ロヒンギャを見ながらスハルト時代のインドネシアを思い出す

ミャンマーのロヒンギャをめぐる報道がインドネシア・メディアでも盛んになっています。インドネシアだけでなく、国際社会もまた、「ロヒンギャで民族浄化が進んでいる」などとして、ミャンマー政府に対する批判が広まっています。

インドネシアのムスリムが「ロヒンギャを救え」と強く主張し、こうした国際世論を先導する形となっているのが、とても興味深いです。でも、そのような姿を見ながら、別なことを考えていました。

第1に、多数派と少数派ということ。今回の少数派はイスラム教徒のロヒンギャですが、もしも多数派がイスラム教徒だったら、インドネシアのムスリムは今回のような行動を起こしたかどうか。

インドネシアでも、ムスリム多数派のスンニー派がシーア派やアフマディヤに対して敵意を示し、場合によっては迫害するという事態が起こりました。一部の国際社会はそれを批判しましたが、インドネシア側は、決して少数派の肩を持つような対応をしませんでした。

ずっと時代を遡って、東ティモールがインドネシアからの独立を求めた時。政権中枢部では、実は東ティモールで少数派のイスラム教徒の立場が虐げられているという認識がありました。

インドネシア全体では多数派のイスラム教徒が東ティモール州では少数派。果たして、政権中枢は本当に東ティモールがインドネシアにとって大事だと思っていたのかどうか。もしもイスラム教徒が多数派だったら、話は違っていたのかもしれません。

インドネシアのイスラム勢力が、「たとえどんな宗教であっても種族であっても、少数派への迫害は許さない」という行動を起こせたならば、本当の意味で人権云々を主張できるのではないか、と思うのです。少数派がイスラム教徒であったからこそ、声をあげたのではないか、と思ってしまうのです。

第2に、内政干渉として無視すること。スハルト時代のインドネシアは、国際社会からの人権侵害といった批判を一切無視しました。それぞれの国内に多かれ少なかれ同様の問題を抱えていたASEANは、内政不干渉を原則として、話し合いによってコンセンサスを作るという態度によって、時間はかかっても、問題解決の落とし所を探ってきました。

スハルトは、民主化という概念が欧米とインドネシアでは違うと主張し、政府が指導し、調和を重視するパンチャシラ民主主義という概念をも用意しました。そして、政軍一体の安定した体制こそが開発を進める土台であるとし、それは、ミャンマー軍政が手本とみなすものでもありました。

第3に、反政府勢力ということ。ミャンマーの政軍は、ロヒンギャという民族の存在を認めていませんが、おそらく、ロヒンギャの一部が大人しくしてくれていれば、民族浄化のような動き方はしなかったのではないか。一部のロヒンギャが軍を襲ったという事実によって、反政府勢力のレッテルが貼られた、という今回の話は、アチェやパプアの「反政府勢力」との共通性さえ感じます。

アチェやパプアの「反政府勢力」は最初から本当に独立を求めていたのか。域外からやってきた軍に反発・反抗したことで、反政府勢力のレッテルが貼られ、攻撃を受け、反撃し、攻撃を受け、という繰り返しのなかで、インドネシアの枠内でやっていくことは無理だ、と追い詰められていったのではないか。とりわけ、独立直前に航空機を購入し、インドネシア独立のために果敢にオランダと戦ったアチェの人々にとって、「こんなはずではなかった」という気持ちが、独立への気持ちを一層強めたのかもしれません。

ミャンマーからバングラデシュへ避難するロヒンギャ難民の窮状は、国際社会が注視して救援していくべきものですが、彼らを国民と認めていないミャンマー政権からすれば、どこか迷惑なよそ者という認識かもしれません。それは、攻撃を受けて敵視されたアチェやパプアの人々が、あたかも国民ではないかのように扱われた、かつてのインドネシアに通じるものがあるかもしれません。

浅はかかもしれませんが、そんなことをつらつらと考えていました。

来週は、インドネシア・東ジャワ州のマランへ行きます。最初と最後に1泊ずつスラバヤに泊まります。

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