「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

「日本に地域は必要なのですか」という問い

先日、筆者の尊敬する大先輩の方からお話を聞く機会がありました。その席で、その大先輩の言った言葉が耳から離れなくなりました。衝撃的な言葉でした。

大先輩は、言いました。「最近、霞が関で会議に出ると、官僚からよく訊ねられるんだよね。日本に地域は必要なのですか、って」

一瞬、耳を疑いました。それが、霞が関の官僚の本音なのか・・・。

人口が減少する時代、人々が買い物や医療や様々なサービスを受けやすくするためには、散在する地域から、そうしたサービスを供給する場所へ人々に移ってもらうのが効率的だ、行政コストの面からもそのほうが効率的だ、という議論。

コンパクトシティや中核都市の議論は、まさに、行政側から見た効率性の観点から進められています。その究極は、地域など要らない、という話になるのでしょうか。

行政にとっては、地域は面倒で邪魔でカネのかかる存在でしかないのかもしれません。

地域を国に従わせ、あげくには、面倒だという理由で地域を捨てる、という思想。

長い歴史を見れば、国よりも先に地域が、コミュニティがあったことは誰の目にも明らかです。国家体制が資本主義でも社会主義でも軍国主義でも、地域は住民の暮らしの場として存在し続けました。国家による収奪を受けても、地域は日々の暮らしの場であり続けました。

その土地や自然との交感の記憶によって、それぞれの人生のかけがえのない場としての地域を、効率性の観点だけで、国家が奪い取ることがあってはなりません。

地域が消滅するのではなくて、霞が関は、実は、地域を消滅させたかったのか。「日本に地域は必要なのですか」という言葉からは、そんな印象を受けます。

原発事故や災害で故郷を離れざるを得なくなった人々の地域に対する思いに、霞が関はどれほどの気持ちを寄せられたのでしょうか。いや、何も感じていないのかもしれません。

地域がなくなった日本を想像します。そこには、国家しか存在しない。国家に都合の良いように、人々の生活から地域が取り上げられ、国家のためのみに生きることを求められるのか。

「日本に地域は必要なのですか」という問いの存在を前提にすると、地方創生も地域活性化も、地域に寄り添うふりをするための上っ面の政策に過ぎないことが見えてきます。

地域が自覚をもってしっかりしていかなければ、自分たちの暮らしを守っていくことはできません。霞が関から「地域は必要ない」と言われて、「はい、そうですか」と言うわけにはいかないのです。それは暮らしの場を捨てることになるからです。

誰が総理大臣になろうとも、どの政党が政権与党になろうとも、明日戦争が起ころうとも、たとえ補助金がなくなろうとも、我々は日々暮らしていかなければならない。その場所である地域を決して無くすわけにはいかないのです。

我々は大いに憤慨すべきです。「日本に地域は必要なのですか」と問う霞が関の浅薄さと自己中心主義、ご都合主義に対して。

みなかみ町の「たくみの里」をちょっと訪問

今日(7/3)は、みなかみ町を訪問し、朝から夕方まで、関係者と会議でした。

5月から、みなかみ町のアドバイザーを拝命しており、今後、インドネシアの地方政府との関係づくりを進めていくにあたっての助言や情報提供をお願いされています。

会議終了後、町役場の方が「たくみの里」へ案内してくださいました。たくみの里のホームページでは、以下のような説明がなされています。

たくみの里は昔ながらの日本の風景を残す須川平にあります。
東京ドーム約70個分(330ha)にわたる集落には昔ながらの手法をそのままに木工、竹細工、和紙などの手作り体験ができるたくみの家が点在しています。手作りが体験できるたくみの家と、展示・見学・ショッピングがたのしめる家の二種類があり、それぞれのたくみが各家のオーナーとなりオリジナリティ溢れる作品や体験を提供させていただきます。

たくみの里事業は、1983年、旧新治村で、農村地域の持つ観光資源(農村景観、歴史文化、伝統手工芸)を活かし、しっかりした農業経営のもとで、美しい農村景観を保全する事業として開始されました。背景には、温泉などの旅館・ホテルの宿泊者数が減少したことがありました。

この地域に点在する野仏を周って歩くことと、農産加工技術の体験工房などを組み合わせて、都市と農村との交流を促す、住民参加型の新しい試みを続けて今日に至っています。

たくみの里の入口にある豊楽館という施設は、今は道の駅としての役割も果たしています。今日訪問した際は、平日のせいか、閑散としていました。

 道の駅 たくみの里 豊楽館

豊楽館から北へ延びる道路は「宿場通り」と呼ばれ、昔の三国街道の須川宿の面影を感じられるよう、通りに向かって垂直に屋根の方向を揃え、こげ茶色に統一した街並みが続きます。この通りに様々な店や工房が並び、休日には観光客でにぎわうそうです。

今回は、時間も限られていたので、町役場の方の車でざっと域内を周りました。次回は、実際に歩いてまわってみたいと思います。

町役場の方から紹介されたのですが、たくみの里の近くには、「みなかみフルーツランド・モギトーレ」という施設があり、観光果樹園のほか、果物を使った美味しいスイーツを食べさせるカフェがあります。

 みなかみフルーツランド・モギトーレ

この施設は元々、果物取引で有名な株式会社ドールが「ドールランドみなかみ」という名前で運営していましたが、2018年7月2日からは、みなかみ町農村公園公社へ移管されました。ドールがみなかみ町にそんな施設を持っていたことを初めて知りました。

この移管を記念して、みなかみフルーツランド・モギトーレでは、7月7~8日にOPEN感謝祭として、大人1500円(みなかみ町民は1000円)、子ども750円(同500円)で、70分スイーツ&グルメ食べ放題+ドリンク飲み放題のバイキングを開催するそうです。ただし、時間は10:30~15:00。

提供されるスイーツに使う果物は、すべてみなかみ町で収穫されたもの。当日は先着順で予約不可、とのことです。

筆者自身は行けませんが、こちらも、次回のみなかみ町訪問の際に、しっかり食べに行きたいと思います。

地域仕掛け人市2018に行ってみた

6月30日、東京・恵比寿に新しくできたEBIS303というイベントスペースへ行き、「地域仕掛け人市2018」というイベントに行ってきました。EBIS303というのは、スバル自動車の新社屋のなかに位置しているスペースです。

地域仕掛け人市というのは、様々な地域で活躍する「仕掛け人」が集まり、東京にいる若者たちをターゲットに、彼らを地方へ引き寄せ、あわよくば、地方で働いてもらうことを目的としたイベントでした。ただ、就職説明会や移住相談会とは違い、もう少しゆるく、地方の魅力を説明し、ファーストコンタクトしてもらえればいいな、という感じでした。

 地域仕掛け人市

毎年の恒例行事のようですが、2018年は33箇所から地域仕掛け人が集まり、それぞれがブースを出して、自分たちの活動をアピールしました。他方、別室では、継業(VS起業)、働き方改革、関係人口作り、暮らしの4テーマ別セッションが行われ、複数の地域仕掛け人によるパネルトークが行われました。

