【スラバヤの風-22】マラン市のゴミ銀行

「ゴミで貯金しよう」「ゴミで日用必需品を買おう」「ゴミで電気代を払おう」。マラン市のゴミ銀行のオフィスを訪ねると、そんな標語があちこちに掲げられている。

マラン市のゴミ銀行は、ゴミ処理場への家庭ごみの削減を目的に、市政府が2011年10月に設立した。オフィスは市内の墓地管理事務所にあり、オランダ植民地時代には遺体安置所だった。ゴミ銀行とゴミ処理場を同一視した市民が猛反対したため、ゴミ銀行の立地場所を決められず、結局、墓地管理事務所にオフィスを置くことになったのである。

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マラン市の「ゴミ銀行」オフィス窓口

ゴミ銀行で扱う家庭ごみはプラスチック、紙類、金属、ガラス瓶など70種類に分類され、その各々に引取価格が設定されている。ゴミを持ち込んだ顧客は、現金または貯金の形で対価を得るが、貯金のほうが現金よりも高く対価が設定される。たとえば、カップ麺の空カップは現金だと300ルピアだが、貯金だと400ルピアになる。

ゴミ貯金には普通貯金、教育資金用貯金、レバラン用貯金のほか、現金ではなく現物で引き出す日用必需品貯金、奨学金やモスク建設補助のための社会義援貯金、リサイクル関連の設備購入のための環境貯金、健康保険料を支払うための健康保険貯金がある。

ゴミ銀行の顧客には、直接ゴミを持ち込む個人顧客と、ゴミ銀行が出向いてゴミを引き取るグループ顧客の2つがある。グループ顧客には町内会、学校、パサール(市場)などがあり、それぞれ最低でも住民20人、生徒40人、商人5人の会員で構成する。

グループ顧客は1〜2週間に1回、重量50キロ以上になるようにゴミを収集し、計量・分類する。そこへゴミ銀行の職員が出向いて再度計量・分類し、梱包した後、軽トラックでゴミ銀行へ運ぶ。収集したゴミの内訳・重量・預金額などはゴミ銀行で集計・記録し、グループ顧客の通帳にも口座情報として細かに記録される。現在までに個人顧客が約400人、グループ顧客が約320グループ、うち参加学校は175校である。

ゴミ銀行の収益は、収集したゴミを廃品回収業者へ売ることで得られる。現在、毎月2億ルピア程度の売り上げと2000万ルピア程度の収益がある。マラン市のゴミ銀行の1日当たりの収集量は約2.5トンで、市全体から見ればまだごくわずかであり、家庭ごみ処理に関する市民への啓蒙の役割を果たす段階といってよい。

しかし、ゴミをお金に変える試みは珍しく、マラン市のゴミ銀行の動きは全国の地方政府から注目を集めていくことだろう。

 

(2014年3月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-21】出稼ぎの民、マドゥラ人

マドゥラ島を出自とするマドゥラ人は、インドネシアではジャワ人、スンダ人、バタック人についで4番目に人口の多い種族集団である。2010年人口センサスによると、国内のマドゥラ人の人口は718万人で、そのうち東ジャワ州に居住する者が644万人である。マドゥラ島にある4県の人口が合計362万人で、そのすべてをマドゥラ人と仮定すれば、マドゥラ人の分布は、マドゥラ人の2人に1人はマドゥラ島外へ出ていることになる。

すなわち、マドゥラ人は出稼ぎの民といってよい。歴史的に見ると、マドゥラ人の出稼ぎのきっかけは17世紀にさかのぼる。当時、ジャワ島を支配するマタラム王国に対して、マドゥラ人の英雄トゥルノジョヨが反乱を起こしたが、オランダ東インド会社をバックにしたマタラム王国に敗北した。その際、トゥルノジョヨに従ったマドゥラ人多数が島から逃げ出し、生計を立てるため、逃亡先で様々な雑業に就いたとされる。もっとも、マドゥラ島自体が農業に不向きな、塩田に頼る貧しい土地だったことも要因として挙げられる。

彼らの就く雑業といえば、たとえば、ジャカルタなどの都市で見かけるサテ(串焼き)屋やソト(実だくさんスープ)屋、住宅地などを歩きまわる移動式屋台(カキリマ)や自転車にインスタント飲料とお湯を乗せた売り子などである。ほかには、マドゥラ人の理髪師のネットワークがあり、西ジャワ州のガルット出身者と並んで知られる。マッサージ業界でも、マドゥラ人のマッサージ師は一大勢力となっている。雑業以外にも、中央政界・財界で活躍するマドゥラ人は少なくない。

スラバヤには、人口の約4分の1に当たる80万人ものマドゥラ人が居住し、とくに市の北部に集中している。様々な雑業のなかでも、とくに目立つのがクズ鉄や古紙などの廃品回収やゴミ収集・分別に従事する者や、市場(パサール)や路上で商品売買をする商人などである。商人については、スラバヤだけでなく、マドゥラ人居住者の多い北東海岸部に加えて、マランなどの内陸部の市場に入ると、そこはマドゥラ語が支配的な世界である。

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スラバヤ市北部のくず鉄・廃品市場。ありとあらゆる廃品が売買されている。ここもマドゥラ人が牛耳っている。

このように、マドゥラ人は東ジャワ経済にとって不可欠な存在である。温厚で感情を露わにしないジャワ人とは対照的に、より敬虔なイスラム教徒であるマドゥラ人は、感情をストレートに表現することで知られる。出稼ぎの民・マドゥラ人は、そのバイタリティを発揮しながら、東ジャワやスラバヤ、インドネシアにおける経済の基底を支えている。

 

(2014年3月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-20】スラマドゥ大橋は悲願だったのか

スラバヤ市とその目と鼻の先にあるマドゥラ島とは、スラマドゥ大橋で結ばれている。建設したのはインドネシアの国営企業ワスキタ・カルヤと中国系2社(中路公司、中港公司)のコンソーシアムで、約6年かけて2009年6月に開通した。全長5438メートル、インドネシア最長の橋であり、総工費は4.5兆ルピア(約390億円)とされる。開通式でユドヨノ大統領は「50年前からの悲願が達成された」と述べた。

