ようやくZOOMデビュー

外出自粛でテレワーク、インターネットを利用したテレビ会議が花盛りとなっていますが、私も今日(5/16)、ようやく、遅ればせながら、東京の自宅でZOOMデビューしました。

実は妻は、すでに友人とZOOMおしゃべり会をしており、先を越されていました。
ZOOM自体は、約1ヵ月程度前にすでに登録して、使ってみようと思っていたのですが、セキュリティ上の脆弱性が指摘され、使うのを躊躇していました。その後、Microsoft TeamやSkypeやGoogle Meetなど様々な手段が出てきて、どれをどう使うのがいいのか、悩んでいるうちに、時間が経ってしまったのでした。
今日のZOOM会議は、マカッサルに住む、友人のワスパダ・サンティン氏から誘われた以下のようなものでした。
テーマは、ハラル食品をどのようにインドネシアから海外へ出していけるか、というもので、アメリカ、オランダ、オーストラリアに在住のインドネシア人識者を交えてのミニセミナー、という趣でした。
実は当初、私もスピーカーに加わって欲しいと依頼されていました。でも、ハラルの専門家ではないし、ということでお断りし、一般参加者として会議に参加することにしました。
もっとも、ハラル食品の話であっても、イスラム教の教義など宗教的な話になっていくことが予想されたので、スピーカーとなっても自分だけ浮いてしまうのではないか、と思ったこともお断りした理由でした。
会議終了後、ワスパダ氏から送られてきた写真
会議の内容は、アメリカ、オランダ、オーストラリアでハラル食品がどのように扱われているか、ハラル認証はどうなっているか、インドネシア製品が各々のマーケットへ入っていく余地はあるか、といった内容でした。
私も楽しく視聴していたのですが、スピーカー3人のプレゼンが終わった後、進行役のワスパダ氏から急に振られ、コメントを求められました。全く準備をしていなかったのですが、即興で以下の4点をコメントしました。
1)日本では、ハラル食品がまだイスラム教徒だけの特別なものと思われている。
2)日本でのハラル認証は民間が行っているが、公的な裏付けがないので、それらのハラル認定が正しいかどうかを判断しにくい。よく知らない企業などを相手にした金儲けビジネスの様相もある。
3)日本からハラル食品を輸出するにしても、相手国によってハラル認証基準が異なるので、対応が難しい。マレーシア向けとインドネシア向けとで別々の対応が必要になる。
4)ハラル食品を広めるには、イスラム教徒以外の人々も消費できるユニバーサルで健康的な食品であることをアピールし、浸透させていく必要がある。たとえば、インドネシア製即席麺はハラルだからだけでなく即席麺として認知されてマーケットを得ている。
会議で発言することを想定していなかったので、パソコンのマイクの調整をしておらず、ハンドセットも使っていなかったので、私の声が小さくてよく聞こえなかった様子でした。それで、上記の4点のコメントをインドネシア語にしてチャット欄に流し、念のため、会議終了後、ワスパダ氏にも送りました。
会議には、最多時点で160人余が参加していました。インドネシア国内も、ワスパダ氏らの拠点である南スラウェシ州にとどまらず、スマトラ島のアチェからパプアまで、海外ではシリアのダマスカスからの参加者もいました。
地理的境界を超える、インターネット会議の可能性を感じさせます。参加者も大学の先生やイスラム教指導者だけでなく、学生や一般の方々も多数いた様子でした。
さあ、これでZOOMデビューしましたので、これからは大いに活用したいです。このブログを読んでいる皆さんで、私とコミュニケーションされたい方は遠慮なくご連絡ください。
また、「よりどりインドネシア」のオフ会を2ヶ月に1回、という形で定期的に開催してみようと思います。その他にも、インドネシアに関するミニセミナーや、日本人とインドネシア人とが入り混じって語り合えるような場も考えてみます。
皆さんからも、何かアイディアがあれば、どしどしお寄せください。ツールは、ZOOMでも、Microsoft Teamでも、Skypeでも、Google Meetでも、あるいは他のツールでも何でもかまいません(ツールについては、むしろ色々教えて欲しいです)。
よろしくお願いいたします。

