スラバヤへ戻る

日本の各所での講演等を終えて、7月19日にスラバヤへ戻った。

今回は、新設のガルーダ・インドネシア航空の羽田夜0:30発のジャカルタ行きに乗り、ジャカルタでトランジットしてから、スラバヤへ戻った。この便は、全日空とのコードシェア便でもある。

羽田空港では、三連休をバリなどで過ごすと思しき家族連れやサーフボードを抱えた若者たちが並んでおり、インドネシア人らしき客は数人だけだった。何となく場違いな雰囲気を感じつつ、チェックイン。

すると、こちらから何もお願いしていないのに、ビジネス・クラスへアップグレードしてくれるという。ただし、席のみで、食事はエコノミー、という話。ガルーダ・マイルズのゴールドEC+会員だからなのかもしれない。

夜行便で、フラットシートになるビジネス・クラスへのアップグレードは、本当にラッキー以外の何物でもない。搭乗すると、2つに分かれたビジネス・クラスの客室には、私以外に乗客は一人しかいない。なのに、わざわざその乗客と隣どおしに座らされている。

ほどなく、スチュワーデスがやってきて、「空いているので、どこでもお好きな席へどうぞ」と言ってくる。そこで、いびきでもかいたら隣人に迷惑だろうと思い、他の席へ移動した。

夜食をお断りし、さっそく、フラットシートにして寝る。これはよい。エコノミーのディスカウントなのに、夜行便でフラットシートとは。夜行便にしてはかなりしっかり眠ることができた。

ジャカルタ到着の2時間前に朝食を用意すると言っていたが、持ってきてくれたのは1時間半前だった。乗客が少なく、寝ている私をギリギリまで起こさずに待ってくれたということか。トイレに行こうとすると、別のビジネス・クラスの席で、スチュワーデスがイスラム教の礼拝をしていた。

朝食は期待していなかった。当然、エコノミーと同じものが出るのだろうと思っていた。ところが、食事もビジネス・クラスのものだった。以前、ジャカルタの「父」を日本へ連れて行ったときに、ガルーダ・インドネシアのビジネス・クラスの食事に感嘆したのだが、それにまた出会えるとは。

朝食は、まず、ちょっと凝ったお粥。前回のタピオカ粥のほうが数段上。

次はオムレツ。添えられたポテトは今回のほうが美味しかった。

最後は、イチゴとクリームのデザート。甘い。レモングラスらしき葉っぱが真ん中に立っているのがおしゃれ、なのかな?

慌ただしく着陸準備に入り、午前6時に無事ジャカルタ到着。朝早いためか、到着時査証(Visa on Arrival)のカウンターも長期一時滞在許可証(KITAS)保持者向けのカウンターも閉まっていて、係員がいない。到着時査証が必要な乗客は戸惑っている様子。

KITAS保持者の私は、係員の指示に従って、そのままメインカウンターへ行き、難なく入国審査を終了。

羽田で預けたスーツケースは、税関申告がないのでそのままスラバヤまでスルーで行けるはずだが、ガルーダの職員が念のために確認してくれる。スーツケース無しで税関のグリーンランプを通り過ぎ、出口へ出ようとすると、左側に、トランジット用の入口が。そこを通って、外へいったん出ることなく、国内線出発カウンター・ロビーを通り抜け、エスカレーターで2階の出発階へ進む。

なかなかスムーズだった。対照的だったのが、日本へ行くときにトランジットしたバリのデンパサール空港。スラバヤから国内線で着き、国際線ターミナルへどう行けばいいのか、表示板が見当たらない。「私が案内しましょう」と何人もの若者が寄ってくる。空港は新しいが、当面は、デンパサールでのトランジットは避けたいと思った。

空港設備の悪名高きジャカルタのほうが乗換はスムーズだった。もっとも、人があまりいない朝だったということもあるのだろうが。

ラウンジで少し休み、1時間遅れのガルーダ便でスラバヤへ午前10時過ぎに到着した。

レバランにはまた、インドネシアから国外へ飛ぶ。久々の全く仕事なしの旅行。それまで1週間、スラバヤの予定だ。

大統領選挙投票日を過ぎて

7月9日のインドネシア大統領選挙投票日は、投票自体は大きな混乱もなく終わることができたが、予想通り、両陣営がともに勝利宣言をする事態となった。

これまで度重なる選挙でクイックカウントを行なってきた調査会社は、こぞってジョコウィ=カラ組の勝利と伝えたが、そのほとんどは、ジョコウィ=カラ組に与した立場を採ってきた。他方、プラボウォ=ハッタ組の勝利と伝えるクイックカウントを行なってきた調査会社は無名で、かつて南スマトラ州知事選挙の際にクイックカウントの数字を偽造した疑いのある会社や、陣営の選対関係者が関わっているとされる会社が含まれていた。

ここで危惧されるのは、これまでの選挙で培われてきたクイックカウントへの信頼が今回の大統領選挙で失われるのではないかということである。誹謗・中傷を含めた情報戦のなかで、クイックカウントまでもがその一端になってしまう可能性が明確に現れたからである。

その意味で、国営のインドネシア共和国ラジオ(RRI)が今回、クイックカウントを行なったことは注目される。RRIのクイックカウントは中立とみなされたからである。このRRIのクイックカウントの結果はジョコウィ=カラ組の勝利を伝え、これまで何度もクイックカウントを行なってきた有名調査会社のそれと変わらなかったことで、それら有名調査会社のプロフェッショナル度が逆に確認されることになった。

