ステイホーム、だからこそつながる

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

ステイホーム。不要不急の外出を控える。行動自粛。友人や知人とも会わない。皆さんと同じように、私もそんな毎日を送っています。

動いてつなげるのが私の仕事のスタイル。でも、インドネシアへも福島へも行けず、東京の自宅で家族と過ごしています。

幸い、自宅の庭では、今、ツツジなどの花が咲いていて、なごみます。

そんななか、いつもお世話になっている「鳴子の米プロジェクト」から、追加でのお米の注文依頼が来ました。

同プロジェクトは、農家と消費者を直接結んで、消費者が農家を支えるCSA(Community Supported Agriculture)の実践で、「ゆきむすび」というお米を生産・販売しています。

「ゆきむすび」は在来の耐冷品種を復活させたものです。消費者へ直販することで、生産者が年々広がる遊休地・耕作放棄地でその在来品種を栽培し、消費者とともに地域の農業を守り、地域活性化を進める取り組みを続けています。
 鳴子の米プロジェクトのサイトはこちらから → http://www.komepro.org/
同プロジェクトは東京都内で、アンテナショップを兼ねた「むすびや」というおむすび屋さんを運営しているのですが、新型コロナの影響で閉店、そのために用意していた「ゆきむすび」が余ってしまいました。その余剰米を買ってほしいという注文依頼でした。
ちょうど、我が家でもお米を追加注文しようかと思っていたタイミングだったので、すぐに注文しました。来るのが楽しみです。
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続いて、福井県で農業を営む友人から連絡がありました。彼の農園からは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めました。1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供します。
 ベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
彼のところのベビーリーフは、プロ用ということもあり、一般に売られているものとは明らかにモノが違います。こんなお買い得なベビーリーフはまずないです。
当面、200組を用意とのこと。注文はお早めに。
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物理的に友人や知人には会えないけれど、つながることは決して難しくはありません。きっと、個々人レベルでは、こんなささやかな思い合いが今、起こっていることでしょう。
何かあったときの思い合い。ステイホームがそれを妨げることはありません。
ステイホーム、だからこそつながるのかもしれません。そんな心の通う思い合いから、新型コロナ後に私たちが創りたい、新しい社会が垣間見えるのではないでしょうか。

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭

11月29日、「先端農業視察コース」の2日目は、復興のための新しい農業の試みを進めているプロジェクトを視察した。

広野町振興公社は、国産バナナの生産を試みていた。

日本でバナナと言えば、生食用だけが注目されるが、バナナの花も食用、葉は包装用と活躍する。たとえばバナナの葉を使って、脱プラスチックの動きを加速できないか。

バナナ以外に、パパイヤも試みていた。パパイヤも実だけでなく、葉も食用(やや苦いが)に適する。栄養食品として、様々な活用が期待できる。

お土産に、バナナ1本をもらって食べてみた。インドネシアの現地での完熟バナナの味を知っている身からすると、それを思い起こさせるとても美味しいバナナだった。やはり、国産だと何かが違う。

バナナの次は、イチゴ。大熊町での大規模イチゴ「工場」。

販売先は確保されていて、効率を徹底的に追求し、夏季にケーキなど業務用イチゴを生産することで、一般用の冬季イチゴと合わせて採算を取ろうとしている。

これも一つのやり方で、帰還困難地域を抱える大熊町に将来の希望をもたらす事業の一つという位置づけ。雇用創出の面もあるが、ロボット等の導入もありうると思われた。

イチゴの次はレタス。川内村でのLED光源を使った野菜工場を見学。

極めて衛生的で、気象条件に左右されず、安定した価格で供給できる。まさに野菜工場。風評の影響を受けない、新しい農業としての川内村の答えの一つなのだろう。

近くの工業団地には、バングラデシュの方が所有する企業が、ハラル対応食材を生産する工場を建設する予定。高齢化の進む川内村の今後の農業はどうなっていくのだろうか。

レタスの次は、葛尾村の胡蝶蘭。企業などの贈答向けの需要がかなりあるとのこと。

AIで適温に調整されたハウス内には、見事な胡蝶蘭が並ぶ。販売も順調なようで、葛尾村の新しい産業としての期待がかかる。

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭。いずれも、東日本大震災+原発事故の後、既存の農業の再開がままならない状況下で、新しい希望の種として始まった事業である。

そして、そこには政府からの補助金が活用され、行政の肝いりによる第三セクターのような形で進められている。今はとにかく軌道に乗せることに懸命なのは当然だが、今後、どうやって持続性を維持していけるか。また、地域の先端ではない地場の営農活動や地域社会の中に、これからどのような関係性を持って根づいていくか。

しばらく間を置いて、これらの事業を再度訪問し、様子を見守っていければと思う。

プロジェクト鳴子CSAの始動

6月3日、プロジェクト鳴子CSAの始動としての第1回CSA塾に参加するため、宮城県鳴子へ行ってきました。

CSAとは、Community Supported Agricultureの略。一部では、Community Shared Agricultureと読み替え始めたところもあります。

鳴子と言えば、鳴子の米プロジェクト(米プロ)が今年で13年目を迎えました。同プロジェクトは、生産者が消費者と結びつき、消費者が生産者から市場買取価格の2倍の価格で買い取ることで、生産者は気象などの生産リスクに対応することができるとともに、米を通じた商品開発や地域づくりにも役立てようという試みです。

その過程で、幻となり始めていた稲の高冷地品種を復活させ、「ゆきむすび」という名前で商品化し、一部の耕作放棄地を水田として復活させる動きをも引き起こしていきました。

筆者も、米プロが始まった時からずっと注目してきましたし、10周年記念セミナーに出席したのを契機に、我が家もまた米プロの一員として加わり、「ゆきむすび」を我が家で味わっています。

これまで13年間の成果をさらに発展させるべく、米プロは本格的なCSAへ向けて取り組みを強化することを決めました。これから2年間、トヨタ財団の国内助成を受けて、プロジェクト鳴子CSAという組織を立ち上げ、米プロで培ったノウハウと経験をさらに一層活用していく、そのキックオフの意味も込められた催しでした。

とくに、CSAの名の下に、農・食・暮らしを支え合う関係づくり、仕組みづくりとともに、若者向けの雇用を創出するための事業化に力を入れていく意向です。

第1回CSA塾の講師は、結城登美雄氏で、「CSAが描く地域の未来」という題での講演でした。結城さんは、何人かいる私の「勝手に師匠」の一人です。

講演は、いつもどおりの結城さんのお話でしたが、とくに、若者に対して「これからの日本の食を誰が支えるのか?」という問いを何度も投げかけていたのが印象的でした。そして実際、高齢化と農業就業人口の急減のなかで、それでも不十分かもしれないが、生産者と消費者とがつながらなければならない必然性があることを説得的に説明されていました。

