メディアという「権力」との些細な戦い

先ほど、夕方、あるメディアの記者から電話があり、ある事柄についてコメントを求められた。コメントを求められた内容については、隠す必要はないが、今回のブログの中身に直接関係はないので省略する。

来客の接待中ではあったが、電話の記者に対して、いつもの通り、自分の考えをできるだけ丁寧に分かりやすく話をするよう努めた。私の名前を出して記事にするかもしれない、ということなので、「その場合には知らせて欲しい」と伝えて、会話を終えた。

その後しばらくして、別の来客と夕食中に、再び同じ記者から電話をもらった。先ほど話した内容の確認をしたいようだったので、再度、自分の考えを話した。先方の話しぶりからして、正確に理解しているかどうか不安に思いながらも、話を続けた。「何なら、私がコメントを自分で書きますか」とまで話したが、それは断られた。

話の途中で、「記事にする前に、私の話が正しく伝わっているかどうか確認させてもらえないだろうか」と丁重にお願いしたところ、記者は「それはできない」ときっぱり答えた。「記事にする前に、外部者に介入をされるのは困る」という理由のようだった。情報を提供した私が外部者だと?

「では誰が話の内容が正しいかどうかを判断するのですか」と聞くと、記者は「それは自分だ。自分が正しく書く」という。そして、「いやなら、名前は出しませんから」とも言われ・・・、ここでキレた。

記者はきっと私の話した内容を忠実に書いてくれるだろうとは思いたい。

しかし、私には、過去に苦い経験がある。

以前、南スラウェシ州政府のアドバイザーをしていたときに、ある内容について新聞記者からコメントを求められた。何度も念を押して、同じ内容を繰り返して、記事にする前に内容を確認させてもらえることも確認した。しかし、内容確認の連絡はなかった。

翌日、その新聞を見てびっくりした。私が何度も確認した内容とは全く異なる内容が記載されている。記者の想像力のすごさに感心してしまうほどだ。そして、私のインタビュー記事の隣には、私のカウンターパートである政府高官のインタビュー記事も載っていた。この二つの記事の見出しが、カウンターパートの政府高官と政府のために働く私の見解とが、真っ向から反対するような見出しになっていた。

私は政府高官と会い、事情を説明し、私と彼との見解が基本的に同じであることを確認したうえで、その新聞記者と編集担当者のところへ出向き、強く抗議した。実際に私とインタビューした記者は面会を避け、編集担当者は「すべては正しい手続に則って取材は行われ、自分たちの過ちはない」の一点張り。

幸い、南スラウェシ州政府側は事情を十分に理解してくださり、大きな問題となることはなかったが、私がカウンターパートと反対の意見を持っていると思い込んでしまった方々もいたに違いない。

話を戻して、「私の話が正しく伝わっているかどうかを私自身が検証する」ことは、私が記者の報道の自由を侵すことなのだろうか。なぜ、私が話したことが正しいかどうかを、私本人ではなく記者が正しいと判断できるのだろうか。これは、記者の横暴以外の何物でもないのではないだろうか。

私からお願いして書いてもらうのではない。記者が勝手に私に電話をしてきて、取材協力を頼み、こちらは時間をとって、誠実に話をしただけである。私がその内容を確かめることが、記者の報道の自由を侵す「外部者」の介入になるのか。しかも、それがいやなら私の名前は出さない、とまで言われた。いったい、何様のつもりなのか。

情報提供者に対する誠意というものが、この記者にはないのだろうか。いや、もしかすると、こんな私を「うざい奴」と陰でせせら笑って馬鹿にしているかもしれない、なんて思ってしまうような対応だった。

勘違いしてはいけない。その記者は、メディアはペンで世の中を変えられる、一種の権力を持っている、と思っているのかもしれない。しかし、それは、「事実に基づいているかどうか」を謙虚に情報源へ確認することをせずに、どんな話でも自分で好きなように作ることができるのだ、ということではないはずだ。

明日の当該メディアに、その記者の記事は載るのかもしれない。自分で深く調べることもせず、電話一本で気軽に、私から聞いた話を適当につまみ食いした内容の記事。もし万が一、私の名前が出るなら、正しい内容であって欲しいと祈るほかはない。

それでも、私は何か間違ったことを言っているだろうか。

かつて、同じメディアの別の記者は、記事を書く前に何度も内容を確認するための電話をしてきて、私がそれでいいという判断をしたうえで、記事にしてくれていた。私の思いまで入れ込んだ、素晴らしい記事を何度か書いてくれた。その記者は、今はそのメディアにはいない。

メディアという「権力」との戦い、というにはあまりにも些細な話ではある。

経済救済政策パッケージ

国際収支の悪化、外貨準備の減少、通貨ルピアの下落という状況に加えて、直接投資や国内民間消費の伸びにも昨年ほどの勢いがなくなり、インドネシア経済は減速気味の気配である。

市場の動揺を抑えるために楽観論を示してきた政府も、8月23日、ついに下記のような経済救済政策パッケージを打ち出すに至った。
(1) 経常収支改善とルピア防衛
30%以上の製品を輸出する労働集約工業・資本集約工業に対する減税措置
・バイオディーゼル活用で燃料輸入削減
・完成車など奢侈品への輸入関税引き上げ(75%→125%)
(2) 経済成長維持のため、対GDP比財政赤字を2.38%に抑える
・労働集約工業への税の減免を含む投資インセンティブを供与
・保税措置の緩和
・輸入書籍への付加価値税廃止
・奢侈品に含まれない製品への奢侈品販売税の撤廃
・州最低賃金の調整
・研究開発促進のためのインセンティブ
 
