トランスジャカルタ、JALANAN

先週、ジャカルタの「父」を連れて日本からジャカルタへ戻り、2日間、ジャカルタで過ごした。久々に、コタで行きつけの麺屋へ行って、ワンタン麺にナシチャンプルまで食べて、大満足で、来たときと同様、グロドックからブロックM行きのトランスジャカルタに乗った。

しばらくして、大きなバッグとギターケースを抱えた女性がトランスジャカルタに乗り込んできた。トランスジャカルタのバスの連結部に立ち、私のすぐ隣にいた。ふと、ギターケースを見ると、JALANANというステッカーが貼ってある。もしかして・・・。

女性は携帯電話で話を始めた。バスの連結部なので、ギターケースを抱えてバッグを手に電話するのはなかなか大変そう。その女性と目を合わせた後、ギターケースをそっと支えてあげた。

そう、この女性は、映画JALANANのティティさんだった。電話の内容からすると、スラバヤのモールで演奏した後、ジャカルタへ戻ってきたようだった。バンドンでも演奏したらしい。

JALANANについては、じゃかるた新聞に小川忠さんのエッセイがあるので参考にして欲しい。

夢と哀しみのスディルマン通り

ティティさんは、他の乗客とはやや違う雰囲気を持った女性だった。聡明な顔立ちの一方で、どこか翳のある表情を時おり見せた。

ブロックMでトランスジャカルタを降りた。別の降車ドアから降りたティティさんは、もう姿が見えなくなっていた。もしかすると、そのうち、テレビで会えるかもしれない、などと思った。

筆者にとって、数えきれないほど乗ってきたバスは、インドネシアについての様々な側面を学んできた場だった。

20年以上前に留学していたとき、バスに乗り込んできた歌い手のなかに、当時の27州の歌をメドレーでひたすら歌い続ける男性がいた。歌がうまいだけでなく、凄みさえ感じた。その男性とは、バスのなかで頻繁に遭遇したのだが、同じ歌を2回と聞くことはなかった。彼は今、どうしているのだろうか。

トランスジャカルタの車内はエアコンがよく効き、静かである。ピーナッツ売りも歌唄いも乗ってこない。「カーシーハーン(かわいそー)」と言いながら床を這ってくる物乞いも来ない。今となっては、そんな雑然としたボロボロの冷房なしバスが愛おしく思えるほどである。

豊かになるインドネシアの一つの側面ではある。ティティさんらは、そんなインドネシアをどう駆け抜けていくのだろうか。

プトラくんとプトリちゃん

今回の「父」との日本旅行中に、京都で西本願寺の聞法(もんぼう)会館という宿に宿泊した。和洋室に「父」とその妻、私の3人で泊まり、私は和室で寝た。なかなか快適だった。

そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。

プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。

天真寺日記

インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。

プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。

「父」と日本旅行中(2)

後半は、「父」とその妻を連れて大阪・京都へ行った。毎日、ホテルが変わるなど、84歳の「父」には厳しいスケジュールで、さすがにちょっと疲れが溜まってきた様子だった。

大阪のメインは、20年前、私の前の職場へ客員研究員として来ていたときに、ホームステイした先のご夫妻との再会である。正確にいうと、大阪ではなく宝塚である(宝塚は兵庫県だし・・・)。

実は、数か月前、「父」からこのご夫妻の連絡先を探せとの求めがあった。分かっていたのは名前と宝塚に住んでいるということだけ。「日本人だから全ての日本人を知っているはずということはありえない」と何度も言って諦めさせようとしたのだが、「それなら電話帳を使って探せ」とまで言われた。

日本へ帰国した折に、宝塚まで行って電話帳で探さなければならないのか、とあきれていたら、「ほれ、これが電子メールアドレスだ」と「父」から連絡があった。早速、そのアドレスへメールを送ってみた。一度戻ってきた。そのアドレスのドメインが新しく変わっている可能性がありそうなので、新しいドメインにして送ったら、戻ってこないので、それで安心していた。しかし、インドネシアを発つ数日前になっても何も返事がない。

と思っていたら、再び「父」から「メールはどうした? これがメールアドレスだ。ちゃんと連絡しろ」と再度の連絡があった。メールアドレスが前のと違っていた。新しいアドレスへ送ったところ、翌日、戦法から「是非お会いしたい」とのメールが帰ってきた。

そんなこんなで、宝塚のホームステイ先と4月20日に再会することができた。そして、翌21日、ホームステイ先の奥様と「父」とその妻の3人で、宝塚大劇場で宝塚歌劇を堪能した。最初は「父」だけ行けばいいと乗り気でなかった「父」の妻も、「とってもきれいな人がたくさんでてきたのよー。ステキ~」と大感激の様子。「父」も満足の様子だった。

宝塚の街は、宝塚歌劇の存在を前提にし、かつての遊園地などがなくなった今、景観を重視した落ち着いた住みやすい街となっていた。市の花であるハナミズキが沿道に咲き誇り、宝塚大劇場周辺は、色合いを統一して美観を保っている。時々、すらっと姿勢の良い背の高い女性が街なかを歩いているのに出会う。宝塚歌劇の女優さんである。