食には、生きるための食、儀礼や感謝の食、そして楽しみの食の3つの側面があるのに、近年は楽しみの食という側面ばかりがもてはやされ、食に対する慈しみや敬いの心が薄れています。自分の消費する食を誰かが作ってくれている。自分の代わりに食を作ってくれている人がいる。そんな感覚を忘れがちになっている、といってもいいかもしれません。

米プロは、生産者と消費者とをつなぎ、それが生産地の地域をよりよいものにしていくことができる、という実証を行ってきましたが、それでも、現実は厳しく、鳴子の生産現場では、高齢化や農業就業人口の減少がとまらず、温泉で名高い鳴子への観光客数も減少傾向を顕著にしています。

プロジェクト鳴子CSAを通じて、鳴子という地域での暮らしをどのように維持・活性化させていくのか、という問題意識は伝わりました。ただ、消費者の意識がどう変わっていくのか、という面へのまなざしはまだあまり強くないように感じました。

都市の消費者が「誰がこれからの食を支えるのか」という問いを真剣に受け止め、持たざる者である自分たちの代わりに食料を生産してくれる生産者を敬い、生産者とつながることが自分の暮らしのなかの食を確保し守っていくことにつながる、暮らしを続けていくための食糧安保としてのCSA、という、中間搾取の排除といったものよりもはるかに切実で緊要な側面が一気に表面化してくるような気がします。

そうした文脈で、鳴子を現場とするCSAの今後の動きを注目していきたいです。

それにしても、鳴子の湯の温まること。若干塩分の混じった素直なお湯で、体中がすべすべでした。今回泊まった旅館大沼の、宿泊客専用特別浴場にも入ることができ、夕食もごちそうで、とても大満足でした。旅館大沼の持つ8つの温泉風呂のうち2つしか入れなかったので、また行かなければならなくなった、わけですね。

インドネシア人技能実習生の活用に関するコンサルティングを行います

以下のとおり、技能実習生の活用に関するコンサルティングを行います。

<想定される対象>

すでに技能実習生を活用している事業者、これから活用を考えてみたいと思っている事業者、あるいは、技能実習生を海外から受け入れて事業者へ彼らを派遣している監理団体、などを対象とします。製造業だけでなく、農林水産業なども対象とします。

なお、筆者の専門性を鑑み、対象はインドネシア人技能実習生とします。

福島在住のインドネシア人技能実習生との懇談(2017年11月18日)

<どのようなコンサルティングを行うか>

主に、次の4点を中心としたコンサルティングを行います。長年にわたって、地方を含むインドネシアと関わり、かつ日本や開発途上国の地域づくりや地域産業振興を見てきた筆者ならではの、他とは違うコンサルティングをご提案します。

●ミスコミュニケーション対策

第1に、技能実習生と事業者との間のミスコミュニケーション対策を行います。

技能実習生と事業者との間では、言語の壁などにより、意思疎通が不十分になりがちです。その結果、双方の誤解が解消されないまま、それぞれが相手のことを勝手に思い込むことになります。理解できないと思って黙ったまま時間が経ち、ある日突然、暴力や失踪などの事件が起こることがあります。

このような事態になる前に、筆者が間に立ち、技能実習生と事業者との誤解や思い込みを溶かす役割を果たします。そして、未然に、暴力や失踪を起こさせない状況を作ります。

もちろん、そのために、技能実習生に対しては、日本人や日本社会(必要であれば当該地域社会)について、事業者に対しては、インドネシアやインドネシア社会(必要であればインドネシアのなかの技能実習生の出身地域社会)について、理解していただくための十分な情報提供・講義等を行います。

●技能実習の見える化

第2に、技能実習の見える化のお手伝いを行います。

これは、実際に行われている技能実習の内容を言葉に表し、その一つ一つを適切に組み合わせながら、一種のカリキュラムのようなものにしていくお手伝いです。

この作業は、実際の技能実習に過度の負担を加えるものではありませんが、この作業を通じて、技能実習生がどのように技能を習得していったかを、誰の目にも明らかなようにしていくことが可能になります。また、事業者自身が、自らの技能実習の内容をさらに良いものにすることを再検討するきっかけにもなり得ます。

可能であれば、技能実習の終了時に、単なる修了証ではなく、技能実習でどのようなプロセスでどんな技術を身につけたかを示す技能証明書のようなものを発行できるように促したいです。これによって、技能実習生は帰国した後、この技能証明書が新たな就職の際に活用できるようにしたいのです。

筆者は、この技能証明書が発行できたならば、インドネシア政府やインドネシアの地方政府がそれをきちんと認知できるように、働きかけていきます。

●技能実習生の活用に関するアドバイス

第3に、事業者の今後の事業展開に技能実習生をどう活用していくかについて、助言します。

少子高齢化、市場の停滞、人手不足、後継者不足など、事業者は深刻な問題に直面しています。とくに、地方の事業者は、これまで地域産業の一躍を担ってきた歴史的経緯があり、地域経済の観点からも、事業者の今後は一事業者にとどまらない影響がありえます。

そこで、受け入れてきた技能実習生をどのように活用するかをご提案したいと考えています。すなわち、数年にわたって付き合う彼らを一時的なものとして使い捨てるのではなく、事業者の今後にどう生かすか、という提案です。

たとえば、事業者が海外進出する際に技能実習生を現地法人設立などで活用する、帰国した技能実習生が設立した企業と取引する、後継者がいない事業者が長年培ってきた技術やノウハウを帰国した技能実習生に託してインドネシアで事業展開してもらう、帰国した技能実習生が設立した企業が日本の事業者の企業に投資して日本の地域で事業を存続する、などがざっと思いつきます。

3年という年月を一緒に過ごす技能実習生だからこそ、事業者といい関係が作れれば、事業者は以後、彼らを活用することで、新たな展開へ進める可能性を見出せるかもしれません。

そのためには、技能実習の開始前に、事業者側の「どのような人材を技能実習生として求めるのか」と技能実習生側の「どのような技能・技術を習得したいのか、帰国後それはインドネシアの発展に貢献するのか」の適切なマッチングがある程度行われていることが望ましいと考えます。

そこで・・・。

●事前マッチングと技能実習生帰国後以降を含めたケア

第4に、事業者側の求める技術人材と、インドネシアから派遣される技能実習生との事前マッチングを試みます。

日本の事業者側で必要としている技能・技術で、インドネシア側にとっても有用で必要であるものは何か、をあらかじめ探り、つなげます。

筆者は、実は、インドネシアに帰国した元技能実習生のOB会組織「インドネシア研修生実業家協会」(IKAPEKSI)のアドバイザーを2016年から務めています。会員数は約5000人で、会員はインドネシア全国に所在しています。毎日のように、IKAPEKSI関係者とSNSでやり取りをしています。

