ラマダン最終日のザンジバル(3)

ザンジバルの世界遺産であるストーン・タウンの街歩きの後は、車で30分ほどの距離にある観光スパイス農園へ行った。

ザンジバルに富を築かせたのは、奴隷貿易、象牙取引と並んでスパイス貿易であった。なかでも、丁字は、もともとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から移植され、世界有数の品質の丁字を産するに至った。実際、インドネシアは、ザンジバルから丁字タバコ(クレテック)用の丁字を輸入していた(今も輸入しているかもしれないが)。

観光スパイス農園につくと、若い兄ちゃんが農園の中を案内してくれる。農園自体は観光用に様々な香辛料の木を植えているのみで、商業用としては大したことはない。案内役の彼は農園とは何の関係もなく、観光客を案内するために農園を使わせてもらう観光ガイドである。

農園内を歩きながら、香辛料の木の実を詰んで、匂いをかがせたり、かじらせたりする。予想通り、彼が案内する香辛料はすべてインドネシアではおなじみのものばかり。いつもと勝手が違って、驚いたり感心したりしない客だったせいか、案内役の兄ちゃんはちょっとがっかりしている様子だった。

まだ若い実の丁字をかじってみた。これはただの印象だが、インドネシアのものよりも味が濃いような気がした。ほかにも、シナモン、ショウガ、レモングラスなどをかじったが、いずれも、ザンジバルのほうが味が濃いと思った。これは土壌の違いによるものなのか。
スパイスとは関係のない話だが、付いて来たもう一人の若者が椰子の木に登り始めた。見ると、両足を縄で縛っている。これでスルスルと椰子の木に登り、小ぶりのヤシの実をひとつ取って降りてきて、割って飲ませてくれた。これも味が濃かった。

椰子ジュースを飲んでいる間に、葉っぱで帽子とネクタイを作ってくれた。最後に、スパイス販売コーナーに連れて行かれて、スパイス農園ツアーは終了である。

日頃、本物の香辛料の木を見る機会のない人々にとっては、興味深いツアーになるかもしれないが、今回は私のような客に当ってしまい、彼らにはちょっとかわいそうだった。

ザンジバルからダルエスサラームへの戻りは、セスナ機の最終便。

乗客が多く、増便が出たが、なぜか増便のほうが早く飛んでいってしまい、元々の便を予約していた私を含む乗客はしばらく取り残された。

結局、1時間近く遅れてダルエスサラームに到着。我々が先に飛べたら、セスナ機から夕日が楽しめたのに、とちょっと残念なザンジバル日帰りツアーの締めくくりだった。

ラマダン最終日のザンジバル(2)

ザンジバルといえば、ストーン・タウンの街歩きである。ここの建物は石灰岩やサンゴ石を使い、セメントやコンクリートを一切使っていない。ストーン・タウンの由来である。

細い小路がくねくねと曲がり、ガイドのムゼーさんがいなかったら本当に迷ってしまうことだったろう。その細い小路にバルコニーがせり出していたり、店のしゃれた看板が目立ちすぎずに掲げられていたり、何とも言えない興味深い空間を作り出している。

世界遺産に指定され、町並み保存活動も活発に行われている様子だが、近年、古い家を売って、それを改修してホテルやレストランにするケースが多くなったそうである。たしかに、古い町並みにマッチしたいわゆるブティック・ホテルが迷路のあちこちに建っている。オシャレな小ホテルがいろいろあって楽しい。

海沿いのテンボ・ホテルへ行った。テンボとは象の意味。ザンジバルには象はいないが、かつて象牙取引の一大拠点だった。このホテルは昔、象牙取引会社で、下の写真の向かって左側がその建物である。その後、右側を増築して、ホテルとして生まれ変わった。

テンボ・ホテルの天井には、白壁にマングローブが渡されている。

建物以外に目立つのは、装飾を施された家の玄関ドアである。かなり古いものも改修してまだ使われている。先の尖った突起がたくさん付けられているのも特徴である。

「マーキュリーの家」というのもあった。何かの商館かと思って行ってみると、有名なロックグループ「クイーン」のリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの生家だった。彼はザンジバルの出身なのだ。

ストーン・タウンのなかには、日本ゆかりの場所もある。いわゆる「からゆきさん」はザンジバルまで来ていたが、彼女らが居たバーとされる建物が残っている。今は、いくつかの普通の商店が営まれている。

ストーン・タウンのなかでも、市場に近いところでは、レバラン前の最後の買い物をする人々がたくさん集まっていた。

布地を売っている商人がいた。ザンジバルにはキコイという地場のシンプルな布があるが、ここでのオリジナルは白地に線の入ったものだという。

ここで、ザンジバルのバティックを見つけた。デザインは単純で素朴であり、デザイン自体に深い意味はないそうだが、色合いがインドネシアのものとは異なっていて興味深い。

ストーン・タウンの街歩きの最後は、海岸沿いの建物へ。楽しみにしていた旧アラブ要塞(Old Arab Fort)と驚嘆の家(House of Wonder)は改修工事中で、中へ入ることができなかった。

これら二つの建物と海との間には、きれいに整備されたフォロダニ公園がある。

スルタン・ハウスは、スルタンの個人的なコレクションを集めたミニ博物館になっているが、ここの2階から海を眺めていると、風が心地よく、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。

ラマダン最終日のザンジバル(1)

7月27日午後、タンザニアのダルエスサラームに無事到着。翌28日は、朝7時に港から高速船に乗って、ザンジバルへ向かった。日帰りツアーである。

インドネシアは7月28日に断食明け大祭を祝ったが、タンザニアは予定よりも1日遅れの7月29日となった。断食明けのザンジバルからインドネシアのムスリムの友人たちに「おめでとう」のメッセージを送ろうと思っていたのだが、ちょっと残念。

