大マラン圏のリンゴの運命

熱帯のインドネシアとは思えない光景をよく見かけます。そう、街中のスーパーや果物店、地方の街道沿いの屋台、村のパサール、どこでもリンゴを見かけるのです。

リンゴは、熱帯の果物ではないはず。もちろんそうです。これらのリンゴの大半は、ニュージーランド、アメリカ、オーストラリア、中国などから輸入されたリンゴなのです。

リンゴは健康によい果物、という話が広まっているためか、インドネシアではリンゴの消費が増えている様子です。

でも、実はインドネシアでもリンゴは作られています。そのほとんどは、東ジャワ州マラン市、バトゥ市、マラン県からなる大マラン圏(Malang Raya)産です。

なかでも、観光地のバトゥ市は、「リンゴの街」と自称するほどで、市内のあちこちにリンゴを形どった休憩所や標識を見ることができます。

でも、日本のリンゴのような大きくて立派なものは見かけません。ほとんどが小さく、垂直に伸びた枝にたくさん実っています。

これだと収穫するのは大変だろうなあと思っていたら、大きく立派にして収穫することはほとんどないという事実がありました。

すなわち、リンゴ畑は観光農園とし、入園料を払った観光客に好きなだけ摘んでもらうのです。観光客が摘んだ後、残った小さなリンゴは加工へまわし、リンゴジュース、リンゴチップス、リンゴサイダーなどになります。

労働力を雇って丁寧に収穫するとなると、労賃コストがかかります。それを節約して観光客に摘んでもらうほうがコストもかからないし、楽です。

リンゴの観光農園には、大型バスで毎日たくさんの観光客がやってきます。国内だけでなく、マレーシアや台湾などからもやってきます。たしかに、東南アジアでリンゴ狩りのできるところなど、ここ以外にほとんどないようにも思えます。

結局、生食用のリンゴのほとんどは輸入リンゴで占められ、それが故に、ここで生食用のリンゴをつくる動機は生まれず、こうして観光農園+加工で十分やっていける、ということになります。

ある意味、経済合理的と言えなくもないのですが、こうなると、安全安心を確保するために手間暇かけるようなことはしなくなるでしょう。マラン市の果物加工業者は、「ほとんどの熱帯果物は化学肥料や農薬の心配をしなくてもいいが、リンゴは例外だ」と言っていました。

折しも、バトゥ市は有機農業を進めており、オレンジやグァバなどの有機認証を進め、生食用として売り出しています。リンゴも有機認証へ向けて手をつけたところですが、現状のままで果たしてうまくいくのか、疑問です。

インドネシア、いや東南アジアでも希少なリンゴ産地であるこの地で、生食用のリンゴが輸入リンゴを駆逐する、といったことはもはや起こりえないのでしょうか。それは、安全安心の果物というカテゴリーにリンゴは入るのだろうか、という問いでもあります。

インドネシアで見かける中国産のふじリンゴ。そうだ、自分が中学生ぐらいだった頃、たくさんの中国からの技術研修生が福島市のリンゴ農家に学びに来ていたっけ。このふじリンゴの技術は、もしかしたら、あの時の福島市で学んだ技術ではないのだろうか。

7月26〜28日、福島市の方々をこの地にお連れし、リンゴ園などをまわりながら、そんなことをふと思い出しました。今回の出張の簡単な活動報告を以下のリンクに書きました。

 福島市の皆さんとマラン市・バトゥ市へ

パサール・サンタは今

このところ、出張中の雑務でなかなかブログ更新ができず、個人的にも少しまずいなと思っているのですが、まあ、やむをえません。できる範囲でゆるーく書き続けていこうと思います。

昨日(7/24)、久々にジャカルタのパサール・サンタへ行ってみました。

パサール・サンタといえば、近年、3階部分の区画を若者たちが借りて、様々な小ビジネスを始め、活況を呈していると話題になっていました。一時は、入居希望者が後を絶たず、半年ごとに入れ替えとするほどの盛況ぶりで、伝統的な市場の活性化モデルとして注目されていました。

とくに、平日はオフィスで働く若者たちが土日のみここで小ビジネスをする、というのも結構あったので、昨日の日曜日、またあの活況に会えると期待して行ったのです。

行ってみたら、シーンとしていました。ほとんどの区画はシャッターが閉まったまま。閑散としていました。

あのかつての土日の賑わいはどこへ行ってしまったのだろうか・・・と訝しがって、開いていた小さな本屋の店主に話を聞きました。

曰く、数年前までは賑わっていたが、その後、急速に客足が減ったとのこと。客足が減るにつれ、短期的利益を目的に事業を行っていた人々が継続できなくなり、どんどん撤退していったとのこと。今も残っているところは、短期的利益を求めるのではなく、しっかりした経営理念のもとで中長期的観点から事業を行っているところだ、ということでした。

