【ぐろーかる日記】インドネシアで自転車に乗っていた

新型コロナウィルス感染拡大のなかで、混雑する電車やバスを避けて、自転車で通学・通勤する人が増えている、というような話を聞きます。世界中で、ちょっとした自転車ブームが起こっているとか、いないとか。

日本で自転車というと、すぐに思いつくのはママチャリでしょうか。電動のママチャリもよく見かけるようになりました。近所へお買い物に出かけるときなど、気軽に乗れる乗り物としてのママチャリが、一般的な日本で想定される自転車だと思います。

私も、福島での移動ではママチャリを愛用しています。東京では、27インチのややスポーツ系の自転車に乗っています。

スポーツ系といえば、昔、子供の頃は、方向指示器やフォグランプの付いたスポーツ系の自転車がよく売られていて、ああいうの欲しいなあと思ったものでした。

実は、インドネシアでも、マカッサルにいるときには自転車に乗っていました。日本の感覚で、買ったのはママチャリを少し進化させたややスポーツ系の軽快車。ギヤチェンジが3段階ぐらいのものでした(下写真)。

しばらく軽快車に乗った後、友人から「交換してほしい」といわれて、後輪に泥除けの付いていない白いスポーツ系の自転車に変わりました。

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スラウェシとジャカルタへ出張(2019年8月4~7日)

弊社は、石川県庁訪問団に同行し、インドネシアの農業の現況を見るために、南スラウェシ州(ワジョ県、マカッサル市)及びジャカルタを訪問しました。石川県は、今後、ワジョ県を中心とする、農業開発に関する長期的な協力関係の構築を提案しました。

石川県はとくに、農業機械化、農民を対象とする研修、農業面の所得向上に貢献したいと考えています。

スラウェシ中部地震の被災者支援に船で向かう海洋学士会への支援呼びかけ

9月25日頃から群発していたスラウェシ中部の地震は、28日午後、マグニチュード7.4の大地震を引き起こし、沿岸部は最大6メートルの津波に襲われました。

9月29日現在、中スラウェシ州パル市だけで死者384名、行方不明者29名、負傷者540名と報じられていますが、通信手段が途絶したため、隣のドンガラ県や西スラウェシ州北マムジュ県の被害状況は不明のままです。30日までに死者420名という報道もあり、2004年12月のスマトラ沖大地震・津波の時のように、今後、被害状況はますます大きくなることが予想されます。

パル市のムティアラ空港もパントロアン港も施設が崩壊し、機能不全に陥っているほか、ドンガラ県やパル市へ向かう陸路も、東方のポソからも南方のマムジュからも、土砂崩れ等により、車が通行できない状況が続いており、救援物資や人員の派遣を大きく妨げています。

こうしたなかで、私の真に信頼できる友人たちが関わっている、海洋学を学んだ大卒者の団体であるインドネシア海洋学士会(ISKINDO)とマカッサルの地元NGOであるYayasan Makassar Skalia(YMS)より、マカッサルから救援物資とボランティアを乗せた船でドンガラ県・パル市へ向かう準備を始めた、との連絡がありました。彼らの計画の詳細は、以下のサイトで公表されています。

 https://maritimenews.id/09/KxLLjmbvx/

彼らは次の4つのチーム活動を予定しています。
(1)ドローンにより被害状況を地理的情報として把握し、他団体の救援・復興活動に提供できる情報を収集するチーム。
(2)医療チーム、及び食料、医薬品、飲料水、テント、毛布、生理用品、発電機など、緊急に必要とされる物資を届けるボランティアチーム。
(3)食べ物や食料品を提供する炊き出しチーム。
(4)今後の支援活動に資する的確なデータや情報を提供するチーム。

彼らは10月5日早朝、マカッサルを出発して現地へ向かう予定です。彼らの活動はあくまでも初期段階のものであり、今後、支援活動が長期化するなかで、次の段階に沿った新たな支援活動が行われていくことが予想されます。

インドネシアではすでに、国軍やインドネシア赤十字が迅速な救援業務を進めているほか、クラウドファンディングを通じて多額の寄付が集まっています。また、様々な社会団体が募金活動を進めており、私自身もどのように協力すべきか、色々と考えてきました。

また、被災地であるパル市やドンガラ県にも信頼できるNGOや団体があります。しかし、通信手段が遮断され、彼ら自身も被災者である現状を鑑み、まずは、信頼できる外部者が被災地を支援する活動に協力すべきではないかとの結論に至りました。すなわち、今後、被災地の信頼できるNGOや団体が動ける状態になれば、今度はそこを支援していきたいということです。