行きの高速艇は、エージェントの配慮でVIP席となったが、中はインド系の若者たちの団体でほぼ「占拠」されていた。若干の波はあったが、大揺れすることもなく、1時間半ほどでザンジバル港に到着した。

到着すると「入境審査」がある。ザンジバルはかつて、タンザニアと統合するまで、わずかな期間だが独立国だった。タンザニアと統合後も、連邦制のなかで独自性を貫き、入境審査を継続しており、しっかり入境スタンプをパスポートに押された。たしか、マレーシアもサバやサラワクへ行くときにも、入境審査があったが、旧イギリス植民地で連邦制の国はみんなそうなのだろうか。

入境審査口では、中国人と思われる3人が順番を無視して窓口に詰め寄り、中国語でギャアギャアまくしたてている。入境係員は英語で説明するのだが、彼らは全然意味がわからない様子で、相変わらずまくしたてている。それを尻目に、別の係員にパスポートと入境申請書を提出。「仕事で来たんじゃないだろうな?」と何回かしつこく尋ねられた後、無事に入境。運転手兼任ガイドのムゼーさんと合流。

ムゼーさんの案内で、まずは市場から。風格のある建物の中の市場は、魚の競り市場があり、その向こう側に魚の小売の市場があり、と分かれていた。その後は、野菜・果物の市場。インドネシアでもお馴染みのものが多いが、いくつか見かけないものもあった。

市場をひと通り見た後は、奴隷市場跡とそこに建てられた聖堂を見に行く。ザンジバルはかつて、奴隷貿易で栄えたところでもある。アフリカ大陸から奴隷商人の手によって奴隷たちがザンジバルに集められ、収監されたのが奴隷市場である。地下の狭い空間に何十人もの奴隷たちが男部屋、女子供部屋に分けられて収監され、数日間拘置された後、生き残った者がオマーンなどのアラブ商人のもとへ売られていく。

こうした奴隷たちを解放したのがイギリスから来た宣教師で、彼は、奴隷市場の跡地に聖堂を建てた。奴隷たちは皆、自分たちを助けてくれたキリスト教の洗礼を受けた。

奴隷の子孫だと名乗るガイドがついて来てそんなふうに説明してくれる。まあ、実際はおそらくそんな単純なものではないにせよ、こんなけっこう扇動的な説明をしてしまうのだなと思った。

同時に、ムスリム人口9割のザンジバルでは、たとえ憂さ晴らしのような小競り合いはあったとしても、宗教を理由とした暴動や騒動は現実には起こりにくいのではないかと思った。しかし、それは、奴隷たちの子孫による憎しみが消えることを必ずしも意味しないだろう。

迷路のようなストーンタウンの街歩きはとても面白かった。インターネット接続の状況がよくないので、今回はここまでとし、後は次回へ。

赤い◯◯と緑の☓☓をお供に旅に出る

つい数日前まで、この国は大統領選挙の開票結果発表でけっこうな騒ぎだったはずだが、なにか遠い昔の話のような気がしてくる。

7月25日、金曜日はまだ平日なのに、周囲はすでにお休みモード。来週のレバランを前に、故郷へ帰省する人々で道路は大渋滞、鉄道は大混雑、という報道が続く。

スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。

そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。

いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。

旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。

お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。

赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。

ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。

ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。

緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。

緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。

この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。

というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。

東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。

東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。

では、行ってきま〜す!

【スラバヤ】福建麺 @ Hok Kien Mie Akiat

スラバヤでの筆者の大好物の一つが、自宅近くのJl. Mayjend Sungkonoにある Hok Kien Mie Akiat の福建麺である。

この場所に店を出したのは古くはないと思われるが、Akiat自体は創業が1932年の老舗である。

イカ、小エビ、魚団子、蒲鉾のようなものなどの海鮮系、チャーシュー、排骨などの豚肉系、その狭間に青菜と細いモヤシ、薄く切った味付けゆで卵が入れられ、それを太いややコシのあるタマゴ麺がどっと支える、ボリュームたっぷりの福建麺である。

汁麺、汁なし麺から選べ、麺はビーフンもある。筆者はいつもタマゴ麺の汁麺をオーダーする。

太い麺に具と汁が絶妙に絡まり、しかもやや濃い味つけの汁には海鮮系の淡白さがマッチして、もう本当にたまらなく美味しい。

日本のチャンポンとはたしかに近い関係にある、ということを実感しつつ、日本のチャンポンはスープ自体を強調するラーメンの影響を受けているのだなとも思う。福建麺の主役は、やはり麺なのだ。

インドネシアの福建麺でここと互角なのは、ジャカルタのJl. Hayam WurukにあるMie Hokien Medanだろうか。ここは昼間のみの営業で、具や麺もさることながら、スープがとても美味しい。夜は、これも、筆者が20年来の常連のクエティアウ屋に変身する。

大統領選挙の真の勝者はKawal Pemilu

今回の大統領選挙の勝者はジョコウィ=カラ組だが、真の勝者は、Kawal Pemilu(総選挙を守る、の意)という民間組織に集ったボランティアたちだったと思う。

今回の開票プロセスは、公開性が徹底された。なんと投票所レベルでの開票集計結果表がすべて総選挙委員会のウェブサイトに掲載されたのである。

集計結果表は、投票所レベル(C1)、郡レベル(DA1)、県・市レベル(DB1)、州レベル(DC1)とあり、すべてその結果を見ることができる。とくに、投票所レベル(C1)については、集計結果表がスキャンされて画像データで掲載されている。

投票所レベル(C1)
郡レベル(DA1)
県・市レベル(DB1)
州レベル(DC1)

そして、インドネシア全国あるいは世界中の名も無きボランティアたち約700人が、投票所レベル(C1)のデータをスキャン画像から読み取り、手分けしてそれを入力し、投票所レベルから村レベル、郡レベル、県・市レベル、州レベル、全国レベルに至るまで、ひと目で開票結果が整合的になっているかどうか分かるようにした。

