台中で食べ歩き

8月4日、帰国前に立ち寄った台中で、台中在住の友人と食べ歩きをした。というか、結局、台中に1日いて、食べ歩きしかしなかった。

何を食べたかについては、以下を参照してほしい。

【台中】今回の台湾食べ歩き第1弾

アジアでは、いろんな場面で、食べものに救われている面がある。

さあ、今日は日本へ。

【台中】今回の台湾食べ歩き第1弾

しばらくこの食べ物ブログを更新していなかった。面白いものを食べていないわけではなかったが、「インドネシアあるくみるきく」の更新を優先させて、こちらの更新に至っていなかった。

今回、8月の休暇一時帰国の前に、台湾・台中に寄り、友人に付き合ってもらって、しっかり食べ歩きをしてきた。

友人が「おいしい小龍包屋さんに連れて行く」というので、それがあるというトップシティ(遠東百貨)へ。台中の地元の人に大評判で、台中を訪れた政府要人も必ず寄るというその店は、ディンタイフォン(鼎泰豊)だった。

そこには長い行列。待ち時間90分、だった。

もしかしたら、本場のディンタイフォン(鼎泰豊)は東京やジャカルタのそれとは味が違うかもしれない、との期待を抱きつつ、予約番号をもらって、とりあえず、同じトップシティ12階のフードコートへ向かう。

まずは、寧波の看板のある店で、排骨定食。排骨にかかっているタレがご飯とよく合う。

次は、やっぱり、パパイヤミルク。台湾に来たら必ず飲みたい私の大好きな飲み物だ。

90分経ったので、ディンタイフォン(鼎泰豊)へ向かうと、すでに予約番号は呼び出された後で、さらに10分ほど待たされて、店内へ。

頼んだのは、小龍包、カニみそ小龍包と、苦瓜のしょうゆ漬け。

本場・台湾のディンタイフォン(鼎泰豊)、あんなに行列ができていたので、さぞ味は段違いだろうと期待していたが、味自体は、もちろんさすがにおいしいのだが、やジャカルタのものとあまり変わらない感じがした。 そう考えると、豚肉を使っていないジャカルタのディンタイフォン(鼎泰豊)がいかに健闘しているかがわかった。

ディンタイフォン(鼎泰豊)の後、デザートを食べに向かったのは、台中駅前の宮原眼科。名前は眼科だが、眼科があるわけではない。昔、日本時代に眼科だった建物をお菓子屋兼カフェとして使っているとのことだった。

1階がお菓子屋さん、2階がカフェになっている。1階でパイナップルケーキを買った。実はここのパイナップルケーキは、台中の有名店の一つ「日出」のそれだった。酸味のあるチーズ味のバージョンと甘いバージョンの普通の二つ。
2階に上がって、注文したデザート。これが秀逸だった。
まずは、2種類のアイスクリーム+フルーツ。とくに、紅茶のアイスクリームが素晴らしかった。
次に頼んだのは、チーズケーキとフルーツの組み合わせ。これも素晴らしかった。

これらの素晴らしいデザートと一緒に味わったのが、台湾でしか味わえないお茶「東方美人」。ストレートだが味わい深いお茶だった。おまけに、ミニ月餅も出された。

この後、向かったのは、春水堂。やはり、台中に来たら、ここのタピオカミルクティーを飲まないわけにはいかない。

この春水堂、7月27日に、東京の代官山に支店をオープンさせたとのこと。評判と値段はどうなのだろうか。

そして、最後にたどりついたのは、天天見麺店の支店。ここで、老北京酢醤麺(北京風伝統的ジャージャー麺とでも言うのか)を食べた。太い手打ち麺に肉みそが面白いようにからんで、なかなかのおいしさだった。

今回は、台中での食べ歩き入門編といったところか。まだまだ行けなかったところがたくさんある。またそのうち、台中を訪れたら、続きをしたい。

台湾食べ歩き第2弾は、8月16~17日、台北にて。どんな食べものに出会うだろうか。

休暇帰国!

8月3日から17日まで、スラバヤを離れ、台湾経由で休暇帰国する。原稿締切もできる限り休載にしていただいて、しっかり休もう、と思っていたのだが・・・。

6日に大阪、7日に名古屋、9日に東京で講演の予定を入れてしまった。休暇なのに仕事を入れる、自分はまだ仕事と休みのメリハリが付けられないのだとちょっと反省している。

それでも、今回の最大の楽しみは、行きと帰りに寄る台湾。行きは台中、帰りは台北に1泊ずつし、しばらく会っていなかった友人と再会、食べ歩きとなるのが楽しみだ。

最後に台湾に行ったのはいつだろうか。おそらく、1990年代前半、もしかすると20年近く行っていないような気がする。あの頃の記憶ももう薄れていて、しかも、今や新幹線(台湾高鉄)も走っているというではないか。

インドネシアばかり見ていると、ついつい、アジア全体がどのような勢いで進んでいるかに鈍感になってしまう。インドネシアもけっこう発展したなと思っていても、実は、タイやマレーシアはさらにそのずっと先を走っていて、変化の度合いがずっと大きいことに驚いたりしたものだ。

果たして台湾はどうなのだろうか。

上記以外に、福島の実家に行って、3年前に亡くなった父の墓参りをする。あの震災の前に父は亡くなった。家族への感謝にあふれた言葉を残して。私は、父に感謝されるようなことをした覚えはなく、むしろ謝るべきことが多い。ともかく、1年に1度は父の墓前で会話したくてしかたないのである。

家の外では、予約時間の30分前に来てしまったタクシーが待機している。これから、スラバヤのジュアンダ空港へ。休暇帰国中に、人や食べ物や出来事とのどんな出会いがあるのか、 本当に楽しみである。

醜い顔

数日前、鏡で自分の顔を見て驚いた。そこには、醜い顔の自分がいた。

小説を書いているのではない。自分の顔を本当に醜く感じた。何という顔。

いろんなことがあって、いろんなことを考えていて、気分が高ぶれなかった。笑う気にもなれなかった。子連れの通りすがりの人が、私の顔を見て「あの人に怒られないようにね」という声が耳に入ったりもした。無表情で、ムスッとして、微笑のできない自分がいた。