宝塚でホームステイ先のご夫妻と別れを惜しんだ後、京都へ移動。ちょうど帰宅ラッシュ時で、荷物もあるので、時間はかかるが、JR宝塚からJR京都線の高槻まで普通電車に乗り、高槻で京都行へ乗り換えた。ちょっと長旅で疲れた様子。

4月22日、京都では、歩くのが辛い「父」のためにタクシーをチャーターし、金閣寺と龍安寺に行った。金閣寺は外国人観光客でごった返しており、すごい人数だった。そんななかで「父」はインドネシアから来た観光客を見つけ、満足そうだった。

龍安寺では、石庭の良さが今ひとつよく分からなかった様子。京都の寺院を巡って様々な庭を愛でるには、あと数日は必要だと納得してもらった。

蕎麦屋で昼食の後、京都大学東南アジア研究所を訪問。旧来の知人である水野教授の案内で図書館をまわり、最後はインドネシア語で歓談。久々にインドネシア語全開で、思う存分語り合った後、タクシーで京都駅へ送ってもらい、新幹線で東京へ戻った。

東京では、東京スカイツリーの見えるホテルにチェックイン。雨で見えないかと思ったスカイツリーは、最上部を除いておおかた見え、「父」は満足。でも、「父」が初めて東京を訪れた1959年の東京タワーにまつわる思い出とどうしても混ざってしまうようだった。

ちょっとお疲れ気味の「父」だが、20年前と日本は大きく変わった、と繰り返していた。鉄道がより便利になったこと、あちこち花がきれいに植えられていること、エレベーターやエスカレーターが備えられて歩きやすくなっていること、外国人の姿がずっと多くなったことなど、いろいろ「父」なりに感じたことがあったようだ。そして、今回の旅を題材に、昔と今の日本についての印象を書いてみたいとまで言っている。その意欲には脱帽するしかない。

4月24日のガルーダ便で、インドネシアへ戻る。筆者も「父」と一緒に戻る。

【京都】久々の煮魚定食

「父」とその妻をお連れしての日本旅行も終盤戦。昨晩、宝塚から京都へ移動してきた。

さて、夕食をどうするか。午後8時半と遅くなってしまったが、ずっと慣れない日本食を食べさせてきたので、京都では久々にインドネシア料理を食べさせたいなと思っていた。でも「父」は、疲れたからホテルで食べたい、と言い出した。日本料理でもよい、そうだ。

今回の京都での宿は、西本願寺の宿・聞法会館。本願寺の経営している宿らしく、仏教の教に関する張り紙や、お坊さんの姿も見える。泊まったのは、5人まで泊まれる和洋室。洋室スペースにはベッドが3つ、和室でも布団が2人分ある。「父」たちは洋室スペースで、筆者は和室スペースで寝た。

結局、昨晩は、この宿の1階の和食レストラン「矢尾定」で食事をした。そば、うどん、丼ものもあって、ちょっとホッとした。「父」のようなイスラム教徒の方をお連れする場所として、このような宿・宿坊はけっこう良さそうな感じがする。

久々に煮魚定食を頼んだ。カラスカレイの煮付け、というやつである。これが、予想以上に美味しかった。

ふわっとした魚肉が口のなかでとろけるように消える。煮魚って、こんなに美味しかっただろうか。いや、もう何年も煮魚など食べていないから、そんな感想を持ったに過ぎないのだろうが。

「父」と日本旅行中(1)

4月16〜23日は、ジャカルタの「父」ハリリ・ハディ氏とその奥様と一緒に日本に来ている。

「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。

初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。

その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。

「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。

今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。

私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。

16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。

花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。

「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。

「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。

福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。

18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。

仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。

日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。

【機内食】ガルーダ・ビジネスクラスの朝食に満足

4月15日夜ジャカルタ発成田着のガルーダ・インドネシア航空ビジネスクラスに乗った。

今回は、30年近くにわたってインドネシアでお世話になってきた、ジャカルタでの「父」と奥様の日本旅行のフルアテンドのための帰国である。「父」は84歳、体力のことも考え、ビジネスクラスで招待、筆者もそれに続いた。

期待はしていなかったが、このビジネスクラスの朝食がいい意味で予想を裏切られた。

注文する段階で、すでにインドネシア料理の朝食と和食の朝食はなく、洋食の朝食しかなかった。でも、洋食の朝食の内容がとても興味深かったので、筆者は最初から洋食を狙っていた。

最初に出てきたのが、タピオカ粉のふわふわとバナナ、ナッツの乗ったデザートのような一品。バナナの風味が効いていて、上質の甘みが口の中に広がる。これがデザートではなく、前菜なのである。いきなりこれは、びっくりの美味しさだった。

パンはクロワッサン、デニッシュ、ガーリックブレッドの3種。パン自体はとくに優れているという感じではなかった。

次は、オムレツ。オムレツ自体は何の変哲のないものだが、盛り付けが素敵だった。味もやや塩味の効いた落ち着いたものだった。

今、気がついたのだが、上のオムレツなど、料理の色と皿の色との配色にまで気を使っている様子がうかがえる。

最後のデザートは、オレンジのシロップ漬けにイチゴとフレークの乗ったもの。

ともかく、最初のタピオカ粉のふわふわとバナナ、ナッツの乗ったデザートのような一品の斬新さにとても感心した次第である。

今回のガルーダ・インドネシア航空ビジネスクラスの朝食は、予想以上にレベルの高いものだった。満足である。ガルーダがここまでやるのか。

食後に頼んだコーヒーは、スマトラのリントン。インドネシアのコーヒーを美味しく飲ませようと出されたものだが、決して濃すぎず、味わいのあるものだった。

ちょっと、ガルーダの宣伝になってしまったかもしれない。でも、エコノミーとは明らかに違う食のグレードの高さを体感できる内容だった。

座席は1人1人別で、個室のような感覚でくつろげる。もちろん、フラットシートになる。3〜4時間、しっかり眠れた。機材はボーイング777−300ER。

スラバヤ観光地図2014完成!