以上の趣旨にご賛同いただける方に、募金のお願いをしたいと思います。彼らの指定した振込先口座(インドネシア国内)は以下のとおりです。

 銀行名:BRI
口座番号:2136-01-000098-56-7
口座名義:Ikatan Sarjana Kelautan Indonesia

上記に直接振り込んでいただいて構いませんが、日本国内での振込をご希望の方は、私を信用していただけるのであれば、私の銀行口座へ振り込んでいただければ幸いです。なお、「振り込みました」との連絡を matsui@matsui-glocal.com 宛にご一報いただければ幸いです。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
口座番号:2268635
口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。

 https://polca.jp/projects/tEPiWIAha0p

以上、皆様のご理解をいただき、腰を据えた支援活動を始めていきたいと思います。ご協力のほど、よろしくお願い致します。

2009年8月26日、当時のパル市長と一緒に、断食明け前の賑やかな特設市場を訪問した時の写真を掲載します。当時の市長には本当によくしていただきました。パルでの恩人の一人でした。

今朝、彼、ルスディ氏が現市長とともに亡くなられたとの知らせがありました。故人の善意を改めて思いつつ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

南スラウェシで石川県関係者とともに米の直播状況を視察(2018年9月9~15日)

2018年9月9~15日、石川県の関係者とともに、南スラウェシ州での米の直播の現状を調べるため、南スラウェシ州(ワジョ県、ピンラン県、マカッサル)とジャカルタを訪問しました。

石川県と南スラウェシ州は、ともに農業労働力の不足という深刻な問題に直面しています。この問題を克服するための方策として、米の直播に注目しています。

石川県の関係者は、様々な水田を視察し、現場を見ながら米農家と意見交換を行い、色々と実りある情報を得ることができました。今後、次のステップとして、石川県と南スラウェシ州の間で農家どうしが交流し、直播を含む米作に関する知識や経験を深く交換できる機会があることを願っています。

マカッサル国際作家フェスティバル2018(5/2-5)

2018年5月2~5日、インドネシア・マカッサルで開催された第8回マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に出席しました。

今回は,、福島の詩人・和合亮一氏を招聘し、わずか3日間の滞在中、3回も自作の詩を朗読しました。彼の朗読は、MIWFの聴衆に強烈な印象を与え、同じ詩を愛する者として、社会的批判を詩に載せる多数の人々と交流する機会を得ました。

今回のこの機会を契機に、マカッサルと福島との間に何か新しいモノやコトが生まれてくることを願っています。マカッサルという場所とマカッサル国際作家フェスティバルに深く感謝申し上げます。来年もマカッサルで。

マカッサルの友人を福島に案内(2/17-23)

2018年2月17~23は、インドネシア・マカッサルから来日した盟友のLily Yuliantiさん(彼女は21日まで福島に滞在)を福島へお連れしました。

2月17日は、熊本と福島をつなげるイベント「未来の祀りカフェ」に出席し、翌18日は、川俣と飯野を訪れ、伝統的な地場産業を伝える博物館や吊るしびな祭りを見学しました。

2月19日は、福島市内の新たなまちづくりの動きを試みている有機食材レストラン「ヒトト」とブックカフェ「コトー」を訪問しました。そして、20日は、私のオフィスに寄っていただいた後、飯坂温泉の旧堀切邸を堪能した後、雪で覆われた摺上川ダムを見学しました。

Lilyさんは、一部ではありましたが、福島の現状について知ろうとし、そして短期間でも十分に理解してくれました。彼女は英語とインドネシア語で発信する、とてもアクティブな作家でもあります。

うまくいけば、今年5月2~5日に開催されるマカッサル国際作家フェスティバルで、福島に関する特別なセッションを設けることを計画しています。その際には、福島から詩人の和合亮一さんをマカッサルへお招きする予定です。

ブックカフェ「コトー」にて

2017年4月30日、福島

松井グローカル合同会社が福島で迎えた最初の来客は、4月30日、私の友人であるインドネシアの作家・ジャーナリストで、2011年からマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)を主宰するLily Yuliantiさん。彼女は、福島の詩人である和合亮一(Ryoichi Wago)氏と面会し、東日本大震災後の日本現代文学について意見交換しました。

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

1月13日、マカッサルでインドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

【スラバヤの風-27】不動産を中心に変貌するマカッサル

先日、久しぶりにマカッサルへ行った。マカッサルはスラウェシ島唯一の人口100万人を超える都市で、南スラウェシ州の州都である。筆者は、これまでに合計8年半マカッサルに居住した。筆者にとってマカッサルは「故郷」のような大事な場所である。

この街の変貌は、行くたびに凄まじく感じる。南スラウェシ州の経済成長率はここ数年、7〜8%と全国の数字を大きく上回り、しかも州都マカッサルがそれを牽引している。なかでも不動産が活況で、地価は過去15年にわたって一本調子で上がり続けており、市の中心部の地価はジャカルタの一等地と遜色ないレベルの高さにまで跳ね上がった。

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1990年代にリッポー・グループが市西南部の海を埋め立てて開発したニュータウン「タンジュンブンガ」は、1998年の通貨危機の頃には閑古鳥が鳴いていたのに、今や最も人気の住宅地となった。リッポーはまた、市東部の高級住宅地パナクカン地区に高級コンドミニアム「セント・モリッツ」を建設中である。そこにはかつて、筆者も家族とよく行った会員制スポーツクラブがあったが、通貨危機の影響で倒産し、10年以上も放置されていた。