(3) 価格安定化とインフレ抑制
・牛肉や野菜・果物の輸入管理をクォータから価格ベースへ変更
 
(4) 投資促進
・投資手続の簡素化
・より投資家を利する投資ネガティブリストの発布の迅速化
タックスホリデーや税減免を含む投資プログラムの迅速化(アグロ、オイルパーム、カカオ、ラタン、金属、ボーキサイト、銅など)
既存投資の迅速化(発電、石油ガス、鉱産物、インフラなど)
輸出促進、投資許可手続き簡素化、など、どこかで聞いたことのあるフレーズだなと思い出したのは、1980年代半ばから1990年代半ばにかけての非石油製品輸出振興戦略である。実はあのときもまた、国際収支の悪化(とくに経常収支赤字)、高い消費者物価上昇率(年10%前後)、ルピア切り下げがあり、石油ガスに依存した経済の構造改善に取り組んでいた。
他方、2000年代は、経常収支黒字、相対的に低い消費者物価上昇率、強含みのルピアという状況が昨年前半まで続いてきた。「インドネシアの国際収支は基本的に黒字基調」という認識もメディアなどに見られたが、25年以上インドネシアを見てきた経験からすると、むしろ2000年代の状況のほうが異質な状況に見える。
すなわち、石油ガスの比重は落ちたものの、今のインドネシアが直面するマクロ経済の難しい状況は、本来的に、過去にずっとインドネシアが政策上の課題、とくに構造改善を求められてきた状況にむしろ似ているからである。
過去には、それは世銀やIMFの指導のもとで構造改善政策が採られた。あのとき、スハルト政権下で何度も政策パッケージが出されたものである。今は、世銀やIMFからの圧力はなく、自らが構造改善を進めていかなければならない。
インドネシア経済の成長へのネックと考えられているインフラ未整備、人的資源開発の不足、官僚制と許認可手続きの煩雑さ、いずれも1980~1990年代に問題として指摘された項目であり、今もなお、その改善は途上にある。
今後、経済救済政策パッケージの個々の政策の中身がどのように実施されていくか、注意深くウォッチしていきたい。

台湾のインドネシア人労働者

台湾を旅行中に、何人かのインドネシア人に出会った。もともと、台湾には以前からインドネシア人の出稼ぎ労働者が働きに来ている。男性は建設現場などでの労働者として、女性は家事・介護労働者として、今や、台湾社会には不可欠な存在となっている。

8月16〜17日に台北を案内してくれたのは、前の職場の同僚である台湾研究者。私が台湾のインドネシア人に興味があると知っていて、彼女が用意してくれたのが8月12日付聯合報の1面トップ記事。何と、台北駅の地下コンコースを埋め尽くすインドネシア人労働者の写真だった。

最も多いときで約3万人の外国人労働者(ほとんどがインドネシア人労働者)が集結し、床に座って飲み食いをしたり、音楽を大音響で流したり、横になって寝ていたり。さながら無法地帯の様相を呈しているようである。

こうした状況に対して、賛否両論が出されている。「公共の場を勝手に外国人労働者が占拠し、台北駅の他の利用者の通行の邪魔になるのはけしからん。政府は何をやっているのか」という意見がある。その一方で、台北駅側は、外国人労働者の人権やその置かれた状況を尊重し、柔軟に対応するとのコメントを出している。

もしこれと同じような状況が日本の東京駅地下コンコースで起こるとなったら、どんな対応になるだろうか。新宿駅の路上生活者がどんな運命になったかを想像するだけで、日本ではこうした状況をきっと起こさせない、毅然たる措置(強制排除)が採られるものと容易に想像できる。

しかし、台湾においても、以前から外国人労働者に対して寛容だったのだろうか。私が以前、台湾を訪れた1990年代初めの記憶だと、インドネシア人労働者の存在は表面的にはさほど見られなかった。恐らくまだまだ数が限られていたのだろう。

元同僚の台湾研究者によれば、この10年ぐらいの間に、台湾社会はある意味急速に成熟してきたという。それが、地下コンコースを占拠した外国人労働者を強制排除しない台北駅側の態度にも表れているのだろう。台湾社会の「緩さ」という見方もできるだろうが、もはや社会にとって不可欠の存在となった外国人労働者の存在をきちんと認め、それを受け入れる融和な社会をゆったりと作っている、いや、そう出来上がってきているのだと感じるのである。

対するインドネシア人労働者の側には、成熟した台湾社会のなかで、むしろ、台湾の人々の寛容さに甘えてしまっているところはないだろうか。あたかも、台北駅地下コンコース占拠が当然の権利であるかのように振る舞うとすれば、それはやはり問題ではないかという気もする。

甘えという点では、8月4日に台中で出会ったインドネシア人男性労働者3名の話もしておこう。台中では、昔、マカッサルで一緒だった友人が大学教師をしており、彼女に色々と案内してもらった。春水堂にタピオカパール・ミルクティーを飲みに行こうと友人とバスに乗っていたら、彼らが乗り込んできた。