「スラバヤについて興味はあるけど、どこに何があるかよく分からないんだよね」という声を時々聞く。日本語で書かれた観光ガイド地図のようなものがあればいいのになあ、と思っていたら・・・。実は、それがあった。

日本語で書かれた「スラバヤ観光地図2014」。作ったのは、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の大学3年生。同学科では、日本語教育の一環として、この地図を作っている。次も、新3年生がこの地図の改訂版を作る、とのことだ。

一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。

もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。

筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。

さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。

この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。

国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
Email: japanologyunair@yahoo.com
担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)

ソロの工場に掲げられた標語集

先週の中ジャワ州ソロ(スラカルタ)への出張では、2件の工場訪問も行なった。いずれも繊維関係の有名工場で、そのうちの1社は、従業員数4万人を抱えるインドネシア最大の繊維・縫製企業である。

4万人の従業員を抱える企業では、上のような写真の縫製工場が11棟ある。これ以外に、今回は見学できなかったが、生地を製造する大きな紡績工場が数棟あり、この企業だけで日本全体の2倍以上、韓国全体とほぼ同じ紡績生産を行っているというから、その規模は桁違いである。
中ジャワ州は、ソロを始めとして、ジャカルタ周辺や中国からの繊維関係企業の移転あるいはOEM生産委託先として、注目を集めている。それは、単に最低賃金が低いからだけでなく、このような繊維・縫製関連の実績や基盤がかなり整っていることも背景にある。

今回訪問した2つの工場では、工場内に掲げられた標語がなかなか興味深かった。そのいくつかを以下に紹介する。

「おしゃべりは少なく、働きは多く」。韻を踏んでいるのは、インドネシアの詩ではよくあること。とにかく、インドネシアの人々はおしゃべりが好き。それが職場の雰囲気を和らげているのだが、「おしゃべり禁止!」としないところが興味深い。

「頭のいい人は常に方法を探す。怠け者は常に理由を探す」。問題に直面したときに、どう対応するか、という話なのだろう。まずは自分を守るために「自分は悪くない」と主張し、言い訳を並べる、というのは、何もインドネシア人に限ったことではない。

「怒り。1度怒ると、喜びがなくなる。2度怒ると、理性が飛んで行く。3度怒ると、血圧が上がる。4回怒ると、友だちが去っていく。5回怒ると、すぐに老ける。6回怒ると、罪の扉が開かれる」。最後の6回目のは、怒ること自体が罪となり、地獄への門が開かれる、という意味なのだろうか。

「心。喜びの心は、力強い薬である。頑なな心は、行き止まりにぶつかる。柔らかな心は、親友を招く。貪欲な心は、罠をつくる。きれいな心は、問題を遠ざける」。前の「怒り」と対峙して掲げられていた。もう一つあるのだが、荷物が置かれていて、読み取れなかった。

これらの標語は、社長訓なのだろうか。私には、おそらく、従業員が自分たちで考えて作ったものではないかと思えた。

日本の工場などでは、規律を守らせたり、安全を換気したりする、体言止めの硬い標語が多い印象だったからか、ソロの2工場で見た標語は、思わず「そうだよな」と頷いてしまう、柔らかさを感じた。

標語という些細なものではあるが、職場にストレスを与え続けず、かつ、個々人のモチベーションを高められるような環境づくりという意味では、日本にとっても参考になるかもしれない。

【ルマジャン】クレンセンガン・カンビン

4月7日、スラバヤから片道4時間かけてルマジャンへ日帰り出張した。

ルマジャンでの用務も無事終わり、スラバヤへ戻る前に、お世話になったルマジャン県公共事業局の皆さんが食事に誘ってくださった。

場所はルマジャンの中心部にあるDepot Kemayoranという小食堂。名物は何かと聞くと、「クレンセンガン・カンビン」(Krensengan Kambing)とのこと。赤ワケギ、ニンニク、コリアンダー、胡椒、ナツメグなどを使った甘辛の汁で煮込んだ料理である。これでお値段は2万ルピアだった。

これを白いご飯にかけて食べる。山羊肉は柔らかく、汁とよくなじんで、ご飯との相性も絶妙である。うーん、至福のとき。午後4時過ぎという中途半端な時間ではあったが、用務でエネルギーを消耗したせいもあり、しっかり完食した。

付け合せは、毎度おなじみの面々。

クレンセンガンは、東ジャワではわりとどこでも食べられる料理であるが、何も期待していなかったルマジャンで食べられたということも高評価につながったのかもしれない。

お世話になったルマジャン県公共事業局の皆さんらと、Depot Kemayoranの前で。

【ソロ】ナシ・リウェット(Nasi Liwet)