その小さな本屋も、大手書店などの流通に乗りにくい地方の小さな出版社の出す良書を集めて、細々とながら、それらを世の中へ紹介していくことを使命としている、ということでした。スラバヤやマカッサルの私の友人たちの名前が何人も出てきて、ちょっとビックリでした。こんな本屋がまだ頑張っているところに、何となく救われる思いがしました。

熱し易く冷め易い。そんなインドネシアの人々の気質が思い浮かびました。

この本屋の向かいには、麺を出すスタンドがあり、そこで食べてみました。これがオリジナルのなかなかの麺でした。

見た目はただの麺ですが、汁がややカレー味で、独特の美味しさを醸し出しているのです。ワンタンも美味しく作ってあり、想像よりもずっと工夫して作られていました。

そう、ほかのどこにもない味でした。そうしたオリジナリティがこうした事業を支えているのでしょう。

この店を切り盛りするアンドゥリ君は大学生ですが、メルボルンにいた兄がこの味を開発したのだとか。本人は、フィリピンへ行ってパイロットになりたかったが、家族の反対で諦めたのだそうです。

この店は今度、スカルノハッタ国際空港の新第3ターミナルにも出店を予定しているそうです。今後の展開が楽しみです。

多様性、まずは存在を認めることから

日本へ一時帰国して、いやーな感じの内容を取り上げたブログを読みました。ちなみに、このブログの執筆者の姿勢には強く共感しており、このようなことが起こってほしくないという気持ちです。

個人のあなたを集団でイジメるばかりで助けない社会

このブログでは、参院選の際に、安倍総理の選挙演説の周辺で、「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性が、大勢の人々によってその場から排除される様子が描かれています。おそらく、相当に度胸のある女性の覚悟を決めた行為なのでしょう。少しも怯まぬこの女性に対して、ちょっとびっくりするような言葉さえも投げつけられています。

おそらく、逆の場面、すなわち、安倍政権を批判する人々が大勢の場で、一人で政権を支持するプラカードを掲げる人がいたら、やはり同じように取り囲まれ、排除されるのだろうな、と思いました。

こうした選挙演説の場は一般に開放された場所であり、政権を支持する人も批判する人もいることは容易に想定できます。でも、演説している人の気分を害さないようにするためなのか、主張の異なる人を排除することが行われています。

「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた一人の女性に対して、なだめるように「あなたのためだから」という声が聞こえましたが、それはどういう意味なのでしょうか。放置すると暴力を振るわれるかもしれないから、お引き取りいただいたほうがよい、という意味なのでしょうか。その女性はきっと、それをも覚悟して、自分の主張を示し続けたのかもしれません。

こうした同調圧力は、選挙演説に限りません。日々の生活の中で、他と違うことをしようとしたときに、「悪いことは言わないから、やめておいたほうがあなたのためだよ」と親切に忠告されることは、珍しいことではないと思います。

あなたのため、とは何でしょうか。(あなたが)いじめられたり、差別を受けたり、場合によっては暴力を振るわれたりしないように、でしょうか。(あなたの)進学や就職に不利になる、という理由でしょうか。と同時に、騒ぎを起こされて波風立ったら困る、という自分の立場を守るため、でもあるのではないでしょうか。「そのへんのこと、わかってくれよ」というのが本音だったりするかもしれません。

日本では、警察がイスラム教徒を監視しているという話を聞きますが、真面目に暮らしているイスラム教徒がそれを心底支持するとは思えません。それは、今も「外国人監視部」(POA: Pengawasan Orang Asing)が警察にあるインドネシアで暮らした経験のある自分には、よく分かります。

「多様性の中の統一」をモットーとするインドネシアでは、通常、他人に危害を加えない限りは、その人の存在を認め、放置します。しかし、いったん危害を加えたならば、徹底的に摘発します。

そうした姿勢は、日本から見ると生ぬるく見えるかもしれません。でも、様々な宗教や種族からなる人々がいるインドネシアでは、そうしなければ国としての統一は維持できないのです。

自分と意見の異なる人がいるのは当たり前です。「そういう人もいるよね」とまずは存在を認め、たとえ目障りであっても、温かく見守り、拡声器などで騒いで演説の妨害をするような行為に至れば、しかるべき措置をとればよいと思うのです。

