帰国した夜の素敵な出会い

帰国した3月14日の夜、友人の紹介でとても素敵なご夫妻と新宿でお会いし、4人で美味しいタイ料理を食べました。

このご夫妻は建築家で、友人は、このご夫妻が中心になって催している街歩きの会で親しくなったということです。建築家の目から見ると、東京の街がどのように見えるのか、個人的にはとても興味があるので、そのうち、私も会に参加していたいと思います。
このご夫妻と色々な話をしました。私は、彼らが家を建てる技巧的な面を強調する、家を建てるまでが仕事と割り切るタイプの建築家かもしれないと警戒していました。依頼主の希望にそうというそぶりを見せつつも、結局は自分の好きなように建て、かなりの報酬を要求するタイプではないか、と勝手に妄想していました。
実際、ハウスメーカーが家を建てるのと、建築家が建てるのとの差がどこにあるのか、本当の部分はよく分かっていないのです。でも、このご夫妻とお話ししているうちに、なんとなくわかってきたような気がしました。
話をしているうちに、ご夫妻も私をかなり警戒されていたことに気づきました。最近の客は、コストの話ばかりで、できるだけ安くアパートを建てて、どれだけ効率的に儲けられるか、そんなことばかりを気にするタイプが多いからだそうです。
依頼主と建築家が同じ方向を向いていれば、互いに信頼することができ、利益や儲けの話を超えた部分で共感しあえる、そんな風に思いました。
私が口にした「街並が崩れていく」という言葉にお二人は強く反応し、私はお二人が言った「そこに住まう人の生活やこれまでの営みを大切にするため、依頼主の内面に深く入っていかなければならない」という言葉にうなづきました。
全く違う分野どうしなので、こんな機会でもなければ、おそらく互いに会うこともないでしょう。でも、友人のおかげで、本当に素敵な出会いの夜となりました。私自身も、そんなつなぎ役をもっともっと果たしていきたいと思いました。

震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

大学生と対話するのは楽しい!

今日2月5日の昼下がり、都内某所で、アジア開発学生会議(ADYF)に参加している大学生4人と話し合う機会がありました。

参考までに、アジア開発学生会議のホームページは次のリンクです。

 アジア開発学生会議(ADYF)(日本語英語

彼らのうちの一人は、昨年12月16日に私が担当した立教大学での特別講義の受講者で、そのときに、「自分たちの仲間と会って話をして欲しい」と言われていました。今回、それがようやく実現した形です。

彼らは、インドネシア・バリ島の観光開発による社会変容に興味を持っていて、自分たちで色々と学び、調査をしてきたようでした。今日の面会の前に、彼らは私への質問を前もってたくさん用意してきていました。

4人のうち3人は理系の学生で、大学では開発途上国の問題や国際協力についてなかなか学んだり議論したりする機会がないため、アジア開発学生会議に参加したという話でした。そして、今、自分が学んでいる専門を開発途上国の問題や国際協力に生かしたいという希望を持っていました。

彼らからの質問に答えながら、私からも色々な話をインプットしました。彼らの立てた前提が果たして地元社会の人々から見たら適切なものなのか、どのようにして地元社会の人々の本当のニーズを把握することができるのか、そもそもの問題設定自体が適切なのかどうか、といった話題を投げかけると、彼らからも様々な反応が返ってきて、私もいい意味での刺激を受けることができました。

以前のブログでも書きましたが、彼らのような大学生が自分の考えや意見を遠慮することなく話し合う場というものが、なかなかないというのが現状のような気がしました。大学時代こそが、若者が悩み、試行錯誤し、読書し、大きなことを考え、いい意味でホラを吹き、自分なりの思想や哲学を形作る、貴重な時期だと思います。

それが今、目先の試験や就活に追われ、社会人になってから試される「自分づくり」に時間を費やせないのは、残念なことです。せめて、1日に30分でも、毎週1時間でも2時間でも、そんな時間を作れたら良いのではないか、と思います。

今回のように、大学生と対話するのはとても楽しいものです。私自身は彼らの先生でも教官でもない、彼らとは何の利害関係もない、フツーの大人です。だからこそ、彼らの考えや意見をまっさらな気持ちで聞き、まっさらな気持ちで私の考えや意見を言うことができるような気がします。

「君たちが望むのならば、いつでも今回のような対話の機会を作っていいよ」と言ったら、彼らは何だか少し嬉しそうに見えました。もちろん、私自身の単なる勝手な思い込みかもしれませんが・・・。

何年もの時を経て旧友とつながり始めた気配

この一週間ぐらいの間に、もう何十年も会っていない、半ば忘れていたような、旧友たちと再びつながり始めた気配を感じます。

先週、ひょんなことから、中学、高校と一緒だった友人とフェイスブックでつながりました。すると、彼から、中学時代の彼の級友たちが東京に住んでいて、彼らが集まって飲んだときの写真が送られてきました。

