ジャカルタの猿まわし禁止令に寄せて

ジャカルタで路上での猿まわしが禁止になり、路上での一斉摘発が行われた。猿を媒介とする疫病の防止、動物虐待、渋滞の悪化などを理由としている。猿まわしは職業訓練を受けさせて他の職業に就かせ、猿はラグナンの動物・魚類保護観察センターで14日間観察した後、異常がなければ自然界へ放たれる。

ところで、インドネシアでの猿まわしの歴史は意外に古いようだ。きちんと確認することはできないが、19世紀末に猿や犬を使った演芸が発展したという記述があるという。その後、猿まわしは主に西ジャワや東ジャワで発達したが、1980年代にいったん消えかかった。しかし、まもなく復活し、それまでの集落などをまわる形から、人の集まる都市の路上などへ活動の場を求めていった。

『コンパス』紙の記事によると、デデという猿まわしの1日の稼ぎは4〜10万ルピア程度。デデは猿の調教師でもあり、4〜7ヵ月の調教期間に4〜5匹まとめて調教し、1匹当たり70〜100万ルピアを稼ぐという。過去12年間に、数十人の猿まわしから調教を頼まれたそうである。

筆者も猿まわしには個人的な思い出がある。マカッサル(当時はまだウジュンパンダンという名前の町だった)に住んでいた1997年、娘がまもなく2歳になるとき、知り合いの家族の子供たちを我が家に呼んで、みんなで猿まわしを楽しんだことがある。

我が家の前を通る猿まわしを呼び止め、まず、彼らの居場所を訪ねて話を聞き、我が家で演じてもらうことをお願いした。猿まわしは、たしかジャワ人の一家で、中華街の一角にジャワ人同士がひっそりと寄り添って住んでいた。

我が家で演じてもらったときには、猿が自転車に乗ったり、こっけいな芸を一通り披露した後、最後にニシキヘビが登場し、猿まわしがそれを体に巻き付けて、「おーっ」とみんなで驚いて終わる、というパターンだった。もちろん、子供たちは大喜びだった。今になって聞くと、娘はよく覚えてない様子なのだが。

日本での猿まわしは、すでに鎌倉時代にはあったようだ。小沢昭一「日本の放浪芸」によると、和歌山県と山口県に猿まわしの里があったそうである。もともとは、正月の祝福芸、祈祷芸であったものが、季節に関係なく、道端や門付けで行われるようになった。「継子いじめ」「金色夜叉」などが定番だったようだが、須藤功「写真ものがたり・昭和の暮らし10」によると、「三番叟」や「娘道成寺」も演じられたそうである(演目の中身はよく分からないが)。

その後、高度成長期の1960年代半ば、猿まわしは姿を消した。猿まわしたちは、社会的に差別を受けていた人々で、生計を立てるために猿まわしを行っていたのだが、猿まわし自体に民俗学的・文化的な意味を見出した宮本常一氏によって、猿まわしの復活運動が起こる。そして1978年、山口県光市で「周防猿まわしの会」が復活するに至る。宮本氏は、今西錦司氏らの属する京都大学の霊長類研究グループにも話をつなげ、猿まわしを民俗学的に発展・継承するために奔走した。

今、ジャカルタの猿まわし禁止令を見ながら、日本の猿まわしの過去を思い起こしている。日本の高度成長期に消えていった様々なもののなかに、猿まわしがあった。日本の1970年代とも見える今のインドネシアにおいても、様々なものが消え始めている。その一つが、やはり猿まわしなのであった。動物虐待という話が、社会が豊かになるにつれて声高になっていくことも、日本とインドネシアで共通しているような気がする。

残念ながら、インドネシアでは猿まわしを民俗学的な見地から継承すべき対象とみる動きは見られない。猿まわしを単なる稼ぎの道具としてしか見られないのは、宮本氏が奔走する前の日本でも同じことだったのかもしれない。実際、宮本氏がこの世にいない今、日本の猿まわしはすっかり商業化し、日光猿軍団のようなエンターテイメントとして残った。インドネシアで同じようなことが起こったとしても、猿まわしの民俗学的・文化的価値があるかどうかも省みられないだろう。

ジャワ人の猿まわしも、もしかしたら社会の最下層で差別を受けていた人々だったのではないか。そんなことを思いながら、どこかに猿まわしの継承価値がありはしないかと考えている。

あるくみるきく

3月1日、今日から新しいブログを開始する。題名は「インドネシアあるくみるきく」。この題名は、宮本常一氏の「あるくみるきく」から拝借した。

宮本常一氏(1907〜1981)は山口県周防大島出身の民俗学者で、戦前から亡くなるまで日本全国をくまなく歩き、各地でフィールドワークを行った。宮本氏の足跡を赤い線で辿ると、日本全土が真っ赤になる、と言われたほどである。

宮本民俗学の特徴の一つは、世の中から省みられなくなったもの、無視されたもの、忘れ去られたもののなかに、遠い過去からの永続的な営みの蓄積とそこに刻まれた人々の営為を見出し、それを新たな時代のなかに生かす、という姿勢にある。高度成長時代の日本で時の流れに取り残され、忘れ去られてしまうものを、懸命に記していこうとした宮本氏の調査記録は、とてつもない膨大なものとなって、現在も整理しつくされていない。

宮本氏は、単に民俗学の調査を行っただけでなく、行く先々でそこに生きる人々の話をじっくりと聞き、彼らの人生に思いを馳せつつ、どうすれば彼らやその子孫、そして彼らの生きる地域が生き生きとしていけるのか、厳しく複雑な現実に直面して、ときには絶望に苛まれながらも、彼らを励まし続けたのである。

宮本氏の活動は、経済成長の大きな流れのなかのほんの一滴に過ぎなかったかもしれないが、それによって励まされ、前を向いて地域とともに生きてきた人々がたしかに存在する。そうした宮本氏の姿勢を表す言葉が「あるく・みる・きく」であった。

何よりもまず、現場の事実から始まること。相手をして語らしめ、相手が自分自身で何かに気づき、行動を起こしていくこと。それを促す働きかけが、民俗学調査という名前で行われた宮本氏の「あるく・みる・きく」であった。

インドネシアのマカッサルという地方都市で、日本政府の名の下に、地方政府へ政策アドバイスの仕事をしていた15年前、学生時代に読んだ宮本氏の『忘れられた日本人』を読み返し、「学ぶこと」が「教えること」と同じになること、相手を敬い、励ませられるようなアドバイスをさりげなく行う技術が必要なこと、を強く感じた。そして、自分は長年なじんだインドネシアで宮本氏のようにありたいと思うようになった。

今もその思いにいささかの変化もない、と自分では思っている。ただし、宮本氏のような、インドネシア全土を赤く染めるような手法はとれていない。民間コンサルタントという今の自分の立場のなかで、何がどのようにできるのか、日々模索しているのが現状である。そんな自分への自戒も込めて、このブログのタイトルを「インドネシアあるくみるきく」と命名した。

これから、このブログを通じて、政治、経済、社会、文化、生活、たべもの、ふと思ったことなど、私なりの「あるくみるきく」のインドネシアを表していきたい。この拙いブログを通じて、インドネシアに対する興味や関心を高めていただけるなら、とても嬉しく思う。