大統領選挙投票日を過ぎて

7月9日のインドネシア大統領選挙投票日は、投票自体は大きな混乱もなく終わることができたが、予想通り、両陣営がともに勝利宣言をする事態となった。

これまで度重なる選挙でクイックカウントを行なってきた調査会社は、こぞってジョコウィ=カラ組の勝利と伝えたが、そのほとんどは、ジョコウィ=カラ組に与した立場を採ってきた。他方、プラボウォ=ハッタ組の勝利と伝えるクイックカウントを行なってきた調査会社は無名で、かつて南スマトラ州知事選挙の際にクイックカウントの数字を偽造した疑いのある会社や、陣営の選対関係者が関わっているとされる会社が含まれていた。

ここで危惧されるのは、これまでの選挙で培われてきたクイックカウントへの信頼が今回の大統領選挙で失われるのではないかということである。誹謗・中傷を含めた情報戦のなかで、クイックカウントまでもがその一端になってしまう可能性が明確に現れたからである。

その意味で、国営のインドネシア共和国ラジオ(RRI)が今回、クイックカウントを行なったことは注目される。RRIのクイックカウントは中立とみなされたからである。このRRIのクイックカウントの結果はジョコウィ=カラ組の勝利を伝え、これまで何度もクイックカウントを行なってきた有名調査会社のそれと変わらなかったことで、それら有名調査会社のプロフェッショナル度が逆に確認されることになった。

プラボウォ=ハッタ組が「クイックカウントはヤラセだ」と主張しても、RRIの存在により、辛うじて中立性が保たれた形になっている。

筆者の長いインドネシア・ウォッチ経験から言うと、これまで、「ヤラセだ」と相手を非難する側こそがヤラセを行なっているケースが極めて多かった。それは、自らが責められる前に相手を責めるための方便である。自らに有利なように情報操作をしているのだが、相手からそう指摘される前に、「相手が自分に有利なように情報操作している」と先制して非難をするのである。

今回も、どうやらそのような展開だったと推察できる。プラボウォ=ハッタ組の勝利を伝えたクイックカウントのデータの信ぴょう性が次々に暴かれている。彼らの勝利を最後まで伝えてきた民間テレビTV Oneは、信ぴょう性への疑問が高まったためか、株価が下落し、途中でプラボウォ=ハッタ組優勢のクイックカウントを流すのをやめてしまったらしい。

本当にそうなのか、圧力をかけるためにジョコウィ支持者が同株を売りまくったのか、真相はわからないが、実際、選挙運動期間中のTV Oneのプラボウォ=ハッタ組への偏向、ジョコウィへの攻撃ぶりには目に余るものがあった。ずっと見続けていると、容易に洗脳されてしまうような錯覚に陥った。もちろん、ジョコウィ=カラ組を支持する内容を流し続けたMetro TVも偏向していたが、相手への攻撃という観点からすると、TV Oneのほうが遥かにすごかった。

しかし、それを客観的に計測できない以上、メディアはTV OneとMetro TVを両成敗せざるを得なかったのである。

プラボウォ=ハッタ組は、クイックカウント攻勢での劣勢のなか、福祉正義党(PKS)の末端組織を使って情報を集め、「リアルカウント」の結果を発表し始めた。そして、そのリアルカウントでは、プラボウォ=ハッタ組の勝利を示し続けている。ところが、この数字が投票日よりも前に出された予測値に似通っているとの指摘も出ている。

ジョコウィ=カラ組も「リアルカウント」の結果を集計し始めた。当然、こちらではジョコウィ=カラ組の勝利という結果を出している。

情報操作合戦は、クイックカウントから「リアルカウント」へと移っている。

投票所レベルでの集計表は、総選挙委員会(KPU)のホームページにスキャンされたファイルで表示されていて、誰でも見られるようになっていた。ところが、そのなかに、両陣営の片方しか証人のサインのないものや、集計数字の合わないものなどが発見された。KPUは単なる技術ミスとしているが、不正の可能性がすでに指摘されている。理由は定かではないが、7月12日夜時点で、その投票所レベルでの集計表データがウェブ上で見られなくなった。

KPUは7月22日に最終得票結果を発表するが、7月10〜12日に村落レベル、13〜15日に郡レベル、16〜17日に県・市レベル、18〜20日に州レベルで集計作業が行われる。全国レベルの集計は20〜22日に行われる。

このそれぞれの過程で結果が出る前に、何らかの票操作が行われる可能性がある。なぜならば、今回の選挙で、少なからぬ行政の長がプラボウォ=ハッタ組への支持を明確にしており、その影響を確実に排除できるかどうかに疑問符が生じるからである。彼らもまた、ジョコウィが大統領になった場合に既得権益が維持できるかどうか、不安を抱く側にいる。他方、ジョコウィ=カラ組も何らかの票操作を行う可能性が絶対ないとは言い切れない。これらを監視するためにも、両陣営による「リアルカウント」の情報収集と票操作への監視が不可欠になるのだろう。

たとえば、マレーシアでは、投票所投票(9008票)でジョコウィ=カラ組が53.46%の得票で勝ったが、郵送投票では、プラボウォ=ハッタ組が3万9671票でジョコウィ=カラ組の3709票を圧倒した。その結果、合計では、プラボウォが4万3770票(得票率83%)で圧勝した。これをどう読むのか。投票所投票と郵送投票でこれほど極端に差がつくものなのか。

様々な状況で不利なはずのプラボウォ=ハッタ組の自信が気になる。すでに、「勝利」のための何らかのシナリオを用意しているのだろうか。ジョコウィ=カラ組も同様にシナリオを用意していることだろう。表面的な動きはあまり目立たないが、7月22日までに全国の隅々で起こる開票結果の正当性の確認作業が重要になる。

大統領選挙投票日前夜

7月5日から日本へ帰っている。私の知り合いのほとんどの日本人インドネシア政治研究者は今、ジャカルタに集結しているようだ。いつも自分は他人と違う行動を採るのが性分のようだ。

これまでずっと大統領選挙をめぐる動向を追いながら、情報というものについていろいろと考えていた。捏造・偽造情報を流したり、重箱の隅をつつくように小さなゴシップを大きな過ちとして大きく騒ぐようなことは、これまでの選挙ではあまり露骨に現れなかった。そして、それらを専門にやり続けながら、報酬をもらっている奴がいることを想像した。

インドネシア人は他人の間違いを詮索したり、揚げ足を取ったり、フォトショップを使って写真を偽造したり、根も葉もない噂をわざと流して他人を貶めたりすることに、こんなにも労力とエネルギーを使うことを厭わないのか、と悲しくなった。これだけの労力とエネルギーと「想像力」をもっとプラスに使えば、インドネシアはもっと活力のある良い国になっていくはずだと思い続け、インドネシアの友人たちへ向けてその気持ちをインドネシア語でツイートしてきた。

