ウガンダでの1週間(1)

ウガンダには8月2〜9日の8日間滞在した。今回は、ウガンダ在住の友人KNさんとそのご家族に何から何までお世話になった。

まず、入国の際に、50米ドルを支払って到着時査証をとる。このときに、係官から「どうしてケニア、ウガンダ、ルワンダ3ヵ国共通ビザを取らなかったんだ?普通はそれを取ってくるもんだ」というので、「ケニアに寄らないし・・・」とか色々説明していたら、「ちょっと訊いてくる!」といって退席し、5分後にOKといって到着時査証をパスポートに貼り付けてくれた。

KNさんの運転手がエンテベ空港に迎えに来てくれ、カンパラのホテルまで送ってくれた。エンテベからカンパラまでは一本道で、ときには渋滞で2〜3時間もかかると聞いていたが、途中で渋滞したものの、運良く1時間ちょっとでホテルに到着した。

カンパラの宿はシャングリラ・ホテル。旧名は上海ホテルという。レセプションは階段を上がった外にある机一つ。「クレジットカードの読み取り機がちゃんと動くかなあ?」などという状態で、絶対に「なんちゃってシャングリラ」と信じていた。実は、本当にシャングリラ系列だと別の知人に教えてもらった。

このホテル、見た目以上に基本がしっかりできていて、シャワーの温度調節に難があるほかは、インターネット接続をはじめ、部屋の設備やアメニティにも手抜きがなく、ランドリーはタダという、なかなか居心地の良いホテルだった。

かつての職場の先輩アフリカ研究者の定宿だったそうであり、日本人客の利用も多いようで、たくさんの日本語の書籍が置いてあった。

朝食はお庭で。小さい傾斜のある庭だが、これがなかなか素敵な空間である。

ウガンダに来て感じたのは、人々の表情が豊かで、融通がきくゆるさだった。タンザニアやルワンダよりもずっと英語が通じるせいか、ホテルの従業員に冗談を言ったり微笑んだりすると、ちゃんと反応してくれる。ちょっと、インドネシアに似た感じだった。

融通がきくといえば、カンパラから車で4時間のグルという都市へ行ったときのこと。その日は8月3日(日)で、夕方6時頃、無線Wifiルーター用のSIMを探していた。ようやく見つけた店には鍵がかかっており、閉店の様子。でも、まだ中に職員がいる。

ダメもとでノックすると、何と職員がやってきて鍵を外し、「中に入れ」という。こうして、めでたくSIMをゲットできた。ある人は「きっとその日の唯一の売り上げだったかもよ」と言っていた。

ウガンダでは、幹線道路のいくつかのポイントに交通警察が張っていて、車を止めてはチェックする。とくに、シートベルト着用は厳しく見られる。筆者はそれに気づかず、シートベルトをしないで後部座席に座っていたのだが、交通警察が鬼の子を取ったようにニコニコしながら「はい、罰金でーす」と近寄ってきた。

「ウガンダに昨日来たばかりなんですー」と言い訳しても、「イイですかあ?この表にシートベルト未着用は2万シリング(約800円)と書いてありますねえ。払ってくださいねえ」と言い寄る。払ってあげたら、とても嬉しそうだった。ウガンダは汚職がひどいらしく、なかでも警察はその筆頭。インドネシアもそうだったなと思いだした。

タンザニアやルワンダと同様、ウガンダで道路を走る車はほぼ9割以上が日本車、しかも中古車である。トヨタが圧倒的に多い。ルワンダは左ハンドルだが、それでも日本車が多かった。日本を始めとして、世界中から日本車の中古車がここに集まってくる。10年程度のものは、ここでは新車扱いなのだという。

それらの中古車には、かつて使われていた会社や組織の名前がついたまま走っているものが少なくない。加えて、いったん消したものの、新たに怪しげな漢字を施した中古車もみかける。何と書いてあるのか、解読不能だが、おそらく、漢字らしきものがあると、高く売れるのかもしれない。

中古車がほぼすべてのこの国では、おそらく今後、自動車を作るということは起こらないだろう。これらの国が中古車を輸入してくれるから、日本などでは安心して車の買い替えが行えるのだと思った。そして今後は、タイやインドネシアなどからの中古車輸入へシフトしていくのではないか。

これらの国で日本からの中古車が使われた後、どうなるのかというと、ボディは鉄板として使われ、その他部品は売買される。ここが中古車の最終目的地のようである。

ジェノサイド記念館を訪問

ルワンダへ来た主目的は、福島から移住した叔母に再会することだったが、それにも負けるとも劣らぬ目的は、ジェノサイド記念館を訪問することだった。

今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。

ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。

2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。

展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。

ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。

少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。

独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。

ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。

1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。

ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。

ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。

ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。

ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。

その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。

翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。

館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。

20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。

そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。

虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。

下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。

キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。

ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。

案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。

正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。

2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。

ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。

しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。

そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。

そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。

ルワンダの首都キガリに到着

7月29日夜、ダルエスサラーム発のルアンダ航空直行便で、ルワンダの首都キガリに到着した。

キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。

今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。

30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。

先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。

ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。

今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。

先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。

公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。

叔母は毎日、自宅から環状線まで歩き、バスに乗って、下車した後、徒歩でウムチョムウィーザ学園へ通勤している。往復で毎日5キロ以上歩く計算になる。毎朝ストレッチしているというが、76歳という年齢でそれを悠々とこなしているのには恐れ入る。インドネシア人的な感覚からすると、都市でそれだけ歩くというのは普通はないだろう(交通機関のないインドネシアの田舎の人々は実はけっこう歩いているのだが)。

叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。

キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。

一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。

愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。

ラマダン最終日のザンジバル(3)

ザンジバルの世界遺産であるストーン・タウンの街歩きの後は、車で30分ほどの距離にある観光スパイス農園へ行った。

ザンジバルに富を築かせたのは、奴隷貿易、象牙取引と並んでスパイス貿易であった。なかでも、丁字は、もともとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から移植され、世界有数の品質の丁字を産するに至った。実際、インドネシアは、ザンジバルから丁字タバコ(クレテック)用の丁字を輸入していた(今も輸入しているかもしれないが)。

観光スパイス農園につくと、若い兄ちゃんが農園の中を案内してくれる。農園自体は観光用に様々な香辛料の木を植えているのみで、商業用としては大したことはない。案内役の彼は農園とは何の関係もなく、観光客を案内するために農園を使わせてもらう観光ガイドである。