先週は中ジャワ州ソロ(スラカルタ)へ出張した。

ウォノギリ県を訪問するなど、2日間の仕事を終えて、ソロ・バラパン駅でスラバヤ行きの帰りの列車までまだ1時間ある。よし、それならば、ナシ・リウェット(Nasi Liwet)を食べに行こう! 早速、駅からタクシーに乗って、ナシ・リウェット屋が並ぶクプラボン・クロン(Keprabon Kulon)まで連れて行ってもらったが・・・。

時間は午後4時過ぎ。まだ開いていないのである。「たぶん、5時頃には開くと思うよ」と教えてくれるのはタクシーの運転手。でも、スラバヤ行きの「サンチャカ・ソレ」は5時5分にソロ・バラパン駅を出発するのだ。

ダメかな、と思っていると、ちょうど1軒、店を開け始めたところがあった。まだ、いろいろ準備中だったが、お願いして、食べさせてもらうことができた。

この店、1950年創業らしい。「おばあちゃんが始めたのよ」とナシ・リウェットを準備するおねえさんが答える。店が始まると、あのゴザが敷かれ、折りたたみの低いテーブルがここに並ぶのだな。

店の前の「カウンター」に座る。目の前には、ナシ・リウェットにのせる様々なおかずが並ぶ。鶏肉の塊(これをスライスする)、臓物、野菜を煮込んだスープなどなど。横にはニワトリの脚(チャカルという)があった。余談だが、ジャワ人はけっこう、チャカルが好きで、スラバヤでも、チャカル入りのワンタンメンを勧められたことがある。

これらをご飯の上に手際よく盛って、さっと野菜を煮込んだスープをかけ、ココナッツ・ミルク(サンタン)の固まりをてっぺんにつけてできあがり。

これを混ぜながら食べる。汁が絶妙な辛さで、鶏肉や臓物との相性がとても良い。プニュっとしたココナツ・ミルクの固まりがなんとも言えないアクセントになる。

実は、ソロ名物のナシ・リウェットを食べたのは2回めである。以前、24年前に、ジャカルタのブロックMの南側の屋台で、それを食べた。あのときのは、ココナツ・ミルクの固まりがもっとドロッとしていて、全体的に甘かった。

当時、ジャカルタで下宿していた大家さん(おとうさん)がソロの出身で、連れて行ってくれたのだ。本場のソロで、あのときよりずっと美味しいナシ・リウェットを食べながら、今は亡き「おとうさん」の笑顔をふっと思い出していた。

スラバヤに咲く花

スラバヤの街なかに咲く花の写真を撮り始めました。

Facebookにアップしていますが、以下のリンクから、Facebookに登録されていない方でも見ることが可能です。

スラバヤに咲く花

本ブログの右側「マイ・リンク」からも飛べます。

これから随時、スラバヤの花の写真を追加していきます。お楽しみに。

何の変哲もない普通の花たちがごく普通に咲いている、その姿を見るだけで、なぜか、優しくかつ元気になれそうな気がしてきます。

スラバヤの花の写真を見て、少しでも明るい気持ちになってもらえたら、うれしいです。

ウォノギリ県の熱血県知事

4月3日、ある企業の方と一緒に中ジャワ州ウォノギリ県へ行った。

ウォノギリ県はソロ(スラカルタ)市から南東へ車で約1時間半、山がちの地形で、出稼ぎの多い貧しい地域として有名だった。若い女性は、ジャカルタなどで家事手伝いやベビーシッターとして働き、男は工事現場などで単純労働力を提供した。経済が発展する現在、ジャカルタ周辺の工場労働者となる者が増えたという。

実際、ジャカルタ=ウォノギリ間には直行バスが何本もある。地元では雇用機会が少なく、夜行バスでジャカルタへ出て働き口を探す。ウォノギリ出身者は、人口圧の高く、雇用機会の乏しいジャワの農村からジャカルタなどの都会を押し出されていく典型的な労働力とみなされていた。

それでも昨今、渋滞や洪水、賃金上昇など、ジャカルタ周辺の投資環境が悪化するなかで、低い最低賃金を求めて中ジャワ州へ企業移転を図るケースが増えてきた。それでも、昔のイメージが強かったからか、ウォノギリ県は取り残されているのではないかと思っていた。

実際は違っていた。貧しくて可哀想なウォノギリ県の姿は影を潜め、企業移転を積極的に受けようとする姿が印象的だった。

企業の方は、ウォノギリ県知事のダナル・ラフマント氏とアポを取ったということだったが、実際に行ってみると、アポは全く取られていなかった。急遽、10分でもいいから会えるようにと、企業の方の知り合いの方が動いて、県知事と会えることになった。

指定場所へ行くと、先客がいた。韓国系企業の方々だった。西ジャワ州かスバンからウォノギリへ工場を移転するという。彼らはすでに3回、ウォノギリ県を訪れており、今回で用地取得の青写真がほぼ決まったようであった。

彼らとの会合を終えた県知事が我々に会ってくれることになった。10分と思っていたが、30分大丈夫とのこと。「韓国系企業は5社程度が頻繁に訪れている」とのことだった。