リッポーの競争相手であるチプトラ・グループは、パナクカン地区のさらに東の水田地域を買収し、高級住宅地「チトラランド」を開発した。この「チトラランド」は募集がかかったその日に全戸が売り切れた。また、リッポーと同じく、チプトラもパナクカン地区に高級コンドミニアムを建設した。これらの買い手には、地元だけでなく、スラウェシ、マルク、パプアなど東インドネシア地域の実業家や地方官僚などがかなりいると聞いた。

ホテルの建設ラッシュも尋常ではない。市内の至る所に3〜5つ星のホテルが建設中である。マカッサル市がMICE都市を目指していることや、州内や東インドネシア地域からの政府関係者の会議や研修をホテルで行う傾向が近年急増していることもあり、コンベンション施設や参加者の宿泊収容能力が急速に高まっている。この傾向はマカッサルだけでなく、どの州都でも見られ、いくつもの中級ホテルの全国チェーンが広がっている。

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マカッサルでは、通貨危機後から1階を店舗、2階を住宅にするルコと呼ばれる物件が市内のあちこちに乱立し、「ルコの町」という異名さえあった。今や、それにホテルやカフェが加わり、無秩序さに拍車がかかっている。 経済が上り坂の状況ではやむを得ないのかもしれないが、マカッサルはずいぶんとガサツな町へ変わってしまった観がある。街としての景観への配慮という点ではスラバヤを見習って欲しいが、もう手遅れかもしれない。

 

(2014年6月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-07】東部地域との結節点

筆者が東ジャワ州やスラバヤに注目する理由の一つは、インドネシア東部地域(以下「東部地域」と称す)との結節点となっているためである。東部地域とは、カリマンタン島、スラウェシ島、マルク諸島、パプア、バリ島以東のヌサトゥンガラ諸島の広い地域を指す。

ジャワ島内で生産された生活物資・消費財は、州都スラバヤのタンジュン・ペラッ港から東部地域の各地へ運ばれる。一方、東部地域からは、木材、鉱物、商品作物、水産物などがスラバヤに集まり、一部は加工され、一部は海外へ輸出される。

遠い昔からスラバヤは物流交易都市であった。ジャワ島で生産された生活物資・消費財は、東部地域にある中心港(スラウェシ島ならマカッサルやマナド、マルク諸島ならアンボンやテルナテ、パプアならジャヤプラやソロンなど)へ大型船で運ばれ、そこから小・中型船ないし陸送へ小分けされて中小都市へ運ばれる。最終的には、客と一緒に乗合自動車に積まれたり、バイクや馬、果ては人力で運ばれたりしながら、生活物資・消費財が東部地域の末端の村々まで到達する。

一方、東部地域の豊富な天然資源を求めて、地域の隅々までスラバヤなどから商人が入り込んでいる。現場で買い付け、用意した船で一次産品などをスラバヤまで運ぶ。あるいは、スラバヤからの商人が現場で注文し、現場の元締めや商人が物品を用意して、船でスラバヤへ送る。カカオやコーヒーなどの商品作物も、マグロやロブスターなどの水産物も、木材や鉱産物も、東部地域の各地からダイレクトにスラバヤへ運ばれてくるケースが多い。そして、その船で生活物資・消費財を積んでスラバヤから東部地域へ戻るのである。

こうした東ジャワ州やスラバヤと東部地域との相互経済関係を意識して、東ジャワ州政府と州商工会議所は、東部地域の各州政府と協力協定を結び始めた。そして、東部地域各州に東ジャワ州の連絡事務所を開設し、両者の相互経済関係を一層緊密化させ、東ジャワ州が東部地域の発展に積極的に貢献しようとする姿勢を示している。そこでは、東ジャワ州の実業家が東部地域でのさらなるビジネス機会を求めていることはいうまでもない。

南スラウェシ州の州都マカッサルも、東部地域での経済センターを目指すが、物流の搬入量が搬出量よりずっと大きく、港湾施設も非効率なため、スラバヤを使うほうが低コストとなる。東部地域との結節点としての役割は、スラバヤのほうがまだ大きいのである。

 

(2013年7月26日執筆)

 

 

図書館舟、東インドネシア海域へ

今回の2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)では、図書館舟(Perahu Pustaka)を披露することも注目点の一つだった。図書館舟には約5000冊の本を積んで、マカッサル海峡をはじめとする東インドネシア海域の離島をまわる、という構想である。

この構想自体は、4月頃に、友人たちがツイッター上で話し合ううちに思いついて、あっという間に実行に移されたものである。その基には、東ジャワ州で馬に本を積んで山奥の村々をまわる活動や、タイで船に本を積んで離島をまわる活動があった。

図書館舟には、パッティンガロアン(Pattingalloang)号という名前が付けられた。パッティンガロアンとは、17世紀に活躍したゴア王国(ゴア・テッロ)の首相で、いくつもの外国語を解し、様々な学問と知識を広めた人物とされている。今回のMIWF2015のテーマ「知識と普遍」(Knowledge and Universe)は、あまり知られていないパッティンガロアンの再評価も意図していた。