このIKAPEKSIを通じて、日本への派遣前に日本の事業者が望むような技能実習生候補者を探したり、技能実習生の帰国後に就職先を探したり、起業したりするところまでケアをすることができます。

加えて、筆者は、過去30年のインドネシア研究者としての活動蓄積を通じて、今後のインドネシア全体、及びインドネシア国内の各地方にとって、どのような技能や技術が必要とされうるか、製造業だけでなく農林水産業についても、ある程度の知識と情報を持っています。

このように、筆者は、日本とインドネシアの双方の事情を踏まえたうえで、両者の今後の発展にとって、技能実習生を有益な形で活用できる事例を増やしていきたいと願っています。

以上のように、筆者は、弊社「松井グローカル合同会社」の事業の一つとして、単なる技能実習生の紹介・監理ではなく、日本の事業者とインドネシアの今後を踏まえた、グローカルな視野に立ったトータルなコンサルティングを行っていきたいと考えています。

インドネシア人技能実習生を活用されている事業者や監理団体の方で、ご興味を持たれた方は、お気軽に、下記までご連絡ください。

 松井グローカル合同会社代表・松井和久
 Email: matsui@matsui-glocal.com
 電話:090-3217-5845

バレンタインにスラウェシのカカオ農家が来日

1年で一番チョコレートが売れるのはバレンタイン・デー。都会の有名百貨店では、ここぞとばかり、他店にはないような世界中のチョコレート店の美味しそうなチョコレートが並びます。

筆者がアドバイザーをしている京都のダリケーも、今ではすっかりこうしたバレンタインのチョコレート店として常連になりました(ダリケーのアドバイザーになった経緯については、また別途、書くことにします)。

ダリケーは、インドネシア・スラウェシ産のカカオを使用した製品を作る、おそらく国内では唯一の店です。インドネシアは世界第2位・3位のカカオ生産国であるにもかかわらず、日本ではまだ知名度が低いのが現状です。

バレンタインをめがけて並ぶチョコレート店のほとんどは、製品としてのチョコレートやそれを作るショコラティエに注目が集まります。それはやむを得ないことですが、その原材料であるカカオには、どれだけの関心が寄せられているでしょうか。

ダリケーは今年、初めての企画として、ダリケーにカカオを供給してくれているカカオ農家の代表1名と現場でカカオ栽培指導を行うフィールドコンサルタント2名の計3名を、スラウェシから招聘しました。彼らの作ったカカオを原材料とするチョコレート製品が実際に売られている現場を見てもらうためです。

2014年以降、ダリケーは毎年8月、カカオ農家を訪ねる日本人向けツアーを実施し、参加者がカカオ農家と直に触れ合う機会を作ってきました。その参加者数は述べ150人程度います。単に、カカオ農家と会うだけでなく、実際に栽培方法を学んだり、カカオの苗を植えたりもします。

2017年のツアーでは、新しい試みとして、ツアー参加者が地元の小学6年生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作るワークショップを行いました。カカオ農家の子供たちにとっては、親が栽培するカカオがどのような製品になるのかを知る機会ともなりました。

こうした日本からスラウェシへのツアーのお返し、というわけではありませんが、今回のバレンタインには、スラウェシから3人を日本へ招いたのです。

このように、ダリケーでは、カカオ製品の愛好者とカカオ農家とが直接顔の見える関係を作ることを重要視しています。カカオ農家はより一層発酵の熟度を増したいいカカオを供給しようとし、消費者はそれをわかって、カカオ農家の顔を思い浮かべながらカカオ製品を消費する、そんな関係が既に生まれて動いているのです。

もちろん、彼ら3人の来日に合わせて、2014年からのツアー参加者が集まる「同窓会」が京都と東京で開催されました。3人はツアー参加者との再会を心底喜び、なお一層、良質のカカオを作っていきたいと強く宣言していました。

東京での「同窓会」では、ツアー参加者の一人の会社の場所を使わせてもらい、さらに、スラウェシからのカカオを使ったガトーショコラを密かに作っていただきました。このガトーショコラには、彼ら3人の似顔絵が。

このガトーショコラを彼ら3人と我々「同窓会」出席者で堪能したのですが、その美味しさに、全員が驚嘆しました。

ダリケーのチョコレートには、毎年、こうしたストーリーが重ねられていきます。

そして、生産者と消費者が顔の見える関係を作ってつながる、ということが、日本とインドネシアという外国であっても可能なのだ、ということを示してもいます。

ダリケーはチョコレート店と自称していません。カカオ店といった方が正しいかもしれません。また、農家をエンパワーメントするようなフェアトレードも謳っていません。いいカカオを作ってもらったら適切に高く買う、という当たり前の取引をしているだけです。

まだ日程は未定ですが、今年も、ダリケーのカカオ農園ツアーがあるはずです。もちろん、2014年以来毎年同行している筆者は、今年もお供する予定です。皆さんも、ぜひ参加されてみませんか。

参加予定の方は、今から8月後半の1週間程度を空けておいてもいいのではないでしょうか。

他のチョコレート店とはだいぶ違う、ダリケーの今後の展開にご注目ください。

国境を越えて人々が学び合える時代が来ている

12月15日まで福島市にいましたが、とにかく寒くて寒くて、部屋の暖房が電気ストーブ1台ということもあり、書きものをしていると手がかじかんできて、体にこたえました。

東京へ戻ってくると、もう、福島よりはずいぶんと暖かく、こんなに違うものだと改めて感じいるのでした。

それでも、12月15日には、前々からお会いしたいと思っていた方とゆっくりお話しすることができ、とても有益な時間を過ごすことができました。そして、自分が目指そうとしていることは、まだほとんど手つかずの活動だということを確認できました。その辺の話は今後、追い追いしていくことにします。じっくりと始めていきます。

12月16日は、「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムに出席しました。トヨタ財団の助成を受けて、フィリピン、東ティモール、ラオスの農民たちが3カ国間を相互に訪問し、3者間で技術交換や学びあいの交流を行う事業の報告会でした。

この事業では、日本側は三者をつなげるための黒子に徹し、三者間の学びあいを深めていくプロセスを促す役目を果たします。彼らの交流のなかで、予期せぬ展開が続出し、そこからまた新たな学びあいが起こる、そんなワクワクするような事業に見えました。

たまたま、三者の農民はコーヒー栽培という点で話題の共通項がありましたが、コーヒーの栽培技術はもちろん、それ以外の農業における地域資源の生かし方など、同じ農民どうしで互いの学びが錬成されていきました。

