昔、インドネシアと関わり始めた頃、インドネシアに行く前に、「ヒゲを伸ばしたほうがよい」というアドバイスをもらったことがあった。イスラム教徒が多いから、という理由とともに、相手から軽く見られないため、という理由も聞いた。
ヒゲを伸ばすと、どうして相手から下に見られないのか、自分にはさっぱり理由が分からなかった。結局、今に至るまで、インドネシアでヒゲを伸ばさなければ、と思ったことはない。
世の中には、自分を身の丈よりも大きく見せるということに執心している人々がたくさんいる。いつ頃からだろうか。面接で自己アピールをするほうがよい、などと教えるようになったのは。
昔の職場の内部誌では、5月号に新入職員の自己紹介が載る。あれは入所して10年ぐらい経った頃だったろうか。「自分はこんなことができる」「自分はいい性格である」などと書かれている新入職員の自己紹介を読みながら、私自身がとても恥ずかしくなった。新入職員が皆、スーパーマン、スーパーウーマンに思えたからである。
私が入所した頃は、自己アピールをしすぎるのをあまり良しとはしなかった。むしろ、できないことをできない、能力がないことを能力がないと分かっていることのほうが重視された。自分のありのままを見つめ、自分を客観視できること、ある意味、控えめであることが美徳とされた。
あの時からずっと、私自身は自分の能力が大したことはないとずっと思ってきたし、今でも、謙遜でもなんでもなく、本当にそう思っている。自分はフツーのただの人間で、いろいろやりたいことはあるけれど、それが必ずできなければならない人間だとは到底思えない。
ただ、振り返ってみると、その時その時を自分なりに一生懸命やってきた結果、神様の思し召しなのか、何となく自分がこういうふうになりたいな、こういうふうにありたいな、と思う方向へそれとなく進んできているような気がする。単にラッキーだったのだ、と思う。
たとえば、インドネシアに滞在するなら、他の人が住んだことのない街に住みたいと思っていたら、マカッサルに住む機会が向こうからやってきた。スラバヤに住む機会が向こうからやってきた。いつか、肩書や所属ではない、自分の名前で仕事がしたいな、と漠然と思い続けていたら、何となくそれに近い状態になっていった。
目標を決めて計画的に何かを目指したり、そのために自分を他人にアピールしたり、身の丈よりも大きく見せたり、そうした戦略をどう取ったらいいか、意識的に考えたほうが良いよ、と助言してくれる人はいた。でも、それは何となく嫌だった。自分は、ただフツーにやってきたら、何となくこうなった、という感じなのである。
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話は変わるが、昨晩、Metro TVの「Najwaの眼」というトーク番組を観ていたら、ジャカルタ首都特別州のジョコウィ知事とアホック副知事が出演していた。それほどシリアスな内容ではなかったが、番組の進行役であるNajwaさんが質問しても、ジョコウィがボソボソっと答える一方、アホックはユーモアを交えながら楽しげに切り返していた。
この二人の答えで、一番多かったのが「フツーだよ」(biasa)という言葉だった。中身だけ見れば、ただのその辺のどこにでもいるおっさん二人が出演しているかのようだった。何を聞かれても「フツー」という答えが返ってくる。俺はすごいんだ、州知事としてえらいんだ、という雰囲気は微塵もなかった。
こんな二人が、今、インドネシアで最も注目される政治家なのである。
ジョコウィは、州知事の仕事は問題を解決することであり、現場に行って実態を見れば、解決策は意外に容易に見つかるとさえいう。大統領候補人気ナンバーワンのジョコウィは、ビジョンやミッションを前面に掲げることを控え、とにかく仕事をするということに徹したい様子である。
実際、インドネシアで、あるいは日本で、政治家が選挙戦で掲げた公約がどのぐらい達成されたかをきちんと評価してきただろうか。いや、任期が終わるときに、その政治家が当選の際に何を公約としたか、覚えている人がどれだけいるだろうか。
ジョコウィは、トーク番組での受け答えがスムーズにいかない、「弁舌さわやか」というには程遠い、実にフツーのおっさんであった。番組にはジョコウィの妻とアホックの妻も後半で出演したが、どこにでもいる感じのこれまたフツーのおばさんだった。「州知事になって何か変わったか」という問いにも、「とくに変わらない」「前と同じ」という朴訥な答え。見た感じは、偉そうに見える閣僚夫人や政府高官夫人とは全く異なるおばさんだった。
