グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

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