【インドネシア政経ウォッチ】第10回 高校生、乱闘よりもアイドル(2012年 10月 4日)

先週の地元メディアでは、連日、高校生の乱闘事件が大きく報道された。9月26日付『コンパス』紙によると、ジャカルタ首都圏では、過去1年間に13人の高校生が乱闘で死亡している。

同月24日、南ジャカルタの最高裁近くのブルンガン通りで、ジャカルタの有名校である第70高校の生徒約10人がチェーンや鎌や木片などの凶器を持って、同じ有名校の第6高校を襲撃し、同校1年の男子生徒1人が胸を凶器で刺されて死亡した。その2日後、東ジャカルタのマンガライ地区でカルヤ66財団高校生と技術カルティカ実業高校生が乱闘となり、カルヤ66財団の高校生1人が刃物で切りつけられて死亡した。

24日の加害者はジョグジャカルタに逃亡したが、27日までに警察に逮捕された。26日の加害者はすぐ逮捕されたが、「殺したことに満足している」と語った。警察の調べでは、彼らから薬物の使用反応はなかった。

ジャカルタでの高校生の乱闘は、実は目新しいものではない。筆者がかつて住んでいた1990年ころも頻繁に見かけ、激しい投石の合間をバスで通り抜けたこともあった。近隣の高校同士のライバル意識が根底にあり、口喧嘩など些細な原因で「仲間を守る」意識から乱闘に至るケースが多い。一時期は、軍・警察幹部の子弟が銃や武器を家から持ち出し、乱闘に使うような事件さえあった。

高校生たちは、有り余るエネルギーを上手に発散できないのである。日本のような部活動は発達していないため、有り余るエネルギーを他校への敵がい心として発散させ、乱闘騒ぎになってしまうのかもしれない。こうした乱闘が社会不安につながれば、それを政治的に利用しようとする勢力が現れる可能性もある。

そんなことを思いながらジャカルタ・ジャパン祭りへ行くと、アイドルグループ「AKB48」の姉妹グループである「JKT48」の親衛隊が彼女たちを目の前に、全力でグルグル腕を激しく回しながら一心不乱に踊り続けていた。その多くは高校生である。乱闘よりもアイドルの応援に精を出す。いっそのことJKT48がもっとメジャーになり、より多くの高校生が親衛隊に入って全力で踊って欲しいと思った。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20121004idr024A

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【インドネシア政経ウォッチ】第9回 首都知事選、現職敗退の影に(2012年 9月 27日)

ジャカルタ首都特別州の知事選挙の決選投票は20日、大きな混乱もなく行われた。選挙委員会による得票確定は10月第1週だが、民間各社の開票速報によると、第1回投票で首位となったジョコウィ=アホック組が第2位のファウジ=ナラ組を再度破って当選した。

筆者のみる限り、現職のファウジはこれまでに、糾弾されるような悪政も汚職疑惑も特になかった。首都の抱える交通渋滞や洪水対策など複雑な問題に直面し、目に見える成果は上がらなかったかもしれないが、どんな知事でもすぐに改善できる問題ではない。

選挙戦では自分の施策に予算的な裏付けを考えていたようだが堅実さは注目されず、大まかな政策アピールにとどまったジョコウィに勝てなかった。改革を訴えて勢いに乗るジョコウィが相手でなければ、おそらく再選されていたはずである。

ファウジの足を引っ張ったのは、実は一緒に組んだ副知事候補のナラだったのかも知れない。演説では、地元ブタウィ族やイスラム教であることを強調し、「ブタウィ族を選ばない奴はジャカルタから出ていけ!」という発言で、選挙監視委員会の事情聴取を受けた。

インドネシア語を華人風に面白おかしく発音し、ジョコウィと組んだ華人系のアホックを揶揄(やゆ)したこともひんしゅくを買ったようだ。ブタウィ族の横断組織であるブタウィ協議委員会議長を務め、ブタウィ族の青年団体の親分格でもあるナラは、相当に焦っていたようだ。

ファウジは現知事として、23日のジャカルタ・ジャパン祭りの開会式に出席した。「今年はフィナーレで一緒にみこしを担ぐ」と挨拶し、寿司バトルまで臨席して終始上機嫌だった。肩の荷が下りたかのようなリラックスした姿が印象的だった。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20120927idr021A

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【インドネシア政経ウォッチ】第8回 出張旅費の不正支出問題(2012年 9月 20日)

インドネシア語の日刊紙『コンパス』で先週、公務員の出張旅費がやり玉に挙がっていた。2013年度予算案では、国家歳出総額1,658兆ルピア(約14兆円)に対して出張旅費が21兆ルピアだった。額と歳出比率自体は、日本と比べても法外に高いわけではないが、5年前の9兆1,000億ルピアから12年には18兆ルピアへと倍増。来年はさらに3兆ルピアが上乗せされたため、国民も黙っていないようだ。

出張旅費では不正支出のほうが大きな問題となる。会計検査院の報告によると、11年の不正支出の比率は約4割に上り、その額は8,600万人を対象とする庶民向けの社会保険(Jamkesmas)の支出額である7兆3,000億ルピアを上回る。筆者自身もかつて地方政府でカラ出張が恒常化していたのを目撃したことがある。セミナーなどで主催者から旅費が出ているにもかかわらず、職場にも出張旅費を請求して二重取りしているケースも見かけた。

しかし数年前から、汚職撲滅委員会(KPK)が贈収賄疑惑を連日追いかけ、会計検査院も全国の省庁・地方政府の予算に至るまで監視を強めている。そのせいか出張旅費の取り扱いが厳しくなり、会計検査で不正支出とみなされるのを警戒する姿勢が強まった。コンパスによると、スラバヤ市は「これまで各自が行っていた航空券の手配などを総務局で一括する」と市長が発表した。少しずつだが、使途の透明性が確保される兆しがある。

スハルト政権の崩壊後、中央政府も地方政府も自前予算で海外や他の地方を視察し、学習したり情報を得たりする活動が増えた。その結果、画一的でない、新しいアイディアや方法論が政策のなかで試されるようになったのは喜ばしい。しかし、出張に家族を同伴させ、用務より買い物に精を出す傾向はまだ見受けられる。出張者に詳細な出張報告・会計支出報告を義務化し、一般公開でもしないと国民の批判は収まらないだろう。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20120920idr019A

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【インドネシア政経ウォッチ】第7回 警戒すべき経常収支の赤字増大(2012年 9月 13日)

インドネシア経済に、おぼろげながら黄信号が灯り始めたかもしれない。黒字基調だった経常収支が2011年第4四半期(10~12月)から赤字へ転換し、赤字幅は今年第2四半期(4~6月)に69.4億ドルに拡大した。経常収支の対国内総生産(GDP)比も政府目標の2%を上回る3%超となり、公的対外債務比率も久々に30%を超えた。一方で、資本収支の黒字は、直接投資と証券投資の流入で急増し、経常収支の赤字を補てんしている。

