【インドネシア政経ウォッチ】第6回 コメ中心主義からの転換(2012年 9月 6日)

世界的に食糧危機が懸念される中、今年はインドネシアにおける農作物の生産が好調だ。7月発表の中央統計庁の統計によると、通年でコメの生産量(もみ米ベース)は前年実績比4.3%増の6,859万トンと予想されている。

昨年は住宅や工場用地への転換などで水田耕作面積が前年比で3%減少したこともあり、前年比で1.7%減少した。しかし、前年と耕作面積が変わらない2012年は、ジャワ島でコメの生産性が4.5%増と大幅に上昇したほか、ジャワ島以外での耕作面積も3.3%増える見通しなど明るい材料が多い。

ここ数年減産が続いていたトウモロコシも、耕作面積の拡大と生産性の向上により、今年は前年比7.4%増の1,895万トンになることが見込まれている。一方で減産が予想される主要作物は大豆くらいだ。

生産量が増えている農産物だが、中長期的な食料安全保障の観点からみると懸念事項が残る。特に1人当りの年間消費量が139キログラムで、日本の2倍以上と多いコメがそうだ。

1950年の主食に占めるコメの比率は5割程度だったが、「緑の革命」によるコメの増産を経て2010年には95%に上昇した。コメを食べることが「文明化」と同一視され、コメ以外食べなくなったのである。

政府は状況を打開するため、コメ生産量の大幅な増加に加え、コメ以外の食糧へと生産を多角化する方向性を打ち出した。消費量を7.5%下げれば、世界最大のコメ輸出国になれるという民間の試算もある。

昨今の現地でのグルメ・ブームは、ローカル食の再評価を促している。生活に余裕が生まれ、食に対する国民の関心が増えた今こそ、コメなど炭水化物中心の生活から脱却し、食文化をより豊かにする好機である。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第5回 汚職について考える(2012年 8月 30日)

インドネシアで汚職報道のない日はない。実際に何人もの政治家や政府高官が実名かつ現職のまま逮捕されており、汚職のイメージを払拭(ふっしょく)するのは容易ではない。

スハルト政権が倒れ、民主化の時代になってからの方がひどくなったような印象だ。地方分権化により全土に拡散してしまったという見解も一般的である。汚職を根絶できない現体制を抜本的に変えるとの期待から、イスラム法適用運動が一時的に支持を集めたが、結局、清廉さを売り物にしたイスラム政党も汚職に染まり、急速に色あせていった。

スハルト時代も汚職は大問題だった。コミッションと称して「袖の下」を要求するスハルト大統領のティン夫人は「マダム10パーセント」と呼ばれ、スハルトの親族はビジネスを拡大させた。国民は「大統領がするなら」と汚職を正当化し、一緒に行ったため、それを暴くことは事実上困難だった。

スハルト後の民主化時代になると、政治勢力が多極化した。大統領公選や地方首長公選が実施されると、競争相手を追い落とすため、汚職などのあら探しが始まった。報道や表現の自由も保証されたことから、メディアは汚職関連記事を連日のように掲載する。記事を書かれた政治家は、別の政治家の収賄疑惑を血眼になって探すなど政争に明け暮れ、汚職をなくそうという機運が高まらない。

大統領直属の汚職撲滅委員会は容疑者への盗聴も許され、訴追された容疑者は汚職裁判所で裁判を受ける。裁判では盗聴された携帯電話の通話録音も証拠となり、有罪となれば執行猶予の付かない実刑判決を受ける。

政府の役人と話をすると、援助機関が実施する研修やセミナーへの交通費や宿泊費さえ、「援助機関側から支出してもらいたくない」と言われる。汚職嫌疑をかけられる恐れがあるからだ。汚職をする時代から汚職を怖がる時代へと変化の兆しはある。でも皆が続けていることに変わりはない。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第4回 援助受け入れから国際貢献へ(2012年 8月 23日)

ユドヨノ大統領は独立記念日前日の16日、毎年恒例となっている来年度予算案の大統領演説で、インドネシアの民主主義の進展とさらなる経済成長への自信を示したほか、インドネシアの国際貢献に対する意欲を前面に押し出した。

2013年の経済成長率の目標を6.8%と発表し、「独立100周年となる2045年に、強靱(きょうじん)で公正な経済と安定した質の高い民主主義を伴った先進国になることを目指す」と述べた。国際社会から「インドネシアはどう考えるのか」と尋ねられることが増えたとも強調した上で、東南アジア諸国連合(ASEAN)や東アジアだけでなく混迷のシリア情勢について言及し、世界平和と安定維持のために国際貢献する決意を表明した。

これまでインドネシアは、中東産原油の運搬ルートという地政学的重要性もあり、日本にとって最大の開発援助供与先であった。ダム、道路、鉄道などのインフラ整備のほか、教育や保健衛生の分野でも多数の技術協力事業が実施された。一方で過度な援助漬けで汚職が蔓延(まんえん)したため「自立は難しい」と思われた時期があり、今でも「インドネシアが国際貢献なんてできるのか」というシニカルな見方も内外にある。「ネシア」という呼称にもインドネシアを見下す意識が垣間見える。

しかし、国民1人当たりの国内総生産(GDP)が3,500ドル(約28万円)を超えた今、インドネシアは「貧しい国」ではなくなった。中間層の今後10年の伸び率は中国やインドを凌駕(りょうが)するとさえいわれている。インドネシア政府自身も債務負担増を避けるため、外国借款には消極的である。インフラ整備に関しても、政府保証をベースに民間資金を活用する官民パートナーシップ(PPP)が基本である。地方政府も含めて以前のように、「援助が欲しい」という態度をあからさまに示すことはなくなった。

日本政府はインドネシアとの対等なパートナーシップを謳(うた)っている。ただし、それは二国間関係にとどまらず、より国際貢献したいインドネシアと一緒になって国際貢献することをも含む時代になったのではないか。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第3回 イスラム化現象を気にする必要はない(2012年 8月 16日)