支援ではなく交流、というのがこの事業の目的ですが、助成を受けている以上、何らかの成果を示す必要があります。通常の支援事業では、計画フレームが最初に作られ、それがいつまでにどれだけ達成できたかがチェックされ、費用対効果も重視されるでしょう。当初の筋書きにないものは、あまり歓迎されない傾向もあります。事業の実施前と実施後との比較で、どれだけ成果があったかを点と点で比べることになります。

交流も、もちろん、実施前と実施後との比較は可能ですが、何を成果とするかは難しいものがあります。学びあった後、そこで得た知識や技術がどう生かされたか、を測定するにはかなりの時間を要します。それよりも、学びあいのプロセス自体に農民たちは意義を感じているように見えました。何よりも、彼らが出会わなければ学びあいは起こらないし、出会っても適切な促しがなければ学びあいにはならないのです。

交流は長いプロセスを経て自ずと自分たちが変わっていくものでしょう。そうした変化の永続的なプロセスが交流の肝と言ってもいいかもしれません。成果を見せるためには、そうした長い永続的なプロセスの中で細かく小さな目標を設定して、それを少しずつ達成し続けていくことになるでしょう。

今や、こうしたフツーの人々が国境を越えて学び合える時代が来ている、という感を強くします。もちろん、それには、通訳者などの献身的な協力なしにはなしえないものでしょう。それでも、従来のような、進んだ国から遅れた国が学ぶという垂直的な「支援」「援助」だけでなく、同じ立場の人々が似たような立場の人々との関係を基本とする水平的な「交流」「学びあい」もまた大いに意味を持つものと認識されていると考えます。

そうした学びあいを日本が促すことに意味があると思う一方で、別に日本だけが促す必要もないとも思います。おそらくきっと、世界中には、同じような学びあいを促そうと動いている人々がいます。公的資金を活用するものもあれば、民間資金や寄付金を活用するものもあるでしょうが、そうした人々を探し出して、ビジョンを共有し、互いの活動を認識しながら、ファシリテーターどうしが緩やかに繋がっていくことで、様々な学びあいのネットワークが自発的に広がっていく、というイメージがあります。

私は、まずは一人で、やれるところから、そうした学びあいの促しを試みていきたいと考えています。ローカルからローカルをつなげ、単なる技術交換に留まらない、ローカルとローカルの学びあいにまで広がっていけたら、と思います。

そして、少しずつ、世界中を視野に、同じような志を持つ同志を探し出す旅、同志を増やしていく旅に出たいと思います。もしかすると、このブログを読んでくださっているあなたが、私の同志になるかもしれません。

16日の「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムは、その意味で、同志は確実にいる、学びあいは社会を変えていく、という確信をより一層強く感じた機会となりました。

シンポジウムの懇親会に少しだけ顔を出し、最近一緒に出かけることが少なかった妻と一緒に、しばし、丸の内など、冬の夜のイルミネーションを歩きました。

明日(12月19日)は、大阪へ日帰り出張します。

穀倉地帯ならではの垂れ幕・看板たち

10月14~15日は、西ジャワ州カラワン県へ行ってきました。

カラワン県はインドネシア有数の米作穀倉地帯として知られており、今回の訪問の目的も、その米作農業の現状についての情報収集でした。

収集した情報についてはここでは披露しませんが、さすが、米どころのカラワン県らしい垂れ幕が店にかかっていたので、それを紹介します。

稲の害虫であるウンカの足に鍵がかかっているの図。ウンカは動けずにそのまま息絶えてしまうのでしょうか。

これも立派な農薬の看板。カラワン県の特約店の前です。

より早く防げば、農民は満足! 天誅(てんちゅう)という名前が付いています。

率直な印象としては、ここでの米作農業の現状は、私が知っていたものよりもはるかに変化していました。本当に、変化が激しいです。常にインドネシアの今を追いかけていけないと、変化についていけなくなりそうな気がしてきます。

今回は、この後、西ジャワ州チアンジュール県、南スラウェシ州ピンラン県、同州バンタエン県で、同様の農業の現況に関するサーベイを行う予定です。

FUKUSHIMARTを訪問、若手農業生産者と会う

今日は、友人のM氏の紹介で、彼がプロデュースに協力したFUKUSHIMARTを訪問してきました。

FUKUSHIMARTは、三春ハーブ花ガーデン(郡山駅からタクシーで約15分)の一角にあり、6月1日にオープンしたばかりの施設です。12人の農業生産者が自ら加工品を生産し、それをこの場所に陳列して、販売しています。12人でローテーションを組んで、生産者自らが売り場に立ち、来客者と直接コミュニケーションし、自分の作った商品の魅力を伝えています。

他には見かけない、ちょっと工夫した商品としては、瓶の中に果物やバラなどがあらかじめ入っていて、それに炭酸水やアルコール飲料を加えて冷やすと、美味しいサングリアや果実酒になる、といった商品(自家製サングリアの素、自家製果実酒の素)がありました。

また、福島県ではもう珍しくなってしまった、昔ながらの製法で作った醤油やそれをベースにした油醤油(にんにく味、唐辛子味、カツオ味)などもありました。

これらの他にも、君のためのマヨネーズ、僕のためのマヨネーズ、娘のためのたまご、妻のためのたまご、東和の桑のほうじ茶、蜜入り紅玉りんごジュース、あだたら山のミルクジャム・ジンジャーシロップ、奥川源流米、食べるバラ・コンフィチュール、カレーのお米、玄米コーヒー、食べる紅茶、もろみふりかけ、ヨーグルトシュガー、西洋野菜(カーボロネロ、黒大根。黄金カブなど)、創作麺(つるつる菜っ葉麺、ゴンボ麺、アカモクうどん)などが陳列されています。
FUKUSHIMARTに来れば、これらを作った農業生産者から直接、商品に関する説明を受けることができます。説明はとても丁寧なので、10分も15分も彼らと話し込んだりしてしまいます。
この場所は、モノを売る場所であると同時に、来客者とのつながりを作る場でもあるのです。12人の農業生産者は一つのチームとして組織されており、各人が自分の売上だけを考えているわけではありません。若い自分たちが先頭に立って、震災後の福島において、積極的に6次化に取り組み、農業の新しい方向性を作っていこうと前へ動き始めたように見えました。
彼らの商品の一部は、東京及びその周辺で開かれるマルシェに出品されるほか、福島県のアンテナショップである日本橋ふくしま館MIDETTEでも販売されています。
今日は、地元テレビ局の生放送が入るということで、残念ながら、彼らとゆっくり話をすることはできませんでしたが、また次回訪問したときには、改めてゆっくり話を聞けたらと思います。
とりあえず、創作麺は福島市で製造し、食べさせてくれるところがあるので、近いうちに、創作麺を食べに出向くことを生産者のS氏と約束しました。