輸出減少と輸入増加が、経常収支が赤字に陥っている原因である。輸出では石炭、ゴムなど主要コモディティ価格が低下して生産・輸出とも大きく減少し、繊維・化学製品の輸出も落ち込んだ。国別では中国向けを除いて軒並み減少し、特にシンガポール向けの落ち込みが目立つ。これに対して輸入は、機械類や電機など資本財の輸入増が著しく、国別でも日本や中国からの輸入が急増した。まさに、直接投資がそれに必要な機械などの資本財輸入を誘発している。

実は1980年代半ば~1990年代初期のインドネシアも、同様に大幅な経常収支の赤字に悩んでいた。ただ当時は、金融政策で切り下げた通貨ルピアを武器に、低賃金・労働集約製品の輸出振興を図り、外国から輸出向けの直接投資を呼び込む戦略をとった。

しかし、現在インドネシアに流入する直接投資の多くは、消費ブームに沸く国内市場を標的とし、輸出への貢献は期待できない。労働コストも年々上昇しており、低賃金・労働集約製品の優位性もなくなってきている。また、コモディティ以外に競争力のある輸出品は極めて限定的である。

政府は製造業向けの投資が工業化に果たす役割に期待するが、経常収支の赤字はしばらく続く見通しだ。それにどこまで耐えられるのか。輸入増は外貨準備を減少させ、通貨ルピアへの信頼を低下させる。米ドル買いなどの投機的な動きが海外への資本逃避を誘発すれば、国内市場は一気に冷え込む可能性もある。1990年代後半の通貨危機の経験を踏まえ、慎重に動向を見極める必要がある。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第6回 コメ中心主義からの転換(2012年 9月 6日)

世界的に食糧危機が懸念される中、今年はインドネシアにおける農作物の生産が好調だ。7月発表の中央統計庁の統計によると、通年でコメの生産量(もみ米ベース)は前年実績比4.3%増の6,859万トンと予想されている。

昨年は住宅や工場用地への転換などで水田耕作面積が前年比で3%減少したこともあり、前年比で1.7%減少した。しかし、前年と耕作面積が変わらない2012年は、ジャワ島でコメの生産性が4.5%増と大幅に上昇したほか、ジャワ島以外での耕作面積も3.3%増える見通しなど明るい材料が多い。

ここ数年減産が続いていたトウモロコシも、耕作面積の拡大と生産性の向上により、今年は前年比7.4%増の1,895万トンになることが見込まれている。一方で減産が予想される主要作物は大豆くらいだ。

生産量が増えている農産物だが、中長期的な食料安全保障の観点からみると懸念事項が残る。特に1人当りの年間消費量が139キログラムで、日本の2倍以上と多いコメがそうだ。

1950年の主食に占めるコメの比率は5割程度だったが、「緑の革命」によるコメの増産を経て2010年には95%に上昇した。コメを食べることが「文明化」と同一視され、コメ以外食べなくなったのである。

政府は状況を打開するため、コメ生産量の大幅な増加に加え、コメ以外の食糧へと生産を多角化する方向性を打ち出した。消費量を7.5%下げれば、世界最大のコメ輸出国になれるという民間の試算もある。

昨今の現地でのグルメ・ブームは、ローカル食の再評価を促している。生活に余裕が生まれ、食に対する国民の関心が増えた今こそ、コメなど炭水化物中心の生活から脱却し、食文化をより豊かにする好機である。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第5回 汚職について考える(2012年 8月 30日)

インドネシアで汚職報道のない日はない。実際に何人もの政治家や政府高官が実名かつ現職のまま逮捕されており、汚職のイメージを払拭(ふっしょく)するのは容易ではない。

スハルト政権が倒れ、民主化の時代になってからの方がひどくなったような印象だ。地方分権化により全土に拡散してしまったという見解も一般的である。汚職を根絶できない現体制を抜本的に変えるとの期待から、イスラム法適用運動が一時的に支持を集めたが、結局、清廉さを売り物にしたイスラム政党も汚職に染まり、急速に色あせていった。

スハルト時代も汚職は大問題だった。コミッションと称して「袖の下」を要求するスハルト大統領のティン夫人は「マダム10パーセント」と呼ばれ、スハルトの親族はビジネスを拡大させた。国民は「大統領がするなら」と汚職を正当化し、一緒に行ったため、それを暴くことは事実上困難だった。

スハルト後の民主化時代になると、政治勢力が多極化した。大統領公選や地方首長公選が実施されると、競争相手を追い落とすため、汚職などのあら探しが始まった。報道や表現の自由も保証されたことから、メディアは汚職関連記事を連日のように掲載する。記事を書かれた政治家は、別の政治家の収賄疑惑を血眼になって探すなど政争に明け暮れ、汚職をなくそうという機運が高まらない。

大統領直属の汚職撲滅委員会は容疑者への盗聴も許され、訴追された容疑者は汚職裁判所で裁判を受ける。裁判では盗聴された携帯電話の通話録音も証拠となり、有罪となれば執行猶予の付かない実刑判決を受ける。

政府の役人と話をすると、援助機関が実施する研修やセミナーへの交通費や宿泊費さえ、「援助機関側から支出してもらいたくない」と言われる。汚職嫌疑をかけられる恐れがあるからだ。汚職をする時代から汚職を怖がる時代へと変化の兆しはある。でも皆が続けていることに変わりはない。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第4回 援助受け入れから国際貢献へ(2012年 8月 23日)

ユドヨノ大統領は独立記念日前日の16日、毎年恒例となっている来年度予算案の大統領演説で、インドネシアの民主主義の進展とさらなる経済成長への自信を示したほか、インドネシアの国際貢献に対する意欲を前面に押し出した。

2013年の経済成長率の目標を6.8%と発表し、「独立100周年となる2045年に、強靱(きょうじん)で公正な経済と安定した質の高い民主主義を伴った先進国になることを目指す」と述べた。国際社会から「インドネシアはどう考えるのか」と尋ねられることが増えたとも強調した上で、東南アジア諸国連合(ASEAN)や東アジアだけでなく混迷のシリア情勢について言及し、世界平和と安定維持のために国際貢献する決意を表明した。

これまでインドネシアは、中東産原油の運搬ルートという地政学的重要性もあり、日本にとって最大の開発援助供与先であった。ダム、道路、鉄道などのインフラ整備のほか、教育や保健衛生の分野でも多数の技術協力事業が実施された。一方で過度な援助漬けで汚職が蔓延(まんえん)したため「自立は難しい」と思われた時期があり、今でも「インドネシアが国際貢献なんてできるのか」というシニカルな見方も内外にある。「ネシア」という呼称にもインドネシアを見下す意識が垣間見える。

