【ぐろーかる日記】ときどき昔ばなし(2):警察で腕立て伏せをさせられた

初めてジャカルタでの長期滞在を始めた頃に、忘れられない経験がある。

1990年9月のある日、私は、長期滞在を始めるにあたっての手続の一環として、南ジャカルタの国家警察本部を歩いて訪問した。滞在許可には、出入国管理局での許可以外に、警察の許可も取る必要があったからである。

国家警察本部の入口には詰所があり、守衛役の警察官が10人ぐらいいた。中へ入る前に、「何をしに来たか」と尋ねられた。外国人滞在許可の手続のために来た、と答えると、なぜかすぐには入れてくれない。突然、理由は不明だが、警察官に「ここで腕立て伏せをしろ!」と命じられた。

理由を訊こうとしたが、当時はインドネシア語がまだおぼつかなく、モゴモゴしているうちに、「早くやれ!」と罵声が飛んできた。結局、言われるがままに、彼らの前で腕立て伏せをやらされた。

腕立て伏せを終えると、「よし、通ってよろしい」と言われて、国家警察本部の敷地内へ入ることができた。手続を行う建物へ向かう後ろから笑い声が聞こえた。

私のように、国家警察本部の中へ入る前に腕立て伏せをさせられた経験のある外国人は、いったい、何人いるのだろうか。もし、読者で同じような経験をした方がいれば、教えて欲しい。

国家警察本部の建物の中で手続をする際に、1965年9月時点での家族の居場所や所属を書かされる(この項目は9・30事件との関係があるようだ)などの書類にビックリしたが、書類を書いて提出した後、長の付く高官との面接があった。この高官はとても紳士的で、立派な方だったので、建物に入る前に腕立て伏せをさせられたことを伝えた。高官は私の話にとてもびっくりして、すぐに担当者を処罰する、と話した。

建物から出て、敷地内を出るとき、再び、私に腕立て伏せを命じた警察官たちに遭遇した。私は、腕立て伏せの件を高官に話したことを伝えた。とたんに彼らの顔色が変わった。誰のせいだ、誰が命じたんだ、と大騒ぎになっていた。私はそのまま、国家警察本部の敷地を出た。

後日、警察発行の滞在許可証(ブク・クニンと呼ばれる黄色い書類)を受け取りに、再び国家警察本部を再び歩いて訪れた。「この間はどうも」と声をかけると、守衛役の警察官たちはなぜか私に敬礼し、前回とは打って変って丁重に対応した。前回と今回との間に、必ずや何かがあった。

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それから、東ジャカルタ・ラワマングンのジャワ人家庭での下宿生活になじみ、月日が経つにつれて、だんだんと自分の警察に対する感覚が変っていくのが分かった。

ジャカルタに滞在し始めてから1年が経つ前に、滞在ビザの延長申請手続を行う必要がある。この手続をすべて自分だけでやってみた。後で知ったことだが、多くの外国人はエージェントを使ってビザの延長手続を済ませるのである。

まず、下宿のある町内会(RT)長に所在証明書のようなものを書いてもらう。その所在証明書のようなものを持って、クルラハン(区)事務所を訪れ、さらに書類を受け取る。それと並行して、東ジャカルタ警察で無犯罪証明書を出してもらう。それらを全部揃える。

このときは、インドネシア大学大学院の学生という身分だった。大学院の授業は中央ジャカルタのサレンバにある旧キャンパスで行われたが、大学本部はすでにジャカルタからデポック市へ移っていた。このため、在学証明書を取得するために、バスを3回乗り継いで、ジャカルタからデポックへ何回も往復した。1回目は在学証明書の申請。2回目は、なかなか出ないので状況の確認。そして3回目で、ようやく在学証明書を受け取れた。

さらに、教育文化省からのレターも取り付ける必要があった。これについては、また別の機会に述べてみたい話がある。

町内会・クルラハンの書類、警察の無犯罪証明、大学の在学証明書、教育文化省からのレターを揃えて、東ジャカルタの出入国管理事務所で手続開始。途中で、ジャカルタ首都特別州の法務事務所へも出向かなければならなかった。そうして、ようやくビザの延長手続が終わる。

このプロセスで、クルラハン(区)事務所を訪問したときのこと。事務所には地元の人々が様々な用事で訪れていた。事務所の役人は常に居丈高で、用務に来た人々に指をさし、命令口調で話し、場合によっては追い返していた。私に対応したときも、同じ扱いだった。外国人だからという特別扱いはなかった(というか、外国人だと気づかなかった可能性もあり得る)。このときの人々の怯えた声や顔。気がつくと、私も同じように怯えていた。

スハルト時代の強権政治は、末端でこうした恐怖を人々に与えていた、と実感をもって理解した。お上には到底逆らえない、怖い、という人々の実感が、結果的に、スハルト体制を支えていたのだ、と分かった。

国家警察本部で腕立て伏せを命じられてから1年、日々の生活の積み重ねの中で、外国人だからという感覚がなくなり、地元の人々と同じような感覚を持つに至った自分を発見していた。あのとき、怯える人々は何を思っていたのか。どう生きていこうとしていたのか。あたかも、知らず知らずのうちに、格好いい言葉でいえば、参与観察、いや観察などではなく、参与していたのだと後で感じた。

その怯えや怖れの感覚を、今、日本で生活しながら、頻繁に思い出すのは、いったい、なぜなのだろうか。

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