貧困の津波

アートへのアクセスを民主化させたい

新型コロナウィルス感染拡大は、私たちに様々な困難を強いている。自分も含め、多くの人々が日々の生き残り策に集中し、自分以外の人々になかなか関心を向けられない状況になっているのかもしれない。

そんななかで、今日、自分に突きつけられた言葉。
それは・・・「貧困の津波」
2020年5月3日付『朝日新聞』の国際面のその言葉があった。

新型コロナウイルスの大流行により、世界中で4億人以上が貧困状態に陥り、貧困問題は10年前に逆戻りする恐れがある――。国連大学の研究所が先月、そんな予測を出した。報告書を書いた研究者は事態の深刻さを「まるで貧困の津波だ」と語った。

インドで起こった突然のロックダウンで、解雇などで失職し、交通機関も途絶えるなか、故郷へ、何十キロも、何日も、昼の炎天下、食べ物もお金も尽きても、無言のまま歩き続ける人々。
故郷の村まであと150キロのところで息絶えた12歳の少女は、そんな数百万人の人々の一人だった。
彼女の12年の人生を思う。インドは豊かになったのではなかったのか。

法外な料金を払い、荷台にぎゅうぎゅう詰めのまま、運よくトラックに乗れても、故郷へ向かう途中で警官の検問に出くわし、首都デリーへ強制的に戻らされる。避難所に収容されればラッキーなのだが、故郷へは戻れぬまま。ロックダウンのなかでどうやって生きていくのか。

人口14億人のインドを「貧困の津波」が襲う。
南アフリカでも、ケニアでも。インドネシアでも。そして日本でも。
自分ではもうどうにもならない、でも誰も助けてくれない、世界も国も金持ちも。
貧困の津波は、寄せては返し、寄せては返しを繰り返し、起こり続けていく。そして、寄せては返すたびに、貧困は深まり、そして広がる。
成長重視から分配重視へ生き方を変えよう、などと言える余裕はもうない。
感染で亡くなる。そして、感染しなくとも、貧困で亡くなってしまう。
富める先進国も、自国のことで手一杯で、「貧困の津波」が世界中で起こっていくことに頭が回らない。自分たちの生活が第一であることは当然である。でも、同時に、世界中に「貧困の津波」が押し寄せていることにも心を留めておきたい。
この種の「津波」の予知が難しいのなら、せめて、金銭的な施しや人道支援はもちろんだが、それだけでなく、「津波」の力をどう緩められるか、どう乗り越えていけるか、世界中で皆が知恵を出し合い、行動していかなければならないだろう。
自分がもしも彼らだったら・・・・。「かわいそうなひとたち」で片付けている間は、人々が思い合う新しい世界は造れない。どうすればいいのか、簡単に答えは出ないが、しっかりと心に留めておきたい。

アートへのアクセスを民主化させたい

「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

スラバヤの3教会自爆テロに思うこと

滞在先の東ジャワ州バトゥ市で5月13日朝、同州の州都スラバヤ市の3つの教会で自爆テロがあったとの報道を知りました。その後も、用務の合間、報道を追いかけていました。

5月13日は日曜日で、日曜の朝のキリスト教の教会と言えば、もちろん日曜礼拝があります。たくさんの信者が集まる日曜礼拝の時間を狙った事件でした。

警察発表によると、3つの自爆テロは、ISに合流してシリアから戻った一家族による犯行だったとのことです(注:後に、警察は、「シリアへは行っていなかった」と訂正しました)。父親、母親と二人の幼児、息子2人が別々の教会を襲い、多数の人々を巻き添えにして、自爆しました。

この事件で注目される点が3点あります。

第1に、複数箇所への同時多発自爆テロだったということです。同時多発テロを行うには、複数のテロリストが連絡を取り合いながら犯行するものですが、どこかでその兆候を治安当局に見つけられると、中止となるか単発で終わります。同時多発テロは、それが起こればテロへの恐怖は一気に増します。治安当局は、テロリスト間の情報の傍受でそれを未然に防いできたものと思われます。

でも、今回は、同時多発テロが起こりました。それは、第2に、犯行が一家族によって行われたためです。

一つの思想に染まった家族が、実行してしまった今回のケースは、幼児や10代の子どもを引き連れて実行された点で、世界に大きな衝撃を与えています。なぜ、この家族はこのような犯行を行うに至ってしまったのか、そこへ至るまでに何かできなかったのか。社会からの疎外感が彼らを過激思想・カルトへ走らせたとしたら、それはなぜなのか。

過激行為を未然に防ぐためにも、社会が考えなければならない課題のようにも思えます。

そして第3に、場所がスラバヤだったということ。スラバヤの治安の良さは、警察の能力の高さと評価されてきました。ジャカルタで何か事態が起こると、スラバヤから警察が応援に派遣されることが常でした。スラバヤの治安状況がインドネシアのそれのバロメーターともみられてきました。