今回の大統領選挙はそういう選挙だった。情報合戦や心理戦争にどちらの陣営が屈するかの勝負だった。派手にやったのはプラボウォ陣営である。陣営が直接指揮した形をあえて採ってはいないが、ジャワ島のプサントレン(イスラム寄宿学校)へジョコウィを誹謗中傷したタブロイドをくまなく流すには、プサントレンの住所リストを持った宗教省、大量のそれを送付したバンドン中央郵便局などの、少なくとも間接的な協力がなければ不可能である。

プラボウォの個人レターが学校経由で教師へ送られた件も、教育文化省などによる学校の住所リストがなければ不可能である。

ジョコウィへの誹謗中傷は、目を覆いたくなるほどであった。実は華人だ、キリスト教徒だ、父親はシンガポールの金持ちだ、インドネシア共産党員の子供だ、といった話が次々に出され、死亡広告まで流された。温厚で感情を表に出さないジャワ人のジョコウィも相当に頭にきていた様子で、法的措置を関係機関へ求めたが、警察などの動きは予想以上に慎重だった。

他方、プラボウォへの批判は、彼の過去の人権侵害疑惑に集中した。とくに、1998年の活動家拉致事件やジャカルタ暴動への関与の疑いが題材となった。こちらは、本当の真実かどうかは別にして、軍のなかでプラボウォに対する措置が採られ、軍籍から離脱させられたという事実がある。プラボウォ側はその事実が嘘であって真実ではないと主張するが、彼がそのように軍から扱われたというのは、真実かどうかは別として、事実である。プラボウォ側はこれを誹謗・中傷とし、ジョコウィへの誹謗・中傷と同じレベルの話として、メディアなどで取り扱われるように仕向けた。

しかし、これは作り話と事実(真実かどうかは定かではない)との違いであって、誹謗・中傷の同列で扱えるものではない。だが、「中立」を装おうとするメディアは、それを並列で扱った。事実をねじ曲げて嘘話を捏造して流布させたプラボウォ側のほうがはるかに悪質と言わざるをえない。

5回のテレビ討論をすべて見た。内容的には中身の乏しい議論に終始したが、何か一つでも新しいことを言おうとするジョコウィ側と、テレビを通じて自分の強い指導者イメージを植え付けようとするプラボウォ側とがかなり対照的だった。そして、テレビ討論を見ている限りでは、プラボウォ側に考察の浅さと中身のなさが浮き彫りになり、果ては、ジョコウィ側の主張に同意を繰り返すことも度々だった。個々の議論は甲乙あるが、5回全体で見ると、ジョコウィ側の勝ちであった。

それでも、メディアはプラボウォの支持率が急速に上昇し、ジョコウィと僅差になったと報じる。筆者はそれが正直理解できなかった。プラボウォが選挙戦を通じて、なにか新しい画期的な主張をした記憶はない。「国富の漏れ」の話を繰り返すだけで、それを塞いでどのように効率的な政府を作るのか、政治マフィア間で山分けされないような仕組みをどう作るのか、彼は一言も話していなかった。それなのに、急速に支持率を上げているという。その理由は、ブラック・キャンペーンやネガティブ・キャンペーンを通じ、誹謗・中傷を広めることで、ジョコウィの支持率を落とす以外に理由は考えられなかった。加えて、一部ではかなり露骨にプラボウォ支持への強制や脅迫が行われているという話も伝わった。

もしこれでプラボウォが当選したら、プラボウォは嬉しいのだろうかと思った。相手を貶め、嘘八百の情報を流し、誹謗・中傷を繰り返した末に当選して、誇りを持てるのだろうか、と。プラボウォの周りには、「どんな手段を使ってでも勝てばいい」と公言する政治家も多数いる。彼らにとっては、自分の利益を守り、注ぎ込んだ資金の回収のためには、どうしても何が何でもプラボウォに勝ってもらわなければならないのである。そこには、モラルとか宗教上の教えなど、関係なくなっているのである。インドネシア人の友人は「この病気は相当に重い」と評した。

数日前から、一足早く海外で大統領選挙の投票が行われたが、その結果が伝わるなかで、風向きが大きく変わりだした。投票所の出口調査で、ほとんどの国でジョコウィが予想以上に票を取ったのである。その結果がメディアに乗り出すと、今度は、ほとんどの国でプラボウォが勝ったという出口調査結果が出回り始めた。ところが、面白いことに、プラボウォが勝ったという結果はいつの間にか消えてしまった。ジョコウィが勝ったという情報のほうがどうも正しかった様子である。

そうか、この手法でプラボウォの支持率上昇を演出しようとしたのかもしれない。若者たちが次々に面白い支持ビデオを連発するジョコウィ側に比べて、相変わらず、プラボウォのような強い指導者が必要、という以上の主張ができていない。ジョコウィ側のような自発的な勝手連の動きはほとんどなく、政党や組織が上から抑える旧来のやり方に終始している。ジョコウィの真似をしてプラボウォ側の選対も市場などへ出かけるが、相変わらずそこでカネを配るなど、住民目線ということがまるで分かっていない。

住民をコントロール可能と思ったか、住民が自発的に動くことを求めたか。プラボウォ側とジョコウィ側の違いを一言で言えば、そうなる。誹謗・中傷を信じてジョコウィに投票しないように仕向ける、ゆるければ政党や組織を使ってでも強制する、それがプラボウォ側のやり方だった。他方、ジョコウィ側は、政党や組織で動くところもあったが、それに加えて自発的な勝手連が勝手に支持活動を行うに任せた。

住民が受動から能動へ変わる、そんな動きが見え始めたジョコウィ側の選挙戦だった。そんな彼らの動きを、まだまだカネで動くインドネシアのメディアは残念ながら追い切れていない。

プラボウォが勝ってもジョコウィが勝っても、その先のインドネシアには課題が山積している。しかし、それをどう解決していくか、住民がどう関わっていくのか。そのアプローチに関しては両者に大きな違いがある。

大統領選挙投票日前夜。既得権益を守りたいエリートとそうではない非エリートの戦いは、メディアが伝えるよりも意外に大きな差がつきそうな予感がする。

さて、それが当たるのかどうか。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが、制服を着た屈強な男たち6〜7人に取り囲まれ、説教をされ、連れられてトラックに載せられ、どこかへ連れて行かれた。

ただ、それだけのことである。

様子を見ていたら、屈強な男の一人が説明してくれた。「見たらわかるだろ。オラン・ギラ(orang gila)だよ。放置しておいたら何するか分からない。危ないだろ」と。見たところ、おじいさんは酔っている様子も、また誰かに暴力をふるうような様子もない。

