「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と言われて・・・
ひとりごとの雑文です。もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれません。
ちょっと前に、ある日本人の方から「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と、突き放すように言われました。振り返ってみると、それ以前にも、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」などと言われたことがありました。
日本とインドネシア。そのどちらかに身を置いていないといけないかのような・・・。
もちろん、自分は日本人の両親から生まれた生粋の日本人であり、日本国籍を持っています。それは、自分の意志で選んだものではなく、たまたまそうなったのです。
これまでには、日本国の税金を使わせていただいて、国際協力の仕事も行ってきました。日本国の税金を使う以上、日本のためになる成果を上げる必要があることは十分に自覚しています。
自分としては、それは、相手(私の場合は主にインドネシア)が日本の味方になってくれること、日本を深く信頼してくれること、いざとなったら、日本を助けてくれるような関係をつくること、だと思ってきました。相手のためになる仕事をすることが、日本のためにもなる、と信じて、自分なりに仕事をしてきました。
だから、日本だけが利益を得ればよい、あるいは、相手だけが利益を得ればよい、というふうには考えられませんでした。
これは、商売やビジネスでも同じことだと思うのです。相手をだましたり、出し抜いたりしてでも、自分だけが利益を得ればよいという考えでは、商売やビジネスは成り立たない。双方に信頼関係ができて、はじめてうまく行くものではないかと思います。
そう考えてきたので、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか、「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」というふうになぜ言われなければならないのか、よくわからないのです。
そういう人からすると、私の行動は、相手の利益しか考えていないように見えるのでしょうか。敵・味方みたいな話になってしまうのでしょうか。
いつの頃からか、私自身、日本とかインドネシアとか、国単位で物事を考えることが減っていきました。より生活空間に近い地域やコミュニティ、あるいは実際に接している個人や団体を個々にみるように変わっていきました。
日本にも様々な人がいるし、インドネシアにも様々な人がいます。いい人も悪い人も。誠実な人も不誠実な人も。○○国人はどうだ、と簡単に言えなくなっていきました。
同じように、○○教徒はこういう人間だ、とか、○○種族はどうだ、とかも簡単に言えなくなってきました。
世の中には、国や宗教や種族に応じて、勝手にイメージを作り上げ、レッテルを貼る人々がまだまだたくさんいるのでしょう。もしかしたら、それが多数派なのかもしれません。たとえば、実際、インドネシアにおける外国人イメージにも、辟易することがよくあります。
なんだか、最近は、二つのうちから一つを選ぶ、踏み絵のような話ばかりが横行して、第三の道やそれらとは次元の違う考え方がもわもわっと現れてくる余地を狭めているような気がします。
信頼関係をつくるのに必要なのは、ディベートではなく、対話です。ディベートと違って、対話に勝ち負けはありません。敵・味方を区別して、勝ち負けを競うような言論空間がずいぶん広がってしまったような気がします。そして、勝ち続けなければならない、というような脅迫観念が蔓延しているかのようです。
果たして、「日本かインドネシアかどっちなのだ?」と私に問う人は、相手と対話を行うつもりがあるのでしょうか。対話をして相手の言うことを聞いてしまったら、それは負けなのですか。
対話に勝ち負けはありません。対話は相手を変えるためだけを目的に行うのではなく、対話のプロセスを通じて、互いに「何を話しても大丈夫!」という安心感・信頼感を醸成しながら、相手も自分もともに変わるものです。
きっと、自分が変わることを恐れる自分がいるのです。自分は変わらず、相手だけを変えることが勝ちだと意識しているのかもしれません。
日本とかインドネシアとか、そういった国を自分が意識しなくなってきたことで、国家を背負って仕事をされている方々は、そんな私に負のレッテルを貼っているかもしれません。
インドネシアのために何かをすることが日本のためになる。私が国際協力の仕事を始めた頃はそういう空気がまだあった気がします。でも、今や、そう考えてはいけないのでしょうか。
誰が何と言おうとも、私は相手と対話を続けていきます。相手に負のレッテルも貼りません。信頼関係の醸成なくして、相手とのよい関係を築くことは不可能です。
日本かインドネシアか、と聞かれたら、やっぱり、両方、と答えるしかないです。
「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」とか、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか言われても、もう気にしないことにします。その結果として、そういう人たちと仕事ができなくなっても、それはしかたないことです。
自分に賛同してくれる仲間を、地道に増やしていくことにします。そういうスタンスで、対話の力を信じ、レッテルを貼らず、自分なりに、信頼できるつながりの輪を広げていきたいと思います。
松井さん、「ひとりごとの雑文」と言うにはあまりにもったいなく、シャアして下さってありがとうございました。
国家という枠組みを社会の枠組みの一つと位置付けられない人々には、松井さんの思いは理解できないのかもしれません。
僕はオランダ・ハーグに住んでいて、今カフェでこのコメントを書いていますが、両隣のお客さんともいわゆる「白人オランダ人」ではありません。オランダもかなりの混合社会です。先日、大学を卒業したばかりの若い白人オランダ人男性と話しましたが、自分の「オランダ人」というアイデンティティに違和感を覚えると言っていました。もちろんそれが彼の複数のアイデンティティ(one of the identities)の一つであることを否定するものではありませんでしたが。
僕も対話を続けていきます。
松井さん、松井さんのそのお気持ちは大切にされて下さい。いろいろなお考えやお気持ちの方がいるんだなあぐらいに受け止めて、前を向いて続けていかれれば良いと思います。
コメントをありがとうございます。木村さんが仲間で良かったです。対話をするためには、柔軟な自分の芯をしっかり作っていくことが必要で、まだまだ研鑚していかなければと自省します。対話のできる仲間を増やしていきたいです。
コメントをありがとうございます。はい、自分のこのスタイルを続けていくのだと思っています。よろしくお願いいたします。
こんにちは、松井さん
私はインドネシアと日本のサッカーの試合で、両方のチームを応援している自分があります。
また、日本にいる時”危ない!”と言わずに”アワス!!”と叫んで、家族から何言ってるの? とよく言われています。今度はインドネシアにいる時に、インドネシアの友達に
一生懸命日本語で話していて、相手がぽか~んとしている事が良くあります。
身近なソサエティーに於いては、イデオロギーもレリジュンもナショナリティー等も関係ないと考えています。
コメントをありがとうございます。同感です。レッテルを通してではなく、素のままで、相手と接することができるといいですよね。