しかし、国民1人当たりの国内総生産(GDP)が3,500ドル(約28万円)を超えた今、インドネシアは「貧しい国」ではなくなった。中間層の今後10年の伸び率は中国やインドを凌駕(りょうが)するとさえいわれている。インドネシア政府自身も債務負担増を避けるため、外国借款には消極的である。インフラ整備に関しても、政府保証をベースに民間資金を活用する官民パートナーシップ(PPP)が基本である。地方政府も含めて以前のように、「援助が欲しい」という態度をあからさまに示すことはなくなった。

日本政府はインドネシアとの対等なパートナーシップを謳(うた)っている。ただし、それは二国間関係にとどまらず、より国際貢献したいインドネシアと一緒になって国際貢献することをも含む時代になったのではないか。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第3回 イスラム化現象を気にする必要はない(2012年 8月 16日)

世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア。以前よりもジルバブ(スカーフ)を着用する女性や1日5回、しっかりと祈る割合が増えているほか、コーランの勉強会が盛んになるなどイスラム化が進んでいる印象を受けるかもしれない。しかし、それらはインドネシアのイスラムがより原理主義的になっている現れでもないようだ。

政治勢力としてのイスラム政党は、ますます国民の支持を失ってきている。契機は2002年、04年に起きたバリ島での爆弾テロ事件にあったと考えられる。当時のインドネシアでは、民族主義とイスラム主義が拮抗(きっこう)しており、イスラム国家になるのではないかという懸念があった。実際にイスラム法の適用運動が盛んになり、複数の地方政府は関連する条例を成立させた。だが、今ではイスラム法を適用する運動は影を潜め、反汚職の清新なイメージで過去の選挙で躍進した福祉正義党(PKS)をはじめ、イスラム政党は軒並み支持率を下げた。

04年から2期続くユドヨノ政権は、イスラム政党を追い込まず、与党政権の内部に取り込んで実質的に無力化させた。かつてスハルト政権がパンチャシラ(建国五原則)を1985年に法制化して組織存立原則とし、それを拒むイスラム勢力を敵視したのとは対照的なやり方である。

イスラム政党が影を潜めた今、イスラム擁護戦線(FPI)のような組織が示威行動をとるようになった。一方で、彼らの暴力行為を支持する国民は少数派にとどまる。FPIらの行動は、イスラム勢力の拡大を目指すというよりも、政治家が利用できる一種の暴力装置として力を誇示することに重きが置かれている。

ジルバブを着用する女性も、敬虔(けいけん)なイスラム教徒としての部分のほかに、そう見せることで異性の好奇の目を避ける、単にファッションとして好むといった面もある。インドネシアは、イスラム教が多様性を尊重する宗教であることを強調する穏健な考え方が主流である。われわれ外部のものが、見た目のイスラム化現象を過度に警戒する必要はないと考える。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第2回 急速に進む技術格差と脱工業化(2012年 8月 9日)

あるインドネシア企業を訪問した際、複数台のNC機械が止まっているのを見かけた。30年ほど前の日本製の機械だろうか。故障したが修理方法が分からないので、2カ月間放置されているという。日本でも古いNC機械を修理できる人材は少なくなり、新品に替えるのが一般的とのことである。

そんな話を聞きながら、ジャカルタ首都圏を走る日本製の中古の電車やバスのことを思い出した。日本から次々に流れてくるので、修理して長く大事に使う感覚がインドネシア側に生じない。構造的に技術吸収のプロセスが起こらなくなっているのだ。

インドネシアの経済発展は脱工業化を伴っているという指摘がある。実際に製造業でも好調なのは、電化製品、二輪車、自動車などの組立産業である。部品などの現地調達率を高める努力もなされているが、インドネシア企業が部品産業で技術集積・蓄積を進めていくことが、ますます難しくなっているように見受けられる。

日本企業は技術開発を進め、少量・高価格で製品を市場へ出す。生き残るためには、技術が汎用化される前に、さらなる技術開発をしなければならない。一方、後発のインドネシアでは技術開発の資金も人材も乏しく、中古技術を取り入れて吸収しようとするのが精一杯になる。こうして両国企業の技術格差は、埋まらないどころか拡大する。日本企業がインドネシアに進出する際には、必ずこの技術格差の問題に直面し、結果的に日本から機械や技術を持ち込まざるを得なくなる。

「日本企業の進出がインドネシアの工業化で欠けた穴を埋めていくのではないか」という期待もある。しかし、急速に広がる技術格差を考えると、インドネシア企業が独自に工業化を果たすのは難しいのではないかという気がしてくる。昨今メディアを賑わす「経済ナショナリズム問題」も、こうした文脈と決して無関係ではない。

 

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ブカシで技能実習生OBとの面会

2月13日、ジャカルタで用事を1件済ませた後、スディルマン通りからクバヨランバルを抜けて、テンデアン通りを通って、高速道路に乗るまで1時間半、それから1時間かけて、予定より1時間遅れの夜8時にブカシ着。待ち受けていた技能実習生OBと面会した。

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彼らは、アイムジャパンの技能実習生派遣事業で日本に行った経験を持つ方々で、インドネシア研修生事業家協会(Ikatan Pengusaha Kenshusei Indonesia: IKAPEKSI)の幹部たちだった。IKAPEKSIは、アイムジャパン事業で日本へ行き、帰国した後に、事業を行っている元研修生の集まりで、全元研修生4万5,000人のうち、約6,000人がIKAPEKSIの会員、ということであった。

この組織は、彼らが自発的に作ったもので、日本側からの関与はない、とのことである。

彼らは、今後、日系企業とどのような関係を持っていけるか模索している様子。まずは、IKAPEKSIの存在を日本側へアピールすることが必要だろう。とにかく日本が好きなんだ、と、こちらが恥ずかしくなるぐらい、強くアピールされた。

インドネシアと日本との関係をより深く確実なものにしていくためには、毎年毎年ほぼ自動的に増え続ける日本への研修生とどのように付き合っていくか、帰国後の彼らを日本側がどうサポートしていくかが重要になるだろう。元研修生は、ジャカルタ周辺だけでなく、インドネシアの地方のほぼ全てに存在しており、日本人が地方へ旅をしたり、あるいは日本語パートナーズが地方の高校で活動する際には力強いサポーターになってくれるものと思う。

もちろん、元研修生にも色々な人がいるだろう。真面目に事業を行っている人もいれば、日本へ行ったのはカネだけが目的だった人とか、日本人をカモにしよう、日本人にタカろうと思っている人さえ、いるかもしれない。だから、元研修生といっても、必ずしもいい人とは限らないので、それをどのようにコントロールするかも課題ではないか、とIKAPEKSIの方々にはひとこと釘を刺した。