まあ、言ってみれば、「地方へより多くの人材に来てもらいたい地域仕掛け人たち」と「東京ではなく地方で何かをしたい若者たち」との間の、新手のマッチングイベント、といったものでした。実際、参加者の多くは若者たちで、とくに、地域活性化に関わりたいと思っている大学生などが多く見られました。

地域活性化に関わりたいといっても、そんなに簡単なことではないよね、と思いつつ、昨今、地方創生などの言葉に踊らされて増殖する大学の傾向などが想起されました。

実際、地域仕掛け人のなかには、地方自治体も少なからず含まれ、その多くは、地域おこし協力隊としてきてくれる人材リクルートを目的としていました。

筆者は、先に挙げた4つのテーマ別セッションに参加し、実際の当事者が自分の言葉で語る姿を見ることができ、有益でした。とくに、最初のセッションで取り上げた「継業」に色々と感じ入るところがありました。

日本のほとんどの地域で人口減少・高齢化が厳しい状態となっており、東京周辺のみが人口増を享受している現状となっていることは、このイベントでも強調されていました。

その一方で、地方では、後継者がいないことで、廃業を余儀なくされる事業者が数多く存在します。そのなかには、経営的に苦しいわけではなく、いや、むしろ黒字経営で利益を上げ、顧客もしっかりいる、マーケットも持っている、にもかかわらず、後継者がいないという理由で、自分の代で事業を止める場合が少なくありません。

そうした事業者に対して、後継者を探し、マッチングさせる試みを行っている地域仕掛け人の話は、なかなか心に響くものでした。今回のセッションでは、石川県の「能登の人事部」と「七尾街づくりセンター」の話を聞きました。

能登の人事部は、能登地域で継業を希望する事業者たちが個々に人材を探すのではなく、彼らの求人情報を一手にまとめ、東京や大阪などをターゲットに、求人活動を行って、継業を希望する事業者と繋げる役割を果たしています。

実際に、能登の人事部のサイトを見ると、地域おこし協力隊の募集のほか、福祉旅行プランナーヘルスケアコーディネーター和ろうそくの海外セールス担当者などの求人情報が掲載されています。Wantedlyという求人サイトをうまく活用しています。

能登の人事部が民間なのに対して、七尾街づくりセンターは半官半民の株式会社ですが、関わっている方々は、よそ者とUターン組で、いわば、外部者の目を持った人たちです。

よそ者として関わる、七尾街づくりセンターの友田氏は、どのような技術を持った人材が欲しいかという質問に対して、「とくに何かスキルや技術を持っている必要はない」「できないから恥ずかしいと思う必要はない。むしろ「できない」と公言して欲しい。必ず地元の人々が助けてくれる」と述べているのが印象的でした。

地域おこし協力隊の様々な現状なども鑑みると、上記のような、ウチとソトとを繋げる人材や組織の存在がとても重要であると思いました。このイベントに集った地域仕掛け人はまさにそのような存在であり、彼らが生き生きと活動できる地域は、きっと地域も生き生きとし続けていけるのだろうなと思いました。

それは、人口減少・高齢化に直面する地域の覚悟の問題でもあると思います。地域活性化や地方創生などを国の方針に沿った事業実施という枠だけで捉え、ウチとソトを繋げる人材や組織を便利屋、時にはうっとおしい存在、と見なしているうちは、まだまだ覚悟が足りないのではないか、と思ってしまいます。

そして、今回のイベントではまだほとんど触れられていませんでしたが、地方での仕事の担い手となってきていて、その地域に愛着を持ってくる外国人材をこれからの地域にどう活かしていくか、という視点も大事になってくるような気がします。

単なる人手としてではなく、彼らを地域を一緒につくっていく人材として位置づけ、継業や関係人口の担い手と考えていく時代が来ているように思います。とはいえ、外国人材に対する否定的な見解は、まだなかなか根強いものがありそうです。

継業や就業のために東京などで人材を探す一方、地元の人材はソトへ出て行ってしまう、という現実。その地域が好きだ、何かしたいという(外国人材を含む)ヨソ者と、地域から出て行く、あるいは地域に住みながら買い物は地域外の地方大都市へ行くというウチ者と。どちらが地域のこれからにとって役目を果たしていくのか。ヨソ者とウチ者との関係は、簡単に何か言えるものではないことは、もちろん承知しています。

そして、地域で現実と直面して格闘する人々と、その地域に研究対象として関わる学識者との関係もまた、別な意味でのヨソ者とウチ者との関係として、考えていく必要があるものと思います。

本ブログでも、今後、自分なりに色々と考えていきたいと思います。

ムラのミライの年次総会に出席

6月10〜12日は、関西へ出張で来ています。

本日(6/10)は、大阪駅近くで開催された、特定非営利活動法人 ムラのミライの年次総会に出席しました。筆者は、ムラのミライの正会員としての出席でした。

ムラのミライの活動については、以下のリンクをご参照ください。

 ムラのミライ ホームページ

インド、ネパール、セネガル、日本での活動報告の後、年次総会へ移り、2017年度の事業総括と2018年度の活動計画が協議されました。

活動の担い手が世代交代しつつあり、若手の理事たちがしっかり活動を支えている様子を頼もしく感じました。それを、ベテランが支える構図となっています。

個人的には、今後、メタ・ファシリテーション講座を福島などで開催し、その手法を土地に根付かせていきたいと思いました。そして、できれば、中学・高校の教師や大学の先生などで、この手法に興味を持ち、若者にそれを広められる人材を作っていきたいとも思いました。

これらについては、今後、しっかし検討していきたいと思います。まずは、福島でのメタ・ファシリテーション講座の開催へ向けて、準備を進めたいと思います。

ふくしま百年基金設立発起人になりました

少し前の話ですが、4月7日、郡山市民文化センターの会議室で開催された、ふくしま百年基金設立発起人会に出席しました。

ふくしま百年基金の話は、3月7日にふくしま連携復興センターの山崎氏と斎藤さんに出会い、設立発起人となることを強く勧められました。そして、趣旨に賛同し、その場で登録用紙に必要事項を記入し、ささやかな額の出資金を払って、簡単に設立発起人になったのでした。

ふくしま百年基金とは何か。ホームページはこちらです。

 ふくしま百年基金

簡単に言えば、コミュニティ財団というか市民ファンドというか、市民の寄付によって集めた資金を市民のために使うための基金、ということになります。

ふつう、財団とかファンドとかいうと、企業のフィランソロピーやCSRの一環として、企業が収益の一部を基金とし、それを市民活動などへ使ってもらう、という形が一般的ですよね。

このふくしま百年基金は、企業の収益金を基にするのではなく、これからの福島の未来に役立ててほしいという志を持った市民の浄財を広く集め、それを福島のために貢献したい市民や団体などが活用できるしくみづくりなのです。

自分のお金を福島のために使ってもらいたいけれど、どこに託していいか分からない。他方、今後の福島のためになる活動をしたいけれども、どこから資金を調達できるか分からない。そんな両者をつなぐ仕組み、といってもいいかもしれません。

この仕組みだと、誰かが上に立って自分の思うとおりに仕切る、ということは起こらず、設立発起人の誰もが平等な同じ立場で、この基金をどのように運営していくか、率直に知恵を出し合えます。特定の誰かが牛耳ることもできない、ということも、筆者が心惹かれた要因でもあります。

