平凡さの偉大さ ― まさかあの人がそれを語るとは
あたりまえの日常や普通であることのすごさ。これは、私自身がこれまでの人生のなかで、痛感してきたことです。
平凡な人々が自分の人生を開いていけること、日常の中で希望を持ち続けられること、ここに新たな世界秩序があります。歴史書に全く出てこない人々、名前ではなく労働者、木こり、商人、学生といった一般名詞で登場する人々、こうした平凡な人々が一人一人、自分の名前で呼ばれなければなりません。世界も、国家も、「私」という1人で始まります。働いて夢を見る、日常を維持していく平凡さが世界を構成しているということを、私たちは認識する必要があります。
そのためには、1人の人生が尊重されねばなりません。1人の人生の価値がどれだけ重要なのか自分でも理解する必要がありますが、歴史的に、文化的に再評価されるべきだと思います。自身の行動が周囲に影響を与えられるということ、またどんな行動が周囲に広がり、最終的にどんな結果をもたらし得るのかについて語り、記録に残さねばなりません。
平凡さが偉大であるためには、自由と平等に劣らず正義と公正が保証されるべきです。人類の全ての話は「善事を勧め、悪事を懲らしめる」という平凡な真理を反すうします。東洋では「勧善懲悪」という四字熟語で表現します。この簡明な真実が正義と公正の始まりです。無限競争の時代が続いていますが、正義と公正がより普遍化した秩序となるべきです。
正義と公正の中でのみ、平凡な人々が世界市民に成長できます。今はまだ何もかもが進んでいる最中のようですが、人類が歩んできた道に新たな世界秩序に対する解決策があります。東洋には「人は倉に穀物がいっぱい詰まっていれば礼節を知り、衣服や食物が満ち足りてこそ栄誉と恥辱を知る(倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱)」という古言があります。正義と公正によって世界は成長の果実を等しく分かち合えるようになり、これを通じて皆に権限が与えられ、義務が芽生え、責任が生じるでしょう。
今、世界が危機だと捉えていることは平凡な人々が解決していくべきことです。これは一国では解決できない問題であり、1人の偉大な政治家の慧眼では成し遂げられないことです。苦しんでいる隣人を助け、ごみを減らし、自然を大切にする行動が積み重なっていくべきです。こうした行動を取る人が1人しかいなければ「何を変えられるだろう?」と懐疑的になるかもしれませんが、この小さな行動が積み重なれば流れが大きく変わります。
人気取りを意識した偽善だ、きれいごとだ、そんなことを本心から思っているはずがない、と批判することは容易いでしょう。韓国の大統領がそんなことを言うはずがない、と頭から信じない人もいるかもしれません。
文大統領は、自身にも大きな影響を与えた光州事件が韓国社会や民主化にもたらした意義をとても重視していて、それをもとに、普通の人々の力が積み重なって世界を変えていくことができる、と訴えています。
そこにはよりよい未来へ向けての希望や、人々に対する信頼が見えます。隣国の大統領が発したこうした言葉を、私たちはどう受け止めるのでしょうか。
実は、私たちに対しても向けられた言葉なのかもしれない、私はそう受け止めたのです。
為政者によって事実が嘘とされ、嘘を事実とさせられる事態が何度も繰り返され、それをあたりまえのことと感じたり、しかたがないとあきらめてはいないか。飼いならされているのではないか。自分が声を上げても誰も賛同してくれないと思っているのではないか。
平凡さの偉大さは、日本でも同じはずだと思うからです。