12日は会津坂下で用務を済ませ、さて次はどこへ行こうかと思っていたところ、今回案内してくれる友人が、柳津(やないづ)へ行くというので、付いて行きました。

友人が連れて行ったのは、柳津温泉の「花ホテル滝のや」という宿でした。なんでも、友人は私をこの宿のご主人に会わせたい、というのです。まあ、私自身、特別な予定もなかったので、そこまで言うならお会いしてみよう、ということで同行したのでした。

着いてしばらくすると、行政関係の別の来客があり、成り行き上、事情も分からないまま、私も同席することになりました。皆さんの話の内容は分かりましたが、これまでの経緯や中身については全く関知しないので、ともかく、じっと黙っていることにしました。

このときの私以外の方々の議論について、ここでは触れませんが、地域の現場でよく見かける様々なものの一端がここにもありました。

この宿に私を連れてきた友人は、夜、会津坂下で用事があるということで、私は急遽、この宿に1泊するということになりました。そして、たまたま、その夜はイベントがあるので、それにもぜひ顔を出してほしい、と言われました。

そのイベント、というのが、「小さな宿の勉強会」花ホテル講演会、というものでした。今回で第484回。えーっ、484回も続いている勉強会って、いったい、どんなものなのだろうか。しかも、柳津という小さな町の小さな宿でそれが続いているとは・・・。

急に興味がわいてきたので、この会に参加することにしました。

宿のご主人から渡された資料によると、この会の第1回は2001年2月2日に開催されて、毎月3~4回ぐらいのペースで、ずーっと継続されています。

今回の第484回は、いなわしろ民話の会に所属する鈴木清孝さんという方が「会津の民話:親父の冬がたり(冬だからこそ、語りのおもてなし)」と題する講演でした。

福島県内の会津地方より面積の狭い都府県が全国で21あることや、冬の雪多き気候が豊かな水を作り出す場所として会津の「津」という意味があることなど、会津に関する豆知識をお話しいただいた後、いくつかの冬に関係する唱歌を皆で歌い、冬に関するいくつかの民話を会津弁で語ってくださいました。

参加された方々は高齢の方が多かったのですが、皆さん、民話が好きで、語り部をやっていらっしゃる方々でした。全会津民話の会という名前の下に、18団体、200人が会員となり、500~600話(基本は150話程度)の民話の語りを行っている、というのにも、軽く驚きました。会津ではまだまだ民話が愛されているように感じました。

鈴木さんの講演が終了すると、参加者が集って、オードブルや鍋を囲みながら懇親会へ移ります。今回は、県立会津大学の副学長を務めていらっしゃる程先生も参加されていて、とても熱心に皆さんのお話を聞いていましたし、私も個人的に色々とお話をすることができてとても有益でした。

間もなく500回を迎えようというこの「小さな宿の勉強会」を主宰している花ホテル滝のやのご主人である塩田恵介さん。まさに、地域な中で様々な人々をつなげ、それを地域に生かす種まきをずっと地道にされていることに深い感銘を受けました。それは、決してすぐに芽を出すものでも、成果主義に即した即効性のあるものでもないかもしれませんが、こうした営みが続いているということ自体に大きな意味があると感じました。

塩田さんはまた、柳津という一つの町に留まらず、奥会津地方の地域づくりに関わる方々のまとめ役も果たされていて、とくに、災害で一部不通となっているJR只見線の復旧に関して、沿線市町村と連携して動いていらっしゃる姿には、本当に脱帽です。まさに、奥会津、いや会津の地域づくりのキーマンの一人なのでした。

私の友人がなぜ、私を塩田さんに会わせたいと思ったのかがようやく理解できました。

そして、わずか数時間前にお会いしたばかりの私に、塩田さんはこの「小さな宿の勉強会」での講演を依頼するのでした。これは、快諾しないわけにはいきません。この3月に「グローカルな視点からみた地域づくり」(仮題)でお話しすることを約束しました。そして、塩田さんからは、只見線復旧と絡めて話してほしいとの注文も受けました。

宿の24時間かけ流しの快適な温泉に浸かりながら、この日の柳津での出会いの偶然と講演を含むこれからの柳津や奥会津との関わりのことをぼーっと考えていました。そして、やっぱり、現場に即すると、次から次へと色々なアイディアが湧き出てくることに改めて気づきました。

外は雪、マイナス13度の柳津で、温泉のせいもあるでしょうが、とても温かな、そしてしっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれた一日でした。

柳津に連れて来てくれた友人と塩田さんはじめ、「勉強会」でお会いできた皆さんに感謝申し上げます。

祈りだけでなく行動へ

新しい年、2018年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の自分のキャッチフレーズは、「祈りだけでなく行動へ」としました。毎年、家族の健康や世界の平和を祈ってきましたが、それだけでは不十分、自らそのための行動を起こしていかなければならない、と今年は特に強く感じました。

それでも今日は、東京の自宅近くの神社へ初詣し、しっかり祈ってきました。

23年間勤めた研究所を辞め、一人で動き始めて、今年で10年になります。これまでも、そして今も、試行錯誤の毎日ですが、一人で動けるということの意味をもう一度考えています。

日本のローカルとインドネシアのローカルをつなげて新しいモノやコトを創る、という活動を、さらに進めていきます。そして、日本のローカルどうし、インドネシア以外のローカルへの展開を試みていきます。

ここでのローカルには、地域社会・コミュニティ、地方自治体、地方企業、農民グループ、社会組織、そして地域に生きる個々の人々、を含みます。

ローカルとローカルをグローバルにもつなげていった先に、私なりの未来の姿があります。

それは、国や種族や宗教による勝手な先入観を抑え、同じ人間としての他者への想像力を深め、広げた世界であり、それを足元の日々の暮らしから発想し、意識する、ということです。

そのためには、暮らしから遠いところにある国家ではなく、暮らしに直結したローカルから発想する必要があると考えます。平和というものは、人々が自分の暮らしを第一に意識するところから始まるはずです。

ローカルは他のローカルの支配者になる必要はありません。国家という枠がはめられている以上、一つのローカルが世界中のローカルを支配することはできません。ローカルとローカルとの間に上下関係はありません。対等の関係でつながり、互いの違いを認め合うだけです。学びあいの関係をつくるのに適した関係と言えます。

そんなローカルが他のローカルを認め合いながらつながっていく世界は、国家が覇を唱え合うだけの世界よりも、あるいは覇を唱える国家の横暴を抑制させる、より安定した世界になるのではないか。

それは夢想かもしれません。お花畑かもしれません。でも、つながらずに、知らない相手を一方的に妄想し、相手を誹謗・中傷し罵声を浴びせるようなことは、個人のストレス発散の方法だとしても、決して許されるものではありません。だって、自分がそれをされたなら、決して嬉しく感じるはずがないからです。

国を知ることも大事ですが、同時に、そこで人々が暮らすローカルをもっと知り、その人々や彼らの暮らしへの想像力を高めることが必要です。

ローカルから始める意味はそこにあります。ローカルは暮らしと直結するからです。

そのような意味を込めて、これから仲間を増やす長い旅に出たいと思います。皆さんがそうした仲間に加わっていただけることを願いつつ・・・。

国境を越えて人々が学び合える時代が来ている

12月15日まで福島市にいましたが、とにかく寒くて寒くて、部屋の暖房が電気ストーブ1台ということもあり、書きものをしていると手がかじかんできて、体にこたえました。

東京へ戻ってくると、もう、福島よりはずいぶんと暖かく、こんなに違うものだと改めて感じいるのでした。

それでも、12月15日には、前々からお会いしたいと思っていた方とゆっくりお話しすることができ、とても有益な時間を過ごすことができました。そして、自分が目指そうとしていることは、まだほとんど手つかずの活動だということを確認できました。その辺の話は今後、追い追いしていくことにします。じっくりと始めていきます。