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インドネシアでは、1960年代から島々を橋やトンネルで結ぶ構想があり、スハルト時代には、ハビビ科学技術国務大臣(当時)を中心に「トゥリ・ヌサ・ビマ・サクティ計画」という名で現実化が進められた。スラマドゥ大橋とその周辺の工業団地建設は、その一環として1990年に国家プロジェクトとなった。これに関するフィージビリティ調査や計画立案で日本が重要な役割を果たし、日本企業を含む形で建設に取り掛かる予定だった。しかし、通貨危機によって計画は延期され、地方分権化で権限を移譲された東ジャワ州政府が主導して新たなコンソーシアムを立ち上げ、建設が再開された。

識者たちは、スラマドゥ大橋の完成により、島外から投資が来ることで、後進地域のマドゥラ島でも開発が一気に進むことを期待した。スラバヤの対岸で橋のかかるバンカラン県では600ヘクタールの土地を用意し、工業団地と港湾開発を進める計画だった。

しかし、スラマドゥ大橋を渡ってすぐ先には、広大な荒地が広がる。値上がりを見越して法外な地価を要求する地権者からの土地収用が困難を極めているのだ。橋の完成前と比べて200倍に高騰した土地もある。そして、ここでも、政府の役人らが土地をめぐる投機的な動きに陰で関わっていると言われる。

それとは対照的に、スラマドゥ大橋から遠く離れたマドゥラ島東部のスムナップ県では、以前よりも商業活動が活発化し、ホテルの数が増え、空港整備も進むなど、経済的に好ましい変化が起きていると言われる。

実は、スラバヤ市とマドゥラ島を結ぶ連絡フェリーはまだ存続している。「スラマドゥ大橋の通行料が従来のフェリーに比べて高い」という声も聞く。そんな状況を見ると、スラマドゥ大橋は本当にマドゥラの人々の悲願だったのか、という疑問が湧いてくる。むしろ、ただでさえ出稼ぎの多いマドゥラの人々の島外への移動に、さらに拍車をかけただけだったのではないかとさえ思えてくる。

 

(2014年2月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-19】スラバヤ市長「辞任」騒動

2014年2月に入り、地元マスコミは、「スラバヤ市のリスマ市長が辞任を表明した」とのニュースを流した。清廉潔白で知られる彼女に汚職疑惑やスキャンダルが急に湧いたわけではない。これまで積み重なってきた議会や政党との対立がここに来て一気に噴出したのである。

リスマ市長が辞任をほのめかした理由の一つは、ウィシュヌ副市長の就任である。リスマは2010年、 副市長候補であるPDIPの重鎮バンバン前市長と組み、闘争民主党(PDIP)の単独推薦で当選した。このときのPDIPスラバヤ支部長がウィシュヌ現副市長である。

バンバン副市長は、2013年8月の東ジャワ州知事選挙に州知事候補として立候補するため、副市長を辞任した。これを受け、スラバヤ市議会で副市長候補の選任が行われ、PDIP会派のウィシュヌ代表が選ばれた。この選任プロセスをめぐっては書類偽造の疑いがあり、リスマ市長は結果を認めようとしなかったが、内務省や東ジャワ州知事からの指令で、ウィシュヌ氏は副市長に就任した。リスマ市長は病気を理由に副市長就任式を欠席した。

実は、リスマ市長にとってウィシュヌ氏は怨念の相手である。リスマ市長は、すでに工事が始まっていた市内高速道路建設を「庶民のためにならない」と強硬に反対したほか、路上の広告や立看板を規制するために広告税の引き上げを図ったが、市議会がこれらへ強く反対した。2010年の市長就任から半年も経たないうちに、市議会は、リスマ市長を市長の座から引きずり降ろそうと画策したが、その先頭に立っていたのが、与党のはずのPDIP会派のウィシュヌ代表であった。

その後、PDIP党中央の指示で解任騒動は収まったが、市議会のリスマ市長への不信は増幅し続けた。最近では、ドリーと呼ばれる東南アジア最大規模の売春街の閉鎖や、スラバヤ動物園の管理運営でも、リスマ市長への批判が出ている。市議会は、開発事業を進めたい建設業界などと一緒に、 2015年スラバヤ市長選挙での彼女の立候補・再選を防ぐため、必ずしも必要とはされない副市長選出を強行し、ウィシュヌ副市長を据えたのである。

リスマ市長はまだ辞任報道を否定も肯定もしていない。辞任反対デモも起こった。リスマ市長をめぐる動きは、同様に政治的な思惑と離れた新タイプの政治家で、大統領候補人気トップのジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事の動きだけでなく、今後のインドネシア政治を展望するうえでも注目される。

 

(2014年2月16日執筆)

 

 

【スラバヤの風-18】スラバヤ動物園の悲劇

スラバヤ動物園で次々に動物が死んでいく、と話題になっている。2014年1月には、アフリカライオンが首を吊った不自然な形で死んでいるのが写真入りで報道された。「死の動物園」「世界最悪の動物園」と酷評されたスラバヤ動物園で、いったい何が起こっているのか。

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スラバヤ動物園の入口

スラバヤ動物園は、オランダ植民地時代の1916年に設立された国内最古の動物園であり、広さ15ヘクタールは東南アジア最大規模である。2014年1月末現在、197種、3459頭の動物が飼育されているが、84頭が病気や老齢で、うち44頭が危機的状態にある。

スラバヤ動物園で動物の死が問題視されたのは2010年頃からである。スマトラトラ、アフリカライオン、コモドオオトカゲ、バビルサなどが相次いで死んだが、飼育環境の悪化やエサの不足などの様々な問題は、現在まで、何ら解決には至っていない。

動物園を管轄する林業省の意向を受けて、スラバヤ動物園の管理運営はスラバヤ市政府へ移管されたため、批判の矛先はスラバヤ市のリスマ市長へも向けられている。しかし、市長は一切ひるまず、逆に、スラバヤ動物園の前経営者を汚職撲滅委員会へ告発するという行動に出た。地元の国立アイルランガ大学が監査を行った際、南京錠の付いた複数の金庫や現金入りの不審な袋が発見されたほか、スラバヤ動物園の動物を他の動物園と交換した際に、動物の代わりにバイクや自動車をもらっていたケースが発覚したのである。

