急遽、福島でインフォーマル会合(2018.12.28)
2018年12月28日、急遽、福島での2つのインフォーマルな会合に出席しました。福島におけるアートとコミュニティとの関係について自由議論し、来年、何らかのイベントが実現できるかどうかについて意見交換しました。外は寒く、雪の降り続く一日。28日夜、東京へ戻りました。
2018年12月28日、急遽、福島での2つのインフォーマルな会合に出席しました。福島におけるアートとコミュニティとの関係について自由議論し、来年、何らかのイベントが実現できるかどうかについて意見交換しました。外は寒く、雪の降り続く一日。28日夜、東京へ戻りました。
世界中のどこのグループ・団体でもかまいません。ご存知の方は、ぜひご教示のほど、よろしくお願いいたします。
2016年12月7〜11日、インドネシア・スラバヤへ出張しました。
今回の出張は、公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES: Institute for Global Environmental Strategies)が実施する「アジア地域における地域資源ベースSCP(持続可能な生産と消費)イニシアティブの分析ならびに政策的支援の検討(事例研究)」の準備調査のお手伝いでした。
この調査は、アジアの都市部、都市近郊での持続可能な消費に関する取り組みを効果的に支援する政策パッケージを提案することを目的としているそうで、インドネシアにおける先進環境都市と自負するスラバヤ市において、持続可能なコミュニティ・イニシアティブを探るうえで参考となりそうなインプットを得たいということでした。
今回は、様々な市民活動のプラットフォームを目指して活動している若者グループであるAyorek / C2O図書館、エコロジカル・サニテーションを研究している私立スラバヤ大学環境研究センター、マングローブ保全活動とバティックなどへのマングローブ活用産品振興・コミュニティ開発の両立を進めるグループBatik SeRuの3カ所を案内しました。
この調査が今後、どのように展開していくかは分かりませんが、スラバヤの事例が単なる事例で終わらず、アジア各地での同様の事例と横に結び付き合いながら、新しい動きが生まれてくることを期待したいと思います。
今回で、本当に2016年のインドネシア出張は最後となります。
ずいぶんと長い間、ブログの更新を怠っておりました。もちろん、生きております。この間にも、ボチボチとですが、活動しておりました。
最近は、インドネシアに関する活動もさることながら、日本やアジアの地域づくりに関わる活動も増やしています。
9月からは、発展途上国のコミュニティ・ビジネスに関する研究会にもお邪魔するようになり、早速、9月14日に「一村一品運動の展開とコミュニティ・ビジネス」という題で発表させていただきました。発表では、「コミュニティ」と「ビジネス」、「ものづくり」と「地域づくり」という観点から、日本やインドネシアでの事例や私自身の経験を交えて、お話をしました。ご興味のある方は、その時に提出したA4で1枚のレジュメをご参照ください(リンクはこちらから)。
この研究会の縁で、アジア・コミュニティ・センター21(ACC21)からお話があり、10月11日、アジアNGOリーダー塾で「途上国の地域づくりとコミュニティ・ビジネス~国際協力NGOの関わり方~」と題して、ちょっとした講義をさせていただきました。塾生の皆さんは意欲的な方ばかりで、ミャンマーからSkypeで参加していただいた方もおりました。
このときの様子がウェブ上で公開されています。以下のリンクをご参照ください。
・開催報告
報告の中でも触れられていますが、日本でもインドネシアでも、おそらくその他世界中でも、コミュニティや地域の抱える根本問題は同じであろうという確信を持っています。それは、「我々は一体何者であるか。我々のいる場所はどのような意味を持つ場所なのか」というアイデンティティの危機ではないかと思うのです。
言い換えると、自分の居場所の問題。自分の居場所、安心できる場所、自分であることを確認できる場所がなくなるということではないか、と。その場所にずっと刻まれてきた自然と人間の営み、それによって育まれてきた様々な慣習や広い意味での文化、それらを含む関係性の総体としての人々の暮らし。
それが色々な意味で壊れていくのではないか、という危機感が、ところ変われば品変わり、程度の差こそあれ、世界中で起こっているのではないか。いや、それは歴史の中でずっと起こってきたことかもしれないが、その危機感がますます強くなっていく世の中なのではないか、と。
そんな中で、もう一度、自分の足元を見つめなおし、外にないものをねだるのではなく、自分にあるもの、自分にしかないものを見つけ出そうとする。そのうえで色々な環境や人々との交わりの中で、新たな何かを作り出していく。そんな自分事として動くプロセスが増えていくことで、世の中が徐々に少しずつ変化していくのではないか。そんなことを思うのです。
ちょっと話はずれるかもしれませんが、パリでのテロ事件を見ながら、アイデンティティ危機の深化を感じるとともに、自分と同じ仲間を増やすのではなく、自分と違うことを互いに認めたうえでそれを尊重しあえる仲間、を増やしていくことが求められていると感じました。そのためには、そうした人々やコミュニティをつなげていく役割が実はとても重要なのだということに改めて気づいたのです。