なぜ百年なのか。これは、この基金が目の前のことだけではなく、自分の子どもや孫の世代にとってよりよい福島になっていくための役目を果たし続けてほしい、という願いから出たものです。

と同時に、浪江町出身の発起人の方がおっしゃっていましたが、原発事故で避難を強いられた地域が本当に復興するには残念ながら百年はかかるのではないか、という思いもそこに含まれていることを改めて思いました。

私自身は、この基金が「福島のためだけ」「福島さえよければいい」というようなものになってほしくはありません。この基金を活用した様々な市民活動が、日本の、そして世界のためにもユニークかつ有益な活動事例となり、福島発の様々な貢献につながるものになることを期待します。そして、新しいコミュニティ財団の在り方を世界に向けて提案できるような役目も果たしていければとも思います。

この基金への賛同者を増やし、規模を大きくして、様々な市民活動を促していけるように、ふくしま百年基金をじっくりと育てていかなければならないと思っています。

福島で百年の単位で有益な新たな何かを生み出したい、創っていきたい、そんなモノやコトが起こることを期待して自分もその仲間に加わりたい、と思われる方は、是非、ご賛同いただき、仲間に加わってほしいです。

4月7日現在、設立発起人は174名、寄付総額はまだ720万円にすぎません。そして、4月11日、一般財団法人ふくしま百年基金として正式に登記されました。くしくも、弊社松井グローカル合同会社と同じ設立日となり、何かの縁を感じます。

まだ設立したばかりで、どこへどのように寄付をするのがよいのか、まだインターネット上でははっきりしていないようですので、分かり次第、お知らせするようにいたします。引き続き、ふくしま百年基金にご注目ください。

奥会津をまわりながら考えたこと

先週、奥会津の只見、金山、三島、柳津とまわりましたが、それぞれに個性が違っていて、とても興味深いものがありました。

東京23区よりも広い面積の只見町は、「自然首都」と宣言し、ユネスコエコパークの認証を得て、全国有数規模のブナの原生林をも生かしたまちづくりを進めています。

只見ブナセンターが運営する「ただみ・ブナと水のミュージアム」(下写真)は、只見の自然を理解するのにとても有用な場所で、展示もなかなか見ごたえのあるものでした。なかでも、熊などの狩猟具や昆虫標本、生活民具などの展示は本当に充実していました。

金山町は、天然炭酸水が湧き出す町で、全国有数の炭酸泉の温泉がいくつもあります。この炭酸水は瓶詰めにして売られていて、飲むと微炭酸のとても美味しいものでした。今回は行けませんでしたが、大塩地区には炭酸水が湧き出す井戸があり、そこで汲んだ炭酸水の美味しさは言葉にできないほどだそうです。

三島町の中心にある会津宮下駅を降りると、下のようなボードがありました。

2017年12月以来の外国人観光客がつけたシールですが、台湾からの観光客が圧倒的に多く、その次が香港、そしてタイが続きます。こんなに来ているんですよ!びっくりです。

三島町宮下地区では、町おこしの一環として、屋号サインボード・プロジェクトが行われ、町並み保存に貢献しています。

会津宮下駅のすぐそばには、宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詩の文面を題材にした壁面アートも。

三島町では、「山村社会に革命を。人とものが集まる拠点が福島県三島町にOPEN」と題するReady Forのクラウドファンディングを行っているSAMPSON株式会社の佐藤綾乃さんに会いに行きました。私も少額ながら協力したのですが、どんな人がやっているのか、一度、会ってみたかったのです。

まだ準備中でしたが、とても素敵な空間を製作中でした。そもそも、近所の知り合いの高齢の農家さんが農作物を作りすぎて、多くを捨ててダメにしているのが忍びなく、その有効活用を考えたかったという話から始まり、地元のおじいさんやおばあさん、若者、よそ者などがゆるく集まれる場作りへ発展していった様子。

地域おこし協力隊員としての任期を終えた後、三島町に残って、しっかりじっくりと活動していく彼女をますます応援したくなりました。

そして、三島町でどうしても会いたかった人がもう一人。アポなしダメもとで、向かったのは奥会津書房。奥会津で地道に良質な出版活動を行っている出版社です。15年以上前、「会津学」シリーズで知った出版社は、素敵な三角屋根の建物にありました。

お会いしたかったのは、奥会津書房の遠藤由美子さん。突然の訪問にもかかわらず、お時間を作っていただき、色々とじっくりお話をうかがうことができました。お話を聞きながら、奥会津の人々の生活とインバウンド観光とが違う次元で進んでいるような感じを持ちました。

遠藤さんは、これまでに様々な聞き書き活動を通じて、奥会津の人々が継承してきた生活文化や伝統技術を書き残してきましたが、近年は、子供たちによる祖父母からの聞き書きに力を入れていらっしゃいます。その聞き書きは通常の大人による聞き書きとはずいぶん違う効果をもたらすと言います。

すなわち、その聞き書きを通じて、地域を継承してきた祖父母に対する子供たちの尊敬や敬愛の気持ちが強まってくるのです。おそらく、それがまた、地域を大事に思い、それを次の世代が継承していく力になっていくのだと思います。

ところが、遠藤さんは最近、この子供たちによる聞き書きの中に見られる変化に危機感を抱いているとおっしゃいます。すなわち、祖父母への聞き書きを通じて、昔と今との比較、その事実の理解で終わってしまい、かつてのような聞き書きを通じた祖父母への尊敬や敬愛の気持ちが見られなくなってしまった、というのです。

それは子供たちの変化というよりも、子供たちへ聞き書きを促す学校の先生や親たちの態度に基づくものではないか、という話でした。大人の問題ではないか、というのです。

何かを行うときに、机上で想定できる範囲内で目標を達成できればそれでよい、ということなのでしょうか。机上では想定できなかった、むしろその想定自体を根幹から問い直すような展開にさえなることを許容できない、ということなのか。

遠藤さんと別れた後、そんなことを考えながら、中心街を無効に見ながら、只見川沿いの道を歩いて行きました。

もう一度中心街へ戻る前に、中心街側の対岸へ渡る橋の近くにある小さなカフェ「ハシノハシ」に立ち寄りました。温かいはちみつラテをいただきました。おいしい!