MIWF2015が終了した翌日の6月7日、図書館舟の管理者である友人のイワン氏に誘われ、図書館舟に乗ってみた。舟はスラウェシ島南西部のマンダール地方の伝統舟で、けっこう小さい。

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10人も乗れば窮屈な感じがする。その船倉に本棚を作って本を並べ、子供たちが中で本が読めるスペースを作る予定である。

イワン氏はジャーナリストで、西スラウェシ州の地方新聞社に籍を置いているが、この図書館舟を管理するにあたって、何日も洋上で離島をめぐるため、兼任は難しいと判断し、地方新聞社を退職した。収入もないなか、しばらくは図書館舟の管理・運営に全力を尽くすという。

私たちの乗った図書館舟は、マカッサルのロッテルダム要塞前からソンバオプ要塞近くまで、約1時間半航海した。マカッサルの新興住宅地タンジュン・ブンガと対岸のバロンボン地区を結ぶバロンボン橋の手前まで来て、舟は止まった。ソンバオプ要塞近くへ行くには、この橋をくぐらなければならない。しかし、このままでは通行できない。マストが高く、橋にかかってしまうのだ。ではどうするか。

断念するのかなと思っていたら、船員がやおらマストを切り始めた。そして、とうとうマストを切ってしまった。
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マストを切った図書館舟は、無事に橋の下を通過し、ソンバオプ要塞近くへと向かった。

マンダール地方の伝統舟は、甲板に穴を開けてマストの棒を船倉まで落とすため、高さの調整ができない。このため、今回のような場合には、マストを切るしか方法がないのである。そして、新しく木材を調達し、再びマストを作るのである。実際には、今回の件に懲りて、図書館舟のマストは、高さの調整ができるように改修するとのことであった。

ともかく、図書館舟は、間もなく、離島を回り始める。しかし、まだまだ本の数が足りない。対象が離島の子供たちであることから、マンガや絵本が好まれるということである。

パッティンガロアンの精神を受け継いで知識に触れる機会を離島の子供たちに提供する、という高邁な理想とはちょっと離れるかもしれないが、本に触れる経験の乏しい離島の子供たちに何らかの刺激を与えることにはなるだろう。それに挑戦しようというイワン氏の覚悟は尊敬に値する。

図書館舟の航海の様子は、特設ウェブサイトでお知らせするということで、楽しみである。

 

2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)に出席して

6月3〜6日、マカッサルで開催されたマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)2015に出席した。MIWFは今回で5年目となり、マカッサルでの毎年6月の恒例行事となった。昨年に引き続き、今回も、MIWFの1セッションのスポンサーとなった。

筆者がスポンサーを務めたのは、「東インドネシアからの声」というセッション。東インドネシアの幾つかの州で注目される若手作家を招聘し、彼らがどんな活動をしているか、なぜ執筆活動を始めたのか、今後どのような活動をしていきたいか、などを語り合うセッションである。

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その若手作家の一人であるファイサル・オダン氏は、『コンパス』紙主催2014年短編小説コンクールで最優秀賞に輝いた。このセッションのコメンテーターは、「昨今、西インドネシアよりも東インドネシアでの若手作家の活動がずっと盛んで、注目すべき作品が続々現れている」と評した。

ファイサル氏は、2年前のこのセッションにも出席したが、当時は、まだ執筆活動を始めたばっかりで不安だったが、MIWFに出席したことで自信がつき、執筆活動を進めていく意欲が高まったという。あのとき、彼は、ほかの参加者仲間と一緒に、私がまだマカッサルに残していた借家に数日間泊まっていたことを思い出した。

ささやかではあるが、このようなセッションを通じて、東インドネシアの若手作家の執筆活動を間接的にでも応援できたのが個人的に嬉しい。

今年のMIWFはマカッサル市政府から後援が受けられず、カラ・グループやボソワ・グループのほか、国際交流基金や筆者を含む複数のスポンサーからの支援のみで実施された。それでも、オーストラリアや日本を含む外国からも作家たちが参集し、様々なワークショップや出版発表会などが繰り広げられた。

実行委員会を含め、200人以上のボランティアが一緒になってMIWFを運営し、4日間のイベントを無事に終了できたことは、このイベントが、金銭の話ではなく、マカッサルの精神と外の世界を手作り感覚で結びつけていく稀有なイベントとして定着しつつあることを示している。下の写真は、クロージング・セレモニーで壇上に上がった実行委員とボランティアたちである。

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ローカルとローカルと結ぶ。ローカルがグローバルになる。グローバルがローカルになる。筆者はMIWFをそんなイベントだと勝手に位置づけ、応援している。

きっと、来年もまた、6月にはマカッサルに来ることだろう。

 

帰国、5月末まで日本

4月7日に帰国して10日が過ぎた。慌ただしかった3月のインドネシアでの日々とは打って変わって、東京の家族とともに、ゆったりした時間を過ごしている。じと~っとした熱帯の湿気に慣れた肌は、さわやかな春の東京でやや乾燥肌になっている。

