2020年について改めて思う

今から4年近く前の2013年9月5日、私は以前のブログで、東京オリンピックへの立候補プレゼンテーションに関連して、少し書きました。よろしければ、以下のリンクをご覧になってください。

 「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

私の東京オリンピックへの感じ方は、あのときからあまり変わっていません。心から歓迎する気持ちには今でもどうしてもなれません。

その後、ロゴの剽窃疑惑やら、国立競技場の建て替え問題やら、テニス会場を巡る都市間での諍いやら、オリンピックというビッグ利権に群がるハイエナたちの様子が感じられます。

オリンピックとは直接関係なくとも、オリンピックを理由にした様々な思惑もどんどん出てきています。築地市場の移転問題も、オリンピックに間に合うように環状2号線の建設を進めたいということも事の一端だったと思います。

オリンピックが開催される2020年を新しい日本の門出の年にしたい、と勝手に思う野心的な政治家たちが正々堂々と現れ出しました。

最も驚いたのは、5月3日、日本のメディアがこぞって、安倍首相の「2020年の憲法改正を目指す」という発言を一大事としてトップで取り上げたことです。

この発言は、改憲を目指すグループの集会へのビデオレターの中でなされたもので、素直に考えれば、国民全体へ向けたものではなく、自分のお仲間の仲良しさん向けに話したものと思われます。

しかし、必然的にそれは、国民全体へ向けたものになることは明らかでしたし、その効果を狙っていたはずです。そろそろ「空気」を作ってもいい頃だ、メディアも国民も「忖度」し始める頃だろう、というタイミングでしょう。たとえそれが自民党総裁としてでも首相としてでもなく、一改憲論者の個人として話したものだったと言い訳しても、それは通らないことは明らかです。

実際、自民党の憲法改正の議論の結果として出てきた内容ではなく、今後の政治運営上の政党間連立として他政党を取り込むための便宜的な内容でした。たとえば、自民党は民主党政権時代に高校教育無償化には批判的だったのに、今回の発言では、高校教育無償化をするために憲法改正をするかのような、よく訳の分からない話になっています。

そもそも、憲法を遵守すべき首相です。その首相が、自分が総裁を務める政党内での議論を踏まえず、自分で勝手に、憲法改正を目指すことにとどまらず、そのスケジュールまで明言するというのは、明らかにやりすぎではないかと思うのです。

メディアは、共謀罪の話をチラつかせながら、何となくこれから言いたいことも言えなくなってきそうだ、という「空気」を世間に振りまき、自分の首をどんどん閉め始めて自分で苦しくなっています。何となく自分の意見を言いづらいような、誰かに監視されるという恐怖をこれから感じるようになるのか、といった不安を掻き立てています。

たくさんの、ときには国家や組織ぐるみの嘘が巧妙に組み込まれ、嘘と分かっていてもそれを受け入れざるをえない、そうしなければ国家がいつ自分を犯罪者扱いしないとも限らない、という空気。一握りの人間が自分だけを守るために嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

東日本大震災のあと、原発事故が起こったとき、権力者や大企業はそこに住む人々に嘘をつき、守ってくれませんでした。その後、取ってつけたように、国民を守るフリをしました。あのとき本当は何があったのか、その真実を明らかにしてしまったら、今までの全てが無意味になってしまう。そう思った一握りの人間が嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

あのときの福島が、今では日本になってしまったのでしょうか。嘘だと分かっても仕方ないと割り切って従順になることが大人になることなのでしょうか。私たちはそのように子供たちを教育していくのでしょうか。

そんな教育を受ける子どもが自分の夢を語れますか? 嘘をついてはいけないよ、と子どもに言えますか?

そのように嘘の連続ををつかれてきたということでは、沖縄も、水俣も、他の国家権力に立ち向かわなければならなかったところも同じだと思います。

2020年の東京オリンピックで日本が変わるのではありません。私たちが子供たちの夢を叶えさせてあげたい、正直で真面目に生きたものが報われるような社会にしていきたい、そういう思いが否定されない世の中。それを大人が子供の鏡となって子供に見せられる世の中を作っていく。そうした日々の積み重ねが社会をより良い方向へ変えていくはずです。

そんなのはもう無理なんだ、諦めてくれ、と子供に言いたくはありません。

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