県知事によると、人口120万人のウォノギリ県のうち、20%が出稼ぎで出ているが、彼らは、「もしウォノギリ県に工場のような雇用機会があればウォノギリで働きたい」という。5月に女性下着を製造する工場、7月に合板工場が操業を開始し、合わせて4000人以上の雇用機会が生まれる予定である。

県内には石灰石が豊富で、セメント工場ができる予定であり、インド洋側にできるそのセメント会社のジェッター付きの港を他企業も利用できるようにする。

ウォノギリ県政府は投資誘致のためにどれぐらい協力的なのか。筆者自身のスラウェシなどでの経験からすると、発展から取り残された投資の来ない地域では、企業投資は役人や地元有力者にとっての格好のたかりの対象になる。ウォノギリ県もそんな要素があるのではないか。色眼鏡で見てしまっている自分がいた。

しかし、次のような県知事の答えにびっくりした。

投資を予定している企業とは、県知事が投資局はじめ関係する県政府機関のトップを一同に集め、投資に必要な許認可や手続についてプレゼンをさせ、それらが何日で終わらせられるかをその場で明言させる。それ以後は、県知事が先頭に立って、許認可や手続などで不都合が出てくればそれを責任をもって解決していく。

ここまでは、威勢のいい県知事ならどこでも言いそうな話だ。でも、一番問題になるのは、用地の取得である。通常は、地権者と企業との間で交渉しなければならない。ところが・・・。

ウォノギリ県では、県知事が前面に立って地権者である住民を説得するというのである。県知事が挙げた事例によると、16ヘクタールの土地を用地として取得したいが、36人の地権者がいる。そう聞いただけでちょっと絶望的な気持ちになるが、県知事が地権者を説得し、わずか2週間ですべての地権者を同意させたのだという。

これは、通常ではあり得ない話ではないか。インドネシアではどこでも、用地買収が困難でインフラ整備が進まない。地権者は地価の値上がりを期待して、なかなか土地を手放そうとしない。

県知事は、工場が来ることで従業員の下宿屋ができ、食事をするワルンが栄え、地域経済への様々な乗数効果が上がることを具体的な数字で示したという。別の事例では、最初は1平方メートル当たり30万ルピアと地権者が言ってきた地価が、このような県知事の説明で地権者が納得し、なんと同11万ルピアへ下がったというのである。

県知事は、我々を前に、30分どころか、1時間以上も熱弁を振るった。そこには、貧しい出稼ぎの地と言われたウォノギリのイメージを変えてやるという、「熱血」県知事の強い意思が現れていた。

県知事は、自ら村々を回って、「工場で働かないか?」とリクルート活動までやった。

そしてまた、ジャカルタなどへ働きに出ている出稼ぎ者に帰ってきてもらうことで、ジャカルタの都市問題の解決にも役立ちたいとも言うのである。彼はジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事とも親しいが、彼が大統領になったら、各地方に産業を起こすことを提案したいと言った。

実は、県知事と会った後、別の筋から、ウォノギリ県では800ヘクタールの工業団地建設構想があることを知った。すでに民間が用地を確保しているらしい。

筆者は、ウォノギリ県知事だけが突出しているわけではないことを知っている。中ジャワ州南部は、11月末に訪れたプルバリンガ県なども含めて、ジャカルタ周辺からの繊維関連企業などの工場移転ブームに呼応しようとしている。いい意味での自治体間での投資誘致競争が起きているといってもよい。

ウォノギリ県の2014年最低賃金は月額95万4000ルピア、まだ1万円にも満たない。ウォノギリ県への企業移転に絡む話で日本人が県知事に会いに来たのは今回が初めてとのことである。

インドネシア、とくにジャワ島の地方は動いている。首都ジャカルタは、このダイナミズムを知らない。いや、もしかしたら、「知ろうとしない」のではないか。それは言い過ぎかもしれないが。

スラバヤを「桜」の街に

日本は今、東京を始め各地で桜が満開になっているようだが、インドネシア人の知人たちの間で、なんとスラバヤの「桜」が話題になっている。

雨季が始まる頃に咲く、スラバヤの「桜」。白、ピンク、黄色の花が咲く。花が咲き終わってから葉っぱが出てくるため、「桜」と同じだー、と言われているのである。

インドネシアの週刊誌『テンポ』の以下の写真ページを参照いただきたい。

Indahnya ‘Bunga Sakura’ di Surabaya

以下の日本語ウェブサイトでも、スラバヤの「桜」のことが取り上げられている。

【インドネシアで桜の木?】スラバヤに咲き誇る「桜」の美しさ

このスラバヤの「桜」、実は桜ではない。桜はバラ科サクラ亜科サクラ属で学名がPrunus, Cerasusであるのに対して、スラバヤの「桜」はタベブイアと呼ばれ、ノウゼンカズラ科タベブイア属の花を咲かせる樹木である。

スラバヤは緑の多い街である。よくみると、ただ単に緑が植えられているのではなく、花の咲く樹木が街路樹に植えられ、また、道路に面した公園や花壇には、様々な花が計算された配置に基づいて植えられていることが分かる。

そんな街路樹として、主要な通りに植えられているのが、このスラバヤの「桜」である。スラバヤ市のリスマ市長は「桜を愛でるなら、日本に行かずとも、スラバヤへ来ればいい」と言いながら、積極的にタベブイアを植えてきた。