スラバヤ動物園の管理運営をめぐっては、過去の歴代園長が率いる3グループの内部対立があり、ときには、特定グループの意向を受けた暴力団(隣のジョヨボヨ・バスターミナルを仕切る)が園内に入るケースさえあった。リスマ市長は、これら3グループを同じテーブルにつかせて、動物園の飼育環境や管理運営の改善に向けた話し合いを試みている。

スラバヤ市政府がスラバヤ動物園を管理運営することになったのは、実は動物園内部の問題だけではなかった。2011年頃、地元実業家が動物園を移転させ、元の敷地にホテルやレストランを建設する計画が浮上した際、それを断固認めさせたくないリスマ市長が、市政府による動物園の管理運営を強硬に主張したのである。 地元実業家は、動物園を移転させる口実として、動物の死が相次ぐ劣悪な飼育環境を利用したのかもしれない。2015年のスラバヤ市長選挙でリスマ市長の再選を阻むため、動物園事件絡みでの資金工作があるとの噂もある。スラバヤ動物園の悲劇には、どうしても人災の匂いが付きまとっている。

 

(2014年1月31日執筆)

 

 

【スラバヤの風-17】日本向け野菜生産の聖地となるか

熱帯に属するインドネシアは、日本など温帯産の農作物の栽培には適さないと考えられがちだが、それは一面的である。標高差を生かすと、温帯に近い高山気候のような環境で農作物の栽培が可能になる。しかも四季がないので、年間を通じて栽培できる。

ジャワ島の高原地帯の多くは火山灰地帯であり、肥沃な土壌を生かして高原野菜が栽培されている。キャベツ、白菜、ニンジン、トマトなどが畑でトラックに積まれ、夕方から夜明け前頃までに大都市へ毎日運ばれてくる。ジャカルタではクラマット・ジャティ市場、スラバヤではクプトゥラン市場がそうした野菜の一大集積地である。

東ジャワでは、国内市場向けだけでなく、輸出向けの野菜生産・冷凍も行われている。最も有名なのは、ジェンブル県を中心に生産される枝豆で、その8割以上が日本向けである。中心となる国営合弁企業では、年間約5500トンの枝豆を生産するほか、オクラ、ナス、サツマイモ、大根、インゲンなども日本向けに生産している。

いくつかの日本企業も、東ジャワの高原地帯で野菜の委託生産を試みている。昨年9月に訪問したマラン市の野菜加工工場では、長ネギ、マッシュルーム、サツマイモ、ニラ、大根などを扱い、契約栽培された野菜を水洗いした後、乾燥、冷凍、チルド、水煮などの状態にして、日本及びシンガポール向けに出荷する。野菜加工工場の指導員が栽培農家を回り、圃場で野菜作りや農薬の使用方法などを細かく指導している。

たとえば、日本企業のスペックに合わせてカットされた野菜は、大腸菌の発生を防ぐため殺菌液に浸けられた後、急速冷凍され、半製品として日本へ輸出される。日本市場に受け入れられるよう、日本で味付けをしたり衣をつけたりしたものが、おでんセットの大根や、駅の立ち喰い蕎麦屋のイモ天となって市場に出る。インドネシアからの輸入量はまだわずかだが、すでにインドネシア産野菜が日本食材の一部となっているのである。

しかし、すべての日本向け野菜生産が成功している訳ではない。低コストを狙って委託生産を試みたある日本企業は、昨年初めに東ジャワから撤退した。品質管理や圃場管理の難しさに加え、5年契約で借地代の一括払を要求するといった、農民レベルでの拝金主義の横行も近年目立つという。そして、日本市場が要求する安全・安心への保証をどう確立するかが極めて重要な課題となるだろう。果たして、東ジャワは日本向け野菜生産の聖地となるのだろうか。

 

(2014年1月17日執筆)

 

 

【スラバヤの風-16】シドアルジョはエビの町

正月料理に欠かせない食材の一つは、めでたさを象徴するエビだが、2014年の正月は例年よりも出荷量が少なく、エビに出会えること自体がめでたいことだったかもしれない。昨年、主力のバナメイ・エビがタイなどで大量に病死し、国際価格が一気に高騰したからである。

幸い、インドネシアで病気は蔓延せず、バナメイ・エビの前に主力だったブラックタイガーが過去最高値で取り引きされた。2013年12月にスラバヤで会った華人系のエビ輸出業者は、ブラックタイガーの日本向け輸出で大いに稼いだ様子だった。

昔から、インドネシア産ブラックタイガーは日本における輸入冷凍エビの代名詞ともいえる存在だった。その養殖の中心地は、スラバヤの南隣にある東ジャワ州シドアルジョである。シドアルジョの海岸沿いはエビ養殖池で占められ、街中のあちこちに名物のエビせんべい(クルプッ・ウダン)の製造・販売業者が立地する。エビせんべいの値段の高低はエビの含有率に比例する。シドアルジョは「エビの町」と言ってもいいほどである。

シドアルジョのエビ養殖は、国内で最も近代的・集約的な管理方法で行われ、生産効率が追求された。その反面、いったん病気が蔓延すると容易に感染し、全滅に近い状況に陥る危険性を孕んでいた。シドアルジョでエビ養殖を学んだ者たちは、カリマンタン、スラウェシなどジャワ島外へエビ養殖を展開させていったが、そこでは、小骨は多いが脂の乗るミルク・フィッシュ(バンデン)の養殖と組み合わせた集約度の低い方式が採られた。インドネシアのエビ養殖は、シドアルジョの高集約型とジャワ島外の低集約型とを組み合わせながら、結果的に、全滅のリスクを回避する形で展開してきたと言える。

当初、養殖エビは日本向け輸出が多かったが、韓国や中国など他のアジア向け輸出に加えて、インドネシア国内向け供給も増えた。ただし、インドネシアでは、日本でお馴染みのエビフライやエビ天ぷらではなく、エビせんべいのほかではエビカツがフライドチキンと並ぶポピュラーな揚げ物として定着するといった展開がみえる。

日本の正月料理に欠かせないインドネシア産食材は、実はエビだけではない。たとえば、蒲鉾用の魚の練り物やおでんの具の大根などの野菜もインドネシア産かもしれない。カツオだしなどに使われるカツオの一部は北スラウェシ産である。ユネスコ無形文化遺産となった日本料理、そこへインドネシア産食材も少なからず関わってくる。