屈強な男は続けていった。「都市の景観を悪くするし・・・」と。ええっ、景観を悪くするという理由で、ちょっと「えへへ~」という感じでただ笑って座っているだけのおじいさんを街角から排除するのか・・・。

スラバヤは都市の景観を大事にする街として知られ、大通りには木々や花々が植えられて緑あふれている。清掃係が1日に何回も大通りを掃除している。見た目にはゴミの落ちていない、きれいな町である。

その一端は、異質なものを排除することで成り立っていたのである。スラバヤで見てはいけないものを見てしまったのだろうか。

多様性の中の統一を謳うこの国で起きている様々な少数派排除の動きのことを思った。多様性を強調する世界と「普通」から外れたものを排除する世界は、実は紙一重なのだ。いや、もっと言えば、表裏一体なのかもしれない。

いや、社会ではなく、我々自身にその両面性があるとはいえないだろうか。多様性の尊重をいう場合でもその許容できる範囲があり、その範囲を外れた異質なものを排除するのだ。スラバヤやインドネシア、もしかしたら日本も、許容できる範囲の大きさの差こそあれ、同じなのではないかと思った。

赤い帽子のおじいさんは、きっと、社会施設に連れて行かれ、家族がいるかどうか尋ねられ、いない場合はしばらくそこで引き取ってもらえているのだろう。そう信じたい。

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。

奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。

バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。

これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。

ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ

5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。

一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

マドゥラ(2):ラブハン村の朝

5月30日は、まず朝起きて、ラブハン村の朝市を覗きに行った。朝市と言っても、村の海岸沿いの道路沿いに商人たちが店を広げている、という至ってシンプルなものである。

全長わずか200メートル程度。有力キアイの息子であるファウジル君は、子供の頃から商人たちみんなが知っている。歩いているとあちこちから彼に声がかかる。

柿が売られていた。食べてみると甘い。でも、甘柿ではない様子。実のまわりが白いのが気になる。

料理の素がこんな形で売られている。街なかのスーパーで売られているものの中身だけ、簡易パッケージで売っているような感じだ。

この材料にヤシ砂糖を入れて混ぜると下のようになる。それぞれの素材の食感が異なって、なかなか美味しい。お菓子の名前を聞くのを忘れたが、マドゥラでは昔から普通に食べられているお菓子ということだった。

このお菓子を売っていたおばさん。

次は、この村で30年以上クルプック(魚せんべい)を売っているおじさん。クルプックは、スラバヤの南のシドアルジョから仕入れている。「日本語でなんというのか?」と聞かれたので教えたら、「センベーイ、センベーイ」と言って売り歩き始めた。

朝市を見て回った後、今度は、マドゥラサに呼ばれた。マドゥラサは、イスラム教をメインとする宗教学校で、小学校相当から高校相当まであり、インドネシアでは、教育文化省ではなく、宗教省が管轄する。マドゥラサでは、中学校相当の生徒を相手に、日本の話をしてくれと頼まれた。

生徒たちにまず、「マドゥラの誇るものはなにか」と尋ねた。きれいな海岸、スラマドゥ橋、美味しい料理、闘牛(カラパン・サピ)などが出てきた。でも、男子生徒は「経験を積むため」マドゥラの外へ出稼ぎに行きたいと言い、女子生徒は「卒業したら結婚して家庭に入る」というのが大半だった。

先生方とも記念写真。

イスラム教に基づいた宗教学校ではあるが、生徒たちはごく普通の子どもたちだった。このマドゥラサは、ファウジル君の叔父さんが校長を務め、ファウジル君の父親らキアイたちが所有・運営している。

見た目はのどかなラブハン村だが、開発の波が押し寄せてくる気配がある。この村を含む広範な場所に、コンテナ港や大規模な工業団地を作るという話が出ており、すでに、多くのキアイたちが用地提供になびいている。ファウジル君の父親曰く、外部からNGOと称するマフィアどもがやってきて、開発に反対する運動を始めているということである。キアイたちには、真に村人のことを思って開発反対を唱えているというよりも、用地価格のつり上げを狙った動きと捉えられているようだった。

キアイたちがまだしっかりと「統治」しているラブハン村。これからどう変わっていくのだろうか。ここではまだ、開発は「外からやってくるもの」と捉えられている。

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。

その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。

ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。

中ジャワ州・サユン総合エコ工業団地

5月28日、中ジャワ州デマック(Demak)県にあるサユン総合エコ工業団地(Sayung Integrated Eco-Industrial Park)の建設予定地を視察した。

この工業団地は、中ジャワ州の州都スマラン市のすぐ東隣のデマック県西部サユン地区に建設中である。渋滞がなければ、スマラン市中心部や空港から車で30分、タンジュン・エマス港から車で25分の距離である。スマランとスラバヤを結ぶ国道沿いに建設中で、道路へのアクセスはとても良い。

工業団地が全部完成するのはまだ先で、確保した用地面積は1600ヘクタールに上る。そのうちの300ヘクタールを第1期工事として建設中なのである。下の写真のようなサイトプランが計画されている。

現在の予定では、2014年後半までに用地を整備し、2014年末には入居者が工場建設を開始、同時にガスや電力や用水を供給するインフラ整備を進める。工業団地内の燃料は基本的に天然ガスを使い、それは中ジャワ州東部のチェプ・ガス田からパイプラインで供給されるそうである。

正式オープンは2014年6月を予定し、訪問した時点ではまだだったが、すでに地場企業が1社が用地を購入済みで、マレーシアからの外資系企業1社を含む3社が用地購入を検討中とのことである。

サユン総合エコ工業団地を管理・経営するのは、スマランに本拠を置く地場民間のムガン・グループ(Mugan Group)という企業グループで、同企業グループ内の企業PT. Jawa Tengah Lahan Andalan(通称:Jateng Land)が、スマラン市西部で工業団地を管理・運営する国営ウィジャヤクスマ工業団地(Kawasan Industri Wijayakusuma: KIW)と合弁を組んでいる。

ムガン・グループは、携帯電話のEverCossやタブレットAdvanなど、地場ブランド製品の製造・販売がメインである。これまでは、全面的に中国から部品を輸入して組み立ててきたが、7月以降は、部品調達もインドネシア国内から行う予定とのことである。

今回、たまたまエドワード社長に面会できた。社長は、「ジャカルタ中心ではなく、地方から地場ブランドの製造業を興していきたい」と熱く語り、サユン総合エコ工業団地を「インドネシアにおける本当の意味でのエコな工業団地にしたい」と述べた。