急遽、一時帰国

8月6日までインドネシア出張中なのですが、急な家族の事情があり、7月16〜21日に一時帰国することとなりました。

この期間、前々から楽しみにしていたカカオツアーのコーディネーターを務めることになっていたのですが、やむなく断念することになりました。

このツアーには、企業などの環境配慮・CSRなどの専門担当者の方々が参加することになっており、ツアーの現場の様々な事象から、面白くてユニークな意見交換や議論ができると、とても期待していたので、本当に残念です。また、今後、エコツーリズムを意識したインドネシアでのより深い学びのツアーを作っていきたいと考えていたので、今回のツアーを主催した方々と協働できないかとも考えていました。

自分勝手かもしれませんが、今回の件でそうした今後のお付き合いの種が無くなってしまわないことを祈るばかりです。皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

こうして、グダグダとブログを書いて、読んでくださる方々がいるということを感じられるのも、今ここに生きているからこそ、なのだということを改めてかみしめています。

クアラルンプールKLIA2空港にて

(インドネシア・バンドン南部の山間部で栽培されているアジサイの花)

アンゴラ、ブラジル、福島を結ぶサウダージ

7月8日、友人である渋谷敦志氏の写真展を見てきました。渋谷氏とは昨年、ダリケー株式会社主催のカカオ農園ツアーをご一緒して以来のお付き合いです。

今回は「Saravá~Brazilian Journey~」と題する写真展でした。1990年代半ばから20年以上、ブラジルと付き合ってきた渋谷氏の軌跡を感じさせるような写真が展示されていました。

写真展は7月14日まで、新宿コニカミノルタプラザで開かれています。詳しくは以下のサイトをご覧ください。

 渋谷敦志 写真展「Saravá~Brazilian Journey~」

合わせて、渋谷敦志写真集「回帰するブラジル」も購入しました。この写真集、アンゴラから始まり、そのすぐ後からは、ブラジル各地で過去20年間に撮影した写真の数々が続き、最後は福島で終わる、というものでした。

この写真集を貫くキーワードは、サウダージというポルトガル語です。

渋谷氏によると、サウダージとは、過ぎ去った時間への懐かしさ、何かが満たされない寂寞、心にはあるのに触れることのできない哀切、それらをぎゅっと詰め込んだ言葉にならない思いを表すようです。

渋谷氏は、彼自身の20年を超えた付き合いをしてきたブラジルに対するサウダージを抱きながら、写真の対象としての人々それぞれのサウダージに思いを馳せ、それを写真の中に表現しようとしてきたのかもしれません。

彼の写真の中の人々は、今を懸命に明るく生きているとともに、それぞれの人生の過去と今後を思いながら生きている、そんな様子を垣間見せています。それは、写真の中の人々の表情、とくにその目に表れているような気がしました。たまたま出会った被写体の彼らに対して、渋谷氏は、人間としての尊敬をもって、彼らの人生を映しだそうと誠意を持って向き合っている様子がうかがえる写真でした。

彼自身の、そしてブラジルでの被写体の人々の、サウダージが溢れ出してくる写真。そして、最後にそれが、東日本大震災の時に津波で家を流され、家族を失いながらも、前へ進もうとされている福島・南相馬の男性をめぐる写真で終わるところに、サウダージという言葉の持つ深さを感じたのでした。

渋谷氏は次のように書いています。

ーブラジル、アフリカ、そして福島。異なる三つの大陸をまたぎ、海を越え、サウダージは、ぼくを「いま、ここ」に連れてきた。そこから見える光景はかつての自分が思い描いていたものとはずいぶん違う。悲しい到達地と言えるかもしれない。失われた風景はもう戻らないかもしれない。でも、そこには心が残っていた。それは、人間が根源的に持つ生きる意志を確かめさせてくれるような何かでもあった。そんな心のよりどころのような場所に幾重にも立ち返り、生命の在り処にカメラを向けることで、未来を光で照らし出す可能性を探求しようとしているのだと思う。

渋谷氏の写真の真ん中には必ず人間とその人の人生がある、と思いました。サウダージを大切に大切にしながら、未来の光を映しだそうとする、真摯なカメラマンの姿がそこにはありました。

渋谷氏に教えていただいた、このサウダージというポルトガル語を、私も大事にしながら、前へ進んでいきたいと思いました。そして、これまで出会った人々やこれから出会う人々の未来に対して、もう一つ教えていただいたポルトガル語、サヴァーレ(祝福あれ)を送っていきたいと思いました。

途上国での我々の立ち位置

第2に、発展途上国における我々の立ち位置についてです。

日本の政府開発援助は、日本政府が相手国政府へ行う援助です。ここでは、相手国政府が行う施策は国民のためになっているという仮説があります。たとえ相手国政府が国民から信頼されていなくとも、その仮説を崩すわけにはいきません。政府以外へ協力するということはありえないのです。