 

(2014年1月3日執筆)

 

 

【スラバヤの風-15】東ジャワから広がる地方自治賞

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目映い光を浴びたステージ上には、トロフィーを手に晴れやかな表情の県知事・市長が立ち並ぶ。11月30日、スラバヤで2013年地方自治賞表彰式典が開催された。

地方自治賞は、東ジャワ州の全38県・市を対象に、公共サービス部門、経済振興部門、政治その他部門の3分野で際立ったパフォーマンスを見せた県・市を公表・表彰するもので、2002年から毎年開催され、今年で12回目となる。地元紙『ジャワポス』のダハラン・イスカン社長(当時。現国営企業大臣)のイニシアティブで2001年に設立された、ジャワポス地方自治研究所(JPIP)が毎年のパフォーマンス調査・評価を担当してきた。

JPIPの調査員はあえて大学を出たばかりの若手が採用され、役人や政治家との繋がりのない人材が配置された。調査の過程では、県・市から手心を加えてもらうよう強要されたり、脅されたりするケースもあったそうだが、それでも12回も続いてきたのは、JPIPの調査結果や評価に一定の客観性が認められ、それが県・市に受け入れられたからであろう。なかには、地方自治賞の受賞を毎年の開発目標として位置づける県・市さえある。

2013年地方自治賞を受賞したのは、公共サービス部門ではマラン県(大賞)、シドアルジョ県、ジョンバン県、経済振興部門ではマラン市(大賞)、バニュワンギ県、サンパン県、政治その他部門ではバニュワンギ県(大賞)、スラバヤ市、ラモンガン県、パチタン県であった。若くエネルギッシュな県知事が率いるバニュワンギ県が2部門で受賞して際立ったが、各部門にノミネートされた件数が圧倒的に多かったのはスラバヤ市だった。個人的には、ゴミを貨幣のような決済手段にして生活必需品を買えるようにしたマラン市の取り組みが興味深いが、いずれ現場で調べてみたい。

地方自治賞は現在、東ジャワ州だけでなく、中ジャワ州、南スラウェシ州、東カリマンタン州、南カリマンタン州、西カリマンタン州へ広がり、JPIPの支援を受けながら、それぞれの州のジャワポス系列の地方新聞社が実施している。まだまだ改良の余地はあるにせよ、JPIPのような信頼された第三者が県・市間の善政競争を促す形になってきている。

日本でも、堺屋太一氏らが「全国自治体・善政競争・平成の関ヶ原合戦」を呼びかけたことがあるが、定着度と効果の面で地方自治賞はより実際的といえる。JICA専門家時代に地方自治賞の構想をJPIPと議論した身としては、今後のさらなる展開を期待したいところである。

 

(2013年12月13日執筆)

 

 

【スラバヤの風-14】スラバヤは物語を持っている

スラバヤでは、自分の街を愛する人々に多く出会う。「ジャカルタに行ってみたけれど数ヵ月でスラバヤへ戻ってきた」という人によく会うし、ものすごく優秀な人材なのにスラバヤからジャカルタへ行こうとしない者がいたりする。

街中には100年以上前に建てられた素敵なコロニアル風の建物がいくつも残り、今もその多くは現役である。スラバヤの古い写真を収集して保存する運動をしている団体や、自分たちの祖先の跡をたどる街歩きをする華人系のグループなどもある。

スラバヤは「英雄の町」とも呼ばれる。それは、1945年8月の独立宣言の後、再侵入してきたオランダなどの連合軍へ、全国で最初に市民蜂起した歴史を背景としている。そんな歴史もまた、スラバヤっ子が自分の街に誇りを持つ所以なのかもしれない。

10月末、スラバヤの街に関わる様々な人々や事象を書き留めた『スラバヤは物語を持っている』という本が出版された。著者はダハナ・アディ(通称・イプン)というフリーランスのジャーナリストで、11月2日の出版記念セミナーには私も顔を出した。

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本の中身は、昔にスラバヤで流行った様々な映画、戦時中に日本軍がプロパガンダで利用したことで知られるスリムラットと呼ばれる大衆娯楽劇、オランダで活躍した「ティルマン・ブラザース」というインドネシア人バンド、インドネシアン・ポップスの先駆者ゴンブロー、伝説的なジャズ音楽家ブビ・チェン、マス川のほとりを歩いた際の見聞録、トゥリ市場やジュアンダ空港の歴史など、スラバヤゆかりの人々や事象を取り上げている。この本は第1巻と銘打っており、今後続刊が期待される。

イプンは「次世代の子供たちにスラバヤをもっとよく知り、愛し、誇りを持ってもらいたいので、この本を書いた」と語る。私としては、そうしたイプンの活動自体に敬意を表する。と同時に、様々な人々が持つそれぞれのスラバヤの物語が生まれることも期待してしまう。

たとえば、以前住んでいたマカッサルでは2007年、若者たちがマカッサルに関わる様々な事象を調べた『マカッサル0キロメートル』という本を出版した。その後、一般市民が自分の身の回りの事象を調べて書いたエッセイから成る『パニンクル』という投稿サイトが生まれ、既存メディアに対抗する市民ジャーナリズムの先駆けとなった。

スラバヤではどうだろうか。イプンが語る「スラバヤ」を人々が受け止めるだけでなく、人々もまた自分たちの「スラバヤ」を自ら紡いでゆく。その結果、『スラバヤは物語を持っている』はより豊かになり、スラバヤの人々みんなのものとなっていくことだろう。

 

(2013年11月29日執筆)

 

 

【スラバヤの風-13】さらばアジア最大の売春街

スラバヤ市内に通称「ドリー」と呼ばれる売春街がある。植民地時代にドリーという混血女性がオランダ兵のために設けた場所で、最盛期には5000人以上の売春婦が働くアジア最大の売春街となった。最近は減少気味で、公式には52軒、1025人の女性が働いているとされる。実際はもっと多いだろう。

スラバヤ市にはドリーを含めて売春街が6ヵ所あり、そのすべてが2014年までに閉鎖となる。すでに3ヵ所が閉鎖され、ドリーは来年初めである。市は、ウィスマと呼ばれる売春店を仕切る胴元や売春婦へ補償金を支払うとともに、転職の斡旋や手に職を付けるための職業訓練を施している。