ものすごいストレスがあるわけでもない。難しい問題を自分が抱えている訳でもない。自分でもなぜそうなのか分からない。でも、何かに対して怒っている。その何かがはっきりしない。

そしてふと鏡で自分の顔を見た。醜い顔があった。

形だけでも変えよう、と思って、昨日、ジャカルタでの用事が済んだ後、散髪した。さっぱりした。

散髪した後、なじみの麺屋で麺を食べ、その後、ジェラードを食べた。少し気分がすっきりした気がした。

ジャカルタの宿舎へ戻って、鏡をみた。いつもの自分の顔に戻っていたような気がする。すてきな顔と自分では言えないが、醜い顔はそこになかった。よかった。

そして、いつの間にか眠ってしまった。気がつくと午前3時半。7時間ぐらい寝ていたことになる。久々によく寝た。こんなに寝たのは本当に久しぶりな感じがした。そのあと、3時間ぐらいうたた寝した。幸い、今週は、本当に久々に原稿の締切がないのだ。

原稿を書かねば、といつも睡眠時間を気にしていた。2時間仮眠して原稿、と思っていたのに、寝過ごしたので、午前4時に起きて原稿・・・、といった日々。生活は不規則になった。

これが醜い顔の大きな原因だったような気もする。

でも、それだけではない、もやもやした気分がある。

自分が今何に情熱を持っているのか。それがちょっと怪しくなっているからかもしれない。他人に対して自分の発している情熱のサインが、本当の自分の心の中の正直な情熱のサインではないのではないか、と。その二つは決して相容れないものではなく、むしろ、相乗効果をもたらすと信じてきたのだが、このところ、ちょっとパラレルになっているような気がするのだ。

どうしてこうなったのか。自分でもよくわからない。いろんなことを考えてしまう。インドネシアのこと、日本のこと、家族のこと、次の世代のこと、福島のこと、生きていくということ・・・。

でも、醜い顔はもうごめんだ。毎日、鏡の前でピースサインをしてみることにしよう。

スラバヤへ戻って

7月8〜21日、シンガポールと日本へ行ったため、スラバヤを離れていた。7月9日にシンガポール、7月11日に東京、7月17日に広島、7月18日に福山で講演してきた。結局、家族と一緒に過ごせたのはわずか3日だったが、東京の盆の墓参りをしたり、妻と久々に食事をしたりすることができ、充実した濃い日本滞在だった。

シンガポールや日本での講演で、まだまだビジネス関係者のインドネシアへの期待が高いことを実感した。しかも、単に「儲かりそうだから何かやりたい」という理由ではなく、真剣に前向きのビジネスを考えようとしている方々とお会いできたのはとても有益だった。 そして、昨今のジャカルタ周辺の投資環境の状態に懸念を抱いている方々が多いことも印象的だった。私が東ジャワや中ジャワの状況を紹介すると、真剣な眼差しで聞き入っている方々が少なくなかった。

インドネシアとビジネスを始めたい方々には、是非とも成功してもらいたいと強く思う。そして、そのためのお手伝いを一生懸命させていただきたいとも思う。ただし、これからのインドネシアにとってプラスになるようなビジネス、インドネシアと一緒に自らが成長していけるようなビジネスを創っていけるように、お手伝いをしたいのである。それが、回り回って、日本に対するより深い信頼や愛着心をインドネシアのなかに埋め込んでいくことにつながると信じるからである。

もっとも、私がお手伝いできることは限られている。一人の人間がすべて万能な訳ではない。様々なプロフェッショナルと人的関係を作りながら、自分が間接的にお手伝いできる範囲を広げていきたいと思っている。人は、いろんな人に助けられながら、そしていろんな人を助けながら、生きていくものだと思う。

インドネシアと日本の、そしてアジアと世界の、将来を意識しながら、価値のある活動をしていきたい、という高い理想を掲げていたい。その実現へ少しでも近づいていくための、自分の立ち位置をきちんと見定める時期に入ってきているようにも思える。

だまされ続けるのか、あきらめるのか

参議院議員選挙が予想通りの結果となり、安倍政権は信任され、衆議院と参議院の「ねじれ」が解消された。これにより、景気回復へ一層の弾みがつくという好意的な見方と、憲法が改正されて戦争への道を進むのではないかと心配する見方とが表れている。これについては、今後の展開を注意深くみていくしかない。

それよりも、私が問題にしたいのは、「我々はだまされ続けるのか、あるいはもうあきらめるのか」ということである。選挙が終わって、東電は福島第1原発から汚染水が海洋へ流出していたことを初めて認めた。以前からその疑いが指摘されていたが、これまで東電はそれを否定してきた。

海流出、東電が認める 第1原発の汚染水(福島民友)

もう2年前のことは忘れたのか。東日本大震災が起こってすぐ、ネット上では福島第1原発でメルトダウンが起こり始めた可能性が指摘されていた。日本では経験したことのない大惨事が起こる、と。

このとき、政府は「メルトダウンはない」と言い切り、ネット上の情報はデマと決めつけ、国家予算を使った監視の対象となった。そして、ネット上での予想通り、爆発が起こり、後の検証で、ネット上で指摘されていたのとほぼ同様の経過でメルトダウンが起こっていたことが明らかにされた。

政府は正しい情報を流さなかった。もし「知らなかった」というなら、政府は存在の意味をなさない。知っていたとしても、政府は嘘をつき続けた。パニックを起こさせないために、という理由で。このとき、政府は決して我々を守ってくれない、と悟った。

そして、今も嘘をつき続けている。汚染水が地下水に入り込み、その一部が海洋へ流出する可能性は相当に前から指摘されていた。でも、東電はそれを認めなかった。今回もまた、予測不可能だったのだろうか。知らなかったのだろうか。知らなかったとすれば、それはそれで大問題ではないか。

この問題に関するメディアの扱いは大きくない。多くの人々の反応が「ああ、そうか」で終わってしまうのか。

安倍政権は、原発再稼働を公約としている。福島県向けだけは「県内原発はすべて廃炉」と公約しているようだが、それを全国向けには明示していない。しかし、東電は、福島第2原発の再稼働の可能性を否定していない。「全国向けに再稼働を公約としている」という理由で、福島第2原発を再稼働させようとするのではないか、との危惧を持っている。