そのスラバヤで今回の事件が起こったということは、治安面を見ていくうえで大きな意味を持ちます。すなわち、スラバヤがバロメーターであるという前提が正しければ、この種の事件はインドネシアのどこでも起こり得ることになるからです。その意味で、スラバヤの警察のプライドを大きく傷つける事件でもありました。

筆者が危惧するのは、こうした流れを利用しようとする政治勢力が現れてくることです。とりわけ、現段階で再選が有望と見られる現大統領を追い落とすためには、どんな手段でも活用したい勢力が、このような事件を利用して世間に恐怖心を煽って自分たちへの支持を半ば強制するのではないか、という危惧です。

もっとも、現時点では、活動禁止処分を受けたHTIも含め、自爆テロを厳しく批判する声明が次々に出されています。他方、SNS上でテロを支持・擁護するような発言を見かけたら警察へ告発する、というような動きが早くも始まっています。

こうした自由で公正な発言や議論を妨げるような動きは、政治的に対立するどちらからも現れてくるものと見られます。

スラバヤの悲劇に対して、インドネシア各地で連帯の表明が相次いでいます。それは、亡くなった方への追悼、負傷者への献血に駆けつける市民、宗教の違いを超えた集会の実施など、またたく間に広がっていきました。

今日、一連の動きを追いかけながら、時々泣きそうになる自分が居ました。そして、3年間住んだスラバヤのことが、自分にとっても大切な場所になっていたことに改めて気づきました。

友人や知人の安否を確認し、無事の知らせにホッとしている自分。そして、友人から送られてきた、まったく客のいないギャラクシーモールの写真に、今回の事件の市民へ与えた心理的影響の大きさを感じずにはいられませんでした。

筆者はスラバヤを信じています。スラバヤが今回の事件で揺らぐことはない。スラバヤはスラバヤであり続ける、と。今後も、スラバヤの友人や知人を信じ続け、彼らと会うためにスラバヤに行き続けること、を誓います。

ワールドシフト京都フォーラム2018へ行ってみた

2月3日朝、ジャカルタから東京へ戻り、翌4日朝、東京から京都へ行って、「ワールドシフト京都フォーラム2018」というイベントへ行ってみました。

前から興味はあったのですが、何せ、知り合いがほとんどいないイベントです。とはいえ、30年ぶりに大学の後輩に会うなど、いい時間を過ごせました。

このイベントは、一般社団法人ワールドシフト・ネットワーク・ジャパンが主催するもので、持続可能で平和な未来の実現のため、これまでとは異なる、新しい世界や価値観へのシフトを起こし、行動していくことを目指す運動の一環です。

そのシフトはまず自分自身から始まる、という能動的な運動でもあります。世界がこう変わってくれたらいいなあ、という受け身ではなく、まず、自分は何から何へ変わるのか、という問いから始まり、自分から何らかの行動を起こしていく、そんなたくさんの個人が世界中で行動を起こしていくなかで、シフトが起こっていく、ということを目指している、と理解しました。

今回のフォーラムの「まなぶ、つながる、うごく」というサブタイトルにも惹かれました。まさに、自分が今、目指している行動だからです。


「まなぶ」「つながる」「うごく」の各セッションで、様々な方々が、自分は何から何へ変わるのか、を明言しながら、プレゼンテーションを行なっていきました。そのすべてにおいて、他者への想像力と敬意、偽りのない真の自分自身の発見と向き合い、思いを形へ変えていく力、などのキーワードが通底していました。

個人的にとても新鮮だったのは、AIやブロックチェーンなどの最新テクノロジーを、人間と人間、地域と地域がつながるための道具として活用することへの期待が、今の学問の世界に芽生えていることを知ったことでした。

たとえば、環境経済学の専門家で、世界大での水問題を提起した東北大学の佐藤正弘氏が披露した、世界の水の偏在と不確実性を克服するために、異なる地域の違う水をつなげる、といった試みです。

川の水しか使えない地域と地下水の使える地域との間で、後者から前者へ食料を供給し、前者から後者へは水を供給する、その際に、後者が食料生産に費やす水の量を計算してその分を前者から水で後者へ供給してもらう、といった考え方で、バーチャル・ベイズンという用語を使っておられました。

資源を持つ者の力による支配から、テクノロジーを使って人と人、地域と地域を結びつけ、関係性による最適化の形成を目指す。グローバルな安定を目指すことが多様なローカルの創発につながる、という話が、個人的にとても新鮮でした。