売春街閉鎖を前に、週刊誌『テンポ』がドリーの特集を組んだ。それによると、売春婦は平日で一晩5人前後、週末は10人前後の客の相手をし、1時間当たり最高で20万ルピア程度が相場である。客の支払は胴元が取り、売春婦に6万ルピアが払われる。洗濯代や美容を保つためのジャムゥ(伝統薬)代を引くと、売春婦の手取りは2万ルピアである。他方、胴元は12万ルピアを、仲介屋は客紹介料2万ルピアを取る。胴元は、ウィスマの家賃以外に警備員へ35万ルピア、地区警備のため町内会費へ6.5万ルピアを毎月支払う。

売春街はすでに一定の経済効果を地域にもたらし、それに依存する人々も少なくない。ヤクザ集団、軍・警察、役人、政治家など様々な利害が絡んでもいる。

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当然、売春街の胴元や売春婦は、将来の生活への不安から、売春街閉鎖に強く抵抗している。たとえば、転職できなかった売春婦がスラバヤから地方へ移動する可能性がある。バニュワンギやクディリなどの売春街では、年配の売春婦が新参者に競争で負け、辺地の売春街に押し出されている。あるいは、路上売春が闇で増えるという懸念もある。

それでもスラバヤ市のリスマ市長は、不退転の決意で売春街閉鎖を遂行している。「死を恐れない」と豪語する市長はなぜ、それほどまでに強気なのだろうか。

リスマ市長によれば、それは「子供」のためである。アルコールやドラックが横行する環境から子供を解放したいという理由に加えて、売春街で親が分からないまま産まれた子供たちが容易に人身売買される状況を心配している。リスマ市長は実際に売春街の近くの小学校を訪れ、子供たちから直接に話を聞いて行動しているのである。

リスマ市長の真っ直ぐな本気こそが、まず無理と思われた売春街閉鎖を秒読みとさせたのである。さらば、アジア最大の売春街。

 

(2013年11月15日執筆)

 

 

【スラバヤの風-12】リスマ=ジョコウィ+アホック

昨今、ジャカルタ首都特別州を変えようとするジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事とアホック州副知事が注目されているが、スラバヤのリスマ市長も負けてはいない。どこにでもいる普通のおばさんといった風貌の彼女は、ジョコウィの庶民性とアホックの戦闘性の両方を兼ね備え、スラバヤを変革してきた手腕が国内外から高く評価されている。

トゥリ・リスマハリニ(リスマ)市長の前職はスラバヤ市環境美化局長だった。2005年に同局長へ就任後、市内の緑化やゴミ対策など環境改善へ取り組んできたが、政治的野心はなかった。2010年、3期目に立候補できないバンバン市長(当時)が副市長へ立候補して市政をコントロールするため、彼女を市長候補に担ぎあげた。しかし、当選後のリスマ市長は副市長の操り人形にはならず、独自のスタイルを見せていった。

リスマ市長の庶民性に関するエピソードは事欠かない。彼女はバイクの後部座席にまたがり、カンプンの細い路地へ入って住民と直接対話し、そこで出された問題を解決していく。毎朝の散歩の際にゴミを拾って歩くのが日課であるが、水が濁って悪臭を発する排水路に溜まったゴミを見つければその場で自ら掻き出す。汚れないように指先でゴミをつまんでいたアシスタント職員には「明日から出勤に及ばず」と告げ、その場で解雇した。 夕方から夜にかけては、公園でたむろする若者たちに声をかけ、家へ帰って勉強するように諭す。東南アジア最大ともいわれる赤線地帯を閉鎖に至らせ、売春婦の再就職や売春に走る少女たちの更生にも熱心に取り組む。さらに、目の前で交通渋滞があれば、乗っていた車からいきなり降りて、自ら交通整理を始めることさえあった。

リスマ市長は同時に、間違ったことに対する戦闘性も発揮する。たとえば、パサール・トゥリを緊急視察した際に、建物のデザインが当初の予定と違っていたことに怒り、本来のデザインに1週間で戻させた。また、2ヵ月経っても工事を始めない建設業者に対して、工事の中止やブラックリスト化だけでなく、裁判に訴えると圧力をかけた。

ジャカルタ首都特別州のアホック副知事は、許認可などの行政サービス、効率的な予算作成手法、ゴミ対策などをスラバヤ市から学ぶことを表明している。リスマ市長はジョコウィとアホックの特徴を兼ね備えるだけでなく、彼らの学びの対象ともなっている。 リスマ=ジョコウィ+アホック。従来とは根本的に異なる新しい指導者が地方から生まれ始めている。

 

(2013年10月18日執筆)

 

 

【スラバヤの風-11】カンプン改善事業の先駆地

インドネシアでは、一般に、家屋が集まった集落をカンプンと呼ぶ。都市におけるカンプンは、小さな家屋が密集した場所であり、末端の行政区域・クルラハンの一区画を占める。田舎から職を求めて都市に住み着き、家族も呼び寄せて不法占拠のまま小さな家を建てる。それらが集まってカンプンを形成する場合もある。

都市計画では、カンプンを整理して住民を集合住宅へ移転させる方法とカンプン自体の居住環境を改善する方法の2つが考えられる。スラバヤの都市計画は後者を基本とした。

スラバヤは、インドネシアで最初にカンプン改善事業が始まった都市で、それはオランダ植民地時代の1910年代にさかのぼる。その中心は、カンプン内の排水溝の改善とそれに伴う道路の整備であった。その後、1969年から住民参加型でカンプン整備事業が実施された。すなわち、住民はクルラハンを通じて改善要望を市側に伝え、市側は材料や工具の支給、工事監督者の派遣などを行い、住民自身が実際の道路・排水溝工事を担った。1974年以降は世銀融資で事業が拡大され、小学校、診療所、一体型共同沐浴場・洗濯場・トイレ(MCKと称す)などの公共施設の建設が進んだ。カンプン改善事業はその後、全国へ広がったが、スラバヤはその成功事例と見なされることが多い。

スラバヤの大通り沿いのカンプンを歩くと、道路が舗装されて路幅が広い(自動車が対面運転できる程度)、沿道に植物などが植えられて緑が多いなど、整然とした潤いのある居住空間が作られている。ジャカルタのような、くねくねと曲がった細い道に沿って半ば無秩序に建てられた住宅密集のカンプンとはかなり様相が違う。大通りとの境にカンプン名の書かれたアーチがかけられたところもある。