農園内を歩きながら、香辛料の木の実を詰んで、匂いをかがせたり、かじらせたりする。予想通り、彼が案内する香辛料はすべてインドネシアではおなじみのものばかり。いつもと勝手が違って、驚いたり感心したりしない客だったせいか、案内役の兄ちゃんはちょっとがっかりしている様子だった。

まだ若い実の丁字をかじってみた。これはただの印象だが、インドネシアのものよりも味が濃いような気がした。ほかにも、シナモン、ショウガ、レモングラスなどをかじったが、いずれも、ザンジバルのほうが味が濃いと思った。これは土壌の違いによるものなのか。
スパイスとは関係のない話だが、付いて来たもう一人の若者が椰子の木に登り始めた。見ると、両足を縄で縛っている。これでスルスルと椰子の木に登り、小ぶりのヤシの実をひとつ取って降りてきて、割って飲ませてくれた。これも味が濃かった。

椰子ジュースを飲んでいる間に、葉っぱで帽子とネクタイを作ってくれた。最後に、スパイス販売コーナーに連れて行かれて、スパイス農園ツアーは終了である。

日頃、本物の香辛料の木を見る機会のない人々にとっては、興味深いツアーになるかもしれないが、今回は私のような客に当ってしまい、彼らにはちょっとかわいそうだった。

ザンジバルからダルエスサラームへの戻りは、セスナ機の最終便。

乗客が多く、増便が出たが、なぜか増便のほうが早く飛んでいってしまい、元々の便を予約していた私を含む乗客はしばらく取り残された。

結局、1時間近く遅れてダルエスサラームに到着。我々が先に飛べたら、セスナ機から夕日が楽しめたのに、とちょっと残念なザンジバル日帰りツアーの締めくくりだった。

ラマダン最終日のザンジバル(2)

ザンジバルといえば、ストーン・タウンの街歩きである。ここの建物は石灰岩やサンゴ石を使い、セメントやコンクリートを一切使っていない。ストーン・タウンの由来である。

細い小路がくねくねと曲がり、ガイドのムゼーさんがいなかったら本当に迷ってしまうことだったろう。その細い小路にバルコニーがせり出していたり、店のしゃれた看板が目立ちすぎずに掲げられていたり、何とも言えない興味深い空間を作り出している。

世界遺産に指定され、町並み保存活動も活発に行われている様子だが、近年、古い家を売って、それを改修してホテルやレストランにするケースが多くなったそうである。たしかに、古い町並みにマッチしたいわゆるブティック・ホテルが迷路のあちこちに建っている。オシャレな小ホテルがいろいろあって楽しい。

海沿いのテンボ・ホテルへ行った。テンボとは象の意味。ザンジバルには象はいないが、かつて象牙取引の一大拠点だった。このホテルは昔、象牙取引会社で、下の写真の向かって左側がその建物である。その後、右側を増築して、ホテルとして生まれ変わった。

テンボ・ホテルの天井には、白壁にマングローブが渡されている。

建物以外に目立つのは、装飾を施された家の玄関ドアである。かなり古いものも改修してまだ使われている。先の尖った突起がたくさん付けられているのも特徴である。

「マーキュリーの家」というのもあった。何かの商館かと思って行ってみると、有名なロックグループ「クイーン」のリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの生家だった。彼はザンジバルの出身なのだ。

ストーン・タウンのなかには、日本ゆかりの場所もある。いわゆる「からゆきさん」はザンジバルまで来ていたが、彼女らが居たバーとされる建物が残っている。今は、いくつかの普通の商店が営まれている。

ストーン・タウンのなかでも、市場に近いところでは、レバラン前の最後の買い物をする人々がたくさん集まっていた。

布地を売っている商人がいた。ザンジバルにはキコイという地場のシンプルな布があるが、ここでのオリジナルは白地に線の入ったものだという。

ここで、ザンジバルのバティックを見つけた。デザインは単純で素朴であり、デザイン自体に深い意味はないそうだが、色合いがインドネシアのものとは異なっていて興味深い。

ストーン・タウンの街歩きの最後は、海岸沿いの建物へ。楽しみにしていた旧アラブ要塞(Old Arab Fort)と驚嘆の家(House of Wonder)は改修工事中で、中へ入ることができなかった。

これら二つの建物と海との間には、きれいに整備されたフォロダニ公園がある。

スルタン・ハウスは、スルタンの個人的なコレクションを集めたミニ博物館になっているが、ここの2階から海を眺めていると、風が心地よく、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。

ラマダン最終日のザンジバル(1)

7月27日午後、タンザニアのダルエスサラームに無事到着。翌28日は、朝7時に港から高速船に乗って、ザンジバルへ向かった。日帰りツアーである。

インドネシアは7月28日に断食明け大祭を祝ったが、タンザニアは予定よりも1日遅れの7月29日となった。断食明けのザンジバルからインドネシアのムスリムの友人たちに「おめでとう」のメッセージを送ろうと思っていたのだが、ちょっと残念。

行きの高速艇は、エージェントの配慮でVIP席となったが、中はインド系の若者たちの団体でほぼ「占拠」されていた。若干の波はあったが、大揺れすることもなく、1時間半ほどでザンジバル港に到着した。

到着すると「入境審査」がある。ザンジバルはかつて、タンザニアと統合するまで、わずかな期間だが独立国だった。タンザニアと統合後も、連邦制のなかで独自性を貫き、入境審査を継続しており、しっかり入境スタンプをパスポートに押された。たしか、マレーシアもサバやサラワクへ行くときにも、入境審査があったが、旧イギリス植民地で連邦制の国はみんなそうなのだろうか。

入境審査口では、中国人と思われる3人が順番を無視して窓口に詰め寄り、中国語でギャアギャアまくしたてている。入境係員は英語で説明するのだが、彼らは全然意味がわからない様子で、相変わらずまくしたてている。それを尻目に、別の係員にパスポートと入境申請書を提出。「仕事で来たんじゃないだろうな?」と何回かしつこく尋ねられた後、無事に入境。運転手兼任ガイドのムゼーさんと合流。

ムゼーさんの案内で、まずは市場から。風格のある建物の中の市場は、魚の競り市場があり、その向こう側に魚の小売の市場があり、と分かれていた。その後は、野菜・果物の市場。インドネシアでもお馴染みのものが多いが、いくつか見かけないものもあった。

市場をひと通り見た後は、奴隷市場跡とそこに建てられた聖堂を見に行く。ザンジバルはかつて、奴隷貿易で栄えたところでもある。アフリカ大陸から奴隷商人の手によって奴隷たちがザンジバルに集められ、収監されたのが奴隷市場である。地下の狭い空間に何十人もの奴隷たちが男部屋、女子供部屋に分けられて収監され、数日間拘置された後、生き残った者がオマーンなどのアラブ商人のもとへ売られていく。