我々は、このままずっと、だまされ続けるのか。先のブログでも書いたが、「人の言うことをきく」ことを長所とする人間が増えた社会は、こうした公式発表を鵜呑みにし、だまされ続けることを自ら積極的に選択する社会になるのではないか。そして、「おかしい」と異議を唱える人間をあたかも異常であるかのように扱う社会になるのではないか。

一番大事なのは生活、だからお上に逆らわないほうがいい。それは一理ある。戦争遂行中の日本も、スハルト政権下のインドネシアも、多かれ少なかれ、そのような態度にならざるを得なかった。

しかし、民主化後のインドネシアでは、自分の意見を自由に述べる状況が普通になり、昨日の在ジャカルタ日本大使館前での発電所反対デモのような光景は当たり前になった。

翻って日本は、自ら積極的に、お上に対して従順な人間になろうとする傾向が強まっているような気がする。民主主義国家ニッポンで、それを「お上に強制されたから」というはずがない。参議院議員選挙を通じて、原発再稼働と憲法改正を公約とする政権を強く支持したのである。あとはそれに従え、である。民主主義のなかで、人々が自らそれを選択したのである。

そして、我々はだまされ続けるのか。いや、もうあきらめるのか。

だまされ続けるわけにはいかない。あきらめるわけにはいかない。

戦わなければならないのだ。覚悟を決めて。

長所は「人の言うことをきくこと」という若者たち

7月初め、日本の某大学の先生がスラバヤを訪れ、私に話を聞きたいといってきた。その先生によると、最近の若い世代は日本の外へ出ていこうとしない傾向が顕著で、海外で働いている人の話を伝えることで、彼らの意識を変えたい、というのがインタビューの趣旨だった。

私の生き方が果たして若い世代の参考になるのだろうか。世間から見れば、40代で安定した職場を辞め、その時々の幸運に助けられながら、裕福さとも、安定とも、名誉ある地位とも無関係な生き方を選択してしまった私の話など、彼らは果たして聞くのだろうか。

その先生曰く、学生と面接をしていて、彼らに自分の長所を尋ねた際、「言うことをきく」「言われたとおりにできる」「規則に従う」ということを自分の優れている点として答えた者が多かった、という。

時代は変わったのだろうか。大学生は学問するために大学へ来た、そこで求められるのは批判的思考だ、と私はずっと思ってきた。自分で考えるということを鍛えはじめる場が大学だと思っていた。今、日本の大学で作り出される人材は、人の言うことを(批判的に考えることなく)そのままその通りにできる、ということを自分の長所という人材なのか。にわかには信じがたい。いや、信じたくない。

「人の言うことをきく」ということを、冗談や受けを狙ったり、皮肉を込めたりして言うのではなく、真顔で本当に自分の長所と思っているなら、あたかも、自分から積極的に人間をやめようとしているかのように思えてしまう。

しかし、その状況は学生らだけに帰せられるものなのだろうか。

大学の教師は、学問や研究の中身ではなく、自分の学生の就職率で評価される傾向があると聞く。少子化で経営が最重視されるようになった大学にとって、お客さんである学生に来てもらわないことには話が始まらないのだ。

学生の親は、親心として、子供に苦労を掛けさせたくない。できるだけ冒険せずに、楽にそこそこ安定した人生を歩んでいってもらいたい。大学へやるのは世間体もあり、大学ぐらいは出ておいてもらいたい、ということか。

研究という本分を重視してもらえない教師。自分が安心したいがために子供の将来を案ずる親。

本来ならば、大学では、経営者がしっかり経営して、教師にはじっくり研究に集中してもらえる環境を作るべきではないか。

本来ならば、子供には自分で自分の将来を切り開いていく力をつけて託し、何かあった時に支えになってあげるのが親の役目ではないか。

学生が外に目を向けないのは、学生だけの問題ではない。教師、親、すべてが絡んで、外に目を向けさせることを誰も望んでいない環境が作られてしまったのではないか。

今の日本の閉鎖的な状況を作り出している素の一つがここにある。「人の言うことをきく」、批判的な目を持たずに育ってきた次の世代がまもなく将来の日本を形成していく。自分の頭で考えることをよしとしない人間を作り続ける社会の将来が怖い。

「こうなったのは、しかたないんだ。従うしかないんだ」。

そんな世の中ではない。もっと、前向きの明るい世の中を創っていかなければならない。

アール・イズ・ウェル!

2日に1回更新が目標のこのブログも、しばし間が空いてしまった。日本に帰国中で、東京の自宅にいると、やはり自宅で家族と一緒にいるということが、生活のリズムを変えることになるのだと感じる。日頃、一緒にいないことの後ろめたさもあり、ついつい家族と一緒の時間を求めてしまったりする。

それでも、原稿の締切や講演の時間は容赦なくやってくる。インドネシアで一人でいるときよりも、もっと上手に時間を使わないと、すべてをうまくやり抜けていけない。本当は、完全な休みを作って、もっとメリハリをつけたほうがよいのだが、なかなかそうはいかなくて困っている。

先日も、ある連載の担当者が休みを取るというので、2本分をまとめて事前に提出してほしいとの連絡があった。私だって、休みなので休載してほしいと言えばよいのだろうが、連載という性格上、なかなかそうも言えない部分があり、8月の休暇帰国中も結局、原稿も講演も通常通り行うことになってしまった。

明日は東京で朝10時から夜6時まで立て続けにアポが入り、その足で新幹線に乗って広島へ向かう。新幹線の中でゆっくり休みたいところだが、金曜締切の原稿2本や上記の事前に出す原稿2本の構想をまとめる必要がある。

おっと、その前に、明日に1日締切を延ばしてもらった連載原稿にこれから取りかからなければ。

こうした合間を縫って、3連休最後の今日は妻とインド映画「きっと、うまくいく」を観に行ってきた。この作品は、コメディータッチではあるが、本質的な部分をじっくりと考えさせるとても良い映画だった。