これは総選挙委員会の公式開票プロセスではないが、万が一、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われたとしても、それがすぐに分かってしまう状態になったのである。

日本では、各投票所のデータがウェブで検討するなどということは行われない。なぜなら、開票プロセスでデータの捏造が行われない信頼が確立しているからである。

しかし、インドネシアでは、その信頼が確立されていないだけでなく、今回のような、ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンを通じたなりふり構わぬ汚い選挙で僅差の場合、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われ、捏造データが公式データとなってしまう可能性が極めて高かった。今から振り返っても、その危険を感じてぞっとする。

実際、ボランティアたちのKawal Pemiluのサーバーはハッカーたちの激しいサイバー攻撃にさらされた。その攻撃に伴うデータ改ざんの可能性をはねのけて、何とかゴールまで辿り着いたというわけである。

Kawal Pemiluの集計結果はウェブ上に掲載されているので、それと総選挙委員会の公式集計結果とを比べてみてほしい。どちらも投票所レベルのデータから始まっているので当然といえば当然なのだが、数字はほとんど同じといってよい。

Kawal Pemiluの集計結果
総選挙委員会の公式集計結果

プラボウォ=ハッタ組は、これらのデータが総選挙委員会による組織的な捏造だと批判している。しかし、こんな公開性の高い開票プロセスを採っている国は、インドネシア以外に世界中でどれほどあるだろうか。

結果的に、総選挙委員会の活動は公開性のある正当性のあるものである、と見なされた形になる。しかし、Kawal Pemiluのボランティアたちの作業があったからこそ、データのすり替えや捏造を防げたのではないだろうか。

誹謗・中傷の渦巻く汚い選挙運動が行われた今回、総選挙委員会とKawal Pemiluの仕事は賞賛に値する。加えて、選挙の準備段階から投票、投票箱の搬送に至るまで、公正な選挙を行うためという一心で一生懸命に活動した全国津々浦々の無数の人々の存在を忘れてはならない。

これら、懸命に民主主義を守ろうとする人々の活動があり、それを受け入れ認める土壌が培われたインドネシアを、我々はもっと信じてもいいのではないかと思っている。

大統領選挙結果発表が終わって

7月22日、総選挙委員会は大統領選挙開票結果を発表し、ジョコウィ=カラ組が勝利したことを確定した。

これに先立ち、対立候補ペアのプラボウォ=ハッタ組は、総選挙開票プロセスに様々な問題があるとして、大統領選挙自体の有効性に疑問を呈し、大統領選挙から引く(tarik diri)と発表した。その後、大統領選挙から辞退(mengundurkan diri)したわけではないとの弁明が出たり、「結果を問題にしているのではなくプロセスを問題にしているのだ」という発言が出たりして、プラボウォ=ハッタ組のなかで混乱が生じている。

この状況を、日本のマスコミも含めた多くの人々は、「プラボウォが負けを認めたくないのだ」「事実上の敗北を認めたのと同じことだ」と色々に捉えた。

大統領選挙の開票プロセスを問題にしたということは、プラボウォ=ハッタ組は総選挙委員会を批判・敵視したということである。実際、大統領選挙開票結果の発表に対して、プラボウォ=ハッタ組は証人を送らなかったし、陣営の誰も出席しなかった。

プラボウォ=ハッタ組は、不正があったと思しき投票所での投票のやり直しや開票のやり直しを求めている。これに対して、総選挙委員会は、不正があったという証拠をプラボウォ=ハッタ組に求めているが、これが証拠だというものがメディアには明確に現れてこない。それをもって、プラボウォ=ハッタ組には、憲法裁判所へ不服申立を行うよう求められている。当初は憲法裁判所へ不服申立しないという声も聞こえたものの、結局、プラボウォ=ハッタ組は不服申立を行なった。

これらの一連の不服行動で目につくのは、副大統領候補だったハッタの姿が見当たらないことである。プラボウォ=ハッタ組の名前で行動しているのだが、ハッタがいないのである。これにはいろいろな憶測が流れているし、ハッタ自身は、総選挙委員会での開票結果を尊重する旨の発言を行ったとされている。

プラボウォが「大統領選挙から引く」と演説した件についても、内部では誰がそれを進言したのかであたふたしている。ゴルカル党重鎮のアクバル・タンジュン元党首だという声が上がると、アクバルは「自分ではなく陣営内の法律チームだ」という始末。どうやら、「大統領選挙から引く」とプラボウォに演説させたこと自体が戦略的に間違っていたのではないかとの疑念が上がっている様子だ。

要するに、プラボウォ周辺は、総選挙委員会の開票プロセスや開票結果について反論し、自らが真の勝者であることを証明することにあまり自信がなさそうな気配がある。800万票の差を覆すには、どのような手法がありうるのか。現実的にそれは無理なのではないか。時間が経てば経つほど、プラボウォの周辺から機会主義的な政治家たちが去って行くことであろう。プラボウォを支えようという熱は急速に冷めつつある。

ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンも含めて、自分に有利なように事実を作り替えるという戦略、そうやって国民を洗脳できるという戦略は、ある意味、国民を愚弄し馬鹿にした戦略だったともいえる。この場に至っても、ジョコウィへの誹謗中傷攻撃は止んでいない。

シンガポールなど海外に多数のジョコウィ夫妻の隠し口座があるという怪文書が現れている。そんな話がまだ通じると思っている、それで世論を反ジョコウィへ転換できると思っている浅はかさこそが、今回のプラボウォ=ハッタ組とそれにすがった旧来エリートたちの態度を象徴している。

メディアは、嬉々としてジョコウィ「新大統領」を追いかけ回している。他方、どんな手段を使ってでも、どんなに資金をつぎ込んででも、大統領になろうと執念を燃やしたプラボウォは、「大統領選挙から引く」という発言によってかえって政治家としての未熟さを露呈させ、自滅の方向へ進んでしまった感がある。あの場で「敗北」という結果を受け入れ、自身が党首を務めるグリンドラ党を健全野党として育成するという姿勢を見せていれば、今頃、彼は素晴らしい人物だと賞賛されていたことであろう。