12月16日は、「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムに出席しました。トヨタ財団の助成を受けて、フィリピン、東ティモール、ラオスの農民たちが3カ国間を相互に訪問し、3者間で技術交換や学びあいの交流を行う事業の報告会でした。

この事業では、日本側は三者をつなげるための黒子に徹し、三者間の学びあいを深めていくプロセスを促す役目を果たします。彼らの交流のなかで、予期せぬ展開が続出し、そこからまた新たな学びあいが起こる、そんなワクワクするような事業に見えました。

たまたま、三者の農民はコーヒー栽培という点で話題の共通項がありましたが、コーヒーの栽培技術はもちろん、それ以外の農業における地域資源の生かし方など、同じ農民どうしで互いの学びが錬成されていきました。

支援ではなく交流、というのがこの事業の目的ですが、助成を受けている以上、何らかの成果を示す必要があります。通常の支援事業では、計画フレームが最初に作られ、それがいつまでにどれだけ達成できたかがチェックされ、費用対効果も重視されるでしょう。当初の筋書きにないものは、あまり歓迎されない傾向もあります。事業の実施前と実施後との比較で、どれだけ成果があったかを点と点で比べることになります。

交流も、もちろん、実施前と実施後との比較は可能ですが、何を成果とするかは難しいものがあります。学びあった後、そこで得た知識や技術がどう生かされたか、を測定するにはかなりの時間を要します。それよりも、学びあいのプロセス自体に農民たちは意義を感じているように見えました。何よりも、彼らが出会わなければ学びあいは起こらないし、出会っても適切な促しがなければ学びあいにはならないのです。

交流は長いプロセスを経て自ずと自分たちが変わっていくものでしょう。そうした変化の永続的なプロセスが交流の肝と言ってもいいかもしれません。成果を見せるためには、そうした長い永続的なプロセスの中で細かく小さな目標を設定して、それを少しずつ達成し続けていくことになるでしょう。

今や、こうしたフツーの人々が国境を越えて学び合える時代が来ている、という感を強くします。もちろん、それには、通訳者などの献身的な協力なしにはなしえないものでしょう。それでも、従来のような、進んだ国から遅れた国が学ぶという垂直的な「支援」「援助」だけでなく、同じ立場の人々が似たような立場の人々との関係を基本とする水平的な「交流」「学びあい」もまた大いに意味を持つものと認識されていると考えます。

そうした学びあいを日本が促すことに意味があると思う一方で、別に日本だけが促す必要もないとも思います。おそらくきっと、世界中には、同じような学びあいを促そうと動いている人々がいます。公的資金を活用するものもあれば、民間資金や寄付金を活用するものもあるでしょうが、そうした人々を探し出して、ビジョンを共有し、互いの活動を認識しながら、ファシリテーターどうしが緩やかに繋がっていくことで、様々な学びあいのネットワークが自発的に広がっていく、というイメージがあります。

私は、まずは一人で、やれるところから、そうした学びあいの促しを試みていきたいと考えています。ローカルからローカルをつなげ、単なる技術交換に留まらない、ローカルとローカルの学びあいにまで広がっていけたら、と思います。

そして、少しずつ、世界中を視野に、同じような志を持つ同志を探し出す旅、同志を増やしていく旅に出たいと思います。もしかすると、このブログを読んでくださっているあなたが、私の同志になるかもしれません。

16日の「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムは、その意味で、同志は確実にいる、学びあいは社会を変えていく、という確信をより一層強く感じた機会となりました。

シンポジウムの懇親会に少しだけ顔を出し、最近一緒に出かけることが少なかった妻と一緒に、しばし、丸の内など、冬の夜のイルミネーションを歩きました。

明日(12月19日)は、大阪へ日帰り出張します。

40年前までの福島市民が今また戻ってきた訳

今週は金曜日まで福島市です。おこもりでしていた原稿執筆が、終わってはいないけれども、今日でようやく目途がついたので、少し気持ちに余裕ができました。

福島市で法人登記してから、ちょうど今日で8ヵ月が経ちました。法人登記したのは4月11日、東日本大震災の月命日にあたります。本当は3月11日に登記したかったのだけれど、今年は土曜日だったので、無理でした。

あの震災がなかったら、自分は故郷の福島市に活動拠点をかまえようとは、きっと思わなかったでしょう。

震災の前年に亡くなった父が、私がまだ福島市で中学・高校に通っていたころによく言っていた言葉を思い出します。

父は、「福島に居るな。外に出ろ。できれば、日本の外へ出ろ」と何度も言いました。「世界のどこにいても、元気にしているならそれでよい」とも言いました。

私は、父のように、地元・福島で学校の先生になりたいと思っていました。何かを教えることが好きだったし、たくさんの教え子に囲まれる人生が素敵に見えたものです。でも、父は、私が自分と同じ職業に就くことを望んでいませんでした。そして、大人になってから、その理由がはっきりと分かりました。

父が満足していたかどうかは別として、高校を卒業した後、東京で一浪して東京の大学に入り、縁あって就職した職場では、インドネシアと付き合うことになりました。

そして、頻繁に日本とインドネシアを行き来し、ときにはインドネシアに長期滞在し、30年以上経った今でも、インドネシアとの付き合いは切れるどころか、ますます深みにはまっていく感じがするほどです。

福島がどんどん遠くなっていきました。インドネシアがどんどん近づいてきました。

一身上の都合で23年お世話になった職場を離れ、今度は一人で挑戦しようと動き始めてほどなく、父が亡くなり、震災が起こりました。

震災後の様々な社会の動揺や変化を見ながら、自分の人生にとって何か大きなパラダイム転換が起きたように感じました。豊かになることが幸せなのか。他人に勝つことが人生の目的なのか。生きるって何なのか。依存するって何なのか。自立って何なのか。

震災後の福島が、世の中の様々なものに翻弄され、ときには差別され、排除され、無視され、ズタズタにされていく様子を見ていました。ただただ、それに対して無力な自分を攻め続け、自分で自分を罵倒していました。

個人としては原発には反対だけれども、原発に長年真面目に関わってきた高校・大学時代の友人たちや、原発のおかげで幸せな生活が送れるようになった人たちのことを思いました。白黒なんて簡単に線は引けない。きれいな結論を出せなくなりました。

自分が今できることは何なのだろう。福島から出ていった自分は、福島にとってはよそ者です。でも完全なよそ者ではなく、出戻りです。そうした出戻りが、これまでの日本の地域づくりのなかで重要な役割を果たした事例をたくさん学んではきましたが、では、自分はどうなのか。

まずは、自分の立ち位置を定めること。福島市に法人登記したからといって、福島市から一歩も外に出てはいけないわけではないし、日本中、いや世界中、どこで活動してもかまわない訳です。でも、その出発点を福島市に定めた、という意味を法人登記に込めたいと思いました。

福島市を出発点として、福島市はもちろんのこと、日本中、世界中の必要とされている場所で活動し、その成果のエッセンスを何らかの形で福島へ返していく。逆に、福島での活動の成果やエッセンスを外の世界へ流していく。

そんな、福島と外とを行き来しつつ、福島と外の世界をつなげたり、外からヒトやモノやコトを福島へ取り込んだりしながら、その過程で新しい何かが生まれる触媒の役割を果たす。それが、今考える、自分なりの立ち位置ではないか、と思っています。

これをやるんだ、というものをギラギラさせているわけではありません。今の福島市にとって必要なモノやコトは何か、といつも考えています。もちろん、やりたいと思っていることは色々あります。

でも、すでにいろんな方がいろんなことをされていて、まずはそれを学ぶことから始めているつもりです。じっくりと、慌てずに、しかし本物の活動をしたり、促したりしていけるように、研鑚を積んでいきたいと思っています。