世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア。以前よりもジルバブ(スカーフ)を着用する女性や1日5回、しっかりと祈る割合が増えているほか、コーランの勉強会が盛んになるなどイスラム化が進んでいる印象を受けるかもしれない。しかし、それらはインドネシアのイスラムがより原理主義的になっている現れでもないようだ。

政治勢力としてのイスラム政党は、ますます国民の支持を失ってきている。契機は2002年、04年に起きたバリ島での爆弾テロ事件にあったと考えられる。当時のインドネシアでは、民族主義とイスラム主義が拮抗(きっこう)しており、イスラム国家になるのではないかという懸念があった。実際にイスラム法の適用運動が盛んになり、複数の地方政府は関連する条例を成立させた。だが、今ではイスラム法を適用する運動は影を潜め、反汚職の清新なイメージで過去の選挙で躍進した福祉正義党(PKS)をはじめ、イスラム政党は軒並み支持率を下げた。

04年から2期続くユドヨノ政権は、イスラム政党を追い込まず、与党政権の内部に取り込んで実質的に無力化させた。かつてスハルト政権がパンチャシラ(建国五原則)を1985年に法制化して組織存立原則とし、それを拒むイスラム勢力を敵視したのとは対照的なやり方である。

イスラム政党が影を潜めた今、イスラム擁護戦線(FPI)のような組織が示威行動をとるようになった。一方で、彼らの暴力行為を支持する国民は少数派にとどまる。FPIらの行動は、イスラム勢力の拡大を目指すというよりも、政治家が利用できる一種の暴力装置として力を誇示することに重きが置かれている。

ジルバブを着用する女性も、敬虔(けいけん)なイスラム教徒としての部分のほかに、そう見せることで異性の好奇の目を避ける、単にファッションとして好むといった面もある。インドネシアは、イスラム教が多様性を尊重する宗教であることを強調する穏健な考え方が主流である。われわれ外部のものが、見た目のイスラム化現象を過度に警戒する必要はないと考える。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第2回 急速に進む技術格差と脱工業化(2012年 8月 9日)

あるインドネシア企業を訪問した際、複数台のNC機械が止まっているのを見かけた。30年ほど前の日本製の機械だろうか。故障したが修理方法が分からないので、2カ月間放置されているという。日本でも古いNC機械を修理できる人材は少なくなり、新品に替えるのが一般的とのことである。

そんな話を聞きながら、ジャカルタ首都圏を走る日本製の中古の電車やバスのことを思い出した。日本から次々に流れてくるので、修理して長く大事に使う感覚がインドネシア側に生じない。構造的に技術吸収のプロセスが起こらなくなっているのだ。

インドネシアの経済発展は脱工業化を伴っているという指摘がある。実際に製造業でも好調なのは、電化製品、二輪車、自動車などの組立産業である。部品などの現地調達率を高める努力もなされているが、インドネシア企業が部品産業で技術集積・蓄積を進めていくことが、ますます難しくなっているように見受けられる。

日本企業は技術開発を進め、少量・高価格で製品を市場へ出す。生き残るためには、技術が汎用化される前に、さらなる技術開発をしなければならない。一方、後発のインドネシアでは技術開発の資金も人材も乏しく、中古技術を取り入れて吸収しようとするのが精一杯になる。こうして両国企業の技術格差は、埋まらないどころか拡大する。日本企業がインドネシアに進出する際には、必ずこの技術格差の問題に直面し、結果的に日本から機械や技術を持ち込まざるを得なくなる。

「日本企業の進出がインドネシアの工業化で欠けた穴を埋めていくのではないか」という期待もある。しかし、急速に広がる技術格差を考えると、インドネシア企業が独自に工業化を果たすのは難しいのではないかという気がしてくる。昨今メディアを賑わす「経済ナショナリズム問題」も、こうした文脈と決して無関係ではない。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第1回「ジョコウィ現象」をどう見るか(2012年 8月 2日)

先月半ばに実施されたジャカルタ特別州知事選挙の結果は現地で注目を集めた。現職圧勝を予想した各種世論の調査結果に反し、闘争民主党とグリンドラ党が推すジョコウィ(中部ジャワ州ソロの現市長)とアホック(南スマトラ州東ブリトゥン県の前知事)の知事・副知事候補組が得票率42.6%で第1位となったためだ。ユドヨノ大統領が率いる民主党の推す現職のファウジ組(得票率34.05%)との間で9月に決選投票が行われる。

ファウジ組は、地元ブタウィ族出身、イスラム教徒、広範な支持団体、現職で知名度抜群という要素を持つ。だがジャカルタ生まれでないよそ者であるほか、副知事候補は華人・キリスト教徒(プロテスタント)、強固な支持団体は皆無、知名度は低いといったジョコウィ組に及ばなかった。常識的には考えにくい「ジョコウィ現象」はなぜ起こったのだろうか。

ちまたでは「ファウジの傲慢(ごうまん)なイメージが原因」との見方がある。ただ、自他ともに認めるジャカルタ通で清廉な彼をとがめるほど傲慢という印象はない。むしろ、さまざまな組織を固め、動員力にも優れるなど、ほぼ完璧の体制で圧勝を確信していたはずである。

だからこそ、ファウジ組は勝てなかったとの見方もある。組織的な動員から漏れたホワイトカラー、カネを配れば自分に投票するはずの「小さき民」への接近方法に工夫が足りなかった。お上が下々へ施しを与える旧来の政治家スタイルが通用しなくなったのである。

一方でジョコウィはあえて政党色を封印、「小さき民」の世界へ自らゲリラ的に飛び込み、彼らと同じ目線で交じり合った。中間層・ホワイトカラーに対して「一緒に何かを変えられるのではないか」というイメージを作り出した。しがらみのないよそ者・異端者だからこそ、新しいやり方へ開き直れたのである。