こうした奴隷たちを解放したのがイギリスから来た宣教師で、彼は、奴隷市場の跡地に聖堂を建てた。奴隷たちは皆、自分たちを助けてくれたキリスト教の洗礼を受けた。

奴隷の子孫だと名乗るガイドがついて来てそんなふうに説明してくれる。まあ、実際はおそらくそんな単純なものではないにせよ、こんなけっこう扇動的な説明をしてしまうのだなと思った。

同時に、ムスリム人口9割のザンジバルでは、たとえ憂さ晴らしのような小競り合いはあったとしても、宗教を理由とした暴動や騒動は現実には起こりにくいのではないかと思った。しかし、それは、奴隷たちの子孫による憎しみが消えることを必ずしも意味しないだろう。

迷路のようなストーンタウンの街歩きはとても面白かった。インターネット接続の状況がよくないので、今回はここまでとし、後は次回へ。

赤い◯◯と緑の☓☓をお供に旅に出る

つい数日前まで、この国は大統領選挙の開票結果発表でけっこうな騒ぎだったはずだが、なにか遠い昔の話のような気がしてくる。

7月25日、金曜日はまだ平日なのに、周囲はすでにお休みモード。来週のレバランを前に、故郷へ帰省する人々で道路は大渋滞、鉄道は大混雑、という報道が続く。

スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。

そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。

いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。

旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。

お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。

赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。

ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。

ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。

緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。

緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。

この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。

というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。

東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。

東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。

では、行ってきま〜す!

【スラバヤ】福建麺 @ Hok Kien Mie Akiat

スラバヤでの筆者の大好物の一つが、自宅近くのJl. Mayjend Sungkonoにある Hok Kien Mie Akiat の福建麺である。

この場所に店を出したのは古くはないと思われるが、Akiat自体は創業が1932年の老舗である。

イカ、小エビ、魚団子、蒲鉾のようなものなどの海鮮系、チャーシュー、排骨などの豚肉系、その狭間に青菜と細いモヤシ、薄く切った味付けゆで卵が入れられ、それを太いややコシのあるタマゴ麺がどっと支える、ボリュームたっぷりの福建麺である。

汁麺、汁なし麺から選べ、麺はビーフンもある。筆者はいつもタマゴ麺の汁麺をオーダーする。

太い麺に具と汁が絶妙に絡まり、しかもやや濃い味つけの汁には海鮮系の淡白さがマッチして、もう本当にたまらなく美味しい。

日本のチャンポンとはたしかに近い関係にある、ということを実感しつつ、日本のチャンポンはスープ自体を強調するラーメンの影響を受けているのだなとも思う。福建麺の主役は、やはり麺なのだ。

インドネシアの福建麺でここと互角なのは、ジャカルタのJl. Hayam WurukにあるMie Hokien Medanだろうか。ここは昼間のみの営業で、具や麺もさることながら、スープがとても美味しい。夜は、これも、筆者が20年来の常連のクエティアウ屋に変身する。

大統領選挙の真の勝者はKawal Pemilu

今回の大統領選挙の勝者はジョコウィ=カラ組だが、真の勝者は、Kawal Pemilu(総選挙を守る、の意)という民間組織に集ったボランティアたちだったと思う。

今回の開票プロセスは、公開性が徹底された。なんと投票所レベルでの開票集計結果表がすべて総選挙委員会のウェブサイトに掲載されたのである。

集計結果表は、投票所レベル(C1)、郡レベル(DA1)、県・市レベル(DB1)、州レベル(DC1)とあり、すべてその結果を見ることができる。とくに、投票所レベル(C1)については、集計結果表がスキャンされて画像データで掲載されている。

投票所レベル(C1)
郡レベル(DA1)
県・市レベル(DB1)
州レベル(DC1)

そして、インドネシア全国あるいは世界中の名も無きボランティアたち約700人が、投票所レベル(C1)のデータをスキャン画像から読み取り、手分けしてそれを入力し、投票所レベルから村レベル、郡レベル、県・市レベル、州レベル、全国レベルに至るまで、ひと目で開票結果が整合的になっているかどうか分かるようにした。

これは総選挙委員会の公式開票プロセスではないが、万が一、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われたとしても、それがすぐに分かってしまう状態になったのである。

日本では、各投票所のデータがウェブで検討するなどということは行われない。なぜなら、開票プロセスでデータの捏造が行われない信頼が確立しているからである。

しかし、インドネシアでは、その信頼が確立されていないだけでなく、今回のような、ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンを通じたなりふり構わぬ汚い選挙で僅差の場合、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われ、捏造データが公式データとなってしまう可能性が極めて高かった。今から振り返っても、その危険を感じてぞっとする。

実際、ボランティアたちのKawal Pemiluのサーバーはハッカーたちの激しいサイバー攻撃にさらされた。その攻撃に伴うデータ改ざんの可能性をはねのけて、何とかゴールまで辿り着いたというわけである。

Kawal Pemiluの集計結果はウェブ上に掲載されているので、それと総選挙委員会の公式集計結果とを比べてみてほしい。どちらも投票所レベルのデータから始まっているので当然といえば当然なのだが、数字はほとんど同じといってよい。

Kawal Pemiluの集計結果
総選挙委員会の公式集計結果

プラボウォ=ハッタ組は、これらのデータが総選挙委員会による組織的な捏造だと批判している。しかし、こんな公開性の高い開票プロセスを採っている国は、インドネシア以外に世界中でどれほどあるだろうか。

結果的に、総選挙委員会の活動は公開性のある正当性のあるものである、と見なされた形になる。しかし、Kawal Pemiluのボランティアたちの作業があったからこそ、データのすり替えや捏造を防げたのではないだろうか。

誹謗・中傷の渦巻く汚い選挙運動が行われた今回、総選挙委員会とKawal Pemiluの仕事は賞賛に値する。加えて、選挙の準備段階から投票、投票箱の搬送に至るまで、公正な選挙を行うためという一心で一生懸命に活動した全国津々浦々の無数の人々の存在を忘れてはならない。

