マカッサルの作家たちを福島へ

ちょうど1週間前の8月25日、インドネシア・マカッサルから来日した作家や詩人ら6名を福島へお連れしました。彼らは、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者やキュレーターです。

実はこの8月25日ですが、この日の朝、スラウェシ島でのカカオ農園ツアーを終えて帰国しました。参加者と解散して別れて、羽田空港でスーツケースを自宅へ送った後、マカッサルから来日中の彼らを迎えに行き、新幹線に乗って福島へ向かい、用務を終えた後は、最終1本前の新幹線で彼らと一緒に東京へ戻る、という、なかなか怒涛の一日でした。

今回の彼らの訪問は、国際交流基金の支援によるもので、今年5月、福島の詩人・和合亮一さんをマカッサル国際作家フェスティバルに招聘したプログラムの続きの意味がありました。彼らは今回、8月25日に、和合さんが主宰して、福島稲荷神社で毎年行われている「未来の祀りふくしま」の本祭を観に来たのでした。

福島に到着後、まだ時間があったので、彼らのリクエストに従って、筆者のオフィスを訪ねてもらいました。筆者のオフィスは、明治6年に建てられた古民家「佐藤家住宅」と同じ敷地内にあるプレハブ小屋です。彼らは古民家をとても興味深く感じたようでした。

私のオフィス内で記念のセルフィ―。

10年ほど前、筆者がマカッサルに滞在していたとき、家の敷地内に彼らの活動スペースを提供し、NGOのオフィスやら、映画上映会やら、セミナーやら、アート発表会やら、民間図書館やら、様々な形で使ってもらいました。彼らのなかには毎日寝泊まりしている者もいて、いつもマカッサルの地元の若者が活動している空間でした。その頃の仲間が今、こうして福島の我がオフィスに来てくれたというのは、なかなか感慨深いものがあります。

その頃からの付き合いで、筆者も、マカッサル国際作家フェスティバルには第1回からほとんど参加してきています。

震災後、マカッサル国際作家フェスティバルに集ったインドネシア国内外の作家たちがどんなに日本のことを思ってくれていたか。フェスティバルの現場で驚くほどの彼らの思いを目の当たりにし、何としてでもこのフェスティバルに東北から作家や詩人を連れて来なければと思い続け、ようやく、今年5月、高校の後輩でもある和合亮一さんを招くことができたのでした。

そして、今度は、彼らが和合さん主宰の「未来の祀りふくしま」へ。

福島稲荷神社に着き、前方のブルーシートのかかった席に彼らを通し、座ってすぐ、山木屋太鼓が始まりました。

震災後、川俣町で唯一避難を余儀なくされた山木屋地区。そこに代々伝わる山木屋太鼓を絶やさず、守ってきた(とくに若い)人々の真剣な演奏が心に沁みました。この太鼓がどんなに人々を元気づけてきたか。評判は聞いていましたが、やはりナマはすばらしい!

続いて、島根県益田市から来られた石見神楽。エンターテイメント精神にあふれた演目で、神楽って、こういうものもありなのか、と思うほど、圧巻でした。素晴らしくて言葉が出ません。

最初は、恵比寿天のコミカルな舞。観客を楽しく笑わせた後は・・・。

いかつい顔のスサノオノミコトが現れ、最後には・・・。

ヤマタノオロチの登場。口から煙を出し、火を噴き、グルグル巻きで暴れまわります。もちろん、最後は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して終わります。

日が落ちて、時雨れた通り雨が一通り上がった頃、6時45分から、いよいよ「未来の祀りふくしま」の本祭、新作神楽の奉納となりました。和合亮一さんの詩をもとに、福島の様々な人々が関わって、音楽や踊りを取り入れた、新作神楽を毎年8月、福島稲荷神社へ奉納してきました。今回で7作目になります。

新作神楽の目的は、死者への鎮魂と未来への祈りです。8月は旧盆もあり、死者がこの世にしばし戻ってきて家族と一緒に過ごし、再び向こうの世界へ戻っていく、そんなことを思うときです。新作神楽は、震災で犠牲になった方々の鎮魂とともに、犠牲になった方々に対して、よりよい未来を築いていくことを誓い、約束するものでもあります。