この友人とはクラスが違っていたので、記憶は確かではないのですが、写真を見て、何人かの名前を思い出し、会っているかどうかを尋ねたら、ほとんど合っていました。

高校を卒業して福島市を離れ、それから埼玉県に少し住んだ後、ずっと東京で暮らしてきました。

一般に、友人づくりにはいろいろなタイプがあり、少数の親友と長く親しい関係を続ける場合もありますが、私の場合は、その時その時で新しく友人ができ、昔の友人との関係はどんどん消えていくという形だったような気がします。

つい最近まで、福島市にいた時の小中高時代の友だちとは、ほとんどコンタクトがなかったのです。新しい友人がどんどんできていくので、ほとんど気にも止めず、放置したまま長い月日が経ったのでした。

数年前、Linkedinでダメ元でつながりリクエストを出したら、高校時代の友人らとつながり、その勢いで再会して、福島市で餃子を一緒に食べ、今ではいつでもコンタクトを取れる仲に戻りました。彼らは、福島県庁の幹部職員や地方銀行の重役になっており、いつでも協力すると言ってくれました。

先週、写真を送ってくれた彼。写真を見ながら、自分のクラスではないのに、何人かのことを急に思い出し、とても懐かしくなりました。私の中学時代のクラスメイトは、今、どうしているだろうか、と懐かしい気持ちが止められなくなりました。

その後、前の勤務先で一緒だった方とも10数年ぶりにコンタクトが取れ、来週、ランチをご一緒することになりました。また、20年以上前にとてもお世話になったマスコミ関係の方とも今朝フェイスブックでつながり、元気でいらっしゃる様子を嬉しく思いました。

写真を送ってくれた彼は、写真に写っていた面々に声をかけて、東京で飲み会を計画したいと言ってくれました。でも、会うとなるとちょっと恥ずかしい気持ちになってしまいます。

常に新しい友を得て、それがインドネシアなど海外にもどんどん友ができて、この歳になって、昔の友とつながり始めた、というのも、不思議な気がします。

フェイスブックという、何年経っても繋がっていることができ、常に連絡を取らなくても何をしているかがわかり、いつでも、10年以上会っていなくても、あたかも昨日会ったかのように冗談を言い合える、そんな道具のおかげで、私の友人ネットワークは軽々と国境や時間を超えていくのでした。

こうして、この世を去るまで、友人を作り続けていくのでしょう。そして、真摯に想い続ける限り、フェイスブックなどの助けを借りて、バーチャルに過ぎないにしても、これらの友人とつながり続けていくことでしょう。

皆んな、今どこでどうしているのだろうか。自分勝手な思い込みかもしれませんが、きっと、そんな風に皆んなも思っているような気がします。

何かのきっかけで、このブログを見てくれた友人がいたら、ぜひ、私まで連絡をください。そして、連絡が取れたら、近いうちにお会いしましょう。

お通夜の最後の参列者

今日の午後、突然、知人の訃報が知らされました。先週亡くなり、今日がお通夜、明日が告別式、ということでした。

この方は、某マスコミの管理部門の方で、これまで、インドネシア関連の講演などで大変お世話になった方でした。

彼についてとくに思い出されるのは、2015年1月28日、ジャカルタで開催された「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」と題するシンポジウムです。このシンポジウムは、彼の会社が幹事として運営され、彼はその責任者でした。

シンポジウムでは、日本とインドネシアの著名人によるセミナーに加えて、新企画として、日本とインドネシアの企業経営者に企業の現場から日本とインドネシアの関係強化をどう図るか、という内容のパネルディスカッションがありました。私はこのパネルディスカッションで、彼から進行役を任されました。

きれいごとではなく、技術移転や労務問題など、日本側とインドネシア側から双方に対する本音が出る、中身のある議論にしたい、というのが彼の願いでした。でも、パネルディスカッションが始まる直前になっても、議事進行のシナリオは用意されておらず、また、日本語とインドネシア語の混じる形で議事を進めることになっているので、進行役としては、いったいどうなることやら、皆目見当のつかない、不安な状態でした。

私は、拙いながらも、日本語とインドネシア語のバイリンガルで議事進行役を務め、議論を丁寧に拾いながら、そこから派生してさらに本音の部分が深まるような方向へ議論を導いていきました。1時間半という予定時間内で終わるのか、シナリオが何もない中で、必死で議事を進行していきました。

何とか議論をうまくまとめた形になり、パネルディスカッションは、自分で言うのも何ですが、けっこう中身のある内容になったと思います。ご興味のある方は、以下のリンクをご参照ください。

平成 26 年度新興国市場開拓事業(相手国の産業政策・制度構築の支援事業(インドネシア:知日派育成))報告書

このパネルディスカッションに引き続き、シンポジウム後のレセプションで、何か日本とインドネシアの今後のパートナーシップを象徴するような、前向きの内容を作れないか、とおっしゃったのも彼でした。

私は、日本とインドネシアの架け橋になりたいと本当に頑張っている、日本人の血とインドネシア人の血を持つダブルの友人2名にプレゼンしてもらってはどうかと提案しました。彼はそれを快諾し、2名のプレゼンが実現しました。彼らは今、日本とインドネシアの架け橋として、さらに活動を発展させています。