相手国政府から虐げられたり、反政府勢力だと見なされる国民から見れば、相手国政府は敵であり、それを支援する日本も敵視されるかもしれません。多くの発展途上国では、国民は政府を信用していないことが多いのです。汚職、腐敗、内戦などにより、国民の全幅の信頼を得ている政府など存在しないのです。

援助関係者の多くは、否が応でも、そうした国家の手先になります。援助の仕事は国家間の仕事であり、それに従事するということは、国家目的に則って仕事をするということになります。

反政府勢力が強いところでは、そうした援助は、自分たちの敵である現政権を支えることになる、と見なされます。それを遂行する日本人専門家も、彼らにとっては敵の一部になります。このことを十分に自覚して行動しなければならないのです。

発展途上国では、外国人は、インドネシアも含めて、未だに金持ちで裕福だと思われる傾向があります。現地の一般の方々からすると、外国人は別世界の人間で、ともすると、自分たちよりも上の優れた人々、と思い込んでいる場合が少なくありません。援助や技術移転では、どうしても日本から相手国へ教えてあげる、という無意識の上下関係ができてしまいます。こうして、国家を背にしながら、教える側と教えられる側とのスムーズな関係ができ上がってしまうのです。

私もそんな形で長い間仕事をしていました。そして、自分が自分でなくなっていくような気配を感じました。国家の名の下に仕事を進めることで、現地社会に対して張ってきた鋭敏なアンテナがどんどん鈍り、アドミのことに関わり始めると、現地社会がどんどん遠くなっていくような感覚が現れてきました。

それがまだ自覚できるうちに、感覚を取り戻すために、あえて、山羊や鶏と一緒にエアコンなしの長距離バスに乗ったり、青物市場の中を歩きながら商人のおばちゃんたちとダベったり、外国人も日本人も来ることはない小さな食堂を食べ歩きしたり、そんなことに努める日々がありました。努めないと自分がダメになってしまう、という感覚もありました。

そうやって、できる限り現地の人々に自分を近づけようと努めても、結局は、やはり外国人としてしか見てくれていないのだ、ということを改めて思いました。外国人、日本人という一般名詞の世界しか作れていないのでした。

ともすると、途上国での我々の立ち位置は、国家を背負った場合、相手国政府に反発する国内勢力からは敵意を持たれる可能性があり、また、事業の中で教え教えられる上下関係がついてしまうと、それに安住してしまい、現地社会から遠ざかるような感覚が現れてしまいます。

そうしたことを自覚し、自分が自分であることを忘れない自分を意識しながら、現地の人々から敵と見られないためにも、国家と一体化しない自分を持ち続けることが必要ではないかと思いました。そして、そうは言っても、外国人として一般化して現地の人々からは見られているという自覚も常に持ち続けることも大事だと思いました。

今日は、正直言って、うまく書けず、書いたものを消しては書き直しました。書いていてもどかしく、自分の言葉になっていないような気がしています。

「日本は安全だ」という根拠は何か

テロ事件について、もう少し書いてみたいことが2つあります。

第1に、今回の事件では日本人7人が犠牲となりましたが、もし日本人が犠牲にならなかったら、これほどテロ事件が日本で注目されたのだろうか、ということです。日本人が犠牲になったことで、「危ない」という話が急に広まっているように思います。

シリアやイエメンやイラクやガザなどでは、連日のように、犠牲者が出続けています。あまりに長く続いているので、感覚が麻痺しているような気さえします。アメリカやヨーロッパでも、テロの犠牲者が出ました。でも、我々は日本にいて、日本は安全で、テロの話はどこか遠くの他所の話のように思っていたのではないでしょうか。そこで犠牲になった方々のことをどれほど気にかけていたでしょうか。これは自分も含めての自戒です。

世界は、日本人が犠牲になったから、急に危なくなったわけではなく、ずっと危ない状態が続いているといってもよいのではないでしょうか。むしろ、国家と国家の戦争しかなかった時代よりも、統制の効かない複雑な状況になっているような気がします。

日本は安全だ、という根拠があるとすれば、それは何でしょうか。今までのところ、イスラム国を名乗るテロ事件は起こっていませんが、これから絶対に起こらないという論理的な理由はあるのでしょうか。

テロではなくとも、街中でいきなり自動車が歩道へ突っ込んできたり、誰かを殺そうと人混みで騒いだりする事件は、日本でも起こります。テロ事件とそれらを一緒に扱うことはできないかもしれませんが、一人の国民としての危険からすると、同じことのように思えます。

すなわち、日本も含めて、世界中、どこでも突然予期せぬ危険に巻き込まれる可能性がある、ということを前提に、自分自身で危機管理をしなければならない、というふうに考えを変える必要があるのではないかと思います。誰も誰かを安全に確実に守ることなどできない、という前提に立つ必要があると思うのです。