3人とも酔っており、うち1人は一番後ろの席でゲーゲーやり始めた。静粛な車内で、突然、彼らが大声で叫び始めた。「ジャカルタなんか怖くねえ!あの糞野郎!」と汚い言葉を連呼していた。さすがにうるさいので、「他の客の迷惑になるから、ちょっと静かにしてくれないか」とインドネシア語で話しかけると、彼らは一瞬びっくりして、すぐに「すみません」と素直に答えた。

まだ断食中のはずだが、彼らは昼間から酒におぼれていた。お金がなくて断食明けにインドネシアの故郷へ帰れないのが悲しいのか、ジャカルタの派遣元とトラブルがあって荒れているのか、私たちには全く知る由もない。車内の他の乗客は、そんな彼らを見て見ぬふりをしていた。

台北駅地下コンコースを占拠した最大3万人の外国人労働者も、台中のバスの中で荒れていた彼らも、自分たちが「余所さまの国に来させていただいている」という感覚が少ないのではないか。一人ではなく大勢になれば、何となく気分が大きくなり、数の力を背景に、「これぐらいのことをしても許される」と思ってしまうのではないか。

成熟した台湾社会とはいえ、数を背景にいつの間にか当然の権利にすり替わる感覚を持ったインドネシア人労働者の甘えがいつまでも許容されるとは限らないような気がする。

でも、この「既成事実化して当然の権利にすり替わる」というのは、インドネシア社会ではよく見かけることなのではないか。土地を不法占拠して居住権を主張する場合や、ダメもとで賃上げを要求してそれが通るとさらに賃上げを要求する態度とか。それが「小さき民」によるものだと、「小さき民」だから許されるという話が持ち出されてくる。しかし「小さき民」という立場が常に正しいとは限らない。免罪符にはならない。

そんなインドネシア人の「甘え」が台湾のインドネシア人労働者にも見えるような気がする。

インドネシア情報ニュースレター購読のお誘い

2012年10月1日から、毎週月曜日、「インドネシア情報ニュースレター」(日本語)を発行し、購読希望者のメールアドレスへ送信しています。私が今、籍を置いているJACビジネスセンターの名前で発行しています。

このニュースレターは、発行前の1週間に何が起こったかをインドネシア語新聞記事から拾い、それを日誌風にまとめたものをベースにし、日本語で表記しています。加えて、私の政治経済に関するコラム、統計などの重要情報があればそれも含めています。

ニュースレターの発行を始めてから、週末の土日のうちの1日(多くは日曜日)はこの作成作業に費やされてしまいます。月曜日に必ず送付しなければならないので、逆算して計算しながら、インドネシア語新聞を読む時間を作っているのですが、おかげで、毎週月曜日はとても眠いのです。

このニュースレターは無料で発行してきましたが、先の6月から有料化しました。現在は、購読者のアドレスへPDFファイルでお送りしています。

ニュースレターの購読申込み方法ですが、ウェブサイト上にてPayPalで簡単に申し込めるようになりました。購読希望者は、以下のサイト(英語)から申し込んでいただければ幸いです。

インドネシア情報ニュースレター購読申込み(英語サイト)

購読を申し込まれた方は、恐れ入りますが、私のメールアドレスまでご一報いただければ幸いです。

参考までに、以下に、インドネシア情報ニュースレターの「見本」(2013年6月10日号)をお見せします。このようなニュースレターを毎週、発行しています。多くの方にご購読いただけますよう、よろしくお願いいたします。