今回の演目は「呆然漠然巨人」。福島市にある信夫山にまつわる伝説をモチーフにしていましたが、和合さんの詩は、やはり鎮魂と未来への祈りに満ちた力強いものでした。

「万、千、百、十、一
 万人の命 みな同じ命
 一人の命 万人の命と同じ」

「夢を持ちなさい
 夢を叶えなさい
 明日が来るという保証はないのだから」

「風を待つのではない
 風を作るのだ」

原文とは違っているかもしれませんが、新作神楽のなかで、何度も何度も、繰り返し、繰り返し、読まれた言葉でした。

新作神楽を演じた子どもたちも大人たちも、音楽を奏でた子どもたちも大人たちも、そして、真剣な面持ちで、きっと様々な人を想いながらこの舞台を見守っていた観客の皆さんも、一緒になって作っていたあの福島稲荷神社の空間が、とても神々しく、かつ素敵に感じました。

これまで、カカオ農園ツアーと日程が重なって観に来れなかった「未来の祀りふくしま」。今回初めて体験し、和合さんはじめ皆さんがどんな思いでこのイベントを続けているのか、改めて感じ入ることができたような気がします。

マカッサルから来た彼らとも感想を語り合いましたが、死者への鎮魂と未来への祈りというところから、彼らなりに深く理解していたことをありがたく思いました。

和合さんの計らいで、彼らを連れて、公演後の打ち上げの場にもお邪魔しました。この日のうちに東京へ戻らなければならないので、宴のはじめに、しばし時間を頂戴して、彼らから福島の皆さんに挨拶してもらいました。そして、和合さん自身が、どんなにマカッサル国際作家フェスティバルで感じることが多かったかを、改めて話してくださいました。

福島とマカッサルで、これからこのような交流を続けていけたら・・・。マカッサルから来た彼らも、和合さんも、互いにそう語りました。

新幹線の時間を気にしながら、打ち上げ会場を出た私たちに向けて、和合さんは、店の入っているビルの前で、いつまでもいつまでもずっと手を振っていました。マカッサルから来た友人たちは、その和合さんの姿をずっと心に焼き付けて、インドネシアへ戻っていきました。

福島とマカッサルをつなげる第1章を終え、次は、まだ中身は分からないものの、第2章へ移っていきます。

声とノイズ、言葉の力、詩の文化

先週のマカッサル国際作家フェスティバルに出席した後、数日間帰国し、今また、インドネシアに来ています。ちょっと時間の空いた黄昏どきのジャカルタで、マカッサル国際作家フェスティバルを振り返っています。

声とノイズ、というテーマは、単なる意味どおりの声とノイズだけでなく、声がノイズに変わって無視されると同時に、ノイズが声に変わって世論を動かしていく、という両面性を意識する機会となりました。

我々が聞いていると思っている声は誰の声なのか、ノイズに埋もれさせてはいけない声とは何なのか、忘れ去られた声は全てノイズだったのか、色んなことを思います。ただ、確実にひとつ言えることは、声は決してひとつではない、という当たり前の事実であり、もし声が一つしか聞こえないとするならば、様々な声を聞こうとしない、聞こえないと思っている、聞いてはいけないと思っている、明らかに社会が自らを押し殺している状態に他ならないのではないか。

マカッサル国際作家フェスティバルでは、実にたくさんの参加者が即興で自作の詩を読みました。誰かのものではなく、自作の詩を。自作の詩を声を出して人々の前で読む、朗読するということは、自分の声を出していることに他ならず、それが朗読として成立しているのは、その声を聴く人々がちゃんと存在しているからです。

そして、その詩に社会への不満や不正への怒りが込められ、共感した聴衆が声を上げ、拍手をして反応する。それはまさに、声が出ている、届いている空間でした。

彼らの詩に込められているのは、まさに言葉の力。その言葉にそれぞれの詩を作った自分の魂が込められ、それが声として発せられ、聴衆に届いていく。マカッサル国際作家フェスティバルの空間は、そうした言葉の力をまだまだ信じられると確信できる空間でした。

福島から参加してくださった和合亮一さんは、そうしたなかで日本語で自作の詩を朗読しました。日本で最も朗読している詩人と自称する彼ですが、時として、自分を環境に合わせてしまっているのではないか、という気持ちがあったそうです。

自作の詩を誰もが読める空間に和合さんが遭遇したとき、何が起こるかは個人的にある程度想像していました。そして、和合さんには、思う存分朗読してほしい、爆発してくださってもいい、と申し上げました。

和合さんの日本語の詩を聴衆が理解できたとは思いません。でも、今回、言葉の力は意味の理解以上のものを含むのだということを、和合さんの眼前で理解しました。朗読の力は。想像以上のものでした。自分で声を出す者どうしの、言葉の力と力を投げ受けしあう同士の、生き生きした空間が生まれていました。