ジョコウィらは、こうしたフツーさを演じているだけ、という話もよく聞くのだが、番組を見る限りは、それを見抜くことはできなかった。実にフツーなのである。こんなフツーの人が、多様性の中の統一を国是とする広いインドネシアを治められるのか、と正直思ってしまう人も多いのではないか。
これまで、カリスマ性があり、秀でた力と能力を持つ偉大な政治家でなければ、この広くて多種多様なインドネシアを治めることはできない、と言われてきたし、我々もそう思い込んできた。ほとんどの政治家や政府高官は、いかに自分に能力があるか、そしてカネがあるか、を誇示して、子分を作り、自分に忠誠を誓う子分を従えながら、その親分になってきた。「俺に任せればすべてうまく行く」、そう思わせられる政治家が指導者と見なされてきた。
たとえ実態はそうでなくとも、忠誠を誓う子分たちの存在によって、政治家はそう演じ続けなければならなくなる。演じ続けているうちに、自分は偉大な存在だと思い始めるのかもしれない。特別扱いされて当然の存在だと思い始めるのかもしれない。
ある意味、大統領候補として名前の上がるプラボウォもアブリザル・バクリも、また、ジョコウィを大統領候補に担いだ闘争民主党党首のメガワティも、そんな従来型の、「偉大さ」を見せつけようとする政治家である、といえるかもしれない。
その「偉大さ」で勝負する従来型政治家の世界に今、「フツー」のジョコウィが引っ張りだされ、能力がないとかカリスマがないとか、叩かれようとしている。
しかし、インドネシアの社会が、そうした「偉大さ」をどう見せるかで勝負する従来型政治家の世界から離れ始めていることに、従来型政治家が気づいていない。
政治家が自分たちの私利私欲のために政治を利用してきたことを有権者は厳しく見つめている。政党ベースの総選挙(議会議員選挙)は従来型政治家の世界であり、有権者はやむなくその仕組みに付き合ったにすぎない。
しかし、人を選ぶ大統領選挙では、従来型政治家の世界だけで話が済むわけではない。従来型政治家は、制度的にそうなっているように、総選挙と大統領選挙を連続したものとしてみているが、有権者は両者をむしろ切り離し、人を選ぶ大統領選挙により関心を向けるだろう。そこには、「偉大さ」を見せようとする従来型政治家の世界への不信感を高めた多くの有権者が存在する。
インドネシアはもはや、「偉大な」指導者が王様のように治める国ではなくなったのである。下々の者を従わせ、その見返りに下々の者へ施しを与えるような、「偉大な」指導者を求めなくなったのである。多くの従来型政治家はそのことに気づかないか、気づいたとしても「偉大さ」を見せようとする性向を変えることがまだできない。
そうではなく、インドネシアは「フツー」に仕事をする指導者を求め始めているようにみえる。大統領は王様ではなく、マネージャーあるいは仕事人に変わったのかもしれない。
ジョコウィにしろ、アホックにしろ、スラバヤ市長のリスマにしろ、自分はすごいんだ、自分は出来るんだ、これだけやって偉いんだ、だから俺について来い、などと言っているのを今まで一度も見たことがない。彼らは二言目には「仕事」、そして仕事をしているのが偉いのでも何でもなくただ「フツー」と思っているのである。
自分のためではなく、他人のために仕事をする。カネや名誉や名前ではない。ジョコウィはソロ市長、ジャカルタ首都特別州知事と来て、今度は大統領選挙に出るわけで、はたから見ると野心家のように見えるかもしれないが、「どこで仕事をしても、人のためにやるのは同じだ」と番組でもボソボソっと言い切っていた。
大統領選挙への立候補も、ジョコウィ自身が「俺が俺が」と言ったのではなく、世論が強力に後押しし、闘争民主党が総選挙での得票を当て込んで立候補を促し、なんとなくジョコウィが出ざるをえない雰囲気が作られた、というのが本当のところのような気がする。もちろん、立候補するからには、当選を目指して動いていくのだろうけれども。
今回の大統領選挙は、実は「偉大」と「フツー」の戦いなのではないか。それは、インドネシア社会の大きな変化の一面を表してもいる。もしも、予想通りに「フツー」が勝利した後、まだ時間はかかるだろうが、インドネシアがどのように「フツー」の社会へ変わっていくのか、注目していきたい。
もっとも、インドネシア・ウォッチャーとしては、インドネシア特有の何かがなくなっていくかもしれないという意味で、面白さが減っていくということでもあるのだが。