40年前まで福島市民だった自分の、根っこの部分とよそ者の部分のハイブリッドで、自分が一体何をしていけるか。動いていきます。

昔から、大好きな福島のリンゴを毎日、実家で食べられる幸せ・・・

福島、晩秋、オフィスと同じ敷地内にて

昨日(11/15)、福島に着きました。

秋はすっかり深まり、今日(11/16)は寒い一日でした。暖房のない冷えきったオフィスで、寒さに耐えきれず・・・。ともかく暖房対策を急がなければ。

私のオフィスのある敷地内の古民家と庭の景色も、すっかり晩秋の装い。どの季節も、この場所で見る美しさが、何とも落ち着くのです。

11月、12月。締め切り迫る原稿に向かいつつ、福島から自分が始めるモノやコトをじっくり仕込み始めたいと思っています。

佐伯のお昼はゴマだしうどんで完璧

佐伯で忘れてはいけない名物と言えば、それはゴマだしうどんです。11月13日、佐伯を離れる前に、市内で最も有名なゴマだしうどんの店である「味愉嬉」で味わいました。

通常のゴマだしうどんは、ゴマだしをうどんにたっぷり入れて食べる、というシンプルなもの。でも今回、マスターから提案されたのは、ちょっと変わった食べ方でした。

まず、お猪口のなかにゴマだしを入れ、それにうどんの汁を少し加えて溶かし、それにうどんをつけてまず食べる。うどんを食べたら、お猪口にカボスを搾り、ちょっとかき混ぜてから、うどんを入れて食べる。次には、それに柚子胡椒を加えて、うどんを入れて食べる。最後に、お猪口に豆乳を加えて、それにうどんを入れて食べる。という感じで、1回1回の味わいがどんどん変わる楽しみ、というものを味わいました。

ところで、ゴマだしというのは、見た目からは想像できないぐらい、相当に手間ひまをかけて作ったものでした。

ゴマだしの作り方は、味愉嬉のホームページに詳しく紹介されていますが、以下にその一部をコピペしておきます。えそというのは、砂地に生息する白身魚です。

  1. えその下処理をする(うろこ取り→頭・内臓取り→二枚におろす)
  2. えそを焼く
  3. 胡麻を炒る
  4. 胡麻を擂る
  5. 焼けたえその皮・骨を取る(骨は醤油と一緒に合わせる)
  6. 醤油を火にかけて沸騰したら冷ます
  7. 擂った胡麻とえそを合わせる
  8. 7に少しずつ醤油を加える
  9. 8を鍋に移し火を通し冷ます

マスターによれば、ゴマだしの良しあしは、えその下処理を終えるときにどれだけ水分を落とせるかにかかっている、ということです。水分が残ると、どうしてもゴマだしに生臭さが残ってしまうからだそうです。

うどんを美味しくいただいたあとは、おにぎりを頼み、それにゴマだしをたっぷり載せていただきます。

うーん、完璧なお昼になりました。

佐伯のお昼と言えば、もちろん寿司が有名ですが、このゴマだしうどんもさすがの味です。そして、実はほかにも、とても美味しいユニークなカレー屋さんがあるのです。

佐伯探訪はまだまだ続きそうです。

音楽で街を魅力的に!音泉街を目指す佐伯の試みは始まったばかり

おんせん県とも自称する大分県は、超有名な別府や湯布院(由布院+湯平)をはじめ、数々の名湯を抱えており、日本国内有数の温泉の数と量を誇ります。

しかし、県内のすべての市町村に温泉があるわけではありません。今回訪問した県南端の佐伯市には温泉がありません。その佐伯が今、もう一つの「おんせん」を掘り当てたようです。

温泉がないけん、音泉を目指す! 佐伯は、音楽で街を魅力的にしようと、市民有志が活発に動き始めています。その原動力となっているのが、佐伯ミュージック・アート・クラブという、結成後わずか半年にも満たない団体です。

この団体の催し物に参加した時の記事を、以前、このブログにも書きました。参考までにリンクを貼っておきます。

 音楽を愛する人々に満たされた佐伯での夜

11月11日は、佐伯ミュージック・アート・クラブの今年の活動のメイン・イベントとも言える、サックス奏者マルタのコンサートが佐伯市民会館で開催されました。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

マルタ氏にとってはもちろん始めての街です。しかも、コンサートの冒頭で「街中に誰も人影がなく、静かな街だなあという印象でした」という語りがありました。きっと、このような田舎町で、果たしていいコンサートができるのだろうか、という不安もあったかもしれません。

実際、少なからぬ観客は、「マルタって誰や?」「ジャズというものを聴いたことない」「孫と一緒に来てみた」という方々のようで、マルタ氏が不安に思ったとしても不思議ではなかったのです。

実は、私も初めてマルタのコンサートに来たのでした。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

午後6時に開演。そして午後8時半に終演するまで、休憩は一切なし。70歳になろうというマルタの驚異的な体力と演奏力に、ただただ圧倒されました。

さらに、一緒にセッションを組んだトランペット、ドラム、ベース、アコースティックギター、ピアノ、トロンボーンの演者たちの質の高さ。

最初はちょっと探りを入れる感じだった演奏でしたが、中盤の「チュニジアの夜」あたりから演奏にノリが加速度的につき始め、最後は、演者全員がノリにノッた演奏を見せてくれました。

終演してもなかなか鳴り止まない拍手。アンコールの異様な盛り上がり。少なからぬ観客が今日初めてマルタを知ったいうことを考えただけでも、このレベルのコンサートを佐伯で聴いているということの意味の大きさを感じずにいられませんでした。

コンサート終了後、マルタのCDを買った観客にその場でサインするというサービスもあり、長蛇の列ができました。CDも予想以上に売れたようで、マルタ氏は観客との写真撮影にも気軽に応じていました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの関係者の話では、マルタ氏はかなり満足したらしく、「生きていたら来年も来ようかな」と言ってくれたそうです。マルタ氏にとっても、佐伯でのコンサートの記憶が心のどこかに残ってくれるといいなと思いました。

今回のコンサートでは、佐伯ミュージック・アート・クラブのメンバーが、朝から晩までボランティアで懸命に運営していました。何せ初めてのことで、戸惑うことも多く、学園祭のような雰囲気でもあったのですが、無事に終わることができて何より、本当にご苦労さまでした。

そして、メンバーだけでは足りず、他の人にも手伝ってもらったのでした。例えば、開場前に一番に並んでいた延岡から来た見ず知らずの男の子に、受付でのCD売りの手伝いをしてもらい、彼は夜の片付けの最後まで残っていました。中学生たちにもCD売りの呼びこ役をしてもらっていました。そんなことが嫌味なくできる雰囲気というのも、悪くないなあと思いました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの活動が始まってから、佐伯市内在住者や出身者で音楽に関わっている人々が次々に発掘されていきました。意外に多くの人が音楽に関わっていることが明らかになり、ジャンルもジャズ、クラシック、その他へと広がりを見せています。

音楽のいいところは、言葉はいらず、とにかくみんなが無条件に楽しくなれること、思惑や企みとは対極にあること、ではないでしょうか。そして、音楽は人を集めます。集まった人が、たとえ知らない同士でも、繋がってしまう。あの、開場一番乗りの初めて会った男の子がボランティアになってしまうように。

そんな力を感じました。

楽しくなければ、音楽ではない。楽しくなければ、まちづくりではない。

次のビッグ・イベントは、2018年3月11日、ジャズ・バイオリニストである寺井尚子のコンサートです。

音泉街を目指す佐伯の挑戦はまだ始まったばかりですが、これからも注目です。応援していきます。

Co-minkan 第1号を訪問しました

9月30日の夜に帰国して、翌10月1日の朝、Co-minkan 第1号のオープニングを見るために、横浜市保土ヶ谷区まで行ってきました。

Co-minkan 第1号になったのは、保土ヶ谷区役所の近くにある峰岡公園の向かいのカフェ「見晴らしのいい場所」という小さな場所です。元はスナックだったというこじんまりとした場所で、Co-minkanが始まったのでした。