プラボウォ=ハッタ組が「クイックカウントはヤラセだ」と主張しても、RRIの存在により、辛うじて中立性が保たれた形になっている。

筆者の長いインドネシア・ウォッチ経験から言うと、これまで、「ヤラセだ」と相手を非難する側こそがヤラセを行なっているケースが極めて多かった。それは、自らが責められる前に相手を責めるための方便である。自らに有利なように情報操作をしているのだが、相手からそう指摘される前に、「相手が自分に有利なように情報操作している」と先制して非難をするのである。

今回も、どうやらそのような展開だったと推察できる。プラボウォ=ハッタ組の勝利を伝えたクイックカウントのデータの信ぴょう性が次々に暴かれている。彼らの勝利を最後まで伝えてきた民間テレビTV Oneは、信ぴょう性への疑問が高まったためか、株価が下落し、途中でプラボウォ=ハッタ組優勢のクイックカウントを流すのをやめてしまったらしい。

本当にそうなのか、圧力をかけるためにジョコウィ支持者が同株を売りまくったのか、真相はわからないが、実際、選挙運動期間中のTV Oneのプラボウォ=ハッタ組への偏向、ジョコウィへの攻撃ぶりには目に余るものがあった。ずっと見続けていると、容易に洗脳されてしまうような錯覚に陥った。もちろん、ジョコウィ=カラ組を支持する内容を流し続けたMetro TVも偏向していたが、相手への攻撃という観点からすると、TV Oneのほうが遥かにすごかった。

しかし、それを客観的に計測できない以上、メディアはTV OneとMetro TVを両成敗せざるを得なかったのである。

プラボウォ=ハッタ組は、クイックカウント攻勢での劣勢のなか、福祉正義党(PKS)の末端組織を使って情報を集め、「リアルカウント」の結果を発表し始めた。そして、そのリアルカウントでは、プラボウォ=ハッタ組の勝利を示し続けている。ところが、この数字が投票日よりも前に出された予測値に似通っているとの指摘も出ている。

ジョコウィ=カラ組も「リアルカウント」の結果を集計し始めた。当然、こちらではジョコウィ=カラ組の勝利という結果を出している。

情報操作合戦は、クイックカウントから「リアルカウント」へと移っている。

投票所レベルでの集計表は、総選挙委員会(KPU)のホームページにスキャンされたファイルで表示されていて、誰でも見られるようになっていた。ところが、そのなかに、両陣営の片方しか証人のサインのないものや、集計数字の合わないものなどが発見された。KPUは単なる技術ミスとしているが、不正の可能性がすでに指摘されている。理由は定かではないが、7月12日夜時点で、その投票所レベルでの集計表データがウェブ上で見られなくなった。

KPUは7月22日に最終得票結果を発表するが、7月10〜12日に村落レベル、13〜15日に郡レベル、16〜17日に県・市レベル、18〜20日に州レベルで集計作業が行われる。全国レベルの集計は20〜22日に行われる。

このそれぞれの過程で結果が出る前に、何らかの票操作が行われる可能性がある。なぜならば、今回の選挙で、少なからぬ行政の長がプラボウォ=ハッタ組への支持を明確にしており、その影響を確実に排除できるかどうかに疑問符が生じるからである。彼らもまた、ジョコウィが大統領になった場合に既得権益が維持できるかどうか、不安を抱く側にいる。他方、ジョコウィ=カラ組も何らかの票操作を行う可能性が絶対ないとは言い切れない。これらを監視するためにも、両陣営による「リアルカウント」の情報収集と票操作への監視が不可欠になるのだろう。

たとえば、マレーシアでは、投票所投票(9008票)でジョコウィ=カラ組が53.46%の得票で勝ったが、郵送投票では、プラボウォ=ハッタ組が3万9671票でジョコウィ=カラ組の3709票を圧倒した。その結果、合計では、プラボウォが4万3770票(得票率83%)で圧勝した。これをどう読むのか。投票所投票と郵送投票でこれほど極端に差がつくものなのか。

様々な状況で不利なはずのプラボウォ=ハッタ組の自信が気になる。すでに、「勝利」のための何らかのシナリオを用意しているのだろうか。ジョコウィ=カラ組も同様にシナリオを用意していることだろう。表面的な動きはあまり目立たないが、7月22日までに全国の隅々で起こる開票結果の正当性の確認作業が重要になる。

大統領選挙投票日前夜

7月5日から日本へ帰っている。私の知り合いのほとんどの日本人インドネシア政治研究者は今、ジャカルタに集結しているようだ。いつも自分は他人と違う行動を採るのが性分のようだ。

これまでずっと大統領選挙をめぐる動向を追いながら、情報というものについていろいろと考えていた。捏造・偽造情報を流したり、重箱の隅をつつくように小さなゴシップを大きな過ちとして大きく騒ぐようなことは、これまでの選挙ではあまり露骨に現れなかった。そして、それらを専門にやり続けながら、報酬をもらっている奴がいることを想像した。