そんなスラバヤのカンプンだが、狭い居住空間にひしめき合って人々が暮らす状況に変わりはない。なかには、市中心部でも水道がまだ引かれず、井戸から汲み上げた地下水を使っているカンプンもある。公共インフラの整備は引き続き必要である。

カンプンの住民には、日雇いなど不安定な身分で収入の限られた底辺層も少なくない。実際、彼らの生活が豊かになっているという印象はあまりない。むしろ、豊かになるインドネシアから取り残されているようにさえ見える。全国の手本とされるスラバヤのカンプン改善事業は、時代に即したさらなる進化を求められている。

 

(2013年10月4日執筆)

 

 

【スラバヤの風-10】公共交通が退化した町

スラバヤに住んで、ずっとタクシーで移動していた。スラバヤのタクシーはブルーバードとアストラ系のオレンジが二大勢力で、ほかにも、かつてタクシー会社として最初に上場したゼブラや南スラウェシ出身のボソワ・グループの持つボソワなど多数ある。タクシー移動で生活上や仕事上、困ったことはとくになかったが、街歩きをするようになって、はたと気づいた。バスや乗合などの公共交通機関がすぐに見つからないのである。

スラバヤに公共交通機関は存在する。バスは国営ダムリが19系統を運行し、冷房バスも走っている。ダムリ以外の民間会社のバスもある。また、系統ごとに色分けされた「リン」と呼ばれる小型乗合(ジャカルタのミクロレットとほぼ同じ)も、調べると、計60系統以上走っていることが分かる。しかし、その存在が見えない。

実は、公共交通機関の台数がここ数年、減少している。6月2日付『テンポ』誌(東ジャワ版)によると、バスは2008年の250台から2011年には167台へ、「リン」は同じく5233台から4139台へ、それぞれ急減している。

対照的に、自家用二輪車・四輪車の台数は、そのわずか3年間に140万9360台から699万3413台へ激増している。経済成長に伴う所得上昇は、スラバヤの人々に二輪車や四輪車の購入を促し、公共交通機関ばなれを急速に引き起こさせたといえる。

もともとスラバヤは、公共交通機関が大きな役割を果たした町だった。オランダ植民地時代の1881年から約100年間、市内を路面電車や蒸気路面列車が走り、人々の足となっていた。モータリゼーションの進行とともに、路面電車や蒸気路面列車は交通渋滞を引き起こすと敬遠され、バスに取って代わられた。1980年代に筆者が訪れたスラバヤには、その頃のジャカルタと同様、ボルボ製やレイランド製の二階建てバスが走っていた。もちろん、ベチャの台数は今よりはるかに多かったし、一時期、バジャイもこの町を走っていた。

二輪車・四輪車台数の急増により、スラバヤも5年後にはジャカルタのような渋滞に直面することが確実と見られる。このため、スラバヤ市政府は、2015年の開業を目指して南北線(トラム「スロトレム」)と東西線(モノレール「ボヨレール」)を組み合わせた公共交通機関の整備を計画している。

公共交通機関が退化した町・スラバヤで、「スロトレム」と「ボヨレール」が自家用車利用者を本当に引き込めるのだろうか。タイミングとしては遅すぎた感が否めない。

 

(2013年9月21日執筆)

 

 

【スラバヤの風-09】東ジャワ州知事選挙と今後の政治

スラバヤは、インドネシアの政治を占うバロメーターといわれる。1945年8月17日の独立宣言の後、連合軍(英国軍)が進駐してきた際、それへ最初に抵抗したのが、同年11月10日にスラバヤで起こった市民蜂起だった。これをきっかけに、連合軍への抵抗闘争が全国へ拡大し、独立戦争が本格化した。それ以後、多くの国内政治ウォッチャーが、スラバヤで何が起こるのかに注目してきた。

その観点からすると、8月29日に投票が行われた東ジャワ州知事選挙の結果が今後のインドネシアの総選挙や大統領選挙へどんな影響を与えるかが注目される。開票結果はまだ未確定だが、クイックカウントによれば、スカルウォ=サイフラー(現正副州知事)の現職ペアが勝利を収めるのは確実である。

現職ペアは、与党民主党など30政党以上の推薦を受けただけでなく、東ジャワ社会に大きな影響力を持つ国内最大のイスラム社会団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の高僧(ウラマー)の支持も取り付け、万全な体制で選挙戦へ臨んだ。

ここで、筆者は、政党間の駆け引きよりも、現職ペアが作り上げてきた政治の中身に注目したい。もともと、現職ペアは1期目に致命的な問題を起こさず、調整型の行政運営を通じて明白な政敵も作らなかった。筆者が会った州政府高官たちは、「誰が州知事になってもシステムとして行政は回る」と自信を持って答えた。以前の「選挙があると行政がほぼストップしてしまう」という感覚はもはやない。

スカルウォ州知事は元州官房長という官僚出身者で、自分が前面に出て指導力を発揮し、部下をぐいぐい引っ張るタイプではない。組織のタテ割りの弊害を防ぐために部局長間の相互人事を進め、各部局間の意思疎通を円滑化するなど、見えないところで様々な工夫を施してきた。その結果、2012年の地方政府運営パフォーマンス評価において、東ジャワ州政府が全国第1位に選ばれるなど、着実に実績を積み上げてきた。

地方行政改善のためには、「王様型からマネージャー型へ」という地方首長の態度変化が求められるが、東ジャワ州はそれを先取りしている。大変な親日家としても知られるスカルウォ州知事の2期目がその中身をさらにどう進化させていくのか。

政治の中身に注目するという意味で、東ジャワ州知事選挙とその後の行政運営は、たしかに、大統領選挙とその後の国政のバロメーターになるかもしれない。

 

(2013年9月6日執筆)

 

 

