公文書が見事に軽んじられる国で
国家の正式文書である公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘を言ったりする。
そのような国には、行政マネジメントをきちんと教え、国家をきちんと成り立たせる基本をしっかり身につけさせるような技術援助が必要だ。そんな国は、先進国にはなれない。
開発途上国の行政能力をどのように改善するように支援するか、という文脈から、そんなことを大所高所から議論していた昔。民主化や国づくりはまだまだ先のことだね、なんてため息をついていたものだ。
インドネシアで地域開発政策アドバイザーを務めていた頃、よくそんな議論をしていた。地方へ視察に行った際、県職員が農作物生産などのデータを鉛筆なめなめしている現場に何度か出会った。行政関係者と正しい記録を残すことの意味を何度も話し合ったものだった。
インドネシア・マカッサル市のパオテレ港で荷役する男性(本文とは関係ありません)
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冒頭の話は、もちろん、いまの日本である。でも日本は、行政能力が未熟だから、公文書管理をきちんとできないのではない(はずだ)。
逆である。能力があるからこそ、なのである。公文書の重要性やその役割など、官僚は誰よりもよく理解している。それでいて、公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘をいったりするのは、彼らの能力が、真実をどう書き残すかということではなく、話のつじつまをどのようにうまく合わせるかに集中して使われているのである。
なぜか、私たちは、彼らがすべて記録をきちんと残している、と信じている。実際、いかなる会議でも議事録は作られ、詳細なメモがとられ、すべての記録(公文書をどう改ざんしたか、処分しようとしたかも含めて)は、何らかの形であるはずなのだ。
でも、それを表に出さない、知らないふをする技術を磨いてきたことも、忘れてはならない。
些細な私の過去の経験談だが、インドネシアでアドバイザーを務めているときに、対照的な二人の担当者がいた。そのころはまだ、メールも携帯もなかった。連絡は電話またはファックス。
一人は、私とのすべてのやり取りを、細かなことまで含めてファックスで残した。電話で話した内容も、すべてファックスに記して確認した。
もう一人は、ファックスでのやり取りを一切しなかった。こちらから「ファックスでお願いします」と言っても、絶対にファックスを使わなかった。電話のみだった。そして、言った、言わないの話が頻発した。私は、日時と内容を必ずメモしていた。でもその人は「そんなことは言っていない。証拠はあるのか?」とすごんでくるのだった。極めて不愉快だった。
自分の非を認めなければならなくなるような内容は、昔から、部外者には出ないように配慮されていたのだ。仲間内では口頭で共有し、場合によっては、自分たちに都合のいいようなお話をつくってしまう。自分たちが責められて、のちの評価や昇進にかかわってくるような内容は、あえて残さなかったのだ。そして、自分たちを守るために、部外者に責任や非を押しつけようとさえした。
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部外者である国民に公表されている公文書であっても、その内容が正しいと単純に信じてはいけないのではないか。議事録も詳細な内部用をつくり、そのなかで問題になりそうな個所や表現を省き、場合によっては骨抜きになったようなどうでもいい内容のものが外部用として残されたのである。
そう、そんな公文書だから、改ざんも、破棄も平気だし、その存在自体を消しさえしてもかまわないのだ。大事なことは、議論や発言の実際の中身を忠実に記録することではなく、外部から責められたり、批判されたり、問題になったりしないように「きれいに」した芯のない文書を残し、波風を立たないように平静を装うことなのだろうから。
そうしたことを可能にする能力や技術を何年も、何十年もかけて養って、社会の上層部に立ち続けている、公文書を扱う人々。政治家が重宝するのは、その専門的な知識や見識とは限らない。むしろ、政治家が何をしても、常につじつまを合わせ、綻びを隠し、世論を騒がせないようにする相当に専門的な技術なのかもしれない。
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時の権力者にとって不都合な事実は、記録として残されていかない。歴史は常に勝者を正当化する歴史である。その正当化の過程で、不都合な真実は無残なまでに残されない。為政者がどのような政治を行ったかは記録に残っても、下々の人々がどんな生活を送っていたのか、なぜ百姓一揆に至ったのか、そんな庶民のくらしの歴史は、ほんの一部しか残っていかない。
公文書を軽んじ、もてあそぶ国家は、到底、国家とはいえない。為政者が勝手に公文書をもてあそぶ政治を支持する国民とは、いったい、どのような国民であろうか。為政者を支持するかしないかで、誰を守り、誰を守らないかを決める政治。そのような為政者が、形式的にせよ、民主的な制度によって選ばれている。かつてのスハルト体制下のインドネシアは開発独裁と呼ばれたものだ。
民主化のパラドクス、という現象は、世界中で顕著に表れている。
日本もまた、その一つになっていることを自覚しておかなければならない。
でも、その公文書自体もまた、真実を正しく記録しているとは限らない。
私たちにできることは、公文書を軽んじる為政者への批判に留まってはならない。今起こっていることを、各自が自分なりに記録に残し、それが記憶に残っていくことである。もしかすると、新聞やメディアには残らないかもしれない。不都合な真実は消されていく。
SFにような、脳から記憶を強制的に奪うような事態が起きれば別だが、何が起こっているのか、人々はそれにどう対峙したかを、各人が記録に残し、記憶に刻む。どんな時代になろうとも、為政者がどんな手法を使って私たちを騙そうとしても、動じないために、自分なりの「真実」を残す努力を続ける。それを怠らず、自分なりの思想を深めていく。