筆者はこの「ジョコウィ現象」に、政治を牛耳ってきた「旧来エリート主義」の時代が終焉する気配を感じている。政党がそれに気付いて修正できるのかどうか。新たな時代に向けて変わり続ける社会、その先に2014年の大統領選挙がある。

 

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【お知らせ】「NNAインドネシア政経ウォッチ」は隔週連載へ変更

ニュースネット・アジア[NNA](インドネシア版)の毎週木曜に連載中の「インドネシア政経ウォッチ」は、本日号(4月9日付)から隔週木曜連載へ変更となります。

引き続き、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

コミュニティ・デザインと私

なんという運のめぐり合わせだろう。国際交流基金の仕事で、以前から気になっていて、一度会いたいと思っていたコミュニティ・デザイナーの山崎亮さんと約一週間、一緒に仕事する機会に恵まれた。

スラバヤでのワークショップにて。参加者のGatot Subroto氏撮影の写真を拝借した。

スラバヤでのワークショップにて。参加者のGatot Subroto氏撮影の写真を拝借した。

彼の日本での活躍ぶりは重々承知していたので、日本で会うのは難しそうだと半ば諦めていたのだが、まさかインドネシアで、しかもずっと一緒に仕事ができたのはとてもラッキーな出来事だった。

今回の私の仕事は、山崎さんと彼の補佐役で来訪された、同じstudio-Lに所属する西上ありささんの通訳兼コーディネーターである。いつもならば、自分でセミナーやワークショップを進めるのだが、ここはじっと役割をわきまえて、彼らの活動が最大限に発揮できるように努めた。

メダンでのワークショップ風景

メダンでのワークショップ風景

山崎さんは、コミュニティ・デザインに関連して行なった事例を100以上、いつでも発表できる状態にしており、今回のジャカルタ、メダン、スラバヤでの建築学科の学生らを対象としたセミナーとワークショップでも、それぞれ違う事例をふんだんに使いながら進めた。どの事例もなかなか面白く、通訳をしながら私自身も興味をそそられた。

彼らといろいろ話をするなかで、彼らが目指す未来と私がこうありたいと考える未来とがかなりオーバーラップすることが明確になってきた。すなわち、少子高齢化や成熟社会に向かう日本が、かつてのような重厚長大や成長を目指すことは無理だと気づき、エコで足るを知り、コンパクトな社会を目指す方向へ舵を切ったとするならば、インドネシアは日本のような回り道をせず、今からハードとソフトを兼ね備えた形で直接、エコでコンパクトな社会を目指すほうがよいのではないか、という考えである。

山崎さんは、そのソフト面で、建物を建てることを目指さないコミュニティ・デザインの役割が発揮されると語った。建築(アーキテクト)とは、様々な技術を一つにまとめあげていくことだとするならば、様々な人々や考えをつないで問題解決の動きへまとめ上げるコミュニティ・デザインも立派なアーキテクトである、とも述べた。

コミュニティ・デザインのもう一つの肝は、コミュニティの課題に様々な人々が関心を持ち続け、主体的に関わろうとするためには、美しさ、カッコよさ、美味しさ、といった感受性に訴える部分をデザインという形で取り入れることが重要だ、ということである。そう、楽しいから、面白いから、人々はそれを自分でやりたいと思うのである。建築家やデザイナーが地域づくりに関わる意味はそこにもある。

とにかく、山崎さんや西上さんとの今回の仕事は、個人的にとても面白かったし、今後の自分の活動を考えるうえで、様々なヒントを得ることができた。それはたくさんの事例であり、ワークショップのアイスブレイクの手法であり、ワークショップの進め方であり、ダイアグラムを重視した見える化の手法であり、また「よそ者」としてのメリットと限界を熟知した上でのコミュニティとの関わり方であった。

これから福島で、日本の地域で、インドネシアの地域で、私も様々な活動を行っていきたいと考えている。そんななかで、また山崎さんや西上さんとの接点が生まれ、場合によっては再び一緒に仕事をする機会などができれば、とても嬉しいことである。お二人にははた迷惑かもしれないが、久々に同志と思える方々と出会えた気がする。

このような素晴らしい機会を提供してくれた国際交流基金に改めて感謝したいと思う(油井さん、本当にありがとう!!)。そして、さらに、今回のコミュニティ・デザインに関するセミナーとワークショップをきっかけとして、日本とインドネシアとをつなぐ形で次の展開が開けていけるように、自分も努めていきたいと思う。

スラバヤ再発見の活動を続ける若者グループAyorekを訪問

スラバヤ再発見の活動を続ける若者グループAyorekを訪問

1泊2日でKL

3月14〜15日は、気分転換のため、マレーシアのクアラルンプールへ行き、友人と食べ歩きをした。

14日は、KLセントラルから近いバンサールを歩いた。お目当てのニョニャ料理カフェでラクサを食べたあと、ぶらぶら歩いたが、なかなか気持ちのいいところだった。

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バンサール・ショッピングセンターにある一風堂バー。博多ラーメンで名高い一風堂がラーメン店の隣に日本酒などを楽しめるバーを設けた。そこで、ワサビを使ったカクテルを味わってみようということだったが、結局、私はキュウリのモヒートを飲んだ。

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バンサール・ショッピングセンターまではちょっと距離があり、しかも坂なので、タクシーを拾おうと思ったのだが、「距離が近すぎる」ということで軒並み乗車拒否にあう。でもどうも、近くのバンサール・ビレッジとバンサール・ショッピングセンターを混同していた様子。結局、約30分かけて、徒歩で坂を登って、バンサール・ショッピングセンターにたどり着いた。ふーっ。

でも、歩いて、多少道に迷ったおかげで、バンサール・ビレッジ周辺がなかなか住むにはいいところだということが分かった。気持ちのいいカフェの一つで一休みしたが、でかいボリュームのブルーベリーチーズケーキが意外に美味しかった。

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一風堂バーで、友人となかなか気持ちのよいお酒を飲み、楽しく語り合った。

15日は、別の、昔の職場の友人と一緒に、セントラル・マーケットでニョニャ料理のランチ。ココナッツライスとおかずがベストマッチング。美味しくランチをとりながら、昔の職場の話や東南アジア研究のあり方なども含めて、話がはずんだ。

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外に出たらけっこう暑い。たまらなく、KLセントラルへ戻って、元首相のDr. Mが経営しているというカフェで、マイナス60度に凍らせたコーヒーに熱いミルクを注いで溶かして飲む、という飲み物とあんこの入ったクリームパンを食べた。おいしい!