<見本><見本><見本><見本><見本><見本><見本><見本><見本><見本>
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JACビジネスセンターの
インドネシア情報ニュースレター No. 35 / 20130610日号
オリジナル有料版
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JACシニアアドバイザーの松井和久です。
本版は、すでに有料版を申し込まれた方へお送りしています。支払方法については、別途お知らせいたします。もうしばらくお待ちいただければ幸いです。
JACビジネスセンターからのお知らせ>
 ●日系企業で働くインドネシア人スタッフ向けワークショップ(6月12日・スラバヤ、7月2日・ジャカルタ)
 ●インドネシア・ウォッチ講演会(7月3日・ジャカルタ)
 ●JACスラバヤ・オフィスのサービス
●日系企業で働くインドネシア人スタッフ向けワークショップ(6月12日・スラバヤ、7月2日・ジャカルタ)
 JACビジネスセンターでは、日系企業で働くインドネシア人中間管理職を対象としたコミュニケーション能力向上のための「ワークショップ・ジャパン」を実施しています。現在、以下の参加申し込みを受け付けております(いずれも定員30名)。
・6月12日(水)10:0017:00、スラバヤ(Fave Hotel MEX Surabayaにて)
・7月2日(火)10:0017:00、ジャカルタ(JACスカイビジネスセンターにて)
 参加希望・お問い合わせは、「ワークショップ(スラバヤ)」または「ワークショップ(ジャカルタ)」と明記のうえ、seminar@jac-bc.co.idまたはmatsui@jac-bc.co.idへお寄せください。
 このほか、企業内でこの種のワークショップをご希望の場合には、出張ベースで対応させていただきますので、お問い合わせください。
●インドネシア・ウォッチ講演会(7月3日(水)16:3018:30
 半年に一度、インドネシアの政治経済の現状を斬る「インドネシア・ウォッチ講演会」を7月3日(水)にジャカルタで開催します(7月後半にスラバヤでも開催の予定)。
 国際収支や為替軟化など、昨年までとは様相が変わり始めた経済状況をどう捉えるか。2014年総選挙・大統領選挙を控えて、政治の動きが経済にどのような影響を与えてくるのか。投資先としてのインドネシア経済はまだ安泰なのか。
 これらの問いに、現状での答えを出すべく、講演会の準備を進めていきたいと考えております。参加希望・お問い合わせは、「講演会(ジャカルタ)」と明記のうえ、seminar@jac-bc.co.idまたはmatsui@jac-bc.co.idまでお寄せください。
JACスラバヤ・オフィスのサービス
 ビジネスマッチング、企業設立支援、通訳・翻訳、ビザ取得・許認可手続から人材紹介・リクルートメント、さらにはスラバヤでの生活支援にいたるまで、スラバヤでもワンストップサービスを開始しています。また、日本語だけでなく韓国語や中国語の通訳・翻訳、会計代行や企業内部監査の相談もお受けいたします。さらに、ご希望があれば、スラバヤ市内の4~5つ星ホテルを特別料金にてご予約させていただきます。お気軽にmatsui@jac-bc.co.idまでご連絡ください。
 スラバヤ・オフィスの住所は以下のとおりです(市の中心部に位置します)。近くへおいでの際には、お気軽にお立ち寄りください。
   Intiland Tower 2nd Floor, Suite 7A,
Jl. Panglima Sudirman 101-103, Surabaya 60271, INDONESIA
  Phone: 031-5349-259, Fax: 031-5349-263
<今週のコラム>
 6月8日、タウフィック・キマス国民協議会議長が死去した。彼の死が来年の大統領選挙の行方に大きく関わる可能性がある。それはなぜか。
 タウフィックは闘争民主党幹部であり、同党党首であるメガワティ元大統領の夫である。タウフィックはメガワティのよき相談相手であり、指南役でもあった。党外に幅広いネットワークを持ち、メガワティをはじめとする闘争民主党の政治家の導き役でもあった。焦点は、彼の死がメガワティに次期大統領選挙への立候補を思いとどまらせるか、という点にある。
 他党が汚職疑惑でイメージ悪化を余儀なくされるなか、闘争民主党は、中ジャワ州知事選挙で勝利するなど、比較的順調に党勢を拡大している。こうした状況下で、党首のメガワティは当然、自分が大統領候補として指名されるべきとの自負心を持ってきた。一方、党内ではメガワティに替わる新たな候補を模索する動きがあり、メガワティに受け入れられる娘のプアンを大統領候補に担ぐという案は時期尚早とされている。
 そこで目を付けられているのは、闘争民主党が推して当選したジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事である。世論調査では次期大統領候補として常にトップの人気を誇り、各政党が大統領候補にしようとジョコウィに近づき始めている。
 仮に、メガワティが立候補を辞退した場合、闘争民主党は一気にジョコウィを党大統領候補に決めるはずである。そして、ジョコウィがそれをのめば、民主党なども相乗りし、そのまま彼が大統領に選ばれる可能性が高い。これは筆者の現段階での予言である。
 振り返ってみると、1998年5月にスハルト政権崩壊への動きが始まったのは、1996年4月のスハルトの妻・ティン夫人の死去からである。今回のタウフィック氏の死去がジョコウィ大統領誕生への動きの始まるとなる可能性は少なくない。そういう観点からも、今後の政治の動きを見ていく必要がある。
<中央統計庁・月例統計速報>(6月3日発表)
項目
単位
2013-1
2013-2
2013-3
2013-4
2013-5
輸出
100万㌦
15,375.5
15,015.6
15,024.6
14,697.8
輸入
100万㌦
15,450.2
15,313.3
14,877.1
16,314.2
貿易収支
100万㌦
-74.7
-297.7
147.5
-1,616.4
インフレ率
前年同期比%
4.57
5.31
5.90
5.57
5.47
<情報ピックアップ>
0601【汚職】ゴルカル党副党首のPriyo Budi Santoso国会副議長は突然、公務の名の下にバンドンのスカミスキン刑務所を訪問。コーラン印刷に係る汚職事件で逮捕され、公判で同国会副議長へ汚職資金の1%が渡ったと証言したFahd Rafiqとも面会。Priyo氏は3日、自分を汚職事件と関係づけてゴルカル党の要職から引きずり落とそうとしている党内勢力があると批判。
0601【行政】【西ジャワ】【中ジャワ】西ジャワ州のAang Hamid Sugandaクニンガン県知事によると、西ジャワ州と中ジャワ州の6県・2市がKunci Bersamaという名の下に新州設立を構想。州都から遠く、アクセスが不便という理由。すでに3ヵ月に1回、8県市が会合。
0602【災害】【ジャンビ】ジャンビ州クリンチ県のクリンチ山が2度にわたって噴火し、噴煙と火山灰で視界不良状態。地元農民らの活動にはまだ大きな影響はなし。
0602【気象】インドネシア気象庁によると、インドネシア海域の海水温が例年より高い状態のため、多量の水蒸気が発生、雨が多くなっている。オーストラリア大陸からの季節風の吹き出しが弱く、海水から上がった水蒸気がインドネシアの北、アジア大陸部へ押し払われずにインドネシア上空に留まっている。この状態は今年末まで続く見込み。
0602【汚職】【マルク】マルク州警によると、県知事が汚職容疑で逮捕されたアルー県の副県知事もコーラン詠唱大会地区予選の関連で予算流用の汚職疑惑が濃厚、県行政が動かなくなる可能性。
