福島~浜通り~宮城県南部をまわる(3)

3月9日は、相馬市を朝出発し、宮城県に入って山元町、亘理町、名取市閖上、仙台市荒浜、仙台市中心部、とまわりました。

山元町では、みんなのとしょかん山元を訪問しました。雨風が強い中、みんなのとしょかんの隣にある大きなビニールハウスの中では、大勢の方々が3月11日に灯す竹灯籠の準備をされていました。この竹灯籠は、今回のツアーを企画したまち・コミュニケーションが神戸での経験をもとに山元町へ伝えたものだそうです。

こちらがみんなのとしょかんです。図書館をコミュニティ再生の起点にしていく運動の一環で、同様のみんなのとしょかんは各地にできています。

ここでは、バーテンダーとG7にお会いしました。バーテンダーというのは10人の女性たち(婆10ダー)、G7は7人の男性たち(爺7)を意味します。震災前は知らない同士だった彼らは、震災後、ここに集うなかで知り合いになり、今や、一緒に地域のつながりを作り、発展させていく同志となって、活動しています。誰もがいつでも立ち寄れる場所、でした。

山元町から隣の亘理町浜吉田にある海蔵寺というお寺に立ち寄りました。このお寺も、住職が亡くなるなど津波の被害を受けましたが、本堂は無事で、他の建物も少しずつ再建されました。

海蔵寺の前は公園になっており、築山が造られていました。

その一角には、親子の地蔵像がありました。

海蔵寺前の公園は、無数の太陽光パネルで囲まれ、それは海岸沿いに延々と広がっていました。

しばし、太陽光パネルを見ながら走り続け、名取市閖上へ行きました。閖上さいかい市場で昼食をとりましたが、ここはカナダの支援で建てられた場所でした。

昼食後、閖上の仮設住宅にある集会場へ。この時は、某テレビ局のクルーが取材で同行していました。

このクルーは、「7年間も仮設住宅に入っているのは間違っている」という結論先にありきで、番組を作ろうとしていました。そこで、集会場で、仮設住宅の自治会長さんから話を聞く際に、その様子を収録していました。

自治会長さんは、被災して仮設住宅へ移る際に、できる限り、昔の隣近所がそのまま仮設住宅の隣近所に入れるように、行政と掛け合ってそれを実現させ、今後、仮設住宅から被災者向け復興公営住宅へ移る際にも、抽選ではなく、隣近所をそのまま維持する形で入居できるよう、行政へ働きかけていました。

集会所は、某建設会社が意を汲んでしっかりした建物として建ててくれたため、今でも、様々な行事で使われていて、すでに閖上を離れた人でも、この集会所があるから集まってこれる、という面が強いそうです。そして、ここの仮設住宅もまた、プレハブのペラペラな建物ではなく、断熱材の入った建物で、自治会長さんの働きかけで、追い炊き機能のついたお風呂が各家に設置され、居心地は決して悪くないということでした。

自治会長さんは、法律の不備や復興公営住宅への入居を抽選で行う行政の怠慢を批判し、特に政府のしさい者への対応の不備を強く批判しました。このため、結局、テレビ局のクルーは、当初の彼らの結論に沿うような映像を撮ることはできずに終わりました。

自治会長さんは、住民を上から目線で見がちな行政に対して、むしろいろいろ教えて手なずけ、住民側の意向を受けとめてもらえるよう、配慮しています。それは、自治会長さんが現市長の選挙顧問だからというオチがありました。

閖上の後は、震災遺構となっている仙台市立荒浜小学校を訪れました。

構内の1階は、瓦礫は取り除かれたものの、あの時のままの状態で残されていました。2階はあの時起こったことの克明な時系列展示があり、3階は閉鎖され、4階は小学校のある荒浜地区の過去の記憶を残すための展示がなされていました。

4階から屋上に出てみました。冷たい強い風が吹き付けて、とても寒い状態でした。7年前、子供たちと先生、地域住民の方々は、眼下に荒れ狂う津波を見ながら、この寒さに震えていたのだと、勝手な解釈ではありますが、ほんの少し追体験をしたような気分になりました。

屋上から見ると、学校の北側では、マツの植樹が始まっていました。荒浜に再び松林を復活させる計画なのでしょうか。

荒浜小学校から荒浜海岸へ出てみました。震災前は仙台随一の海水浴場だった荒浜は、その面影を失ったままでした。

荒浜を後にし、地下鉄東西線の荒井駅にあるせんだい3・11メモリアル交流館に立ち寄り、常設展を見学しました。そして、夜は、仙台弁護士会の勉強会に出席し、弁護士会による「在宅被災者調査結果を踏まえた提言」などを拝聴しました。提言では、在宅被災者向けに災害時に弁護士が戸別に住宅を回り、適切な補助金の申請などを手伝えるよう法整備が必要という意見が出されました。

勉強会終了後、宮定さんらと別れて、仙台駅前から高速バスに乗り、福島へ向かいました。

今回の3日間の「ツアー」は、私にとって得るところの大きい有意義な機会でした。置かれた状況や立場によって、思いや意見は異なりますが、皆、自分たちの日常生活を取り戻すことで懸命でした。そして、自分だけよければいいのではなく、誰もが排除されない、気軽に集まれる場づくりを営んでいることがいかに重要かということも理解できました。

「ツアー」で出会った人々とのお付き合いは、私にとって、まさに今、始まったところと言えます。自分なりの付き合い方や寄り添い方を考えながら、じっくりとお付き合いをしていけるよう、努めていきたいと念じています。

(終わり)