Co-minkan というのは、もちろん公民館から来ているのですが、行政が運営する公民館ではなく、民間で作る「こうみんかん」を企図しています。

地元の人が気軽に立ち寄り、お茶でも飲みながら、いろいろおしゃべりをする。そこに行けば悩みや相談を聞いてくれる人がいる。わいわいやっている間に新しいアイディアが浮かんだり、面白いことを思いついたりする。なんだか楽しくなる。

そんな空間を、気軽にみんながあちこちで作り始めたら、もっと温かい人と人とのつながりを意識できる世界が広がっていくのではないか。

Co-minkan は、誰でもそんな空間を作れるようなノウハウを広げることを目的としているようです。どこに作るか、どんな内装デザインにするか、どれぐらいの頻度で開くか、誰を誘うか。いくつかの事例を想定しながら、空間のつくり方を一緒にゆるーく伝えていこうとしています。

Co-minkan 普及実行委員会共同代表の横山太郎さんは地元のお医者さんですが、最近、自分が患者さんに伝えてきたことが、実はよく理解されていなかったことに気づきました。それは自分の伝え方に問題があったのではないか、と自問し、もっとじっくりと肩肘張らずに対話のできる空間を作りたいと思い始めたそうです。そこへ、コミュニティ・デザインで地域づくりを支援してきたStudio-Lが関わって、この Co-minkan を始めてみようということになったのだそうです。

オープニングには、近所の皆さんも集まり、ゆるーくいろいろおしゃべり。

子供たちは、公園でシャボン玉飛ばしをして遊んでいます。カフェのスペースは狭いのですが、目の前の公園に飲み物を持ち込んで、実質的に公園もカフェの一部になってしまうような場所です。

この取り組みが興味深いのは、何か場所を作っておしまいなのではなく、こうした空間の作り方を興味深く伝えることで、「自分でもつくれそう」「つくってみようかな」と思わせ、そうした動きを日本各地、いや世界各地へ広げて行こうとしていることです。

そんな Co-minkan のつくり方のゆる〜い「マニュアル」を製作するために、クラウドファンディングを募っています。下記のページを参照のうえ、できれば是非ご協力ください。

 毎日を楽しくするために「こうみんかん」をあなたの地域に!

オープニングに参加しながら、いろんな Co-minkan のあり方に想像を巡らせていました。時限的なものもいいし、山間地域ならば移動式のもありうるし、毎月順繰りに地域の方の家の一角をそうしてもいいし・・・。

でも、一番大事なことは、「対話」ではないでしょうか。相談事だけなら、ネットに投げれば誰かが答えてくれます。でも、面と向かって対話をすることで、より一層の安心感と満足感が得られるのではないでしょうか。

対話の場を簡単にゆる〜くあちこちに作っていけたら、今よりも少しは温かい気持ちを広げていくことができるのではないかなあ。まずは自分の身近なところから。

私は、Co-minkan の取り組みに賛同し、自分もそんな空間をつくっていきます。そして、そんな仲間を日本各地に、世界各地に増やしていきたいと思います。

リボーンアート・フェスティバルを垣間見る

ずっと行きたくてなかなか行く機会がなかった、リボーンアート・フェスティバルにようやく行くことができました。

開催地は、宮城県石巻市と牡鹿半島で、「アート・音楽・食の総合祭」と自ら呼んでいます。特色としては、小林武史氏を中心とするAPバンクが資金提供し、行政が主導していないことです。それゆえ、アーティストが自由に様々な表現に挑戦することができる、ということのようです。

本当は一つ一つじっくりと作品を味わいたいところですが、そうも言っていられないので、今回は、手っ取り早く、1日ツアーに申し込みました。このツアー、東京から日帰りでくる人を想定し、11:20に開始、18:00に終了します。私も、朝、東京を出て、ツアーに参加しました。

なお、ツアー代は昼食込みで5000円、さらに2日間有効のフェスティバル・パスポートを購入する必要があります。

平日で、ネット上ではまだ定員に余裕があるようだったので、参加者は少ないかなと思っていたのですが、実際には、バスの座席全てが埋まる、25人の満員でした。

今日は天気にも恵まれましたが、8月中は雨や曇りの日が多く、ツアーガイドによれば、こんな天気の良い日は滅多になかったとのことでした。

そのせいか、予想以上の数のアートを効率的に見ることができました。

まず、リボーンアート・ハウス(関係者やスタッフの事務所兼宿泊所。旧病院)で小林武史×WOW×Daisy Balloonの”D-E-A-U”という不思議なアートをみました。

その後、牡鹿半島へ向かい、牡鹿ビレッジで、昼食をとりながら、フェスティバルのシンボルにもなっている白い鹿のオブジェを見学。なぜか、ドラゴン・アッシュのメンバーの一人が、トランペットの音色に合わせて、白い鹿の周りで踊る、というパフォーマンスもありました。

白い鹿の近くの洞窟には、牡蠣漁のブイを縄で結びつけ、その縄がはるか森まで結びつき、牡蠣の生育には森の健全な成長が不可欠であることを訴えるアートがありました。

白い鹿の後は、牡鹿半島の南端、ぐるっと海を一望できる御番所公園へ行き、草間彌生のオブジェを見ました。この場所でこれを見ると、なんとも言えない力強さを感じました。

草間彌生の後は、金華山を目の前にするホテルニューさかいへ行き、全身の穴から水を出し、その水がまた体内に戻ってくるという循環を示す緑の人間像を見ました。

さらに、ホテルニューさかいの屋上へ出る前に怪しげな看板が。

屋上では、金華山を見ながら、カラオケを楽しんでいました。これもアート!?

ホテルニューさかいの後は、のり浜という海岸へ行き、海岸に打ち上げられた倒木や石などを立てる、というアートを見ました。ツアー参加者もその行為に参加することで、「起きる」「起こす」という意味をそこに見出す、ということのようでした。

のり浜の後は、旧桃浦小学校跡にある幾つかの作品を見ました。40年前まで、この場所に小学校があり、子供がいたことを思い出させる「記憶のルーペ」と、りんごが先に付いたけん玉とのアート。

そして、ここに住みながら、自然との共生を肌で感じながら制作した、住居のアートもありました。

今回のツアーの特色は、広域に散らばったこれだけの作品を効率よく回れることのほか、かなり歩くツアーである、ということです。アート作品はそれが最も強調される場所に作られるため、バス道路から15分程度の山道を上り下りするような場所にあります。短時間で何度も結構な上り下りをすることになりました。

というわけで、予想よりもずっと充実感のあるツアーでした。ただ、一緒に参加した方々は、アート作品には興味があるものの、その作品を作品たらしめている石巻や牡鹿半島の風景や人々には、あまり関心がない様子でした。石巻や牡鹿半島の人々からすれば、どのような動機であれ、域外から人が来てくれるのはありがたいことでしょうが、もう少し、土着のものとの連結を考えた方が良いのではないか、と感じました。

私自身、このツアーでアート作品を見て回りながらも、今ここで生きる人々の関係者であの震災で犠牲になった方々が、今もこの空気の中に存在しているかのような気配を感じていました。その方々の気配こそが、リボーン(Reborn)の背景にあるものだと感じたのです。

そんなことを思いながら、フェスティバルの公式ガイドブックを購入して、パラパラめくっていたら、このフェスティバルに深く関わっている人類学者の中沢新一氏が、似たような感覚について指摘していて、ちょっと驚きました。

