禅と瞑想

予定されていた仕事はほとんどすべてが延期または中止となり、出張に行くこともできず、インドネシアが恋しい気持ちが募るなか、今は東京の自宅で毎日を送っています。
このままで暮らしが成り立っていくのか、など悶々とする日もあれば、まあ何とかなるさ、と楽観とも諦めともつかないような日もありますが、精神的に揺れる私を家族が支えてくれていることをありがたく思う日々です。
そして、このブログやFacebookなどを通じて、また時にはZoom等での皆さんとのコミュニケーションにも支えられているなあと感じています。感謝いたします。
今日(6/10)は、今のところ、何か新しいことを前向きに、誰かのために、と思える日でした。そんな気分になるきっかけを得たのが、何気なく朝、視ていた「禅と21世紀」というテレビ番組でした。
様々な大事な言葉が語られていました。とくに、禅と瞑想はどう異なるのか、という話が心に沁みました。
禅を学んだ欧米の方々などのおかげで、欧米社会にも瞑想が根付いてきています。そこでは、瞑想は何のために行われるのでしょうか。マインドフルネスという言葉もよく聞きますが、それは、今、この瞬間を大切にする生き方、ということのようです。自分がどう自分らしく生きるか、ある意味、本当の自分をどう生きるか、という話なのかもしれません。
ところが、それは禅とは異なる、という話が出ていました。禅は、自分を開いていく、周りのものとの関係性のなかで開いていく、環境のなかに解き放ち、自分と周りの環境との境界がなくなっていく、自然や環境とつながっていく、ということが禅の根本の考え方だという話が展開されていました。
すなわち、瞑想やそれに基づくマインドフルネスは、自分をどうするか、自分を強くする、という自分の中へ閉じていくものである、と捉えられ、自分を開いていく禅とは反対の方向性を持つ、というのが禅の立場からの見方のようでした。
新型コロナウィルスの影響を受けた新しい社会という話の文脈で、私たちはどのように生きていくかが問われていることはたしかです。そのときに、私も含めて、自分をどうするか、自分はどう生きていくのか、自分をどう高めていくのか、という自分のことを考えることが多いような気がします。
同時に、物理的に他者と接触しない日々は、他者を思う想像力、自分が一人ではなく様々なものとの関係のなかで生きているのだ、という感覚をも再認識する日々のような気もします。
自分だけが生きているのではない。人間以外のもの、環境を含めた様々なものとの関係のうえで、自分が生きていて、周りのものや環境が心地よいもの、健やかなもの、楽しみや希望に満ちたものでなければ、自分の生も成立しない、と思い至ったとき・・・。
自分を他者や環境に対して開いていくのだなあ、と思ったのでした。自分が他者や環境をどうにかするのではなく・・・。
そこには、嘘・偽りや見栄、世間からの評価や勝ち負けなどは、必要ありません。ありのままの自分を受け入れ、他者や環境に対して自分を開いていく。もしかすると、富や名誉や名声などを得ることはなく、生活していくのも楽ではないことでしょう。
でも、自分が様々なものを世の中で構成している一つで、それらがすべて関係性のなかにあると自覚したとき、これまでの世間での常識や評価とは違う、勝ち負けや強弱を超越した、誰かが誰かを思う、他者や環境を想像できる、そんな生き方をすることで、今のやや悲観的な未来に、多少なりとも地に足の着いた希望をのこすことができるのではないか。
禅と瞑想の違いをつらつら考えながら、そんなことを想いました。
東京の自宅の庭は、いつの間にか、アジサイの季節を迎えていました。

天理を初めて訪問した

6月11日、天理大学でゲスト講義を行うため、初めて、天理を訪問しました。

大阪から近鉄で、大和八木と平端で乗り換えて、平端から近鉄天理線に乗り、終着が近鉄天理駅。ホームが4本もある、立派なターミナル駅でした。

ときにはきっと、天理教の信者さんたちでホームに人が溢れるのでしょう。とにかく、大きくて立派な終着駅でした。

駅を降りて、少々町歩き。と、不思議な町の案内図がありました。おやさと案内図、とあります。

地図の中に、「水口」「名東」「兵神」といった名前の書かれた広い区画があります。これらは、信者の方のための宿泊施設である詰所のある場所のようです。

通りの両側にこうした詰所がいくつもあり、かなり古い建物もあれば、回収して綺麗な建物もあります。
ちょうどお昼時だったので、何か食べたかったのですが、天理の名物というものが分かりません。とりあえず、良さそうと思って入ったのが、とんかつ屋のとんよし本店。名物というカツ丼を食べました。

一番少ない「並」でこのボリューム。ご飯の上にサクサクのカツが2枚のっています。これに中、大とあるのですが、店のいたるところに貼られた色紙などを見て納得しました。

いうまでもなく、天理大学や天理高校の御用達の店だったのです。スポーツで有名な彼らを支えているのがこの店、なのでした。

近鉄天理駅の前では、誰も立ち止まって聴く人がいないのに、ひたすら自分の身の上話をし続ける信者や、踊るように祈りを捧げる信者がいました。

さて、天理大学のO先生が迎えに来てくださって、キャンパスへ向かいました。授業まで時間があるので、入ったのが、天理大学参考館。ここの展示は、なかなか面白いものでした。

天理教会が世界で布教活動を行った際に、各地で収集してきた相当に貴重な品々が展示されています。いずれも年代物で、おそらく50年以上前のものが相当あり、そのコレクションはなかなかのものです。

例えば、ニューギニア島のセピック川流域地区の仮面のコレクション。

これもかなり古いものです。こんな大きいものをたくさん収集し、よくここまで運んできたものだ、と思います。

他にも色々と珍しい貴重なものがあり、好奇心がどんどん刺激されてくるのですが、講義を行う時間が迫ってきたので、泣く泣く参考館を後にしました。

たぶん、また来るでしょうな。ここはほんとに楽しい!楽しい!

一般公開されているので、皆さんにもお勧めします!

そして、この後、「キャリアデザイン2」という講座のなかで、インドネシアの社会ビジネスを題材に、援助からビジネスへ、経済ビジネスから社会ビジネスへ、という講義を行いました。内容は割愛します。