なんという運のめぐり合わせだろう。国際交流基金の仕事で、以前から気になっていて、一度会いたいと思っていたコミュニティ・デザイナーの山崎亮さんと約一週間、一緒に仕事する機会に恵まれた。
彼の日本での活躍ぶりは重々承知していたので、日本で会うのは難しそうだと半ば諦めていたのだが、まさかインドネシアで、しかもずっと一緒に仕事ができたのはとてもラッキーな出来事だった。
今回の私の仕事は、山崎さんと彼の補佐役で来訪された、同じstudio-Lに所属する西上ありささんの通訳兼コーディネーターである。いつもならば、自分でセミナーやワークショップを進めるのだが、ここはじっと役割をわきまえて、彼らの活動が最大限に発揮できるように努めた。
山崎さんは、コミュニティ・デザインに関連して行なった事例を100以上、いつでも発表できる状態にしており、今回のジャカルタ、メダン、スラバヤでの建築学科の学生らを対象としたセミナーとワークショップでも、それぞれ違う事例をふんだんに使いながら進めた。どの事例もなかなか面白く、通訳をしながら私自身も興味をそそられた。
彼らといろいろ話をするなかで、彼らが目指す未来と私がこうありたいと考える未来とがかなりオーバーラップすることが明確になってきた。すなわち、少子高齢化や成熟社会に向かう日本が、かつてのような重厚長大や成長を目指すことは無理だと気づき、エコで足るを知り、コンパクトな社会を目指す方向へ舵を切ったとするならば、インドネシアは日本のような回り道をせず、今からハードとソフトを兼ね備えた形で直接、エコでコンパクトな社会を目指すほうがよいのではないか、という考えである。
山崎さんは、そのソフト面で、建物を建てることを目指さないコミュニティ・デザインの役割が発揮されると語った。建築(アーキテクト)とは、様々な技術を一つにまとめあげていくことだとするならば、様々な人々や考えをつないで問題解決の動きへまとめ上げるコミュニティ・デザインも立派なアーキテクトである、とも述べた。
コミュニティ・デザインのもう一つの肝は、コミュニティの課題に様々な人々が関心を持ち続け、主体的に関わろうとするためには、美しさ、カッコよさ、美味しさ、といった感受性に訴える部分をデザインという形で取り入れることが重要だ、ということである。そう、楽しいから、面白いから、人々はそれを自分でやりたいと思うのである。建築家やデザイナーが地域づくりに関わる意味はそこにもある。
とにかく、山崎さんや西上さんとの今回の仕事は、個人的にとても面白かったし、今後の自分の活動を考えるうえで、様々なヒントを得ることができた。それはたくさんの事例であり、ワークショップのアイスブレイクの手法であり、ワークショップの進め方であり、ダイアグラムを重視した見える化の手法であり、また「よそ者」としてのメリットと限界を熟知した上でのコミュニティとの関わり方であった。
これから福島で、日本の地域で、インドネシアの地域で、私も様々な活動を行っていきたいと考えている。そんななかで、また山崎さんや西上さんとの接点が生まれ、場合によっては再び一緒に仕事をする機会などができれば、とても嬉しいことである。お二人にははた迷惑かもしれないが、久々に同志と思える方々と出会えた気がする。
このような素晴らしい機会を提供してくれた国際交流基金に改めて感謝したいと思う(油井さん、本当にありがとう!!)。そして、さらに、今回のコミュニティ・デザインに関するセミナーとワークショップをきっかけとして、日本とインドネシアとをつなぐ形で次の展開が開けていけるように、自分も努めていきたいと思う。
3月17日の日曜日、南ジャカルタ・マンパン地区の知り合いの家を家庭訪問した。一通りいろいろ話を聞いた後、ふと軒先を見ると、つり下げられたプラスチックのカップに米が少し入っていた。
「これは何か」と知り合いに聞くと、ジンピタン(jimpitan)だという。この町内会では、各家の軒先に米を入れるカップがつり下げられている。この米は集められてお金に換えられる。当初は、町内会の警備・夜警をする人向けに想定されたものである。すなわち、警備や夜警をしてくれる人は昼間は肉体労働で働いており、その労をねぎらう意味で、お米を分けたり、お米を売って換えたお金を使ってもらったりするように考えられていた。
しかし、傍目にはコミュニティの雰囲気で満ちあふれているこの町内会でも、そういった人々による警備や夜警が機能しなくなっていた。やむを得ず、町内会の男たちが当番で警備や夜警をすることになる。彼らは、警備や夜警をするときに、軒先につり下げられた米を回収して歩く。だから、軒先にまだ米が残っているということは、当番の住民が警備や夜警をしなかったことを意味する。
各家庭から出される米は1日にスプーンで2さじ、それでも町内会全体だと1日に2キロぐらいになる。すなわち、1ヵ月で約60キロの米が集められる。1キロ当たりの米の値段は約7000ルピアなので、約42万ルピアの資金ができる。これらの一部は町内会の貧しい家庭に配られ、残りは街灯を直したり、警備用の詰め所をきれいにしたり、緑化活動に使ったりしている。
さすが、伝統的コミュニティの知恵だな、と少し感心していると、どうもそうではないことが分かった。このジンピタンを考案したのは私の知り合いで、3ヵ月ぐらい前から始めたということである。ほかの町内会ではやっていないそうだ。そういえば、10ヵ月前にここを訪れたときには、ジンピタンはなかったような気がする。
各家庭で1日にスプーン2さじの米なら、さほど大きな負担ではないだろう。お金ではなく米を使って町内会の活動用のささやかな資金を生み出しているのである。