これは、まさにグローカルではないですか。

イギリスの団体が取り組む、ブロックチェーンによる記録を活用した、インドネシアのカツオ漁と消費者とをつなげる試みも興味深い事例でした。

アミタ・ホールディングスの熊野英介氏のプレゼンテーションは、自らが主宰する信頼資本財団による共感融資と共感助成の話でした。3人単位で自分たちの思いを実現するための事業を提案し、財団から共感を得られれば、無担保・無利子で融資をする、助成をする。これまでに100件以上の案件が動き、焦げ付きは一切なし。もう何年もそれが続いているというのです。

人間の欲求のゼロポイントは「孤独になりたくない」ということだとも彼は言います。自治的交差共同体ネットワーク化によって、安定社会から安心社会へ変えていく、そこでは共感と信頼で経営力を増やしていくことが求められ、信頼資本主義を目指すべき、という主張が強く響きました。

「つながる」のセッションでは、ただ単につながればいいという話ではなく、誰がどのようにつながるのか、どのようにつながれば社会問題の解決や平和を造っていけるのか、ということを考えながらつながっていくことが大事だということが強調されました。

広島の被爆者や語り部の方々が、アメリカの核の町・ロスアラモスで果敢にも対話を試みた際、意見の異なる者を結ぶための「文化」の力を痛感した、という話も心に響きました。

誰もが何かがおかしいと、本当はうすうす気づいているのに動けない、動かない。大きな流れに身を任せるしかないというあきらめ。でも、もしかしたら、自分の思っている以上にたくさんの人々が同じようにおかしいと思っているという事実を知ることができたなら、新たな行動へのシフトが生まれてくるかもしれません。

分断は、そうしたことに気づかないように仕向けるものです。誰かの意見に賛成する、自分がいいと思う意見を選ぶ、ということではなく、自分で考えて、自分で行動する。そのときに同じような仲間がいることを意識し、それぞれの自分の考えをそのまま尊重し、ゆるくつながれるところで、必要ならばつながっていく。

分断されているのではなく、自分が分断に加担しているのかもしれないのです。

会ったこともない人のことを心配できる能力を人間は持っている、と発表者の一人の方が力強く主張していました。

辺野古をめぐる分断された住民のこと。台湾東部の地震の被災者のこと。何十年もの精神科病院への入院を強いられた方々のこと。シリアで今も爆撃を受けて逃げ惑う人々のこと。ジャカルタの洪水で避難する人々のこと。彼らのために何かがすぐできるわけではないかもしれませんが、そういった人々のことを思うこと、想像すること、それがまだできるということを自覚することが最低限大事なのかもしれません。

何かを思ってすぐに行動に移せる人の数は、決して多くはありません。でも、シフトが起こるには、予備軍がたくさんいるということを想像できることが少なくとも必要なのではないでしょうか。

イデオロギーや教義ではなく、自分たちの人生や日々の暮らしこそが最も基本であり、それを守り、子孫により安心な世界を残していくことが我々の務めであると思います。だから、変化を起こすのは国家や権力者や一部のエリートではなく、地域や私たち一人ひとりのささやかでしたたかな行動なのだと思うのです。

ロヒンギャを見ながらスハルト時代のインドネシアを思い出す

ミャンマーのロヒンギャをめぐる報道がインドネシア・メディアでも盛んになっています。インドネシアだけでなく、国際社会もまた、「ロヒンギャで民族浄化が進んでいる」などとして、ミャンマー政府に対する批判が広まっています。

インドネシアのムスリムが「ロヒンギャを救え」と強く主張し、こうした国際世論を先導する形となっているのが、とても興味深いです。でも、そのような姿を見ながら、別なことを考えていました。

第1に、多数派と少数派ということ。今回の少数派はイスラム教徒のロヒンギャですが、もしも多数派がイスラム教徒だったら、インドネシアのムスリムは今回のような行動を起こしたかどうか。

インドネシアでも、ムスリム多数派のスンニー派がシーア派やアフマディヤに対して敵意を示し、場合によっては迫害するという事態が起こりました。一部の国際社会はそれを批判しましたが、インドネシア側は、決して少数派の肩を持つような対応をしませんでした。

ずっと時代を遡って、東ティモールがインドネシアからの独立を求めた時。政権中枢部では、実は東ティモールで少数派のイスラム教徒の立場が虐げられているという認識がありました。

インドネシア全体では多数派のイスラム教徒が東ティモール州では少数派。果たして、政権中枢は本当に東ティモールがインドネシアにとって大事だと思っていたのかどうか。もしもイスラム教徒が多数派だったら、話は違っていたのかもしれません。

インドネシアのイスラム勢力が、「たとえどんな宗教であっても種族であっても、少数派への迫害は許さない」という行動を起こせたならば、本当の意味で人権云々を主張できるのではないか、と思うのです。少数派がイスラム教徒であったからこそ、声をあげたのではないか、と思ってしまうのです。