福島で「風評被害」の勉強会に出席

今日5月27日、福島市曽根田のアオウゼで、NPO法人ふくしま30年プロジェクトの主催する「風評被害」の勉強会に出席しました。講師は福島大学の小山良太氏で、とても納得できる話を聞くことができました。

風評被害については、つい最近、NHKのクローズアップ現代で取り上げられ、少し前の私のブログで、米の全量全袋検査のことを書きました。また同じ内容の番組をNHK東北版で放映したそうで、小山氏は東北版のコメンテーターを務めたとのことです。

小山氏によれば、風評被害の原因は消費者の買い控えではなく、流通における取引順位の低下(最下位になったこと)にある、という点です。

果樹のように、希少性や時限性の高い旬のある産品はあまり影響がない一方、米や肉のように、年間を通じて安定供給される産品において、福島産の取引順位、すなわち市場で取引される順番が最も後になってしまった点が原因である、という見解です。

米について言うと、福島の米はもともと品質が高いため、家庭用として売られてきましたが、震災後、市場での取引順位が最下位となってしまい、業務用として扱われるようになっていきました。現在、JAと民間とを合わせて、福島米の6割程度が業務用になっているようです。

福島米が最も流通しているのは首都圏ですが、その次に多いのが沖縄県です。その沖縄でも、福島米の取引順位は大きく下がり、価格が下がりました。それを受けて、ある沖縄のお弁当屋さんが米を福島産へ変えたところ、「弁当が急に美味しくなった」と評判になり、作る先から売れてしまうのだそうです。

牛肉でも、福島産の取引順位は最下位で、和牛枝肉価格でキロあたり全国平均よりも500円低い状態で推移しています。畜産農家のマージンはキロあたり500円と言われていて、全国平均より500円低い福島の畜産農家は損益分岐点、儲けが全く出ていない状態ですが、畜産を止めてしまうと肉の供給に支障をきたすため、生かさず殺さずの状態になっているという話でした。

福島産の米や牛肉の取引順位をどのように上げていくか。市場による評価を上げていくか。これが風評被害を克服するために重要だというお話でした。

そして、振り返ってみると、福島産の農産物は品質がよかったので、とくに取引順位をあげることを震災前まではほとんど考える必要がなかったということが想起されました。北海道や山形が、必死になって取引順位を上げるために懸命なマーケティングを行っていたのとは対照的に、福島はそんなことをしなくても売れたのでした。

震災前と比べて、福島産の農産物の品質が落ちたということはありません。それでも市場で売れないのは、消費者が買わないというよりも店頭で売られていない。それは、流通段階での取引順位が最低になっているためで、それは流通業者が消費者には売れないと勝手に忖度しているためなのでした。

他方、福島側は、消費者や流通業者へ「品質が良い」ことをアピールし、だから正当な価格で売って欲しいとお願いするのみで、自分たちが取引順位を上げるためにどのような戦略をとるのか、がまだ欠けているように見えるのです。

北海道の夕張メロンがどのように静岡のマスクメロンに勝っていったのか。山形のつや姫が取引順位を上げるために県がどのような政策をとったのか。

小山氏は、もしかすると、原発事故が仮になかったとしても、福島の農業は同様の問題に直面していたかもしれない、とも考えていたようです。すなわち、高品質という評判を受けて、従来通りのやり方を続けていくなかで、厳しい市場競争において取引順位を落とした可能性もあったのではないか。

風評被害というピンチだからこそ、それをチャンスと捉え、新しい戦略を考えなければならないのかもしれません。たとえば、業務用の米の需要が伸びていくなかで、これまで家庭用を前提に作ってきた米を業務用を前提に作るとした場合、どのような戦略をとるか。大手コンビニとの契約栽培もありではないか。

また、旧来のブランドに縛られるのではなく、むしろ、全く新しいブランドを立ち上げて、それも用途別・機能別のブランド化を考えるほうが効果的ではないか。

山形のように、つゆ姫のような高級ブランド米を作る地域と業務用米を作る地域とを明確に分ける戦略も考えられるのではないか。

小山氏は、風評被害を克服するためには、福島の農業自体が自ら変わる必要があるということを強調していました。食管制度に守られた農業の感覚からまだ抜けられていない、とも指摘しました。

他にも、福島市で初めて行なった米コンテストの効果が予想以上だった(農家どうしが競うことを嫌う風潮もあり、他の農家の米作りを学び合う機会がなかったようです)、という話も、若干の驚きをもって聞きました。

最後に、外国、とくにアジア諸国では、福島産農産物へのマイナスイメージが極めて高いという問題に触れられました。そして、状況説明を福島県が行っているものの、国家として政府が外国へ向けて、原発事故の影響を何も総括していない、総括報告書を出していない、という事実を指摘されました。

そう、そうなのです。外国政府から求められているのは、日本政府としての総括報告書なのです。ところが、日本では、福島県がその総括をやる立場になっています。その一方で、東京オリンピック招致の際には、国レベルで「東京は福島から270キロ離れているから安全だ」などとスピーチしてしまうのです。総括はしたのか?と言いたくなります。

産物の取引順位を上げるために、産地対策に力を入れ、きちんとした戦略を作る。国に原発事故後の農業の状況に関する外国向けの総括報告書を作らせる。そして、農家は、他の農家といい意味で競い合いながら、粛々と真面目に農業を行っていく。

福島の農業にとって必要なのは、良質な刺激と適切な戦略を作っていくためのしっかりした実態調査なのかもしれません。小山氏の講演から様々な学びを受けました。さらに、しっかりと見続けていきたいと思いました。

1000万袋以上の福島県産米を全量全袋検査、基準値越えは無し

マカッサルからいきなり福島の話へ移ります。

夜のテレビで、福島米の風評被害の話を取り上げていました。安全安心なのに、なぜ売れないのか、という話でした。

福島県では、出荷販売用だけでなく、自家用も含めて、県産米の全量全袋検査を2012年8月から実施しています。ここで採られている方法は、「ベルトコンベア式放射性セシウム濃度検査器」によるスクリーニング検査で、30キログラムの玄米袋を毎年1000万袋以上、検査しています。

スクリーニング検査について、福島県は以下のページで説明しています。

 全量全袋検査のスクリーニング検査

そして、2014年以降、すべての袋が基準値(100 Bq/kg)以下となっています。1000万袋以上のすべてが基準値以下、ということになります。そして、基準値の半分を超えるものについては、さらに、ゲルマニウム半導体検出器による詳細検査を行っていますが、その対象となったのは、2014年で、1000万袋以上のうちのわずか2袋でした。

日本で、福島県以外でこれと同じレベル以上の検査を行っている都道府県は、ほかにあるでしょうか。いや、世界であるでしょうか。

福島県産の米は、日本一、いや、もしかすると世界一、安全安心の米であると言えるでしょう。

農家Aさんの何年何月何日に出した玄米袋の米は基準値以下だった、というデータが2012年から蓄積されています。膨大な量の「基準値以下」データを福島県は取り続けています。