インドネシア人は他人の間違いを詮索したり、揚げ足を取ったり、フォトショップを使って写真を偽造したり、根も葉もない噂をわざと流して他人を貶めたりすることに、こんなにも労力とエネルギーを使うことを厭わないのか、と悲しくなった。これだけの労力とエネルギーと「想像力」をもっとプラスに使えば、インドネシアはもっと活力のある良い国になっていくはずだと思い続け、インドネシアの友人たちへ向けてその気持ちをインドネシア語でツイートしてきた。

今回の大統領選挙はそういう選挙だった。情報合戦や心理戦争にどちらの陣営が屈するかの勝負だった。派手にやったのはプラボウォ陣営である。陣営が直接指揮した形をあえて採ってはいないが、ジャワ島のプサントレン(イスラム寄宿学校)へジョコウィを誹謗中傷したタブロイドをくまなく流すには、プサントレンの住所リストを持った宗教省、大量のそれを送付したバンドン中央郵便局などの、少なくとも間接的な協力がなければ不可能である。

プラボウォの個人レターが学校経由で教師へ送られた件も、教育文化省などによる学校の住所リストがなければ不可能である。

ジョコウィへの誹謗中傷は、目を覆いたくなるほどであった。実は華人だ、キリスト教徒だ、父親はシンガポールの金持ちだ、インドネシア共産党員の子供だ、といった話が次々に出され、死亡広告まで流された。温厚で感情を表に出さないジャワ人のジョコウィも相当に頭にきていた様子で、法的措置を関係機関へ求めたが、警察などの動きは予想以上に慎重だった。

他方、プラボウォへの批判は、彼の過去の人権侵害疑惑に集中した。とくに、1998年の活動家拉致事件やジャカルタ暴動への関与の疑いが題材となった。こちらは、本当の真実かどうかは別にして、軍のなかでプラボウォに対する措置が採られ、軍籍から離脱させられたという事実がある。プラボウォ側はその事実が嘘であって真実ではないと主張するが、彼がそのように軍から扱われたというのは、真実かどうかは別として、事実である。プラボウォ側はこれを誹謗・中傷とし、ジョコウィへの誹謗・中傷と同じレベルの話として、メディアなどで取り扱われるように仕向けた。

しかし、これは作り話と事実(真実かどうかは定かではない)との違いであって、誹謗・中傷の同列で扱えるものではない。だが、「中立」を装おうとするメディアは、それを並列で扱った。事実をねじ曲げて嘘話を捏造して流布させたプラボウォ側のほうがはるかに悪質と言わざるをえない。

5回のテレビ討論をすべて見た。内容的には中身の乏しい議論に終始したが、何か一つでも新しいことを言おうとするジョコウィ側と、テレビを通じて自分の強い指導者イメージを植え付けようとするプラボウォ側とがかなり対照的だった。そして、テレビ討論を見ている限りでは、プラボウォ側に考察の浅さと中身のなさが浮き彫りになり、果ては、ジョコウィ側の主張に同意を繰り返すことも度々だった。個々の議論は甲乙あるが、5回全体で見ると、ジョコウィ側の勝ちであった。

それでも、メディアはプラボウォの支持率が急速に上昇し、ジョコウィと僅差になったと報じる。筆者はそれが正直理解できなかった。プラボウォが選挙戦を通じて、なにか新しい画期的な主張をした記憶はない。「国富の漏れ」の話を繰り返すだけで、それを塞いでどのように効率的な政府を作るのか、政治マフィア間で山分けされないような仕組みをどう作るのか、彼は一言も話していなかった。それなのに、急速に支持率を上げているという。その理由は、ブラック・キャンペーンやネガティブ・キャンペーンを通じ、誹謗・中傷を広めることで、ジョコウィの支持率を落とす以外に理由は考えられなかった。加えて、一部ではかなり露骨にプラボウォ支持への強制や脅迫が行われているという話も伝わった。

もしこれでプラボウォが当選したら、プラボウォは嬉しいのだろうかと思った。相手を貶め、嘘八百の情報を流し、誹謗・中傷を繰り返した末に当選して、誇りを持てるのだろうか、と。プラボウォの周りには、「どんな手段を使ってでも勝てばいい」と公言する政治家も多数いる。彼らにとっては、自分の利益を守り、注ぎ込んだ資金の回収のためには、どうしても何が何でもプラボウォに勝ってもらわなければならないのである。そこには、モラルとか宗教上の教えなど、関係なくなっているのである。インドネシア人の友人は「この病気は相当に重い」と評した。

数日前から、一足早く海外で大統領選挙の投票が行われたが、その結果が伝わるなかで、風向きが大きく変わりだした。投票所の出口調査で、ほとんどの国でジョコウィが予想以上に票を取ったのである。その結果がメディアに乗り出すと、今度は、ほとんどの国でプラボウォが勝ったという出口調査結果が出回り始めた。ところが、面白いことに、プラボウォが勝ったという結果はいつの間にか消えてしまった。ジョコウィが勝ったという情報のほうがどうも正しかった様子である。

そうか、この手法でプラボウォの支持率上昇を演出しようとしたのかもしれない。若者たちが次々に面白い支持ビデオを連発するジョコウィ側に比べて、相変わらず、プラボウォのような強い指導者が必要、という以上の主張ができていない。ジョコウィ側のような自発的な勝手連の動きはほとんどなく、政党や組織が上から抑える旧来のやり方に終始している。ジョコウィの真似をしてプラボウォ側の選対も市場などへ出かけるが、相変わらずそこでカネを配るなど、住民目線ということがまるで分かっていない。