この店を経営する方は、よそから来た方かと思いきや、地元の若い女性で、夜になると、地元の顔なじみのおじさんたちがお酒を飲んだりもするそうです。

彼女もまた、地元の人たちがふらっと集まれる場所を作りたかったとのこと。前述のSAMPSON株式会社の佐藤綾乃さんとはお友達だそうです。学校時代の友人たちは皆他所へ通勤していて、ここには昼間は地元の人はあまりいないそうです。そのため、三島町によそからきた佐藤さんらとのつながりのほうが今は身近に感じているのだとか。

こうやって、三島町でも、ふらっと訪れるよそ者が、自然に地元の方々と交われる場所を作る動きがいくつか見られましたが、これまで訪れたいくつもの日本の地域で、同様の動きがありました。素敵な場所が全国の地域に続々と出現しているように感じます。

只見、金山、三島とまわってきて、それぞれ程度や状況の差はあるにせよ、よそ者やUターン組が静かに地域で根を張り始めている様子がうかがえました。そこで求められているのは、地元と外だけでなく、地元の中でも、関係人口や交流人口、というよりも、人々の関係や交流の機会をどう作り、それをどう広げていくか、ということのように思えました。

誰かが誰かを助ける、という、ともすると上から目線になりがちな関係ではなく、互いが互いの存在を認め、尊敬し合い、信頼し合い、その互いに認められているという関係づくりから、様々なモノやコトが、それに関わる方々の波長やペースに応じて生まれてくる。その基底には、奥会津の地域を継承してきた人々の分厚い生活文化や民族技術の蓄積があることを認識する。

実はただただ当たり前な、そんなことが、奥会津では自然と可能な状況になっているのではないか、と思いました。でもそれは、今の組織や都会のなかでは、なかなか感じられない、作れない状況になっているのではないか。そんな気がします。

そんな奥会津でも、役場などで働いている若者で、精神的にまいってしまう者が意外に多いという話も聞きました。地方創生といった名の下に、行政で上から降ってくる仕事の処理が間に合わないからのようです。彼らの地元への思いが自分を殺すことにならなければ良いのですが。彼らは地元にとって大事な人材だからです。

こうしたことを感じ入りながら、会津柳津の花ホテル滝のやで、「グローカルに奥会津・只見線を考える」という講演を行いました。どんな講演だったのか、ご興味のある方は、以下のサイトでご視聴可能です。

 グローカルに奥会津・只見線を考える

奥会津にはまり始めたかも

3月20日に会津柳津の花ホテルで講演する前に、同じ奥会津の只見町、金山町をまわっています。主催者から、講演のテーマに只見線のことを入れてほしいと言われており、まずは、只見線に乗らなければ、と思った次第です。

そこで、3月18日、まず、小出から只見まで、只見線に乗りました。今回の車両は2両編成、1両は「縁結び」をテーマとしたラッピング車両でした。

この日は東京から新幹線を使わず、在来線乗継で小出まで来たのですが、水上あたりから雪が見え始め、清水トンネルを過ぎたら、本当に雪国でした。小出駅でも、除雪した雪が高く残っていました。

小出=只見間は、1日に3本しか走っていません。その2本目に乗車。車内は、4人掛け椅子の進行方向窓側に一人ずつ、明らかに乗り鉄または撮り鉄の人たちが座っています。その多くは、青春18きっぷで乗車している様子でした。

途中、越後須原と入広瀬で、高校生ぐらいの若者が一人ずつ下りたほかは、車内は鉄道マニアの世界でした。

車内から撮ったのでピンボケですが、1階部分は雪に埋まっても、2階部分で出入りや生活ができるようになっているように見える家。雪の量を見て納得です。

大白川からは、いよいよ山越えです。六十里越という名のかつての厳しい難所は、六十里越トンネルで通過。トンネルに入ってから出るまで約9分もかかりました。

うっかりして、旧田子倉駅を通過したときに写真をうまく撮れませんでした。只見線を語るうえで、この田子倉のことを忘れてはなりません。只見線の敷設は、只見川電源開発における田子倉ダムとそのダム湖である田子倉湖のためでもあったからです。

そうこうしているうちに、只見に到着。

只見町の面積(747.5 km2)は東京23区よりも広い(東京23区は619 km2)のです!この只見町は、「自然首都・只見」を宣言し、ユネスコエコパークに登録されました。国内最大級の面積のブナの原生林があり、自然を生かしたまちづくりで、只見のブランド化を図っています。

只見町ブナセンターという組織があり、「ただみブナと川のミュージアム」や「ふるさと館田子倉」を運営しています。

ミュージアムの展示は、なかなかしっかりしたもので、とくにブナに関する学術的な展示のほか、動植物や昆虫に関するもの、そして民具や道具(とくに熊狩りなどの狩猟用具)と人々の生活に関する民俗的な展示にも見るべきものが多々ありました。調査研究成果が紀要として定期的に刊行されており、それが、只見町が発行する「只見おもしろ学ガイドブック」などにも反映されていました。

ふるさと館田子倉には、田子倉ダムの建設で湖底に沈んだ旧田子倉集落の生活・文化に関する記録や、田子倉ダム建設への反対運動や交渉に関する資料、田子倉ダム問題を題材にした文学作品等の展示がありました。

只見を含む奥会津では、かなり前から、子どもを含めた聞き書き運動が盛んに行われてきており、聞き書きを基にしたたくさんの出版物が残されてきました。その中心的役割を果たしたのが、三島町にある奥会津書房という小さな地方出版社ですが、行政も聞き書きに対する理解を示していたようです。

3月19日は、只見町からお隣の金山町へ移動しました。ここは、地中から炭酸水や炭酸泉が湧く場所で、大塩地区で取れた炭酸水を商品化して販売しています。甘くない微炭酸の炭酸水を味わいました。

今夜泊まっている玉梨温泉では、玉梨温泉の源泉のほかに、炭酸泉の源泉があり、町立のせせらぎ荘という施設でその炭酸泉に長い間浸かってきました。

炭酸泉と言えば、大分県の長湯温泉が有名ですが、東日本では、ここの炭酸泉(八町温泉)が有名なのだそうです。長湯ほど炭酸がバチバチ出てくる感じはありませんでしたが、温度が40度とわりに高い炭酸泉で、体中に粒々の炭酸の泡がたくさんついてきます。炭酸泉の源泉かけ流し、というのは初めて経験しました。

会津川口駅前では、有名な地元ソウルフードのカツカレーミックスラーメンを食べました。これは、ラーメンの上にカツカレーライスが乗っかっている、というものでした。福島県内の地元メディアがたくさん取材に来たということです。

これを出す「おふくろ食堂」の女将さんとは、なんだか色々話しこんでしまいました。20日の講演内容を考えるうえで、参考になる話を聞くことができました。

こうやって、実際に、短時間でも只見や金山を歩いただけで、具体的なイメージが少しずつ現れてきたような気がしています。明日20日は、柳津へ着く前に三島町を訪問しますが、さらに何か有益なインプットがあるのではないかと思っています。

何となくですが、奥会津にもはまり始めたような気配を自分自身に感じています。

福島市のホッとするブックカフェ・コトー

先週、インドネシア人作家のリリ・ユリアンティさんを連れて福島を案内したのですが、前々から気になっていたブックカフェ・コトーへ行ってきました。

コトーの場所は、新浜公園のすぐ近く。筆者が小4~高1まで住んでいた場所(今や当時の家の面影も何も全くない)から歩いて5分もかからないところにありました。そう、子どもの頃の私にとっては庭みたいな場所です。

ちょっと古ぼけた二階建ての建物の2階に、コトーはひっそりとありました。

階段を上がって中へ入ると、子ども向けの本から美術書まで、面白そうな本が並んでいます。選者のセンスの良さを感じさせるラインアップでした。

寒い外からストーブで温かな空間、とても居心地のよい空間でした。リリさんとコーヒーを飲みながら、しばし読書談義をしているうちに、いつしか、店主の小島さんも話に加わり、誰も他にお客さんがいないのをいいことに、色々な話をしました。

ここの本はみんな買取で、すべて販売している本です。言ってみれば、古本屋さん。小島さんに言われて気づいたのですが、福島市内には古本屋が見当たりません。人口30万人の街にある唯一の古本屋なのかもしれません。

もっとも、今や、古本はブックオフやアマゾンで売買すればよいから、古本屋は必要ないと割り切る向きが多いのかもしれません。それもまた、全国の地方都市で地元の本屋がどんどんなくなっている現象と軌を一にするものでしょう。

本屋はただ単に本が置いてあるのではなく、そこに様々な本がある偶然、自分には思いもしなかった本と出会う偶然、そんな偶然が起こる場所であり、そんな偶然が自分では思いもしなかった新しい自分や何かを生み出していたのかもしれません。

地方都市にとっての文化って、いったい何なのだろうか?