本物の日本からの桜でないことを残念がる方もいるかもしれない。しかし、日本の桜の美しさをよく知っているからこそ、スラバヤにもそんな「桜」をたくさん咲かせてみたい、「桜」並木のある街にしたい、とリスマ市長は思ったのだろう。

スラバヤ市は、昔のゴミ最終処分場跡を公園化し、そこに「桜」を始めとして様々な花を植える計画を進めている。その計画に対して、国営BNI銀行が30億ルピア(約2700万円)を寄付すると申し出た。以下がその記事である。

BNI Kucurkan 3 Miliar untuk Taman Sakura Surabaya

リスマ市長は、スラバヤを「桜」の咲き誇る街にしたいのだ。街としての美観+潤いのある街にしたいのである。やはりこの市長は只者ではない。

世界中の市長を評価する『シティメイヤーズ』サイトは、リスマ市長を2014年2月の「メイヤー・オブ・ザ・マンス」に選んだ(英文記事はこちらから)。

今年も日本で花見ができなかった。でも、スラバヤが「桜」の咲き誇る街を目指すという話を聞いて、なんだかとっても嬉しくなった。

スラバヤ生活も4月1日から2年目に入った。この街がどんどん面白くなってきた。

スラバヤの街なかに咲く花の写真を少しずつ撮り始めた。「桜」はまだだが、花の話題にしては殺風景なので、花の写真をひとつ載せておく。

 

東ジャワ州の日本語人材を活用せよ

先ごろ、日本の大学へのインドネシア人留学生を選抜する文部科学省の国費留学生試験が実施され、1次・2次の合格者が決まったようである。

複数の人から聞いたところによると、インドネシア国内で合格者が最も多かったのは、東ジャワ州マラン市にある国立ブラウィジャヤ大学で、8人が合格したという。この8人という数字、1校あたりの合格者としてはかなりの合格率ではないだろうか。もしかすると、世界的に見ても、最も多い合格者だったかもしれない。

そのほか、東ジャワ州スラバヤ市にある国立アイルランガ大学から3人、日本語教師養成コースを持つスラバヤ国立大学からも2人が合格、そのほか同じスラバヤ市内の私立ストモ博士大学からも合格者が出た可能性がある。

一方、西ジャワ州デポック市にある国立インドネシア大学からの合格者は1人、ジョグジャカルタ特別州の国立ガジャマダ大学からは合格者がいなかった様子である。

すなわち、今回の国費留学生試験の合格者の大半は東ジャワ州から出た、ということになりそうである。

国立ブラウィジャヤ大学の日本語科では、大学学部卒業までに日本語能力試験のN2に合格することを目標に、日本人のI先生を筆頭に、N1を持つインドネシア人の先生たちが懸命に日本語を教えている。

昨年5月、筆者は、国立ブラウィジャヤ大学で「インドネシアの日系企業と日本の企業文化」と題して特別講義をしたことがあったが、約200人以上の学生が集まり、質疑応答に1時間以上を費やすほど、学生たちは熱心だったのが印象に残っている(下写真)。そのときに、「N2をとれれば日系企業に就職できるだろう」という話をした際に、がぜん盛り上がったのを覚えている。

私の知り合いの方は、国立ブラウィジャヤ大学の日本語科の優秀な学生たちを活用し、スカイプを使ったインドネシア語学習プログラムを試みている。興味のある方は、以下のサイトにアクセスして詳細を見て欲しい。

日本インドネシア語学院

国立アイルランガ大学は、日本研究科であって必ずしも日本語科ではないが、学生たちが熱心で、すでにN2を取ってしまった者もいるため、先生たちの目が覚めた。毎週、時間を決めて、先生方が自主的に日本語能力を高めるための勉強会を行い、N1合格を目指すということである。

これまで、日本語人材といえば、日本研究センターを持つ国立インドネシア大学や国立ガジャマダ大学などの出身者に定評があるとされてきた。しかし、国費留学生試験の結果だけから見れば、ジャカルタ周辺ではまだあまり知られていない、東ジャワ州の大学が従来の有名大学を凌駕し始めている。

もちろん、東ジャワ州における日本語学習者の裾野も着実に広がっているし、自分の日本語能力を高めるために、日本人の方と接する機会を持ちたいと思っている学習者は相当な数で存在する。

今年は、スラバヤ市でも、ジャカルタ・ジャパン祭りのような、ジャパン祭りをやってみようではないかという意見が出ている。当地の日本語学習者を巻き込んで、むしろ、インドネシア側の意向を取り込んでいきながら、面白いイベントが出来ないものかと思っている。機会があれば、私なりの色々なアイディアを出してみたいし、各大学の関係者と話し合ってみたい。

ジャカルタ周辺で日本語人材の確保に努めていらっしゃる方は、この機会に、東ジャワ州の国立ブラウィジャヤ大学や国立アイルランガ大学などの関係者に、どんな様子なのか、聞いてみてはいかがだろうか。東ジャワ州には、意外に優秀な人材が留まっているかもしれない。そして、チャンスが有れば、彼らはジャカルタ周辺で働くことも厭わないことだろう。