住民をコントロール可能と思ったか、住民が自発的に動くことを求めたか。プラボウォ側とジョコウィ側の違いを一言で言えば、そうなる。誹謗・中傷を信じてジョコウィに投票しないように仕向ける、ゆるければ政党や組織を使ってでも強制する、それがプラボウォ側のやり方だった。他方、ジョコウィ側は、政党や組織で動くところもあったが、それに加えて自発的な勝手連が勝手に支持活動を行うに任せた。

住民が受動から能動へ変わる、そんな動きが見え始めたジョコウィ側の選挙戦だった。そんな彼らの動きを、まだまだカネで動くインドネシアのメディアは残念ながら追い切れていない。

プラボウォが勝ってもジョコウィが勝っても、その先のインドネシアには課題が山積している。しかし、それをどう解決していくか、住民がどう関わっていくのか。そのアプローチに関しては両者に大きな違いがある。

大統領選挙投票日前夜。既得権益を守りたいエリートとそうではない非エリートの戦いは、メディアが伝えるよりも意外に大きな差がつきそうな予感がする。

さて、それが当たるのかどうか。

お詫びと今後の日程

ここのところ、体調がすぐれなかったのと、原稿やプレゼン資料作成に集中していたため、ブログの更新ができずにいた。先週も今週もジャカルタへ出張し、1日ほとんどフルで埋まってしまい、疲労困憊状態だった。

ブログを書けずにいたことをお詫び申し上げたい。

今日(7月3日)はジャカルタである。今、ジャカルタは朝7時で、8時半からアポがあるため、今後の予定のみを以下に期しておきたい。

7月3日 夜、ガルーダ最終便でジャカルタからスラバヤへ戻り
7月4日 スラバヤ→デンパサール→
7月5日 →東京
7月10日 日経BPインドネシアビジネス基礎講座で講義
7月17日 名古屋で講演
7月18日 日刊工業新聞インドネシアセミナーで講演
7月19日 東京→ジャカルタ→スラバヤ

日本には、7月5〜18日に帰国する。上記以外の日程もかなり埋まりつつあり、講演以外は自宅でゆっくり、というわけにはいかなくなってしまった。これも性分なのかと、ちょっと自分を責めたりもする。

7月9日は、インドネシア大統領選挙投票日。激しい一騎打ちの選挙戦という現状からすると、投票終了後に、2組の候補ペアのいずれをも当選とするクイックカウントが出る可能性がある。

情報心理戦争状態となっていることを踏まえて、それをどう判断するか。翌10日には、それをプレゼンしなければならない。帰国してゆっくり日本の味を、温泉を、景色を楽しめるのは、もう少し後の別の機会になってしまいそうである。

【スラバヤ】麺屋佐畑の醤油ラーメン

スラバヤで注目のラーメン店・麺屋佐畑にまた行ってみた。

前回は仙台辛味噌仕立ての味噌ラーメンを食べ、このブログでも以前、紹介した。

【スラバヤ】麺屋佐畑

今回は、味噌に勝るとも劣らないという評判の醤油ラーメン(Rp. 38,000)が目当てだった。平日のお昼どき、私一人しか客のいない店内で、お目当ての醤油ラーメンを食べた。

透き通ったスープ。適度にコシのある麺。最初はちょっと味が薄いかなと思ったが、あっさり味なのにコクがあるスープに引き込まれていく。

うまい。ほんとうにうまい。このレベルのラーメンがスラバヤで、いや、インドネシアで食べられるとは信じられない。

トンコツ系のラーメン店が多いなか、あっさりした飽きの来ない醤油ラーメンに出会えたのがとても嬉しい。もちろん、スープはすべて飲み干した。化学調味料を使っているもののような、後味を引きずることもない。売り文句にあるように、毎日食べても飽きないだろう。

麺屋佐畑は、6月27日(金)にメニューを改定し、あんかけ醤油ラーメン、塩ラーメン、カレーライス、特製チャーハンを新メニューとして追加するという。近いうちに、それら新メニューの紹介もできればと思う。

なお、6月から、平日の11〜15時は全品価格30%オフ、土日の11〜15時は全品20%オフで提供している。

麺屋佐畑はスラバヤ市東部のパクウォン・シティにあり、中心部から車で20〜30分かかるため、市西部に住んでいる筆者はなかなか頻繁に行くことが難しい。でも、この醤油ラーメンを食べるためなら、行ってしまうような気がする。

スラバヤに来られたら、是非、味わってもらいたい。オススメである。

【スラバヤ】Mie Hokkian Rejeki

以前から気になっていたスラバヤ・グベン新駅近くの福建麺の店Mie Hokkian Rejekiへ行ってきた。店内には色々なメニューがあるが、やはりここは福建麺を注文。

出てきた福建麺は、汁なし麺だった。感じは、マカッサルなどでお馴染みのMie Goreng Hokkuianまたはシンガポールのプローン・ミーに似ている。揚げ肉団子が2つに割られて上に置かれているのがこの店の特徴かもしれない。

味は、ほのかにエビの味がソースにあり、美味ではある。が、とくにものすごく美味しいというわけではない。普通、といったところか。

先代が中国・福建省から渡ってきたそうで、以来ずっと、その味を再現しているのだろう。

個人的には、福建麺ならやはり、自宅近くのAkiatのほうに軍配を上げてしまうな。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