彼らは3月7日、ブカシで全国大会を開催するそうで、さっそく、そこで講演するよう頼まれただけでなく、アドバイザーになって欲しいとも頼まれた。彼らの存在を活かしていくことが、今後のインドネシアと日本との関係を広く深くするためにも重要だと考え、引き受けることにした。

彼らと一緒に、これから何を起こしていけるのだろうか。彼らには、日本の地方都市で過ごした経験を持つ者が少なくない。また、帰国後、インドネシアの地方で活動しているものも少なくない。日本の地方とインドネシアの地方を結びつけたい自分としては、何か面白いことができる要素があるような気がする。ちょっと楽しみではある。

 

インドネシア・ウォッチ講演会のお知らせ(2015.3.4)

久々に、ジャカルタでインドネシア・ウォッチ講演会を行うことになりました。

以前お世話になったJACインドネシアと一緒に、下記のような内容で講演させていただきます。よろしければ、是非ご参集ください。

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インドネシア・ウォッチ講演会

「試練に直面するジョコウィ新政権 ~もがき続けるインドネシアの民主主義~」

2014年10月の発足から約4ヵ月を経たジョコウィ政権は、早くも様々な試練に直面しています。大統領選挙で破ったプラボウォ支持派を何とか懐柔し、国会運営を軌道に乗せ始めた矢先に、新国家警察長官任命をめぐって、警察と汚職撲滅委員会との対立が激化してしまいました。その背景には、政党や官僚に翻弄されるジョコウィ大統領の優柔不断さと孤独が見て取れます。

国際収支安定化、国内産業競争力強化、地域格差是正という経済政策の基本線は堅持されており、投資許認可プロセスの改善なども進められていますが、民主主義の成熟が今後のインドネシアの安定を支えていけるのかどうか。本講演では、試練に直面するジョコウィ新政権の虚と実に迫ります。

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日時:2015年3月4日(水) 9:00 – 11:30 (受付開始 8:30)

場所:Fortice セントラル・スナヤン2 オフィス
Sentral Senayan 2, 16th Floor, Jl. Asia Afrika No. 8, Gelora Bung Karno, Senayan, Jakarta

参加費:550,000 ルピア(税込)

*当日、現金にてお支払い頂きます。その際に、JACインドネシアより領収書をお渡しします。
請求書がご入用の場合は、別途事前にご連絡下さい。

定員:60名(定員になり次第、締め切らせていただきます)

申込方法: 下記をアルファベットにて記入の上、JACの藤倉さん(fujikura@jac-recruitment.co.id)までお申し込みください。
1)会社名 (アルファベット・ローマ字にてご連絡ください)
2)氏名および役職
3)メールアドレス
4)携帯電話番号
5)参加ご希望のセミナー名

誰が得をしているのか

一連のいわゆる「イスラム国」をめぐる動きをずっと眺めていた。日本人人質やヨルダン人人質を殺害したとされるビデオが流れ、政府発表やメディアを通じて殺害されたと報じられている。

その一方で、これまでの何年もの間に、イラクで、シリアで、その他の中東の場所で、無数の人々が誰が得をしているのか様々な形で殺害されてきたことを思った。

亡くなった方々すべてに哀悼の意を表したい。

報復が報復を呼ぶ。平和だった暮らしを奪い、近しい者たちを無残な姿に変えさせた敵に対する復讐に燃える人々。それが生きる意味となってしまった人々。日々の平穏な暮らしに浸っている我々が「平和が第一」と言っても、聞く耳を持つ余裕などないだろう。

「有志連合」という名前がいつから使われたのか。誰が言い始めたのか。日本はそれに入っているのかいないのか。入っているとすればいつからなのか。入ったことを国民に伝えたのか。単なる勉強不足なのかもしれないが、筆者自身は明確に覚えていない。

一連の動きを見ながら、疑問に思ったことがいろいろある。

第1に、今の動きは、少し前までの「欧米対イスラム」という単純構造で動いていないことである。イスラム世界のなかで互いに戦い合っている。大きく捉えるならば、おそらく、アメリカ、ロシアなどによる国際社会全体のパワーゲームも絡んだ、イスラムのスンニ派とシーア派との戦いに近似する。すなわち、この戦いが続く限り、スンニ派とシーア派をまとめた「イスラム」として、欧米に対抗するという構図は立てにくい。イスラムは、「欧米憎し」で一つにまとまれない。

第2に、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の影響が中東地域に広がる脅威がいわれているにもかかわらず、なぜイスラエルが具体的な行動に出ないのか。かつて、フランスの援助でイラクに原発が建設される際に、イスラエルは国境を超えてそれを破壊したではないか。イスラエルは「有志連合」に加わっていない。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に対しては、一体と言われることも多いアメリカとは別行動を採っている。

第3に、日本の安倍首相はなぜイスラエルを訪問した際に、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦い」を宣言したのか。通常考えれば、イスラエルはイスラムの敵とみなされる。イスラム教徒の多いアラブ諸国との関係も良好な日本にとって、決して「テロとの戦い」を宣言するのにプラスの場ではない。しかも、日本の「テロとの戦い」がいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織を念頭に置いていたことは明らかだとしても、果たしてイスラエルもそうだったのか。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。そこで、見方を変える。今回のいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行によって、いったい誰が得しているのだろうか。

第1に、戦争が続くことで儲かる武器商人や軍需産業である。安倍首相のイスラエル訪問に同行した26社の多くが、直接・間接にこの分野に関わっている可能性がある。彼らはイスラエル側とのビジネス面での協力関係を探っている。だから、安倍首相は日本・イスラエル両国の国旗を前に声明を出さなければならなかったのだろう。幸か不幸か、イスラエルはいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織との戦いには大っぴらに加わっていない。パレスチナ問題とは別次元とみなされているなかで、声明を出しても大した影響はないと判断されたのかもしれない。

第2に、イスラムが一つにまとまって文明の衝突が起こるのではないかと恐れている欧米(日本も?)とイスラエルである。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行も加わって、スンニ派とシーア派との激しい対立はエンドレスになりつつある。中東地域が激しい戦闘に明け暮れ、共通の敵だったはずのイスラエルに対して圧力を掛けることができない状態となれば、それとは一見関係のないイスラエルが自国の安全保障を確保し、中東地域で影響力を維持できる。

とはいえ、欧米や日本では、普通のイスラムもいわゆる「イスラム国」も同じものと見てしまう単細胞な人々が多く、かつ、日常生活の中での彼らの存在がとくに(失業が深刻化する)EUでは社会問題を引き起こしかねない状態であるため、イスラム教徒に対する冷たい視線が変わるのは難しい。イスラム教徒の人々も、そこから逃れてイスラムとして一つになり、欧米に対抗することは難しく、それが本当にイスラムかどうかは疑わしくとも、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に惹かれてしまうという状態が出る。