浅草の新ハラルラーメン

11月9日、中アチェ県政府高官4名をお連れしての東京見物。

銀座でアンテナショップを見学した後、浅草に連れて行ったのだが、ランチをどうしようか思案して、ラーメンを食べに行った。ハラルの。

浅草でハラルラーメンといえば、成田屋が有名だが、今回行ったのは、田原町の「麺屋 帆のる 浅草店」。

頼んだのは、スパイシーラーメン。タンタンメン風のなかに、鶏チャーシューとメンマが入っている。

今回は2階で食事。2階の一角はカーテンで仕切られ、礼拝することができる。礼拝の前に体を浄めるウドゥは1階の洗面所で。1階と2階を移動するためのサンダルが用意されている。

4人とも、礼拝もして、すっかり落ち着いて、ランチを楽しむことができた。
帆のるは東京に4店、大阪に1店、そしてジャカルタに1店ある。ハラル対応なのは、東京の2店(恵比寿店、浅草店)、大阪なんば店、ジャカルタ店。
店の名前は、ホノルルへの出店を目指して名付けたとのこと。
浅草にムスリムのお客さんをお連れしたときにご活用あれ。おススメです。

イスラム新年の行進とブギスの甘~いお菓子たち

9月9~14日は、石川県職員の方々と一緒に、インドネシア・南スラウェシ州のワジョ県とピンラン県をまわっていました。この辺は、ブギス族のホームグランドでもあります。

今回の出張は、9月の2回目のインドネシア出張です。

9月11日はイスラム新年の祝日。でも、この日も朝から、ワジョ県タッカララ郡の田んぼを見に出かけました。一緒に行った農業省の研究員が「休みなのに~」とぶつくさ言っていましたが・・・。

ワジョ県の県都センカンの中心にある広場では、たくさんの人々が集まって、イスラム新年を祝っていました。

センカンからタッカララ郡へ向かう道中では、子どもたちの行進が続きました。マドゥラッサやプサントレンなどのイスラム系宗教学校のほかに、普通の公立学校の子どもたちも、皆で行進していました。

なんだか、昔、小学校の頃に、福島市制何周年かを祝う行事のとき、鼓笛隊の行進をしたのを思い出しました。鼓笛隊の行進には、福島市内のすべての小学校が動員されました。

こうした行進は、南スラウェシだけのものなのか、全国的に行なわれているのか。昔から行われているのか、そうでなければいつごろから始まったのか。もし、お分かりの方がいたら、教えてほしいです。

ガタガタ道を通って、ようやくタッカララ郡に到着。すてきな美人郡長さんのお宅に招かれ、まずは、ブギスのお菓子の洗礼を受けました。

一般に、クエ・バサ(kue basah: 湿り菓子)と呼ばれる、日持ちのしない生菓子です。いずれも、生地がしっとり、そこに椰子砂糖やら卵やらココナツミルクやらがしっかりと浸み込んで、甘さ炸裂! 一緒に行った農業省の研究員はジャワ人ですが、その彼女も「こんな甘いお菓子は食べたことがない!」と言っていました。

石川県職員の方々も「1年分の糖分を取ったような気分」とおっしゃっていました。

筆者は、時間がなくて朝食を抜いていたせいもあり、いきなりこのブギスの甘~いお菓子たちを4連発で食べてしまいました。

甘ければ甘いほど、それはお客をもてなすことを意味する、ということをかつてインドネシアに関わり始めた頃に学びましたが、美人郡長は「食べて、食べて」ともてなし上手でもあり、お菓子の甘さにすっかりとろけてしまいそうな気分になりました。

ブギスの甘~いお菓子たちの洗礼を受けた後、さっそく、天水に頼っているという田んぼをしっかり見に出かけました。

インドネシアの正副大統領候補ペア決定、その人物像は?