0603【テロ】【中スラウェシ】中スラウェシ州ポソで、At-Taqwaモスク前、県警から15mの場所で30代前半と見られる男が自爆。男はバイクで県警へ乗り付け、構内へ突入しようとして警察官に阻止された。警察によると、自爆者はテロリスト・グループのSantosoグループに関係していると見られるが、指名手配犯22人の中に自爆者と思しき人物は含まれていない。
0603【労働】ジャカルタのタンジュンプリオク港で港湾搬出入トラックがストライキを決行。ジャカルタ港湾輸送協会(Angsuspel)は、PT Pelindo II傘下のインドネシア港湾会社(IPC)が子会社PT Jasa Armadaを設立し、2000台のトラックを購入したことに対して、競業になるとして批判。これに対してIPC側は港湾内での作業用トラックで港湾外には出さないと説明。輸入業者協会はストによる損害は1日2兆ルピアと推計。
0603【インフラ】【西ジャワ】西ジャワ州政府は、2014年中までに州内12万ヵ所にWifiスポットを開設する計画であると発表。現状のWifiスポットは2000ヵ所。
0603【科学】国家科学院(LIPI)、マカッサル海峡において深海調査を実施へ。LIPI海洋研究センターの研究員に加えて、UNESCO海洋学委員会との共同研究のため、韓国海洋科学技術研究所から2名、中国・厦門海洋化学・環境モニタリング技術研究所から2名の外国人研究者が参加。調査費用は1億ルピアのため、前回実施は2007年(ラジャアンパットにて)。
0603【不動産】プラザ・インドネシアはジャバベカと共同で、西ジャワ州チカランに中高所得層向け商業施設+アパートメントを計16haの土地に開発する方向で合意。
0604【事件】5月23日にエベレスト登頂に成功したFajri Al LuthfiMartin Rimbawanの2名が帰国。
0604【暴動】【南スマトラ】南スマトラ州パレンバン市長選挙で最高裁により当選無効とされた候補ペアの支持者らが、最高裁決定に反対するデモを行い、一部が暴徒化して市内最大の家電販売店Toko Jaya Raya Elektronikに投石し、放火。
0604【貿易】インドネシア・コーヒー輸出業者連合(Gaeki)のHutama Sugandhi会長によると、全日本コーヒー協会からの連絡で、日本向けコーヒー輸出におけるカルバリル(殺虫剤の一種)の残留量検査が義務ではなくなった。これにより、インドネシアから日本向けのコーヒー輸出が促進されると見られる。インドネシアは2011年から日本と交渉を続けてきた。
0604【暴力】【アチェ】アチェ州法律擁護協会(LBH)は暴力に関する報告書を発表。それによると、2011-2012年に1060件の暴力事件が起きており、そのうちの413件はドメスティック・バイオレンス(DV)であり、350件が夫から妻への暴力、22件が父親から子供への暴力。
0604【政治】【中ジャワ】中ジャワ州選挙委員会は、中ジャワ州知事選挙の結果を確定。 闘争民主党の推した新人のGanjar Pranowo – Heru Sudjatmoko組が得票率48.82%、6962417票を獲得して当選。有効投票数は14259945票だった。
0604【行政】ジャカルタ首都特別州のアホック副州知事は、ジャカルタ・フェアが目立った発展を遂げていないことに不満を表明、州政府自身が運営を行いたい意向を示した。ジャカルタ・フェアが中小企業からアクセスし難いなどの問題がメディアなどで言われている点について、主催者JI Expo社のMurdaya Poo会長はそれを否定した。
0604【経済】政府と国会、2013年度補正予算でのGDP成長率を6.3%とすることで合意。インフレ率についてはまだ合意せず。
0604【金融】PT Panin Lifeは、40%の株式を第一生命が3.3兆ルピアで買収することを正式に発表。
0604【インフラ】【西ジャワ】公共事業省のBambang Susantono副大臣によると、バンドン都市圏の鉄道複線化工事にフランスが1.57億ドルのローンを供与することで合意。
0605【暴力】ジャカルタ発パンカルピナン行きスリウィジャヤ航空の機内で、携帯電話をオフにするようスチュワーデスに言われた乗客のZakaria Umar Hadiバンカブリトゥン州投資局長官が激高し、スチュワーデスを新聞ではたく暴力を振るった。スチュワーデスは警察に通告、Zakaria Umar Hadi氏は脅迫行為の容疑者として逮捕された。
0605【環境】【自動車】工業省は、低価格グリーンカー促進を目的とした、奢侈品販売税対象乗用車等の奢侈課税品に関する政令 2013年第41号をこのほど公表。排気量が1200cc以下(ディーゼル系の場合は1500cc以下)かつ燃費がリッター20キロ以上の乗用車で、セダンとステーションワゴン以外の低価格グリーンカーは奢侈品販売税が免除となる。
0605【政治】【南スマトラ】南スマトラ州知事選挙投票日。民間調査機関のクイックカウントによると、現職のAlex Noerdin-Ishak Mekki組が優勢。
0605【政治】【マルク】アンボン行政裁判所は、6月11日に投票が行われるマルク州知事選挙の立候補ペア5組について不適正であると判断、マルク州選挙委員会による候補者ペア決定の破棄を求めた。これに対して、マルク州選挙委員会は候補者ペア決定は正当であるとし、行政裁判所決定に不服を申し立てた。
0606【テロ】【東ジャワ】東ジャワ州ルマジャン県警は、東ジャワ州警と国家警察と合同で、6月1日にルマジャン県のPT Arifin Sidayuで起きた低度爆弾事件について、他の爆弾テロ事件との関係があるかどうかを調査中と発表。すでに同社工員1名を容疑者として確保、工員は10個の爆弾製造の注文を受けていた。
0606【企業】PT Telkomは、傘下のTelkomvisionCTグループへ売却することで合意。Telkomvisionの株式の80%をCTグループが出資する。Telkomがインフラを提供し、CTがコンテンツを提供する形。
0607【財政】大蔵省租税総局は、1月の最高裁判決に従い、Asian Agri Group傘下の14社が2002-2005年に税務データを改ざんして1.26兆ルピアを脱税していたとして、罰金を含め2.52兆ルピアを最高裁判決から12ヵ月以内に追徴することを明らかにした。
0607【テロ】インドネシア国軍は、マレーシア国軍と合同テロ対策訓練を北スマトラ州メダンで6月12日まで実施。両軍合わせて1228人が参加。
0607【行政】ジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド州知事は、2014年のジャカルタ・フェアを「住民の祭典」の原点へ戻すべく内容を再考し、公開入札で行いたい意向を示した。
0608【人事】闘争民主党幹部でメガワティ元大統領の夫でもあるタウフィック・キマス国民協議会(MPR)議長がシンガポール総合病院で死去。葬儀・埋葬はユドヨノ大統領が指揮し、2日間、半旗を掲揚。ジャカルタ英雄墓地に埋葬される。
0608【政治】スハルト元大統領の誕生日のこの日、生地のジョグジャカルタ特別州バントゥル県ケムスック集落にスハルト記念館がオープン。スハルトの長女トゥット氏やハヌラ党のウィラント党首のほか、新旧閣僚らが出席。
*内容についてのお問い合わせ・ご意見・ご感想は、松井(matsui@jac-bc.co.id)までお願いいたします。
*本ニュースレターは、毎週月曜日発行です。
JACビジネスセンターのブログもご覧ください(http://jacbc.exblog.jp/
*人材リクルートメントについてもお気軽にご相談ください。
 