いったい誰が得をしているのか、ということで思い出すのが、2002年に起きたバリ島爆弾事件である。ジュマア・イスラミヤに関係するイスラム過激派の青年たちが実行し、死刑となったが、彼らにとって、ジハードという一種の自己満足以外に何が得になったのだろうか。洗脳された人間はそうなるのだといわれても、その疑問が今も解けない。

あのときのインドネシア政治を振り返ると、2004年に予定される初めての大統領直接選挙を前にして、世俗的・民族主義的な政治勢力とイスラム主義・イスラム国家建設を待望する政治勢力がしのぎを削っていた。当時、民主化を進めるインドネシアで、イスラム主義の政治家が大統領となることを危険視する見方が欧米や日本に見られた。

あの事件が起こって、イスラム政党がイスラムの色合いを弱め、世俗的・民族主義的な色をむしろ打ち出していった。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、アメリカで軍事教育を受けた経験があり、「アメリカは自分の第二の故郷」というほどの親米だった。インドネシアがイスラム国家となる可能性は遠のいた。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。でも、人質の殺害、報復・復讐といった、ミクロの感傷的な部分がクローズアップされる今だからこそ、大局的な流れのなかで、何が起こっているのか、それが起こっていることの意味は何か、ということを自分なりに見よう・考えようとすることが大事ではないかと思う。

誰が敵で誰が味方か、白黒つけることへ殊更にエネルギーを費やすことは有益だろうか。特定個人に対する中傷や誹謗ではなく、建設的な意見や批判をなぜ自粛すべきなのか。

我々は忘れてはならない。求めるべきは平和である。戦火で明日生きられるかどうかもわからない人々を含めた、みんなの平和である。

だから、蛮行を繰り返すいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織も、戦争が起こり続けて欲しいと願う勢力も、みんなの平和を願わないどんな勢力をも批判しなければならない。

もちろん、日本がそんな戦争に加わろうとするならば、それに対しても、である。じゃあどうすればいいのか、対案はないのか、という批判もあるだろう。対案などすぐには出ない。嫌なものは嫌だ。そう言うことの何が間違っているのだろうか。

戦争をしても誰も得をしない世の中を作れないものだろうか、と夢想してはいけないのか。「あれはしかたがなかったんだ」としたり顔で子どもや孫に言って済ませることだけはしたくない。

 

ワークショップ進行役(2015.1.28)&バンコク(2015.1.29-1.31)

今週は私の誕生日から始まりましたが、怒涛のような一週間でした。ふーっ。

1月27日に某日系企業でインドネシア人職員を相手に、インドネシア語で午前午後2回の講演&ワークショップを行なったことは、一つ前の活動報告で書きました。

翌28日は、経済産業省主催の「インドネシア日本、新たなパートナーシップ」(知日派セミナー)と題するワークショップで、午後の経済分科会のパネルディスカッションにおいて、日本語とインドネシア語で進行役を務めました。

パネルディスカッションなので、台本はなく、パネリストがどんなことを話すかも予め分からず、出たとこ勝負。果たして、3時間の間にうまくまとまるのかどうか、ハラハラのし通しでした。

それでも、中身のある議論をしたいと思ったので、パネリストの話した内容を咀嚼しながら、議論を深めようと努めた結果、「インドネシアの製造業競争力強化のために、インドネシアと日本が協力して人材をどのように育てるのか」という一点に絞った議論とならざるを得ず、他の想定トピックは割愛せざるを得ませんでした。いったい、会場の200名以上の出席者の方々には、どのように受け止められたのでしょうか。

これだけでもうヘロヘロで、終わった途端にどっと疲労感が溢れかけていたのですが、すぐに気を取り直し、休みもとれないまま、ワークショップのレセプションでも進行役を続けました。パネルディスカッションと比べれば、こちらはずいぶんと気が楽。

2人の友人に登壇してもらい、TEDx風にプレゼンをしてもらいました。2人ともインドネシア人と日本人のハーフで、両者の架け橋になるという思いをプレゼンに込めてもらいました。これからの新しいインドネシアと日本との関係の拡大・深化のなかで、彼らのような両者を体現する方々にどんどん活躍していただきたいと願いました。そして、進行役の私は「彼らこそがインドネシア=日本の未来そのものです」と叫んでしまいました。

28日のワークショップとレセプションが終わったら、もうダメでした。27日から連日の疲労がどっと押し寄せ、ベッドの上に横たわったら、翌朝まで眠り続けてしまいました。

29日はジャカルタからバンコクへ移動。同乗したジャカルタの英国国際学校の生徒たちが機内で大騒ぎしていたため、ゆっくりと休むこともできないまま、バンコクに到着。

夜は、束の間の楽しみでした。以前の職場の後輩や知人たちと久々に再会し、沖縄料理屋で飲んで語り合いました。私も含めて、以前の職場を離れてから様々なことがありました。でも、こうやって集まると、あたかも昨日も会ったかのような気分になれるのは、本当に嬉しいことです。ただし、疲労困憊の身に泡盛はちょっと辛かったです。

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30日は、バンコクで朝から夕方まで会議。アジア各国で活動するジェトロの中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーターが一同に会した会議でした。会議の内容はともかく、素晴らしい方々に出会えて、とてもよい刺激になりました。

さて、今日(31日)は、バンコクからジャカルタへ向かいます。今晩はジャカルタで1泊し、明日、来客アポを1本こなしてから、夜便でスラバヤへ戻ります。その後は、少しゆっくりしたいです。本当に。

 

日系企業での連続講演(2015.1.27)

1月27日は、ジャカルタから車で2時間のチレゴンへ行き、某日系企業に依頼された講演を午前・午後2回にわたって行なってきました。

内容は、どのようにして社内のコミュニケーションを改善して働きやすい職場を創っていくか、というテーマで、午前中は管理職・マネージャー、午後は一般職員を相手に、ほぼ同じ内容でインドネシア語での講義を行いました。

内容については差し控えますが、一方的な講義ではなく、参加者とやりとりをしながらの講義、というかワークショップに近いようなやり方で進め、参加者の気づきを促そうと努めました。

ただし、午前と午後ではテーマに対する反応が異なり、企業における責任の所在、帰属意識の大小の違いが現れたものと理解しました。

たとえば、事例討議で、「ある職員の子どもが産まれそうなのだが、その職員は、会社にとって必須の会議に必ず出席するように社長から命じられている。その職員は妻の出産に立ち会えないことに憤っている。このケースの場合、社長の命令は間違っているか」という問いを投げかけました。

管理職・マネージャーは「それはやむを得ない。その職員は妻に了解してもらって会議に出るべき」と答えましたが、一般職員は「その職員がかわいそうだ。社長は間違っている」と答えました。その後、色々議論を深めて、社長は最後まで代替案を探そうと努めること、妻には納得してもらうこと、出産に立ち会えずに必須の会議に出てほしいと言われたその職員は会社にとって不可欠な人材であることを認識すること、などが事前の解決策として出されました。