効率や損得が第一のような風潮のなかで、敢えて、古本屋という媒体を通じて急く時間を止め、様々な偶然が生まれて浸み込んでいく時間と空間を提供している場所。そんな場所を求めている人々がこの福島にもいるということに、自分勝手ではありますが、ものすごく救われた気分になりました。

そして、こんな場所が福島市内のあちこちに生まれたら、もっと素敵な町になっていくなあ、と思いました。

小島さん、またお邪魔します。自分も、そんな場所を作ってみようかな?

文化をつくるって、きっと、こういうことから、じわじわ、ゆるゆると始まっていくのかもしれません。

川俣と飯野のおひなさま

2月18日は、弟に車を出してもらい、リリさんを連れて、福島から川俣と飯野(いいの)へ出かけました。前日の雪が心配でしたが、幹線道路の雪はきれいに除雪してありました。

まず、道の駅川俣に着いて、2階にある蕎麦屋で鶏南蛮そばをいただきました。そばは手打ち、おつゆの中に小切りの川俣シャモが数切れ入っていました。

川俣の名物といえば、川俣シャモ、シルク、コスキン・エン・ハポネス。

最後のコスキン・エン・ハポネスは、日本国内最大のフォルクローレ・フェスティバルで、毎年10月に開催されています。

というわけで、道の駅でそばを食べ、桑粉入りのソフトクリームを堪能した後、お隣のおりもの展示館を見学。

世界一薄い絹織物「フェアリー・フェザー」は、本当になめらかで薄くて軽いシルクでした。マレーシアのジミー・チュウが、震災後、川俣シルクを素材に作った靴ももちろん展示してありました。

でも、この日の展示のメインは、おひなさまでした。

道の駅では、川俣町の公民館の主事をしているインドネシア人のイェティさんとお友達のエカさんと初めてお会いし、生活のことや技能実習生のことなど、色々なお話を聞きました。イェティさんとは、フェイスブックで友達になっていたのですが、実際に会うのは初めてでした。ただ、なぜかそんな気がしない出会いでした。

イェティさんの案内で、川俣から飯野へ移動。川俣は町として存続しましたが、飯野は合併を選び、福島市に吸収されました。

飯野では、ちょうど、名物の吊るしびな祭りが行われていました。飯野のメインストリートの焦点が、思い思いに、小さな雛人形や色々な飾りを上から吊るし、それをお客さんが見て回る、というお祭りです。

ポイントは、店に入らないとじっくり見られないこと。そして、朝10時から夕方4時までしかやっていないこと。我々が着いたのは午後3時半で、結局、30分しか見て回ることができませんでした。

しかも、途中で入った洋品店で、お店のおばさんと話し込んでしまいました。
飯野も前日の晩は雪がたくさん降ったこと、それを商工会の役員の方々が朝懸命に雪かきをしてくれたこと、でも寒いからか訪問客がほとんどいないこと。
日曜だけどお祭りだから夕方まで開けてくれと言われて店を開けていること、飯野はどう頑張ったって皆んなよそへ出て行って寂しくなっていくこと。
おばさんの話は止まず、でも、飯野の今の状況を察することができるような話で、こうした話の延長線上で、お祭りをやっても意味があるのだろうか、というおばさんの気持ちが溢れているのでした。きっと、あと1時間2時間、お話を聞いているのがよかったかもしれません。

少しでも、飯野によその人が関心を持ってくれたら、という気持ちで、吊るしびな祭りが行われているのでしょう。でも、きっと、このお祭りはもっと面白くなるような気がしました。きっと面白く楽しくなります。
リリさんやイェティさんに置いていかれそうになったので、おばさんとの話は終わらせ、時計を見ると、午後4時まであと5分。

筆者が幼い頃、国鉄・東北線の松川駅から川俣線という国鉄ローカル線が出ていました。松川、岩代飯野、岩代川俣のわずか3駅で、全国有数の赤字路線となり、1972年に廃止されました。

福島市に住んでいたとはいえ、飯野に行ったのは今回が初めてでした。この吊るしびな祭りは3月4日まで、飯野の30以上の店で行われています。行って実際に見ると、なかなか圧巻です。

飯野は、UFOでの町おこしも試みており、UFOの里という施設もあります。また、近いうちに飯野へ行き、おばさんの話の続きを聞きたい、面白いことやものを探したいと思います。

柳津の「小さな宿の勉強会」は今回でなんと第484回

1月12日は会津坂下で用務を済ませ、さて次はどこへ行こうかと思っていたところ、今回案内してくれる友人が、柳津(やないづ)へ行くというので、付いて行きました。

友人が連れて行ったのは、柳津温泉の「花ホテル滝のや」という宿でした。なんでも、友人は私をこの宿のご主人に会わせたい、というのです。まあ、私自身、特別な予定もなかったので、そこまで言うならお会いしてみよう、ということで同行したのでした。

着いてしばらくすると、行政関係の別の来客があり、成り行き上、事情も分からないまま、私も同席することになりました。皆さんの話の内容は分かりましたが、これまでの経緯や中身については全く関知しないので、ともかく、じっと黙っていることにしました。

このときの私以外の方々の議論について、ここでは触れませんが、地域の現場でよく見かける様々なものの一端がここにもありました。

この宿に私を連れてきた友人は、夜、会津坂下で用事があるということで、私は急遽、この宿に1泊するということになりました。そして、たまたま、その夜はイベントがあるので、それにもぜひ顔を出してほしい、と言われました。

そのイベント、というのが、「小さな宿の勉強会」花ホテル講演会、というものでした。今回で第484回。えーっ、484回も続いている勉強会って、いったい、どんなものなのだろうか。しかも、柳津という小さな町の小さな宿でそれが続いているとは・・・。

急に興味がわいてきたので、この会に参加することにしました。

宿のご主人から渡された資料によると、この会の第1回は2001年2月2日に開催されて、毎月3~4回ぐらいのペースで、ずーっと継続されています。

今回の第484回は、いなわしろ民話の会に所属する鈴木清孝さんという方が「会津の民話:親父の冬がたり(冬だからこそ、語りのおもてなし)」と題する講演でした。

福島県内の会津地方より面積の狭い都府県が全国で21あることや、冬の雪多き気候が豊かな水を作り出す場所として会津の「津」という意味があることなど、会津に関する豆知識をお話しいただいた後、いくつかの冬に関係する唱歌を皆で歌い、冬に関するいくつかの民話を会津弁で語ってくださいました。