【スラバヤの風-08】再び脚光を浴びるサトウキビ

東ジャワといえば、植民地時代から有名なのはサトウキビ栽培である。オランダ支配下の強制栽培制度で本格導入され、1930年代前後の最盛時には年間約300万トンとアジア最大の生産量を誇った。世界恐慌の後、生産は衰退したが、今でも、アジアでインドネシアは、今でもフィリピンに次ぐ第2のサトウキビ生産国である。サトウキビは、ブランタス川下流のモジョクルトからシドアルジョにかけての地域を中心に、土地の肥沃度を維持するため、水田にコメや畑作物と組み合わせた3年輪作の1作として栽培された。

サトウキビを原料とする砂糖の生産は主に国営企業が担ってきたが、設備が老朽化したにもかかわらず、機械の更新など設備投資を長年にわたって怠ったため、生産性が低下し、多額の損失を出し続けた。一時、ジャワ島に集中する製糖工場をスラウェシやパプアへ移転して生産拡大を図る計画もあったが、結局頓挫した。政府は砂糖の輸入を増加させ、現在では、年間200万トン以上を輸入する世界有数の砂糖輸入国となっている。

しかし、サトウキビに砂糖生産の原料以外の用途が現れたことで、状況に変化が生じた。8月20日、モジョクルトにある国営第10農園グンポルクレップ製糖工場にて、日本の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)がインドネシア工業省と共同で設置したバイオエタノール製造プラントが実証運転を開始した。日本の発酵技術を応用し、製糖工場から出る廃糖蜜(モラセス)を原料に純度99.5%のバイオエタノールを輸入代替生産する。バイオエタノールはすべて国営石油会社(プルタミナ)に買い取らせる計画である。

さらに、同じく国営第10農園は、マドゥラ島に日産6000トンの製糖工場を2014年までに建設する予定のほか、国営第3・第11・第12農園の合弁である国営インドゥストリ・グラ・グレンモレ社は、東ジャワ州東端のバニュワンギに日産6000トンの製糖工場を2015年までに建設し、サトウキビ糟から有機肥料やバイオエタノールの生産を計画している。製糖工場が新規に建設されるのは実に30年ぶりということである。

これら製糖工場の新しい動きが軌道に乗れば、砂糖の輸入抑制、ガソリンからバイオエタノール燃料への転換、有機農業の拡大など、インドネシアが直面するいくつかの深刻な問題の克服へ貢献する。サトウキビ栽培農家の生産意欲も向上するだろう。東ジャワのサトウキビは、再び脚光を浴び始めている。

 

(2013年8月24日執筆)

 

【スラバヤの風-07】東部地域との結節点

筆者が東ジャワ州やスラバヤに注目する理由の一つは、インドネシア東部地域(以下「東部地域」と称す)との結節点となっているためである。東部地域とは、カリマンタン島、スラウェシ島、マルク諸島、パプア、バリ島以東のヌサトゥンガラ諸島の広い地域を指す。

ジャワ島内で生産された生活物資・消費財は、州都スラバヤのタンジュン・ペラッ港から東部地域の各地へ運ばれる。一方、東部地域からは、木材、鉱物、商品作物、水産物などがスラバヤに集まり、一部は加工され、一部は海外へ輸出される。

遠い昔からスラバヤは物流交易都市であった。ジャワ島で生産された生活物資・消費財は、東部地域にある中心港(スラウェシ島ならマカッサルやマナド、マルク諸島ならアンボンやテルナテ、パプアならジャヤプラやソロンなど)へ大型船で運ばれ、そこから小・中型船ないし陸送へ小分けされて中小都市へ運ばれる。最終的には、客と一緒に乗合自動車に積まれたり、バイクや馬、果ては人力で運ばれたりしながら、生活物資・消費財が東部地域の末端の村々まで到達する。

一方、東部地域の豊富な天然資源を求めて、地域の隅々までスラバヤなどから商人が入り込んでいる。現場で買い付け、用意した船で一次産品などをスラバヤまで運ぶ。あるいは、スラバヤからの商人が現場で注文し、現場の元締めや商人が物品を用意して、船でスラバヤへ送る。カカオやコーヒーなどの商品作物も、マグロやロブスターなどの水産物も、木材や鉱産物も、東部地域の各地からダイレクトにスラバヤへ運ばれてくるケースが多い。そして、その船で生活物資・消費財を積んでスラバヤから東部地域へ戻るのである。

こうした東ジャワ州やスラバヤと東部地域との相互経済関係を意識して、東ジャワ州政府と州商工会議所は、東部地域の各州政府と協力協定を結び始めた。そして、東部地域各州に東ジャワ州の連絡事務所を開設し、両者の相互経済関係を一層緊密化させ、東ジャワ州が東部地域の発展に積極的に貢献しようとする姿勢を示している。そこでは、東ジャワ州の実業家が東部地域でのさらなるビジネス機会を求めていることはいうまでもない。

南スラウェシ州の州都マカッサルも、東部地域での経済センターを目指すが、物流の搬入量が搬出量よりずっと大きく、港湾施設も非効率なため、スラバヤを使うほうが低コストとなる。東部地域との結節点としての役割は、スラバヤのほうがまだ大きいのである。

 

(2013年7月26日執筆)

 

 

【スラバヤの風-06】「日系専用」の国営パスルアン工業団地

先週と今週は、講演のためシンガポールと日本に出張中である。参加者と話をすると、交通渋滞やコスト高の進むジャカルタ周辺への懸念が大きく、代替先を探している様子をひしひしと感じる。インドネシア政府も、低賃金労働を求めてインドネシアからカンボジアやミャンマーなどへ日系企業が移転することを恐れており、ジャカルタ周辺からの移転先として、同じジャワ島内の東ジャワや中ジャワの魅力を伝える必要を感じている。

そのなかで、今後の日系企業進出の受け皿として有望なのが、東ジャワ州の国営パスルアン工業団地(PIER)である。スラバヤから南へ60キロ、約1時間半の距離である。敷地面積500ヘクタールのうち200ヘクタールが工業団地であり、そこに60社が立地し、そのうち21社が日系企業である。毎月第3木曜日に「三木会」(さんもくかい)という日系企業間の情報交換を行う定期会合が開かれている。

PIERは、2014年末までにさらに92ヘクタールを造成予定だが、そこを日系企業専用工業団地とする方針で、東ジャワ州政府も全面的に後押ししている。 さらに、現在、スラバヤからの高速道路をパスルアン方面へ延伸する工事が進められているが、このPIERの敷地内、「日系企業専用工業団地」のすぐそばにインターチェンジが2014年末までに設置される。おそらく、高速道路のインターチェンジが敷地内にある工業団地としては、このPIERがインドネシアで初めてとなる。これが完成すると、PIERからスラバヤ港まで約1時間弱で結ばれる。