それならば、我々は何もできず、家に閉じこもるしかないのでしょうか。守ってもらうことだけを願うならば、そうするしかありません。でも、それで生活ができるとは思えません。自分自身で危機管理をしながら、外の世界との間を行き来しながら、生活することになると思います。

それでも、日頃から情報収集をし、自分自身の危機管理上のリスクを少しでも下げる努力は必要です。外国人の溜まり場として有名な高級バー・レストランなどを避けたり、欧米系のホテルを避けたり、不用意に一人で夜の街をふらふらしない、深酒して街中で泥酔しないなど、日常のスリや強盗などを避ける基本的態度を身につけておく必要があります。

もちろん、言うまでもなく、政府や警察は可能な限り国民や住民を守る活動を行わなければなりません。でも、必要なのは、政府や警察に守ってもらうことで満足するだけでなく、自分も自分自身を守る行動を起こす、ということだと思います。

第2に、発展途上国における我々の立ち位置についてです。これについては、次回ブログで書きたいと思います。

日本人だから殺されるという不条理

7月1日にバングラデシュの首都ダッカで起きた大惨事。日本人7人のほか、イタリア人9人など20人が突然殺害されました。犠牲者の方々に心から哀悼の意を表します。

亡くなられた日本人の方々と同様、今JICAの仕事をしている自分にとって、とても他人事とは思えない事件でした。もしかしたら、ダッカのあそこにいたかもしれない。あるいは、ジャカルタで友人や知人と語らっている時に突然・・・。そんな場面を否が応でも想像せずにはいられなくなりました。

正直言って、このニュースをインドネシアのゴロンタロ州ボアレモ県で知ったとき、すぐに状況を理解することができませんでした。しかも、警察が突入する以前に、すでに殺害されていたとは・・・。犯人の目的はカネではなく、外国人を殺害すること、でした。

事件のだいぶ前から、テロリストから日本は「十字軍の一員」と見なされ、殺害対象になっているということが報じられていました。それでも、我々は「まさか」と思い、そのメッセージをこれまであまり本気で受け止めていなかったような気がします。

外国人であるがゆえに殺される、日本人であるがゆえに皆殺しされる、そんな馬鹿げた信じられないことが大真面目に起こってしまった・・・。本当に。ショックをまだ引きずったままです。

第2次世界大戦敗戦の苦い教訓と深い反省から、日本は、世界の人々から憎まれる国にならないように存在していこうとしてきました。それは、日本製品というモノを通じて、様々な経済協力を通じて、たとえ間接的にではあっても、世界中の人々がより良い生活を享受できるようになることを願ってきたのだと思います。

そして、我々のどこかに、これだけ色々してきたのだから、世界のすべての人々は日本に親しみや感謝の気持ちを持ってくれるはずだし、それが当然だ、という気持ちがあったのではないでしょうか。

それは、もしかしたら我々の思い込みだったのかもしれません。いや、思い込みだったと少し謙遜するぐらいがいいのかもしれません。おそらく、日本に好意を持っている方々の数は敵意を持っている方々の数をはるかに上回ることでしょう。でも、とても悲しいことですが、「日本人だから殺す」と考えている人がこの世界にいる、という想像力を持っていたほうが良いように思います。

テロリストの行為は非道であり、いかなる理由でもそれを認めることはできません。それがたとえ宗教や思想のベールをまとっていたとしても、です。

しかし、この世界には、特定の人種や民族を殺してきた過去があるし、今もヘイトスピーチで「〇〇人を殺せ!」といって恥じない人々も存在します。どうして、〇〇人が一つの人格や特徴で語れるのでしょうか。〇〇人にも、どの宗教にも、どの人種にも民族にも、良い人もいれば悪い人もいる、となぜ想像できないのでしょうか。

「〇〇人を殺せ!」などと叫ぶ人々は、本音ベースで付き合える、自分とは異なる宗教や人種や民族の友人や知人がいないのではないかと思います。

私は、たまたま何の因果か日本に生まれた日本人です。もしかしたら、アメリカに生まれたかもしれないし、たまたま親も日本人だった、という偶然を感じます。日本の外の世界で暮らすと、最初は日本人という目で見られますが、それがなくなっていき、私という個人として見てくれる友人や知人が増えていきました。私という個人があって、たまたま日本人だった、という感覚があり、私が日本人だから付き合う人よりも私が私だから付き合う人が増えていくのを感じてきました。

今回のテロリストの中には、英語で教育を受けた、恵まれた家庭のエリート予備軍が含まれていたとのことですが、外国を意識したからこそ、何らかの理由で外国人を嫌悪するようになったのだろうと思います。あるいは、自分が、腐ったエリートたちの予備軍であることに自己嫌悪を感じたのかもしれません。