これら、懸命に民主主義を守ろうとする人々の活動があり、それを受け入れ認める土壌が培われたインドネシアを、我々はもっと信じてもいいのではないかと思っている。

大統領選挙結果発表が終わって

7月22日、総選挙委員会は大統領選挙開票結果を発表し、ジョコウィ=カラ組が勝利したことを確定した。

これに先立ち、対立候補ペアのプラボウォ=ハッタ組は、総選挙開票プロセスに様々な問題があるとして、大統領選挙自体の有効性に疑問を呈し、大統領選挙から引く(tarik diri)と発表した。その後、大統領選挙から辞退(mengundurkan diri)したわけではないとの弁明が出たり、「結果を問題にしているのではなくプロセスを問題にしているのだ」という発言が出たりして、プラボウォ=ハッタ組のなかで混乱が生じている。

この状況を、日本のマスコミも含めた多くの人々は、「プラボウォが負けを認めたくないのだ」「事実上の敗北を認めたのと同じことだ」と色々に捉えた。

大統領選挙の開票プロセスを問題にしたということは、プラボウォ=ハッタ組は総選挙委員会を批判・敵視したということである。実際、大統領選挙開票結果の発表に対して、プラボウォ=ハッタ組は証人を送らなかったし、陣営の誰も出席しなかった。

プラボウォ=ハッタ組は、不正があったと思しき投票所での投票のやり直しや開票のやり直しを求めている。これに対して、総選挙委員会は、不正があったという証拠をプラボウォ=ハッタ組に求めているが、これが証拠だというものがメディアには明確に現れてこない。それをもって、プラボウォ=ハッタ組には、憲法裁判所へ不服申立を行うよう求められている。当初は憲法裁判所へ不服申立しないという声も聞こえたものの、結局、プラボウォ=ハッタ組は不服申立を行なった。

これらの一連の不服行動で目につくのは、副大統領候補だったハッタの姿が見当たらないことである。プラボウォ=ハッタ組の名前で行動しているのだが、ハッタがいないのである。これにはいろいろな憶測が流れているし、ハッタ自身は、総選挙委員会での開票結果を尊重する旨の発言を行ったとされている。

プラボウォが「大統領選挙から引く」と演説した件についても、内部では誰がそれを進言したのかであたふたしている。ゴルカル党重鎮のアクバル・タンジュン元党首だという声が上がると、アクバルは「自分ではなく陣営内の法律チームだ」という始末。どうやら、「大統領選挙から引く」とプラボウォに演説させたこと自体が戦略的に間違っていたのではないかとの疑念が上がっている様子だ。

要するに、プラボウォ周辺は、総選挙委員会の開票プロセスや開票結果について反論し、自らが真の勝者であることを証明することにあまり自信がなさそうな気配がある。800万票の差を覆すには、どのような手法がありうるのか。現実的にそれは無理なのではないか。時間が経てば経つほど、プラボウォの周辺から機会主義的な政治家たちが去って行くことであろう。プラボウォを支えようという熱は急速に冷めつつある。

ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンも含めて、自分に有利なように事実を作り替えるという戦略、そうやって国民を洗脳できるという戦略は、ある意味、国民を愚弄し馬鹿にした戦略だったともいえる。この場に至っても、ジョコウィへの誹謗中傷攻撃は止んでいない。

シンガポールなど海外に多数のジョコウィ夫妻の隠し口座があるという怪文書が現れている。そんな話がまだ通じると思っている、それで世論を反ジョコウィへ転換できると思っている浅はかさこそが、今回のプラボウォ=ハッタ組とそれにすがった旧来エリートたちの態度を象徴している。

メディアは、嬉々としてジョコウィ「新大統領」を追いかけ回している。他方、どんな手段を使ってでも、どんなに資金をつぎ込んででも、大統領になろうと執念を燃やしたプラボウォは、「大統領選挙から引く」という発言によってかえって政治家としての未熟さを露呈させ、自滅の方向へ進んでしまった感がある。あの場で「敗北」という結果を受け入れ、自身が党首を務めるグリンドラ党を健全野党として育成するという姿勢を見せていれば、今頃、彼は素晴らしい人物だと賞賛されていたことであろう。

一部で懸念された暴動のような事態は、今回は起こらなかった。法規や手続きに従って物事を進めなければならないということが国民の間にしっかり浸透したことに加えて、騒ぎを起こしても国民の多くの支持を得ることはない、昔のようなすぐ暴動の起こるインドネシアへは戻りたくない、もう戻ることなどありえない、そんな空気が、経済発展の続くインドネシアで社会全体に共有されているのだと筆者は感じていた。

ジョコウィになったからといって、インドネシアのすべてがよりうまくいくとは限らない。旧来エリート層とのせめぎ合いは続くだろうし、経済が発展したからこその新たな困難な問題も多発するだろう。それを権力者が魔法使いのように解決してみせる時代が終わったことを国民は意識していくことだろう。

国民がデマや嘘情報で操作される時代は終わり、問題解決にあたって国民も傍観者として済ませるわけにはいかない時代に入ったのかもしれない。スハルト時代から言われてきた「浮遊する大衆」(floating mass)という、権力者の統治概念が変わり始めたともいえる。

スラバヤへ戻る

日本の各所での講演等を終えて、7月19日にスラバヤへ戻った。

今回は、新設のガルーダ・インドネシア航空の羽田夜0:30発のジャカルタ行きに乗り、ジャカルタでトランジットしてから、スラバヤへ戻った。この便は、全日空とのコードシェア便でもある。

羽田空港では、三連休をバリなどで過ごすと思しき家族連れやサーフボードを抱えた若者たちが並んでおり、インドネシア人らしき客は数人だけだった。何となく場違いな雰囲気を感じつつ、チェックイン。

すると、こちらから何もお願いしていないのに、ビジネス・クラスへアップグレードしてくれるという。ただし、席のみで、食事はエコノミー、という話。ガルーダ・マイルズのゴールドEC+会員だからなのかもしれない。

夜行便で、フラットシートになるビジネス・クラスへのアップグレードは、本当にラッキー以外の何物でもない。搭乗すると、2つに分かれたビジネス・クラスの客室には、私以外に乗客は一人しかいない。なのに、わざわざその乗客と隣どおしに座らされている。

ほどなく、スチュワーデスがやってきて、「空いているので、どこでもお好きな席へどうぞ」と言ってくる。そこで、いびきでもかいたら隣人に迷惑だろうと思い、他の席へ移動した。

夜食をお断りし、さっそく、フラットシートにして寝る。これはよい。エコノミーのディスカウントなのに、夜行便でフラットシートとは。夜行便にしてはかなりしっかり眠ることができた。

ジャカルタ到着の2時間前に朝食を用意すると言っていたが、持ってきてくれたのは1時間半前だった。乗客が少なく、寝ている私をギリギリまで起こさずに待ってくれたということか。トイレに行こうとすると、別のビジネス・クラスの席で、スチュワーデスがイスラム教の礼拝をしていた。

朝食は期待していなかった。当然、エコノミーと同じものが出るのだろうと思っていた。ところが、食事もビジネス・クラスのものだった。以前、ジャカルタの「父」を日本へ連れて行ったときに、ガルーダ・インドネシアのビジネス・クラスの食事に感嘆したのだが、それにまた出会えるとは。

朝食は、まず、ちょっと凝ったお粥。前回のタピオカ粥のほうが数段上。

次はオムレツ。添えられたポテトは今回のほうが美味しかった。

最後は、イチゴとクリームのデザート。甘い。レモングラスらしき葉っぱが真ん中に立っているのがおしゃれ、なのかな?

