高僧を敬えという声の陰で

昨今のインドネシアの状況を憂う人々がかなりいる様子です。

政治目的のために、社会の分断を煽り、敵を作り出して攻撃する。もっとも、そうした状況を理解し、そうした手法の浅はかさを見抜いている人々も少なくはありません。

しかし、見抜いていたとしても、それを声高に言いにくい雰囲気が生まれている気配があります。

その一例は、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張の流布です。イスラム教の世界で、彼らは敬われる存在で、彼らの言うことはありがたく受け止めるものである、という一般常識があります。

しかし、彼らの一部には、政府や国家イデオロギーを批判するような説教をモスクで行なう者がいるようです。これまでも、そうした説教の中身が過激で、説教を聞く者たちを煽る内容として問題視され、過激な考え方へ促すとみなされる面もありました。

「政府高官が共産党に関係している」と説教した説教師が5月30日、警察に拘束されました。先の大統領選挙では、ジョコウィ候補(現大統領)の家族は元共産党員であるという噂が流布しました。言論の自由を逆手にとって、こうした言説を正当化する動きが出てくるのではないかとも危惧します。

聖なる断食月ラマダーンには、静かに穏やかにイスラムの教えを深く理解するような説教が行われるものですが、どうも、今回の断食月には、先のジャカルタ州知事選挙の影響が残っているのか、政治的な匂いのする説教も引き続き行われている様子です。

そうしたなかで、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張のもとで、説教で何を言ってもかまわないかのような雰囲気が出てきてはいないか、とちょっと心配になります。録音などで明らかな証拠が残っていれば別ですが、そうでない場合、説教の内容を批判することがイスラム高僧らへの冒涜と取られてしまう恐れがあるのではないか。ウラマーやイマームを敬え、という声が聞こえてきます。

これは何もイスラム教に限ったことではないでしょう。どんな宗教でも、信者から偉いと思われている高僧の言うことを批判することは難しく、逆に、偉い者たちは、それをいいことに、他者から批判されないことを前提に、自分の言いたいことを神の言葉として語ってしまうのでしょう。

しかし、真実を明らかにしようとする者たちに対しては、偉い者たちはその「偉さ」への尊敬を求め、自らの行為を認めようとはせず、反抗者として従わせようと試みます。その「偉さ」に宗教や権力が備わると、真実を明らかにしようとする者たちは、一転して危険人物、反逆者のレッテルを貼られることになります。

今後、こうした動きがインドネシアで広まっていくのかどうか、注意深く見守る必要があると思います。

しかし、これはインドネシアだけの話ではありません。我々にとっても、他人事ではないはずです。

たとえ、公に批判することを許されないような状況に陥った場合でも、どのような形で必要な批判を続けていけるのか。私は、スハルト時代のインドネシアでメディアが採った間接的な批判手法を参考にしたいと個人的に思っています。

でも、そんな手法を使う必要のない世の中にするために、まだまだ尽力し続けなければならないのです。

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