そう、外国人だったら殺害する相手は誰でもよかった・・・。昨今、日本でも「殺す相手は誰でもよかった」といって殺人を犯す事件がたびたび起こっているのを思い出します。自分をこんな目に合わせた社会が悪い、誰かを殺すことで社会に天罰を、ということなのでしょうか。

海外であれ、日本であれ、いつ何時、そのような目に合わないとは言えない世の中になってしまいました。その意味では、残念ながら、あるとき突然自分が理由もなく殺される、ということを完全に防ぐことは難しいと言わざるをえない気がします。

そうであれば、開き直るしかないのではないでしょうか。今までと同じように活動を続けるしかないと思います。ただし、そのとき、いつそういう目にあっても後悔しないよう、瞬間瞬間を懸命に生きていく、という気持ちが今までよりも強くなるように思います。

日本は安全で海外は危ない、とも一概には言えないと思います。むしろ、日本の外へ出て行って欲しい。それは、自分が自分であることを取り戻すためです。日本人である前に自分であるということを。そうすると、世界は自分を日本人という色眼鏡で必ずしも見ていない、自分が何者であるかを見ているのだ、ということに気がつくはずです。

こんな状況にしたのは〇〇のせいだ、と誰かを批判したり、溜飲を下げたりして、何かを前へ進められるのでしょうか。我々自身が動くことによって、理不尽なテロや無差別殺人が起こらない世の中を作っていかなければならないのではないでしょうか。そして、そう思っているのは我々だけでなく、世界中の多くの人々が心からそう願っているということを知って、行動していくことではないでしょうか。

より良い世界を目指して活動したのに、今回のような不慮の死を遂げてしまった方々のことを胸に、日本人である私は、自分の中の「個人」をも大切にしながら、前へ進みます。

レバランを前に、トルコ、イラク、サウジアラビアで自爆テロが起こり、マレーシアでも爆弾事件があり、インドネシアでも7月5日、中ジャワ州ソロ市で警察を狙った自爆テロが起こりました。イスラム教徒にとって最も幸せで楽しいレバランまでわずか数日、それを味わうことなく、たくさんの方々が亡くなりました。こんなことをする者たちが、恥ずかしげもなくイスラムを名乗っていることに強い憤りを感じます。

インドネシアも明日はレバランです。神への祝福と平和を願う無数の祈りが世界中のモスクで捧げられることでしょう。私を含む非イスラム教徒も、一緒に平和の祈りを捧げられればと思います。

「支持政党なし」という政党

昨晩、福島から東京へ戻って、最寄駅の前の参議院議員選挙のポスター掲示板を見て、一瞬、目を疑いました。

「支持政党なし」と書かれたポスターが4枚、並べて貼られていました。候補者個人の名前ではなく、「支持政党なし」「政策一切なし」とデカデカと書かれています。

最初は、既存の政党に対する批判や風刺か。もしかしたら、既存政党に対する嫌がらせなのかもしれない、と思いました。きっと、翌朝には剥がされていて、ニュースで「悪質な選挙妨害」などと報じられるのではないか、と思いました。

ところが、家でインターネットで検索すると、「支持政党なし」という政治団体が存在し、党として選挙に出ていることを知りました。私の選挙区には4人も立候補しています。でも名前は分からないし、政策は一切ない、と言っています。

ホームページを見ると、「支持政党なし」党の党員は使者であり、議案や法案ごとに一つずつインターネット等を通じて国民に議決に参加してもらう、そこで賛成多数なら賛成へ、反対多数なら反対へ、議決権を行使する、とか書かれています。

何かのために政治的に結社するのではなく、また、そのために独自に議案や法案を出すこともしない、あくまでも現状に対して賛成か反対か、多数のほうへなびくという、徹底的に受け身の立場の政治団体と見受けました。

このような政治団体も選挙に参加できるのですね。この団体の中身を知らない人が、政治の現状への不満から、投票用紙に「支持政党なし」と書くのを期待しての行動なのかもしれません。

本当の意味で支持政党なしならば、「支持政党なし」党も支持しないのではないでしょうか。「支持政党なし」党の出現は、ほの暗い将来への動きをさらに象徴するもののようにも感じられました。

未来の祀りカフェに参加

6月26日(日)は、午後から福島銀行ビル12階で行われた「未来の祀りカフェ第1回」に参加してきました。

この「未来の祀りカフェ」は、8月に行われる「未来の祀りふくしま」に並行して行われる行事で、「ふくしまに学ぶ、ふくしまで学ぶ」をモットーに、福島の伝統や文化を福島の地でより深く学び、これからの福島の未来を創っていくための礎の一つにしようという意気込みを感じるイベントでした。