参加された方々は高齢の方が多かったのですが、皆さん、民話が好きで、語り部をやっていらっしゃる方々でした。全会津民話の会という名前の下に、18団体、200人が会員となり、500~600話(基本は150話程度)の民話の語りを行っている、というのにも、軽く驚きました。会津ではまだまだ民話が愛されているように感じました。

鈴木さんの講演が終了すると、参加者が集って、オードブルや鍋を囲みながら懇親会へ移ります。今回は、県立会津大学の副学長を務めていらっしゃる程先生も参加されていて、とても熱心に皆さんのお話を聞いていましたし、私も個人的に色々とお話をすることができてとても有益でした。

間もなく500回を迎えようというこの「小さな宿の勉強会」を主宰している花ホテル滝のやのご主人である塩田恵介さん。まさに、地域な中で様々な人々をつなげ、それを地域に生かす種まきをずっと地道にされていることに深い感銘を受けました。それは、決してすぐに芽を出すものでも、成果主義に即した即効性のあるものでもないかもしれませんが、こうした営みが続いているということ自体に大きな意味があると感じました。

塩田さんはまた、柳津という一つの町に留まらず、奥会津地方の地域づくりに関わる方々のまとめ役も果たされていて、とくに、災害で一部不通となっているJR只見線の復旧に関して、沿線市町村と連携して動いていらっしゃる姿には、本当に脱帽です。まさに、奥会津、いや会津の地域づくりのキーマンの一人なのでした。

私の友人がなぜ、私を塩田さんに会わせたいと思ったのかがようやく理解できました。

そして、わずか数時間前にお会いしたばかりの私に、塩田さんはこの「小さな宿の勉強会」での講演を依頼するのでした。これは、快諾しないわけにはいきません。この3月に「グローカルな視点からみた地域づくり」(仮題)でお話しすることを約束しました。そして、塩田さんからは、只見線復旧と絡めて話してほしいとの注文も受けました。

宿の24時間かけ流しの快適な温泉に浸かりながら、この日の柳津での出会いの偶然と講演を含むこれからの柳津や奥会津との関わりのことをぼーっと考えていました。そして、やっぱり、現場に即すると、次から次へと色々なアイディアが湧き出てくることに改めて気づきました。

外は雪、マイナス13度の柳津で、温泉のせいもあるでしょうが、とても温かな、そしてしっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれた一日でした。

柳津に連れて来てくれた友人と塩田さんはじめ、「勉強会」でお会いできた皆さんに感謝申し上げます。

会津バスの粋な計らい

昨日、1月11日から福島県会津に来ています。

同じ福島県といっても、福島市出身の自分にとって、会津はあまりよく知らない世界です。これまで、何度か来たことはありますが、土地勘が全くない場所です。

今回は、東京から会津バスの高速バスで会津若松駅前まで乗車しました。快適なバス旅で、所要時間は4時間弱。郡山まで雪はほとんどなく、車窓から見える枯れ木林が夕日に映えてとてもきれいでした。

郡山からいくつものトンネルを経て山を越え、猪苗代に入ると、そこはもう一面の銀世界。かなりの雪が積もっていました。会津若松市内は猪苗代ほどではないにせよ、それでもまだ道には雪がけっこう残っていました。

道中、会津バスの運転手から、乗継タクシーの割引券をもらいました。系列の会津タクシー限定ですが、会津バスで到着後、会津タクシーに乗り継ぐと、タクシー料金から500円割引となる券です。

途中のサービスエリアで、会津タクシーに電話をし、迎えに来るように頼むと、ちゃんと会津若松駅前で待っていてくれました。市内のホテルまで780円でしたので、280円の支払いで済んでしまいました。

タクシー以外に、喜多方方面などへの会津バスの路線バスに乗り継ぐ場合にも、割引券が提供されます。

会津観光には、2,670円で、2日間、指定域内の鉄道・バスが乗り放題となる「会津ぐるっとカード」というのもあり、利用しない手はありません。

もっとも、今回は、会津坂下の友人が案内してくれているので、私はまだ使っていませんが。

巷では「明治維新150年」とか言っていますが、会津では「戊辰戦争150年」という言葉をよく聞きます。あまり知られていませんが、会津は今、地域活性化の面白い取り組みが色々行われているところです。今回は、その一端に触れることができそうです。

祈りだけでなく行動へ

新しい年、2018年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の自分のキャッチフレーズは、「祈りだけでなく行動へ」としました。毎年、家族の健康や世界の平和を祈ってきましたが、それだけでは不十分、自らそのための行動を起こしていかなければならない、と今年は特に強く感じました。

それでも今日は、東京の自宅近くの神社へ初詣し、しっかり祈ってきました。

23年間勤めた研究所を辞め、一人で動き始めて、今年で10年になります。これまでも、そして今も、試行錯誤の毎日ですが、一人で動けるということの意味をもう一度考えています。

日本のローカルとインドネシアのローカルをつなげて新しいモノやコトを創る、という活動を、さらに進めていきます。そして、日本のローカルどうし、インドネシア以外のローカルへの展開を試みていきます。

ここでのローカルには、地域社会・コミュニティ、地方自治体、地方企業、農民グループ、社会組織、そして地域に生きる個々の人々、を含みます。

ローカルとローカルをグローバルにもつなげていった先に、私なりの未来の姿があります。

それは、国や種族や宗教による勝手な先入観を抑え、同じ人間としての他者への想像力を深め、広げた世界であり、それを足元の日々の暮らしから発想し、意識する、ということです。

そのためには、暮らしから遠いところにある国家ではなく、暮らしに直結したローカルから発想する必要があると考えます。平和というものは、人々が自分の暮らしを第一に意識するところから始まるはずです。

ローカルは他のローカルの支配者になる必要はありません。国家という枠がはめられている以上、一つのローカルが世界中のローカルを支配することはできません。ローカルとローカルとの間に上下関係はありません。対等の関係でつながり、互いの違いを認め合うだけです。学びあいの関係をつくるのに適した関係と言えます。

そんなローカルが他のローカルを認め合いながらつながっていく世界は、国家が覇を唱え合うだけの世界よりも、あるいは覇を唱える国家の横暴を抑制させる、より安定した世界になるのではないか。

それは夢想かもしれません。お花畑かもしれません。でも、つながらずに、知らない相手を一方的に妄想し、相手を誹謗・中傷し罵声を浴びせるようなことは、個人のストレス発散の方法だとしても、決して許されるものではありません。だって、自分がそれをされたなら、決して嬉しく感じるはずがないからです。

国を知ることも大事ですが、同時に、そこで人々が暮らすローカルをもっと知り、その人々や彼らの暮らしへの想像力を高めることが必要です。

ローカルから始める意味はそこにあります。ローカルは暮らしと直結するからです。

そのような意味を込めて、これから仲間を増やす長い旅に出たいと思います。皆さんがそうした仲間に加わっていただけることを願いつつ・・・。

国境を越えて人々が学び合える時代が来ている

12月15日まで福島市にいましたが、とにかく寒くて寒くて、部屋の暖房が電気ストーブ1台ということもあり、書きものをしていると手がかじかんできて、体にこたえました。