【スラバヤ】Boba Milk Tea @ Tjap Tepi Laut

先日、スラバヤ市内のショッピングモールの一つ、グランドシティに行ったら、森永乳業が子供向けの派手なイベントをやっていた。

こういうのもやるんだなあと思いながら、少しモールの中を散策。地下に行ったら、一番端っこに新しいカフェができていた。その名はTjap Tepi Laut: Coffee & Homemade Kitchen。
何となくちょっと居心地のいいカフェ。モールで一休みするには、ちょっともったいないぐらいいい感じのセンスのある店だった。雰囲気はそう、台湾で行ったカフェのような感じ、といったよいだろうか。
そう感じたのは、黒いタピオカがゴロゴロ入ったBoba Milk Tea(Rp. 23,000)などを飲んだせいかもしれない。もちろん、これを満喫した。

【マカッサル】トアルコ・カフェがオープン

6月8日、マカッサルへ行った際に、たまたま、トアルコ・カフェのオープンに立ち会うことができた。

このカフェは、日本のキーコーヒーが出資し、コーヒー農園とコーヒー集荷・輸出を手がけるトアルコ・トラジャが経営する直営のカフェ。すなわち、あのトアルコ・トラジャのトラジャコーヒーが産地直送で飲める、のである。

店内は清潔で、意外に広い。落ち着いた色調の内装でまとめられており、殺風景で音楽が無神経に鳴り、若者たちのタバコの煙であふれる、雑然としたマカッサルの一般のカフェとは明らかに一線を画している。ここなら、ゆっくりと静かにくつろげそうだ。

さっそく、トラジャコーヒーを注文。出てきたコーヒーは、これまでにトアルコ・トラジャのコーヒー農園や東京のキーコーヒー本社でいただいたものと全く同じ味のコーヒーだった。とうとう、これがマカッサルで飲めるとは。

次に、ケーキが美味しいと聞いたので、リングシューとストロベリーショートケーキを両方食べてみる。この際だから、カロリーのことを一瞬忘れることにする。

リングシューは生クリームとカスタードクリームが入り、とくに生クリームのミルクの美味しさがしっかり出ていてビックリ。生地もサクサクしていて、とても美味しい。

イチゴシュークリームは、ケーキ生地がしっとりとしており、生クリームがやはり美味しい。日本に比べればイチゴは今ひとつだが、十分に合格点をあげられる。なお、イチゴは、地元の南スラウェシでも作られており、さらなる品種改良が進められればと思う。

この二つのケーキとも、インドネシアのスイーツにありがちな激甘さがない。日本人好みの甘すぎないケーキである。これら以外にも、なめらかプリンなどもある。

コーヒーやケーキ以外にも、オムライス、カレーライス、スパゲティーといった日本の洋食ものを中心とした食事メニューも充実している。そしてこれらも美味しいのだ。

開店までに、日本から職人を招いて、コーヒーやケーキ作りなどの指導を何か月もかけて行ってきたそうである。今はまだ、日本からの職人が駐在し、品質のチェックに余念がない。そう、今なら日本のものと同じ品質のものがこのトアルコ・カフェで味わえる、というわけである。

そう、こんなカフェを待っていた。現時点では、スラバヤにはこのレベルのスイーツやコーヒーが楽しめる静かなカフェはない。おそらく、ジャカルタでも極めて少ないのではないか。トアルコ・カフェがコーヒー輸出の地元であるマカッサルから始まった、ということが個人的にはとてつもなく嬉しい。

マカッサルで成功したら、次は、バリ島やスラバヤなどへの展開も是非考えて欲しいところだ。

トアルコ・カフェは、Jl. Latimojongのスズキのディーラーのすぐ前にある。マカッサルに行かれたら、ぜひ立ち寄って、本物のトラジャコーヒーと日本並みに美味しいケーキや洋食を存分に味わってほしい。

さあ、コーヒーの次は、スラウェシのカカオで世界最高のチョコレート、だ。

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが、制服を着た屈強な男たち6〜7人に取り囲まれ、説教をされ、連れられてトラックに載せられ、どこかへ連れて行かれた。

ただ、それだけのことである。

様子を見ていたら、屈強な男の一人が説明してくれた。「見たらわかるだろ。オラン・ギラ(orang gila)だよ。放置しておいたら何するか分からない。危ないだろ」と。見たところ、おじいさんは酔っている様子も、また誰かに暴力をふるうような様子もない。

屈強な男は続けていった。「都市の景観を悪くするし・・・」と。ええっ、景観を悪くするという理由で、ちょっと「えへへ~」という感じでただ笑って座っているだけのおじいさんを街角から排除するのか・・・。

スラバヤは都市の景観を大事にする街として知られ、大通りには木々や花々が植えられて緑あふれている。清掃係が1日に何回も大通りを掃除している。見た目にはゴミの落ちていない、きれいな町である。

その一端は、異質なものを排除することで成り立っていたのである。スラバヤで見てはいけないものを見てしまったのだろうか。

多様性の中の統一を謳うこの国で起きている様々な少数派排除の動きのことを思った。多様性を強調する世界と「普通」から外れたものを排除する世界は、実は紙一重なのだ。いや、もっと言えば、表裏一体なのかもしれない。