慌ただしく着陸準備に入り、午前6時に無事ジャカルタ到着。朝早いためか、到着時査証(Visa on Arrival)のカウンターも長期一時滞在許可証(KITAS)保持者向けのカウンターも閉まっていて、係員がいない。到着時査証が必要な乗客は戸惑っている様子。

KITAS保持者の私は、係員の指示に従って、そのままメインカウンターへ行き、難なく入国審査を終了。

羽田で預けたスーツケースは、税関申告がないのでそのままスラバヤまでスルーで行けるはずだが、ガルーダの職員が念のために確認してくれる。スーツケース無しで税関のグリーンランプを通り過ぎ、出口へ出ようとすると、左側に、トランジット用の入口が。そこを通って、外へいったん出ることなく、国内線出発カウンター・ロビーを通り抜け、エスカレーターで2階の出発階へ進む。

なかなかスムーズだった。対照的だったのが、日本へ行くときにトランジットしたバリのデンパサール空港。スラバヤから国内線で着き、国際線ターミナルへどう行けばいいのか、表示板が見当たらない。「私が案内しましょう」と何人もの若者が寄ってくる。空港は新しいが、当面は、デンパサールでのトランジットは避けたいと思った。

空港設備の悪名高きジャカルタのほうが乗換はスムーズだった。もっとも、人があまりいない朝だったということもあるのだろうが。

ラウンジで少し休み、1時間遅れのガルーダ便でスラバヤへ午前10時過ぎに到着した。

レバランにはまた、インドネシアから国外へ飛ぶ。久々の全く仕事なしの旅行。それまで1週間、スラバヤの予定だ。

大統領選挙投票日を過ぎて

7月9日のインドネシア大統領選挙投票日は、投票自体は大きな混乱もなく終わることができたが、予想通り、両陣営がともに勝利宣言をする事態となった。

これまで度重なる選挙でクイックカウントを行なってきた調査会社は、こぞってジョコウィ=カラ組の勝利と伝えたが、そのほとんどは、ジョコウィ=カラ組に与した立場を採ってきた。他方、プラボウォ=ハッタ組の勝利と伝えるクイックカウントを行なってきた調査会社は無名で、かつて南スマトラ州知事選挙の際にクイックカウントの数字を偽造した疑いのある会社や、陣営の選対関係者が関わっているとされる会社が含まれていた。

ここで危惧されるのは、これまでの選挙で培われてきたクイックカウントへの信頼が今回の大統領選挙で失われるのではないかということである。誹謗・中傷を含めた情報戦のなかで、クイックカウントまでもがその一端になってしまう可能性が明確に現れたからである。

その意味で、国営のインドネシア共和国ラジオ(RRI)が今回、クイックカウントを行なったことは注目される。RRIのクイックカウントは中立とみなされたからである。このRRIのクイックカウントの結果はジョコウィ=カラ組の勝利を伝え、これまで何度もクイックカウントを行なってきた有名調査会社のそれと変わらなかったことで、それら有名調査会社のプロフェッショナル度が逆に確認されることになった。

プラボウォ=ハッタ組が「クイックカウントはヤラセだ」と主張しても、RRIの存在により、辛うじて中立性が保たれた形になっている。

筆者の長いインドネシア・ウォッチ経験から言うと、これまで、「ヤラセだ」と相手を非難する側こそがヤラセを行なっているケースが極めて多かった。それは、自らが責められる前に相手を責めるための方便である。自らに有利なように情報操作をしているのだが、相手からそう指摘される前に、「相手が自分に有利なように情報操作している」と先制して非難をするのである。

今回も、どうやらそのような展開だったと推察できる。プラボウォ=ハッタ組の勝利を伝えたクイックカウントのデータの信ぴょう性が次々に暴かれている。彼らの勝利を最後まで伝えてきた民間テレビTV Oneは、信ぴょう性への疑問が高まったためか、株価が下落し、途中でプラボウォ=ハッタ組優勢のクイックカウントを流すのをやめてしまったらしい。

本当にそうなのか、圧力をかけるためにジョコウィ支持者が同株を売りまくったのか、真相はわからないが、実際、選挙運動期間中のTV Oneのプラボウォ=ハッタ組への偏向、ジョコウィへの攻撃ぶりには目に余るものがあった。ずっと見続けていると、容易に洗脳されてしまうような錯覚に陥った。もちろん、ジョコウィ=カラ組を支持する内容を流し続けたMetro TVも偏向していたが、相手への攻撃という観点からすると、TV Oneのほうが遥かにすごかった。

しかし、それを客観的に計測できない以上、メディアはTV OneとMetro TVを両成敗せざるを得なかったのである。

プラボウォ=ハッタ組は、クイックカウント攻勢での劣勢のなか、福祉正義党(PKS)の末端組織を使って情報を集め、「リアルカウント」の結果を発表し始めた。そして、そのリアルカウントでは、プラボウォ=ハッタ組の勝利を示し続けている。ところが、この数字が投票日よりも前に出された予測値に似通っているとの指摘も出ている。

ジョコウィ=カラ組も「リアルカウント」の結果を集計し始めた。当然、こちらではジョコウィ=カラ組の勝利という結果を出している。

情報操作合戦は、クイックカウントから「リアルカウント」へと移っている。

投票所レベルでの集計表は、総選挙委員会(KPU)のホームページにスキャンされたファイルで表示されていて、誰でも見られるようになっていた。ところが、そのなかに、両陣営の片方しか証人のサインのないものや、集計数字の合わないものなどが発見された。KPUは単なる技術ミスとしているが、不正の可能性がすでに指摘されている。理由は定かではないが、7月12日夜時点で、その投票所レベルでの集計表データがウェブ上で見られなくなった。