一部で懸念された暴動のような事態は、今回は起こらなかった。法規や手続きに従って物事を進めなければならないということが国民の間にしっかり浸透したことに加えて、騒ぎを起こしても国民の多くの支持を得ることはない、昔のようなすぐ暴動の起こるインドネシアへは戻りたくない、もう戻ることなどありえない、そんな空気が、経済発展の続くインドネシアで社会全体に共有されているのだと筆者は感じていた。

ジョコウィになったからといって、インドネシアのすべてがよりうまくいくとは限らない。旧来エリート層とのせめぎ合いは続くだろうし、経済が発展したからこその新たな困難な問題も多発するだろう。それを権力者が魔法使いのように解決してみせる時代が終わったことを国民は意識していくことだろう。

国民がデマや嘘情報で操作される時代は終わり、問題解決にあたって国民も傍観者として済ませるわけにはいかない時代に入ったのかもしれない。スハルト時代から言われてきた「浮遊する大衆」(floating mass)という、権力者の統治概念が変わり始めたともいえる。

スラバヤへ戻る

日本の各所での講演等を終えて、7月19日にスラバヤへ戻った。

今回は、新設のガルーダ・インドネシア航空の羽田夜0:30発のジャカルタ行きに乗り、ジャカルタでトランジットしてから、スラバヤへ戻った。この便は、全日空とのコードシェア便でもある。

羽田空港では、三連休をバリなどで過ごすと思しき家族連れやサーフボードを抱えた若者たちが並んでおり、インドネシア人らしき客は数人だけだった。何となく場違いな雰囲気を感じつつ、チェックイン。

すると、こちらから何もお願いしていないのに、ビジネス・クラスへアップグレードしてくれるという。ただし、席のみで、食事はエコノミー、という話。ガルーダ・マイルズのゴールドEC+会員だからなのかもしれない。

夜行便で、フラットシートになるビジネス・クラスへのアップグレードは、本当にラッキー以外の何物でもない。搭乗すると、2つに分かれたビジネス・クラスの客室には、私以外に乗客は一人しかいない。なのに、わざわざその乗客と隣どおしに座らされている。

ほどなく、スチュワーデスがやってきて、「空いているので、どこでもお好きな席へどうぞ」と言ってくる。そこで、いびきでもかいたら隣人に迷惑だろうと思い、他の席へ移動した。

夜食をお断りし、さっそく、フラットシートにして寝る。これはよい。エコノミーのディスカウントなのに、夜行便でフラットシートとは。夜行便にしてはかなりしっかり眠ることができた。

ジャカルタ到着の2時間前に朝食を用意すると言っていたが、持ってきてくれたのは1時間半前だった。乗客が少なく、寝ている私をギリギリまで起こさずに待ってくれたということか。トイレに行こうとすると、別のビジネス・クラスの席で、スチュワーデスがイスラム教の礼拝をしていた。

朝食は期待していなかった。当然、エコノミーと同じものが出るのだろうと思っていた。ところが、食事もビジネス・クラスのものだった。以前、ジャカルタの「父」を日本へ連れて行ったときに、ガルーダ・インドネシアのビジネス・クラスの食事に感嘆したのだが、それにまた出会えるとは。

朝食は、まず、ちょっと凝ったお粥。前回のタピオカ粥のほうが数段上。

次はオムレツ。添えられたポテトは今回のほうが美味しかった。

最後は、イチゴとクリームのデザート。甘い。レモングラスらしき葉っぱが真ん中に立っているのがおしゃれ、なのかな?

慌ただしく着陸準備に入り、午前6時に無事ジャカルタ到着。朝早いためか、到着時査証(Visa on Arrival)のカウンターも長期一時滞在許可証(KITAS)保持者向けのカウンターも閉まっていて、係員がいない。到着時査証が必要な乗客は戸惑っている様子。

KITAS保持者の私は、係員の指示に従って、そのままメインカウンターへ行き、難なく入国審査を終了。

羽田で預けたスーツケースは、税関申告がないのでそのままスラバヤまでスルーで行けるはずだが、ガルーダの職員が念のために確認してくれる。スーツケース無しで税関のグリーンランプを通り過ぎ、出口へ出ようとすると、左側に、トランジット用の入口が。そこを通って、外へいったん出ることなく、国内線出発カウンター・ロビーを通り抜け、エスカレーターで2階の出発階へ進む。

なかなかスムーズだった。対照的だったのが、日本へ行くときにトランジットしたバリのデンパサール空港。スラバヤから国内線で着き、国際線ターミナルへどう行けばいいのか、表示板が見当たらない。「私が案内しましょう」と何人もの若者が寄ってくる。空港は新しいが、当面は、デンパサールでのトランジットは避けたいと思った。

空港設備の悪名高きジャカルタのほうが乗換はスムーズだった。もっとも、人があまりいない朝だったということもあるのだろうが。

ラウンジで少し休み、1時間遅れのガルーダ便でスラバヤへ午前10時過ぎに到着した。

レバランにはまた、インドネシアから国外へ飛ぶ。久々の全く仕事なしの旅行。それまで1週間、スラバヤの予定だ。

大統領選挙投票日を過ぎて

7月9日のインドネシア大統領選挙投票日は、投票自体は大きな混乱もなく終わることができたが、予想通り、両陣営がともに勝利宣言をする事態となった。

これまで度重なる選挙でクイックカウントを行なってきた調査会社は、こぞってジョコウィ=カラ組の勝利と伝えたが、そのほとんどは、ジョコウィ=カラ組に与した立場を採ってきた。他方、プラボウォ=ハッタ組の勝利と伝えるクイックカウントを行なってきた調査会社は無名で、かつて南スマトラ州知事選挙の際にクイックカウントの数字を偽造した疑いのある会社や、陣営の選対関係者が関わっているとされる会社が含まれていた。