Jateng Landの担当者によると、今ならば、用地価格を特別価格として1平方メートル当たり100万ルピア(約1万円)前後で提供できるとのことである。

より詳しい情報については、下記の連絡先、または私(matsui@matsui-glocal.com)までご連絡いただきたい。

PT. Jawa Tengah Lahan Andalan (Jateng Land)
Menara Suara Merdeka, 8th Floor
Jl. Pandanaran No. 30, Semarang
Phone/Fax: +62-24-76928822
Email: jatengland@gmail.com
Contact Person: Mr. Setyo Adi

《お知らせ》大統領選挙に関する講演会(6月11日、ジャカルタ)

<インドネシア・ウォッチ講演会のお知らせ>
下記の通り、半年に一度、私が講師となり、インドネシアの政治経済状況を概観・分析する「インドネシア・ウォッチ講演会」を開催します。
皆様のご参加をお待ちしております。
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 大統領選挙と新政権の展望
 ~インドネシアの何が変わり、何が変わらないのか~
 講師 :松井和久(JACシニアアソシエイト)
 日時  : 2014年6月11日(水)16:30 – 18:30(受付開始 16:00)
 場所  : ホテル・サリパンパシフィック(ジャカルタ)
      Hotel Sari Pan Pacific, Jl. M.H. Thamrin No.6, Jakarta
 参加費: 600,000 ルピア + VAT 10 %
 お申し込み方法: 下記をご記入の上、メールにてお申し込みください。
 1)会社名 2)氏名および役職 3)メールアドレス 4)電話番号(できれば携帯番号)
 申込先: JACビジネスセンター(担当:田巻) tamaki@jac-bc.co.id
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インドネシアの大統領選挙は、プラボウォ=ハッタ組が「1」、ジョコウィ=カラ組が「2」と、候補者ペア番号も決まり、いよいよ6月3日から選挙運動が始まります。
巷のメディアによる「世論調査」では、ジョコウィ支持が底堅いものの伸びが鈍っているのに対して、プラボウォ支持が伸びていると評されています。現状では、まだジョコウィ支持がプラボウォ支持を上回っていますが、この選挙運動でどのような展開になっていくのか。ズバリ、どちらが勝つのか。
講演開始の直前まで、様々な動きが起こってくるものと見られます。講演では、その時点での最新状況を踏まえて、かつ、今回の選挙のインドネシアの政治史上の位置づけも意識しながら、今回の大統領選挙とその後のインドネシア政治・経済・社会について、私なりの見方をご披露したいと思います。

Alfa Martの赤い端末

一昨日(5月27日)、近所のAlfa Mart(インドネシア地場のコンビニ)へ行ったら、ATMの脇に赤っぽい箱のようなものが置いてあった。よくみると、赤い端末である。

ちょうど、スマラン行きの鉄道の切符を買いたかったので、操作してみた。端末の指示に従って、出発日や行先を入れていき、最後に支払いのところまで来た。

けっこう、いけるじゃん。と思ったら、最後が難所だった。自分のID番号を入れるのである。それがすべて数字。

私のKITAS(外国人一時滞在証)IDにはアルファベットが混じっており、入力できない。というか、一般の旅行客はこの端末で鉄道の切符は買えないのだ。パスポート番号にもアルファベットが交じるからである。もちろん、インドネシア国籍で住民登録番号を持っている人ならば買えるのだろう。

しかたないので、レジに行き、店員にKITASを渡して登録してもらい、無事に鉄道の切符を買うことができた。

今日(5月29日)は、来週、マカッサルへ行くライオン航空のチケットを買ってみた。まず、自分のパソコンでインターネット予約し、それをAlfa Martで買えるように指示。3時間以内に購入せよとのメッセージが出る。

Alfa Martへ出向いて、再び赤い端末へ。ライオン航空のところをタッチし、インターネット予約で出されたAlfa Mart用の予約数字番号(ブッキングコードではない)を入力。すると、「あなたの待ち合わせ番号は21番です」といった表示が画面に出る。でも、日本のようにレシートのようなものが出てくるわけではない。

しかたないので、レジのお姉さんに「ライオン航空の待ち合わせ番号21番ですよ」と告げると、「はい」と答えがあって、レジの横の端末で購入のための処理をしている。「あ、番号が消えちゃった!何番でしたか?」とお姉さんの声。もう一度、赤い端末に入力してやり直すと、待ち合わせ番号は22番になった。

今度は大丈夫。と思ったら、「もう一度入力番号を教えて」と言われて再々度伝える。待つこと5分、代金を支払うと、ようやくレシートが印刷された。そして、ほどなく、メールで電子チケットが送られてきた。

日本のコンビニに比べれば、とても質素な感じの赤い端末。でも、これでまだ十分なのかもしれない。インドネシアでの展開を模索している日本のコンビニは、こうした状況にどう切り込んでいくのだろうか。

「偉大」と「フツー」との戦い

昔、インドネシアと関わり始めた頃、インドネシアに行く前に、「ヒゲを伸ばしたほうがよい」というアドバイスをもらったことがあった。イスラム教徒が多いから、という理由とともに、相手から軽く見られないため、という理由も聞いた。

ヒゲを伸ばすと、どうして相手から下に見られないのか、自分にはさっぱり理由が分からなかった。結局、今に至るまで、インドネシアでヒゲを伸ばさなければ、と思ったことはない。

世の中には、自分を身の丈よりも大きく見せるということに執心している人々がたくさんいる。いつ頃からだろうか。面接で自己アピールをするほうがよい、などと教えるようになったのは。

昔の職場の内部誌では、5月号に新入職員の自己紹介が載る。あれは入所して10年ぐらい経った頃だったろうか。「自分はこんなことができる」「自分はいい性格である」などと書かれている新入職員の自己紹介を読みながら、私自身がとても恥ずかしくなった。新入職員が皆、スーパーマン、スーパーウーマンに思えたからである。

私が入所した頃は、自己アピールをしすぎるのをあまり良しとはしなかった。むしろ、できないことをできない、能力がないことを能力がないと分かっていることのほうが重視された。自分のありのままを見つめ、自分を客観視できること、ある意味、控えめであることが美徳とされた。

あの時からずっと、私自身は自分の能力が大したことはないとずっと思ってきたし、今でも、謙遜でもなんでもなく、本当にそう思っている。自分はフツーのただの人間で、いろいろやりたいことはあるけれど、それが必ずできなければならない人間だとは到底思えない。

ただ、振り返ってみると、その時その時を自分なりに一生懸命やってきた結果、神様の思し召しなのか、何となく自分がこういうふうになりたいな、こういうふうにありたいな、と思う方向へそれとなく進んできているような気がする。単にラッキーだったのだ、と思う。