いや、社会ではなく、我々自身にその両面性があるとはいえないだろうか。多様性の尊重をいう場合でもその許容できる範囲があり、その範囲を外れた異質なものを排除するのだ。スラバヤやインドネシア、もしかしたら日本も、許容できる範囲の大きさの差こそあれ、同じなのではないかと思った。

赤い帽子のおじいさんは、きっと、社会施設に連れて行かれ、家族がいるかどうか尋ねられ、いない場合はしばらくそこで引き取ってもらえているのだろう。そう信じたい。

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。

奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。

バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。

これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。

ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

【スラバヤ】シンガポール海老そば

前々から気になっていた。自宅へ帰る途中、チプトラ・ワールドの手前に、夜だけ現れるシンガポール海老そば(Mie Udang Singapore)の屋台である。

中に入ると、シンガポール・ホーカー系のメニューがずらり。店を切り盛りしているのは華人系のおじさんだった。迷いなく、店名となっているシンガポール海老そばを注文する。その際、スープを別にするか一緒にするか聞かれたので、一緒にするよう頼んだ。

出てきた海老そばは一見、何の変哲もないフツーのそばである。

スープをすする。たしかに海老の味。濃厚である。揚げ玉ねぎにはちょっと絡めのタレが絡められている。もちろん、魚肉の中華風つみれがちゃんとのっている。

麺の中を探ると、海老と一緒に空芯菜と細いもやしが隠れていた。そうか、ジャカルタのミー・カンクン(空芯菜そば)はこれの仲間だったのか。

やや太目の麺が海老のダシが効いたスープとうまく絡み合う。

うまい。これは常連になってしまいそうだ。

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ

5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。

一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

【マドゥラ】蒸しダックとソト・ババット

5月29〜31日にマドゥラ島へ行った際、食べたもので印象に残ったものをいくつか挙げる。マドゥラの料理は、全般にやや甘めだが、味が整っている。

まずは、ラブハン村の家庭(連れて行ってくれたファウジル君の実家)で出された料理。

揚げ魚に焼き魚、エビのカレー風煮付け、空芯菜の炒めもの、と豪華だった。この空芯菜の炒めものの味付けがやや甘みがあってとても美味しかった。サンバルも辛いだけでなく、甘みがそこはかとあり、ご飯との相性がよく、気に入った。

次は、サンパンの町中で「これはかならず食べる!」と言われて連れて行ってもらったのが、ダックを食べさせる店「ベベッ・ソンカム」(Bebek Songkam)。

ここのダックは、蒸しダックである。それに香辛料が丁寧に付けられている。肉はとても柔らかい。香辛料が効いて、口のなかで徐々に辛味が増し、ご飯が進んでしまう。この店は有名店らしく、スラバヤにもCITOと空港に支店がある。

最後は、スメネップで食べた臓物スープ、ソト・ババット(Soto Babat)。

ここのソト・ババットは、ご飯ではなく、米をバナナの葉で包んで蒸したロントンとキャッサバで食べる。おそらく、マドゥラ島東部のこの辺りでは、これまで米はあまり穫れなかったのだろう。味は濃厚だが、飽きることはない。

マドゥラ(2):ラブハン村の朝

5月30日は、まず朝起きて、ラブハン村の朝市を覗きに行った。朝市と言っても、村の海岸沿いの道路沿いに商人たちが店を広げている、という至ってシンプルなものである。

全長わずか200メートル程度。有力キアイの息子であるファウジル君は、子供の頃から商人たちみんなが知っている。歩いているとあちこちから彼に声がかかる。

柿が売られていた。食べてみると甘い。でも、甘柿ではない様子。実のまわりが白いのが気になる。

料理の素がこんな形で売られている。街なかのスーパーで売られているものの中身だけ、簡易パッケージで売っているような感じだ。

この材料にヤシ砂糖を入れて混ぜると下のようになる。それぞれの素材の食感が異なって、なかなか美味しい。お菓子の名前を聞くのを忘れたが、マドゥラでは昔から普通に食べられているお菓子ということだった。

このお菓子を売っていたおばさん。

次は、この村で30年以上クルプック(魚せんべい)を売っているおじさん。クルプックは、スラバヤの南のシドアルジョから仕入れている。「日本語でなんというのか?」と聞かれたので教えたら、「センベーイ、センベーイ」と言って売り歩き始めた。

朝市を見て回った後、今度は、マドゥラサに呼ばれた。マドゥラサは、イスラム教をメインとする宗教学校で、小学校相当から高校相当まであり、インドネシアでは、教育文化省ではなく、宗教省が管轄する。マドゥラサでは、中学校相当の生徒を相手に、日本の話をしてくれと頼まれた。

生徒たちにまず、「マドゥラの誇るものはなにか」と尋ねた。きれいな海岸、スラマドゥ橋、美味しい料理、闘牛(カラパン・サピ)などが出てきた。でも、男子生徒は「経験を積むため」マドゥラの外へ出稼ぎに行きたいと言い、女子生徒は「卒業したら結婚して家庭に入る」というのが大半だった。

先生方とも記念写真。

イスラム教に基づいた宗教学校ではあるが、生徒たちはごく普通の子どもたちだった。このマドゥラサは、ファウジル君の叔父さんが校長を務め、ファウジル君の父親らキアイたちが所有・運営している。