そして、この映画の最も重要なセリフを口ずさむ。アール・イズ・ウェル!アール・イズ・ウェル!と。

怒濤の1週間が終わり、次の怒濤の・・・

今週はこれまでにも増して体力的にきつい1週間だった。

月曜から金曜まで、どんなことをしたのか書き始めたのだが、全部消した。そんなことをこのようなブログで記録したところで、自己顕示以外の何物でもない。

プロフェッショナルは、大変だったことを他人に見せずに、あたかも簡単にさらっとやっているかのように見せなければならないのだ。

もっともっと、厳しい毎日を送っている人々は世の中にたくさんいる。自分など、まだまだ序の口に過ぎない。そう思って、精進しなければならないのだ。

そして、自分一人でそれをやり遂げたと思ってはならないことも肝に命じなければならない。有形無形のたくさんの方々に支えられながら、一つ一つ、やるべきことをやっていけるのである。

毎週あるいは毎月書いている連載やニュースレターも、読者の方々がいるから「書こう」という意欲が湧いてくるのである。こうした作業を通じて、ある意味での自分にとって重要な金銭的なものに限らない「資産」と「信用」を作っているのだと思っている。ありがたいことである。

そう思えば、何日も下痢に苦しんだり、睡魔と闘ったりしても、いずれ回復すれば、それらもまた心地よい記憶として自分の人生の中に刻まれていく。

明後日から2週間はシンガポールと日本。今週に負けないぐらいタフな毎日が待っている。そして、そんな日々がこれからもずっと続いていく。それを前向きに受けとめて進めていける自分であり続けたいものである。

ブルーバードタクシーが来ない

7月1日からジャカルタに来ている。先日、ジャカルタの友人宅からタクシーで宿泊先へ行くために、ブルーバードタクシーを呼ぼうとした。

まず、ブラックベリーのアプリで「今すぐに」と呼んだ。5分、10分、20分、アプリの経過報告には「タクシー探索中」の文字しかない。これはだめだと思い、アプリでの予約を取り消して、今度は電話でタクシーをお願いした。その後、5分、10分、20分、タクシーは来ない。

ジャカルタで最も信用され、スマホやブラックベリーでも配車可能なブルーバードタクシーなのに、これはいったいどうしたことなのか。やむを得ず、通りに出てタクシーを探す。友人たちも協力してくれ、やっとブルーバードタクシー1台を確保した。

このブルーバードタクシーは、私の予約を見てきたのではなかった。たまたま通りかかっただけである。ほどなく、ブルーバードから電話がかかってきて「近くにタクシーがいないのだが・・・」というので、すでにブルーバードタクシーを捕まえたと話すと「じゃあ予約はキャンセルしておきます」という返事。お詫びの言葉ひとつなかった。

捕まえたブルーバードタクシーの運転手によると、配車は地域ごとで行っており、たまたまその地域にタクシーがいないと、配車されない仕組みだそうだ。つまり、タクシーのいない地域へ他の地域からそこへ配車する形にはなっていない。おそらく、ブルーバードタクシーはGPSを活用して配車しているはずだが、GPSで区切られた地域だけを見て配車している様子。無線ならば、そんなことはないはずだ。

技術進歩でタクシーもスマートになったとはいえ、このような弊害も起きるのだと感じた次第。やはり、人間が技術を使いこなせないと、サービス水準はむしろ落ちるかもしれないのだ。ブルーバードタクシーの一件で、そんなことを思った。

 

マカッサルへ行ってよかった

前回のブログを書いた後、急にどうしてもマカッサル国際ライターズ・フェスティバル(MIWF 2013)へ行きたくなり、飛行機のチケットを購入し、6月29日の最終日だけ参加した。やっぱり、マカッサルへ行ってよかった。

午前中参加したセッションでは、3人が「10年後の自分のビッグ・アイディア」というテーマで話をした。ボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長は、環境への関心を深め、本当に社会の役に立つビジネスを行いたいと10年前に思い、それを実現させようと努めてきた。

GEインドネシアのアリフ氏は、日頃、無味乾燥で効率性を求められる職場だからこそ、魂を忘れないために、毎週金曜日に、社員がインターネット上に詩を投稿しあう活動を続けている。現場のエンジニアが編み出す珠玉の短い詩に心を打たれた。

オーストラリアから来た詩人であり大学教師でもあるルカ氏は、アボリジニや虐げられた人々が自己のアイデンティティを回復し、尊厳ある生活を取り戻す手段として、詩の活用を進めている。企業内のチームワークを高めるために、詩を作って発表することの効用を熱く語ってくれた。

詩にはそんな力があるのか、という思いにふけりながら、ふと、故郷・福島のことが頭をよぎった。再生・復興へ向かう福島で、詩の果たす役割がもっとあるのではないか。福島を忘れないことを目的に詩を綴り続ける和合亮一氏や、小学校からの詩作活動を長年にわたって進めている「青い窓」という運動。福島にはたくさんの有名無名・老若男女の詩人がいるのだ。

午後は、「植えること、書くこと」というセッションに出席した。午前中も話を聞いたボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長、自然と人間との共生について現実に即して書いた本の執筆者のポール氏、都市生活者が身の回りで植物・作物を植える活動を進める「植えるインドネシア」の地方支部「植えるマカッサル」に関わる大学生のシーファ氏、の3人が発表した。

セッションでは、友人で司会者のイダ氏から私もコメントを求められ、日本で都市の若者たちで農村へ向かう動きがあること、震災などを経て自分たちの「生きる力」を得るために農業が見直されていること、植えるという行為はすでに国境を越えて世界中に広がっていること、などを話した。

会場の外では、「植えるマカッサル」がペットボトルを切ってそこにホウレンソウなどの苗を植えたコーナーもあり、参加者が自分のツイッター名をつけ、その成長記録をツイートする、という試みも行われていた。この苗が大きくなったら、畑地に移植するのである。植えることが書くことにつながる、という試みでもある。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバルは6月25日から開催され、29日夜がフィナーレ。いつものごとく、開始予定時刻の午後6時半から大幅に遅れ、午後8時半ごろから開始した。友人のリリ・ユリアンティ氏が主催者を代表して述べた挨拶は素晴らしかった。