たとえば、インドネシアに滞在するなら、他の人が住んだことのない街に住みたいと思っていたら、マカッサルに住む機会が向こうからやってきた。スラバヤに住む機会が向こうからやってきた。いつか、肩書や所属ではない、自分の名前で仕事がしたいな、と漠然と思い続けていたら、何となくそれに近い状態になっていった。

目標を決めて計画的に何かを目指したり、そのために自分を他人にアピールしたり、身の丈よりも大きく見せたり、そうした戦略をどう取ったらいいか、意識的に考えたほうが良いよ、と助言してくれる人はいた。でも、それは何となく嫌だった。自分は、ただフツーにやってきたら、何となくこうなった、という感じなのである。

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話は変わるが、昨晩、Metro TVの「Najwaの眼」というトーク番組を観ていたら、ジャカルタ首都特別州のジョコウィ知事とアホック副知事が出演していた。それほどシリアスな内容ではなかったが、番組の進行役であるNajwaさんが質問しても、ジョコウィがボソボソっと答える一方、アホックはユーモアを交えながら楽しげに切り返していた。

この二人の答えで、一番多かったのが「フツーだよ」(biasa)という言葉だった。中身だけ見れば、ただのその辺のどこにでもいるおっさん二人が出演しているかのようだった。何を聞かれても「フツー」という答えが返ってくる。俺はすごいんだ、州知事としてえらいんだ、という雰囲気は微塵もなかった。

こんな二人が、今、インドネシアで最も注目される政治家なのである。

ジョコウィは、州知事の仕事は問題を解決することであり、現場に行って実態を見れば、解決策は意外に容易に見つかるとさえいう。大統領候補人気ナンバーワンのジョコウィは、ビジョンやミッションを前面に掲げることを控え、とにかく仕事をするということに徹したい様子である。

実際、インドネシアで、あるいは日本で、政治家が選挙戦で掲げた公約がどのぐらい達成されたかをきちんと評価してきただろうか。いや、任期が終わるときに、その政治家が当選の際に何を公約としたか、覚えている人がどれだけいるだろうか。

ジョコウィは、トーク番組での受け答えがスムーズにいかない、「弁舌さわやか」というには程遠い、実にフツーのおっさんであった。番組にはジョコウィの妻とアホックの妻も後半で出演したが、どこにでもいる感じのこれまたフツーのおばさんだった。「州知事になって何か変わったか」という問いにも、「とくに変わらない」「前と同じ」という朴訥な答え。見た感じは、偉そうに見える閣僚夫人や政府高官夫人とは全く異なるおばさんだった。

ジョコウィらは、こうしたフツーさを演じているだけ、という話もよく聞くのだが、番組を見る限りは、それを見抜くことはできなかった。実にフツーなのである。こんなフツーの人が、多様性の中の統一を国是とする広いインドネシアを治められるのか、と正直思ってしまう人も多いのではないか。

これまで、カリスマ性があり、秀でた力と能力を持つ偉大な政治家でなければ、この広くて多種多様なインドネシアを治めることはできない、と言われてきたし、我々もそう思い込んできた。ほとんどの政治家や政府高官は、いかに自分に能力があるか、そしてカネがあるか、を誇示して、子分を作り、自分に忠誠を誓う子分を従えながら、その親分になってきた。「俺に任せればすべてうまく行く」、そう思わせられる政治家が指導者と見なされてきた。

たとえ実態はそうでなくとも、忠誠を誓う子分たちの存在によって、政治家はそう演じ続けなければならなくなる。演じ続けているうちに、自分は偉大な存在だと思い始めるのかもしれない。特別扱いされて当然の存在だと思い始めるのかもしれない。

ある意味、大統領候補として名前の上がるプラボウォもアブリザル・バクリも、また、ジョコウィを大統領候補に担いだ闘争民主党党首のメガワティも、そんな従来型の、「偉大さ」を見せつけようとする政治家である、といえるかもしれない。

その「偉大さ」で勝負する従来型政治家の世界に今、「フツー」のジョコウィが引っ張りだされ、能力がないとかカリスマがないとか、叩かれようとしている。

しかし、インドネシアの社会が、そうした「偉大さ」をどう見せるかで勝負する従来型政治家の世界から離れ始めていることに、従来型政治家が気づいていない。

政治家が自分たちの私利私欲のために政治を利用してきたことを有権者は厳しく見つめている。政党ベースの総選挙(議会議員選挙)は従来型政治家の世界であり、有権者はやむなくその仕組みに付き合ったにすぎない。

しかし、人を選ぶ大統領選挙では、従来型政治家の世界だけで話が済むわけではない。従来型政治家は、制度的にそうなっているように、総選挙と大統領選挙を連続したものとしてみているが、有権者は両者をむしろ切り離し、人を選ぶ大統領選挙により関心を向けるだろう。そこには、「偉大さ」を見せようとする従来型政治家の世界への不信感を高めた多くの有権者が存在する。

インドネシアはもはや、「偉大な」指導者が王様のように治める国ではなくなったのである。下々の者を従わせ、その見返りに下々の者へ施しを与えるような、「偉大な」指導者を求めなくなったのである。多くの従来型政治家はそのことに気づかないか、気づいたとしても「偉大さ」を見せようとする性向を変えることがまだできない。

そうではなく、インドネシアは「フツー」に仕事をする指導者を求め始めているようにみえる。大統領は王様ではなく、マネージャーあるいは仕事人に変わったのかもしれない。

ジョコウィにしろ、アホックにしろ、スラバヤ市長のリスマにしろ、自分はすごいんだ、自分は出来るんだ、これだけやって偉いんだ、だから俺について来い、などと言っているのを今まで一度も見たことがない。彼らは二言目には「仕事」、そして仕事をしているのが偉いのでも何でもなくただ「フツー」と思っているのである。

自分のためではなく、他人のために仕事をする。カネや名誉や名前ではない。ジョコウィはソロ市長、ジャカルタ首都特別州知事と来て、今度は大統領選挙に出るわけで、はたから見ると野心家のように見えるかもしれないが、「どこで仕事をしても、人のためにやるのは同じだ」と番組でもボソボソっと言い切っていた。

大統領選挙への立候補も、ジョコウィ自身が「俺が俺が」と言ったのではなく、世論が強力に後押しし、闘争民主党が総選挙での得票を当て込んで立候補を促し、なんとなくジョコウィが出ざるをえない雰囲気が作られた、というのが本当のところのような気がする。もちろん、立候補するからには、当選を目指して動いていくのだろうけれども。

今回の大統領選挙は、実は「偉大」と「フツー」の戦いなのではないか。それは、インドネシア社会の大きな変化の一面を表してもいる。もしも、予想通りに「フツー」が勝利した後、まだ時間はかかるだろうが、インドネシアがどのように「フツー」の社会へ変わっていくのか、注目していきたい。