見た目はのどかなラブハン村だが、開発の波が押し寄せてくる気配がある。この村を含む広範な場所に、コンテナ港や大規模な工業団地を作るという話が出ており、すでに、多くのキアイたちが用地提供になびいている。ファウジル君の父親曰く、外部からNGOと称するマフィアどもがやってきて、開発に反対する運動を始めているということである。キアイたちには、真に村人のことを思って開発反対を唱えているというよりも、用地価格のつり上げを狙った動きと捉えられているようだった。

キアイたちがまだしっかりと「統治」しているラブハン村。これからどう変わっていくのだろうか。ここではまだ、開発は「外からやってくるもの」と捉えられている。

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。

その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。

ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。

中ジャワ州・サユン総合エコ工業団地

5月28日、中ジャワ州デマック(Demak)県にあるサユン総合エコ工業団地(Sayung Integrated Eco-Industrial Park)の建設予定地を視察した。

この工業団地は、中ジャワ州の州都スマラン市のすぐ東隣のデマック県西部サユン地区に建設中である。渋滞がなければ、スマラン市中心部や空港から車で30分、タンジュン・エマス港から車で25分の距離である。スマランとスラバヤを結ぶ国道沿いに建設中で、道路へのアクセスはとても良い。

工業団地が全部完成するのはまだ先で、確保した用地面積は1600ヘクタールに上る。そのうちの300ヘクタールを第1期工事として建設中なのである。下の写真のようなサイトプランが計画されている。

現在の予定では、2014年後半までに用地を整備し、2014年末には入居者が工場建設を開始、同時にガスや電力や用水を供給するインフラ整備を進める。工業団地内の燃料は基本的に天然ガスを使い、それは中ジャワ州東部のチェプ・ガス田からパイプラインで供給されるそうである。

正式オープンは2014年6月を予定し、訪問した時点ではまだだったが、すでに地場企業が1社が用地を購入済みで、マレーシアからの外資系企業1社を含む3社が用地購入を検討中とのことである。

サユン総合エコ工業団地を管理・経営するのは、スマランに本拠を置く地場民間のムガン・グループ(Mugan Group)という企業グループで、同企業グループ内の企業PT. Jawa Tengah Lahan Andalan(通称:Jateng Land)が、スマラン市西部で工業団地を管理・運営する国営ウィジャヤクスマ工業団地(Kawasan Industri Wijayakusuma: KIW)と合弁を組んでいる。

ムガン・グループは、携帯電話のEverCossやタブレットAdvanなど、地場ブランド製品の製造・販売がメインである。これまでは、全面的に中国から部品を輸入して組み立ててきたが、7月以降は、部品調達もインドネシア国内から行う予定とのことである。

今回、たまたまエドワード社長に面会できた。社長は、「ジャカルタ中心ではなく、地方から地場ブランドの製造業を興していきたい」と熱く語り、サユン総合エコ工業団地を「インドネシアにおける本当の意味でのエコな工業団地にしたい」と述べた。

Jateng Landの担当者によると、今ならば、用地価格を特別価格として1平方メートル当たり100万ルピア(約1万円)前後で提供できるとのことである。

より詳しい情報については、下記の連絡先、または私(matsui@matsui-glocal.com)までご連絡いただきたい。

PT. Jawa Tengah Lahan Andalan (Jateng Land)
Menara Suara Merdeka, 8th Floor
Jl. Pandanaran No. 30, Semarang
Phone/Fax: +62-24-76928822
Email: jatengland@gmail.com
Contact Person: Mr. Setyo Adi

《お知らせ》大統領選挙に関する講演会(6月11日、ジャカルタ)

<インドネシア・ウォッチ講演会のお知らせ>
下記の通り、半年に一度、私が講師となり、インドネシアの政治経済状況を概観・分析する「インドネシア・ウォッチ講演会」を開催します。
皆様のご参加をお待ちしております。
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 大統領選挙と新政権の展望
 ~インドネシアの何が変わり、何が変わらないのか~
 講師 :松井和久(JACシニアアソシエイト)
 日時  : 2014年6月11日(水)16:30 – 18:30(受付開始 16:00)
 場所  : ホテル・サリパンパシフィック(ジャカルタ)
      Hotel Sari Pan Pacific, Jl. M.H. Thamrin No.6, Jakarta
 参加費: 600,000 ルピア + VAT 10 %
 お申し込み方法: 下記をご記入の上、メールにてお申し込みください。
 1)会社名 2)氏名および役職 3)メールアドレス 4)電話番号(できれば携帯番号)
 申込先: JACビジネスセンター(担当:田巻) tamaki@jac-bc.co.id
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インドネシアの大統領選挙は、プラボウォ=ハッタ組が「1」、ジョコウィ=カラ組が「2」と、候補者ペア番号も決まり、いよいよ6月3日から選挙運動が始まります。
巷のメディアによる「世論調査」では、ジョコウィ支持が底堅いものの伸びが鈍っているのに対して、プラボウォ支持が伸びていると評されています。現状では、まだジョコウィ支持がプラボウォ支持を上回っていますが、この選挙運動でどのような展開になっていくのか。ズバリ、どちらが勝つのか。
講演開始の直前まで、様々な動きが起こってくるものと見られます。講演では、その時点での最新状況を踏まえて、かつ、今回の選挙のインドネシアの政治史上の位置づけも意識しながら、今回の大統領選挙とその後のインドネシア政治・経済・社会について、私なりの見方をご披露したいと思います。