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KLセントラルで友人とわかれ、空港へ鉄道で移動。

空港で、思い切ってiPad Mini 2を買ってしまった。32GBでRM1,569。4月から消費税6%が課せられるとのこと。インドネシアで購入するよりはずいぶん安く買うことができた。

インドネシアの税関申告書に「250ドル以上の購入品を申告せよ」とあったので、スラバヤに着いて真面目に申告したら、「真面目に申告してくれてありがとう」と暇そうな係員に言われた。

15日夜にスラバヤへ戻ったら、この土日のスラバヤは大雨だったとのこと。

16日は午前中に原稿を書き、夜10時過ぎにマカッサルに到着。日本からのお客さんと打ち合わせを午前1時までやり、その後、2時間ほど連載原稿を書いてから寝た。

今回のマカッサルはわずか2日間、しかもお客さんのお供なので、知人・友人ともあまり会えないのが残念。次回のマカッサルは、6月初めを予定しており、このときにじっくりと再会する予定。

 

寄り添うということ

寄り添うということを改めて考えている。

相手が求めているかどうかも分からずに寄り添う、ということは普通はない。

相手が一緒にいてくれると嬉しいと思える関係ができてはじめて、寄り添うということが可能になる。

そして、寄り添うというのは一過性のものではない。

相手が「もういい」と言うまで、ずっと長い時間、求められる分を寄り添うことになる。

寄り添うというためには、常に、物理的に相手のそばにいなければならないのだろうか。

一度会ったきりで、その後なかなか会うことがなくとも、相手が「寄り添ってくれていてありがたい」と思ってくれるような関係づくりは、非現実的なのだろうか。

相手のことを想う。自分のことを想ってくれていると感じる。それは、寄り添っているということと同じなのか違うのか。

相手のそばに居ても、その相手が「自分のことを想ってくれている」と感じなければ、寄り添っていることにはならないのではないか。

物理的にたとえ離れていても、寄り添ってくれていると相手が想ってくれる関係はつくれるのか。

人々、庶民、市民、といった言葉ではなく、個人個人の固有名詞でのお付き合い。

固有名詞の個人個人を通じたそこの人々やコミュニティとのお付き合い。

ビジネスライクではなく、本当に相手の未来や幸せを真剣に考えられる自分かどうか。

常に相手の立場に立って、相手から「もういい」と言われるまで、一生ずっとお付き合いするつもりで関わっている自分かどうか。

相手に寄り添っている、と思うことが単なる自己満足なのではないかと自問できる自分かどうか。

ふと思う。

そこには、国境はない。国籍の違いもない。

自分がモバイルに動いていても、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係を作ることはできる。それは、相手に寄り添うことと同じなのか違うのか。

でも、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係から、本物の活動はすべて始まるのではないか。

日本中をくまなく歩いた宮本常一氏がどのようにたくさんの日本の地域と関わったのか。

必ずしも数が多くなるかどうかは分からないが、日本を超えた形で、宮本常一氏のように、世界中の地域と関わることができるのではないか。

それぞれの地域と、一生ずっと深くお付き合いする覚悟を自分のなかで確認しなければならない。

3月、アイムジャパン研修生OBが作ったインドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)から強い要請があり、アドバイザーを引き受けることにした。インドネシア側からお願いされたことを自分としては光栄に感じている。彼らとは一生ずっとお付き合いする気持ちになり始めている。

かわいそうだから寄り添うのではない。相手との信頼関係を築き、相手の同意のうえで、一緒に新しい何かをしてみたい。そう思っているだけである。

そんなふうに思いながら、ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、東京、福島、その他の地域のことが頭のなかでぐるぐる回り始めている。

 

ブカシで技能実習生OBとの面会

2月13日、ジャカルタで用事を1件済ませた後、スディルマン通りからクバヨランバルを抜けて、テンデアン通りを通って、高速道路に乗るまで1時間半、それから1時間かけて、予定より1時間遅れの夜8時にブカシ着。待ち受けていた技能実習生OBと面会した。

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彼らは、アイムジャパンの技能実習生派遣事業で日本に行った経験を持つ方々で、インドネシア研修生事業家協会(Ikatan Pengusaha Kenshusei Indonesia: IKAPEKSI)の幹部たちだった。IKAPEKSIは、アイムジャパン事業で日本へ行き、帰国した後に、事業を行っている元研修生の集まりで、全元研修生4万5,000人のうち、約6,000人がIKAPEKSIの会員、ということであった。

この組織は、彼らが自発的に作ったもので、日本側からの関与はない、とのことである。

彼らは、今後、日系企業とどのような関係を持っていけるか模索している様子。まずは、IKAPEKSIの存在を日本側へアピールすることが必要だろう。とにかく日本が好きなんだ、と、こちらが恥ずかしくなるぐらい、強くアピールされた。

インドネシアと日本との関係をより深く確実なものにしていくためには、毎年毎年ほぼ自動的に増え続ける日本への研修生とどのように付き合っていくか、帰国後の彼らを日本側がどうサポートしていくかが重要になるだろう。元研修生は、ジャカルタ周辺だけでなく、インドネシアの地方のほぼ全てに存在しており、日本人が地方へ旅をしたり、あるいは日本語パートナーズが地方の高校で活動する際には力強いサポーターになってくれるものと思う。

もちろん、元研修生にも色々な人がいるだろう。真面目に事業を行っている人もいれば、日本へ行ったのはカネだけが目的だった人とか、日本人をカモにしよう、日本人にタカろうと思っている人さえ、いるかもしれない。だから、元研修生といっても、必ずしもいい人とは限らないので、それをどのようにコントロールするかも課題ではないか、とIKAPEKSIの方々にはひとこと釘を刺した。