それは、ある意味、いい意味で、福島を理解してもらいたい、というレベルをいつのまにか超えていたように思います。和合さんの興奮する姿がとても新鮮に見えました。

日本における自作の詩の朗読の世界は、こんな空間を作れているでしょうか。

自分たちの声を出し、それを聴こうとする人々との相互反応が起こる社会は、何となく、まだまだ大丈夫、健全だと思ったのです。たしかに、マカッサル国際作家フェスティバルがそんな空間を作り続けることに一役買っている、と確信しました。

5月5日の夜、フェスティバルのフィナーレで、壇上に上がった主宰者のリリ・ユリアンティが「壇上からはライトで皆さんの姿が分からない。携帯電話を持っている人はそのライトをつけて、降ってほしい」と呼びかけました。そして、無数のライトが壇上のリリに向かって振られました。

その光景は、とても美しいものでした。

ノイズではない、一人一人の声が携帯電話の光となって、互いの存在を認め合っているかのように感じられたからです。

こんな光景を日本で、福島でつくりたい。恥ずかしがることなく、自分の思いを、自分の考えを、自作の詩を、声に出せる、そしてそれに耳を傾けてくれる人々のいる空間。和合さんを福島から招いたことで、そんなことを思い始めた、今回のマカッサル国際作家フェスティバルでした。

マカッサル国際作家フェスティバルで和合亮一さんが熱演

今回のマカッサル国際作家フェスティバル(5/2-5)には、日本から福島市在住の詩人である和合亮一さんにご参加いただきました。わずか3日間の滞在でしたが、3回も詩の朗読をされました。

和合さんは、5月3日にマカッサルに到着し、早速、夕方5時からの「コップ一杯の詩」と題する、コーヒーを飲みながら参加者が自由に詩を読みあう野外での催しに飛び入り参加しました。

和合さんの朗読は、いつもエネルギッシュなのですが、早速、全開、という感じでした。参加者たちは、初めて見る和合さんの詩の朗読スタイルに圧倒されていました。そして、歓声と大きな拍手。日本語で詠まれた詩の内容は理解できなくとも、何かが通じた瞬間が続きました。

翌4日は、国立ハサヌディン大学で、福島をテーマとしたセッションが行われ、私も和合さんとともに出席しました。

和合さんは、2011年3月から現在に至るまでに自分が見たこと、感じたことを中心に話を進め、現時点での「二度目の喪失」という現実をどう捉えるかが重要であることを強調しました。

「二度目の喪失」というのは、これまで帰還するために頑張ってきた人々、福島の復興のために貢献したいと意欲を燃やしてきた若者たち、こうした人々が、7年経って現実を見たときに、「やはり無理なのか」と諦めにも似た喪失感を深く感じ、傷つき、引きこもりや鬱になってしまうのを見てしまった現実でした。

避難した場所から自分のふるさとへ戻れるのか戻れないのか。原発事故後の処理・廃炉は本当に進めるのか進めないのか。政府の放つ「復興」という言葉によって、それが不明確なままの状態が続き、それが「二度目の喪失」を招いているのではないか、という問いでした。

我々にできることは何か。それは、そうした人々の胸の内をしっかりと聞いて受け止めることだ、と和合さんは言います。そして、それなしに前へ進むことはできないのではないか、と問いかけます。寄り添う、という言葉の重い意味を和合さんは真摯に受け止めている、と感じました。

和合さんは、そうした態度を詩という媒体を通じて、自分なりに世の中に対して発信していこうとしているのだと改めて思いました。本質を忘れてはならない。私自身の活動を振り返り、改めて思うことでした。

そして、この日も、和合さんは夕方から、「コップ一杯の詩」に参加しました。前日を上回るすごい数の観客が、どんなパフォーマンスをするのか、見守っています。そして、その観客の期待を上回る詩の朗読パフォーマンスを、和合さんは見せつけるのでした。

このときに読んだ「鬼」という詩を、たまたまインドネシア語に訳していたのですが、「コップ一杯の詩」の司会をしている若手詩人のイベさんが読みたいというので、読んでもらいました。

彼なりのパフォーマンスで観客を引き付け、和合さんの詩は、インドネシア語に訳してもやはり何かを伝えていると実感しました。

和合さんは、こんなに聴衆の反応がいい詩の朗読の機会はなかった、と興奮していました。詩が社会批判の一端を担うインドネシアの状況に驚き、詩を愛する若者が次々に自作の詩を読んでいく様子から、何かを感じていた様子でした。