2018年8月10日、来年のインドネシア大統領選挙に立候補する正副大統領候補ペア2組は、正式に選挙委員会(KPU)へ届出をしました。今回は、とくに、副大統領候補の人物像について書いてみたいと思います。
インドネシアでは、2014年から有権者による直接投票で大統領を選ぶ直接選挙が5年ごとに行われています。また、立候補は、大統領候補と副大統領候補のペアとしての立候補になります。
さらに、実際の次の大統領選挙は来年、2019年4月17日に投票が行われます。今回からは、国会(DPR)、地方代議会(DPD)、州議会(DPRD Provinsi)、県議会(DPRD Kabupaten)/市議会(DPRD Kota)の議会議員選挙も同じ投票日の統一選挙になりました。
前回(2014年)までは、議会議員選挙が終わってから大統領選挙となるため、議会議員選挙の結果を見ながら立候補者を選べたのですが、今回からは、一年近く前に決めることになりました。
今回、立候補を届け出たのは、ジョコ・ウィドド大統領候補(現職)=マルフ・アミン副大統領候補のペアと、プラボウォ・スビアント大統領候補=サンディアガ・ウノ副大統領候補のペア、の2ペアです。この両者の一騎打ちとなる見込みです。
大統領候補は、ジョコウィとプラボウォという、前回2014年選挙と同じ対決となりましたが、副大統領候補は新顔です。どんな人物なのでしょうか。
++++++++++
現職のジョコウィと組むマルフ・アミンは、いわば、最高位のイスラム指導者という立場の人物です。イスラム知識人の集合体であり、イスラムの教義に基づいたファトワ(布告)を出し、ハラルか否かを決定する機関である、インドネシア・ウラマー評議会(MUI)の最高指導者であるとともに、イスラム社会団体として国内最多の会員数を持つナフダトゥール・ウラマ(NU)評議会議長(Rais Aam)を務めています。
一方、グリンドラ党のプラボウォ党首と組むサンディアガ・ウノは、現在、ジャカルタ首都特別州副知事を務めていますが、かねてから有望視されてきた若手実業家で、サラトガ・グループなどの総帥でした。ジャカルタの州副知事に就任してから、わずか7カ月で辞職し、副大統領候補となりました。プラボウォと同じグリンドラ党の幹部でもあります。
すでに報じられているように、近年、インドネシアではイスラムの政治利用と過激なイスラム思想の浸透が大きな問題となってきました。
これまで、ジョコウィ政権は、多数派であるイスラムの利益を軽視しているとして、たびたび非難されてきました。先のジャカルタ首都特別州知事選挙では、キリスト教徒のアホック前知事がイスラム教を冒涜したとの容疑をかけられ、数万人のイスラム教徒を動員したデモ等で圧力をかけられ、アホックは落選し、しかも有罪判決を受けて刑務所に収監されました。
アホックは、ジョコウィが大統領就任前にジャカルタ首都特別州知事だった時の副知事であり、アホックへの批判はジョコウィへの批判でもありました。
ジョコウィにとって、こうしたイスラムの政治利用を軽く見ることはできないという判断になり、次期副大統領候補は、イスラム教徒票をまとめられる人物でなければならないという判断になったようです。そして、おそらくそのためには、今、最も安心できる候補として、マルフ・アミンを選んだのでした。
他方、プラボウォは、そうしたイスラムの政治利用を通じて、ジョコウィと対決しようと動いてきました。実際、アホックを蹴落とす大勢のデモは、プラボウォを支持する者たちによって主導されました。今回も、副大統領候補を決める前に、イスラム指導者たちを集めて、副大統領候補に誰がふさわしいか、推薦させるという手法を使いました。そして、2名のイスラム指導者が候補として上がりました。
ところが、プラボウォはその2名のイスラム指導者ではなく、同じグリンドラ党の幹部であるサンディアガ・ウノを副大統領候補に決めました。巷では、サンディアガ・ウノが選挙資金提供を申し出たという噂が流れており、前回同様、選挙資金確保に苦しむプラボウォにとっては、資金のないイスラム指導者よりもサンディアガ・ウノを選好した、というふうに見られています。
++++++++++
ここに、非常に面白い対照、反転が見られます。
すなわち、イスラムからの批判を受けそうなジョコウィ側がマルフ・アミンを副大統領候補とし、むしろイスラムを政治利用して得票を確保しようとする一方、これまでイスラムを政治利用してジョコウィを貶めようとしてきたプラボウォ側が、推薦されたイスラム指導者ではなく自党の元実業家サンディアガ・ウノを副大統領候補にする、という展開だからです。
イスラムをシンボルとして使うのは、当初からそうしてきたプラボウォ側ではなく、ジョコウィ側、という反転です。
ここで、さらに興味深い疑問があります。二つ挙げておきます。
第1に、マルフ・アミンは、実は、アホックを貶めたイスラム教徒動員デモの首謀者の一人なのです。彼がトップのMUIは、「アホックがイスラム教を冒涜した」と見なしました。あのデモは、アホックの先にジョコウィを見据えていました。すなわち、本丸はジョコウィだったのです。その彼が、なぜ今、ジョコウィと組むのでしょうか。
第2に、サンディアガ・ウノはもともと、政治にはほとんど興味を示さない実業家でした。ところが、2015年に突如、グリンドラ党へ入党し、政治の世界へ入ります。そして、すぐにジャカルタ首都特別州知事選挙へ副知事候補(当初は知事候補でした)として立候補して当選します。なぜ彼は政治の世界へ入り、プラボウォとタグを組んだのでしょうか。
これらについては、今、色々と調べていて、いくつかの面白い事実がわかってきました。ここではまだまとめきれませんが、それも含めて、次の、8月22日以降に発行予定の情報マガジン「よりどりインドネシア」第28号(有料)のなかで、今回の正副大統領候補決定の背景について、詳しく述べてみたいと思います。