KPUは7月22日に最終得票結果を発表するが、7月10〜12日に村落レベル、13〜15日に郡レベル、16〜17日に県・市レベル、18〜20日に州レベルで集計作業が行われる。全国レベルの集計は20〜22日に行われる。

このそれぞれの過程で結果が出る前に、何らかの票操作が行われる可能性がある。なぜならば、今回の選挙で、少なからぬ行政の長がプラボウォ=ハッタ組への支持を明確にしており、その影響を確実に排除できるかどうかに疑問符が生じるからである。彼らもまた、ジョコウィが大統領になった場合に既得権益が維持できるかどうか、不安を抱く側にいる。他方、ジョコウィ=カラ組も何らかの票操作を行う可能性が絶対ないとは言い切れない。これらを監視するためにも、両陣営による「リアルカウント」の情報収集と票操作への監視が不可欠になるのだろう。

たとえば、マレーシアでは、投票所投票(9008票)でジョコウィ=カラ組が53.46%の得票で勝ったが、郵送投票では、プラボウォ=ハッタ組が3万9671票でジョコウィ=カラ組の3709票を圧倒した。その結果、合計では、プラボウォが4万3770票(得票率83%)で圧勝した。これをどう読むのか。投票所投票と郵送投票でこれほど極端に差がつくものなのか。

様々な状況で不利なはずのプラボウォ=ハッタ組の自信が気になる。すでに、「勝利」のための何らかのシナリオを用意しているのだろうか。ジョコウィ=カラ組も同様にシナリオを用意していることだろう。表面的な動きはあまり目立たないが、7月22日までに全国の隅々で起こる開票結果の正当性の確認作業が重要になる。

大統領選挙投票日前夜

7月5日から日本へ帰っている。私の知り合いのほとんどの日本人インドネシア政治研究者は今、ジャカルタに集結しているようだ。いつも自分は他人と違う行動を採るのが性分のようだ。

これまでずっと大統領選挙をめぐる動向を追いながら、情報というものについていろいろと考えていた。捏造・偽造情報を流したり、重箱の隅をつつくように小さなゴシップを大きな過ちとして大きく騒ぐようなことは、これまでの選挙ではあまり露骨に現れなかった。そして、それらを専門にやり続けながら、報酬をもらっている奴がいることを想像した。

インドネシア人は他人の間違いを詮索したり、揚げ足を取ったり、フォトショップを使って写真を偽造したり、根も葉もない噂をわざと流して他人を貶めたりすることに、こんなにも労力とエネルギーを使うことを厭わないのか、と悲しくなった。これだけの労力とエネルギーと「想像力」をもっとプラスに使えば、インドネシアはもっと活力のある良い国になっていくはずだと思い続け、インドネシアの友人たちへ向けてその気持ちをインドネシア語でツイートしてきた。

今回の大統領選挙はそういう選挙だった。情報合戦や心理戦争にどちらの陣営が屈するかの勝負だった。派手にやったのはプラボウォ陣営である。陣営が直接指揮した形をあえて採ってはいないが、ジャワ島のプサントレン(イスラム寄宿学校)へジョコウィを誹謗中傷したタブロイドをくまなく流すには、プサントレンの住所リストを持った宗教省、大量のそれを送付したバンドン中央郵便局などの、少なくとも間接的な協力がなければ不可能である。

プラボウォの個人レターが学校経由で教師へ送られた件も、教育文化省などによる学校の住所リストがなければ不可能である。

ジョコウィへの誹謗中傷は、目を覆いたくなるほどであった。実は華人だ、キリスト教徒だ、父親はシンガポールの金持ちだ、インドネシア共産党員の子供だ、といった話が次々に出され、死亡広告まで流された。温厚で感情を表に出さないジャワ人のジョコウィも相当に頭にきていた様子で、法的措置を関係機関へ求めたが、警察などの動きは予想以上に慎重だった。

他方、プラボウォへの批判は、彼の過去の人権侵害疑惑に集中した。とくに、1998年の活動家拉致事件やジャカルタ暴動への関与の疑いが題材となった。こちらは、本当の真実かどうかは別にして、軍のなかでプラボウォに対する措置が採られ、軍籍から離脱させられたという事実がある。プラボウォ側はその事実が嘘であって真実ではないと主張するが、彼がそのように軍から扱われたというのは、真実かどうかは別として、事実である。プラボウォ側はこれを誹謗・中傷とし、ジョコウィへの誹謗・中傷と同じレベルの話として、メディアなどで取り扱われるように仕向けた。

しかし、これは作り話と事実(真実かどうかは定かではない)との違いであって、誹謗・中傷の同列で扱えるものではない。だが、「中立」を装おうとするメディアは、それを並列で扱った。事実をねじ曲げて嘘話を捏造して流布させたプラボウォ側のほうがはるかに悪質と言わざるをえない。

5回のテレビ討論をすべて見た。内容的には中身の乏しい議論に終始したが、何か一つでも新しいことを言おうとするジョコウィ側と、テレビを通じて自分の強い指導者イメージを植え付けようとするプラボウォ側とがかなり対照的だった。そして、テレビ討論を見ている限りでは、プラボウォ側に考察の浅さと中身のなさが浮き彫りになり、果ては、ジョコウィ側の主張に同意を繰り返すことも度々だった。個々の議論は甲乙あるが、5回全体で見ると、ジョコウィ側の勝ちであった。

それでも、メディアはプラボウォの支持率が急速に上昇し、ジョコウィと僅差になったと報じる。筆者はそれが正直理解できなかった。プラボウォが選挙戦を通じて、なにか新しい画期的な主張をした記憶はない。「国富の漏れ」の話を繰り返すだけで、それを塞いでどのように効率的な政府を作るのか、政治マフィア間で山分けされないような仕組みをどう作るのか、彼は一言も話していなかった。それなのに、急速に支持率を上げているという。その理由は、ブラック・キャンペーンやネガティブ・キャンペーンを通じ、誹謗・中傷を広めることで、ジョコウィの支持率を落とす以外に理由は考えられなかった。加えて、一部ではかなり露骨にプラボウォ支持への強制や脅迫が行われているという話も伝わった。

もしこれでプラボウォが当選したら、プラボウォは嬉しいのだろうかと思った。相手を貶め、嘘八百の情報を流し、誹謗・中傷を繰り返した末に当選して、誇りを持てるのだろうか、と。プラボウォの周りには、「どんな手段を使ってでも勝てばいい」と公言する政治家も多数いる。彼らにとっては、自分の利益を守り、注ぎ込んだ資金の回収のためには、どうしても何が何でもプラボウォに勝ってもらわなければならないのである。そこには、モラルとか宗教上の教えなど、関係なくなっているのである。インドネシア人の友人は「この病気は相当に重い」と評した。

