春の訪れをいつの日か分かち合いたい
春を感じさせる穏やかな一日でした。午後のイベントへ出掛ける前に、自宅の庭で春を見つけました。
福寿草やモクレンが咲いていました。
温かな日差しに照らされながら、花が可憐に咲いていました。
こうして、平和に春の訪れを感じることができる日常の何気ない幸せを、今日は改めて感じなければならないことになりました。
午後9時から放映されたNHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」。反アサド勢力の最後の砦とされたアレッポ東部に最後まで残った人々と、死傷者を受け入れなければならない、最後まで残った病院・クドゥス病院の、凄まじい状況を市民のカメラ映像で追った、見るのが辛くなる番組でした。
一言で言うならば、地獄。目の前で次々と人々が亡くなっていく。医師や看護士の能力を超える数の人々が運び込まれ、生存可能性の高い人々を優先せざるを得ない、助けようにも助けられない、そんな現実が次々に映し出されていきます。
アレッポを制圧するアサド政権からは反政府のレッテルを貼られた人々。でも、もはやアサド打倒のために最後まで戦うような状況にはなく、かといって、投降しても命の保証があるとは思えないほどの不信感のなか、次の瞬間での死を意識しながら生きる人々の姿には、今の瞬間瞬間を生きるしかない、究極の状況が映し出されていました。
絶望しかない世界。でも、絶望に打ちひしがれている暇すらないのでした。そして、医師や大人たちがわずかな希望を託せるのは子供たちしかなく、それが子供たちを助けようとする尋常ではないエネルギーになっているかのようでした。
何が何でも生き延びるためには、どんな酷い権力者であっても、従順で馬鹿なふりをして権力者へ尻尾を振らなければならないと思って、さっさと降伏し、投降するしかない、そういう選択をしてしまうだろうし、その選択を後世で「仕方なかった」と納得しながら生きていくしかない、という面はあるかもしれません。
安全で安心して暮らせる状態にある後世の人々が、そうした行為を批判し、愚弄したとしても、そうして自分を偽ってでも生き延びた人々は、それを甘んじて受けざるをえないでしょう。きっと、日本もまた、そうして生きてきた人々が少なくなかったはずです。
アレッポのクドゥス病院の人々は、たとえ反アサドの活動家でなかったとしても、様々な理由で、そこから脱出できなかった人々も少なくなかったかもしれません。そういう人も含めて、アサド政権から反政府のレッテルを貼られたのでしょう。
テロリストのように、他人の生きる権利を一方的に踏みにじる人でなければ、その人の生きる権利は何としてでも尊重されなければならないはずです。クドゥス病院の人々は、少なくとも人間の命をできる限り救おうと懸命だったのに、彼らを「反政府=テロリスト」と一方的に決めつけて爆撃するのは、主義主張やイデオロギーを超えて、犯罪以外の何物でもない、ということは明確にしておかなければならないでしょう。
そのような状況を、国際社会は見て見ぬ振りをしてきたことを、彼らは糾弾しています。私もその国際社会の一部であり、個人として深く反省しなければなりません。しかしながら、国際社会がその現実を見たとして、祈る以外に、何が一体できたのか、という気持ちもあります。それでも、それを見てしまった者は、少なくともその情報を広めるなど、何かをしなければならなかったのでしょう。
このNHKスペシャルを観た後では、庭の福寿草やモクレンに春の訪れを感じていた自分の呑気さをちょっと後ろめたく感じてしまいます。
でも、そう感じられる自分の今の瞬間瞬間に感謝しつつ、不躾かもしれませんが、アレッポの人々と春の訪れをいつの日か分かち合いたい、という気持ちが不意に湧き上がってきました。きっと、それがあって始めて、自分が何かをしていけるのではないかと感じます。実際に何ができるのかはまだわからないのですが・・・。