彼らは3月7日、ブカシで全国大会を開催するそうで、さっそく、そこで講演するよう頼まれただけでなく、アドバイザーになって欲しいとも頼まれた。彼らの存在を活かしていくことが、今後のインドネシアと日本との関係を広く深くするためにも重要だと考え、引き受けることにした。

彼らと一緒に、これから何を起こしていけるのだろうか。彼らには、日本の地方都市で過ごした経験を持つ者が少なくない。また、帰国後、インドネシアの地方で活動しているものも少なくない。日本の地方とインドネシアの地方を結びつけたい自分としては、何か面白いことができる要素があるような気がする。ちょっと楽しみではある。

 

インドネシア・ウォッチ講演会のお知らせ(2015.3.4)

久々に、ジャカルタでインドネシア・ウォッチ講演会を行うことになりました。

以前お世話になったJACインドネシアと一緒に、下記のような内容で講演させていただきます。よろしければ、是非ご参集ください。

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インドネシア・ウォッチ講演会

「試練に直面するジョコウィ新政権 ~もがき続けるインドネシアの民主主義~」

2014年10月の発足から約4ヵ月を経たジョコウィ政権は、早くも様々な試練に直面しています。大統領選挙で破ったプラボウォ支持派を何とか懐柔し、国会運営を軌道に乗せ始めた矢先に、新国家警察長官任命をめぐって、警察と汚職撲滅委員会との対立が激化してしまいました。その背景には、政党や官僚に翻弄されるジョコウィ大統領の優柔不断さと孤独が見て取れます。

国際収支安定化、国内産業競争力強化、地域格差是正という経済政策の基本線は堅持されており、投資許認可プロセスの改善なども進められていますが、民主主義の成熟が今後のインドネシアの安定を支えていけるのかどうか。本講演では、試練に直面するジョコウィ新政権の虚と実に迫ります。

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日時:2015年3月4日(水) 9:00 – 11:30 (受付開始 8:30)

場所:Fortice セントラル・スナヤン2 オフィス
Sentral Senayan 2, 16th Floor, Jl. Asia Afrika No. 8, Gelora Bung Karno, Senayan, Jakarta

参加費:550,000 ルピア(税込)

*当日、現金にてお支払い頂きます。その際に、JACインドネシアより領収書をお渡しします。
請求書がご入用の場合は、別途事前にご連絡下さい。

定員:60名(定員になり次第、締め切らせていただきます)

申込方法: 下記をアルファベットにて記入の上、JACの藤倉さん(fujikura@jac-recruitment.co.id)までお申し込みください。
1)会社名 (アルファベット・ローマ字にてご連絡ください)
2)氏名および役職
3)メールアドレス
4)携帯電話番号
5)参加ご希望のセミナー名

誰が得をしているのか

一連のいわゆる「イスラム国」をめぐる動きをずっと眺めていた。日本人人質やヨルダン人人質を殺害したとされるビデオが流れ、政府発表やメディアを通じて殺害されたと報じられている。

その一方で、これまでの何年もの間に、イラクで、シリアで、その他の中東の場所で、無数の人々が誰が得をしているのか様々な形で殺害されてきたことを思った。

亡くなった方々すべてに哀悼の意を表したい。

報復が報復を呼ぶ。平和だった暮らしを奪い、近しい者たちを無残な姿に変えさせた敵に対する復讐に燃える人々。それが生きる意味となってしまった人々。日々の平穏な暮らしに浸っている我々が「平和が第一」と言っても、聞く耳を持つ余裕などないだろう。

「有志連合」という名前がいつから使われたのか。誰が言い始めたのか。日本はそれに入っているのかいないのか。入っているとすればいつからなのか。入ったことを国民に伝えたのか。単なる勉強不足なのかもしれないが、筆者自身は明確に覚えていない。

一連の動きを見ながら、疑問に思ったことがいろいろある。

第1に、今の動きは、少し前までの「欧米対イスラム」という単純構造で動いていないことである。イスラム世界のなかで互いに戦い合っている。大きく捉えるならば、おそらく、アメリカ、ロシアなどによる国際社会全体のパワーゲームも絡んだ、イスラムのスンニ派とシーア派との戦いに近似する。すなわち、この戦いが続く限り、スンニ派とシーア派をまとめた「イスラム」として、欧米に対抗するという構図は立てにくい。イスラムは、「欧米憎し」で一つにまとまれない。

第2に、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の影響が中東地域に広がる脅威がいわれているにもかかわらず、なぜイスラエルが具体的な行動に出ないのか。かつて、フランスの援助でイラクに原発が建設される際に、イスラエルは国境を超えてそれを破壊したではないか。イスラエルは「有志連合」に加わっていない。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に対しては、一体と言われることも多いアメリカとは別行動を採っている。

第3に、日本の安倍首相はなぜイスラエルを訪問した際に、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦い」を宣言したのか。通常考えれば、イスラエルはイスラムの敵とみなされる。イスラム教徒の多いアラブ諸国との関係も良好な日本にとって、決して「テロとの戦い」を宣言するのにプラスの場ではない。しかも、日本の「テロとの戦い」がいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織を念頭に置いていたことは明らかだとしても、果たしてイスラエルもそうだったのか。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。そこで、見方を変える。今回のいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行によって、いったい誰が得しているのだろうか。

第1に、戦争が続くことで儲かる武器商人や軍需産業である。安倍首相のイスラエル訪問に同行した26社の多くが、直接・間接にこの分野に関わっている可能性がある。彼らはイスラエル側とのビジネス面での協力関係を探っている。だから、安倍首相は日本・イスラエル両国の国旗を前に声明を出さなければならなかったのだろう。幸か不幸か、イスラエルはいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織との戦いには大っぴらに加わっていない。パレスチナ問題とは別次元とみなされているなかで、声明を出しても大した影響はないと判断されたのかもしれない。

