自由大学の講義を受け始める

東京の表参道に「自由大学」という場所がある。大学という名はついているが、文科省認可の大学ではない。

 自由大学

教えてみたい人が講座をつくり、学びたい人が集う。カルチャーセンターとも違う。5~6回程度の連続講義で、けっこうしっかり学べる。

でも、入学試験や資格試験に合格するために学ぶのでもない。就職を考えて受ける講義ではない。

自由大学」の受講生には、年齢も性別も、何の制限もない。学びたい人なら誰でも集えるのである。

教えてみたい人は、講義計画を作って、「自由大学」のなかでのレクチャー・プラン・コンテストでプレゼンし、その審査を経て、講義として魅力的であれば採用され、「自由大学」で教えることが可能になる。

ユニークな講義がたくさんある。昆虫食学、穴学、未来の仕事、20年履ける靴を育てる、自分の本をつくる方法、などなど、実にユニークだ。

教わる人にとって、魅力的な講義とはなんだろう。

こうしたことを考えて、実際に講義計画を作ってみる、という目的をもった、Lecture Planning学というのを今回受講している。

一般の大学だと、講義計画は大学の教師が作る。それもOKだろう。だが、この自由大学では、こんな講義をしたいという発想はむしろキュレーターから生まれ、その発想に合う教師を見つけてくる、という感じである。講義を作るにあたっては、キュレーターの役割がずっと重要なのだ。

そういえば、昔、研究会を組織したときに、誰を研究会の委員にしてみたいか、それはなぜか、なんていうことを考えたものだ。自分が主査の研究会で、自分の人選した委員と一緒に研究会を進め、成果物を一緒に出す、といった作業は、とてもやりがいのある、楽しい仕事だった。

自分は、その意味で、教師よりもキュレーターのほうが向いているのかもしれない。

そして、自分が講義を作るだけでなく、講義を作るノウハウをより確実に身につけたうえで、日本中・世界中のどこででも、そうした学びの場が生まれるような、お手伝いができるようになるのではないか、と思い始めた。

社会教育というのともちょっと違うかもしれないが、それを包含できる。フリースクールというのともちょっと違うかもしれないが、それも包含できる。とくにローカルな場でこそ、そんな学びの場づくりを促していけるのではないか。

コミュニティ再生の場として、従来の公民館はどのような役目を果たすようになるのだろうか、といったことも頭に浮かぶ。友人のなかには、もっとゆるい市民による場づくりにCO-MINKANという名をつけて、広げていこうとしている動きもあり、自分も個人的に賛同している。

来年以降の方向性が少し見えてきた。中世のボローニャで、学びたい者が集まって自然に生まれていったのが、「大学」の源泉の一つだとするなら、損得や利害とは無縁な、小さな学びの場づくりを少しずつ広げていくことに意味があるのではないか。

いろいろなことを考えながら、2月初めまで、表参道でLecture Planning学の講義を5回受けてみる。そして、その先も構想している。

面白くなってきた。