その中で、中沢氏は、東北でリボーンアート・フェスティバルを行う意味として次のように語っています。

元々東北は・・・亡くなった人や見えない物を日常に感じながら作られていく世界でした。そこでは四次元の世界が生きている。(中略)そういう場所にあの大震災が起こったものだから、ますます東北は、「東北らしさ」が強まったと感じています。(中略)グローバルな経済活動に巻き込まれていないということは、別の意味では経済的に貧しいということでしょうが、(中略)むしろ、貧しいことの中に価値を見出していくことが、東京オリンピックが終わる2020年以降、不況がやってくる状況の中で日本が全体で抱える課題になると思います。(中略)その時にこそ大切になるリボーンの原理を見ておこう、作っておこう、というのが「リボーンアート・フェスティバル」の目的です。

今までとは違う新たな価値観を「リボーン」の名の下に提示したい。日本のリボーンの出発点は東北ではないか。そんな問題提起がこのフェスティバルの根底にあるのでした。

その意味では、今、日本のあちこちで、「リボーン」の芽は現れ始めていると感じます。いや、世界のあちこちで、それが現れ始めているのではないか。そのあちこちこそが、中心都市ではなく、ローカルであり、地域コミュニティであり、それらが繋がっていくことで、今までとは違う「リボーン」を実現していけるのではないか。

これもまた、私たちが目指す方向性に勇気を与えてくれるようなアートフェスティバルだった、と改めて確認したのでした。

マンダール地方の踊る馬

インドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県には、音楽に合わせて勝手に踊り出す馬がいます。

現地のマンダール語ではサヤン・パトゥドゥ(Sayyang Patuddu)と呼ばれるこの踊る馬(kuda menari)はきれいに着飾られ、それにまたがるのは、やはりきれいに着飾った女の子です。

マンダール地方では、彼女を踊る馬に乗せ、コーランの勉強を終えたお祝いをするという伝統行事が行われてきました。
コーランの勉強を終えた女の子は、その日の夜、先生にお礼の品を贈ります。翌日、まだコーランの勉強を終わっていない女の子と一緒に踊る馬に乗るのです。二人とも、村の子です。
でも、踊る馬に乗る前に、二人はマンダール語の詩を聞きます。そして、踊る馬に乗るのですが、すぐには座らず、何も持たずに馬の上にまたがって立ち、準備ができたことを示します。準備、そう、踊る馬にまたがる準備です。
二人は馬にまたがって、村を練り歩きます。楽隊が太鼓の音を鳴らし始めると、馬が首を上下に降り、脚を上げ下げし、踊り始めます。この踊る馬に大きく揺られながら、馬上の二人が村の中を回っていきます。

この二人が村の中を踊る馬に乗って練り歩くということは、村の中にまだきれいな未婚の女の子がいることを知らせる意味もあります。村の男の子たちが彼女らを眺めて挨拶をします。

Dari Kのカカオツアーでは、毎回、違う村で、女性の参加者を募って、この踊る馬に乗る体験をしてもらっています。今回も、2頭の踊る馬に4人の参加者が挑戦しました。

このカカオツアーの踊る馬ですが、実は毎年、地元で楽しみにしている方々が大勢いるのです。数年前には、踊る馬に乗る参加者の写真がポレワリ・マンダール県の観光案内に一役買ったのでした。

今週は福島、来週はスラウェシ

久々の投稿となってしまいました。

8月15〜17日は、妻と一緒に福島へ行っていました。

まずは、実家の母や弟たちと一緒に、亡き父の墓参りへ行きました。

翌日は、盆休み中の弟と妻と一緒に私のオフィスへ行きましたが、床が汚れていると言って、さっそく掃除。ホームセンターで必要な備品を買い物した後、オフィス入口の床板が腐食していたので、応急措置をしました。

オフィスと同じ敷地内にある、雨上がりの古民家。古民家のオーナーに挨拶し、妻を紹介して、しばし歓談しました。
8月15〜16日は盆休みの弟が、そして17日は弟の嫁が我々の相手をしてくれました。
実家に帰る途中で、季節も終わりかけの桃「あかつき」を箱買いして、実家で食べました。もちろん、硬くて甘い桃でした。
福島から東京へ戻り、18日は都内でなかなか有意義な会議を終え、明日20日からは、ダリケー株式会社による、インドネシア・スラウェシへのカカオ農園ツアーのお手伝いに行ってきます。
帰国は27日。今年はどんなツアーになるか、どんな面白い方々とお会いできるか、楽しみです。

佐伯の宝、カフェ・ド・ランブル

7月23日、24日の2日間、大分県佐伯市へ行っていましたが、その2日とも、知人に連れられてお邪魔したのが、カフェ・ド・ランブルという古い珈琲店でした。

市内のやや大きめの通りから狭い路地に入り、ちょっと行った先にある蔵造りの建物、気がつかなければ通り過ぎてしまう場所にその店はありました。

ガラガラっと木戸を開けて入ると、そこは、むっとして暑い外とは全く違う、薄暗いけれども何となく温かい空間が広がっていました。

もう40年も佐伯の地元の人々に愛されてきたコーヒーの名店でした。マスターが黙々とコーヒー豆を選り分け、グラインドしたコーヒー豆をネルドリップで丁寧に一杯一杯淹れてくれます。

少しでも悪い豆があればそれを除きます。淹れたコーヒーは必ず一口味見をし、もしも味が正しくなければ、それを捨てて、もう一度最初から作り直す、という徹底ぶりです。

圧巻は、アイスコーヒー。やはりネルドリップで丁寧に淹れたコーヒーを金属容器に入れ、それを氷の上に置いて、容器をぐるぐる回します。マスター曰く、これが一番早く冷えるのだとか。このアイスコーヒーの、例えようのない美味しさといったら・・・。

実は、この店のマスターは、東京・銀座八丁目にあるカフェ・ド・ランブルで学んだ方でした。東京での修行を終わる際、店の名前を使う許可を得て、故郷の佐伯へ戻って店を開いたのだそうです。

マスターによれば、珈琲店の系列には、例えば、カフェ・バッハで修行したバッハ系とここのようなランブル系、といったものがあるそうですが、時間と労力を惜しまないランブル系は、珈琲店ビジネスとしては利益重視にできない、ということです。

佐伯という場所であることから、価格も高く設定せず、常連さんを中心に、適度な人数の来客を相手に、細く長くやってきた、ということでした。

それにしても、本当に居心地の良い空間です。そして、丁寧に淹れられた極上のコーヒー。この店の存在を知っただけでも、佐伯に来た甲斐があった、といって過言ではありません。佐伯に来たばかりなのに、宝のような大事な場所を得たような気分になりました。

佐伯に来たら、またうかがいます。宝のような大事な場所。

日本のローカルのあちこちに、こんな場所を持てたら嬉しいなあ。

そうそう、佐伯での仕事の話も、もちろん有益に進みました。また何度も、佐伯へ足を運ぶことになりそうです。

仙石線と仙石東北ライン

7月16日に、イモニウォークに参加するため宮城県東松島市へ行きましたが、その行き帰りに使ったのが、仙石線と仙石東北ラインです。

仙石線とは、仙台と石巻を結ぶJR線で、東日本大震災の際、野蒜駅付近で線路が津波の影響を受けて断線し、松島海岸=矢本間で代行バスが運行された後、線路を高台ルートに移転の上、2015年5月30日に全線が運転再開しました。

今回、乗ったのは、仙石東北ライン。仙台から塩釜までは東北本線を通り、塩釜から松島へ向かう途中で仙石線へ入り、高城町から先は仙石線で石巻や女川まで向かう「快速」です。女川まで行くということもあり、車両はハイブリッドのディーゼルカー(HB-E210系気動車)です。