8月の「未来の祀りふくしま」は、「昨年に引き続き、東日本震災の現実を伝え、鎮魂と再生の祈りを込め、伝承していく新しい表現としての現代の神楽「ふくしま未来神楽」第三番を創作し、福島の総鎮守である福島稲荷神社に奉納、発表する」(ホームページより引用)ものです。

今日のカフェでは、まず第1部で、福島の神楽について学びました。福島県文化財保護審議会委員の懸田弘訓氏が神楽の基礎知識をユーモアを交えて分かりやすく教えてくださった後、市内にある金沢黒沼神社の十二神楽のうち、剣の舞、猿田彦(四方固め)、三人剣の3神楽が演じられました。

この金沢黒沼神社の神楽は、福島県内で最も古く(元禄10年頃)伝わったものらしいです。猿田彦の舞で使われた面は、鎌倉時代に彫られたもののレプリカで、オリジナルは大切に保管されているそうです。鎌倉時代にはまだここに神楽はなく、後に神楽を舞う際に猿田彦の面を流用したのだろうという解釈でした。

金沢黒沼神社には、蝦夷征伐という神楽があります。蝦夷征伐に来たヤマトタケルを酔わせてやっつけようとした村人たちが返り討ちにあう、というユーモラスな内容で、この神社にしか見られない珍しい神楽だそうです。

金沢黒沼神社はほぼ毎月のように神事や祭礼があり、地元の人々の信仰の厚さが偲ばれますが、他の神社と同様、氏子数の減少や後継者不足の問題に直面しているようです。

続く第2部では、福島県立博物館長の赤坂憲雄氏と詩人でこのイベントの仕掛け人である和合亮一氏との対談でした。

様々な内容がとめどなく話されましたが、言葉とは言葉に置き換えられないものがあることを理解するために存在するものであり、だからこそ言葉は大事にされなければならないのに、今は言葉が蔑ろにされているという危機感が示されました。言葉を大切にし、言葉を取り戻し、言葉へ戻っていく文化を新たな福島の文化として育てていく必要性が提示されました。和合氏は「人づくり、まちづくり、言葉づくり」を福島で取り組むべきものとまとめました。

第3部では、仙台を中心に、アートによるまちづくりに取り組んできたMMIX Labの村上タカシ氏が仕掛けてきた様々な取り組みが紹介されました。震災後にお年寄りがゆるく集える場所としての「おしるこカフェ」、津波が到達した学校に桜を植えていく桜3・11プロジェクトなどのほか、88歳の女性タツコさんがラップで歌う「俺の人生」も紹介されました。

88歳の新星ラッパーTATSUKO★88「俺の人生(HIP-HOP ver.)」

村上氏は、モノではなくコトのアート、建築型のアート、行為のアートがこれからますます必要になっていくという見解を示しました。イベント終了後に本人とも話しましたが、建物を建てない建築家としてコミュニティ・デザインを提唱する山崎亮氏に近いスタンスのように感じました。

この機会に、前からお会いしたかった赤坂憲雄氏や和合亮一氏とお会いできたのは良かったし、伝統芸能などを含めた形で、新しい福島を作っていくための本質的な部分に触れる良い機会になったと思いました。これから回を重ね、各回の内容を蓄積していくことで、このカフェが新しい何かを生み出す機会を創っていくような予感がありました。

なお、インドネシア出張と重なってしまったため、昨年に引き続き、今年も自分は8月の福島稲荷神社での「ふくしま未来神楽」の奉納を見ることができないのが残念です。まだ少し早いですが、今年の奉納の成功と盛会を心から祈念する次第です。

福島をダイバーシティ尊重の先進県に

昨晩、高知から東京の自宅へ戻ったのですが、今日は午前中に歯医者へ行った後、そのまま新幹線に乗って、再び福島へ舞い戻りました。

午後から訪ねたのは、「ふくしまダイバーシティシネマ&トーク」という催しです。22日に福島へ日帰り出張した際に知人から勧められ、急遽、参加を決めた催しでした。

まずは、「パレードへようこそ」というBBC制作の映画を鑑賞しました。1984年サッチャー政権下のイギリスを舞台に、性的マイノリティの若者たちがストライキを続ける炭坑労働者たちの支援へ動いた実際の話を描いた作品で、彼らに対する根強い社会の偏見とそれが少しずつ克服されていく可能性が映し出されている映画でした。