いや、いっそのこと、投資環境が悪化してしまったジャカルタから、東ジャワへの企業移転またはビジネス機会の拡大を図ってみてはどうだろうか。ジャカルタ周辺と比べてもそこそこのレベルの日本語人材を活用することができるはずである。

スラバヤ空港から空港バスに乗ると・・・

昨日(3月29日)、知人をスラバヤ・ジュアンダ空港第2ターミナルまで送った後、空港バスに乗ってみることにした。

空港バスは、第2ターミナルを出て、すぐ目の前に停まっている。30人乗り程度の中型バスである。料金は2万ルピア、エアコンが効いている。しかし、大きな荷物を収納するスペースはない。

行き先は、スラバヤの南手前、シドアルジョにあるプラバヤ(Purabaya)バスターミナル。スラバヤ市内まではダイレクトに行かないのだ。途中、若干渋滞したが、約30分でプラバヤ・バスターミナルに到着した。

到着したところは、ジョグジャカルタやスマランなどへのバスが出る長距離バス乗り場だった。ジョグジャカルタ行きのエアコン付き普通バスが次々に出て行く。

そこから、飲食店が並ぶ建物の中を通ってまっすぐ行く。行先別に乗り場への指示板が出ていてわかりやすいが、「どこへ行くんだ?」と、客引きのおっちゃんたちが群がってくる。客をバス乗り場まで連れてくると、そのバス会社からコミッションをもらえるのである。自分で乗り場がわからなくても、彼らが案内してくれるので、たしかにラクはラクなのだが。

途中には、ジャカルタやバリへ向かうエアコン付き有名バス会社のチケット購入スタンドが立ち並んでいる。すでに出払った後と見え、ほとんどのスタンドが閉まっていた。

これらを通り抜けて、スラバヤ市内へ向かうバス乗り場へ出る。ここでも、行き先別にバスが並んでいるが、行き先を見ただけでは、どのバスに乗ればよいのか、検討がつかない。エアコン付きのバスは数系統しかない。

筆者の自宅近くまで行くバスはなさそうなので、途中のディポネゴロ通りを通るバスに乗った。エアコンなしのボロボロのバスで、料金は5000ルピア。渋滞があったため、スラバヤ動物園を越えてディポネゴロ通りまで45分近くかかった。

ディポネゴロ通りでバスを下り、結局タクシーで自宅へ。結局、空港から自宅まで、しめて5万ルピア程度で済んだ。

結論としては、空港バスでスラバヤ市内へ向かうのはお勧めできない。荷物があったらなおさらである。

空港バス自体がスラバヤ市内へ入らないことが問題であるだけでなく、客引きのおっちゃんや怪しげな人々の行き交うプラバヤ・バスターミナルを歩くのは、インドネシアをバックパッカーとして旅するような人以外にはちょっとヘビーである。

空港から10万ルピア払っても、空港タクシーを利用するほうがずっとラクである。

空港タクシーのカウンターは、第2ターミナルの出口のすぐ左横にある。カウンターの右隣には、タクシーチケットの自動券売機が置かれている。

ジャカルタもマカッサルも、空港バスはちゃんと市内まで運行しているのに、スラバヤはそうなっていない。もっとも、時刻表はなく、人数が揃ったら出発するという点では、トランスジャカルタなど一部を除き、全国どこのバスでも同じである。

日本へ行くのはちょっと・・・という印象

先日、スラバヤの街なかを歩いていたら、以下のような看板が目に入った。

北京・上海ツアーは8日間で650米ドル、日本歴史ツアーは7日間で1650米ドル。

このように並べられてしまうと、「日本へ行くのはちょっと・・・」という感覚にどうしてもなってしまうだろう。

何かもっと、中身をアピールする手立てはないものか。

インドネシアの人々は決して安さだけを重視しているわけではない。日本の良さを丁寧に、しかしインドネシアの人々が納得するように、アピールしていくほかないのではないか。

日本に行ってみたいというインドネシアの人々は数多い。逆に、最も安く日本へ行くのにこれだけで済む、というアプローチもありではないか。

一つの方法は、もっと、個人と個人のつながりや触れ合いを重視するようなアピールの仕方かもしれない。ホームステイや擬似的な家族づくりなど、まだまだ試すべき方法はいろいろあるだろう。

もっとも、東京の自宅は狭く、とてもお客さんを泊められるような状態ではないので、あまり大きなことも言えないのだが。

ともかく、フツーの個人どうしがもっとフツーにつながり、触れ合うことが、日本とインドネシアとの関係を深めていくのに最も効果的であると思っている。

スラバヤ・ジュアンダ国際空港にて

昨晩(3/20)、キャセイ航空で東京から香港経由でスラバヤへ戻った。到着したのは、スラバヤ・ジュアンダ国際空港第2ターミナル。昔の空港をリノベーションして、新空港としたものである。

今回は、国際線到着では初めての利用になる。イミグレは空いていて、すぐ自分の番に。ところが、「別室へ行け」と言われる。何か問題があったのか。

別室にはいやな思い出がある。インドネシアへ初めて入国した1985年8月。インドネシアがビザなしで入国できるようになったはずなのだが、情報がはっきりしない。オドオドしながら、パスポートを手に並んでいたら、係員が「こっちへ来い」と別室に連れて行かれた。椅子に腰掛けると、係員が「ドラール、ドラール」という。最初は何を言っているのか分からなかったが、インドネシア語でドルと発音しているのだった。当時、インドネシア語がまだできなかったので、「ノーノー」というと、私に財布を出せと命じる。恐る恐る財布を出すと、財布の中のシンガポールで換金してきたルピアの束から1万ルピアを勝手に抜き出し、「オッケー」といって入国スタンプを押して、開放された。