自分のところから基準値以上の米が出てしまったら、世間から「やっぱり福島は」と言われてしまう。風評被害が本当だったと思われてしまう。他の頑張っている農家から目の敵にされてしまう。

そんなことを思っていたかどうかはわかりませんが、全量全袋検査での基準値以下が当たり前となる状態を作るため、福島県の農家の方々は懸命に努力を重ねてこられたに違いありません。その努力は、私たちが認め、敬うべきものだと思います。

にもかかわらず、こうした現実を一切認めたくない人々が存在します。土壌が汚染されていないはずがない。スクリーニング検査の機械の精度がおかしい。データを捏造しているに違いない。

このような人々は、もう何を言ってもお手上げです。そういう人の何人が実際に福島の現場を訪れているでしょうか。自分の言っていることの間違いを認めればいいだけなのに。間違いを認めたくないがために、風評を流し続けているようにさえ見えます。

風評は、反論してなくなるものではないとも思います。データをきちんと残し、地道にコツコツと事実を積み上げて示していくしかないものです。その意味で、福島県が今もずっと米の全量全袋検査を続けていることは、面倒ではあっても、やらざるをえないことだと考えます。

この日本一、いや世界一厳しいかもしれない、福島県の検査手法は、おそらく、食の安全安心を確保するうえで、時代の最先端をいくものかもしれません。もしそうならば、日本が世界に誇るべき食の安全安心を確保する手法として、世界に輸出できるようなものではないか、と思ったりもします。

風評被害に悩む福島県の食の安全安心対策が、実は世界最先端であるかもしれないと考えると、この手法が世界で受け入れられることが、世界の他国での食の安全安心に貢献し、かつ、国内の風評被害を一掃することにつながるのではないか、と思うのです。

オセロのように、風評被害対策の一発逆転があるような気がします。

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

2月26日〜3月4日はスラバヤ出張

1週間後となりましたが、2月26日〜3月4日は、JICA中小企業海外進出支援事業の外部アドバイザーとして、インドネシア・スラバヤへ出張します。

今回は、大阪の中小企業による食品加工機械のデモンストレーションに関するワークショップのお手伝いです。主に、シドアルジョにある東ジャワ州商工局の訓練センターでの業務となる予定です。

スラバヤを州都とする東ジャワ州は、農産品加工による付加価値向上を州開発政策目標の最上位としており、日本からの食品加工機械の導入には大変熱心に取り組んでくださっています。とりわけ、健康ブームの影響で、油をできるだけ使わない加工食品の開発・生産への関心が高まっています。

日本でも、ノンオイルのおせんべいなど、ヘルシー志向の食品が増えていますが、高血圧や高コレステロールが蔓延するインドネシアでも、経済発展に伴う生計向上のなかで、そうした食品の健康化が大事な時代になってきたと言えるでしょう。

スラバヤはちょうど日本祭りが終わった頃だと思いますが、うまく日程が合えば、日本祭りにも顔を出したかったところです。以前、スラバヤに住んでいたときに楽しめたので、ちょっと思い入れがあります。

というわけで、来週、スラバヤでお会いできそうな方は、別途、ご連絡いただければ幸いです。

福島のあんぽ柿をいただく

月曜日の会でご一緒した、元飯舘村、今は避難先の福島市の椏久里コーヒー店のマスターから、お土産であんぽ柿をもらいましたので、早速いただきました。

あんぽ柿というのは、福島では干し柿のことを指します。渋柿を硫黄で燻蒸して、屋根の軒先に吊るして、吾妻山系から吹きつける北西の冷たい風にさらして乾燥させます。普通の干し柿だと、乾燥させると黒く固くなって糖分の粉を吹きますが、あんぽ柿はそうならず、半生のような感じで、甘くて柔らかいのです。なお、硫黄は揮発するので、毒性はありません。

主産地は、宮城県境に近い福島県伊達市梁川町五十沢(いさざわ)地区で、11〜2月が収穫・出荷の最盛期となります。

もともと、この地域は幕末の頃から養蚕が盛んでしたが、大正期になると生糸産業が衰退へ向かいました。その頃、五十沢の有力者たちが養蚕に代わる農産物を探し求め、その結果、あんぽ柿をはじめとする果樹産品への転換が進んでいったとのことです。

あんぽ柿の袋には、検査済みマークが貼られています。福島県あんぽ柿産地振興協会が放射性物質の検査を行い、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)を満たすものだけを出荷しています。

あんぽ柿の放射性物質検査情報は毎週更新され、以下のサイトで見ることができます。

 あんぽ柿検査情報

東京電力福島第一原発事故から2年9カ月後の2013年12月になって、あんぽ柿の出荷は再開されました。しかし、あんぽ柿は、柿を乾燥させるため、乾燥に伴って柿の中の放射性物質濃度が高まる恐れがあるため、出荷にあたっては、これまで細心の注意が払われてきました。

実際、福島県は、2016年12月15日付で、「あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について」という通達を出しました。現状で基準値を超えるものはほとんど出ていないものの、さらなる万全を期すために、監視を続けていく姿勢を示しています。

 あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について

あんぽ柿の出荷が再開されたとはいえ、基準値を上回るものは市中に全く出回っていないとはいえ、まだまだ監視の目を緩めるわけにはいかないのです。

福島県は、「基準値を超える可能性があると判断した市町村は加工自粛するように」と呼びかけていますが、今のところ、そのような市町村はないようです。これも万が一に備えての呼びかけであって、もうすでに危ないから自粛を呼びかけているのではありません。

あんぽ柿の検査プロセスは、以下のサイトに図解されています。すべてのあんぽ柿が全量非破壊検査を受け、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)よりもずっと厳しいスクリーニングレベル、すなわちキロ当たり50ベクレルを超えたものがトレーに混じっていれば、そのトレーの柿はすべて廃棄する、としています。

 平成28年度あんぽ柿の検査イメージ

福島県から出荷されるあんぽ柿は、全量、サンプルではなくて全量、放射性物質検査を受けています。その数は、2016年11月〜2017年1月で314万7768個です。そのうち、キロ当たり50ベクレルのスクリーニングレベルを超えたものはわずか1955個(すべて廃棄)で、キロ当たり25〜50ベクレルが4万6320個、測定下限値のキロ当たり25ベクレル未満が309万9493個でした。

特筆できるのは、上記について、その検査結果がすべてデータとして残されている、ということです。どこから出荷されたあんぽ柿のいつの放射性物質検査結果がどうだったのか、というデータがすべて残されているのです。

福島県では、米の全量全袋検査が今も継続されていますが、たとえば、平成26年産米では、2014年12月31日までに1077万点以上を検査し、基準値超えは0点でした。これも、すべてデータが残されています。