ハイブリッドというのは、エンジンの動力として走行しながら発電し、その電気を蓄電池に溜めて、それを使って速度を制御したながら走る、ということのようです。ハイブリッドの様子が社内でもモニターできます。

ピカピカの新しい車両でした。次の機会には、この車両で石巻や女川まで行ってみたいものです。

わずかな距離でしたが、各駅停車の仙石線にも乗りました。各駅停車は仙台駅やあおば通駅から石巻駅まで仙石線を通ります。矢本駅で期待せずに待っていたら、次の写真のような車両がやってきました。

車体には、石ノ森章太郎の漫画のキャラクターが描かれています。車内にも・・・。

車両の天井にも、MANGATTAN STATEとかHero Worldといった大きなステッカーが貼られていました。

そして、至るところに、石巻に関するポスターがずらりと貼られていて、これを見ていると、本当に石巻に行きたくなる気分になってくるのでした。

2017年7月22日〜9月10日まで、石巻や牡鹿半島を舞台に、Reborn-Art Festival が開催されます。まだ開催前ですが、仙台駅の改札口前では、それに関するグッズ販売コーナーができていて、けっこうな賑わいでした。

行けるかなー? 仙石線か仙石東北ラインに乗って。

福島高校合唱団第60回定期演奏会を聴いて

昨晩は仙台に1泊し、イモニウォークの疲れをとって(?)、朝、JR普通電車で福島へ移動しました。実家で昼食をとって少し休憩した後、ママチャリに乗って向かった先は、福島市音楽堂。

今日は、ここで、福島県立福島高等学校合唱団第60回定期演奏会を聴きに行きました。私の母校であるだけでなく、実は、私もかつて、所属していました。当時の福島高校は男子校でしたので、所属していたのは、もちろん男声合唱団。そう、当時は福島高等学校男声合唱団でした。
今は男女共学となったため、男声がとれて、福島高校合唱団となっている様子。実際、現在の団員は、圧倒的に女性のほうが多く、福島高校といえば男声合唱団だった自分としては、正直言って、最初からちょっと違和感を感じる雰囲気がありました。
今回は、合唱団創団70周年記念演奏会も兼ねており、OB(共学後のOGも含む)がかつて演奏した曲目を現役団員も入って歌う特別ステージがあり、それを聴くのも目的の一つでした。

私が所属していた時の高麗先生に学んだ団員たちは今も「梅声会」という親睦組織を作っており、そのメーリングリストで、今回のステージに参加するメンバーの募集や練習日程などが案内されていました。
私も同期の友人たちから参加を勧められたのですが、長年歌わなかった間に声がもう本当に出なくなってしまい、かつ、直前までインドネシア出張が入っていて練習に出られそうもなかったため、参加しませんでした。でも、節目の演奏会ということで、演奏会だけは聞きに行こうとは思っていたのです。
現役団員のステージは、混声ということで、最初はちょっと面食らったのですが、徐々に慣れ、彼らの一生懸命で若々しい様子を微笑ましく聴けるようになりました。
続いて、OB(OG)を交えたステージが3本。まず、男声合唱ではおなじみの「月光とピエロ」はさすがに年齢の高さを感じさせる演奏でした。次は、10〜20年前の混声になってからの後輩メンバーによるモンテベルディ「マドリガル」から3曲。相当練習したのでしょう、予想以上に素晴らしい演奏で、とても良かったです。
そして、我々の世代を含む男声時代のメンバーによるケルビーニ「レクイエム」からの「ディエス・イレ」と「オフェルトリウム」の2曲。これは福島高校管弦楽団のオケ付きでの演奏で、指揮はかつて指導を受けた高麗先生。
写真がちょっとピンボケですが、雰囲気は伝わるでしょう。私が団員だったとき、先輩は「オフィルトリウム」で合唱コンクール全国大会金賞を取り、我々は高校1年のとき、「ディエス・イレ」で先輩とともに2年連続金賞受賞を狙ったのですが、東北大会で金賞を取ったものの、1点差で全国大会へ行けなかったのでした。
当時と比べれば、合唱もオケもまだまだという感じではありましたが、コーラスの厚みの部分に往年の輝きが随所に感じられ、あっという間に、高校時代の自分にタイムスリップし、いろんな記憶が瞬時に蘇ってきました。
演奏後、ステージに乗った同期から「歌いたかっただろ?」と聞かれたのですが、なぜか歌いたかったとは思えませんでした。物理的にあんな声はもう出ないのもありますが、合唱って、自分にとっては大事な宝物のようなものだけど、今の自分の現実世界とは別の世界にある、という気がしてしまったのです。
振り返ってみると、私が団員だった頃の男声合唱団は、文化系というよりも体育会系に近い組織だったような気がします。目標は合唱コンクールで金賞をとること。そのために、部活では毎日校内をランニングし、腹筋を鍛え、週5日練習し、夏には鬼のような合宿を1週間続け、コンクールが全てに優先する日々でした。
我々のときだって、定期演奏会ももちろん開催しましたが、コンクール優先なので、楽しかったという思い出があまり浮かんできません(でも、女子高校の女声合唱団とのジョイントコンサートを何回か開いたのは楽しかったかな)。
今日の後輩たちの定期演奏会を見ていると、団員たちが色々と工夫をしながら、自分たちも楽しみつつ、お客さんに楽しんでもらおうという姿勢がよく伝わってきました。高校生らしい、と言ってしまえばそうなのですが、ポップス・ステージなんて、私の頃にはまずありえないステージだったけれど、なんだかとても楽しそうで、本当に微笑ましかったです。これも、男女共学になったからなのかもしれません。
真面目で一生懸命な様子がうかがえた現役団員の姿が、私にとっては最大の収穫でした。我々の時代とは違う、新しい時代の君たちの合唱団を作っていってほしいと思いました。
それはそうと、きっと、今日の観客の中には、私と同じ頃に合唱をやっていた方々、もしかすると私の知っている方々が、もちろんシニア世代として、来ていたのではないか、という気がしました。でも、何十年ぶりかで再会するといったサプライズはありませんでした。
長い間、福島から、そして合唱から遠ざかっていた私を知っている人など、おそらくいないはずなのに、もしかしたらいるのではないか、なんて余計なことを思ってしまうのは、やはりここが福島だからなのかもしれません。
さて、人恋しさや郷愁はそこへ置いて、私は前へ進むことにしよう。そう決めて、ママチャリに乗って、さっと実家へ戻りました。

イモニウォーク奥松島2017は楽しかった!

昨日(7/15)の朝、ジャカルタから東京へ戻り、自宅でちょっと休憩してから、新幹線と仙石線を乗り継いで東松島市へ向かって、同市矢本の宿に宿泊(ここがとても居心地良かった!)。そして今日(7/16)は、イモニウォーク奥松島2017というイベントに参加してきました。

イモニウォークは、東松島市の野蒜駅を出発点として、宮戸島にある松島自然の家までの約10キロのコースを歩く「イモニウォーカー・ルート」と、自転車で宮戸島の名所8カ所をまわる「新宮戸八景ルート」のいずれかを選びます。各コースにはチェックポイントが設けられ、それぞれのポイントでスタンプを押して周り、完走して全部スタンプが押されたら、景品がもらえます。

また、途中では、インドネシア・アチェのコーヒーを飲めるスタンドや、アチェのカレーを食べられるスタンドがあり、かつ農産物直売所を兼ねた複合施設「あおみな」で地元の特産品を味わえるマルシェに立ち寄ります。

東松島市はJICAによる震災復興を通じた経験共有協力の事業を通じてインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市と協力関係があり、ちょうど今、バンダアチェ市から2名の漁師さんが1カ月間の研修に来ています。彼らと東北大学のインドネシア人留学生が上記のスタンドでコーヒーやカレーを振る舞うほか、アチェのサマンダンスのパフォーマンスも披露してくれます。