帰国した4月7日は真冬日だった。「冬」が再来する前に、ソメイヨシノは終わってしまっていたが、新宿御苑や小石川植物園でヤエザクラを見ながら、今年の花見を楽しんだ。

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今回は、5月末まで日本の予定である。自分なりに活動の区切りをつけるべく、頭を冷やそうと思っている。次のステップへ向けての準備期間でもある。

今後の活動の主拠点は、日本に置く。東京か福島か、どちらをそのメインとするかを思案中であるが、その両方を日本での活動拠点とすることは決めている。

東京の自宅はあまりにも居心地がよく、家族と和んでいると、ついついだら~っとしてしまいがちなので、自宅の近くのレンタルオフィスに仕事場を作ることにした。自宅から徒歩10分、24時間いつでも利用可能。本棚などを入れて、自宅に溜まった本の一部を移動させる。

インドネシアは、今後の活動の副拠点とする。帰国前に、スラバヤとジャカルタに居場所を確保し、引っ越しや家具等の調達も終わらせてきた。インドネシアでの活動拠点は、今のところ、スラバヤとジャカルタだが、マカッサルを追加することも検討している。

5月までに自分の個人会社を設立する予定だが、まだいくつか検討事項があり、ややゆっくりと進めている。すでに単発の仕事の話はいくつか来ているが、昨年度までのジェトロのような長期の契約の仕事はまだない。

今のところ、1年の半分を日本、半分をインドネシアで活動する計画であるが、さらにそれ以外の国での活動も加えたいと思っている。

ローカルとローカル、ローカルとグローバルを結んで、新しい何かが起きていくためのプロフェッショナルな触媒となる。

日本とインドネシアの計4つの拠点を行き来しながら、自分にしかできないような仕事をしていきたいと思っている。

 

【インドネシア政経ウォッチ】第43回 学生の石油燃料値上げ反対デモ(2013年 6月 20日)

補助金対象石油燃料の値上げを控え、全国各地で学生らによる反対デモが頻発している。とくに激しいのが南スラウェシ州の州都マカッサルで、州知事庁舎へ強引に突入しようとした学生らと警官隊が衝突したほか、連日、古タイヤを路上で燃やしたり、タンクローリーを襲ったりして、幹線道路を封鎖し、大渋滞を引き起こしている。

かつてマカッサルに長く住んだ筆者の記憶では、激しい学生デモがマカッサルで起こり始めたのは1996年頃である。発端は乗合バスの料金値上げ反対デモだったが、学生らが警察を挑発、それに乗った警察が発砲して学生が死亡、地元紙の1面にその遺体の写真が掲載された。これをきっかけに拡大したデモは軍や警察に対する反抗デモへと転化し、スハルト強権体制への批判につながっていった。振り返れば、あれがその後の体制転換への導火線だったとも思える。

その後も、事あるごとに学生デモが頻発し、マカッサルは「デモの町」というイメージが固定した。だが、学生に聞くと、理論武装のための学習会を行った形跡はない。何が目的か分からない者も多数いた。カネをもらったと白状する者さえいた。こうして、学生デモは一種の「伝統」となり、先輩らのそれを超えること自体が目的となる。渋滞を引き起こす自分らのパワーに酔っているのかもしれないが、住民には本当にいい迷惑である。

実際、デモで目立つ学生活動家は政治の世界へ入っていく。学生デモは政治家へのステップなのである。今回、全国各地でデモを主宰するのは、イスラム学生連合(HMI)やインドネシア・ムスリム学生行動連盟(KAMMI)など全国組織のイスラム系学生団体であり、多くの政治家の出身母体でもある。

マカッサルなど、デモの起こっている地方都市はまさに地方首長選挙の最中であり、学生の先輩である政治家がこの機会を利用する。同様に、石油燃料値上げ反対を標榜した福祉正義党(PKS)など政党の動きとも連動していることはまず間違いない。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130620idr020A

※これらの記事は、アジア経済ビジネス情報を発信するNNA(株式会社エヌ・エヌ・エー)の許可を得て掲載しております。

1泊2日でKL

3月14〜15日は、気分転換のため、マレーシアのクアラルンプールへ行き、友人と食べ歩きをした。

14日は、KLセントラルから近いバンサールを歩いた。お目当てのニョニャ料理カフェでラクサを食べたあと、ぶらぶら歩いたが、なかなか気持ちのいいところだった。

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バンサール・ショッピングセンターにある一風堂バー。博多ラーメンで名高い一風堂がラーメン店の隣に日本酒などを楽しめるバーを設けた。そこで、ワサビを使ったカクテルを味わってみようということだったが、結局、私はキュウリのモヒートを飲んだ。

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バンサール・ショッピングセンターまではちょっと距離があり、しかも坂なので、タクシーを拾おうと思ったのだが、「距離が近すぎる」ということで軒並み乗車拒否にあう。でもどうも、近くのバンサール・ビレッジとバンサール・ショッピングセンターを混同していた様子。結局、約30分かけて、徒歩で坂を登って、バンサール・ショッピングセンターにたどり着いた。ふーっ。