日本の他の都道府県・市町村で、福島県よりも厳しい放射性物質検査を行っているところはあるでしょうか。それらが福島県のものよりも安全だと客観的に示せるデータを持っているでしょうか。

外国へ日本から農産品を輸出する際、放射性物質に関する客観的なデータを求められることがありますが、それに日本で対応できるのは、実は福島県だけなのではないでしょうか。

言われのない中傷や風評がなくならず、避難した子どもがいじめに遭うなど、福島をディスる動きはまだなかなか消えませんが、そんな中で、農産物の放射性物質検査を根気強く行い、データを残すという、地道な努力を続けてきた福島は、市場の評価とは裏腹に、いつの間にか、客観的な安全安心のトップランナーになりつつあるのです。

こうした安全安心への地道な取り組みを見ているのは、日本国内だけではありません。世界のバイヤーが見ています。安全安心を求める世界の農業関係者が見ています。

福島の農産物を食べないのはけしからんとは思いません。食べてくださいと懇願するつもりもありません。食べるか食べないかは個々人の自由な判断によるからです。

でも、何の客観的根拠もなく、福島を心配するようなふりをして、福島のものを食べる人をディスるのはやめてほしいのです。心の中で福島をディスるのは個人の自由ですが、それを口に出す必要はないはずです。

今は検査結果が良くても、来年も再来年も大丈夫だとは言えない。その思いは、未来に対して謙虚だからこそ、なのです。それゆえに、万が一に備えた条件付きの「加工自粛」を呼びかけたり、膨大な検査データを残し続けているのです。

もしかすると、この福島の安全安心への地道な取り組みが、世界の安全安心へのモデルとみなされていくかもしれません。

あんぽ柿を作っている農家さんの姿を想像しながら、そんなことを思いました。そして、がぶっとかじった柿は、甘くてとても美味しいのでした。

帰国し、しばし静養中

10月30日〜11月5日、今年関わっているJICA案件最後のインドネシア出張を終えて、帰国しました。

今回は、福島市チームとともに、東ジャワ州バトゥ市とマラン市を訪問しました。福島市との間で、農業関係の今後のよい連携関係が生まれそうな確信を得ることができた、有意義な出張でした。

バトゥ市の水耕栽培用ジャガイモの育苗所にて

とくにバトゥ市では、市長表敬に留まらず、市の農業政策アドバイザーの大学教授から、極めて前向きの見解が示され、今後の展開を積極的に進めていこうという機運が強まっています。これらの内容については、いずれ、時期を見てお知らせしていきたいと思います。

9月27日〜10月22日のインドネシア出張に続いて、帰国後も報告書執筆に集中し、10月28日に名古屋で講演した後、今回の出張となりましたが、この間、私にしては珍しく、体調がすぐれない状況がずっと続いていました。

チーム内にはインドネシア語で仕事のできるメンバーが他にいないため、本業のサーベイ以外に、アポ取り、車両アレンジ、ホテル手配などのロジや、福島市を含む日本の地方自治体からのお客様のケアもしました。

自分では、それら自体を負担に感じたことはありませんでしたが、自分の体は嘘をつけなかったようです。

出張中に足、手、顔などに水泡を伴った吹き出物が出てしまいました。それが出ているところは、赤く火照って痛いのです。こんな状態になったのは、これまでで初めてだったので、すぐ治るだろうと放置しておいたら、どんどんひどくなっていきます。

頭痛も続きました。ときおり、ぼーっとして、何もやりたくない状態になり、とにかく眠くてしかたがない。そんな日が長く続きました。

自分では意識していませんでしたが、ストレスと過労だったのでしょうか。過労というほど、たいした量の仕事をしているとは思わなかったのですが。

帰国後、皮膚科で診てもらったら、ヘルペスという診断でした。まさか、という気がしましたが、専門医がいうのですから受け入れるしかありません。医師の指示に従い、点滴を受け、抗生物質を含む薬を処方してもらい、東京の自宅でしばらく静養することにしました。こんなことはこれまでで初めてのことです。

この数日間、ゆっくり寝て、休んでいる間に、症状は徐々に良くなってきました。頭痛もなくなってきました。今週中には復活できると思います。というか、報告書原稿の最終締切があるので、復活しなければなりません。

11月20日から一週間は、別件で、またインドネシア(ジョグジャカルタ)へ出張します。おそらく、今年最後のインドネシア出張になると思います。

体は嘘をつかない、ですね。自分の年齢のことも考えて、仕事と休養のコントラストをうまく作っていくこともこれからの課題だと改めて感じ入りました。

トウガラシの花、ジャガイモの花

インドネシア・東ロンボク県センバルン郡の野菜畑を歩きながら、出会ったのは野菜だけでなく、野菜の花たちでした。

トウガラシの花を初めて見ました。小さな白い花でした。

あまり目立たない、白い色の控えめな佇まいでした。質素な感じもします。

周りは、見渡す限りのトウガラシ畑。そういえば、トウガラシのことをロンボクともいうのです。ロンボク島はトウガラシの島、なのです。

続いて、ジャガイモの花。

あの不恰好な形のジャガイモからは想像もつかない、素敵な花でした。

このジャガイモ畑から獲れるジャガイモは、インドネシアの食品大手企業との契約栽培です。かつてはニンニクの第産地として名高かったセンバルン郡でしたが、政府によるニンニク輸入拡大政策の影響で、ニンニクから他作物への転作が必要になったとき、転作作物として、東ロンボク県政府が食品大手企業とのジャガイモの契約栽培の話を持ってきたそうです。

それにしても、こうした花が咲くからこそ、実がなるのだ、という当たり前のことに気づかされます。そう思うと、野菜の花の可憐さが愛おしく感じられます。

今週は、とにかく報告書原稿を仕上げなければなりません。そんな合間に、こんなブログも書いてみたくなります。

センバルンの夜は寒かった

東ロンボク県のセンバルンは、このブログでも取り上げたように、標高1000メートル以上の高原に立地しています。高原野菜の産地で、あらゆる野菜が栽培されています。

とくに盛んなのは、トウガラシ、ジャガイモ、シャロット(赤ワケギ)、ニンニク、キャベツ、レタス、ナス、トマト、ブロッコリー、スイートコーンなどの野菜。イチゴ、メロン、オレンジなどの果物。

メロンとスイートコーンは、BSDのイオンモールで売られていますので、きっと見たことのある方も多いことでしょう。センバルン産とはどこにも書いてありませんけれども。

センバルンは、リンジャニ山への登山口でもあり、土日ともなると、登山の観光客などで賑わいます。観光客が帰る前に、畑へ行くと、実は、そこで野菜や果物を直接買うことができるのです(土日のみ)。