そうそう、イモニの説明を忘れていました。これは芋煮のことで、南東北で秋の恒例行事である芋煮会で振舞われる食事です。ゴールした後、この芋煮が振舞われます。そこで、このイベントをイモニウォークと名付けたようです。

野蒜駅は真新しく変わっていました。仙石線が野蒜駅付近で津波で寸断されて再建できないため、住民移転を行った内陸側へ線路を付け替え、駅も新築して、2015年5月30日に復旧し、運転が再開されました。

ちなみに、昔の野蒜駅は、今は震災復興伝承館とコンビニが一緒の建物となっています。震災復興伝承館では、震災時の津波による被害とその後の復興の様子が映像も含めた資料として展示されています。

受付で、予想通り、私は外国人の参加者と一緒に歩くことになりました。全員が東北大学の留学生で、マレーシア2名、インドネシア、モロッコ、モザンビーク各1名、私を含む日本人3名の8名で、イモニウォーカー・ルートに参加しました。

スタンプを押すポイントになった場所は、上記の震災復興伝承館のほかは、まず鳴瀬二中跡地。校歌の碑の裏には、廃校に至るまでの軌跡が年表として綴られていました。

防災盛土。防災盛土の上から、海を見渡しながら歩きます。

アチェのカレーのスタンドの裏には、津波の犠牲となった子供たちを含む身元不明の方々を祀るたくさんのお地蔵さまがありました。

多目的施設のあおみな。

ここで食べたかき汁と東松島ドッグは、美味しかったですよ。

ルートのポイントがあるかと間違って皆んなを登らせてしまった、大高森山の山頂から見た奥松島の景色は、まさに絶景でした。

奥松島縄文村。好奇心旺盛なメンバーは、中の展示もしっかり見ていきました。イベント参加者は、スタンプを押すカードを見せれば、無料で見学できます。

観音寺の手前にある津波の碑。

結局、途中でなんだかんだと休みながら、また、ハーハー息を切らせながら大高森山を登るなど余計な行動も入ってしまい、午前9時に出発して、ゴールにたどり着いたのは、イベント終了の午後4時少し前でした。それでも、イモニウォーカー・ルートの10チェックポイントはすべてまわることができました。

何事もポジティブに明るく捉えてくれる楽しいメンバーと一緒に歩けたせいか、けっこう体力的に疲れているはずの私も、最後まで元気に過ごすことができました。というか、ずっと私が彼らをリードして連れていく役目を果たしたので、疲れてヘロヘロになるわけにはいかなかった、というほうが正しいのかもしれません。

すでに何度も実施されているためか、このイモニウォーク奥松島は、予想以上によく作られているイベントだと思いました。東松島市の人々が外から来た方々に見て欲しいと思う場所がうまく組み合わされ、結局は、いろいろ見ながら歩く、という形になるように組まれていました。また、東松島市がバンダアチェ市と協力しているということが、コーヒーやカレーやサマンダンスの形で組み込まれ、参加者へ自然に認知されるようになっていたのもうまいやり方だと思いました。

一部にはチェックポイント間の距離がかなりあって間延びしたところがあったり、間違って大高森山の山頂まで登ってしまわないような指示など、いくつか改善点は指摘しましたが、ともかく、楽しく過ごすことができました。

とはいえ、メンバーと別れ、一人になると、けっこう疲れを改めて感じるものです。そんな時は、と思って、夜は、エスパルの青葉亭でしっかりと牛タン定食をいただきました。評判通り、ここの牛タンはとても美味しく、大満足。柚子胡椒味にワサビを添えて食べる牛タンが特に秀逸でした。

さあ、明日は朝、福島へ移動します。おやすみなさい。

生まれて初めて行った床屋を再訪

今日は、この世に生まれて初めて行った床屋さんを再訪しました。実に50年ぶり、福島市天神町の理容アサヒです。

たしか、生まれて初めて床屋へ行ったのは2歳か3歳のころ。室内はピンクっぽい色の内装で、椅子が4つか5つあり、5~6人ぐらいの女性従業員がいました。一番端の椅子に座らされて、ものすごく泣いて、女性従業員になだめられた記憶があります。

店はまだありました。今は、81歳になるおじさんが一人で経営しています。

おじさん曰く、3人の客を続けてやると体がかなりきついそうですが、客が一人も来ない日もあるとのこと。一日に5人ぐらい来てくれるといいんだけどな、とおっしゃっていました。

私の記憶はけっこう正しかったようです。周辺の居住人口が減り、客が減ったので、従業員はみんな辞めてもらい、奥様と一緒に店をやってきたのですが、数年前、奥様が体を悪くしてからは、一人で店をやっているそうです。

すぐ近所にあった銭湯、時計屋、スーパーなど、今はもうなくなった店々の話に花が咲き、おじさんも話が止まらなくなってきます。

おじさんで3代目なのですが、おじさん夫婦には子供がおらず、おじさんの代で店を閉めることになるそうです。

髪の毛を切っていても、かつての若い時のようには体が動かず、同じことをするにも時間がかかるようになったのが悔しいと言っていました。でも、まだしばらく、おじさんの体が動くうちは働いて、利益を光熱費などの支払いに充てるのだそうです。

店には、平成18年の近所の商店会加盟店のすごろくが貼ってありました。私の知っている懐かしい店がまだたくさん残っていました。でも、その商店会の中心メンバーだった店はすでになくなり、今や、商店会は解散状態となってしまったそうです。

私が小学校の時に通っていた英語学校のポスターも。こちらはまだあるみたいです。

店にはおじさんがたった一人しかいないはずなのですが、私には、お姉さんたちが私をあやす声をふっと聞こえてくるような気がしてならないのでした。昭和30年代後半のあの頃にタイムスリップしてしまいそうな・・・。

おじさん、また来ますね。

「復興」勉強会に出席して

6月16日、福島市で、NPO法人ふくしま30年プロジェクト主催の勉強会「復興」に出席しました。講師は、首都大学東京准教授の山下祐介氏と、NPO法人とみおか子ども未来ネットワークの市村高志氏でした。

勉強会では、復興という言葉とは裏腹に、現場では本質的な解決が一向になされていない現状があることを踏まえ、今後起こるであろう問題を指摘していました。

まず、なぜ避難者は故郷へ戻れないのか。その最大の要因は、トラウマです。もう一度あのような事態が起こるのではないか。もう二度とあんな避難をしたくない。最近、東電が福島第二原発の再稼働の可能性を匂わせていることも触れられ、不安が出されました。

帰還しようとしている人々は現状復旧を求めているのですが、その前提となる様々な検証が十分に行われていないことも指摘されました。

そして、すべてにおいて、責任の所在があいまいにされている現状が指摘されました。

たとえば、避難指示解除を決定したのは誰なのか、その根拠となった法規は何か、実は明確でないという指摘。また、賠償というのは、通常は、責任主体による償いであるはずなのに、責任主体は責任をとっているのか、という問題。責任をとらない主体が賠償をするということの論理矛盾。

次に、避難指示解除によって居住を促すということについて。実は、避難指示解除の前から、作業員はそこに住むことを促されて住んでいたのだから、避難指示解除がなければ住めないというのはおかしかったのではないか。解除前でも、戻りたいと言っていたお年寄りなどを戻してあげればよかったのではないか(彼らの中には戻れずに仮設で亡くなった方々も少なくない)。

故郷への帰還か避難先への移住かという問題。現実的には、そのどちらでも政府補助は出るのに、故郷自治体の住民票を避難先で持ち続けられないという状況(今は時限立法で認められている)が出てくると、帰還か移住かの選択を迫られるようになる。本来ならば、長期退避を続けながら状況に応じて順次帰還、という大前提で、様々な選択肢があってよいはず。

