インドネシア研究と地域振興・地域づくりの二本柱

私自身は、元々、35年前からインドネシア地域研究を仕事としてきましたが、その途中で、25年前から地域振興や地域づくりについても自分なりに経験と専門性を深める努力をしてきました。
ですから、専門は何ですか、という質問に対しては、インドネシア地域研究と地域振興・地域づくりの二本立て、と答えるようにしてきています。
地域振興・地域づくりを強く意識するようになったのは、1995年に、インドネシア東部地域開発政策アドバイザーを務めてからでした。
それ以前の1993年から2年間は、日本の産業政策が東南アジア諸国の産業発展にとって有効かどうか、という課題に取り組んでいました。ちょうど、世界銀行から『東アジアの奇跡』(East Asian Miracle)という報告書が出て、市場原理主義だった世銀が日本型の産業政策に一定の評価を与えたことが注目されました。日本の産業政策のなかで、数社による寡占的な業種でいかにコンテストベースの競争政策を持続的に進めるか、という適切な政府介入、政府=民間の関係というものが議論されました。
その後、全く意識していなかった地域開発政策という分野へ入っていきます。それまでに行ってきた研究は、中央省庁よるマクロな政策が主であり、一国研究として「インドネシアは」というアプローチでした。
ところが、地域開発では、対象の地域が主語になります。それまで、日本の産業政策をサーベイするなかで、産業再配置政策の歴史的展開については調べていたのですが、インドネシアの各地域の状況については、一国という単位のなかで大まかにしか把握していませんでした。
実際にスラウェシ島最大の都市であるマカッサルに赴任して、インドネシア東部地域の各地や農漁村、離島部などの現場を歩きました。そこで地域開発政策の観点で重要なのは、政府と民間(住民)とがどのような関係をつくり、民間(住民)がイニシアチブをとれる環境をどう作っていくのか、それを促すための適切な経済的刺激をどのようにうまく入れて活用するのか、といった点であることを実感しました。それは、程度の差こそあれ、日本の産業政策における政府介入や政府=民間関係の在り方などとある意味共通するものであったことに気づきました。
地域開発政策アドバイザーとしてのメインの相手は地方政府であり、彼らの見解や考えが民間(住民)レベルでのニーズや意識を反映しているかどうか、どのように両者の適切な関係をつくることができるのか、それを彼ら自身が納得して自分たちでつかみ取れるか、といったことを考えながら仕事をしていました。
そして、アドバイザーであるから当然の提言や助言を出さず、彼らの気づきを促し、彼ら自身が作り出したと認識できるような、敢えて教えない、ファシリテーター的な政策アドバイザーを目指しました。
インドネシアでも、日本から来た専門家に対しては、すぐに効果の上がる、手っ取り早い解決策を求める傾向が強いものです。しかし、私は自分がその土地に馴染みの深くない「よそ者」であることを強く意識しました。解決策が必要であれば、それは、「よそ者」から与えられるものではなく、その土地の人々が自らのものとして編み出すものである、という態度で通しました。
インドネシアでのべ5年間の地域開発政策アドバイザー業務を終えて帰国し、派遣元のJICAで帰国報告を行ったときに、ある方から言われた言葉を忘れることができません。
曰く、あなたのやったことは評価できない。あなたが助言したから先方の政策に生かされたという検証ができない。何月何日に発した助言が何月何日にこのように政策に反映された、それは日本のおかげだ、というのがないと評価できない、と。
実際、私が提言した内容を地元政府高官が発言する現場には、何度も出くわしました。でも、それは借り物ではない彼の言葉でした。彼なりに私の提言を咀嚼し、自分の言葉で発言したのでした。それを「私がインプットしたからそう言った」と主張することは、自分にはできませんでした。
私は、ポリシーペーパーを書いてその通りやりなさい、と助言する政策アドバイザーにはなりませんでした。「よそ者」としてその土地に長くいる彼らと一緒に考え、ときには彼らからすれば頓珍漢なアイディアさえ入れつつ、議論の流れを見ながら再度私なりの意見を入れ、というプロセスを繰り返しました。
「よそ者」である自分が、その土地の未来に対して責任を取ることはできません。その責任を取るのはそこに暮らす人々であり、地元の地方政府です。ある意味、私なりの無責任を貫くことにしました。
それから今に至るまで、彼らとの関係はずっと続いています。ときには、アドバイスを求められることもあります。ただ、自分が果たしてどの程度彼らにとって役に立てたのかについては、胸を張って「これだけ役に立った」ということはできずにいます。
ただ、あのとき、あの時代を共有していた、一緒に課題の解決策を真剣に議論し合った、そんな経験が今も彼らを信頼する基盤になっているような気がします。おかげさまで、インドネシアでは、34州中28州を訪問し、地域振興等について真剣に議論してきました。
世間的にはこれでよいのかどうかは疑問ですが、これが自分のスタイルなのだ、と思うことにしています。
以上のような経緯を経て、今では、インドネシアでも日本でも、中央省庁と仕事をすることはあまりなくなり、地方自治体や地域コミュニティと一緒に何かをするほうへ比重が移ってきています。インドネシアへの出張も今や、ジャカルタではなく、ほとんどが地方への出張となりました。
果たして、日本でも上記のようなやり方や考え方は有効なのか、といつも自問しています。そのときに、参考になるのは、論文を多数書いた研究者ではなく、日本中の地域という地域を歩いてきた宮本常一氏のアプローチです。インドネシアの地方をまわる際にも、彼のやり方は本当に参考になりました。
そして、今、インドネシアの地域も、日本の地域も、その直面する根本課題が「地域アイデンティティをどのように持続・発展できるか」という共通課題であることを意識するようになりました。地域振興・地域づくりについて、インドネシアの地域と日本の地域とをパラレルに見ながら、この2国以外の地域についても同様ではないかと考えるようになりました。
国境を越えて、ローカルの視点から、地域と地域をパラレルに、あるいは複層的にみていくことで、国家単位では見落とされてしまいがちな、より本質的に課題に迫れるのではないか、という意識が自分には年々強まってきています。
というわけで、インドネシア地域研究(とくに政治経済の現状分析)は継続していきますが、それにプラスして、国家という枠組みを超越した地域振興・地域づくり(とそれが創る新しい未来像)を意識した活動を続けていきたいと考えていきます。
数え切れないぐらい堪能したインドネシア・マカッサルの夕陽。
自分にとって最も重要な景色の一つ。

市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。