現場へ行ったから分かるとは限らないが、行かなかったらきっと分からないままのこと

先週、気仙沼と陸前高田へ行ってきました。前回行ったのが2012年8月だったので、5年ぶりでした。

陸前高田は、震災による津波で街が物理的に消えてしまった街です。5年前、ひたすら野原が広がるその土地に、壊れたままのいくつかの建物やかろうじて残る住居の区画跡を見ながら、そこで響いていたであろう人々の声やいたいけな子供の笑顔をずっと創造し続けていました。生の痕跡を、自分の体の周りのあちらこちらで感じながら、目をつぶってパッと目を開けたら、目の前に生の街が現れるような、そんな気持ちになりました。

5年経って再訪した陸前高田は、5メートル以上の盛り土がなされ、その上に新しい街を作り始めていました。バイパス沿いにあった花々の列も、壊れたままのスーパーも、亡き人を追悼する墓標も、見えなくなっていました。過去の陸前高田が新たな盛り土によって覆いかぶされ、見えなくなっていました。

それでも、新しくオープンした大型複合商業施設「アバッセたかた」は、きれいなお店が入り、賑わいを見せていました。素敵な市立図書館も併設されていました。

ランチを食べた陸前高田の蕎麦屋「やぶや」は、行列ができるほどの大人気でした。一番人気は、天ざる。しっかりいただきました。
明るく前を向いていこう、という気分は、かなり感じました。6年以上という時間が、ある意味、後ろを向いていても仕方がない、前を向いて明るくやろうや、という割り切りを陰に陽に促しているようにも感じました。
でも、そんなふうにスパっと割り切れるはずはない・・・。

気仙沼で友人と夕食をご一緒したとき、開口一番、彼が口にしたのは、「つらい」という話ばかりでした。彼の周りで、亡くなる人が絶えない。自ら命を絶ったのか、病気だったのか、色々な話があるようでした。

普通は、自分にとってつらい話をよそ者にしたりはしないものです。メディアに話が出ないからと言って、みんな前を向いて進んでいるわけではなく、心の中に言葉にできないようなつらい思いを抱えながら、それが何かの瞬間にあふれ出て、誰にも受け止めてもらえない孤独感。

現場へ行ったからこそ、知ることができた話なのでしょう。でも、現場へ行ったからと言って、分かったとは言えないかもしれません。でも、遠くにいたら、現場へ行かなかったら、きっと知らないまま、分からないままのことなのです。

楽しい再会、飲み会の前に、どうして彼はそんなつらい話をしてくれたのだろうか。いや、もしかしたらずっと閉まっておいた話が、たまたま私と会って、溢れてしまったのかもしれません。本当は、彼は、泣きたかったのかもしれません。

しばらくして、彼は、ちょっと無理やり笑いながら、気仙沼の景気が決して良くないことや、よそ者には知られたくない様々な街の問題を話してくれました。それから先は、気仙沼とインドネシアをさらにどうやってつないでいくか、という真面目な「前向きな」話へ展開していきました。

でも、今でもふと、津波で両親を亡くした子供が、クリスマスの夜に海へ入水してそのまま帰ってこなかった、という彼の話を思い出してしまうのです。いい悪いの話ではなく、その子を温かく見守ってあげられなかった大人の一人として。同じような地元の大人に刻まれた心の傷を、まるで自分の傷のように感じてしまうのです。

アバッセたかたを行きかう人々を眺めながら、その人々の一人一人が、言葉にならない辛さや傷を心の中にしまいながら生きているのだ、と想像してしまうのでした。

盛り土で見えなくなったとしても、よそ者には見えなくとも、震災の傷跡が癒えるものではないのです。それは、言葉に出せない、出すべきではない、感情なのです。

石巻から気仙沼まで乗ったBRT

今回、石巻から気仙沼へ移動する際、途中の前谷地から乗ったBRTというのは、Bus Rapid Transitの略で、鉄道で結ばれていた路線をバスで繋ぐものです。東日本大震災で普通となった気仙沼線は、鉄道による本格復旧を諦め、BRTで代替しました。JR東日本が運行しています。

上写真は前谷地駅前、下写真は気仙沼駅のBRTバスです。気仙沼駅では、ホームの脇で発着します。

BRTは途中、かつてあった気仙沼線の線路跡を舗装した道路を走ります。それは、バス専用道路となっています。

元鉄道トンネルへ入っていく様子は、なかなか珍しいものです。バス専用道路なので菅 祥行、一般道路と繋がる場所には遮断機があって、一般車両はバス専用道路を通行できないようになっています。

現在、BRT気仙沼線は、日中はおおよそ1時間に1本の割合で前谷地と気仙沼を結んでいますが、途中の本吉までの便も入れると、本数は意外に多いようでした。
基本的に、かつての鉄道駅でしか乗り降りできないのが難ですが、駅(バス停)の新設も行われているようで、地域の人々の足としての役割をしっかりと果たしている印象を受けました。
明らかに、鉄道を復旧させるよりも、BRTのほうがコストが低く、かつ利便性も高いと感じました。
BRTは、気仙沼からさらに陸前高田、大船渡を通って盛まで走る大船渡線もあり、盛からは、三陸鉄道南リアス線で釜石まで行くことができます。
鉄道廃線後、廃線跡をバス専用道路として活用した例としては、福島県の白河駅と磐城棚倉駅をJRバスで結ぶ白棚線というのがあります。東北本線の松川駅と川俣駅を結んでいた川俣線は、廃線後、その路線としては継承されず、福島駅から川俣高校前までをJRバスで結ぶという形へ変わりました。
BRTが地域の人々の足として、さらなる発展を続けていくことは、震災からの復興と生活を取り戻していく一助になる、ということを期待したいと思います。