Alfa Martの赤い端末

一昨日(5月27日)、近所のAlfa Mart(インドネシア地場のコンビニ)へ行ったら、ATMの脇に赤っぽい箱のようなものが置いてあった。よくみると、赤い端末である。

ちょうど、スマラン行きの鉄道の切符を買いたかったので、操作してみた。端末の指示に従って、出発日や行先を入れていき、最後に支払いのところまで来た。

けっこう、いけるじゃん。と思ったら、最後が難所だった。自分のID番号を入れるのである。それがすべて数字。

私のKITAS(外国人一時滞在証)IDにはアルファベットが混じっており、入力できない。というか、一般の旅行客はこの端末で鉄道の切符は買えないのだ。パスポート番号にもアルファベットが交じるからである。もちろん、インドネシア国籍で住民登録番号を持っている人ならば買えるのだろう。

しかたないので、レジに行き、店員にKITASを渡して登録してもらい、無事に鉄道の切符を買うことができた。

今日(5月29日)は、来週、マカッサルへ行くライオン航空のチケットを買ってみた。まず、自分のパソコンでインターネット予約し、それをAlfa Martで買えるように指示。3時間以内に購入せよとのメッセージが出る。

Alfa Martへ出向いて、再び赤い端末へ。ライオン航空のところをタッチし、インターネット予約で出されたAlfa Mart用の予約数字番号(ブッキングコードではない)を入力。すると、「あなたの待ち合わせ番号は21番です」といった表示が画面に出る。でも、日本のようにレシートのようなものが出てくるわけではない。

しかたないので、レジのお姉さんに「ライオン航空の待ち合わせ番号21番ですよ」と告げると、「はい」と答えがあって、レジの横の端末で購入のための処理をしている。「あ、番号が消えちゃった!何番でしたか?」とお姉さんの声。もう一度、赤い端末に入力してやり直すと、待ち合わせ番号は22番になった。

今度は大丈夫。と思ったら、「もう一度入力番号を教えて」と言われて再々度伝える。待つこと5分、代金を支払うと、ようやくレシートが印刷された。そして、ほどなく、メールで電子チケットが送られてきた。

日本のコンビニに比べれば、とても質素な感じの赤い端末。でも、これでまだ十分なのかもしれない。インドネシアでの展開を模索している日本のコンビニは、こうした状況にどう切り込んでいくのだろうか。

ジミー・チュウのFUKUSHIMA

先週、ジョホールバルに滞在中、地元の華人実業家と知り合いになった。

初対面にもかかわらず、彼はとても親切で、私の希望に添って、イスカンダル・プロジェクトの現場を車で案内してくれた。あいにくの雨で、写真も撮れず、車の中から見るしかなかったのだが、予想以上に広大かつ野心的なプロジェクトの様子がうかがえた。

ひと通りイスカンダルを見終わって、ショッピング中だった彼の奥さんも交えて、昼食をとった。いろいろと話をしているなかで、彼の奥さんが、「ジミー・チュウというマレーシア人の靴デザイナーが福島をテーマにした作品を作った」という話をしてくれた。彼女はジミー・チュウのデザインが好きで、マレーシアではたくさんのファンがいるという。

ジミー・チュウという名前も初めて聞いたが、その人が福島のために何かしているという話も、恥ずかしながら、初めて聞いた。もしかしたら、福島ではこの話は有名なのかもしれないが。

調べてみると、ジミー・チュウ氏は、実際に福島にも行っているようだ。彼は、靴の素材として、福島の伝統工芸品である会津木綿、会津漆器、川俣シルクの3つを使った。以下に、その記事がある。

福島の可能性ひらく靴 伝統工芸使い生み出す

この記事を読んで、次のような、心に響いた記述があった。

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ジミー・チュウの靴の中には1足10万円を超えるものもある。講演会に出席した官公庁や自治体などの関係者の中には、6足を売って復興支援にあてるアイデアもあったという。

だが、チュウ氏の思いは違った。「寄付だけで復興は成り立たない。風評被害やいろいろな困難や苦労を糧にし、反発し、福島の価値をどう高めるか考えた先に復興はある」

チュウ氏は、ふるさとのマレーシア・ペナン島で父親の下で修業した後、身一つで渡英した。どんなに売れなくてもこだわってきたのが、自分の名前を靴の中敷きに刻むことだった。それが自らの技術とデザインのすばらしさを世界に知らしめる最良の方法だ、と。その場所に今回、自分の名前ではなく「FUKUSHIMA」と刻んだ。

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ジミー・チュウ氏の靴を売って復興支援に充てる? そんなことを考えた福島の人間がいたとは、とても悲しい。

ジミー・チュウ氏が福島へ寄贈した6足へ託した深い思いを、我々はきちんと受け止めているだろうか。こんなにも深く、福島のことを思って行動してくれている人が世界にはまだまだいるのである。

福島出身の私を含めた福島の人間は、世界の人々からこんなにも思われている。そう思いながら、福島と外の世界とをもっともっと結んでいく必要を痛感した。

まさか、そんなことをマレーシアのジョホールバルで考えるとは思わなかった。ジョホールバルは、自分にとって忘れられない場所の一つになった。

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