数日前から、一足早く海外で大統領選挙の投票が行われたが、その結果が伝わるなかで、風向きが大きく変わりだした。投票所の出口調査で、ほとんどの国でジョコウィが予想以上に票を取ったのである。その結果がメディアに乗り出すと、今度は、ほとんどの国でプラボウォが勝ったという出口調査結果が出回り始めた。ところが、面白いことに、プラボウォが勝ったという結果はいつの間にか消えてしまった。ジョコウィが勝ったという情報のほうがどうも正しかった様子である。

そうか、この手法でプラボウォの支持率上昇を演出しようとしたのかもしれない。若者たちが次々に面白い支持ビデオを連発するジョコウィ側に比べて、相変わらず、プラボウォのような強い指導者が必要、という以上の主張ができていない。ジョコウィ側のような自発的な勝手連の動きはほとんどなく、政党や組織が上から抑える旧来のやり方に終始している。ジョコウィの真似をしてプラボウォ側の選対も市場などへ出かけるが、相変わらずそこでカネを配るなど、住民目線ということがまるで分かっていない。

住民をコントロール可能と思ったか、住民が自発的に動くことを求めたか。プラボウォ側とジョコウィ側の違いを一言で言えば、そうなる。誹謗・中傷を信じてジョコウィに投票しないように仕向ける、ゆるければ政党や組織を使ってでも強制する、それがプラボウォ側のやり方だった。他方、ジョコウィ側は、政党や組織で動くところもあったが、それに加えて自発的な勝手連が勝手に支持活動を行うに任せた。

住民が受動から能動へ変わる、そんな動きが見え始めたジョコウィ側の選挙戦だった。そんな彼らの動きを、まだまだカネで動くインドネシアのメディアは残念ながら追い切れていない。

プラボウォが勝ってもジョコウィが勝っても、その先のインドネシアには課題が山積している。しかし、それをどう解決していくか、住民がどう関わっていくのか。そのアプローチに関しては両者に大きな違いがある。

大統領選挙投票日前夜。既得権益を守りたいエリートとそうではない非エリートの戦いは、メディアが伝えるよりも意外に大きな差がつきそうな予感がする。

さて、それが当たるのかどうか。

Inikah hasil demokratisasi Indonesia?

Mohon maaf jika ada yang merasa tersinggung. Ini sekedar ngomongan orang asing yang belum hafal betul tentang Indonesia.

Apakah ada input baru yang sangat bagus dari pihak Prabowo-Hatta yang menaikkan dukungannya secara signifikan?

Sebaliknya, apakah ada kesalahan fatal yang menurunkan dukungan terhadap Jokowi-JK di dalam kampanye Pilpres kali ini?

Sayang sekali, belum terlihat pembahasan serius tentang masalah-masalah dan kebijakan krusial yang dihadapi oleh Indonesia saat ini dan masa depan. Kayaknya jauh lebih sibuk melakukan kompetisi manupilasi informasi dan menjatuhkan citra orang satu sama lain. Banyak orang bergerak hanya berdasar rasa sakit hati.

Inikah hasil demokratisasi Indonesia? Mohon lebih serius berpikir dan beraksi untuk masa depan yang baik untuk anak dan cucu anda masyarakat Indonesia.

Merasa banggakah jika menang dengan kampanye hitam?

Banyak pihak merasa bosan dan benci terhadap kampanye hitam dan negatif yang sedang ramai di dalam Pilpres kali ini.

Seolah-olah orang Indonesia sangat senang menjelekkan orang dan mencari kesalahan orang, daripada membahas masa depan Indonesia dan memikirkan ide-ide baru yang akan terwujud untuk zaman anak dan cucu kita. Sayang sekali !

Pernah saya bertanya lewat Twitter. Apakah pemenangnya merasa bangga jika menang karena kampanye hitam dan negatif?

Mengapa saya bertanya? Karena ada yang mengatakan bahwa harus menang dengan cara apa pun. Ini karena harus ada pengembaliannya terhadap banyak investasi dana yang telah ditanam untuk Pilpres.

Saya sering dengar bahwa ajaran agama di Indonesia sangat penting. Apakah ajaran agama memperbolehkan kemenangan dengan cara-cara yang kotor dan yang melukai pihak lain?

Jika ini dibenarkan karena penting untuk mengembalikan dana investasi politik, mereka berdoa apa untuk Tuhan setiap kali? Hanya untuk dirinya sendiri saja?

Saya merasa sedih melihat situasi seperti ini. Dalam kampanye Pilpres kali ini, sulit dengar pikiran dan ide untuk memperbaiki berbagai keadaan saat ini untuk Indonesia masa depan yang lebih baik. Tidak dengar diskusi positif untuk menagatasi masalah-masalah yang dihadapi oleh Indonesia ini.

Yang adanya saling menjelekkan dan mencari kesalahan saja.

Selainnya, hanya kompetisi imej calon presiden dan wakil presiden saja. Sama sekali tidak produktif. Arahan visi dan misi kedua kubu sebenarnya tidak jauh berbeda, meskipun pendekatan dan caranya sangat berbeda.

Masih terlihat intimidasi dan pemaksaan pemilihan calon tertentu oleh atasan atau tokoh masyarakat. Seolah-olah jika tidak ikut intimidasi dan pemaksaan tersebut, dia akan dapat sanksi atau dieportasi dari komunitasnya. Apakah Indonesia sudah menjadi negara demokratis atau tidak?

Atasan atau tokoh masyarakat tersebut tidak mau membeli kesempatan kepada bawahannya untuk berpikir sendiri. Hanya maunya loyalitas saja. Ini namanya dictatorship atau authoritarianism. Masih ada kubu calon presiden dan wakil presiden yang memakai cara-cara ini untuk memaksakan pemilihannya.

Negara demokratis tidak mungkin terwujud tanpa masyarakat yang mampu berpikir sendiri dengan pertanggungjwabnya sendiri. Namun, elit politik dan kalangan atas belum siap menghadapi masyarakat yang berpikir sendiri. Masih mengharapkan masyarakat yang jujur (artinya hanya ikut atasan).

Kapan Indonesia menjadi negara demokratis yang benar?

Sekali lagi saya bertanya. Apakah pemenangnya merasa bangga jika menang karena kampanye hitam dan negatif? Karena menjelekkan pihak lain dengan fitnah dan kebohongan?