イスラム教徒にとっての喜びの日

今日6月25日は、言うまでもなく6月最後の日曜日ですが、全世界のイスラム教徒にとっては、1か月間の断食月を終えた喜びの日、イード(Eid)です。インドネシア語では、イドゥル・フィトゥリ(Idul Fitri)と呼ばれます。

世界中のモスクでは、夜明け過ぎから、ムスリムの方々がたくさん集まり、断食月を終えた自分をたたえ、アッラーへ感謝の祈りを捧げたことでしょう。日本でも、そんな光景を見ることができた場所もあったことと思います。

イードを迎えるにあたっては、新しい服などの物を揃えます。また、過去1年間におかした過ちへの赦しを求めます。こうして、新しい真っさらな人間となって、再び次の断食月までを過ごしていく、という日が今回は今日だったわけです。

何となく似ていませんか。私たちの新年に。新年を迎えるにあたって、除夜の鐘を聴きながら1年間に溜まった108の煩悩を振り払い、また新しい服に着替え、初詣に行って新しい年への願いをかける、清らかな自分になるのが、一般的な私たちの新年の迎え方です。

断食明けを祝い、インドネシアの各地ではたくさんの花火が打ち上げられました。最近では、新年の年明けの時にも、花火が打ち上げられます。しかし、スハルト時代の終わり頃の1990年代末までは、花火が打ち上げられることもなく、静かな断食明けのイードでした。新年もそうです。花火だらけになったのはごく最近のことなのです。

その意味では、かつてのインドネシアのイードは、日本の正月を思い出させるような雰囲気がありました。

今から26年前、ジャカルタに2年間滞在していた際、本場の断食明けを見たいと思い、西スマトラ州パダンで、知り合いの大学の先生の家族訪問(日本のお年始のようなものでしょうか)に付いて行ったことがあります。