第2に、イスラムが一つにまとまって文明の衝突が起こるのではないかと恐れている欧米(日本も?)とイスラエルである。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行も加わって、スンニ派とシーア派との激しい対立はエンドレスになりつつある。中東地域が激しい戦闘に明け暮れ、共通の敵だったはずのイスラエルに対して圧力を掛けることができない状態となれば、それとは一見関係のないイスラエルが自国の安全保障を確保し、中東地域で影響力を維持できる。

とはいえ、欧米や日本では、普通のイスラムもいわゆる「イスラム国」も同じものと見てしまう単細胞な人々が多く、かつ、日常生活の中での彼らの存在がとくに(失業が深刻化する)EUでは社会問題を引き起こしかねない状態であるため、イスラム教徒に対する冷たい視線が変わるのは難しい。イスラム教徒の人々も、そこから逃れてイスラムとして一つになり、欧米に対抗することは難しく、それが本当にイスラムかどうかは疑わしくとも、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に惹かれてしまうという状態が出る。

いったい誰が得をしているのか、ということで思い出すのが、2002年に起きたバリ島爆弾事件である。ジュマア・イスラミヤに関係するイスラム過激派の青年たちが実行し、死刑となったが、彼らにとって、ジハードという一種の自己満足以外に何が得になったのだろうか。洗脳された人間はそうなるのだといわれても、その疑問が今も解けない。

あのときのインドネシア政治を振り返ると、2004年に予定される初めての大統領直接選挙を前にして、世俗的・民族主義的な政治勢力とイスラム主義・イスラム国家建設を待望する政治勢力がしのぎを削っていた。当時、民主化を進めるインドネシアで、イスラム主義の政治家が大統領となることを危険視する見方が欧米や日本に見られた。

あの事件が起こって、イスラム政党がイスラムの色合いを弱め、世俗的・民族主義的な色をむしろ打ち出していった。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、アメリカで軍事教育を受けた経験があり、「アメリカは自分の第二の故郷」というほどの親米だった。インドネシアがイスラム国家となる可能性は遠のいた。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。でも、人質の殺害、報復・復讐といった、ミクロの感傷的な部分がクローズアップされる今だからこそ、大局的な流れのなかで、何が起こっているのか、それが起こっていることの意味は何か、ということを自分なりに見よう・考えようとすることが大事ではないかと思う。

誰が敵で誰が味方か、白黒つけることへ殊更にエネルギーを費やすことは有益だろうか。特定個人に対する中傷や誹謗ではなく、建設的な意見や批判をなぜ自粛すべきなのか。

我々は忘れてはならない。求めるべきは平和である。戦火で明日生きられるかどうかもわからない人々を含めた、みんなの平和である。

だから、蛮行を繰り返すいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織も、戦争が起こり続けて欲しいと願う勢力も、みんなの平和を願わないどんな勢力をも批判しなければならない。

もちろん、日本がそんな戦争に加わろうとするならば、それに対しても、である。じゃあどうすればいいのか、対案はないのか、という批判もあるだろう。対案などすぐには出ない。嫌なものは嫌だ。そう言うことの何が間違っているのだろうか。

戦争をしても誰も得をしない世の中を作れないものだろうか、と夢想してはいけないのか。「あれはしかたがなかったんだ」としたり顔で子どもや孫に言って済ませることだけはしたくない。

 

ワークショップ進行役(2015.1.28)&バンコク(2015.1.29-1.31)

今週は私の誕生日から始まりましたが、怒涛のような一週間でした。ふーっ。

1月27日に某日系企業でインドネシア人職員を相手に、インドネシア語で午前午後2回の講演&ワークショップを行なったことは、一つ前の活動報告で書きました。

翌28日は、経済産業省主催の「インドネシア日本、新たなパートナーシップ」(知日派セミナー)と題するワークショップで、午後の経済分科会のパネルディスカッションにおいて、日本語とインドネシア語で進行役を務めました。

パネルディスカッションなので、台本はなく、パネリストがどんなことを話すかも予め分からず、出たとこ勝負。果たして、3時間の間にうまくまとまるのかどうか、ハラハラのし通しでした。

それでも、中身のある議論をしたいと思ったので、パネリストの話した内容を咀嚼しながら、議論を深めようと努めた結果、「インドネシアの製造業競争力強化のために、インドネシアと日本が協力して人材をどのように育てるのか」という一点に絞った議論とならざるを得ず、他の想定トピックは割愛せざるを得ませんでした。いったい、会場の200名以上の出席者の方々には、どのように受け止められたのでしょうか。

これだけでもうヘロヘロで、終わった途端にどっと疲労感が溢れかけていたのですが、すぐに気を取り直し、休みもとれないまま、ワークショップのレセプションでも進行役を続けました。パネルディスカッションと比べれば、こちらはずいぶんと気が楽。

2人の友人に登壇してもらい、TEDx風にプレゼンをしてもらいました。2人ともインドネシア人と日本人のハーフで、両者の架け橋になるという思いをプレゼンに込めてもらいました。これからの新しいインドネシアと日本との関係の拡大・深化のなかで、彼らのような両者を体現する方々にどんどん活躍していただきたいと願いました。そして、進行役の私は「彼らこそがインドネシア=日本の未来そのものです」と叫んでしまいました。

28日のワークショップとレセプションが終わったら、もうダメでした。27日から連日の疲労がどっと押し寄せ、ベッドの上に横たわったら、翌朝まで眠り続けてしまいました。

29日はジャカルタからバンコクへ移動。同乗したジャカルタの英国国際学校の生徒たちが機内で大騒ぎしていたため、ゆっくりと休むこともできないまま、バンコクに到着。

夜は、束の間の楽しみでした。以前の職場の後輩や知人たちと久々に再会し、沖縄料理屋で飲んで語り合いました。私も含めて、以前の職場を離れてから様々なことがありました。でも、こうやって集まると、あたかも昨日も会ったかのような気分になれるのは、本当に嬉しいことです。ただし、疲労困憊の身に泡盛はちょっと辛かったです。