ここで危惧されるのは、これまでの選挙で培われてきたクイックカウントへの信頼が今回の大統領選挙で失われるのではないかということである。誹謗・中傷を含めた情報戦のなかで、クイックカウントまでもがその一端になってしまう可能性が明確に現れたからである。

その意味で、国営のインドネシア共和国ラジオ(RRI)が今回、クイックカウントを行なったことは注目される。RRIのクイックカウントは中立とみなされたからである。このRRIのクイックカウントの結果はジョコウィ=カラ組の勝利を伝え、これまで何度もクイックカウントを行なってきた有名調査会社のそれと変わらなかったことで、それら有名調査会社のプロフェッショナル度が逆に確認されることになった。

プラボウォ=ハッタ組が「クイックカウントはヤラセだ」と主張しても、RRIの存在により、辛うじて中立性が保たれた形になっている。

筆者の長いインドネシア・ウォッチ経験から言うと、これまで、「ヤラセだ」と相手を非難する側こそがヤラセを行なっているケースが極めて多かった。それは、自らが責められる前に相手を責めるための方便である。自らに有利なように情報操作をしているのだが、相手からそう指摘される前に、「相手が自分に有利なように情報操作している」と先制して非難をするのである。

今回も、どうやらそのような展開だったと推察できる。プラボウォ=ハッタ組の勝利を伝えたクイックカウントのデータの信ぴょう性が次々に暴かれている。彼らの勝利を最後まで伝えてきた民間テレビTV Oneは、信ぴょう性への疑問が高まったためか、株価が下落し、途中でプラボウォ=ハッタ組優勢のクイックカウントを流すのをやめてしまったらしい。

本当にそうなのか、圧力をかけるためにジョコウィ支持者が同株を売りまくったのか、真相はわからないが、実際、選挙運動期間中のTV Oneのプラボウォ=ハッタ組への偏向、ジョコウィへの攻撃ぶりには目に余るものがあった。ずっと見続けていると、容易に洗脳されてしまうような錯覚に陥った。もちろん、ジョコウィ=カラ組を支持する内容を流し続けたMetro TVも偏向していたが、相手への攻撃という観点からすると、TV Oneのほうが遥かにすごかった。

しかし、それを客観的に計測できない以上、メディアはTV OneとMetro TVを両成敗せざるを得なかったのである。

プラボウォ=ハッタ組は、クイックカウント攻勢での劣勢のなか、福祉正義党(PKS)の末端組織を使って情報を集め、「リアルカウント」の結果を発表し始めた。そして、そのリアルカウントでは、プラボウォ=ハッタ組の勝利を示し続けている。ところが、この数字が投票日よりも前に出された予測値に似通っているとの指摘も出ている。

ジョコウィ=カラ組も「リアルカウント」の結果を集計し始めた。当然、こちらではジョコウィ=カラ組の勝利という結果を出している。

情報操作合戦は、クイックカウントから「リアルカウント」へと移っている。

投票所レベルでの集計表は、総選挙委員会(KPU)のホームページにスキャンされたファイルで表示されていて、誰でも見られるようになっていた。ところが、そのなかに、両陣営の片方しか証人のサインのないものや、集計数字の合わないものなどが発見された。KPUは単なる技術ミスとしているが、不正の可能性がすでに指摘されている。理由は定かではないが、7月12日夜時点で、その投票所レベルでの集計表データがウェブ上で見られなくなった。

KPUは7月22日に最終得票結果を発表するが、7月10〜12日に村落レベル、13〜15日に郡レベル、16〜17日に県・市レベル、18〜20日に州レベルで集計作業が行われる。全国レベルの集計は20〜22日に行われる。

このそれぞれの過程で結果が出る前に、何らかの票操作が行われる可能性がある。なぜならば、今回の選挙で、少なからぬ行政の長がプラボウォ=ハッタ組への支持を明確にしており、その影響を確実に排除できるかどうかに疑問符が生じるからである。彼らもまた、ジョコウィが大統領になった場合に既得権益が維持できるかどうか、不安を抱く側にいる。他方、ジョコウィ=カラ組も何らかの票操作を行う可能性が絶対ないとは言い切れない。これらを監視するためにも、両陣営による「リアルカウント」の情報収集と票操作への監視が不可欠になるのだろう。

たとえば、マレーシアでは、投票所投票(9008票)でジョコウィ=カラ組が53.46%の得票で勝ったが、郵送投票では、プラボウォ=ハッタ組が3万9671票でジョコウィ=カラ組の3709票を圧倒した。その結果、合計では、プラボウォが4万3770票(得票率83%)で圧勝した。これをどう読むのか。投票所投票と郵送投票でこれほど極端に差がつくものなのか。

様々な状況で不利なはずのプラボウォ=ハッタ組の自信が気になる。すでに、「勝利」のための何らかのシナリオを用意しているのだろうか。ジョコウィ=カラ組も同様にシナリオを用意していることだろう。表面的な動きはあまり目立たないが、7月22日までに全国の隅々で起こる開票結果の正当性の確認作業が重要になる。

大統領選挙投票日前夜

7月5日から日本へ帰っている。私の知り合いのほとんどの日本人インドネシア政治研究者は今、ジャカルタに集結しているようだ。いつも自分は他人と違う行動を採るのが性分のようだ。

これまでずっと大統領選挙をめぐる動向を追いながら、情報というものについていろいろと考えていた。捏造・偽造情報を流したり、重箱の隅をつつくように小さなゴシップを大きな過ちとして大きく騒ぐようなことは、これまでの選挙ではあまり露骨に現れなかった。そして、それらを専門にやり続けながら、報酬をもらっている奴がいることを想像した。