第2に、内政干渉として無視すること。スハルト時代のインドネシアは、国際社会からの人権侵害といった批判を一切無視しました。それぞれの国内に多かれ少なかれ同様の問題を抱えていたASEANは、内政不干渉を原則として、話し合いによってコンセンサスを作るという態度によって、時間はかかっても、問題解決の落とし所を探ってきました。

スハルトは、民主化という概念が欧米とインドネシアでは違うと主張し、政府が指導し、調和を重視するパンチャシラ民主主義という概念をも用意しました。そして、政軍一体の安定した体制こそが開発を進める土台であるとし、それは、ミャンマー軍政が手本とみなすものでもありました。

第3に、反政府勢力ということ。ミャンマーの政軍は、ロヒンギャという民族の存在を認めていませんが、おそらく、ロヒンギャの一部が大人しくしてくれていれば、民族浄化のような動き方はしなかったのではないか。一部のロヒンギャが軍を襲ったという事実によって、反政府勢力のレッテルが貼られた、という今回の話は、アチェやパプアの「反政府勢力」との共通性さえ感じます。

アチェやパプアの「反政府勢力」は最初から本当に独立を求めていたのか。域外からやってきた軍に反発・反抗したことで、反政府勢力のレッテルが貼られ、攻撃を受け、反撃し、攻撃を受け、という繰り返しのなかで、インドネシアの枠内でやっていくことは無理だ、と追い詰められていったのではないか。とりわけ、独立直前に航空機を購入し、インドネシア独立のために果敢にオランダと戦ったアチェの人々にとって、「こんなはずではなかった」という気持ちが、独立への気持ちを一層強めたのかもしれません。

ミャンマーからバングラデシュへ避難するロヒンギャ難民の窮状は、国際社会が注視して救援していくべきものですが、彼らを国民と認めていないミャンマー政権からすれば、どこか迷惑なよそ者という認識かもしれません。それは、攻撃を受けて敵視されたアチェやパプアの人々が、あたかも国民ではないかのように扱われた、かつてのインドネシアに通じるものがあるかもしれません。

浅はかかもしれませんが、そんなことをつらつらと考えていました。

来週は、インドネシア・東ジャワ州のマランへ行きます。最初と最後に1泊ずつスラバヤに泊まります。

N. S. ハルシャ展を観れてよかった

今日は、昼と夜にミーティングの予定が入っていたので、その合間を利用して、森美術館で開催されている「N. S. ハルシャ展:チャーミングな旅」を観に行きました。

N. S. ハルシャは、インド南部カルナータカ州のマイスールに生まれ、今もこの地方の古都を拠点に活動するアーチストで、伝統文化や自然環境を踏まえつつ、開発に伴う農民の苦悩などに象徴される不条理、イメージの繰り返し、など独特の世界を表現していました。

有名人を含む2000人の人物が一面に描かれた「ここに演説をしに来て」と題された大作。今回の展覧会の目玉作品ですが、「ウォーリーを探せ」的にいろんなユニークなキャラクターを探す面白さに加えて、全体が醸し出すなんとも言えぬ雰囲気に飲まれていきます。

鏡張りの部屋には、床一面にハルシャの描いた人々の姿があり、そこへ寝転がって、天井を見ると、天井の鏡を通して、ハルシャの描いた人々と自分が一体になる、という不思議な空間がありました。スマホを掲げる私が写っています。

さらに行くと、そこには193台の足踏みミシン。これらのミシンの下には世界各国の国旗が置かれ、ミシンの間が糸で結ばれています。グローバリゼーションを表現したものですが、ミシンの下に敷かれた国旗の存在の薄さが印象的です。

「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」と題された大作。勢いのある太い線の中には、宇宙を構成する星々が描かれ、観る者へ向けて、なんとも言えぬ光を放ってきます。

最後に掲示されていたのは、「道を示してくれる人たちはいた、いまもいる、この先もいるだろう」という作品。様々な所作の猿たちがすべて、上を指差しています。猿たちは、神の化身であるハヌマンなのでしょうか。

土曜日の午後だったせいか、森美術館の入口は大変な人出で、長い行列ができていました。前売券を買ったものの、窓口で入場券に引き換える必要があり、相当な混雑が予想されました。観るのをやめて引き返そうかとも思いました。

でも、11日までしかやっていないので、頑張って観ることにしました。そして、その決定で本当によかったと思います。ハルシャ展自体は、さほど混んではいませんでした。

ハルシャの作品のスケール感、そして、地方の生活に軸足を置き、地に足のついた社会に対する痛烈な批判と世界への警鐘。地域の子供たちなどとのワークショップを頻繁に行っている姿勢にも感銘しました。

森美術館は近年、アジアの埋もれたアーチストの発掘・紹介に力を入れているとは聞いていましたが、今回のハルシャ展は十分に満足いく内容でした。彼の活動拠点であるマイスールをいつか訪れ、彼自身といろんなことを話し合ってみたくなりました。

グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。