もっとも、インドネシア・ウォッチャーとしては、インドネシア特有の何かがなくなっていくかもしれないという意味で、面白さが減っていくということでもあるのだが。

インドネシアのメーデーに思う

インドネシアは、今年から5月1日が祝日になった。メーデーとしてである。

インドネシアは、いつの間にか、労働組合が堂々と動ける国になった。堂々と動けるだけでなく、政治的な圧力団体の一つとして認知されるに至った。力を持ったと認識した労働組合は、数の力で自分たちの要求を通そうとすらする。そうした労働組合を、政党や政治家は自分たちの得票のために活用しようとしている。

スハルト時代、労働運動は基本的に制限され、SPSIのみが唯一の翼賛的な労働組合として認められていた。SPSIは政府に協力的で、労働争議が頻発するといったことはまずなかった。あったとしても、左翼的な行動と捉えられ、事実上、弾圧の対象となった。

大統領選挙を前にした時期が時期だけに、各労働組合連合体が自分たちの支持する大統領候補を表明し始めている。

最も活発にデモや労働争議を主導してきたKSPIは、グリンドラ党のプラボウォ党首の支持を表明した。5月1日にKSPIが主催したジャカルタのブン・カルノ競技場での集会にはプラボウォも出席、あたかもプロボウォ支持者の総決起集会の趣さえあった。

もともと、KSPIを率いるサイド・アクバル議長は、政治的野心があると指摘されている。かつては福祉正義党から総選挙に立候補して落選、その後、先の最低賃金引き上げ要求に係るブカシなどでの労働争議では、闘争民主党の政治家に擦り寄った。そして今、グリンドラ党のプラボウォ党首に近づいている。

KSPIは10項目の要求を提示したが、プラボウォはそれをすべて飲むことを約束した。念のため、10項目を以下に挙げておく。

1.2015年の最低賃金を30%引き上げ。最賃計算の根拠となる「適正な生活のための必需品」のアイテム数を現在の60品目から84品目へ増やす。
2.最低賃金の実施凍結を拒否。
3.2015年7月にすべての労働者への年金保証を実現させる。
4.全国民への健康保険の実施。料金を定めた2013年保健大臣令第69号の破棄、健康保険制度や労災制度への監査など。
5.アウトソーシング業務の廃止(とくに国営企業)、同従事者の正規社員化。
6.家事労働者法の制定と出稼ぎ者保護法の改訂。
7.社会団体法の廃止と集会法の制定。
8.臨時公務員・臨時教師の正規公務員化、臨時教師への月100万ルピアの補助。
9.労働者のための公共交通機関と住宅の整備。
10.義務教育12年間の実施、労働者子弟への大学までの奨学金供与。

プラボウォが大統領になったとしても、この約束を守るかどうかはわからない。しかし、今の時点では、KSPIを集票の道具に使いたい。

一方、もう一人の大統領候補のジョコウィは、全く違う行動をとった。大勢の人々が集まる集会には顔を出さず、何人かのインフォーマル部門で働く人々を訪ねたのである。

労働組合に属する労働者は、フォーマル部門で働く賃金労働者である。毎月、定期的に賃金をもらって生活する人たちである。しかし、インドネシアには、そうした正規労働者を上回る数のインフォーマル部門で働く人々がいる。もちろん、労働組合は彼らには遠い存在である。

ジョコウィは、そうした人々への眼差しを忘れていないことを強調するとともに、増長気味の労働組合の要求に対して自省を求めたのである。フォーマル部門の労働者がインフォーマル部門の人々のことをもっと気にしてもいいのではないか、と。

ジョコウィの行動もまた、プロボウォとは別の意味で政治的なパフォーマンスであろう。2014年のジャカルタの最低賃金を前年比10%台に抑えたジョコウィは、KSPIのサイド・イクバルからは敵視されているが、あのとき、結局、ジョコウィが強腕を使わずとも通ってしまったことはもっと注目されてもいいかもしれない。

KSPI以外の労働組合連合体であるKSPSIとKSBSIは、大統領候補としてジョコウィを支持していると言われる。KSPSIのトップは闘争民主党員であるが、分裂したもう一方のトップはゴルカル党員であり、一枚岩と見るのは控えたほうがいいかもしれない。

ところで、プラボウォはまだ、大統領候補として出られるかどうかが実は確定していない。他の政党との連立で、議席数の25%、得票数の20%を超えないと出られないのである。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党と正式に連立を決めた政党はまだない。KSPIとの動きなどに、プラボウォの焦りが見られる。

他方、ジョコウィは、闘争民主党、民主国民党(NasDem)、民族覚醒党(PKB)の連立で上記条件をクリアしており、すでに大統領候補として出られることが確立している。ジョコウィのイメージを落とすためのブラックキャンペーンは激しさを増しているが、現段階ではまだジョコウィのほうが一歩リードしている。

トランスジャカルタ、JALANAN

先週、ジャカルタの「父」を連れて日本からジャカルタへ戻り、2日間、ジャカルタで過ごした。久々に、コタで行きつけの麺屋へ行って、ワンタン麺にナシチャンプルまで食べて、大満足で、来たときと同様、グロドックからブロックM行きのトランスジャカルタに乗った。

しばらくして、大きなバッグとギターケースを抱えた女性がトランスジャカルタに乗り込んできた。トランスジャカルタのバスの連結部に立ち、私のすぐ隣にいた。ふと、ギターケースを見ると、JALANANというステッカーが貼ってある。もしかして・・・。

女性は携帯電話で話を始めた。バスの連結部なので、ギターケースを抱えてバッグを手に電話するのはなかなか大変そう。その女性と目を合わせた後、ギターケースをそっと支えてあげた。

そう、この女性は、映画JALANANのティティさんだった。電話の内容からすると、スラバヤのモールで演奏した後、ジャカルタへ戻ってきたようだった。バンドンでも演奏したらしい。

JALANANについては、じゃかるた新聞に小川忠さんのエッセイがあるので参考にして欲しい。

夢と哀しみのスディルマン通り

ティティさんは、他の乗客とはやや違う雰囲気を持った女性だった。聡明な顔立ちの一方で、どこか翳のある表情を時おり見せた。

ブロックMでトランスジャカルタを降りた。別の降車ドアから降りたティティさんは、もう姿が見えなくなっていた。もしかすると、そのうち、テレビで会えるかもしれない、などと思った。

筆者にとって、数えきれないほど乗ってきたバスは、インドネシアについての様々な側面を学んできた場だった。

20年以上前に留学していたとき、バスに乗り込んできた歌い手のなかに、当時の27州の歌をメドレーでひたすら歌い続ける男性がいた。歌がうまいだけでなく、凄みさえ感じた。その男性とは、バスのなかで頻繁に遭遇したのだが、同じ歌を2回と聞くことはなかった。彼は今、どうしているのだろうか。