畑への入場料として15,000ルピアを払い、好きなだけ摘み取って、キロ当たりいくらで買うことができます。観光農園ではないのですが、フツーの畑でそれをやっています。

センバルンの農地は火山灰土で水はけが良く、土中に病原菌がないというニュージーランドの専門家の調査があるようです。ジャガイモもニンニクも、インドネシア各地で病気にやられていたときに、センバルンでは病気が発生しなかったということです。

ジャガイモの大半は大手食品メーカーのインドフードと契約栽培していますが、インドフードはこの病気フリーのジャガイモというところに目をつけたものと思われます。

畑地では、次々に栽培する作物を変えながら連作障害を避ける工夫をしています。

もっとも、有機栽培というわけではなく、化学肥料をけっこう使用していました。かつては肥料も農薬も使わなかった、ということなのですが。

それはそうと、今回は、初めてセンバルンに泊まりました。センバルンには、何軒か宿泊できる宿があり、意外に清潔で新しいところがあります。私が泊まったのは、Pesona Rinjaniという宿で、コテージで1泊50万ルピアでした。

宿の前には広い敷地があり、コテージがいっぱいになると、そこにテントを張ってお客さんに泊まってもらうこともあるのだそうです。

宿の目の前には、リンジャニ山がドーンとそびえていて、雄大な眺めです。

しかし、センバルンの夜を侮っていました。夜の気温は、おそらく10度前後まで下がり、部屋にある毛布1枚ではとても寒い。長袖のウィンドブレーカーを着ていても、夜風が冷たく、寒くて仕方ありませんでした。

お連れした兵庫県の方々も、「まさかロンボクでクーラーなしでもこんな寒い経験をするとは思わなかった」と言っておられました(怒っていたわけではないので助かりましたが・・・)。

そして、朝8時過ぎになると、急速に気温が上がり、汗ばんできます。この昼夜の気温の差がまた野菜栽培に適しているのかもしれません。

インドネシアで涼を求める方には、センバルンでの宿泊をお勧めします。ただし、寝袋や温かいオーバーなどを忘れずに。

今年2回目のセンバルン訪問

リンジャニ山の東側に広がるセンバルン地区。今回は2回目の訪問でした。

標高1000メートル以上の高原地帯で、涼しい気候を利用した高原野菜・果樹栽培が盛んです。肥沃な火山灰土のおかげで、ほとんどの種類の野菜を作ることができ、しかも、病気フリー。それに目をつけたインドフードなどの大企業が契約栽培を手広く行っています。

ここで栽培されたメロンは、ジャカルタ近郊のイオンモールでも販売されているとか。甘い、です。

酸っぱくないイチゴ、甘さはイマイチですが。アメリカ原産の苗で栽培。

センバルンは、リンジャニ山へ登る登山者たちの中継地点でもあり、土日ともなると、登山を終えた人々が帰る前に畑に寄って、直接、野菜や果物を買う光景も見られるといいます。そうした畑では、入場料1万ルピアを払ってもらい、自分で摘んでキロ単位いくらで購入し、お土産にするのだそうです。

センバルンで宿泊できるゲストハウスのようなところがいくつかあります。設備の面からはホテル並みとは言えませんし、Wifiがあるわけでもないのですが、意外にとt乗っている印象でした。最近できた小ホテルの部屋はこんな感じです。

まだまだ設備は貧弱ですが、あと10年もすると、ゲストハウスがたくさん道沿いに現れていくのでしょうか。

東ロンボク県の県都セロンからセンバルンへ向かう途中に、ロンボク植物園の看板があります。この植物園は国立ではなく、東ロンボク県政府が音頭をとって、小スンダ列島の植生を研究するセンターとして育てたい意向です。開業は2017年です。

またまたインドネシアへ

今年何回めのインドネシア出張になるのでしょうか。9月27日から、またまたインドネシアへ出張します。

今回は、10月23日にいったん帰国し、28日に名古屋で講演した後、30日から11月5日まで再びインドネシアへ行きます。

今年はこれでインドネシア出張は打ち止め、と思っていましたが、11月の後半に1週間程度、ジョグジャカルタへ出張することになりそうです。

今年は当初、次のステップへ向けてじっくりと日本で会社設立しようと思っていたのですが、3月からJICA案件に関わり、それが11月まで続き、思ったよりも自分が関わらざるをえない部分が大きかったので、じっくりと言うわけにはいかなくなってしまいました。

でも、そのJICA案件は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府を農業・畜産業分野で連携させることは可能かどうかを実際に調査する内容。国境を越えて、ローカルとローカルを結びつけて新しい何かを起こす、を今後の仕事の使命と考えている自分にとっては、願ってもない内容の案件でしたので、関わることにしたのでした。

案件自体の中身やプロセスの是非はともかくとして、自分にとっては良い機会になったと思います。5年以上前から、ローカルとローカルをつなげて新しい何かを起こすことを考えてきたのですが、それが果たして、今後の世界にとって有用なことなのか。

砂糖の山に群がるアリのように、美味しいところに入って行って他の人のようにやった方が楽だったのではないか。そんなことを思いながら、これがコンサルタント・ビジネスとして成り立つのだろうか、という疑問を抱き続けてきました。

そして今、少しずつ、それが確信に変わり始めています。

砂糖の山でいっぱいの国や中央ではなく、なぜローカルなのか。そしてなぜ、自分はいったん知り合いとなって触れ合ったローカルと一生付き合う覚悟をするに至ったのか。

そう、自分の顧客となったローカルとは、先方から「もういいです」とお引き取り願われた場合を除いて、プロフェッショナルとして、一生ずっとお付き合いをしていく覚悟を決めました。ローカルの味方として生きていく覚悟を決めました。

よろしくお願いいたします。

では、またインドネシアへ行ってきます。

(上写真)本邦招へいプログラムを終えた、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市農林業局長、マラン市農業局アグリビジネス部長とインドネシア料理レストラン「チャベ」で会食。バトゥ市、マラン市と福島市とを結んで、新しい何かを生み出す中長期的な連携を関係者とともに構想中です。今回の出張中に、バトゥ市とマラン市で彼らと協議を進めていきます。

13年ぶりに馬路村を訪ねて思ったこと

9月8日から、本邦研修の一環として、インドネシアから招聘した地方政府の役人の方々と一緒に、高知県に来ています。

9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。

当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。

農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。

人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。

今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。

しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。

馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。

そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。

村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。

「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。

地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。

村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。

こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。

サゴやしデンプンのつくり方

昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。

まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。

繊維状に切ったものは下のような形状をしています。

ここから必要量を取り出します。

サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。

樋(とい)には水が流れています。

そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。

サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。

樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。

これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。

昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。

インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。

緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。

しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。

17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。

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