【ぐろーかる日記】かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉たち

いつの頃からなのだろうか。知らないうちに、かつて馴染んでいたのに使わなくなった言葉、使えなくなった言葉があることに気がついた。

それらは、国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といった言葉である。

かつて、私はJICA専門家として、インドネシアのマカッサルを中心に、地域開発政策アドバイザーという名前で、国際協力の最前線で働くことを仕事とした経験がある。JICA長期専門家としてのべ7年、それに同短期専門家やJETRO専門家としての年数を加えると、10年近く、国際協力の名のもとに仕事をしてきた。

JICA専門家時代、中スラウェシ州パル市庁舎でルリー市長と面会中の筆者(2000年4月26日)

今でも、便宜的に、法人としてお引き受けする業務のなかに、「国際協力」という言葉が入っている。しかし、「協力する」という言葉に強い違和感をますます感じるようになり、大っぴらに「国際協力」と自分からは言い出せなくなった。

それはなぜなのか。

協力というのは、相手が「協力が必要だ」と思わない限り、成立しない。自分が「相手にとって自分の協力が必要だ」と思っても、たとえ詳細な調査研究によって協力の必要性が立証されたとしても、相手が「協力が必要だ」と自覚しない限り、協力は成立しない。

しかし、自分と相手との立場は異なる。力関係も異なる。先進国と途上国というくくりで「協力」という言葉を使うならば、そしてそのことを自分も相手も認識しているならば、なおさらのことである。

日本と途上国との「協力」は、書面上、途上国から協力の要請があり、それに日本が応えるという形を取る。そのためには、途上国から協力要請があがる前に、協力ニーズ調査が行われている必要がある。誰がそのニーズ調査を行うのか。多くの場合、協力したい側、すなわち日本が行うのが実状である。

途上国側は、日本からの援助供与を念頭に置くので、よほどのことがない限り、日本側からの「協力」提案を拒むことはない。

仮に、日本側からの「協力」提案と違う提案が途上国側から出てきた場合、日本側はそれを歓迎して、日本側の提案を修正したり、取り下げたりするだろうか。そういう場合もあるだろう。しかし、援助する側の視点で、修正や取り下げを拒むことのほうが多くなるのではないか。よほどの内容でない限り、途上国側は、日本からの援助を歓迎するから、それがご破産になりかねない事態は回避する。

こうして、「協力」と言いながら、両者の間には上下関係が明確に存在することになる。それは日本が途上国側に強いている面と同時に、途上国側もそれをある意味方便として上下関係を受け入れているといってよい。

国際協力以外の世界でも、たとえば、途上国とビジネスを行う場合でも、先方の事情やニーズはおかまいなしに、「途上国のためになる」「ビジネスで途上国の人々を救う」といって自分たちの視点のみでビジネスを行うケースが意外に多いのではないだろうか。

日本から見ていれば、国際協力も「ビジネスで途上国の人々を救う」ことも、素晴らしいことであると見える。しかし、日本では、それが相手側とも共有・納得し合った認識であるかどうかは問われない。

もちろん、最初から協力ニーズが相手側と一致していなければならないわけでは必ずしもない。事業をすすめるなかで、協力ニーズがより熟れ、相手側との間で共通認識が出てそれが強まる場合ももちろんある。でも、協力したい側が自分のシナリオどおりに協力を進め、それ以外の相手側からのシナリオを認めないというような態度になるならば、それは「協力」という名の自己満足にすぎない、と思うのである。

もしも、私たちが外国から「協力したい」と申し出があったら、それを受け入れるだろうか。日本=先進国という認識を持つ我々は、たとえばインドネシアが協力を申し出ても受け入れようとはしないのではないか。それはインドネシアを途上国と認識する「上から目線」によるものではないだろうか。

日本が割と不得意な先進技術普及のための汎用化・低コスト化には、たとえば、途上国の知恵や適正技術をもとにした一種のリバース・イノベーション的な技術に関する日本への協力が重要ではないかと思うのだが。あるいは、1回1回使い切りの小口化商品の販売ノウハウなどを途上国から学ぶことも今後の日本の地方へのマーケティングで有用になってはこないか。

日本側が途上国側の現状を十分に深く理解・把握することなく、日本の技術や知識の優位性を理由に「協力」を提案する、そして、それを受け入れてもらえるはずだと考えるのは、あまりにも「上から目線」ではないか。

厳しい言い方だが、これは、国際協力の現場で活躍したいと思っている学生・若者たちにもあてはまるものである。より良い世界を一緒に作っていきたい、という気持ちや希望は大いに尊重したい。素晴らしいと思う。でも、そのまえに、他者への想像力や物事を多角的に見る力を養い、自分の考えを客観的に見れるもう一人の自分を常に持つようにまずしたい。自分の「協力したい」という思いを受け入れてくれるよう説得するのではなく、その思いは本当に適切なのか常に疑い、誤っていれば常に修正できる態度を養いたい。

国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流、といった言葉を使えなくなった自分が今よりどころとしている言葉は・・・一緒にやる、である。

日本側が途上国側に教えるだけではない。途上国側も日本側へ教える。双方が教え合う関係、双方が相手を思い合う関係。何かを提案した側は相手からの批判や改善提案をしっかり受け止める。そして、より良い方策や解決策を一緒に考え、一緒に試行錯誤する。その一緒にやるプロセスは、事業終了後の成果と同じかそれ以上に価値あるものとなるはずである。

本来は、これが協力なのだと思う。しかし、現実の「協力」という言葉は手垢まみれになってしまっている。

一緒にやるにあたっても、国と国との関係における日本側から途上国側への資金供与といった形では、双方が教え合う関係は本質的に生み出せない。利潤を追求する企業間でも難しいかもしれない。まずは、共鳴した個人間・地域間で何かを小さく一緒に始め、その後の事業展開や必要性に応じて、企業や政府が適宜関わってくる、ということは否定しない。

一緒にやるために必要なのは、相手を深く知ること、そして、その結果としての信頼関係である。もうそこには、先進国とか途上国とか、そんなことはどうでもよくなっているはず。可愛そうとか助けたいではなく、面白くて楽しくてもっと素敵な世の中になる、それを一緒に創っていく、という気持ちが支配的にあるのではないか。

きっと、もうそんな時代に入っているのだ。国際協力、経済協力、開発協力、援助、国際交流といったお題目がないと動けない時代ではないのだ。そんなお題目は、必要ならば後から考えればよい。何かを一緒にやる、という行為やプロセスを大事にしながら、そこで培われた信頼関係を他者による信頼関係でつなげて、協力などという言葉が色あせてくるような、もっとワクワクして面白い世の中を創っていきたい、と思う。

一緒にやる、をたくさん創っていくために、動いていく。そこで新しい価値が生み出されるようにつないでいく。

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