敬虔なムスリムである先生はまず、自分の家の近くのモスクで、説教をし、近所の方々と一緒に礼拝を行いました。先生の家でお食事をいただいた後、車で出発、パダンパンジャンにある家族の家に立ち寄りました。そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受け、さらに車で、ブキティンギのご家族の家へ行きました。もちろん、そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受けました。

最初、さすがに本場のパダン料理なので、とても美味しくたくさんいただいていたのですが、段々にお腹がいっぱいになって、食べられなくなりました。正確に言うと、お腹がいっぱいになったという以上の理由がありました。

それは、一族を訪問して回るので、出てくる食事の味付けが全て同じだった、ということです。よく考えれば、当たり前のことなのですが、当時の私には、3軒目で初めて体でわかったことなのでした。

話は変わりますが、ジャカルタでは、カトリック大聖堂と大モスクが道路を挟んで隣にそびえ立っています。日曜日といえば、キリスト教の礼拝・ミサが行われる日でもあります。

イードの朝の祈りと教会の朝の礼拝が時間的にぶつかります。そこで、教会側は、今日の朝の礼拝の時間を30分遅らせて、イードの祈りの時間とバッティングしないように配慮したということです。ムスリムの方々からは、こうした教会側の配慮に対する感謝の言葉がSNS上に溢れていました。
ジャカルタだけでなく、マランなどの地方都市でも、従来からそのように配慮してきた、ということです。州知事選挙などを通じて、宗教的寛容への懸念が出ていると多くの人々が感じているからこそ、そんな教会の配慮を素晴らしいと思ったのかもしれません。
でも、これまで当たり前だったことを素晴らしく感じる、という世の中の空気の変化をどうしても感じざるをえないとも思いました。もう一度、昔のような「当たり前」という感覚へ戻っていって欲しいと思いました。

改修前のアチェ州バンダアチェ市のバイトゥラフマン大モスク(2010年10月)。
個人的には、インドネシアで一番美しいモスクだと思います。
スマトラ沖大地震の際、人々の心の拠り所となった重要なモスクでもあります。

インドネシア政治の連載記事を書いています

ここ数日、「ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む」と題して、4回に分けた連載記事を書いています。久々に、インドネシアの政治ものの記事を集中して書いているのです。下記のリンクから飛べます。

    第1回 / 第2回 / 第3回 / 第4回

なぜ書こうと思ったのかというと、メディアの伝えるジャカルタ州知事選挙の記事が表面的なものに留まっていて、とくに、イスラムという要素に目を奪われすぎていると感じたからです。

たしかに、インドネシアの9割近くの人口を占めるイスラムのことは十分に見ていく必要があります。でも、何でもかんでもイスラム過激思想と結びつけて、意味のない恐怖心を煽るようなことがあってはいけないと思うのです。

この間、イスラムを旗印として、ジャカルタで起こった何万人ものデモや集会がインドネシア政治に大きな影響を与えたかというと、私にはそうは思えません。インドネシア政治のドロドロしたリアルな部分は、あの大衆動員の陰でうごめいていて、主要グループの対抗構造が変わり始めた気配があります。

また、ジャカルタという一地方の首長選挙であるにもかかわらず、それが次の大統領選挙を視野に入れた流れの中で動いており、今後、安定しているかに見えるジョコウィ政権が必ずしも盤石とは言えなくなる可能性も見えてき始めたように思えます。

そんな私なりの分析を記事にしたのですが、あえて有料とさせていただきます。というのは、様々な記事の切り貼りやコピペ記事とははっきりと区別したいからです。

いつものこのブログのように、サラッと書いてもよかったのですが、今回は、クロノロを作り、けっこうな量のインターネット情報を読み込みながら、書いてみました。時間と労力をいつもより費やした分、分量も長くなってしまいました。