インドネシア人は他人の間違いを詮索したり、揚げ足を取ったり、フォトショップを使って写真を偽造したり、根も葉もない噂をわざと流して他人を貶めたりすることに、こんなにも労力とエネルギーを使うことを厭わないのか、と悲しくなった。これだけの労力とエネルギーと「想像力」をもっとプラスに使えば、インドネシアはもっと活力のある良い国になっていくはずだと思い続け、インドネシアの友人たちへ向けてその気持ちをインドネシア語でツイートしてきた。

今回の大統領選挙はそういう選挙だった。情報合戦や心理戦争にどちらの陣営が屈するかの勝負だった。派手にやったのはプラボウォ陣営である。陣営が直接指揮した形をあえて採ってはいないが、ジャワ島のプサントレン(イスラム寄宿学校)へジョコウィを誹謗中傷したタブロイドをくまなく流すには、プサントレンの住所リストを持った宗教省、大量のそれを送付したバンドン中央郵便局などの、少なくとも間接的な協力がなければ不可能である。

プラボウォの個人レターが学校経由で教師へ送られた件も、教育文化省などによる学校の住所リストがなければ不可能である。

ジョコウィへの誹謗中傷は、目を覆いたくなるほどであった。実は華人だ、キリスト教徒だ、父親はシンガポールの金持ちだ、インドネシア共産党員の子供だ、といった話が次々に出され、死亡広告まで流された。温厚で感情を表に出さないジャワ人のジョコウィも相当に頭にきていた様子で、法的措置を関係機関へ求めたが、警察などの動きは予想以上に慎重だった。

他方、プラボウォへの批判は、彼の過去の人権侵害疑惑に集中した。とくに、1998年の活動家拉致事件やジャカルタ暴動への関与の疑いが題材となった。こちらは、本当の真実かどうかは別にして、軍のなかでプラボウォに対する措置が採られ、軍籍から離脱させられたという事実がある。プラボウォ側はその事実が嘘であって真実ではないと主張するが、彼がそのように軍から扱われたというのは、真実かどうかは別として、事実である。プラボウォ側はこれを誹謗・中傷とし、ジョコウィへの誹謗・中傷と同じレベルの話として、メディアなどで取り扱われるように仕向けた。

しかし、これは作り話と事実(真実かどうかは定かではない)との違いであって、誹謗・中傷の同列で扱えるものではない。だが、「中立」を装おうとするメディアは、それを並列で扱った。事実をねじ曲げて嘘話を捏造して流布させたプラボウォ側のほうがはるかに悪質と言わざるをえない。

5回のテレビ討論をすべて見た。内容的には中身の乏しい議論に終始したが、何か一つでも新しいことを言おうとするジョコウィ側と、テレビを通じて自分の強い指導者イメージを植え付けようとするプラボウォ側とがかなり対照的だった。そして、テレビ討論を見ている限りでは、プラボウォ側に考察の浅さと中身のなさが浮き彫りになり、果ては、ジョコウィ側の主張に同意を繰り返すことも度々だった。個々の議論は甲乙あるが、5回全体で見ると、ジョコウィ側の勝ちであった。

それでも、メディアはプラボウォの支持率が急速に上昇し、ジョコウィと僅差になったと報じる。筆者はそれが正直理解できなかった。プラボウォが選挙戦を通じて、なにか新しい画期的な主張をした記憶はない。「国富の漏れ」の話を繰り返すだけで、それを塞いでどのように効率的な政府を作るのか、政治マフィア間で山分けされないような仕組みをどう作るのか、彼は一言も話していなかった。それなのに、急速に支持率を上げているという。その理由は、ブラック・キャンペーンやネガティブ・キャンペーンを通じ、誹謗・中傷を広めることで、ジョコウィの支持率を落とす以外に理由は考えられなかった。加えて、一部ではかなり露骨にプラボウォ支持への強制や脅迫が行われているという話も伝わった。

もしこれでプラボウォが当選したら、プラボウォは嬉しいのだろうかと思った。相手を貶め、嘘八百の情報を流し、誹謗・中傷を繰り返した末に当選して、誇りを持てるのだろうか、と。プラボウォの周りには、「どんな手段を使ってでも勝てばいい」と公言する政治家も多数いる。彼らにとっては、自分の利益を守り、注ぎ込んだ資金の回収のためには、どうしても何が何でもプラボウォに勝ってもらわなければならないのである。そこには、モラルとか宗教上の教えなど、関係なくなっているのである。インドネシア人の友人は「この病気は相当に重い」と評した。

数日前から、一足早く海外で大統領選挙の投票が行われたが、その結果が伝わるなかで、風向きが大きく変わりだした。投票所の出口調査で、ほとんどの国でジョコウィが予想以上に票を取ったのである。その結果がメディアに乗り出すと、今度は、ほとんどの国でプラボウォが勝ったという出口調査結果が出回り始めた。ところが、面白いことに、プラボウォが勝ったという結果はいつの間にか消えてしまった。ジョコウィが勝ったという情報のほうがどうも正しかった様子である。

そうか、この手法でプラボウォの支持率上昇を演出しようとしたのかもしれない。若者たちが次々に面白い支持ビデオを連発するジョコウィ側に比べて、相変わらず、プラボウォのような強い指導者が必要、という以上の主張ができていない。ジョコウィ側のような自発的な勝手連の動きはほとんどなく、政党や組織が上から抑える旧来のやり方に終始している。ジョコウィの真似をしてプラボウォ側の選対も市場などへ出かけるが、相変わらずそこでカネを配るなど、住民目線ということがまるで分かっていない。

住民をコントロール可能と思ったか、住民が自発的に動くことを求めたか。プラボウォ側とジョコウィ側の違いを一言で言えば、そうなる。誹謗・中傷を信じてジョコウィに投票しないように仕向ける、ゆるければ政党や組織を使ってでも強制する、それがプラボウォ側のやり方だった。他方、ジョコウィ側は、政党や組織で動くところもあったが、それに加えて自発的な勝手連が勝手に支持活動を行うに任せた。