インドネシアの工業団地開発は、1980年代半ばまでは国営が中心だったが、その後は民間が主となり、ジャカルタ周辺はほとんどが民営の工業団地である。そこでは、高速道路から工業団地までのアクセス道路における交通渋滞が大問題となっている。

PIERは、現在でも工業団地本体から幹線道路沿いの出入口まで長いアクセス道路があり、その出入口を閉鎖することで外部から来た労働デモ隊をシャットアウトしている。インターチェンジができれば、高速道路が閉鎖でもされない限り、物資の搬出入も影響を被ることはまずない。

用地取得価格は現在1平方メートル当たり100万ルピア(約1万円)前後とジャカルタ周辺に比べればまだ低いが、値上がり傾向にある。PIERは、「日系専用」のために諸手続の簡便化など様々な改善を積極的に進めていく意向である。

 

(2013年7月12日執筆)

 

 

【スラバヤの風-05】中小企業向け信用保証

中小企業がなかなか育たない理由の一つは、銀行から安心して融資を受けられないことにある。このため、中小企業向けの銀行融資を保証する仕組みづくりが重要になる。 中央レベルでは、信用保証会社(PT. Jamkrindo)と信用保険会社(PT. Askrindo)の二つの国営企業が信用保証を行っているが、中小企業については地方でよりきめ細かな対応が必要になる。日本の国際協力機構(JICA)による技術協力の下、中銀が中心となって各州での信用保証会社の設立へ向けた制度づくりを行ってきた。

その第1号となったのが東ジャワ州である。2010年1月、中小企業向け融資を保証する信用保証会社・東ジャワ州ジャムクリダ(PT Jamkrida Jatim)が他州に先駆けて設立された。最大出資者は株式の9割以上を持つ州政府であり、州内各県政府も出資する。

ただし、保証対象は東ジャワ州開発銀行(Bank Jatim)による融資に限られる。2.5億ルピアまでの融資はすべて自動保証されるが、2.5~7.5億ルピアの融資は審査が必要となる。保証期間は3カ月から最長6年、多くは3年以下である。保証料は保証対象融資額の1.5%を毎年支払い、これが信用保証会社の収入となる。インドネシアでは信用保証会社は利益を上げて、株主である州政府へ利益を還元することが求められる。実際、州議会では、ジャムクリダの収益がどれぐらい上がっているのかが常に議論となる。

2013年4月時点の保証総額は8000億ルピアに達しているが、一顧客当りの平均保証額は2000万ルピアと少額である。顧客の中小企業は約4万社あり、約12万人の雇用を支えている。しかし、東ジャワ州ではまだ290万社の中小企業が信用保証の恩恵を受けておらず、ジャムクリダがカバーしているのはごくわずかに過ぎない。

それでも、ジャムクリダの信用保証のおかげで、ある金属加工の中小企業が日本への委託生産品の輸出を始めるなど、いくつかの成功事例が生まれ始めた。ジャムクリダのヌルハサン社長は、「ジャムクリダの目的は中小企業振興を通じた貧困撲滅」と言い切る。もっとも、ジャムクリダの直接取引先は東ジャワ州開発銀行であり、その顧客である中小企業の融資を保証することで、間接的に中小企業振興に関わっているのである。

東ジャワ州ジャムクリダには、同様の信用保証会社を設立する他州からの視察者が後を絶たない。利益確保など困難に直面しつつも、ジャムクリダは中小企業向け地方信用保証会社のリーダーとしての役割を果たし続けようとしている。

【スラバヤの風-04】中小企業が地域経済に高い貢献

東ジャワ州は、インドネシアのなかで、協同組合や中小企業の振興に最も力を入れている州の一つである。その結果は、2012年の州内総生産(GRDP)に占める協同組合・中小企業部門の貢献が54.4%という、他州に比べてかなり高い数字に表れている。

活動停止中の協同組合の比率は、全国平均が27%であるのに対して、東ジャワ州はわずか12%に過ぎない。中小企業の事業所数は、2006年の420万事業所から2012年にはその1.5倍に当たる682万事業所へと大幅に増加した。682万事業所の6割以上が農業関連で占められている。東ジャワ州は農林水産業・同加工業の振興を地域開発の最優先課題と位置づけているが、その担い手のほとんどは協同組合や中小企業によるものといえる。

スラバヤ・ジュアンダ国際空港近くの東ジャワ州協同組合・中小企業局を訪問すると、役所棟に向かって左側に工芸館、右側にバティック(蝋纈染め)館が配置されている。いずれも州内の協同組合や中小企業によって作られた製品を展示即売する場所で、日本でいうところの地方特産品センターの位置づけである。

そして、役所棟の裏側には、州中小企業クリニックが配置されている。同クリニックは州内の中小企業に対し、事業相談、情報提供、アドボカシー、短期研修、起業家関連書籍センター、資金アクセス、市場アクセス、移動式クリニック、IT起業、中小企業オンラインテレビ、などのサービスを提供し、中小企業コンサルタントが常駐している。中小企業向けの短期研修は生産、経営、IT起業の3分野に分かれ、合計で1ヵ月に3〜4回の頻度で実施されている。

中小企業コンサルタントには、事業者と銀行を結ぶ役割も期待されている。彼らが有望な事業者を見つけ、帳簿つけからビジネスプラン作成に至るまで指導するとともに、銀行はコンサルタントを信用して融資を行う。インドネシア銀行の後押しで養成された銀行パートナー金融コンサルタント(KKMB)もそのような中小企業コンサルタントの一つであり、東ジャワ州では、KKMBの属する42団体の連合会が作られている。

2012年に東ジャワ州では一般銀行81行、庶民信用銀行(BPR)363行によって約240兆ルピアの融資がなされたが、実際の中小企業向け融資はその約3割に留まる。さらなる中小企業向け融資の促進には、もちろん信用保証を充実させる必要がある。そう考えた東ジャワ州政府は2010年、州レベルでは全国初となる信用保証会社(PT Jamkrida Jatim)を設立した。

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