でも、歩いて、多少道に迷ったおかげで、バンサール・ビレッジ周辺がなかなか住むにはいいところだということが分かった。気持ちのいいカフェの一つで一休みしたが、でかいボリュームのブルーベリーチーズケーキが意外に美味しかった。

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一風堂バーで、友人となかなか気持ちのよいお酒を飲み、楽しく語り合った。

15日は、別の、昔の職場の友人と一緒に、セントラル・マーケットでニョニャ料理のランチ。ココナッツライスとおかずがベストマッチング。美味しくランチをとりながら、昔の職場の話や東南アジア研究のあり方なども含めて、話がはずんだ。

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外に出たらけっこう暑い。たまらなく、KLセントラルへ戻って、元首相のDr. Mが経営しているというカフェで、マイナス60度に凍らせたコーヒーに熱いミルクを注いで溶かして飲む、という飲み物とあんこの入ったクリームパンを食べた。おいしい!

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KLセントラルで友人とわかれ、空港へ鉄道で移動。

空港で、思い切ってiPad Mini 2を買ってしまった。32GBでRM1,569。4月から消費税6%が課せられるとのこと。インドネシアで購入するよりはずいぶん安く買うことができた。

インドネシアの税関申告書に「250ドル以上の購入品を申告せよ」とあったので、スラバヤに着いて真面目に申告したら、「真面目に申告してくれてありがとう」と暇そうな係員に言われた。

15日夜にスラバヤへ戻ったら、この土日のスラバヤは大雨だったとのこと。

16日は午前中に原稿を書き、夜10時過ぎにマカッサルに到着。日本からのお客さんと打ち合わせを午前1時までやり、その後、2時間ほど連載原稿を書いてから寝た。

今回のマカッサルはわずか2日間、しかもお客さんのお供なので、知人・友人ともあまり会えないのが残念。次回のマカッサルは、6月初めを予定しており、このときにじっくりと再会する予定。

 

バンコクで「マカッサル」を探す

11月13〜16日の日程でタイのバンコクへ来ている。

用務のほうは14日に早々に終わり、久々に8時間眠った後、15日は街歩きに出かけた。
最初は、博物館や美術館へ行こうと考えた。しかし、昔からバンコクへ行ったら行きたいと思っていたところを思い出した。バンコクにある「マカッサル」を見に行くことにしたのである。
バンコクの「マカッサル」(Makassar)とは、マッカサン(Makkasan)である。スワンナプーム空港からの鉄道シティラインの拠点駅の名前でもあるマッカサンは、マカッサルから由来した地名である。

その昔、17世紀後半、オランダとの戦いに敗れたスラウェシ島南部(現在の南スラウェシ州)のゴワ王国の人々は各地へ散り散りになって逃げたが、そのなかに、アユタヤ王国まで逃げてきた者たちがいた。彼らはアユタヤ国王に温かく迎え入れられた。そして、フランスが後にアユタヤ王国を攻めた際には、勇猛果敢にフランス軍と戦ったと言われている。その功績を称えて、彼らの居住地をマッカサンと名付けられたのだという。

この話はインドネシア側でいわれている話なので、タイでどのような話になっているのかは分からない。なお、マッカサンという名前は、オーストラリア北部のアボリジニーの伝承で、北から交易にやってきた人々の名前として知られてもいる。

さて、おそらく、マカッサルの面影を見つけることは難しいだろうと思いながらも、そのマッカサンを歩いてみた。20分に1本しか来ない空港鉄道のラチャプラロップ駅で降り、その周辺を歩いてみた。

まず、目に入ったのが、タイ国王らの写真が掲げられた「Welcome to the ASEAN Community」という表示板。インドネシアではこの種のものをまだ見たことがない。

大通りをしばらく歩くと、金物屋やガラス屋などが並ぶ。サイアム駅周辺やチットロム駅周辺などとは違う、私が昔来た頃に見たバンコクの雰囲気がよみがえる。

地図によるとマッカサン市場やマッカサン郵便局などがあるはずなのだが、見つからなかった。大通りから1本脇道に入ると、公園があった。公園の上を巨大な高速道路が通っていて、景観は台無しになっていた。

高速道路の高架の下は、静かな空間。人々の生活道路は確保されていて、高速道路で寸断されていない。

ラチャプラロップ駅へ戻って、マッカサン駅まで歩いてみることにした。タノン・ニッコム・マッカサンという名前の通りを歩いてみたのである。

ラチャプラロップ駅周辺の空港への高架鉄道の下には、タイ国鉄の線路が通っていて、その脇で生活する人々がいた。そこを列車が通って行った。

マッカサン駅までの道は、工事中の人々の小さな家々や工事現場の埃などの混じった単調な道だった。いくつかホテルはあるが、ショッピングセンターも歩道を歩く人々の姿も何もない。