住民が受動から能動へ変わる、そんな動きが見え始めたジョコウィ側の選挙戦だった。そんな彼らの動きを、まだまだカネで動くインドネシアのメディアは残念ながら追い切れていない。

プラボウォが勝ってもジョコウィが勝っても、その先のインドネシアには課題が山積している。しかし、それをどう解決していくか、住民がどう関わっていくのか。そのアプローチに関しては両者に大きな違いがある。

大統領選挙投票日前夜。既得権益を守りたいエリートとそうではない非エリートの戦いは、メディアが伝えるよりも意外に大きな差がつきそうな予感がする。

さて、それが当たるのかどうか。

お詫びと今後の日程

ここのところ、体調がすぐれなかったのと、原稿やプレゼン資料作成に集中していたため、ブログの更新ができずにいた。先週も今週もジャカルタへ出張し、1日ほとんどフルで埋まってしまい、疲労困憊状態だった。

ブログを書けずにいたことをお詫び申し上げたい。

今日(7月3日)はジャカルタである。今、ジャカルタは朝7時で、8時半からアポがあるため、今後の予定のみを以下に期しておきたい。

7月3日 夜、ガルーダ最終便でジャカルタからスラバヤへ戻り
7月4日 スラバヤ→デンパサール→
7月5日 →東京
7月10日 日経BPインドネシアビジネス基礎講座で講義
7月17日 名古屋で講演
7月18日 日刊工業新聞インドネシアセミナーで講演
7月19日 東京→ジャカルタ→スラバヤ

日本には、7月5〜18日に帰国する。上記以外の日程もかなり埋まりつつあり、講演以外は自宅でゆっくり、というわけにはいかなくなってしまった。これも性分なのかと、ちょっと自分を責めたりもする。

7月9日は、インドネシア大統領選挙投票日。激しい一騎打ちの選挙戦という現状からすると、投票終了後に、2組の候補ペアのいずれをも当選とするクイックカウントが出る可能性がある。

情報心理戦争状態となっていることを踏まえて、それをどう判断するか。翌10日には、それをプレゼンしなければならない。帰国してゆっくり日本の味を、温泉を、景色を楽しめるのは、もう少し後の別の機会になってしまいそうである。

【スラバヤ】麺屋佐畑の醤油ラーメン

スラバヤで注目のラーメン店・麺屋佐畑にまた行ってみた。

前回は仙台辛味噌仕立ての味噌ラーメンを食べ、このブログでも以前、紹介した。

【スラバヤ】麺屋佐畑

今回は、味噌に勝るとも劣らないという評判の醤油ラーメン(Rp. 38,000)が目当てだった。平日のお昼どき、私一人しか客のいない店内で、お目当ての醤油ラーメンを食べた。

透き通ったスープ。適度にコシのある麺。最初はちょっと味が薄いかなと思ったが、あっさり味なのにコクがあるスープに引き込まれていく。

うまい。ほんとうにうまい。このレベルのラーメンがスラバヤで、いや、インドネシアで食べられるとは信じられない。

トンコツ系のラーメン店が多いなか、あっさりした飽きの来ない醤油ラーメンに出会えたのがとても嬉しい。もちろん、スープはすべて飲み干した。化学調味料を使っているもののような、後味を引きずることもない。売り文句にあるように、毎日食べても飽きないだろう。

麺屋佐畑は、6月27日(金)にメニューを改定し、あんかけ醤油ラーメン、塩ラーメン、カレーライス、特製チャーハンを新メニューとして追加するという。近いうちに、それら新メニューの紹介もできればと思う。

なお、6月から、平日の11〜15時は全品価格30%オフ、土日の11〜15時は全品20%オフで提供している。

麺屋佐畑はスラバヤ市東部のパクウォン・シティにあり、中心部から車で20〜30分かかるため、市西部に住んでいる筆者はなかなか頻繁に行くことが難しい。でも、この醤油ラーメンを食べるためなら、行ってしまうような気がする。

スラバヤに来られたら、是非、味わってもらいたい。オススメである。

【スラバヤ】Mie Hokkian Rejeki

以前から気になっていたスラバヤ・グベン新駅近くの福建麺の店Mie Hokkian Rejekiへ行ってきた。店内には色々なメニューがあるが、やはりここは福建麺を注文。

出てきた福建麺は、汁なし麺だった。感じは、マカッサルなどでお馴染みのMie Goreng Hokkuianまたはシンガポールのプローン・ミーに似ている。揚げ肉団子が2つに割られて上に置かれているのがこの店の特徴かもしれない。

味は、ほのかにエビの味がソースにあり、美味ではある。が、とくにものすごく美味しいというわけではない。普通、といったところか。

先代が中国・福建省から渡ってきたそうで、以来ずっと、その味を再現しているのだろう。

個人的には、福建麺ならやはり、自宅近くのAkiatのほうに軍配を上げてしまうな。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

【スラバヤ】Boba Milk Tea @ Tjap Tepi Laut

先日、スラバヤ市内のショッピングモールの一つ、グランドシティに行ったら、森永乳業が子供向けの派手なイベントをやっていた。

こういうのもやるんだなあと思いながら、少しモールの中を散策。地下に行ったら、一番端っこに新しいカフェができていた。その名はTjap Tepi Laut: Coffee & Homemade Kitchen。
何となくちょっと居心地のいいカフェ。モールで一休みするには、ちょっともったいないぐらいいい感じのセンスのある店だった。雰囲気はそう、台湾で行ったカフェのような感じ、といったよいだろうか。
そう感じたのは、黒いタピオカがゴロゴロ入ったBoba Milk Tea(Rp. 23,000)などを飲んだせいかもしれない。もちろん、これを満喫した。