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休めなかった休暇帰国への自省

今、成田空港にいる。休暇帰国を終え、台北で友人と食べ歩きしてから、明日夜着でスラバヤへ戻る。でも、何となく、休めなかった休暇帰国について反省し、自分に対してとても不満な気持ちを感じている。これを自分にぶつけるとどうなってしまうのか。

休暇にもかかわらず、先週は講演を三本も入れてしまった。その後、福島の実家へ一人で帰省。45年ぶりの再会もあり、亡き父の墓参りも果たし、それなりの充実感はあったのだが、東京の家族と一緒にいられたのは、結局、わずか3〜4日。ずっと離れ離れで毎日を暮らしているのに、自分はいったい何をしているのだろう。

東京で家族と一緒にいる間にも、原稿を数本書き、来週の原稿締切4本の準備が結局何もできなかった。何もかも忘れて、100%全部休み、にはできなかった。それは自分のせいなのだから、そんなことを言っても仕方ないのだが、だからこそ、自分自身に対して怒りが収まらない。

このムラムラとした自分への怒りの持って行き場所は、自分へしかない。なんでこんなことをやっているのだろうか。

家族との時間もうまく生かせない、自分の仕事もうまく終わらせられない。パッションの標的が拡散して、それがすべてうまくやれない自分が無能に思えてくる。すべては自己責任、という冷たい声が、自分からも、他人からも聞こえてきそうだ。

あーあ、こんなことをブログに書いてしまって、そんな自分にも嫌気を感じてしまう。

仕事の数を整理して、本当に納得の行くものに絞るべきなのだろう。オンとオフのメリハリをもっと上手に付けなければ、結局は、怒りの矛先が自分へと向かってしまう。

次回こそは、本当に何もかも忘れて、ゆっくり休みたい。本当は、一年ぐらい、何もせずに受電期間にしたほうがいいかもしれない、とまで思い始めている。また、家族に負担をかけてしまうな。

読者の皆様、こんな愚痴ブログになってしまって、本当に申し訳ありません。いつもいつも、ハイでいられる訳ではないです。

さあ、台北行きに搭乗。食べ歩きが楽しみではある。

【岳温泉】空の庭のランチ

福島へ帰省したら一度行ってみたいと思っていたのが、岳温泉のレストラン「空の庭」。温泉街からちょっと離れた一角にある、ちょっとおしゃれなレストランである。

ランチメニューはハンバーグ、魚、ビーフカレーなどから選ぶ。私がとったのは、特製のハンバーグランチ。

牛肉の味がしっかりと出ており、またソースがおいしかった。

店の中の雰囲気もなかなかよい。福島の地元の方々が気軽にちょっとしゃれた食事を楽しめる空間。夜は、お酒も楽しめそうだ。

店員の対応も、笑顔でとてもよい。

空の庭は、プチホテルでもある。サイトは以下を参照。

空の庭

原瀬、45年ぶりの再会(写真追加)

8月11日、小学校時代の3年間を過ごした二本松へ行ってきた。たまたま、インドネシアでお世話になった友人がJICA二本松に勤務しており、彼に車を出してもらって、いろいろ回ることとした。

岳温泉のレストラン「空の庭」でランチをした後、岳温泉と奥岳温泉の間にあるJICA二本松の施設を見学。青年海外協力隊の派遣前訓練の場所だが、任国へ派遣される隊員が訓練に集中できるために必要な設備が整っていて、快適に暮らせる工夫がみられた。