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30日は、バンコクで朝から夕方まで会議。アジア各国で活動するジェトロの中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーターが一同に会した会議でした。会議の内容はともかく、素晴らしい方々に出会えて、とてもよい刺激になりました。

さて、今日(31日)は、バンコクからジャカルタへ向かいます。今晩はジャカルタで1泊し、明日、来客アポを1本こなしてから、夜便でスラバヤへ戻ります。その後は、少しゆっくりしたいです。本当に。

 

日系企業での連続講演(2015.1.27)

1月27日は、ジャカルタから車で2時間のチレゴンへ行き、某日系企業に依頼された講演を午前・午後2回にわたって行なってきました。

内容は、どのようにして社内のコミュニケーションを改善して働きやすい職場を創っていくか、というテーマで、午前中は管理職・マネージャー、午後は一般職員を相手に、ほぼ同じ内容でインドネシア語での講義を行いました。

内容については差し控えますが、一方的な講義ではなく、参加者とやりとりをしながらの講義、というかワークショップに近いようなやり方で進め、参加者の気づきを促そうと努めました。

ただし、午前と午後ではテーマに対する反応が異なり、企業における責任の所在、帰属意識の大小の違いが現れたものと理解しました。

たとえば、事例討議で、「ある職員の子どもが産まれそうなのだが、その職員は、会社にとって必須の会議に必ず出席するように社長から命じられている。その職員は妻の出産に立ち会えないことに憤っている。このケースの場合、社長の命令は間違っているか」という問いを投げかけました。

管理職・マネージャーは「それはやむを得ない。その職員は妻に了解してもらって会議に出るべき」と答えましたが、一般職員は「その職員がかわいそうだ。社長は間違っている」と答えました。その後、色々議論を深めて、社長は最後まで代替案を探そうと努めること、妻には納得してもらうこと、出産に立ち会えずに必須の会議に出てほしいと言われたその職員は会社にとって不可欠な人材であることを認識すること、などが事前の解決策として出されました。

実は、この日は、3時間ぐらいしか寝ておらず、午前・午後、集中して参加者と議論を進めるのはかなりきついものがありました。実際、午後は、ちょっと気を許すとボーっとしてしまいそうな状態で、何とか最後まで緊張感を持ち続けられたのは本当にラッキーでした。

さて、今日(1月28日)は、午後に「日本=インドネシアの新パートナーシップ・シンポジウム」(知日派セミナー)で、日本語・インドネシア語でのバイリンガル進行役を務めます。昨晩は6時間ぐらいは眠れたので、何とか、最後まで持ちこたえられるといいのですが。

 

ジョグジャカルタの「ローカル」

ジャカルタ出張の後、いったんスラバヤへ戻ってから、1月16〜17日にジョグジャカルタへ出張しました。地場企業のインタビュー1件の予定でしたが、もしかしたら可能かも、と思っていたもう1件の地場企業インタビューも行うことができ、強行軍でしたが、充実した出張でした。

今回、ジョグジャカルタで泊まったのは、Lokal Hotel & Restaurant。知人が泊まったときの写真を見て、泊まってみようと思いました。

名前からわかるように、立地や質感や食事にローカルを意識している様子です。なかなか居心地のいい部屋でした。

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レストランも、長時間いても空きなさそうな居心地の良さです。食べ物ももちろん、地元の食材で作っていて、味も良かったです。

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次回もまた泊まってみようかな、と思える場所でした。

 

Lokal Hotel and Restaurant

– Jl. Jembatan Merah No. 104C, Yogyakarta 55283

– Phone: +62 (0) 274 524334

– URL: www.lokalindonesia.com

 

ジャカルタで地場中小企業調査結果ワークショップ(2015.1.14)

日本経済研究所(JERI)の2名のコンサルタントと一緒に、インドネシアの地場中小企業へのインタビュー調査結果をフィードバックするワークショップを1月14日、ジャカルタのホテル・グラン・メリアで開催しました。

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ワークショップには、工業省中小工業総局長のほか、協同組合・中小事業省からは次官が3名出席するなど、関心の高さがうかがえました。

我々のチームは、2014年10月下旬〜11月上旬に、自動車部品を製造する地場中小企業17社のインタビュー調査を行ないました。その結果を踏まえ、かつ、工業省中小工業総局および協同組合・中小事業省による政策と照らし合わせながら、いくつかのポイントに論点を絞って議論を行いました。

そのポイントとは、地場中小企業による大企業へのマーケティングと新技術導入・設備投資を支える政策金融の2点です。

大企業へのマーケティングのためには、地場中小企業による共同受注をいかに可能とするかが課題の一つですが、そのためには、そこに関わる地場中小企業各々の詳細なデータベースづくりが必要となる、と提案しました。しかし、議論を通じて、データベース作りを担う優秀なコンサルタントをどう確保するか(インドネシアの経営指導員・中小企業診断士では難しいのではないかとの声あり)、データベースを作った後のデータの更新・メンテナンスを継続して行える体制を作れるのか、といった課題も明らかになりました。

また、新技術導入・設備投資のための政策金融については、既存の工業省による機械更新補助金やKURなどが念頭に置く中小企業に比べて、自動車部品製造の中小企業の設備投資額がかなり大きくなることから、同一レベルでは考えられないのではないかという声がありました。政策金融を新たに特殊銀行のような機関を作って実施するというアイディアに対しては、過去の経験を踏まえ、消極的な意見が出されました。

ともかく、今後のインドネシアでの中小企業支援政策を考えていくうえで、いくつかのヒントを提示することはできたのではないかと思います。最終報告書は3月、委託元である日本の中小企業庁へ提出される予定です。