ジャカルタやインドネシアの現場にいないということは、巷のゴシップなどを含む一次情報へのアクセスが限られるというデメリットと引け目を感じないわけではありません。しかし、今までの自分の経験からすると、現場にいると、逆に入ってくる情報が限られてしまう、俯瞰して立体的に物事を考えられない、ということも起こります。

有料ではありますが、よろしければ、是非、ご一読いただき、払った分の価値がある内容だったかどうかをお知らせいただければと思います。もちろん、厳しいご批判も覚悟しています。よろしくお願いいたします。

政府エリートはなぜISへ合流しようとしたのか

1月26日、ISへ合流しようとしたインドネシア人とその家族が逮捕されたというニュースがありました。最初に報じたのは、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジア(CNA)でした。

このニュースが注目されたのは、このインドネシアネシア人が元財務省職員だったという点ででした。報道によると、彼の職位はIII/c級で、2016年2月に財務省を退職。疑惑が立たないように、8月15日にインドネシアを発って、まずタイに到着。その3日後にイスタンブールへ飛んだ、とのことです。

イスタンブールで彼らはイニシャルがIのインドネシア人と会い、隠れ家に連れて行かれた後、イスタンブールで家々を転々とします。そして、2017年1月16日にトルコ軍に逮捕されて警察へ連行され、1週間後にインドネシアへ送還されたのでした。

彼はオーストラリアのフリンダース大学に留学して公共政策の修士号を取っています。もし財務省でそのまま勤務していたならば、将来は安泰で、昇進も約束されていたはず。経済的にも恵まれていたのに、なぜ、ISに合流しようとしたのか、謎に包まれたままです。

ただ、これまで、インドネシアではエリートがイスラムへ傾斜する場面がいろいろありました。

1990年代以降、経済的に豊かになった華人系企業グループやそれを擁護する市場重視型エコノミストへの批判を強めたのは、イスラム知識人連合(ICMI)に集結した学者や知識人でした。ICMIは1990年に設立された知識人組織で、市場競争激化とそれに伴う格差拡大の原因は世銀・IMFによる自由主義的経済政策であると批判しました。

中央政府や地方政府では、ICMIに所属する官僚が徐々に主要ポストに就き始め、ICMIは単なる知識人連合ではなく、政策や人事にも大きな影響を与えるようになりました。そして、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比が拮抗している地方では、両者間のポスト争いが激化し、それが火種の一因となって、暴動が起こるような場面も見られました。

組織の中心メンバーには、欧米留学組も多数いました。でも、留学した者でICMIに加わらなかった者も少なくありませんでした。留学中、彼らに何があったのかは知る由はありません。でも、留学中の何かが、イスラムへ傾倒する者とそうではない者とを分けたに違いありません。

私の経験でもそうですが、福島の高校から東京の大学へ入ったときに、まず驚いたのは、福島にいたのでは想像もつかないような優秀な同世代の若者が東京には多数いるということでした。自分とは別世界の人々でした。そして、インドネシア大学に留学したときにも、まだインドネシア語がよく分からないなかで、優秀な学生たちの存在がとても眩しく見えました。

もしかすると、欧米などへ留学した者には、そうした優秀な学生たちがまさに「欧米」を体現した存在と映ったのではないか、と想像します。自分の国では優秀な学生だったのに、一生懸命勉強しても「欧米」に叶わない彼らは、どのようにして自分のプライドを守ろうとするでしょうか。

おそらく、そんな彼らを惹きつけるオルターナティブが、イスラムであるような気がします。すなわち、そこで改めて、自分がイスラム教徒であり「欧米」とは異なる者であるという自覚が強まります。そして、自分の努力が足りないのではなく、「欧米」であること自体が間違っている、その代替はイスラムである、といった感情が、イスラム知識人というカテゴリーを生み出したようにも思えます。