それが、私の最初のインドネシアだった。聞かされていたとおり、なんて汚い国だとそのときは思った。出迎えに来ていた私のインドネシア語の先生が、彼の家のある西ジャワ州チマヒに着くまでずっと謝っていた。その後の、彼のカンポンでの様々な楽しい思い出がなかったら、私はインドネシアが大嫌いになっていたことだろう。

今回も、そのことが頭をよぎった。が、よく聞いてみると、外国人居住者用の出入国スタンプがイミグレカウンターにないという。あり得ないと思った。またダマされて金銭を要求されるのか。

別室の前へ行っても警戒は解かなかった。係員が私のパスポートを持って中に入り、しばらくすると、出てきた。入国スタンプが押されていた。

その後、荷物を受け取り、税関へ。ジャカルタでは手荷物だけをX線に通すのだが、なぜかスラバヤのここでは、すべての荷物を通すのだった。

空港に到着し、税関を抜けて外に出るまで、わずか20分。空いているということもあるが、かなり早かった。外に出る手前にタクシーカウンターがあり、そこでチケットを買って、タクシー乗り場へ。

新車のタクシーは匂いがきつく、運転も荒かったので、久々に酔いそうになった。

ともあれ、スラバヤの自宅に無事、夜9時すぎに到着。寝る前に短い原稿を1本書こうと思ったが、やはり睡魔には勝てず、今朝、朝一で書き上げた。

 

水俣・・・祈り

3月16〜17日、水俣へ行ってきた。地元学を主宰する吉本哲郎氏にお会いし、自分なりに地元学を再学習する旅であった。地元学は深く新しく進化していた。

珠玉の言葉がたくさんあった。久々に目からうろこ状態になった。それらは、まだ自分のなかで十分に咀嚼しきれていない。自分のなかでまだなじんでいない。吉本さんの言葉を自分のものにするためには、まだ熟考と時間が必要な気がする。それらをブログに書いてしまうと、薄っぺらいものになってしまいそうな気がする。

人に何かを伝えるためには、言葉をもっと大切にすること。哲学や美学が必要であること。原理主義を排し、現実から出発すること。

水俣は、複合的な差別の渦巻く場所だった。そして今もそれを拭えていない。

水俣病患者への想像を絶する差別の嵐のなかで、なぜ、水俣病を患った故杉本栄子さんが「チッソを赦す」境地へ至ったのか。「人様が変わらないなら自分が変わるしかない」と思うに至ったのは、チッソが正しかったと認めたわけでは断じてないのだが。

果たしてチッソはそれを深い意味で受け止めているのか。自分に都合の良い薄っぺらい解釈で「ラッキー」と思っているにすぎないのではないか。

他方、福島第1原発事故で苦難を余儀なくされている方々は、この杉本さんの気持ちを深く理解できるだろうか。でも、政府や東電も、もしそうした赦しがあれば、自分たちに都合よく、薄っぺらく「ラッキー」と思うだけではないだろうか。

敵を赦す境地に至るとは、どれだけ壮絶なものか、理解できるだろうか。そして、それがなければ、水俣は前に進めなかったことを。それなしには、杉本さんが生きていけなかったことを。

祈りが大事だ、と吉本さんは言った。

水俣湾に面した記念公園に患者さんが置いた、点在する石像の写真を見直しながら、その意味を反芻している。

祈り。哲学。美学。そして覚悟。本物を創る意思。

東日本大震災から3年

先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。

静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。

あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。

頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。

この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。

復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。

希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。

3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。

諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。

だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。

諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。

私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。

私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。

今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。

このことを、改めて、肝に銘じている。

【スラバヤ】ラーメンバーガー@ラーメン希

食べたいけどどうしようかな。見るからに超ジャンクっぽいし・・・・。気にはなっていたが、なかなか食べようという気になれなかったのが、スラバヤのユニークなラーメン店、ラーメン希(のぞみ)のラーメンバーガーである。

たまたま、日本からお客さんが4人来ていて、私の本ブログで気になっていたラーメン屋に食べに行きたいということで、これがチャンス、とラーメン希へお連れすることができた。今度こそ、ラーメンバーガーだ。

各自、好きなラーメンを注文した後、一番年齢の若そうな客にラーメンバーガーを勧めたところ、乗ってきた。結局、4人で少しずつ味見をすることにした。

ラーメンバーガーは、オニオンリングやフライドポテトを従えて現れた。

これを4つに分けると、何となく広島風お好み焼きのように見えた。

肝心の味だが、意外にいけるのだ。思ったよりも油っこくなく、中身の具との相性もそれほど悪くもない。とはいっても、4等分したものでの評価なので、全部食べるとちょっと重くなるかもしれない。

でも、炭水化物大好きな若い子たちには意外に受けるのではないか、と思った。

ラーメン希には、さらなる挑戦を期待したい。

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