実は、この日は、3時間ぐらいしか寝ておらず、午前・午後、集中して参加者と議論を進めるのはかなりきついものがありました。実際、午後は、ちょっと気を許すとボーっとしてしまいそうな状態で、何とか最後まで緊張感を持ち続けられたのは本当にラッキーでした。

さて、今日(1月28日)は、午後に「日本=インドネシアの新パートナーシップ・シンポジウム」(知日派セミナー)で、日本語・インドネシア語でのバイリンガル進行役を務めます。昨晩は6時間ぐらいは眠れたので、何とか、最後まで持ちこたえられるといいのですが。

 

ジャカルタで地場中小企業調査結果ワークショップ(2015.1.14)

日本経済研究所(JERI)の2名のコンサルタントと一緒に、インドネシアの地場中小企業へのインタビュー調査結果をフィードバックするワークショップを1月14日、ジャカルタのホテル・グラン・メリアで開催しました。

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ワークショップには、工業省中小工業総局長のほか、協同組合・中小事業省からは次官が3名出席するなど、関心の高さがうかがえました。

我々のチームは、2014年10月下旬〜11月上旬に、自動車部品を製造する地場中小企業17社のインタビュー調査を行ないました。その結果を踏まえ、かつ、工業省中小工業総局および協同組合・中小事業省による政策と照らし合わせながら、いくつかのポイントに論点を絞って議論を行いました。

そのポイントとは、地場中小企業による大企業へのマーケティングと新技術導入・設備投資を支える政策金融の2点です。

大企業へのマーケティングのためには、地場中小企業による共同受注をいかに可能とするかが課題の一つですが、そのためには、そこに関わる地場中小企業各々の詳細なデータベースづくりが必要となる、と提案しました。しかし、議論を通じて、データベース作りを担う優秀なコンサルタントをどう確保するか(インドネシアの経営指導員・中小企業診断士では難しいのではないかとの声あり)、データベースを作った後のデータの更新・メンテナンスを継続して行える体制を作れるのか、といった課題も明らかになりました。

また、新技術導入・設備投資のための政策金融については、既存の工業省による機械更新補助金やKURなどが念頭に置く中小企業に比べて、自動車部品製造の中小企業の設備投資額がかなり大きくなることから、同一レベルでは考えられないのではないかという声がありました。政策金融を新たに特殊銀行のような機関を作って実施するというアイディアに対しては、過去の経験を踏まえ、消極的な意見が出されました。

ともかく、今後のインドネシアでの中小企業支援政策を考えていくうえで、いくつかのヒントを提示することはできたのではないかと思います。最終報告書は3月、委託元である日本の中小企業庁へ提出される予定です。

それにしても、日本語とインドネシア語を怪しげに使い分けながら、3時間以上の議事進行を、途中でだらけることのないよう、集中して行なったため、かなり疲れました。しかも、朝から飲まず喰わずだったので、午後3時半に、我慢できずにペペネロでミートソース・パスタを食べてしまったのでした。そして、その2時間半後には焼肉+石焼ビビンバを食べてしまったのでした。

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アフリカ雑感

今回、タンザニア、ルワンダ、ウガンダを旅してきて思ったのは、まるでインドネシアの15〜20年前のような感じ、ということだった。

どの国も長期政権で、反政府勢力を力で押さえ込んでいる。その合い間に、経済を発展させ、国民を豊かにさせる。国民が成熟するのにつれ、近い将来に、大統領を公正な民主的な選挙で選ぶことをすでに想定しているようだった。

すでに、民主的な大統領選挙を3回実施したインドネシアは、そんな彼らよりもずいぶん先を歩いているようにも見えるが、今でも、ジャカルタの憲法裁判所前の騒ぎのように、嘘や陰謀で情報を操作し、力づくで民主的な結果を変えてしまおうという勢力がまだ存在する。

自分たちの主張が聞き届けられないとなると、直接の利害関係にない外国や特定の種族を敵視して、論点をずらしてまで自分たちの存在を多々鼓舞するような、非生産的なことを今だにやっている人々がいる。万が一、こうした勢力が権力を手にするようなことがあれば、インドネシアは一気に20年前へ戻っていってしまうだろう。民主化とは、普段の努力によって維持されるものであり、いったん間違えると、簡単に逆戻りしてしまう繊細なものでもある。

それは、種族の違いを無理やり強調し、自分たちを守るために相手を攻撃し、簡単に民主化への芽を摘み取ってきたこれら東アフリカ3国を見ているとよく分かる。その意味で、インドネシアは今のゴタゴタにきっちりケリをつけ、アフリカの国々に民主主義の定着を身をもって教えられる立場を確立しなければならない。

それはそうと、アフリカの旅でもう一つ印象的だったのは、アフリカの人々は意外にきちんとしている、ということだった。真面目といってもよい。ホテルの設備などで、基本的なアメニティや設備がしっかりしている。給仕の振る舞いもそつがなく、無駄にブラブラしているようなところがない。インドネシアでは、目に見えないからといって手を抜くことが頻繁にあるが、そういう素振りをあまり見かけなかった。

インドネシアからアフリカへ出かけて、そろそろ日本=インドネシア、日本=アフリカという形ではなく、インドネシア=アフリカという関係を促していける時代が来ているのではないかという予感がした。それは、ともすると日本に見られがちな上から目線ではなく、インドネシアとアフリカとが対等な立場で新しい何かを作り始めていく、という関係を構築できるのではないかと感じた。

実際、東アフリカ経済におけるインド系、パキスタン系、アラブ系商人の活躍は目を見張った。ルワンダのキガリで見た「エキスポ」には、パキスタン・コーナーやエジプト・コーナーが広く取ってあり、盛んに商売をしていた。中古車輸入・販売を手がけているのは、多くがパキスタン系で、おそらく彼らが日本からの中古車輸出をも手がけているのだろう。我々の知らないところで、彼らはすでに東アフリカ経済にとって不可欠な存在となっている。

第1回アジア・アフリカ会議は1955年、インドネシアのバンドンで開かれた。しかしそれ以降、インドネシアはアフリカからずっと遠い存在になってしまったような気がする。

インドネシアでアフリカの話になれば、ナイジェリア人が麻薬や覚醒剤を持ち込むといった話になるし、タクシーの運転手は、体臭がきついといってアフリカ人の乗客を毛嫌いする。あまりいいイメージで語られることはない。しかし、実際にインドネシアの人々がアフリカに行って人々と交われば、こうしたイメージは変わってくるだろう。

相手を知るということから相互理解と尊敬が生まれる。そして自分自身を深く知ることも重要である。忙しい、時間がないと言いながら、物事をインスタントに考えてしまう、知識が単なるレッテル貼りになってしまう、空気が支配しているとうそぶく世の中を、もう一度当たり前の普通の世の中へ戻していきたい。

あなたが私のことを知り、
あなたが本当にあなた自身のことを知っていたならば、
あなたは私を殺すことなどなかったはずなのに。
If you knew me
and you really knew yourself,
you would not have killed me.