東京へ戻ってくると、もう、福島よりはずいぶんと暖かく、こんなに違うものだと改めて感じいるのでした。

それでも、12月15日には、前々からお会いしたいと思っていた方とゆっくりお話しすることができ、とても有益な時間を過ごすことができました。そして、自分が目指そうとしていることは、まだほとんど手つかずの活動だということを確認できました。その辺の話は今後、追い追いしていくことにします。じっくりと始めていきます。

12月16日は、「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムに出席しました。トヨタ財団の助成を受けて、フィリピン、東ティモール、ラオスの農民たちが3カ国間を相互に訪問し、3者間で技術交換や学びあいの交流を行う事業の報告会でした。

この事業では、日本側は三者をつなげるための黒子に徹し、三者間の学びあいを深めていくプロセスを促す役目を果たします。彼らの交流のなかで、予期せぬ展開が続出し、そこからまた新たな学びあいが起こる、そんなワクワクするような事業に見えました。

たまたま、三者の農民はコーヒー栽培という点で話題の共通項がありましたが、コーヒーの栽培技術はもちろん、それ以外の農業における地域資源の生かし方など、同じ農民どうしで互いの学びが錬成されていきました。

支援ではなく交流、というのがこの事業の目的ですが、助成を受けている以上、何らかの成果を示す必要があります。通常の支援事業では、計画フレームが最初に作られ、それがいつまでにどれだけ達成できたかがチェックされ、費用対効果も重視されるでしょう。当初の筋書きにないものは、あまり歓迎されない傾向もあります。事業の実施前と実施後との比較で、どれだけ成果があったかを点と点で比べることになります。

交流も、もちろん、実施前と実施後との比較は可能ですが、何を成果とするかは難しいものがあります。学びあった後、そこで得た知識や技術がどう生かされたか、を測定するにはかなりの時間を要します。それよりも、学びあいのプロセス自体に農民たちは意義を感じているように見えました。何よりも、彼らが出会わなければ学びあいは起こらないし、出会っても適切な促しがなければ学びあいにはならないのです。

交流は長いプロセスを経て自ずと自分たちが変わっていくものでしょう。そうした変化の永続的なプロセスが交流の肝と言ってもいいかもしれません。成果を見せるためには、そうした長い永続的なプロセスの中で細かく小さな目標を設定して、それを少しずつ達成し続けていくことになるでしょう。

今や、こうしたフツーの人々が国境を越えて学び合える時代が来ている、という感を強くします。もちろん、それには、通訳者などの献身的な協力なしにはなしえないものでしょう。それでも、従来のような、進んだ国から遅れた国が学ぶという垂直的な「支援」「援助」だけでなく、同じ立場の人々が似たような立場の人々との関係を基本とする水平的な「交流」「学びあい」もまた大いに意味を持つものと認識されていると考えます。

そうした学びあいを日本が促すことに意味があると思う一方で、別に日本だけが促す必要もないとも思います。おそらくきっと、世界中には、同じような学びあいを促そうと動いている人々がいます。公的資金を活用するものもあれば、民間資金や寄付金を活用するものもあるでしょうが、そうした人々を探し出して、ビジョンを共有し、互いの活動を認識しながら、ファシリテーターどうしが緩やかに繋がっていくことで、様々な学びあいのネットワークが自発的に広がっていく、というイメージがあります。

私は、まずは一人で、やれるところから、そうした学びあいの促しを試みていきたいと考えています。ローカルからローカルをつなげ、単なる技術交換に留まらない、ローカルとローカルの学びあいにまで広がっていけたら、と思います。

そして、少しずつ、世界中を視野に、同じような志を持つ同志を探し出す旅、同志を増やしていく旅に出たいと思います。もしかすると、このブログを読んでくださっているあなたが、私の同志になるかもしれません。

16日の「学びあいが生み出す農家の未来」というシンポジウムは、その意味で、同志は確実にいる、学びあいは社会を変えていく、という確信をより一層強く感じた機会となりました。

シンポジウムの懇親会に少しだけ顔を出し、最近一緒に出かけることが少なかった妻と一緒に、しばし、丸の内など、冬の夜のイルミネーションを歩きました。

明日(12月19日)は、大阪へ日帰り出張します。

映画「おだやかな革命」の試写会に行った

ダメもとで応募したら、映画「おだやかな革命」の試写会に当たったので、11月21日に東京・銀座で観てきました。

この映画は、来年2月、ポレポレ東中野を皮切りに、全国での上映が予定されています。それに先駆けて、今回、観ることができました。

内容は、全国各地で起こり始めた、地域がエネルギー主権を取り戻すというお話ですが、単なるご当地エネルギーの話にとどまらず、それが地域のなかで引き起こす様々な新しい動きが、地域をより温かく、楽しくしていく、関わる人々の間に様々な学びと他者への尊敬を生み出していく、その様子を丁寧に描いたものでした。

取り上げられた事例自体は、日本の地域づくりに関わる人にはよく知られた事例かもしれません。でも、取り上げられた4つの事例を通じて流れるのは、未来へ向けての根本的なパラダイム転換であり、それを「おだやかな革命」と評しているように思えました。

この「革命」は、単におだやかであるだけでなく、私たち自身が未来に対して主体的に関わっていくことを促しているものです。為政者が声高に語る空虚な「革命」と対峙する愚をとらず、確実に、地に足をつけて、しっかりと広がり始めた「革命」です。

それは、雲のうえにあるかのような国家と、日々の暮らしに立脚したローカルとでは、観ている地平が違うということでもあります。富や名声ではなく、他と比べて優越を競うのでもなく、自分たちの暮らしとその基盤となる地域やコミュニティを温かく、楽しく、希望を感じる場所へと作り上げていく、あるいはもう一度そんな場所を取り戻そうとしていく日々の営みこそが、「おだやかな革命」とでもいうものであるような気がします。

この映画を作った渡辺智史監督と少しお話しする機会がありましたが、鶴岡市という地方に立脚しているからこそ、描けている部分もあると感じました。そして、渡辺監督自身もまた、「おだやかな革命」を遂行している一人であることを自覚しているはずです。

私も、そしてあなたも、自分自身を暮らしの中に取り戻そうと動いている人々は、「おだやかな革命」の遂行者なのだと思います。

映画を通じて、大丈夫、私たちはまだ大丈夫、そう信じていいのだ、というメッセージも受け止めました。

ぜひ、一人でも多くの方々にこの映画を観てほしいと思います。そして、私たちもまた、「おだやかな革命」の遂行者なのだということを意識し、おだやかにつながっていければと願うものです。

福島、晩秋、オフィスと同じ敷地内にて

昨日(11/15)、福島に着きました。

秋はすっかり深まり、今日(11/16)は寒い一日でした。暖房のない冷えきったオフィスで、寒さに耐えきれず・・・。ともかく暖房対策を急がなければ。

私のオフィスのある敷地内の古民家と庭の景色も、すっかり晩秋の装い。どの季節も、この場所で見る美しさが、何とも落ち着くのです。

11月、12月。締め切り迫る原稿に向かいつつ、福島から自分が始めるモノやコトをじっくり仕込み始めたいと思っています。

音楽で街を魅力的に!音泉街を目指す佐伯の試みは始まったばかり

おんせん県とも自称する大分県は、超有名な別府や湯布院(由布院+湯平)をはじめ、数々の名湯を抱えており、日本国内有数の温泉の数と量を誇ります。

しかし、県内のすべての市町村に温泉があるわけではありません。今回訪問した県南端の佐伯市には温泉がありません。その佐伯が今、もう一つの「おんせん」を掘り当てたようです。