これまで、いろんな方々と一緒に仕事をする機会がありましたが、今回亡くなった彼と一緒にした仕事は本当に思い出深いものでした。

今日は、夕方から都内で用事があったのですが、その用事が長引いてしまい、お通夜に行くのは無理かと最初は躊躇しました。でも、着いたらもう終わっているかもしれないけれど、行けるところまで行ってみよう、と電車を乗り継いで、トイレに行くのを我慢し、時には必死で走りながら、お通夜会場まで行ってみました。

着くと、お通夜はもう終わっていました。でも、斎場に明かりが灯っています。見ると、ご家族がまだいらっしゃいました。彼の部下だったTさんが、私が遅れてくることをご家族に伝えてくださっていたのです。待っていてくださったのでした。

本当に恐縮し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それでも、彼に最後のお別れを言おうと思いました。焼香用の火はすでに消されており、線香をあげるように促されました。そして、お別れをすることができました。

ずっと待っていてくださったご家族に深く御礼を申し上げ、場を後にしました。

享年46歳。まだまだこれから、でした。もっともっと、一緒に仕事をしたかった・・・。帰りの電車の中で、色々な気持ちがこみ上げてきました。

Wさん、さようなら。本当にお世話になりました。どうぞ、安らかにお休みください。

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

右ならえの自己アピール

昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。

マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。

それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。

日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。

もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。

極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。

自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。

そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。

本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。

多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。

それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。

自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。

右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。

自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。

対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。

他者との対話。自己との対話。

物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。

対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。

就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。

それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。

それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。

アンゴラ、ブラジル、福島を結ぶサウダージ

7月8日、友人である渋谷敦志氏の写真展を見てきました。渋谷氏とは昨年、ダリケー株式会社主催のカカオ農園ツアーをご一緒して以来のお付き合いです。

今回は「Saravá~Brazilian Journey~」と題する写真展でした。1990年代半ばから20年以上、ブラジルと付き合ってきた渋谷氏の軌跡を感じさせるような写真が展示されていました。

写真展は7月14日まで、新宿コニカミノルタプラザで開かれています。詳しくは以下のサイトをご覧ください。

 渋谷敦志 写真展「Saravá~Brazilian Journey~」

合わせて、渋谷敦志写真集「回帰するブラジル」も購入しました。この写真集、アンゴラから始まり、そのすぐ後からは、ブラジル各地で過去20年間に撮影した写真の数々が続き、最後は福島で終わる、というものでした。

この写真集を貫くキーワードは、サウダージというポルトガル語です。

渋谷氏によると、サウダージとは、過ぎ去った時間への懐かしさ、何かが満たされない寂寞、心にはあるのに触れることのできない哀切、それらをぎゅっと詰め込んだ言葉にならない思いを表すようです。

渋谷氏は、彼自身の20年を超えた付き合いをしてきたブラジルに対するサウダージを抱きながら、写真の対象としての人々それぞれのサウダージに思いを馳せ、それを写真の中に表現しようとしてきたのかもしれません。

彼の写真の中の人々は、今を懸命に明るく生きているとともに、それぞれの人生の過去と今後を思いながら生きている、そんな様子を垣間見せています。それは、写真の中の人々の表情、とくにその目に表れているような気がしました。たまたま出会った被写体の彼らに対して、渋谷氏は、人間としての尊敬をもって、彼らの人生を映しだそうと誠意を持って向き合っている様子がうかがえる写真でした。

彼自身の、そしてブラジルでの被写体の人々の、サウダージが溢れ出してくる写真。そして、最後にそれが、東日本大震災の時に津波で家を流され、家族を失いながらも、前へ進もうとされている福島・南相馬の男性をめぐる写真で終わるところに、サウダージという言葉の持つ深さを感じたのでした。

渋谷氏は次のように書いています。

ーブラジル、アフリカ、そして福島。異なる三つの大陸をまたぎ、海を越え、サウダージは、ぼくを「いま、ここ」に連れてきた。そこから見える光景はかつての自分が思い描いていたものとはずいぶん違う。悲しい到達地と言えるかもしれない。失われた風景はもう戻らないかもしれない。でも、そこには心が残っていた。それは、人間が根源的に持つ生きる意志を確かめさせてくれるような何かでもあった。そんな心のよりどころのような場所に幾重にも立ち返り、生命の在り処にカメラを向けることで、未来を光で照らし出す可能性を探求しようとしているのだと思う。

渋谷氏の写真の真ん中には必ず人間とその人の人生がある、と思いました。サウダージを大切に大切にしながら、未来の光を映しだそうとする、真摯なカメラマンの姿がそこにはありました。

渋谷氏に教えていただいた、このサウダージというポルトガル語を、私も大事にしながら、前へ進んでいきたいと思いました。そして、これまで出会った人々やこれから出会う人々の未来に対して、もう一つ教えていただいたポルトガル語、サヴァーレ(祝福あれ)を送っていきたいと思いました。

1 2 3