その後、岳温泉の鏡が池を散策してから、途中の毘沙門堂で右折し、原瀬川沿いを原瀬へ向かった。原瀬では小学校1~2年の2年間を過ごした。亡き父が最初に校長として赴任したのがここの原瀬小学校で、我々は学校敷地内の校長住宅に住んでいた。

父は毎日のように校長住宅へ父兄の方々を招き、酒を勧めて宴会をしていた。父はお酒がさほど飲めなかったのに、ずいぶんと無理をしていたのかもしれない。宴会のたびに、私と幼い弟2人は子供部屋へ追い立てられたものだ。毎週、月曜日の朝、「食べてけろ」といって、校長住宅へ卵を届けてくれたおじさんがいた。雪の積もった日、家族みんなで庭にカマクラを作った。

かつての校長住宅の前は舗装されていない細い道路で、いつもホコリが舞い、車やバスが通るたびに玄関の戸がガタガタとうるさく鳴ったものだった。今は、歩道部分も付いた立派な舗装道路になっている。

校長住宅はとっくに取り壊され、跡形も残っていない。住宅があったと思しき所にマンホールのふたがあった。

下の写真は、2012年3月9日に訪れたときの写真。まだ、校舎が残っていた。私がいた頃は、この校舎の向かって左側部分はもっと古い木造校舎だった。
原瀬小学校はだいぶ前に、原瀬川を隔てたところへ移転し、立派な鉄筋校舎となっている。私たちが45年前に暮らした旧原瀬小学校の建物は、近くの上原遺跡からの出土物を管理するなどの市の文化施設として活用されていたが、2011年3月の震災で危険状態となり、つい3ヵ月前に取り壊された。前回、昨年来たときはまだ残っていたが、今や跡形もなくなっていた。

枝振りはだいぶ変わったが、旧校門の脇の松の木だけは健在だった。いつも、この松に登って遊んだものだった。

旧原瀬小学校の隣のお店の前を通った。かつて、校長住宅に住んでいるころ、お菓子やアイスをよく買いに行った店。果たして、前のまま、おじさんやおばさんは健在なのだろうか。自分のことを覚えていないと言われたらどうしよう。不安でドキドキして、入ろうか入るまいか、しばらく店の前で迷っていた。

小学校2年が終わるときに原瀬を離れて以来、お会いすることはなかった。前回原瀬に来たときは、彼らに会うことがなぜか怖くて、素通りした。今回だって、やはり怖い。

車を用意してくれた友人が「せっかくだから入ったらどうですか。私も会ってみたいし」とせかす。でもやはり怖い。もう45年も前の話なのだ。

よし、と覚悟して、店の戸をあけ、「ごめんください」と声をかけた。店の中に入ったら、そこは45年前と同じだった。私がアイスを買いに来た頃の雰囲気と同じだった。

奥から白髪頭のおじさんが出てきた。突然の訪問を詫びながら、話をすると、おじさんはすぐ思い出してくれた。父は40代初めの若さで原瀬小学校の校長に赴任していたことをよく覚えていた。

おじさんが呼ぶと、おばさんが奥から出てきた。「松井です」と挨拶すると、「和久君かえ」とすぐにおばさんが答えた。自分では意識していないのだが、どこかに45年という時間を超越させるような人の面影というものがあるのだ。

おじさん・おばさんと、昔、原瀬にいた時の思い出話から、原瀬を去った後の人生について、いろいろな話をした。

ほどなく、店の長男が帰ってきた。私の1つ上、よく遊んでもらった兄貴分だった。照れ屋の性分は全く変わっていなかった。話はさらに弾んだ。昔、父がお世話になった父兄の方々の多くが亡くなられたり、体を壊して病院にいたり、されていた。

ふと上を見ると、農作業の鎌をイメージした原瀬小学校の校章が掲げられていた。旧校舎を取り壊す際に、お願いしてもらってきたそうだ。

残念ながら、皆さん、写真は苦手ということで、記念写真を撮らせてもらえなかった。長男の名刺だけをいただいて、店を後にした。

長い人生の中で、わずか2年間しかいなかった二本松市原瀬。1学年1クラス、全校児童わずか160人の小さな農村の小学校とそこでの生活が私の原点の一つになっている。

雑木林が緑に燃えて
小鳥が窓でさえずるころは
みんなの胸に湧いてくる
希望、希望、希望と夢が
ああ、岳山(だけやま)の雲を呼ぶ
行こう 元気に 学びの道を
光あふれる 原瀬小 原瀬小

光るさざなみ 原瀬の川よ
吹雪の朝も がんばる道よ
みんなの胸に燃え上がる
息が 力が 働く汗が
ああ、新しい 夢を呼ぶ
行こう なかよく 学びの道を
風もさざやく 原瀬小 原瀬小

うろ覚えだが、原瀬小学校の校歌。45年経っても、まだ覚えているのが我ながら不思議だ。

昨日の、45年経っても、まだ覚えてくれている原瀬の方々との出会い、とても大切で温かい気持ちになった。覚えていてくださって、本当にありがとう。

世界中、どこにいても、原瀬のことを忘れはしない。福島のことを忘れはしない。

まだ欲張れる。欲張っていける。

8月3日夜にスラバヤを出て、台湾・台中で食べ歩きした後、5日に帰国。6日に大阪で講演、7日に名古屋で講演、そして8日に東京で講演。休暇帰国なのに、仕事を入れてしまった。