温泉がないけん、音泉を目指す! 佐伯は、音楽で街を魅力的にしようと、市民有志が活発に動き始めています。その原動力となっているのが、佐伯ミュージック・アート・クラブという、結成後わずか半年にも満たない団体です。

この団体の催し物に参加した時の記事を、以前、このブログにも書きました。参考までにリンクを貼っておきます。

 音楽を愛する人々に満たされた佐伯での夜

11月11日は、佐伯ミュージック・アート・クラブの今年の活動のメイン・イベントとも言える、サックス奏者マルタのコンサートが佐伯市民会館で開催されました。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

マルタ氏にとってはもちろん始めての街です。しかも、コンサートの冒頭で「街中に誰も人影がなく、静かな街だなあという印象でした」という語りがありました。きっと、このような田舎町で、果たしていいコンサートができるのだろうか、という不安もあったかもしれません。

実際、少なからぬ観客は、「マルタって誰や?」「ジャズというものを聴いたことない」「孫と一緒に来てみた」という方々のようで、マルタ氏が不安に思ったとしても不思議ではなかったのです。

実は、私も初めてマルタのコンサートに来たのでした。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

午後6時に開演。そして午後8時半に終演するまで、休憩は一切なし。70歳になろうというマルタの驚異的な体力と演奏力に、ただただ圧倒されました。

さらに、一緒にセッションを組んだトランペット、ドラム、ベース、アコースティックギター、ピアノ、トロンボーンの演者たちの質の高さ。

最初はちょっと探りを入れる感じだった演奏でしたが、中盤の「チュニジアの夜」あたりから演奏にノリが加速度的につき始め、最後は、演者全員がノリにノッた演奏を見せてくれました。

終演してもなかなか鳴り止まない拍手。アンコールの異様な盛り上がり。少なからぬ観客が今日初めてマルタを知ったいうことを考えただけでも、このレベルのコンサートを佐伯で聴いているということの意味の大きさを感じずにいられませんでした。

コンサート終了後、マルタのCDを買った観客にその場でサインするというサービスもあり、長蛇の列ができました。CDも予想以上に売れたようで、マルタ氏は観客との写真撮影にも気軽に応じていました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの関係者の話では、マルタ氏はかなり満足したらしく、「生きていたら来年も来ようかな」と言ってくれたそうです。マルタ氏にとっても、佐伯でのコンサートの記憶が心のどこかに残ってくれるといいなと思いました。

今回のコンサートでは、佐伯ミュージック・アート・クラブのメンバーが、朝から晩までボランティアで懸命に運営していました。何せ初めてのことで、戸惑うことも多く、学園祭のような雰囲気でもあったのですが、無事に終わることができて何より、本当にご苦労さまでした。

そして、メンバーだけでは足りず、他の人にも手伝ってもらったのでした。例えば、開場前に一番に並んでいた延岡から来た見ず知らずの男の子に、受付でのCD売りの手伝いをしてもらい、彼は夜の片付けの最後まで残っていました。中学生たちにもCD売りの呼びこ役をしてもらっていました。そんなことが嫌味なくできる雰囲気というのも、悪くないなあと思いました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの活動が始まってから、佐伯市内在住者や出身者で音楽に関わっている人々が次々に発掘されていきました。意外に多くの人が音楽に関わっていることが明らかになり、ジャンルもジャズ、クラシック、その他へと広がりを見せています。

音楽のいいところは、言葉はいらず、とにかくみんなが無条件に楽しくなれること、思惑や企みとは対極にあること、ではないでしょうか。そして、音楽は人を集めます。集まった人が、たとえ知らない同士でも、繋がってしまう。あの、開場一番乗りの初めて会った男の子がボランティアになってしまうように。

そんな力を感じました。

楽しくなければ、音楽ではない。楽しくなければ、まちづくりではない。

次のビッグ・イベントは、2018年3月11日、ジャズ・バイオリニストである寺井尚子のコンサートです。

音泉街を目指す佐伯の挑戦はまだ始まったばかりですが、これからも注目です。応援していきます。

「佐伯むすめ」との出会い

佐伯といえば、有名なのは寿司です。分厚いネタは、あまりに分厚いので、ネタに切り込みが入っています。もちろん、ネタは新鮮そのもの。10年以上前、初めて佐伯を訪れて食べた寿司の味を忘れることはできません。

では、寿司以外に何があるのか。と思っていたのですが、いろいろあるのです。今回出会ったもののなかで、特に良かったのは、「佐伯むすめ」との出会いでした。

佐伯むすめ? いえいえ、人間の娘さんではありません。吟醸あんという上等な餡を使ったお饅頭です。リンクは以下から。

 佐伯むすめ

地元でよく売れているのは、みそ味とチーズ味だそうですが、オリジナルともいうべき吟醸あんを使ったものは、上の写真の真ん中の「利休」です。

ひと口食べてみましたが、餡がとても美味しいのです。手作りで丁寧に作られた滑らかな餡。薄皮との相性も抜群で、やさしい甘さが静かに口のなかに広がります。

みそ味とチーズ味も食べましたが、私に饅頭という既成概念があるためか、チーズ味はちょっと別物という感じがしました。

それにしても、この饅頭のレベルはかなりいい線を行っていると思います。

佐伯に美味しい饅頭あり、その名は「佐伯むすめ」です。吟醸あんの虜になること、間違いなし、と思いました。

遊志庵を訪ねる

今回の大分・佐伯訪問の一つの目的が、佐伯にある遊志庵を訪ねることでした。

この遊志庵は、研究者である岩佐礼子さんという方がご親族の実家の古民家を改修し、地域の人々の憩いの場、よそから来た人たちとの交流の場にしようと運営されている場所です。詳しくは、以下の遊志庵のページをご覧ください。

 遊志庵

ゆったりとくつろげる雰囲気の空間で、しばし、岩佐さんと語り合いました。よそ者、古民家、地元学など、様々な共通用語が出てきました。

語り合いのなかで、地域と交わるといっても、それぞれの地域によって交わりやすさの温度差があり、こうした場所が必要だという認識がどう生まれてくるのか、といったことを考えていました。

急がず焦らず、自分自身も土の人の地域社会になじませつつ、風の人でもある自分の特性を生かしながら、土の人とともに、そこの風土自体と日常生活の中にある価値を認識していけるような活動になるといいなあ、と、私自身の今後の活動のことも含めて、思いました。

福島市の私の事務所と同じ敷地内にある古民家を、どのように地元の公共の場として生かしていくか。それが今後の私の活動の課題の一つだからです。

ともかく、皆さんも是非、遊志庵を訪れてみてください。ここから何かが始まるような気がしてくる場所です。

それにしても、JR代行バスで着いた海崎駅前から遊志庵までの道は、青空が映え、秋の深まりを感じさせる、とても素敵な風景が広がっていました。

十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

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