復興に続く地方創生で、福島イノベ構想などの新たな事業が出され、福島県には引き続き多額のプロジェクト資金が投下されていきます。その資金へ群がる福島県外の業者や政治家がすでに動いている様子があり、「福島へ行けばまだ事業がある」という話もあるとか。結局、それらの事業資金が福島県にもたらされることで、これまでと同様の国からの事業予算に依存する状況が続いていくことになるのでは、という懸念も出されました。

実際、統計上、避難指示解除対象自治体への転入者が増えても、それが全て元住民とは限らず、事業実施や原発再稼働などを見越した外部者であるかもしれないといううがった見方もありえて、そうなると、もともとの住民たちの自治とは違う形へ変容してしまうのではないか、という懸念さえ聞こえました。

そして、避難者自身が避難者であることを意識しないようになり、風化すると、そもそもの本質的な部分、すなわち彼らを避難者とせしめた責任の所在、がますます曖昧になり、原発事故の検証や賠償責任が忘れられてしまう。復興という掛け声が強くなればなるほど、そういう傾向が強まってくるのではないか、という話でした。

当事者である避難者が今後の生活をどうしていくかについての選択肢が十分にあり、それを自分たちで選んでいけること。長期にわたる複雑なプロセスを単純化せずに、丁寧に進めていくこと。そのために、彼ら自身が自由に話し合いのできる場を持てる必要があること。これらが重要だ、という結論でした。

これらの含意は、何も、原発事故による避難者だけに限るものではなく、現在のどの地域でも大事なこと、すなわち、分権と自治を地域の人々に取り戻すことが重要である、ということでした。しかし現実には、新規事業に伴う利権やそれに群がる有力者らの動きによって、従順と服従を暗に求められているかのような状況が現れているように思えます。

今回の勉強会を通じて、やはり、自分たちの暮らしから始めるほかはないと改めて思いました。そして、まっとうな官僚や専門家の存在を信じ、彼らと関係性を作りながら、現状に対抗できるような構造を作る方向を模索し、復興を遠くのものではなく、自分の暮らしに近いところへ取り戻すことを目指すことが、とくに福島県では重要だと感じました。

では何から始めるのか。このような時代だからこそ、地域の人々が互いに尊重しあいながら、自由かつ真摯に意見を述べ合える、議論やディベートではなく対話のできる場づくりを始めたいと思っています。

こんなひどい雑文でも、政府批判かどうかを監視されるような世の中になってしまうのでしょうか。スハルト時代のインドネシアを思い出します。

ゆるく書く、と言っておきながら、ちょっとかたく書いてしまいました・・・

阿武隈川のほとりにて

福島市を流れる阿武隈川。今日も北西の風が強い涼しい日でしたが、ふと、阿武隈川を見たくなり、実家からママチャリで出かけました。

福島県庁の隣の阿武隈川沿いにあるのが板倉神社と紅葉山公園。ここで少しゆっくり本を読もうかな、と思ったわけです。そして、しっかり見ることができました。

阿武隈川をしばらく堪能した後、すぐそばの板倉神社へ行きました。

板倉神社は、18〜19世紀に167年にわたって福島を領地とした藩主・板倉氏を祀る神社です。板倉氏の福島藩は3万石、小さな大名でした(ちなみに二本松藩は10万石)。明治維新の頃、官軍が攻めてきたときに、二本松藩は会津藩とともに最後まで抵抗したのですが、福島藩が強硬に抵抗した様子はうかがえません。明治になって福島県の県庁所在地に福島が選ばれ、二本松が衰えていったのは、それを象徴しているかもしれません。

東日本大震災で板倉神社も被害を受けましたが、福島市の復興のシンボルにしたいという氏子の皆さんの尽力で、きれいに修復されました。神社の周りもきれいに整備され、神社にしては珍しく、くつろげるスペースとなっていました。

板倉神社からすぐ下に目を移すと、紅葉山公園があります。秋になると紅葉がたくさん色づくだろうと想像できる公園です。福島城があった頃は、素敵な日本庭園だったようです。新緑がきれいでした。

でも、残念ながら、紅葉山公園はしばらく整備の手が入れられていないようでした。雑草が生え、放置されているように感じました。秋までには手入れをして、きれいな紅葉を楽しめるように整備するのでしょうね。

紅葉山公園を後にして、阿武隈川にかかる大仏橋(おさらぎばし:下写真の右側)と松齢橋(しょうれいばし:左側)を見に行きました。同じ場所から違う方向へ架かる2つの橋です。

私が子供の頃は、松齢橋しかなく、この橋を渡って、渡利地区にある弁天山や花見山へ行ったものでした。国道4号線のバイパスができたときに、大仏橋がドーンと阿武隈川にかかり、その開通を祝うパレードがあったと記憶しています。

ここは、私の高校時代の淡く切ない思い出の場所。今や、あの頃の面影はほとんど残っていませんが、あの時の自分のことは、今でも鮮明に思い出されます。

ここに来ると、あの時へタイムスリップしてしまうのではないか、とドキドキしてしまうのです。ちょっとだけあの時に戻ってみたいような、でも今さら恥ずかしいような、そんな気持ちを抱きながら・・・。

名刺を作ろうと思ったのだけれども

今日の福島は、早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、その後も、晴れていたかと思うと急に曇って激しい雨が降る、というのが何回か繰り返されました。そして、だんだんに気温も下がり、肌寒いぐらいの涼しさになりました。

早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、というのは、私自身は全く気がつかずにグーグー寝ていたのでした。

いったん寝たら普通は起きない母でも起きたというのに、私が寝続けていたのは、よほど疲れていたのか、おニューの布団がとても寝心地がよかったからなのか、よくわかりませんが・・・。

そんな不安定な天候なので、出かけるタイミングを間違えると、ママチャリで動いているので、びしょ濡れになる可能性が高いのです。幸い、そうなることはありませんでした。

そろそろ名刺をきちんと印刷所に頼んで作ってもらおうと思い、ママチャリで何軒かまわってみました。

まず、オフィスからすぐの印刷所。閉まっていました。

次に、実家からすぐの印刷所。弟の会社の名刺を作っているということなのですが、閉まっていました。

これら2軒とも、印刷機が動いている音もしなければ、人の気配もありません。

雲行きが怪しそうなので、もう1軒、フランチャイズらしき店へ行きました。そこはやっていたのですが、値段を聞いて、そんなに安くなかったので、やめました。

これまで、自分の名刺は、自分で好きなようにデザインして、自分のプリンターで両面印刷したものを使っていました。正式にきちんと名刺を作る前の暫定のつもりだったのですが、店に持ち込むよりも、自分でプリントしたほうが効率的で、カラーならばコストもあまり変わらないかむしろ安い、と判断しました。

おそらく、今や、名刺もネットで手早く作ってしまうのが主流となっているのでしょう。

せっかく福島市で会社を立ち上げたのだから、できるだけ地元の昔からやっている企業とお付き合いしていきたいと思い、多少のコストアップは覚悟して、印刷所をまわってみたのですが、今日まわった2つの印刷所は閉まっていました。

福島市でも、業績好調な規模の大きな印刷所はいくつかあります。どうも、一握りの好調な印刷所のみが生き残っていき、小さな印刷所は淘汰されていく運命のようでした。

印刷所に限らず、福島市内の小さな店がどんどんなくなっている気がします。そして、残っていくのは、高級品や付加価値の高い製品を作る企業とフランチャイズ系の店。

この風潮に抗えるようなどんなまちづくりが可能なのか。たたかいはこれから、と少し力が湧いてきました。

昼下がりののどかな福島交通・飯坂電車の車内
(本文とは関係ありません)

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

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