炎天下に汗を書きながら、こんな道をひたすら歩いている自分が異常なのかもしれない。

入っては見なかったが、労働博物館、というのもあった。

沿道の屋台では、ちょうど昼食の時間だった。

ようやく、マッカサン駅に到着。駅の周りには何もない。こんなところが空港からの起点駅なのが不思議に思われる。

さすがに暑い。昼食前でお腹も空いた。ともかく、早くMRTかBTSに乗って涼みながら、昼食場所を探そう、と思った。

結局、マッカサンでマカッサルの面影を探すことはできなかったが、「ここでゴワ王国の末裔が暮らしていた」ということを思いながらの街歩きは、なかなか趣深いものであった。

シーロムのショッピングモールで昼食の後、今度は「ジャワ」を見つけに出かけた。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

【マカッサル】トアルコ・カフェがオープン

6月8日、マカッサルへ行った際に、たまたま、トアルコ・カフェのオープンに立ち会うことができた。

このカフェは、日本のキーコーヒーが出資し、コーヒー農園とコーヒー集荷・輸出を手がけるトアルコ・トラジャが経営する直営のカフェ。すなわち、あのトアルコ・トラジャのトラジャコーヒーが産地直送で飲める、のである。

店内は清潔で、意外に広い。落ち着いた色調の内装でまとめられており、殺風景で音楽が無神経に鳴り、若者たちのタバコの煙であふれる、雑然としたマカッサルの一般のカフェとは明らかに一線を画している。ここなら、ゆっくりと静かにくつろげそうだ。

さっそく、トラジャコーヒーを注文。出てきたコーヒーは、これまでにトアルコ・トラジャのコーヒー農園や東京のキーコーヒー本社でいただいたものと全く同じ味のコーヒーだった。とうとう、これがマカッサルで飲めるとは。

次に、ケーキが美味しいと聞いたので、リングシューとストロベリーショートケーキを両方食べてみる。この際だから、カロリーのことを一瞬忘れることにする。

リングシューは生クリームとカスタードクリームが入り、とくに生クリームのミルクの美味しさがしっかり出ていてビックリ。生地もサクサクしていて、とても美味しい。

イチゴシュークリームは、ケーキ生地がしっとりとしており、生クリームがやはり美味しい。日本に比べればイチゴは今ひとつだが、十分に合格点をあげられる。なお、イチゴは、地元の南スラウェシでも作られており、さらなる品種改良が進められればと思う。

この二つのケーキとも、インドネシアのスイーツにありがちな激甘さがない。日本人好みの甘すぎないケーキである。これら以外にも、なめらかプリンなどもある。

コーヒーやケーキ以外にも、オムライス、カレーライス、スパゲティーといった日本の洋食ものを中心とした食事メニューも充実している。そしてこれらも美味しいのだ。

開店までに、日本から職人を招いて、コーヒーやケーキ作りなどの指導を何か月もかけて行ってきたそうである。今はまだ、日本からの職人が駐在し、品質のチェックに余念がない。そう、今なら日本のものと同じ品質のものがこのトアルコ・カフェで味わえる、というわけである。

そう、こんなカフェを待っていた。現時点では、スラバヤにはこのレベルのスイーツやコーヒーが楽しめる静かなカフェはない。おそらく、ジャカルタでも極めて少ないのではないか。トアルコ・カフェがコーヒー輸出の地元であるマカッサルから始まった、ということが個人的にはとてつもなく嬉しい。

マカッサルで成功したら、次は、バリ島やスラバヤなどへの展開も是非考えて欲しいところだ。

トアルコ・カフェは、Jl. Latimojongのスズキのディーラーのすぐ前にある。マカッサルに行かれたら、ぜひ立ち寄って、本物のトラジャコーヒーと日本並みに美味しいケーキや洋食を存分に味わってほしい。

さあ、コーヒーの次は、スラウェシのカカオで世界最高のチョコレート、だ。

【スラバヤ】マカッサル・ワンタン麺

スラバヤに来て常に欲求不満だったのは、マカッサル・ワンタン麺の美味しい店に出会わないことであった。あの味は忘れられず、日本でもスラバヤでもジャカルタでも、ときどき禁断症状に襲われる。

まず、サンバル(チリソース)が出てこない。あったとしても、マカッサルのサンバル・クニン(黄色いサンバル)でない。あの辛さが必要なのだ。

次に、ゴマ油がない。マカッサル・ワンタン麺には必須の調味料である。これをドボドボとかけて食べるのがマカッサル流である。

そして、スラバヤの中華料理屋に行くといつも付いてくるキュウリの甘酢漬け。これはいらない。

あーあ、あのマカッサルで食べたワンタン麺の美味しさに勝る、あるいは迫るところは、スラバヤにはないのか。

そこで、ダメもとと思いながら、5月1日、新しくJl. HR Muhamadにできたマカッサル・ワンタン麺の店 Pangsit Mie 90 Ujung Pandang へお昼を食べに行った。博多一幸舎のすぐそばにあり、ほかにも3.6.9やTokyo Ramenのある、麺の激戦地の一つである。

