差別における被害者と加害者
アメリカでは、ミネアポリスでの黒人男性ジョージ・フロイド氏の死亡事件を契機に、デモや騒動が全国へ広がったが、一向に収まる気配を見せていない。
彼を結果的に窒息死させた警官は、過去18年間に18件の抗議を受けた問題児だった。この警官とともにいて、その行為を止めなかった残り3人の警官も起訴された。
その3人のうちの一人は、東南アジアの少数民族であるモン族の出身で、ベトナム戦争のときに米軍に協力したのを契機にアメリカへ渡り、警官になった人物であった。この事件のすぐ後、モン族出身者の店舗などが抗議者たちによって焼き討ちにあった。
以上の話は、インドネシア語の新聞を読んでいて初めて知った。日本の新聞でも報道されていただろうか。
今のアメリカでの黒人差別への抗議運動は、そのなかに、別の人種差別意識を内在させている可能性を注視する必要がある。アメリカ社会のなかで、アジア出身者が黒人から受けてきた暴言や差別の経験もSNS上などで多数現れている。マジョリティによるマイノリティ差別という観点で見なければならない面もある。
アメリカは大統領選挙を目前に、白人票や黒人票を意識した表面的な政治的発言が目につく。黒人の経験したこれまでの苦悩や差別をしっかりと学び、理解することはもちろん必要だが、それが黒人だけを特別視して、黒人による他者への差別に目をつぶる結果となれば、社会の分断が解消へ向かうことはない。
同時に、アジア系だって差別されてきたというアジア系の人々も、果たして自分たちはこれまでに差別を全くしてこなかったのかという点を自問し、胸に手を当てて、謙虚に省みることも必要だろう。
誰でも、自分だけが可哀そうな被害者だと思っているが、もしかしたら加害者にもなっているかもしれないと思い至ることはなかなかできない。
そういえば、新型コロナウィルスは、他者から感染させられるだけでなく、知らぬ間に自分が他者へ感染させるかもしれない、ということを気づかせてくれた。被害者であると同時に、加害者でもあり得る、という感覚が徐々に普通に受け入れられるようになっている。
もっと謙虚になろう。差別されたと抗議すると同時に、自分も誰かを差別しているかもしれない、と。その差別は人種だけではない。学歴であったり、出身階層であったり、血筋であったり、職業であったり、容姿であったり・・・。差別の種は多種多様である。
差別することで、自分の存在を確認しているかのような。私自身も、振り返ると、そんなことが全くなかったとはいえない気がする。自分に自信がないときほど、他者を差別したくなるのかもしれない。
そして、自分よりも上でかなわない相手に対しては、服従という名の自分をへりくだる逆差別をするのではないか。前回書いた、白人だから職務質問をしない警官も、その一例なのではないか。
日本でもインドネシアでも、初対面の相手が自分と比べて相対的にどれぐらい上か下かを推し量って対応する、というケースに何度も出くわした。そうやって、人は常に差別または逆差別をしているように思える。
人間とは、自分を自分たらしめるために、たとえ明示的でなくとも、あるいは無意識に、他者を差別して生きている動物、とまで言ったら言い過ぎだろうか。
謙虚に自省する時間を持たなければ・・・。
インドネシア・南スラウェシ州の村で出会った
ある大家族の面々(2003年2月23日撮影)