トランスジャカルタの車内はエアコンがよく効き、静かである。ピーナッツ売りも歌唄いも乗ってこない。「カーシーハーン(かわいそー)」と言いながら床を這ってくる物乞いも来ない。今となっては、そんな雑然としたボロボロの冷房なしバスが愛おしく思えるほどである。

豊かになるインドネシアの一つの側面ではある。ティティさんらは、そんなインドネシアをどう駆け抜けていくのだろうか。

プトラくんとプトリちゃん

今回の「父」との日本旅行中に、京都で西本願寺の聞法(もんぼう)会館という宿に宿泊した。和洋室に「父」とその妻、私の3人で泊まり、私は和室で寝た。なかなか快適だった。

そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。

プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。

天真寺日記

インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。

プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。

「父」と日本旅行中(1)

4月16〜23日は、ジャカルタの「父」ハリリ・ハディ氏とその奥様と一緒に日本に来ている。

「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。

初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。

その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。

「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。

今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。

私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。

16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。

花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。

「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。

「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。

福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。

18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。

仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。

日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。

スラバヤ空港から空港バスに乗ると・・・

昨日(3月29日)、知人をスラバヤ・ジュアンダ空港第2ターミナルまで送った後、空港バスに乗ってみることにした。

空港バスは、第2ターミナルを出て、すぐ目の前に停まっている。30人乗り程度の中型バスである。料金は2万ルピア、エアコンが効いている。しかし、大きな荷物を収納するスペースはない。

行き先は、スラバヤの南手前、シドアルジョにあるプラバヤ(Purabaya)バスターミナル。スラバヤ市内まではダイレクトに行かないのだ。途中、若干渋滞したが、約30分でプラバヤ・バスターミナルに到着した。

到着したところは、ジョグジャカルタやスマランなどへのバスが出る長距離バス乗り場だった。ジョグジャカルタ行きのエアコン付き普通バスが次々に出て行く。

そこから、飲食店が並ぶ建物の中を通ってまっすぐ行く。行先別に乗り場への指示板が出ていてわかりやすいが、「どこへ行くんだ?」と、客引きのおっちゃんたちが群がってくる。客をバス乗り場まで連れてくると、そのバス会社からコミッションをもらえるのである。自分で乗り場がわからなくても、彼らが案内してくれるので、たしかにラクはラクなのだが。

途中には、ジャカルタやバリへ向かうエアコン付き有名バス会社のチケット購入スタンドが立ち並んでいる。すでに出払った後と見え、ほとんどのスタンドが閉まっていた。

これらを通り抜けて、スラバヤ市内へ向かうバス乗り場へ出る。ここでも、行き先別にバスが並んでいるが、行き先を見ただけでは、どのバスに乗ればよいのか、検討がつかない。エアコン付きのバスは数系統しかない。

筆者の自宅近くまで行くバスはなさそうなので、途中のディポネゴロ通りを通るバスに乗った。エアコンなしのボロボロのバスで、料金は5000ルピア。渋滞があったため、スラバヤ動物園を越えてディポネゴロ通りまで45分近くかかった。

ディポネゴロ通りでバスを下り、結局タクシーで自宅へ。結局、空港から自宅まで、しめて5万ルピア程度で済んだ。

結論としては、空港バスでスラバヤ市内へ向かうのはお勧めできない。荷物があったらなおさらである。

空港バス自体がスラバヤ市内へ入らないことが問題であるだけでなく、客引きのおっちゃんや怪しげな人々の行き交うプラバヤ・バスターミナルを歩くのは、インドネシアをバックパッカーとして旅するような人以外にはちょっとヘビーである。

空港から10万ルピア払っても、空港タクシーを利用するほうがずっとラクである。

空港タクシーのカウンターは、第2ターミナルの出口のすぐ左横にある。カウンターの右隣には、タクシーチケットの自動券売機が置かれている。

ジャカルタもマカッサルも、空港バスはちゃんと市内まで運行しているのに、スラバヤはそうなっていない。もっとも、時刻表はなく、人数が揃ったら出発するという点では、トランスジャカルタなど一部を除き、全国どこのバスでも同じである。

日本へ行くのはちょっと・・・という印象

先日、スラバヤの街なかを歩いていたら、以下のような看板が目に入った。

北京・上海ツアーは8日間で650米ドル、日本歴史ツアーは7日間で1650米ドル。

このように並べられてしまうと、「日本へ行くのはちょっと・・・」という感覚にどうしてもなってしまうだろう。

何かもっと、中身をアピールする手立てはないものか。

インドネシアの人々は決して安さだけを重視しているわけではない。日本の良さを丁寧に、しかしインドネシアの人々が納得するように、アピールしていくほかないのではないか。

日本に行ってみたいというインドネシアの人々は数多い。逆に、最も安く日本へ行くのにこれだけで済む、というアプローチもありではないか。

一つの方法は、もっと、個人と個人のつながりや触れ合いを重視するようなアピールの仕方かもしれない。ホームステイや擬似的な家族づくりなど、まだまだ試すべき方法はいろいろあるだろう。

もっとも、東京の自宅は狭く、とてもお客さんを泊められるような状態ではないので、あまり大きなことも言えないのだが。

ともかく、フツーの個人どうしがもっとフツーにつながり、触れ合うことが、日本とインドネシアとの関係を深めていくのに最も効果的であると思っている。

スラバヤ・ジュアンダ国際空港にて

昨晩(3/20)、キャセイ航空で東京から香港経由でスラバヤへ戻った。到着したのは、スラバヤ・ジュアンダ国際空港第2ターミナル。昔の空港をリノベーションして、新空港としたものである。

今回は、国際線到着では初めての利用になる。イミグレは空いていて、すぐ自分の番に。ところが、「別室へ行け」と言われる。何か問題があったのか。

別室にはいやな思い出がある。インドネシアへ初めて入国した1985年8月。インドネシアがビザなしで入国できるようになったはずなのだが、情報がはっきりしない。オドオドしながら、パスポートを手に並んでいたら、係員が「こっちへ来い」と別室に連れて行かれた。椅子に腰掛けると、係員が「ドラール、ドラール」という。最初は何を言っているのか分からなかったが、インドネシア語でドルと発音しているのだった。当時、インドネシア語がまだできなかったので、「ノーノー」というと、私に財布を出せと命じる。恐る恐る財布を出すと、財布の中のシンガポールで換金してきたルピアの束から1万ルピアを勝手に抜き出し、「オッケー」といって入国スタンプを押して、開放された。