デモなどマイナスイメージでメディアに取り上げられるマカッサルで、実はこのような創発イベントが行われていることを皆でツイッターやFBでどんどんゲリラ的に発信しよう。このイベントは国際的であると同時に、マカッサルのアイデンティティを深める意味も持っている。誰にでも開かれていて、若い参加者がどんどん増えている。もっともっと、皆でこのイベントを盛り上げて、世界中のライターが集い、マカッサルがより輝けるようなイベントにしてきたい、と。

リリ氏の圧倒的なスピーチの後、インドネシア東部地域の若い詩人たち5名が次々に詩の朗読をした。まだ20~30代の若者たちが生き生きと自分の言葉で詩を読み上げる。その勢いと若々しさがとてもまぶしく、インドネシアの未来、とくにインドネシア東部地域の未来を垣間見るような時間だった。

フィナーレの最後は、クリスナ氏による詩の朗読で締めくくり。マカッサルの伝統衣装をまとい、伝統楽器をバックに、熱のこもった朗読のパフォーマンス。マカッサルがうねりとなって、観ている者に押し寄せてくるような、そんな気がした。

マカッサル滞在は実質わずか1日。でも、マカッサル国際ライターズ・ワークショップの最終日に参加しながら、マカッサルの大切な仲間たちに再会できたのは至福の喜びだった。彼らといろいろ話をしながら、自分の心の中に何とも表現できない熱い想いがどんどん溢れてきた。

3月末に借家の契約を終了し、マカッサルに居場所がなくなった。今回は久々にホテルに泊まった。それでも、マカッサルは旅行で訪れる他のインドネシアの都市とは同じではなかった。今、住み始めて3ヵ月のスラバヤとも根本的に何かが違う。

そう、マカッサルはやっぱり、私が帰ってくる、私が本当の自分に戻れる、大事な「故郷」なのだ。改めてそう、深く思えた。

もう一度、マカッサルに住みたい、と心底思った。涙が出てきた。自分の深いところから出てくる涙だった。自分が忘れてはいけない「原点」をもう一度確認したような気がした。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバル2013

私のマカッサルのRuma’taの仲間たちが、昨日からマカッサル国際ライターズ・フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF 2013)を開催している。

今年でたしか3回目となり、年々、規模も大きくなってきた。今年はずいぶんと協賛企業が増えたようで、資金的にも少し余裕ができた様子である。

最初の頃は、企業回りをして資金提供をお願いしても断られることが多く、かなり苦労していた。きっと、来年、再来年と、軌道に乗るにつれて、運営はよりスムーズに行くようになるだろう。

もともと、バリ島のウブド国際ライターズ・フェスティバルに刺激を受けて始めたものだが、昨年のフェスティバルに行った際、参加者からは、ウブドのよりも参加者間の距離が近く、濃厚な議論ができて有益だった、というコメントを聞いた。たとえ規模が大きくなっても、その良さを活かせるような運営をしていって欲しいものだと思う。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバルのウェブサイト(英語)は以下の通り。

Makassar International Writers Festival 2013: My City My Literature

いまでは、学生デモなど暴力的なイメージで有名になってしまったマカッサルだが、実はこうしたクリエイティブかつ地域文化に根ざした活動がしっかりと根づいてきている。

新しい文化の生まれる場所として、マカッサルがもっと世に知られるようになって欲しいし、そうなっていくことへ自分も関わっていきたいと思っている。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバル2013は、6月25日から29日まで。うーん、何とかして行きたい・・・。

石油燃料値上げがようやく実施

先週金曜、インドネシア政府は石油燃料値上げを正式に発表し、土曜日午前零時をもって実施された。プレミアムガソリンがリッター当たり4500ルピアから6500ルピアへ、軽油が4500ルピアから5500ルピアへの値上げである。

たしかに、石油燃料値上げは他の物価上昇へ影響する。すでに、公共交通機関の料金は全国各地で15%程度上昇した。この土日にジャカルタへ出張してスラバヤへ戻ってきたら、スラバヤの空港タクシーの料金が、これまでの87,000ルピアから100,000ルピアへ一気に上がっていた。窓口に手書きで「新料金」と書かれていた。

断食月を前に、便乗値上げが横行することだろう。しかし、これまで何年も石油燃料値上げがなかったにもかかわらず、物価は常に上がり続けてきた。それがなぜか消費者物価上昇率の公式発表数字に反映されてない印象がある。

おそらく、わりと農業生産が好調だったため、消費者物価を支える食料価格が比較的落ち着いた動きをしているためだろう。しかし、輸入製品のあふれる都市部では、物価上昇が抑えられているという実感を得たことはほとんどない。

最低賃金も大幅に上昇する中で、この数年、インドネシアの人々は豊かさを実感しているはずだが、ずっとインドネシアをみてきた身からすると、物価上昇への不満はずっとあったように思える。でも、石油燃料値上げによってそれが国民的反政府運動へ向かう気配はない。

本来もっと早くすべき政策が先延ばしとなり、ようやく今になって実施した、という感じである。将来が見通せるようになったインドネシアは、駄々っ子のような刹那的な反対デモや暴力に訴えなくなって行くプロセスに入ってきたのだろうか。

【スラバヤ】台湾お粥 @ Yung Ho

ワニ子さんのブログによると、最近、スラバヤにもバリの有名お粥店Laota(老大)の支店ができた様子だが、それ以外にも、私の好きなお粥屋がご存じYung Hoである。

6月15日は、魚粥(Rp. 12,000)に高菜炒め(Rp. 13,000)と叉焼(Rp. 23,500)を加え、自家製リャンティー(Rp. 8,000)の組み合わせで夕食とした。

この店では、たくさん並んだおかずから好きなものを好きなだけ取れるのが面白い。 台湾お粥屋なので、豚肉のメニューも揃っている。

魚粥は、細かく切ったピータン、白身魚、エビ、揚げ玉が入っていて、油条を入れる通常のものとは若干異なっていた。お粥はあっさりしていて食べやすいし、量もさほど多くはない。

