無駄の有駄
昨今の耳を疑うような「生産性」云々の話にうんざりしながら、中学校のときに大好きだった教頭先生が卒業文集に寄せてくれた言葉を思い出しています。
それは、無駄の有駄。
一見、無駄に見えることのなかに、意味がある。無駄であることに意味がある、ということを、教頭先生ははなむけの言葉にしてくださったのでした。
無駄をなくすことが生産性を高め、効率の良い社会を作る。それが世の中の進歩である。当時は、まだ高度経済成長の影が残り、世の中はどんどん進歩していける、と信じていたかもしれない70年代の後半でした。
ジャスト・イン・タイムが良しとされ、進歩の速さに乗り遅れた人々は「落ちこぼれ」とされ、その速さに乗っていくことがよい生活を実現させるために必要だ・・・。
日本社会が右肩上がりでなくなってからも、いやだからこそ、以前よりももっと無駄をなくして、効率を上げて、生産性を高めるために、一段とギアを高くしなければならない・・・。
そんな風に信じている人々が、実は少なくないのかもしれません。
無駄をなくすために取り入れられた様々な技術。パソコン然り、ケータイ然り、ジャスト・イン・タイム然り。それによって、仕事が効率化し、生活にゆとりが生まれ、人間らしい生活を送ることができる、って、技術が導入された最初の頃は信じていたように記憶しています。
でも、その結果は・・・
原稿を書いて締切日必着にするには、5日前には書き上げ、郵送しなければならないから、逆算すると、1ヵ月前ぐらいから取り組まなければならないかな、という時代がかつてありました。
今や、締切日の夕方までにメール添付で送ればいいからと、ギリギリまで粘れます。
そして、すぐにインターネットで処理できるからと、仕事の量はどんどん増えていくのでした。しかも、人事評価やら業績評価やら、書類の種類がどんどん増え、会議の回数がどんどん増え・・・。その一つ一つは、無駄をなくし、効率的に事務処理されたもの。
でも、それを鳥瞰的に見ると、無駄を省いた効率的な事務処理の全体量がものすごく増えたのではないでしょうか。なぜなら、人間を忙しさから解放するはずの技術がそれだけの量の事務処理を可能にしてしまったからです。
そういう方々が、ストレスからか、それだけの仕事をこなせない(とみなされた)人々を見下し、生産性が低いなどと思うのかもしれません。でも、そのこなしている仕事は、世の中のためだと誰にでも胸を張って言える仕事なのですか。
無駄とは、広い意味での遊びのことかもしれません。
伸びきったゴムは、いずれパチンと切れてしまいます。ゴムがゴムたり得るのは、遊びがあるから・・・。
人間は生産性や効率のみで評価されるものではないでしょう。無駄があるから、深さが出る。遊びがあるから、本気で集中できる。
無駄はたしかに有駄である、と感じます。ゆるい社会が(鋼の強さではなく柳の強さという意味で)強い社会である、と思います。
そういえば、うだうだするは有駄有駄する、という当て字がありましたね。これも、無駄の有駄のお仲間でしょうか。うだうだするのはとても好きです。
無駄の有駄を教えてくれた教頭先生の英語の授業、とても大好きでした。