マンズィーニ氏と小松理虔氏は同じことを言っていたのか
昨日、小松理虔『新復興論』の感想めいたことをこのブログで呟いてみた。が、その後、よくよく考えてみたら、5月15日のブログで呟いたマンズィーニ氏のソーシャル・デザインの話と同じことを言っているのではないか、ということに気づいた。
マンズィーニ氏は、「ローカル」の広さが違う人々のあいだで、対等で質の高い対話が成り立つためには、フラットな関係をつくることが重要である、とする。そのためには、対話をする人々どうしが、誰が正しいかを決めるのではなく、「一緒に何かをやる幸せ」に価値を見い出すコラボラティブな関係づくりが求められてくる。そこでは、弱さや本音をさらけ出せる環境、安心して各人どうしが信頼し合える関係が生まれ、質の高い対話が成立していく。
小松氏は、目標達成や課題解決のみを重視するような、リアリティに囚われた真面目の度合いを下げて、多くの人々に関わってもらえるような環境づくりが、地域づくりでは重要だと論じる。そこではある種のゆるさが大事で、何かを一緒にやって楽しかったり、嬉しかったりすること自体が地域づくりの一端になる、という実感がある。こうした状況をそれとなく促す役割をアーティストが担っている。
小松氏は最近、『ただ、そこにいる人たち』という報告書を出した。報告書自体はまだ読んでいないが、そこへ至る彼の浜松での経験について書かれたエッセイをネット上で何本か読んだ。そこで彼が主張したのは、徹底的に寄り添うのでも突き放すのでもない、そうした二項対立ではない関わり、ふまじめで個人的な興味や関心、「いるだけでもいい」という低いハードルが、課題を社会に開き、既存の当事者の枠を超える新しい関わりを作り出すということである。
小松氏がそれを定義した「共事」という言葉は、マンズィーニ氏の主張するコラボラティブな関係づくりと相通じるものがある。その空間に一緒にいる、一緒に何かをしている。それは何かの目的を達成するための手段や方法ではない。そのこと自体に意味があり、それがもしかすると予期せぬ新たな何かを生み出したり、全く関係がないと思われた人々へ誤配さたりするのかもしれない。
地域づくりにおけるよそ者の関わり方については、いろいろと考えることもあるが、おそらく、よそ者が地域のためと称して、目標を設定して課題解決をできるだけ効率的にかなえようとする手法は、その地域の人々にとっての「共事」とはならず、よそ者の目的への地域の人々の動員で終わるだろう。そんな事例をこれまで、インドネシアの援助という名の現場で嫌というほど見てきた。そしてそれらと同じことが、震災後の東北でも見られたことに落胆した。
その意味でいうと、マンズィーニ氏のソーシャル・デザインも、小松氏の新復興論も、言わんとすることや方向性は同じではないかという気がしてきた。両者とも、精緻に理論化する必要もない。いや、してはいけないのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ。そこで醸成されるゆるやかな共感や信頼感。それらが人々の安心できる環境を生み出し、その環境の質をどのように高め、安心し続けられるようにしていくかを楽しく、愉快に、そして面白く考えていけるのではないか。
ゆるさ、ここちよさ、一緒にあることの幸せ、楽しさ、面白さ。それをつくるのではなく、自ずとつくられる環境の醸成。新型コロナの有無にかかわらず、在野の我々が目指すべき、これからの楽しい地域づくりのキーワードになるような気がする。
まだ、マンズィーニ氏を深く読み込んだわけではない。ただ、なんとなくそんな風に感じた、ということに過ぎない。
いわき市の道の駅「よつくら港」(2015年9月19日撮影)