お客さんには台湾人もけっこういる様子。その日も、中国語が飛び交っていた。

Yung Hoは、お粥の店とシーフードの店が30メートル離れて建っているが、ほどなく、シーフードの店のほうへ統合される様子である。そうそう、ここは豆乳もおススメである。

Yung Ho
Jl. HR Muhammad No. 385, Surabaya

学生と「ハウルの動く城」を観る

6月15日、スラバヤ市内の私立ドクトル・ストモ大学で、日本語科の学生さんと一緒に日本映画を観ながら語り合う会、に行ってきた。

今回、彼らが観たいといってきたのは、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」。おっと、これは日本人監督の作った日本映画ではあるが、ストーリーには日本が何も出てこないではないか。この映画を観て日本を語ろうとしているなら、ちょっと認識不足ではないか、などと思いながらも、とにかく出かけてみた。

真面目な日本語科の学生さんなのだ。映画を観る前に、映画の中に出てくる日本語の台詞から単語を抜き出し、その意味を確認している。でも、あまりにも機械的な訳なので、黙ってみていられなくなり、大げさなジェスチャーを交えて、意味を説明してみた。すると、「初めて知りました」という反応で学生の目が輝きだした。あー、彼らは生きた日本語に触れていないのだな、と思った。

いよいよ映画上映。「ハウルの動く城」は前にも何度か観ているが、やはりいいものはいい、という感じがする。ソフィーの声を吹き替え分ける倍賞千恵子はさすがだなと感心しながら観ていたら・・・。

隣のモスクからアザーンが。学生は何の躊躇もなく、キリのいい場面かどうかも何も考えず、映画を途中で止めた。アザーンが終わると、何事もなかったかのように、再び映画を再生した。

映画を観終わった後、学生たちと感想を述べ合った。やはり思った通り、学生たちは表面的なあらすじを追うのに精一杯で、表現の裏にある作者の意図などまでは思いが至らない様子だった。それでも鋭い質問があった。「なぜ、最後は、戦争を終わらせようというハッピーエンドになるのですか」という質問である。たしかに、そこがこの映画のちょっと?マークの部分ではある。

学生たちと一緒に考えてみようということにして、意見を出してもらった。「サリマンの敵国の王子が案山子にされていた魔法が解けてしまったから」とか「対立するどちら側にも立たなかったハウルが生き残ったから」とか、いろんな意見が出た。この点については、私も確たる答えを持っていなかったので、その辺で話を終わらせた。

しばらく映画の議論をインドネシア語で続けた後、学生たちから「日本語で話をしたい」というリクエストがあったので、日本語に切り換えて話を進めようとした。日本語を勉強するインドネシア人の学生からは、もっと日本語で日本人と会話する機会を増やしたい、という希望があったので、これはいい機会だと思った。

しかし、学生たちから日本語での話しかけが出てこないのである。だって、彼らが日本語を話す機会を欲しているんでしょ、と心の中で思いながら。どうやら、ほかの友達の前で、自分が間違った日本語を話しているのを見られたくない、恥ずかしい、という気持ちがある様子である。この辺り、英語で悪戦苦闘している日本の学生にも共通するかも、と思うような態度であった。

我々日本人ネイティブからすると、インドネシア人にとって日本語は外国語なんだから間違って当たり前、恥ずかしく思えるほど日本語はまだできないだろうから、どんどん話してみたらいいのに、と思ってしまう。せっかく、日本人ネイティブと接触できる時間なのに。私としてはちょっと残念だったが、ヒトのことはいえないと思った。

なぜなら、日本人が英語やインドネシア語を学ぶときの態度にも、彼らと同じような部分があるのではないかと思ったからだ。大してできもしないのに、あるいはだからこそ、よそ様にその様子を見せるのがはばかれる、という態度である。日本人の場合には、英語と比べてインドネシア語を下に見たり、あるいはインドネシア(人)を見下しするような態度だと、なおさら、インドネシア語を学ぶという話にはなりにくくなってしまうかもしれない。

それにしても、こんな形の映画鑑賞会で、彼らには何か役に立ったのだろうか。その点については、私はあまり自信がない。でも、時々、こんな会があって、日本語を勉強したいという学生に何かやる気を感じさせるきっかけ作りになるのなら、そのお手伝いは是非したいと思うのである。

【スラバヤ】Nasi Goreng Jawa @ Depot Gang Jangkrik

我が家の近くのDepot Gang Jangkrik(「コオロギ横丁の軽食堂」とでもいうか)は、味の良さでいつも重宝している常連店である。何を食べても外れがない。

私にとっては、夜、ちょっと遅くまで仕事をして、クタクタでも、我が家に着く前に「コオロギ横丁の軽食堂」があると思うだけで、どんなにか、心がホッとすることか。そんな店が我が家の近くにあるという安心感がある。

6月9日の昼食に食べたのは、Nasi Goreng Jawa、すなわちジャワ風ナシゴレンである。

ジャワ風と聞いてすぐ思いつくのは、ドロッとした甘いソースのケチャップ・マニスで味をつけたナシゴレン。ジャカルタでもどこでも、普通よく見かける茶色っぽい色のナシ・ゴレンである。

ところが、ここのジャワ風ナシゴレンは、違うのである。味付け自体は、揚州炒飯ほどあっさりはしていないが、通常の中華系炒飯の味付けに似ている。「ジャワ風」という所以は、実は、少量の麺がナシゴレンのなかに入っていることにある。

ジャワ島の小食堂やワルンで定食「ナシ・ラメス」を頼むと、肉や野菜とともに、必ずご飯の上に麺が少量のってくる。普通の家に招かれても、大抵、ご飯のほかに、おかずとしてインスタント麺を茹でたものが振る舞われる。

ジャワの食事で、麺はどのように位置づけられているのだろうか。ご飯の代わりなのか、ご飯と一緒に食べるおかずなのか。それとも両方ありなのか。

余談だが、ここの豚飯(Nasi Babi)も秀逸なおいしさである。5月19日の昼食に食べた。ただし、Depot Purnamaのとは違って、豚レバー・ハツなど内臓系は入っていない。それ故に、日本の中華丼と全く同じ趣である。

 