それにしても、日本語とインドネシア語を怪しげに使い分けながら、3時間以上の議事進行を、途中でだらけることのないよう、集中して行なったため、かなり疲れました。しかも、朝から飲まず喰わずだったので、午後3時半に、我慢できずにペペネロでミートソース・パスタを食べてしまったのでした。そして、その2時間半後には焼肉+石焼ビビンバを食べてしまったのでした。

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LEADプログラムの若者とディスカッション(2015.1.13)

1月13日、スラバヤ11月10日工科大学(ITS)にて、LEADプログラムに参加している若者9人とディスカッションを行う機会がありました。

LEADプログラムは、各国で将来指導者となる若者への教育訓練プログラムで、今回の9人はNGO活動家、大学教師、企業CSR担当者などでした。

与えられたテーマは「社会起業家と持続のための社会開発」。何を話したらいいのか、全くまとまらず、プレゼン資料を何も用意できないまま、ディスカッションに臨みました。

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社会起業家と単なる起業家との違いは何か、という問いから始め、利益獲得動機から始まる起業家と問題解決動機から始まる社会起業家との違いについて気づいてもらいました。

すると、一人の参加者から、自分が問題だと思っているものと村人が問題だと思っているものが違っていて、村人は何も分かっていないと思った、という経験談から、正しい問題を見つけ出すことが社会起業家にとって重要だという気づきが現れ、どうしたら問題を正しく認識できるかという話になりました。そこで、事実質問の重要性について少し話をしました。

準備不足のディスカッションで、参加者が果たして満足できたのかどうか、私としては何とも言えませんが、少なくとも、彼らにとって、よく聞く話ではなかったような印象を持ってくれた様子でした。

ともかく、やはり、インドネシアの若者たちとのディスカッションは楽しいです。

スラバヤで愛媛県商談会(2015.1.12)

スラバヤへ戻った翌日の1月12日、さっそく仕事開始!

というわけで、シェラトン・スラバヤで開催された愛媛県商談会へ出かけました。商談会自体への出席ではなく、愛媛県からきた中小企業の面談が3件あり、同じくJETROプラットフォーム・コーディネーターの宮本敬太氏とともに、スラバヤの状況等についてお話をしました。

夜は、愛媛県主催の懇親会に招かれ、愛媛県の中村時広県知事とも色々とお話する機会に恵まれました。県知事は以前、商社に勤めていた際、ジャカルタに度々来て仕事をしていたとのことで、1980年代半ばのインドネシアの話題で盛り上がりました。

商談会自体は、愛媛県からの企業さんにもそれなりに好評だったようです。スラバヤで商談会をやってよかった、と少しでも思ってくださったなら、個人的にはとても嬉しいです。

 

ジャカルタの恩人Sさんの死

昨日は、ちょっと落ち込んだ一日だった。私がインドネシアと深く関わるきっかけを作ってくださった恩人Sさんが亡くなったという知らせを聞いたからだ。

1980年代末、私は日本でインドネシア人留学生からインドネシア語を学んでいた。当時の職場から2年間、インドネシアに滞在し、インドネシア語を学びながら現地経験を積むとともに、インドネシア社会についての理解を深め、インドネシア地域研究者としての基礎を築く機会が与えられた。

当時はまだ20代。普通の駐在員のような大きな一軒家に住んで、運転手付き自家用車を使う生活ではなく、20代でしかできない滞在をしようと思った。日本人や外国人がほとんど住んでいないところに住み、インドネシア人のフツーのお宅に下宿し、交通手段は公共交通機関のみ、体全体で自分なりに「インドネシア」を身につけようと思った。

たまたま、インドネシア語の先生である留学生のE君は、外国人がほとんど居ない東ジャカルタに住んでいたので、彼の家に下宿させてもらえないかどうか、尋ねた。

E君は父親を早くに亡くし、母親のもとで育てられてきた。E君は母親であるSさんに相談したが、小さい家だったので、下宿を受け入れることは難しかった。そこで、ジャワ人の敬虔なカトリック教徒であるSさんは、地区のカトリック教徒のリーダーであるBS氏に相談した。そしてBS氏の家に下宿させてもらえることになった。余談だが、後で聞くと、BS氏の奥さんは昔、戦時中に家族が日本軍からひどい目に会ったのを覚えており、日本人と聞いてどんな「鬼」が来るのかととても怖がっていたという。

BS氏の家に下宿させていただいた2年間は、今から振り返れば、私のインドネシアに対する見方を養ううえでとても重要な2年間だった。毎日がインドネシア語オンリーの生活であり、衣・食・住すべてにおいて下宿先の家族とともに過ごした。スハルト政権の絶頂期であったが、エリートやメディアから伝えられるインドネシアとは異なるインドネシアを様々な観点から学び、いつの間にか、外国人でありながら、そこの人々と同じように政府や警察を恐れるような感覚さえ身についてしまうほどだった。

そう、E君の母親であるSさんがいなければ、私のインドネシア現地経験は深まらなかった。Sさんには折に触れてお世話になった。いつも笑っていて、冗談ばかり言う、しかしどこか奥ゆかしさを持ったすてきな方だった。

それから何年かして、Sさんは日本の大学院で学ぶE君を訪ねて、日本を訪れた。ちょうど、結婚して間もないE君のところにできた孫の顔を見に来たのであった。日本を楽しまれるSさんの笑顔が思い出される。

インドネシアと付き合いが始まってはや30年になる。この間、数えきれないインドネシアの方々が自分の恩人となった。Sさんはその初期の頃の研究者やエリート以外の恩人の一人である。そのSさんが亡くなったという知らせを聞いて、深い悲しみとともに、感謝の気持ちでいっぱいである。

そして、これまでの自分のインドネシアとの付き合い方を振り返りながら、これからのインドネシアと自分との関係を考えている。Sさんを含むインドネシアの恩人たちに対して、自分はどこまで恩を返してきたのか、と。

結果的に、インドネシアが単なる研究対象で済まなくなった背景には、Sさんを始めとする恩人たちの存在があった。これまでも、そしてこれからも。Sさんのご冥福をお祈り申し上げたい。心からの感謝をお伝えしたい。

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