国際作家フェスティバルのフィナーレ

マカッサル国際作家フェスティバルは、5月20日が最終日。私自身のパネリストとしての役割を終えたので、フェスティバルとは関係のない友人と面会し、その友人の関係する用事に付き合った後、友人も連れて、フェスティバルのフィナーレに参加しました。

たくさんの若者たちが静かに、騒ぎも起こさずに、芝生に座って、フィナーレの演目を見聞している姿が印象的でした。もちろん、途中で飽きて、退席する者もいました。せも、大多数は最後まで残って、しかも一部は、終了後にごみ拾いをしていました。

一緒に行った友人は、「マカッサルでないみたいな光景だった」と言いました。たしかに、学生デモなどでマカッサルの若者は騒ぐ、という一般的なイメージとはほど遠い光景だったかもしれません。

フィナーレで、詩について繰り返し述べられた印象的な言葉がありました。詩が政治を変える力を持つ、ということです。宗教よりも先に詩があり、詩のメッセージは政治を超えて行く。人々が同じ詩を謳いながら、政治を動かし、変えて行く力を持つ、と。

紙がなければ葉っぱに詩を書く。葉っぱがなければ壁に詩を書く。詩を書くことを禁じられたら自分の血で詩を書く。

少し前のブログで紹介した、行方不明状態の活動家Widji Thukulの詩には、このような表現があるそうです。フィナーレでは、多数派の横暴と多様性の否定につながるような昨今の動きを、詩の力によって変えていける可能性を訴えていたように聞こえました。

日本でも詩の力を期待することは、可能なのでしょうか。やはり、今回の多様性をテーマとしたマカッサル国際作家フェスティバルは、どうしても日本へも向けなければならない重要な要素を含んでいたと感じざるを得ませんでした。

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