定番は、やはりマカッサル・ワンタン麺(Mie Pangsit Ujung Pandang)。鶏肉か豚肉か両方乗せか、選べる。当然、マカッサル流なら両方乗せである。量も大盛、中盛、小盛から選べる。

この店には、サンバル・クニンもゴマ油もちゃんとある。もっとも、キュウリの甘酢漬けも出てきたのだが、これには手を付けない。

マカッサル・ワンタン麺特有のコシのある太麺、やっぱりこうでなくては。マカッサルのとちょっと違うのは、豚の臓物の代わりに、豚肉に粉をつけてカリカリに揚げたものが乗っていたこと。

うーん、ここのは満足。マカッサルでの行きつけの店の美味しさには及ばないが、十分に及第点を付けられる。よかった、スラバヤでもマカッサル並みのワンタン麺が食べられるぞ。

ふと見ると、「マカッサル・ニュクニャンあります」の掲示。ニュクニャンとは、マカッサルのバソ(肉団子)で、通常は豚肉の入った肉団子を指す。勢いでこれも注文。

スラバヤのバソは全般に味付けが薄めで、個人的にはちょっと物足りなかったが、このニュクニャンはちょうどよい。ただし、豚肉の味が強調されてはいなかった。

これで、時々、マカッサルの味に戻ることができる。おかげで、スラバヤ・ライフがさらに落ち着いた。

 

信用し、信用される関係

今日12月6日は、2014年大統領選挙の展望について、ジャカルタで講演した。久々に全力投球で講演したので、さすがに疲れた。果たして、講演の中身は、参加された人々にどのように伝わったのか。ちょっとストレートに自分の見解を出し過ぎた感もある。

そんな講演の前に、とてもうれしいことがあった。私が資金を貸していた相手が5年かかってその資金を返済し終えたということ、である。

2008年、マカッサルで仲間の地元出版社「イニンナワ・プレス」は資金難に陥っていた。イニンナワ・プレスは、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行う小さな出版社。当時、大手書店のグラメディアなどへの負債がたまり、資金不足で事業が回らない状況になっていた。出版予定の材料を5点抱えながら、翻訳出版を断念することを真剣に考えていた。

イニンナワ・プレスのJ代表が、藁にもすがる思いで私に資金援助を求めてきた。必要額は4000万ルピアとのこと。その資金があれば、負債を何とか返済でき、出版を続けることができる、と切々と訴えられた。

私は、南スラウェシの人々が自分たちの足元を批判的に知るための材料として、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行うイニンナワ・プレスの活動を高く評価し、共鳴していた。4000万ルピアという額はけっこうな額だったが、思い切って貸すことに決めた。しかも利子をつけずに。彼らに出版を続けてほしいという気持ちが先だった。

あれから5年。イニンナワ・プレスは、何とか出版を続けることができ、しかもその出版活動は高い評価を受けることになった。けっして大規模な商業出版ではないが、ちょっとした本屋へ行けば、彼らの翻訳した書物を手にすることができる。何よりも、南スラウェシの人々がインドネシア語で南スラウェシについて書かれた外国語出版物を読み、それを批判的に検討することができるようになった。経営的にも、イニンナワ・プレスは軌道に乗ることができた。

イニンナワ・プレスからは、毎月、あるいは2ヵ月ほど間が空いたりしながら、1回当り100万ルピアずつ返済が続いた。ときには数ヵ月、返済のないこともあった。もう返済はないかと思いつつ、私はじっと待ち続けた。そして先月、私が貸した4000万ルピアを彼らはとうとう完済した。

そして今日、イニンナワ・プレスから感謝の気持ちのこもったメールが届いた。本当に困っていたあのときに、助けてもらった恩は決して忘れない。信用し、信用される関係がずっと続いたことに感謝している。これからもずっと良い関係を続けていきたい。彼らのメールを読みながら、自分の中に込み上げてくるものがあった。

南スラウェシに関する外国人を含む研究者は、現地で資料を探す際に、必ずイニンナワ・プレスを訪ねるという。州立図書館や国立ハサヌディン大学図書館よりも、イニンナワ・プレスの図書館に様々な南スラウェシに関する書籍や資料があるからである。

今年3月、私がマカッサルで借りていた家を閉める際、過去15年以上にわたって収集してきたスラウェシやインドネシアに関するインドネシア語書籍の処分に困ったとき、彼らの図書館に寄贈することにした。彼らは軽トラックを借りてやってきて、全部持って行ってくれた。それらの書籍は、今も彼らの図書館で、いつでも私に返せるような形で、大切に保管されているという。

私は、亡き父から「貸した金は返ってくると期待するな」と教えられた。彼らに貸した4000万ルピアも、戻ってこないかもしれないと思っていた。でも、彼らは律儀に、5年かけて完済してくれた。彼らとの信用し、信用される関係がとてもとてもうれしく、彼らが一層いとおしく感じた。

彼らと一生付き合っていく。大切なマカッサルの友の活動をずっとずっと応援していくことを改めて決意した。

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