キガリのジェノサイド記念館の壁に貼られたこの言葉を見ながら、人が人をもっとよりよく知り合える機会づくりをしたい、人と人をもっとつなげる人になりたい、そのために、自分自身を常に開いていきたい。そう、真に思った。

赤い◯◯と緑の☓☓をお供に旅に出る

つい数日前まで、この国は大統領選挙の開票結果発表でけっこうな騒ぎだったはずだが、なにか遠い昔の話のような気がしてくる。

7月25日、金曜日はまだ平日なのに、周囲はすでにお休みモード。来週のレバランを前に、故郷へ帰省する人々で道路は大渋滞、鉄道は大混雑、という報道が続く。

スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。

そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。

いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。

旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。

お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。

赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。

ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。

ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。

緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。

緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。

この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。

というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。

東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。

東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。

では、行ってきま〜す!

大統領選挙の真の勝者はKawal Pemilu

今回の大統領選挙の勝者はジョコウィ=カラ組だが、真の勝者は、Kawal Pemilu(総選挙を守る、の意)という民間組織に集ったボランティアたちだったと思う。

今回の開票プロセスは、公開性が徹底された。なんと投票所レベルでの開票集計結果表がすべて総選挙委員会のウェブサイトに掲載されたのである。

集計結果表は、投票所レベル(C1)、郡レベル(DA1)、県・市レベル(DB1)、州レベル(DC1)とあり、すべてその結果を見ることができる。とくに、投票所レベル(C1)については、集計結果表がスキャンされて画像データで掲載されている。

投票所レベル(C1)
郡レベル(DA1)
県・市レベル(DB1)
州レベル(DC1)

そして、インドネシア全国あるいは世界中の名も無きボランティアたち約700人が、投票所レベル(C1)のデータをスキャン画像から読み取り、手分けしてそれを入力し、投票所レベルから村レベル、郡レベル、県・市レベル、州レベル、全国レベルに至るまで、ひと目で開票結果が整合的になっているかどうか分かるようにした。

これは総選挙委員会の公式開票プロセスではないが、万が一、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われたとしても、それがすぐに分かってしまう状態になったのである。

日本では、各投票所のデータがウェブで検討するなどということは行われない。なぜなら、開票プロセスでデータの捏造が行われない信頼が確立しているからである。

しかし、インドネシアでは、その信頼が確立されていないだけでなく、今回のような、ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンを通じたなりふり構わぬ汚い選挙で僅差の場合、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われ、捏造データが公式データとなってしまう可能性が極めて高かった。今から振り返っても、その危険を感じてぞっとする。

実際、ボランティアたちのKawal Pemiluのサーバーはハッカーたちの激しいサイバー攻撃にさらされた。その攻撃に伴うデータ改ざんの可能性をはねのけて、何とかゴールまで辿り着いたというわけである。

Kawal Pemiluの集計結果はウェブ上に掲載されているので、それと総選挙委員会の公式集計結果とを比べてみてほしい。どちらも投票所レベルのデータから始まっているので当然といえば当然なのだが、数字はほとんど同じといってよい。

Kawal Pemiluの集計結果
総選挙委員会の公式集計結果

プラボウォ=ハッタ組は、これらのデータが総選挙委員会による組織的な捏造だと批判している。しかし、こんな公開性の高い開票プロセスを採っている国は、インドネシア以外に世界中でどれほどあるだろうか。

結果的に、総選挙委員会の活動は公開性のある正当性のあるものである、と見なされた形になる。しかし、Kawal Pemiluのボランティアたちの作業があったからこそ、データのすり替えや捏造を防げたのではないだろうか。

誹謗・中傷の渦巻く汚い選挙運動が行われた今回、総選挙委員会とKawal Pemiluの仕事は賞賛に値する。加えて、選挙の準備段階から投票、投票箱の搬送に至るまで、公正な選挙を行うためという一心で一生懸命に活動した全国津々浦々の無数の人々の存在を忘れてはならない。

これら、懸命に民主主義を守ろうとする人々の活動があり、それを受け入れ認める土壌が培われたインドネシアを、我々はもっと信じてもいいのではないかと思っている。

大統領選挙結果発表が終わって

7月22日、総選挙委員会は大統領選挙開票結果を発表し、ジョコウィ=カラ組が勝利したことを確定した。

これに先立ち、対立候補ペアのプラボウォ=ハッタ組は、総選挙開票プロセスに様々な問題があるとして、大統領選挙自体の有効性に疑問を呈し、大統領選挙から引く(tarik diri)と発表した。その後、大統領選挙から辞退(mengundurkan diri)したわけではないとの弁明が出たり、「結果を問題にしているのではなくプロセスを問題にしているのだ」という発言が出たりして、プラボウォ=ハッタ組のなかで混乱が生じている。

この状況を、日本のマスコミも含めた多くの人々は、「プラボウォが負けを認めたくないのだ」「事実上の敗北を認めたのと同じことだ」と色々に捉えた。

大統領選挙の開票プロセスを問題にしたということは、プラボウォ=ハッタ組は総選挙委員会を批判・敵視したということである。実際、大統領選挙開票結果の発表に対して、プラボウォ=ハッタ組は証人を送らなかったし、陣営の誰も出席しなかった。

プラボウォ=ハッタ組は、不正があったと思しき投票所での投票のやり直しや開票のやり直しを求めている。これに対して、総選挙委員会は、不正があったという証拠をプラボウォ=ハッタ組に求めているが、これが証拠だというものがメディアには明確に現れてこない。それをもって、プラボウォ=ハッタ組には、憲法裁判所へ不服申立を行うよう求められている。当初は憲法裁判所へ不服申立しないという声も聞こえたものの、結局、プラボウォ=ハッタ組は不服申立を行なった。

これらの一連の不服行動で目につくのは、副大統領候補だったハッタの姿が見当たらないことである。プラボウォ=ハッタ組の名前で行動しているのだが、ハッタがいないのである。これにはいろいろな憶測が流れているし、ハッタ自身は、総選挙委員会での開票結果を尊重する旨の発言を行ったとされている。

プラボウォが「大統領選挙から引く」と演説した件についても、内部では誰がそれを進言したのかであたふたしている。ゴルカル党重鎮のアクバル・タンジュン元党首だという声が上がると、アクバルは「自分ではなく陣営内の法律チームだ」という始末。どうやら、「大統領選挙から引く」とプラボウォに演説させたこと自体が戦略的に間違っていたのではないかとの疑念が上がっている様子だ。