4日の夜、和合さんは壇上に上がり、未来神楽第5番「狼」の一部を朗読しました。

和合さんがどんなパフォーマンスをするのか、観衆は興味津々で、びっくりするほどたくさんの人々が会場に集まっていました。そして、和合さんはまたも、観衆に強烈な印象を残す詩の朗読パフォーマンスを全力で行いました。

そう全力。和合さんのパフォーマンスは全力でした。そして、それは、マカッサル国際作家フェスティバルという「場」がそれを引き出していたと感じました。

すごいものを見てしまった・・・。

日本語で通した和合さんの詩が、正確に理解されたわけではありません。しかし、マカッサルの観衆に強烈な何かを残していました。マカッサルの地で、和合さんは、自分でも想像できないほど、パワーアップしていました。

「場」の力。それを改めて思い知った、という感が強いです。

マカッサル国際作家フェスティバル2018のテーマは「声とノイズ」

5月2日、マカッサル国際作家フェスティバル2018が開幕しました。

今回のテーマは、「声とノイズ」。

1998年5月のスハルト政権崩壊から20年、そして2018年地方首長選挙、2019年大統領選挙という政治の季節を迎えましたが、それに伴う声とノイズが入り混じった状況が現れています。

オープニング・イベントで、主宰者のリリ・ユリアンティは、壇上の光の当たるところにいる自分を権力者に、その光の当たらない暗闇にいる観客を市民になぞらえ、光の当たる権力者の声のみが聞こえ、暗闇にいる市民の声はノイズとして無視されているのが現状だ、と演説を始めました。

過去20年のインドネシアでは、その市民が声を上げる存在としての力をつけてきたのであり、このマカッサル国際作家フェスティバルこそが、文学を通じてノイズではない声を上げる運動体となってきたのだ、としました。

そして、そうした市民が、権力者によって無視され、消されてきた歴史的事実にもう一度光を当て、真実を語っていくことが重要であると説きました。

権力者によって、無視され、忘れさせられてきた過去。その一例として、取り上げられたのが、インドネシア独立後、最初のマカッサル市長、女性市長となったサラスワティ・ダウドの話でした。本イベントにおいて、大学生が彼女の物語をショートフィルムにまとめたものが上映されました。

サラスワティ・ダウドが女性市長になったと言っても、当時の市長は現在のようなものとは違い、5人ぐらいがいつでも交代できるような性格の地位だったようです。しかし、現在、歴代のマカッサル市長の名前のなかに、聡明で優秀だったとされるサラスワティ・ダウドの名前は現れてこないのです。マカッサルではほとんど知られていない存在なのです。

それはなぜなのか。

端的に言えば、彼女はその後、インドネシア共産党の傘下組織であるインドネシア女性運動(GERWANI)に関わったことで、スハルト時代に敵視され、投獄され、釈放された後も監視される、という人生を送ったからでした。

マカッサル初の市長はの女性市長だった、という事実が覆い隠され、忘れ去られてしまっていた、ということを、改めてすくい上げたのは、市民による事実の探求でした。

リリは今回も、フツーの市民が声を上げること、それができるコミュニティを作っていくことの重要性を訴えました。たとえ権力が光の当たらぬ市民を無視しようとしても、フツーの市民が正しい事実を声をあげて主張していける社会を作るために、人間の心に訴えかける力を持つ文学の力を信じて、こうしたコミュニティを強くしていく、という決意を表明しました。

筆者がマカッサル国際作家フェスティバルに来る理由の一つは、こうした健全な批判精神を持ったフツーの市民のコミュニティが、ここではまだまだ力を保ち、声を上げていけているという実感を確認するためでもあります。

そして、マカッサルから、今の日本を振り返るのです。日本でそのようなフツーの市民のコミュニティが強くなっていけているのか、と。

さらに、今回のオープニング・イベントでは、声とノイズを象徴する、新しい視点に気づかされました。

第1に、手話通訳が配置されたことです(写真右下)。声をいう意味が、ろう者にとっては手話であること。手話を声として位置付けることに気づかされました。

そして第2に、手話による詩の朗読がありました。

とても美しい「朗読」でした。手話が理解できたなら、もっと深く理解できたことでしょう。それは紛れもなく、彼らの「声」でした。音を発することのない「声」。それは、権力者と同じように、我々が無視していたかもしれない「声」でした。

耳に聞こえる声だけでなく、手話による声をも声として捉えていく。フツーの市民の声のなかに、手話も含めていくことがフツーに意識されていくことも重要である、というメッセージが込められていました。

今回の「声とノイズ」というテーマ、なかなか深いものを感じた第1日目となりました。