好き好んでインドネシアへ来た訳ではない方々へ

昨日、友人と話をしていて気づいたことがある。私のこのブログを読んでいる方々は、ある程度、日本とインドネシアとの関係について、それをどのようにしていったらよいか、考えている人であろう。しかし、今、日本からインドネシアにやって来る方々のなかには、自らのことで頭がいっぱいで、インドネシアのことを考える余裕のない方々もかなりいるのではないか。

好き好んでインドネシアに来た訳ではない、会社の方針で仕方なく来た、という方も少なくないと聞いた。多少言葉は悪いが、「来てやったんだ」という気持ちでインドネシアにおられる方もいるだろう。そして、彼らに対しても、「業績を上げよ」というプレッシャーが日本から矢のように飛んでくる。心静かでいられるわけもなく、イライラせざるを得ないことだろう。

そんな方々は、自分より下のもの、弱いものに対して強い態度を示すことによって、自分の不安定な心持ちやストレスを発散させなければ、やっていけないかのような気持ちに陥る。日系企業であれば、インドネシア人スタッフに対して居丈高に振る舞ったり、見下したりするような場面もあるかもしれない。

インドネシア人スタッフは、表面上はそれに従うかのように振る舞う。「どうしてこの日本人は怒りっぽいのだろう」と疑問に思いつつ。でも、実は内心では、居丈高に振る舞ったり見下したりする日本人を「残念な人」とシニカルに見ている。積極的に彼へ協力はしないが、何らかの危害を加えない限りは、それなりにお付き合いはする。このような表向きと裏の異なる状態がずっと続き、インドネシア人スタッフは、会社への貢献よりも給料を上げてくれることのみを求める方向へ動いていく。いつか爆発しそうな状況を保ちながら。

こうした日本人に、「もっとインドネシアのことを学んだほうがいい」と言っても、なかなか聞き入れられない。ここは他所の国で、日本ではないという基本認識はあっても、「日本」から出られない。「日本」を何とか維持しようとして、居丈高に振る舞ったり見下したりしながら、インドネシア人の日本人への信頼感や尊敬を失わせていく。

そんなことを、友人と話しながら思った。でも、本当にそんな日本人がインドネシアにたくさんいるのだろうか。にわかには信じられないが、日本企業の進出が増えれば増えるほど、そうした日本人が増えてくるということは想像できる。インドネシアについての事前準備なしに来てしまうケースもあるだろうからである。

そうした方々は、おそらく、私のこの拙いブログを読んでいただくことはないのかもしれないし、私の講演やワークショップやニュースレターにも関心を持っていただけないことだろう。いくらこちらから発信しても、そこにはなかなか届かない。こちらの届かないところで、そんな動きが増殖していないことを祈るばかりである。

でも、今からでもかまわないので、もしも、インドネシアのことをもっと知りたい、彼らの本音を知りたい、と思うことがあったら、いつでもいいので、私までコンタクトしてきて欲しい。時間の許す限り、そうした方のところへ飛んでいこうと思う。

ジョブローテーションの誤解

ある日系企業に勤めるインドネシア人の方とたまたま話をする機会があった。聞くと、転職を考えている様子だった。

さらに聞くと、企業のなかでいろいろな部署を数年でどんどん替わっている様子。「自分は仕事ができないから部署を替わらされているのではないか」という本音がホロッとその人の口からこぼれ出た。

話を聞いて、これは典型的なジョブローテーションだと思った。日本の企業では、様々な部署を経験して、会社全体が見渡せ、部署間の有機的関係が理解できる人材を育てるために、ジョブローテーションは普通に行われている。そうだとするならば、その日系企業はその人を管理職候補として育てるために、ジョブローテーションをさせているに違いない。

転職したいと言うその人に、「今までに、仕事がうまくいかなかったり、上司とトラブルになったことがあった?」と優しく問いかけてみた。「そういえば、そんな心当たりはない」という答え。「もしかしたら管理職候補生として期待しているのではないかな?」と続けると、しばらく間が空いた後、ハッと気がついたような表情をして、その人の目が潤んだ。

その人は、ずっと、自分は能力がないから部署をどんどん替えられたのだと信じていた(実際、インドネシアの国内企業ではそんな状況だという話を私は聞いたことがある)。けれども、もしかすると、企業側はそんな風には思っていなかったのかもしれない、ということに気づいた。企業のために役に立っていないと思い込んでいたその人が、実は期待されていたのかもしれない、と思えた瞬間の涙だった。

その人と話をしながら私も気づいた。日系企業で中堅幹部職員の人材育成が難しいという話の原因の一つは、このジョブローテーションの誤解にあるのではないか、と。日系企業側は、日本流にジョブローテーションをしながら幹部候補生に育てようとするが、当人たちにその意図が伝わっておらず、部署を替わるたびに企業から認知されていないという思いを当人たちが持ち、給料以外の評価基準を意識できなくなって、転職へ向かってしまうのではないか、と。

前に会ったインドネシア人の方は、仕事に給料以外の価値観を持っていなかった。果たして、日系企業で働くインドネシア人従業員たちは、自分たちの作っている製品がどのような社会的価値を持ち、いかに重要な仕事をしているのか、という意識を持てているのだろうか。

たとえば、ネジを作る工場で、そのネジがないと二輪車が完成しない重要な部品であること、そうした部品を作っていることを通して、従業員に誇りを持たせる。中堅幹部職員は、重要な役割を果たす現場従業員がいなければ企業や自分の存在が成り立たないことを理解して、従業員を適切な形でリスペクトする。企業や中堅幹部職員は、それを言葉で伝えるのではなく、一生懸命働いて結果を出したときに、従業員にそっと飲み物やスナックを振る舞う。そんな間接的な振る舞いを通じて、従業員たちは「自分たちがきっちりと見られている」「分かってくれている」と自ら認識するだろう。こうした、さりげない対応は、実はインドネシア人(とくにジャワ人)の得意とするところのはずである。

社員を大切にする、というのは、ほとんどの日系企業が日本で行ってきたことである。そして、インドネシアでもまた、社員を大切にしているというメッセージを、さりげない対応を含めながら、シグナルとして発信していくことが重要になると思う。

