「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

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