心にもっと余白が必要なのだ

今日の朝日新聞の朝刊に載っていた「折々のことば」にハッとしました。

 僕たちが他者とつながり、世界への問いを共有するためには、僕たちの心にもっと
 余白が必要なのだ。 (小野正嗣)

同じ空間のなかに存在していながら、お互いにその存在を知ることもなく、だから気にとめることもない2つの集団。イタリアの島にたどり着いた難民とその島に元々住んでいる島民とが接することがない、のです。

鷲田清一氏は、小野氏のことばについて、「一つの大きな傘の下に集うのではなく糊代(のりしろ)で横に繋(つな)がることの意味を思う」と記しています。

これを読んで、昨日のブログで書いた、グローカルについての私なりの解釈に通ずるところがある、とピーンときたのでした。私のグローカルとは、まさに、糊代で横につなげようとすることだからです。

インターネットで容易に世界の様々な事柄を頭で知ったような気になっていても、人間の眼で見ている実際の視野は、逆に狭くなってきているのかもしれません。

一般的な人間社会の幸福と個人や家族や親しい友人の幸福とが一致できないような気分が支配的なのでしょうか。将来への不安が一般的な人間社会の今後への不安となり、他の人がどうなろうとも、せめて自分の身の回りの幸福だけでも確保したい、という気分が強まっているような気がします。

心の余白が少なくなっているのです。それは、他者への想像力が衰えていること、と言い換えることができるかもしれません。

自分が他者の存在を認め、自分も相手からすると他者なのだと認識することは、当たり前のことです。世の中には様々な人がいる、のも当たり前のことです。でも、インターネットを通じて、そうした「他者」と出会って理解したような錯覚を起こしてはいないか、と思います。

自分が世の中で認められたい、という気持ちが、他者との競争をことさらに意識し、自分を認めてくれない他者や世の中に対して反感を抱く、そんな気持ちに由来する暴力や暴言や過激な行動が現れてきます。

心の余白がなくなる代償として得たものは一体何だったのでしょうか。地位、名声、あるいはカネなのでしょうか。

忙しく働いて頑張っていると「えらいね」と言われて嬉しい、といったことがまだあるのでしょうか。「えらい」と言ってもらいたいから頑張って忙しく振舞っているということはないでしょうか。そうしたことにエネルギーを費やすのがなぜか美徳とされる一方で、他者を想像する心の余白は無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと頭がくらくらっとしてきました。この辺で今日は筆を止めます。

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