果たして、ジョブローテーションの誤解が解けた先のインドネシア人の方は、これからどのようになっていくだろうか。「月曜日の朝会で今日の話を仲間にしてみます」といって、その人は去っていった。

スラバヤの新交通システム計画

ジャカルタでは地下鉄(MRT)建設がいよいよ始まりそうだが、スラバヤでも新交通システムの導入、すなわちモノレールと路面電車の導入へ向けて動き始めた。

スラバヤに来て感じたことの一つは、320万人もの人口を抱えた大都市にもかかわらず、バスや乗合などの公共交通機関が極めて脆弱なことである。もちろん、乗合は何路線もあり、ジョヨボヨ・ターミナルというものもある。しかし、ジャカルタのビスコタ、メトロミニ、コパジャ、ミクロレットのような頻繁に走っている公共交通がほとんどない。バイクと自家用車が圧倒的である。

でも、スラバヤはもともと公共交通機関のあった街なのである。オランダ時代の1925年頃から1975年頃まで、蒸気で走る路面電車と電気で走る路面電車が走っていた。 料金は当時の額で3セン、オート三輪が25セン、タクシーが50センだったという。路面電車はバスに取って代わられた。しかし、そのバスも廃れて、本数が少なくなった。

スラバヤ市の道路延長距離は1426キロメートルで、個人所有二輪車・自動車の台数は2008年の140万9360台から2011年には699万3413台へ急増した。ところが、その一方で、バスの台数は250台から167台へ、乗合の数も5233台から4139台へと大幅に減少している。

当然、道路の渋滞は激しくなってくる。5年以内に、スラバヤの渋滞はジャカルタ並みになるという見方が強い。

そこで、スラバヤ市は、モノレールと路面電車を組み合わせたMRTを導入し、2015年に運転を開始したい意向である。両者の概要は以下の通りである。

<モノレール>(SUROTREM)
延長距離:16.7km
操車場駅:Joyoboyo
停車駅数:29
駅間距離:500-1,000m
年間予想利用客:2793万6900人
投資額:1.2兆ルピア
1車両当たりの最大乗客数:200人
車両編成:2両連結
経済的な料金:8,000-10,000ルピア
住民の支払可能額:6,000-10,000ルピア
車両数:21台

<路面電車>(BOYORAIL)
延長距離:23km
操車場駅:Kenjeren, Joyoboyo
停車駅数:23
駅間距離:500-2,000m
年間予想利用客:4371万7742人
投資額:8.5兆ルピア
1車両当たりの最大乗客数:400人
車両編成:4両連結
経済的な料金:37,000-40,000ルピア
住民の支払可能額:6,000-10,000ルピア
車両数:18台

予想されるのは、建設工事により渋滞がよりひどくなる、ということである。また、公共交通期間に乗り慣れていない人々が、果たして整然と乗り降りできるだろうか、という点も懸念材料である。

そもそも、民間が資金を出さなければ実現しない話だが、本当に資金を出す民間が出てくるのだろうか。実現できたらいいけれど、そう簡単ではないだろう。スラバヤと同時期にモノレール導入を予定していたマカッサル市は最近、計画の延期を発表している。

スラバヤのモノレールと路面電車については、友人のブログに詳しい情報が載っているので、そちらも参照して欲しい。

スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その1
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その2
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その3
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その4
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その5
スラバヤにもモノレールだって!!

(参考)TEMPO, 2 Juni 2013.

ハイ・アンド・ロー

昨日(6月1日)は、久々にブログ更新やインドネシア語ブログの開設など、けっこう前向きにハイな気分でいられたが、今日は逆に、一気にローな気分で落ち込んでしまった。

友人と楽しく昼食をした後、買い物をし、路上でタクシーを待っていた。ちょっと疲れを感じてボーッと立っているところに、1台の乗合バス(コパジャ)が私の前に停まった。なぜか分からないが、私はコパジャに乗るそぶりをした。判断力が希薄だったのかもしれない。

その時、私の前に誰かが立ち、ふわっと私の肩掛けカバンが上に舞い上がった。そして気が付くと、カバンの左ポケットに入れてあったはずの愛用のデジカメ(リコーCX3)がなくなっていた。コパジャのコンダクターは、「向こうに逃げて行ったやつがいる」と後ろを指差したが、ボーッとした私にはなんだかよく分からない。誰かがいたようには見えなかった。コパジャは走り去っていった。

コパジャのコンダクターが盗んだのではないか。我に返ってよく考えると、おそらくそうなのだ。コパジャの中にデジカメがまだあったかもしれなかった。でも、それを追いかける気力は沸いてこなかった。怒りを感じるよりも、へなへなと茫然自失の状態になった。

幸い、隣のポケットに入れてあった携帯電話も、その他の財布もパスポートもすべて無事だった。

リコーCX3はいいカメラだった。とくに、マクロ撮影に優れていて多用した。でも、このカメラはインドネシアで売られていないし、チャージャーもないし、説明は日本語にしてあるから、きっと、盗人の役に立たずに、捨てられてしまうのだろう。これを運命と受け入れてしまう私は、相当にインドネシア化しているといっていいのだろうか。

数日前のワークショップで撮った参加者との記念写真も、今日の昼食で食べた料理の写真も、すべて消えてしまったのが残念である。昨日は、デジカメを持たずに夕食に出かけたので、今日は持っていこう、と確認して出発したのが、リコーCX3との別れとなってしまった。

何となく、今日はやばいのではないか、と感じていた。そういう時に限って何かが起こるのだ。そう、過去もそうだった。

土日も休まずに、原稿を書き続けたこの数ヵ月、休暇らしい休暇を取っていないし、原稿の締切が次から次に来る生活では、休むわけにもいかない。そういう生活にしたのは自分自身だから、もちろん自己責任。今日の事件は、自業自得というしかない。

楽あれば苦あり。自分がうまくいって得意になっているときほど、細心の注意を払わなければならないのだ。

自分の恥をさらすような話を書いている自分にも嫌気がさすが、ともかく、書かないと何となく落ち着かない気分になってしまったので、こうして恥をさらしてしまった。不愉快な気分にさせてしまったとしたら、大変に申し訳ない。

 

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