実際、インドネシア人留学生が海外でイスラムへの傾倒をむしろ強めていくという話は、よく聞きます。彼らがその社会から疎外されていると感じるほどに、自らのアイデンティティをそこに求めようとする傾向が強まるようにも思えます。

トルコで逮捕された元財務省の彼もそうだったのかどうかはわかりません。でも、留学先のオーストラリアで、あるいは財務省の中で、彼自身が自分の存在を否定されたり、認めてもらえなかったりしたとするならば、その代替となるアイデンティティのありかをイスラムに求め、そこに何らかの勧誘や洗脳が加われば、自分を虐げた社会への報復に自分自身を向かわせる可能性があるのではないかと思ってしまいます。

こうしたことには、おそらく、エリートであるかないかはほとんど関係ないのではないでしょうか。

どんな人間でも、自分のアイデンティティが一つしかない状態になると、極端な行動へ走る可能性が高まるのではないか、と考えるとき、その人のアイデンティティと思えるものを複数持つような状況を作ることが大事になってくるように思えます。

例えば、宗教以外に、自分の出自種族や、生活している場としての地域。出身校やサークルなどを含めても良いかもしれません。こうした複数のアイデンティティが確認できることで、自分の情緒も安定し、自分を極端な行動へ追い込む必要もなくなるのではないか。

そんなことを考えながら、改めて、様々な自分を内包して生きていくことの意味をかみしめたいと思うのでした。

新宿でハラル・ラーメンを食べる

先週、インドネシア・マカッサルから来訪した友人一家と一緒に、富士山、山中湖、御殿場プレミアムアウトレットモールへのツアーに参加した後、新宿のハラル・ラーメン桜花に連れて行きました。

この店のことは前から気になっていて、いつか食べに行こうと思っていたのですが、なかなか機会がなく、今回、友人を連れて行くという名目で食べに行くことができました。

午後7時、東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑駅近くにあるこの店に到着。すでに、店の外で5〜6人が待っていました。おー、人気店なのか。

冷たい風に吹かれながら、友人一家と待つしかありません。店の外には椅子が4つ置かれ、寒さよけの毛布も用意されていました。

お客さんはマレーシアから観光で来たカップル、インドネシア人の家族、そして我々。店の前に順番待ちの名前を書いていると、中から女性店員が出てきました。

すると、私の顔を見て、何の躊躇もなく、「今まだ時間がかかります」とインドネシア語(マレーシア語ではない!)で話しかけてきました。あれ?と気づくまで、しばし時間がかかりましたが。都内の某大学で勉強している留学生でした。

満員の店内をのぞくと、客はインドネシア人がほとんどで、他に中東系のグループ。ラーメン店なのに、なかなか席が空きません。

寒風のなか、待つこと40分。ようやく中に入れました。そして、なぜ席がなかなか開かなかったのかがわかりました。

この店の夜のメニューは3つのコース・セットしかなかったのです。スパイシーコース、普通コース、ベジタリアンコースの3つで、ラーメン以外に、鶏つくね(+80円で牛つくねも可)、ラーメンのトッピング用の鶏の焼肉・煮卵・ベビーコーン、麺を食べた後のスープをかけるご飯、がつくセットでした。

普通のような、ラーメンだけさくっと食べて店を出る、というものではありませんでした。

このセットの出てくるのに、意外と時間がかかるのでした。そして、客は、飲み物を飲みながら、このセットメニューをゆっくり食べるというスタイル。これなら、なかなか席が空かないのも無理はありません。

麺は茹で加減がちょうどよく、具がスープの中に入っていないので、スルスルと食べることができました。スープはあっさり系の海鮮味ですが、煮干やエビの味が前面に出るタイプとは一線を画していました。

私は普通セットを頼んだのですが、日本の一般的なラーメンを食べている身からすると、今ひとつ、味がおとなしすぎて、飽きてしまうような味でした。クセになるような味ではなかったです。