要するに、プラボウォ周辺は、総選挙委員会の開票プロセスや開票結果について反論し、自らが真の勝者であることを証明することにあまり自信がなさそうな気配がある。800万票の差を覆すには、どのような手法がありうるのか。現実的にそれは無理なのではないか。時間が経てば経つほど、プラボウォの周辺から機会主義的な政治家たちが去って行くことであろう。プラボウォを支えようという熱は急速に冷めつつある。

ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンも含めて、自分に有利なように事実を作り替えるという戦略、そうやって国民を洗脳できるという戦略は、ある意味、国民を愚弄し馬鹿にした戦略だったともいえる。この場に至っても、ジョコウィへの誹謗中傷攻撃は止んでいない。

シンガポールなど海外に多数のジョコウィ夫妻の隠し口座があるという怪文書が現れている。そんな話がまだ通じると思っている、それで世論を反ジョコウィへ転換できると思っている浅はかさこそが、今回のプラボウォ=ハッタ組とそれにすがった旧来エリートたちの態度を象徴している。

メディアは、嬉々としてジョコウィ「新大統領」を追いかけ回している。他方、どんな手段を使ってでも、どんなに資金をつぎ込んででも、大統領になろうと執念を燃やしたプラボウォは、「大統領選挙から引く」という発言によってかえって政治家としての未熟さを露呈させ、自滅の方向へ進んでしまった感がある。あの場で「敗北」という結果を受け入れ、自身が党首を務めるグリンドラ党を健全野党として育成するという姿勢を見せていれば、今頃、彼は素晴らしい人物だと賞賛されていたことであろう。

一部で懸念された暴動のような事態は、今回は起こらなかった。法規や手続きに従って物事を進めなければならないということが国民の間にしっかり浸透したことに加えて、騒ぎを起こしても国民の多くの支持を得ることはない、昔のようなすぐ暴動の起こるインドネシアへは戻りたくない、もう戻ることなどありえない、そんな空気が、経済発展の続くインドネシアで社会全体に共有されているのだと筆者は感じていた。

ジョコウィになったからといって、インドネシアのすべてがよりうまくいくとは限らない。旧来エリート層とのせめぎ合いは続くだろうし、経済が発展したからこその新たな困難な問題も多発するだろう。それを権力者が魔法使いのように解決してみせる時代が終わったことを国民は意識していくことだろう。

国民がデマや嘘情報で操作される時代は終わり、問題解決にあたって国民も傍観者として済ませるわけにはいかない時代に入ったのかもしれない。スハルト時代から言われてきた「浮遊する大衆」(floating mass)という、権力者の統治概念が変わり始めたともいえる。

スラバヤへ戻る

日本の各所での講演等を終えて、7月19日にスラバヤへ戻った。

今回は、新設のガルーダ・インドネシア航空の羽田夜0:30発のジャカルタ行きに乗り、ジャカルタでトランジットしてから、スラバヤへ戻った。この便は、全日空とのコードシェア便でもある。

羽田空港では、三連休をバリなどで過ごすと思しき家族連れやサーフボードを抱えた若者たちが並んでおり、インドネシア人らしき客は数人だけだった。何となく場違いな雰囲気を感じつつ、チェックイン。

すると、こちらから何もお願いしていないのに、ビジネス・クラスへアップグレードしてくれるという。ただし、席のみで、食事はエコノミー、という話。ガルーダ・マイルズのゴールドEC+会員だからなのかもしれない。

夜行便で、フラットシートになるビジネス・クラスへのアップグレードは、本当にラッキー以外の何物でもない。搭乗すると、2つに分かれたビジネス・クラスの客室には、私以外に乗客は一人しかいない。なのに、わざわざその乗客と隣どおしに座らされている。

ほどなく、スチュワーデスがやってきて、「空いているので、どこでもお好きな席へどうぞ」と言ってくる。そこで、いびきでもかいたら隣人に迷惑だろうと思い、他の席へ移動した。

夜食をお断りし、さっそく、フラットシートにして寝る。これはよい。エコノミーのディスカウントなのに、夜行便でフラットシートとは。夜行便にしてはかなりしっかり眠ることができた。

ジャカルタ到着の2時間前に朝食を用意すると言っていたが、持ってきてくれたのは1時間半前だった。乗客が少なく、寝ている私をギリギリまで起こさずに待ってくれたということか。トイレに行こうとすると、別のビジネス・クラスの席で、スチュワーデスがイスラム教の礼拝をしていた。

朝食は期待していなかった。当然、エコノミーと同じものが出るのだろうと思っていた。ところが、食事もビジネス・クラスのものだった。以前、ジャカルタの「父」を日本へ連れて行ったときに、ガルーダ・インドネシアのビジネス・クラスの食事に感嘆したのだが、それにまた出会えるとは。

朝食は、まず、ちょっと凝ったお粥。前回のタピオカ粥のほうが数段上。

次はオムレツ。添えられたポテトは今回のほうが美味しかった。

最後は、イチゴとクリームのデザート。甘い。レモングラスらしき葉っぱが真ん中に立っているのがおしゃれ、なのかな?

慌ただしく着陸準備に入り、午前6時に無事ジャカルタ到着。朝早いためか、到着時査証(Visa on Arrival)のカウンターも長期一時滞在許可証(KITAS)保持者向けのカウンターも閉まっていて、係員がいない。到着時査証が必要な乗客は戸惑っている様子。

KITAS保持者の私は、係員の指示に従って、そのままメインカウンターへ行き、難なく入国審査を終了。

羽田で預けたスーツケースは、税関申告がないのでそのままスラバヤまでスルーで行けるはずだが、ガルーダの職員が念のために確認してくれる。スーツケース無しで税関のグリーンランプを通り過ぎ、出口へ出ようとすると、左側に、トランジット用の入口が。そこを通って、外へいったん出ることなく、国内線出発カウンター・ロビーを通り抜け、エスカレーターで2階の出発階へ進む。

なかなかスムーズだった。対照的だったのが、日本へ行くときにトランジットしたバリのデンパサール空港。スラバヤから国内線で着き、国際線ターミナルへどう行けばいいのか、表示板が見当たらない。「私が案内しましょう」と何人もの若者が寄ってくる。空港は新しいが、当面は、デンパサールでのトランジットは避けたいと思った。

空港設備の悪名高きジャカルタのほうが乗換はスムーズだった。もっとも、人があまりいない朝だったということもあるのだろうが。

ラウンジで少し休み、1時間遅れのガルーダ便でスラバヤへ午前10時過ぎに到着した。

レバランにはまた、インドネシアから国外へ飛ぶ。久々の全く仕事なしの旅行。それまで1週間、スラバヤの予定だ。

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