Jika jawabannya ya, kesedihan saya tidak akan mungkin hilang dari hati saya. Dan saya benci sama saya sendiri karena belum bisa benci terhadap Indonesia yang demikian.

お詫びと今後の日程

ここのところ、体調がすぐれなかったのと、原稿やプレゼン資料作成に集中していたため、ブログの更新ができずにいた。先週も今週もジャカルタへ出張し、1日ほとんどフルで埋まってしまい、疲労困憊状態だった。

ブログを書けずにいたことをお詫び申し上げたい。

今日(7月3日)はジャカルタである。今、ジャカルタは朝7時で、8時半からアポがあるため、今後の予定のみを以下に期しておきたい。

7月3日 夜、ガルーダ最終便でジャカルタからスラバヤへ戻り
7月4日 スラバヤ→デンパサール→
7月5日 →東京
7月10日 日経BPインドネシアビジネス基礎講座で講義
7月17日 名古屋で講演
7月18日 日刊工業新聞インドネシアセミナーで講演
7月19日 東京→ジャカルタ→スラバヤ

日本には、7月5〜18日に帰国する。上記以外の日程もかなり埋まりつつあり、講演以外は自宅でゆっくり、というわけにはいかなくなってしまった。これも性分なのかと、ちょっと自分を責めたりもする。

7月9日は、インドネシア大統領選挙投票日。激しい一騎打ちの選挙戦という現状からすると、投票終了後に、2組の候補ペアのいずれをも当選とするクイックカウントが出る可能性がある。

情報心理戦争状態となっていることを踏まえて、それをどう判断するか。翌10日には、それをプレゼンしなければならない。帰国してゆっくり日本の味を、温泉を、景色を楽しめるのは、もう少し後の別の機会になってしまいそうである。

【スラバヤ】麺屋佐畑の醤油ラーメン

スラバヤで注目のラーメン店・麺屋佐畑にまた行ってみた。

前回は仙台辛味噌仕立ての味噌ラーメンを食べ、このブログでも以前、紹介した。

【スラバヤ】麺屋佐畑

今回は、味噌に勝るとも劣らないという評判の醤油ラーメン(Rp. 38,000)が目当てだった。平日のお昼どき、私一人しか客のいない店内で、お目当ての醤油ラーメンを食べた。

透き通ったスープ。適度にコシのある麺。最初はちょっと味が薄いかなと思ったが、あっさり味なのにコクがあるスープに引き込まれていく。

うまい。ほんとうにうまい。このレベルのラーメンがスラバヤで、いや、インドネシアで食べられるとは信じられない。

トンコツ系のラーメン店が多いなか、あっさりした飽きの来ない醤油ラーメンに出会えたのがとても嬉しい。もちろん、スープはすべて飲み干した。化学調味料を使っているもののような、後味を引きずることもない。売り文句にあるように、毎日食べても飽きないだろう。

麺屋佐畑は、6月27日(金)にメニューを改定し、あんかけ醤油ラーメン、塩ラーメン、カレーライス、特製チャーハンを新メニューとして追加するという。近いうちに、それら新メニューの紹介もできればと思う。

なお、6月から、平日の11〜15時は全品価格30%オフ、土日の11〜15時は全品20%オフで提供している。

麺屋佐畑はスラバヤ市東部のパクウォン・シティにあり、中心部から車で20〜30分かかるため、市西部に住んでいる筆者はなかなか頻繁に行くことが難しい。でも、この醤油ラーメンを食べるためなら、行ってしまうような気がする。

スラバヤに来られたら、是非、味わってもらいたい。オススメである。

Keputusan Keberatan Operasi Kembali PLTN di Jepang

Pada tanggal 21 Mei 2014, Pengadilan Daerah Fukui, Jepang menyatakan keberatan terhadap operasi kembali Pembangkitan Listrik Tenaga Nuklir (PLTN) Oh-i No. 3 dan No. 4. Barusan ringkasan keputusan ini diterjemahkan oleh Bahasa Inggris.

Dalam dokumen ini, ada kalimat yang perlu diperhatikan, seperti yang dibawah ini:

“… Furthermore, the Defendant claims that the operation of the nuclear power plant is excellent from an environmental perspective because of the contribution to reducing CO2 emissions. However, the environmental contamination incurred if one serious accident occurs at a nuclear power plant would be horrific and it would be seriously ill-founded to use environmental concerns as the basis for continuing operation of a nuclear power plant, in light of the largest ever pollution and environmental contamination in the history of our country having been caused by the Fukushima nuclear power plant accident.”

Sampai saat ini, semua PLTN di Jepang masih berhenti operasinya dan ekonomi Jepang tetap berjalan meskipun biaya energinya lebih mahal.

Manusia adalah pelupa. Banyak yang lupa apa yang terjadi di PLTN Fukushima No.1 dan No. 2 pada waktu terjadi bencana, tanggal 11 Maret 2011 dan sesudahnya. TIdak bisa lupa perasaan saya waktu PLTN tersebut meledak. Saya merasa Jepang sudah habis dan kiamat. Syukur, kita masih hidup dan berkarya.

Sekitar 150 ribu orang masih mengungsi dari kampung halamannya dan bekas PLTN masih terus mencemar air tanah dan lahan sekitarnya meskipun banyak pihak berusaha untuk menangani ini.

Ringkasan keputusan Pengadilan Daerah Fukui dapat di-download dari situs yang berikut.

Outline of Judgment on Claim for Injunction on
Operation of No. 3 and No. 4 Units at Oh-i Nuclear Power Plant
Fukui District Court, May 21 2014
http://www.greenpeace.de/sites/www.greenpeace.de/files/publications/fukui-akw-urteil-engl-juni2014.pdf

 

【スラバヤ】Mie Hokkian Rejeki

以前から気になっていたスラバヤ・グベン新駅近くの福建麺の店Mie Hokkian Rejekiへ行ってきた。店内には色々なメニューがあるが、やはりここは福建麺を注文。

出てきた福建麺は、汁なし麺だった。感じは、マカッサルなどでお馴染みのMie Goreng Hokkuianまたはシンガポールのプローン・ミーに似ている。揚げ肉団子が2つに割られて上に置かれているのがこの店の特徴かもしれない。

味は、ほのかにエビの味がソースにあり、美味ではある。が、とくにものすごく美味しいというわけではない。普通、といったところか。

先代が中国・福建省から渡ってきたそうで、以来ずっと、その味を再現しているのだろう。

個人的には、福建麺ならやはり、自宅近くのAkiatのほうに軍配を上げてしまうな。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

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