【マカッサル】トアルコ・カフェがオープン

6月8日、マカッサルへ行った際に、たまたま、トアルコ・カフェのオープンに立ち会うことができた。

このカフェは、日本のキーコーヒーが出資し、コーヒー農園とコーヒー集荷・輸出を手がけるトアルコ・トラジャが経営する直営のカフェ。すなわち、あのトアルコ・トラジャのトラジャコーヒーが産地直送で飲める、のである。

店内は清潔で、意外に広い。落ち着いた色調の内装でまとめられており、殺風景で音楽が無神経に鳴り、若者たちのタバコの煙であふれる、雑然としたマカッサルの一般のカフェとは明らかに一線を画している。ここなら、ゆっくりと静かにくつろげそうだ。

さっそく、トラジャコーヒーを注文。出てきたコーヒーは、これまでにトアルコ・トラジャのコーヒー農園や東京のキーコーヒー本社でいただいたものと全く同じ味のコーヒーだった。とうとう、これがマカッサルで飲めるとは。

次に、ケーキが美味しいと聞いたので、リングシューとストロベリーショートケーキを両方食べてみる。この際だから、カロリーのことを一瞬忘れることにする。

リングシューは生クリームとカスタードクリームが入り、とくに生クリームのミルクの美味しさがしっかり出ていてビックリ。生地もサクサクしていて、とても美味しい。

イチゴシュークリームは、ケーキ生地がしっとりとしており、生クリームがやはり美味しい。日本に比べればイチゴは今ひとつだが、十分に合格点をあげられる。なお、イチゴは、地元の南スラウェシでも作られており、さらなる品種改良が進められればと思う。

この二つのケーキとも、インドネシアのスイーツにありがちな激甘さがない。日本人好みの甘すぎないケーキである。これら以外にも、なめらかプリンなどもある。

コーヒーやケーキ以外にも、オムライス、カレーライス、スパゲティーといった日本の洋食ものを中心とした食事メニューも充実している。そしてこれらも美味しいのだ。

開店までに、日本から職人を招いて、コーヒーやケーキ作りなどの指導を何か月もかけて行ってきたそうである。今はまだ、日本からの職人が駐在し、品質のチェックに余念がない。そう、今なら日本のものと同じ品質のものがこのトアルコ・カフェで味わえる、というわけである。

そう、こんなカフェを待っていた。現時点では、スラバヤにはこのレベルのスイーツやコーヒーが楽しめる静かなカフェはない。おそらく、ジャカルタでも極めて少ないのではないか。トアルコ・カフェがコーヒー輸出の地元であるマカッサルから始まった、ということが個人的にはとてつもなく嬉しい。

マカッサルで成功したら、次は、バリ島やスラバヤなどへの展開も是非考えて欲しいところだ。

トアルコ・カフェは、Jl. Latimojongのスズキのディーラーのすぐ前にある。マカッサルに行かれたら、ぜひ立ち寄って、本物のトラジャコーヒーと日本並みに美味しいケーキや洋食を存分に味わってほしい。

さあ、コーヒーの次は、スラウェシのカカオで世界最高のチョコレート、だ。

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが、制服を着た屈強な男たち6〜7人に取り囲まれ、説教をされ、連れられてトラックに載せられ、どこかへ連れて行かれた。

ただ、それだけのことである。

様子を見ていたら、屈強な男の一人が説明してくれた。「見たらわかるだろ。オラン・ギラ(orang gila)だよ。放置しておいたら何するか分からない。危ないだろ」と。見たところ、おじいさんは酔っている様子も、また誰かに暴力をふるうような様子もない。

屈強な男は続けていった。「都市の景観を悪くするし・・・」と。ええっ、景観を悪くするという理由で、ちょっと「えへへ~」という感じでただ笑って座っているだけのおじいさんを街角から排除するのか・・・。

スラバヤは都市の景観を大事にする街として知られ、大通りには木々や花々が植えられて緑あふれている。清掃係が1日に何回も大通りを掃除している。見た目にはゴミの落ちていない、きれいな町である。

その一端は、異質なものを排除することで成り立っていたのである。スラバヤで見てはいけないものを見てしまったのだろうか。

多様性の中の統一を謳うこの国で起きている様々な少数派排除の動きのことを思った。多様性を強調する世界と「普通」から外れたものを排除する世界は、実は紙一重なのだ。いや、もっと言えば、表裏一体なのかもしれない。

いや、社会ではなく、我々自身にその両面性があるとはいえないだろうか。多様性の尊重をいう場合でもその許容できる範囲があり、その範囲を外れた異質なものを排除するのだ。スラバヤやインドネシア、もしかしたら日本も、許容できる範囲の大きさの差こそあれ、同じなのではないかと思った。

赤い帽子のおじいさんは、きっと、社会施設に連れて行かれ、家族がいるかどうか尋ねられ、いない場合はしばらくそこで引き取ってもらえているのだろう。そう信じたい。

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。

奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。

バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。

これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。

ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

【スラバヤ】シンガポール海老そば

前々から気になっていた。自宅へ帰る途中、チプトラ・ワールドの手前に、夜だけ現れるシンガポール海老そば(Mie Udang Singapore)の屋台である。

中に入ると、シンガポール・ホーカー系のメニューがずらり。店を切り盛りしているのは華人系のおじさんだった。迷いなく、店名となっているシンガポール海老そばを注文する。その際、スープを別にするか一緒にするか聞かれたので、一緒にするよう頼んだ。

出てきた海老そばは一見、何の変哲もないフツーのそばである。

スープをすする。たしかに海老の味。濃厚である。揚げ玉ねぎにはちょっと絡めのタレが絡められている。もちろん、魚肉の中華風つみれがちゃんとのっている。

麺の中を探ると、海老と一緒に空芯菜と細いもやしが隠れていた。そうか、ジャカルタのミー・カンクン(空芯菜そば)はこれの仲間だったのか。

やや太目の麺が海老のダシが効いたスープとうまく絡み合う。

うまい。これは常連になってしまいそうだ。

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ

5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。

一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

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