映画を観た後、アフタートークで性的マイノリティに関する基礎知識を確認し、感想を語り合う場が設けられました。

日本では、虹色で表現される「ダイバーシティ」は、一般に、性的マイノリティ(略して「セイマイ」というらしいことを知りました)を尊重することを指すようですが、性別だけでなく、宗教、種族、出自など様々な要素もダイバーシティの中に含まれてくると思われます。

セイマイは、本人がそうと打ち明けない限りは周囲が分からないので、それがしやすいような環境を作っていくことが求められるという特質があります。もっとも、それは、見た目ではなかなか分かり難い種族や出自や過去など、打ち明けた途端に差別や色眼鏡の対象となりうるようなものとも共通しているかもしれません。

たとえその人がどんな人であっても、性的マイノリティであっても、実は日本国籍を持っていなくとも、差別にさらされてきたコミュニティの出身だったとしても、忘れられないような屈辱や虐待を受けた過去を持っていたとしても、そうした方々が安心して暮らせる、安心して受け入れられる、そんな社会を作っていこうというのが、ダイバーシティの目指すところなのだと思います。

頭の中でダイバーシティを勉強し、「そのような社会にすべきだ」と言っても、上記のような方々を受け入れる社会にはなりません。一人一人が、この世の中には様々な人々が存在し、もしかしたら今、自分が接している人がそうなのかもしれない、という想像力をできる限り豊かにする努力を常に続けることが重要なのではないかと思います。そして、「なるほどね」「そういうのもアリだよね」と、多様な人々の存在を当たり前のこととしてフツーに受け入れられる能力や寛容性を自分で高めていくことなのだと思います。

そしてその能力は、マジョリティと思っている人だけでなく、マイノリティと思っている人にも必要なものです。でも、まずはマジョリティと思っている人から動く必要があることは言うまでもありません。

ふと、親を喜ばせたい一心で好きでもない勉強を無理やり頑張ってしまう子どもや、空気を読まなければならないと思い込んでいる会社人間や、何かのために過度な我慢を自分に強いている人たちのことが頭をよぎりました。彼らはマイノリティではないし、差別の対象にもならないだろうけれども、本当の自分を打ち明けられないという意味では、ある程度は同じなのかもしれません。彼らが本当の自分を安心して表現できる社会もまた、ダイバーシティの目指す方向に包含され得るのではないでしょうか。

だとするならば、ダイバーシティ社会というのは、様々な他者を尊重しながら、自分らしさを安心して表現できる社会ということになるのかもしれません。それは、特定の思想や考え方に染まり、それに合わない人々を排除していく社会(誰にも要求されないのに率先して自らをそれに合わせようとする人々さえ出現します!)とは正反対の、インクルーシブな社会、ということになるでしょう。

多様性の中の統一。人と違うということが力になる。そんなことを日常的に見聞きする、ごった煮の国「インドネシア」のことを思い出していました。そんなインドネシアでも、国家の名の下に、ある一定の方向へ人々を向けさせようとする動きはしっかりと存在しているのです。

今回の催しを主催したダイバーシティふくしまは、福島を多様性(ダイバーシティ)尊重の先進県にし、その重要性を全国へ発信していくことを目標に活動を行っています。東日本大震災や原発事故の後、福島は様々な入り組んだ差別や偏見の対象となり続けています。そんな福島だからこそ、ダイバーシティが大事だということを発信していかなければならないという気持ちが感じられます。

かけ違えたボタン

最初にかけ違えたボタンを後でかけ直すのは、難しい・・・ということを感じました。

ボタンをかけ違えたことを最後まで分からないままのケースも少なくないのかもしれません。でも、おそらく、かけ違えたことを知っていても知らないふりをしたり、かけ違えてしまったことをどう繕うかに全精力を傾けてしまう場合も多いような気がします。

何のためにそうするのでしょうか。

メンツ、見栄、保身。「真実は何か」「何が大事なのか」ということよりも、自分を、組織を、どうやって守るか、ということのほうが重要だと思い込んでしまうのです。

ときには、嘘をついたり、だましたり、ごまかしたりしてでも、自分や組織を守るために懸命になっているのではないか。そんな気がします。

この社会のなかで、そうしたことに費やされるエネルギーはどれほどのものでしょうか。それをもっと建設的な議論に使うならば、世の中はもっともっと良くなっていくのではないか、と思わずにいられません。

ちょっと優しい気持ちで、メンツや見栄や保身のために必死になっている人を「かわいそうだから助けてあげよう」とすると、私自身もまた、無駄なエネルギーを費やして、余計な仕事をやらなければならない羽目になります。

久々に午後11時過ぎまで、ノンストップで仕事をしてしまいました。

5月に行った、インドネシアのロンボク島、リンジャニ山のカルデラ内にあるセンバルン地区で見たあの光景(上写真)が、ふっと目に浮かんできました。

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