それが、私の最初のインドネシアだった。聞かされていたとおり、なんて汚い国だとそのときは思った。出迎えに来ていた私のインドネシア語の先生が、彼の家のある西ジャワ州チマヒに着くまでずっと謝っていた。その後の、彼のカンポンでの様々な楽しい思い出がなかったら、私はインドネシアが大嫌いになっていたことだろう。

今回も、そのことが頭をよぎった。が、よく聞いてみると、外国人居住者用の出入国スタンプがイミグレカウンターにないという。あり得ないと思った。またダマされて金銭を要求されるのか。

別室の前へ行っても警戒は解かなかった。係員が私のパスポートを持って中に入り、しばらくすると、出てきた。入国スタンプが押されていた。

その後、荷物を受け取り、税関へ。ジャカルタでは手荷物だけをX線に通すのだが、なぜかスラバヤのここでは、すべての荷物を通すのだった。

空港に到着し、税関を抜けて外に出るまで、わずか20分。空いているということもあるが、かなり早かった。外に出る手前にタクシーカウンターがあり、そこでチケットを買って、タクシー乗り場へ。

新車のタクシーは匂いがきつく、運転も荒かったので、久々に酔いそうになった。

ともあれ、スラバヤの自宅に無事、夜9時すぎに到着。寝る前に短い原稿を1本書こうと思ったが、やはり睡魔には勝てず、今朝、朝一で書き上げた。

 

マラン市のゴミ銀行(連絡先追加)

3月1日、たまたま国際会議でスラバヤを訪れていた、前の職場の後輩研究者にお願いして、マランへのフィールド・トリップに同行させてもらった。彼はバンドン工科大学のエンリ教授からの誘いで、マラン市のゴミ銀行(Bank Sampah Malang: BSM)を見学に行くことになっていた。

マラン市のゴミ銀行の話は、2013年11月30日のジャワ・ポス・グループによる「地方自治賞」受賞式の際に、経済発展部門でマラン市が最優秀賞を取った際の受賞理由の一つに挙げられていた。いずれは見に行きたいと思っていたので、今回はまたとないチャンスと思ったのである。

マラン市のゴミ銀行は2011年に設立されたが、市民からはゴミ処理場を勘違いされて、最初は設立反対の声が多かった。市内に適当な場所が見つからず、結局、市営墓地の管理事務所に設立することとした。この管理事務所は、以前、オランダ植民地時代には遺体安置所だったということだが、ここを改修して、事務所として使うことになった。

ゴミ銀行は70種類のゴミに分別し、それをいくらで買い取るかの価格表が用意されている。ゴミ銀行の利用者は、ゴミ銀行に直接ゴミを持ち込むこともできるようだが、一般的には、ゴミ銀行の職員が出向いた際、そこへゴミを持ってくることになる。ゴミは、できれば予め、70種類のゴミ分別表に基づいて分別したうえで持参し、そこでゴミ銀行員の係員が帳簿をつける。そこでの記録に基づいて、各預金者のゴミ預金通帳に記載が行われ、「どんなゴミをどれだけ持ち込んだことでいくらお金に代わったか」が一覧表になって示される。

このゴミ銀行の預金を使って、コメや食用油などスンバコと呼ばれる生活必需品を購入したり、電気料金を支払ったりすることができる。「スンバコを買って、ゴミで支払いましょう」と書かれている。

一般には、地域ごとに預金者個人をひとまとめにしたグループが作られ、預金者個人の通帳に加えて、グループ全体の通帳も作られる。グループ全体の通帳に記載される額は、各預金者個人の通帳に記載された額の合計額になる。1グループは20人以上の預金者で構成される。

現時点で、320グループ、175の学校、グループに属さない400人、30の組織がゴミ銀行の顧客となっている。

ゴミ銀行は、預金者から集めたゴミを業者や工場などへ売って利益を得る。昨年の年間売上額は2億ルピア、純利益は2000万ルピア程度出ている。

ゴミ銀行では、ゴミを使ったバイオガスの実験も試みている。

また、ミミズを増やす試みもしている。

ゴミ銀行の裏は、様々なゴミの分別場となっていた。

ゴミ銀行の連絡先は以下のとおり。

Bank Sampah Malang (BSM)
Jl. S. Supriyadi No. 38A, Malang
Tel. 0341-341618, Fax. 0341-369377
Email: banksampahmalang@yahoo.com
Contact Person: Bapak Rahmat Hidayat, ST (Direktur BSM),
0812-3521-4545, 0341-7779912.

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今回は、ゴミ銀行以外に、住民主体で運営しているゴミ分別場や、環境に配慮したゴミ処理場も見学した。

住民主体で運営しているゴミ分別場はムルヨアグン村にあり、住民による1日30立方メートルものゴミのブランタス川への投棄が問題となり、2008年に村長が川へのゴミ投棄を禁止した。そこでの対策ということで、村にゴミ分別場を作り、無機ゴミの食べかすを家畜の餌に、それ以外は処理して業者へ売るほか、有機ゴミをコンポストにするなどの対策をとった。毎朝、ウジ虫を収集して養魚池にまくことで、ハエの発生を95%減少させたという。

政府からは、まず畜産局からヤギが11頭与えられ、糞を堆肥作りに活用する。乳は従業員たちで飲む。水産局からナマズの稚魚が提供され、残飯などを与えて、ナマズを養殖する(写真下)。

このゴミ分別場は、現在、7600世帯からのゴミを1日64立方メートル処理しているが、処理能力に限界があるため、規模の拡大は考えていない。すべての作業は1日で終わらせる。77人が雇用されている。

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最後に訪れたのは、マラン県のタランアグン・ゴミ処理場で、ここは観光も兼ねたゴミ活用の学習施設と銘打っている。

実際、ゴミから発生したメタンガスをコンロや電灯などに使っている。空き缶を使ってブロックで仕切った簡易なコンロ「ノナク」(私の彼女、という意味)は面白かった。

ゴミから出た汚水を植物用にまいたりもしており、その成果なのか、発育が良いものがあるということだった。

ゴミ処理場へ向かう道には、様々な植物が植えられ、緑の多い、きれいな公園のようである。前の職場での後輩の研究者は、様々なゴミ処分場を訪問しているが、こんなきれいなところは初めてだと驚いていた。

ゴミ処理場にパイプが引かれ、そこを通じてメタンガスが実験棟へ送られている。

まだまだ改善・改良を余地はあるだろう。もしかしたら、日本の技術を組み合わせると、もっと面白いことが起こるかもしれない。

ともあれ、東ジャワ州には、こうしたゴミを生かす試みが様々に行われている現場がある。インドネシア発の様々な試みをじっくりと注目していきたい。

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