カウンターだけの店ではありますが、回転率の早い一般的なラーメン店とは違う店でした。お客さんは皆外国人で、日本人の客をターゲットにしている感じはありませんでした。おそらく、ハラルだからという理由で通う客はいても、常連客を狙っているようにも見えませんでした。

それでも、友人一家は大変満足し、とても感謝されました。自分一人で食べに行くことはないと思いますが、次回、また、ムスリムの友人が来訪し、希望があれば連れて行きたいと思います。

ラーメン桜花のホームページはこちら。http://www.m-ouka.jp/

影絵芝居への批判をめぐって

ジャカルタで今日、ホットな話題となっているのが、ワヤン・クリッ(影絵芝居)批判です。

ワヤン・クリッというのは、ジャワの伝統的な影絵芝居で、水牛の革や角で作られた人形(下写真はその一つ)に灯りを当て、ガムラン演奏をバックに、ダランと呼ばれる演者が一人で人形の操演と語りを行うものです。

この影絵芝居を批判する垂れ幕がジャカルタ中心部で現れたことが、ツイッターなどの写真で見つかり、話題となっています。

その写真の一つは、例えば、以下にあるようなものです。

 VIVAニュースサイト

そこに書かれているのは、直訳すると「影絵芝居を演じるのはイスラム法(シャリア)ではない」、すなわち、影絵芝居はイスラムにそぐわない、という意味に取れます。ほかにも、「影絵芝居はイスラム教徒の文化でも教えでもない」「影絵芝居の上演を固く禁止する」といった垂れ幕も現れました。

インドネシアのワヤン・クリッ(影絵芝居)は、むしろイスラム教を広める媒体として使われたという歴史があり、こうした垂れ幕に対して、疑問を呈する声が起こっています。

最近は、映像や写真を加工して虚偽の情報を流すことが横行しているため、この写真も加工したものでイスラム教徒同士の分断を狙った陰謀ではないか、といった説まで出ていました。

インドネシアのイスラムは、とうとう自分たちの土着文化までをも目の敵にし始めたのでしょうか。それほどに、単純に急進化しているのでしょうか。

今回の事件は、そのように単純に受け止められるものではありません。

実は、ちょうど、ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック州知事候補と組んでいる州副知事候補のジャロット氏が、アホック=ジャロットの名前を前面に出さずに、影絵芝居のイベントを開いていたのです。ジャロット氏は影絵芝居の愛好家として知られています。

影絵芝居を批判する垂れ幕は、その影絵芝居イベントへ行かないように促すことを目的として、対立候補ペアの支持者たちが作ったものと察します。

しかし、その文面だけから見ると、あたかも、インドネシアのイスラムが代表的な自国文化に対する寛容さえも失っているかのように捉えられてしまいます。

今回は、そうではないと確信しますが、過去の歴史を見ると、そういってただ笑って過ごせばいいものでもないことに留意する必要があります。

かつて、南スラウェシ州では、伝統的な民族舞踊にイスラムの要素を入れるべきだとして、政府が介入して、踊り手の衣装などに改変が施されました。バリ舞踊でも、ムスリムの踊り手が踊る場合に、肌を出す女性の衣装にクレームがつくという事態が起こっているようです。

それ以前にも、偶像崇拝的な農耕儀礼や先祖伝来の民話なども、イスラムの教えに合わないという理由で禁じられ、迫害されるような事態がありました。

国民の多数派であるイスラムこそ、他者や少数派への配慮や寛容が必要であることは、多くの国民に共有されているのですが、一部の勢力が政治的理由からイスラムを利用する可能性は依然として高いと言わざるをえません。それら勢力による政治利用の自己制御が効かなくなったとき、寛容できる余裕を失い、社会は分裂へ向かう可能性が高くなるのではないかと思われます。

アメリカに対しても日本に対しても、この影絵芝居批判騒動と同じような雰囲気を感じてしまうのは、私だけでしょうか。