なかなか依頼を断れない自分が嫌になる。かといって、収入の多い仕事を優先、という割り切りもできない。でも、ようやく、今日9日になって、少し「休み」という気分を味わい始められた。

これから、福島の実家に行き、母や弟たちと会う。でも、締切の近い原稿を2本(1本はすでに締切なのだが)、抱えていかなければならない。完全休暇になかなかなれない。

これからのことをいろいろと考え続けている。徐々に、自分が望んできた方向へ進んでいると感じてはいるものの、まだ不確かなものが多々ある。相変わらず離れて暮らす家族のことももちろん考えなければならない。

自分は何をしていくのか。そして何ができるのか。

一つ言えることは、自分をしっかりと持ったうえで、前を向き、前へ進んでいくということ。これまでやってきたこと、今やっていること、これからやっていくことが、つながっていくということ。いや、つなげていくということ。

今回は当初、気仙沼や石巻へ行かなければと思っていたのだが、諸般の事情で行けなくなった。たとえ駆け足であっても、自分の目と耳でしっかりと現場を見に行かなければと思っていたが、実家の福島へ行くことを最優先することになった。

違うのだ。今のようにではなく、毎年、きちんと東北の現場を歩けるような時間をしっかりとれるような仕事を、これから組み立てていかなければならないのだ。インドネシアも、日本も、アフリカも、限られた時間の中でうまく関われるように、自分の仕事のやり方を組み立て直していかなければならないのだ。

まだ欲張れる。欲張っていける。

動くと何かがつながる

8月6日は、午後、大阪で講演した。その場で、マカッサル出身のインドネシア人の方と会う。彼は私のフェイスブックもツイッターも見ているといい、共通の友人の名前も出た。講演終了後、しばし盛り上がった。

別の方は、私がマカッサルで知り合いだった方が家族と一緒に大阪で喫茶店をしているという情報をくれた。早速、通天閣の近くのその喫茶店へ出かけた。話は本当だった。ただし、私の知り合いはインドネシアへ行っていて留守。彼女の家族の方々に歓待され、おいしいトラジャコーヒーをごちそうになった。

夜は、別の友人たちと夕食だったが、講演に来ていた私の知り合い2名にも声をかけて、一緒に夕食を楽しんだ。ここでも、また別の共通の友人がいることが明らかになり、話は尽きなかった。

わずか1日、大阪にいただけで、いろいろなつながりができてしまった。そして実感した。動くと何かがつながる、と。

今日と明日は名古屋。夕方から名古屋で講演である。どんな出会いが掘り起こされるか、また楽しみである。

台中で食べ歩き

8月4日、帰国前に立ち寄った台中で、台中在住の友人と食べ歩きをした。というか、結局、台中に1日いて、食べ歩きしかしなかった。

何を食べたかについては、以下を参照してほしい。

【台中】今回の台湾食べ歩き第1弾

アジアでは、いろんな場面で、食べものに救われている面がある。

さあ、今日は日本へ。

【台中】今回の台湾食べ歩き第1弾

しばらくこの食べ物ブログを更新していなかった。面白いものを食べていないわけではなかったが、「インドネシアあるくみるきく」の更新を優先させて、こちらの更新に至っていなかった。

今回、8月の休暇一時帰国の前に、台湾・台中に寄り、友人に付き合ってもらって、しっかり食べ歩きをしてきた。

友人が「おいしい小龍包屋さんに連れて行く」というので、それがあるというトップシティ(遠東百貨)へ。台中の地元の人に大評判で、台中を訪れた政府要人も必ず寄るというその店は、ディンタイフォン(鼎泰豊)だった。

そこには長い行列。待ち時間90分、だった。

もしかしたら、本場のディンタイフォン(鼎泰豊)は東京やジャカルタのそれとは味が違うかもしれない、との期待を抱きつつ、予約番号をもらって、とりあえず、同じトップシティ12階のフードコートへ向かう。

まずは、寧波の看板のある店で、排骨定食。排骨にかかっているタレがご飯とよく合う。

次は、やっぱり、パパイヤミルク。台湾に来たら必ず飲みたい私の大好きな飲み物だ。

90分経ったので、ディンタイフォン(鼎泰豊)へ向かうと、すでに予約番号は呼び出された後で、さらに10分ほど待たされて、店内へ。

頼んだのは、小龍包、カニみそ小龍包と、苦瓜のしょうゆ漬け。

本場・台湾のディンタイフォン(鼎泰豊)、あんなに行列ができていたので、さぞ味は段違いだろうと期待していたが、味自体は、もちろんさすがにおいしいのだが、やジャカルタのものとあまり変わらない感じがした。 そう考えると、豚肉を使っていないジャカルタのディンタイフォン(鼎泰豊)がいかに健闘しているかがわかった。

ディンタイフォン(鼎泰豊)の後、デザートを食べに向かったのは、台中駅前の宮原眼科。名前は眼科だが、眼科があるわけではない。昔、日本時代に眼科だった建物をお菓子屋兼カフェとして使っているとのことだった。

1階がお菓子屋さん、2階がカフェになっている。1階でパイナップルケーキを買った。実はここのパイナップルケーキは、台中の有名店の一つ「日出」のそれだった。酸味のあるチーズ味のバージョンと甘いバージョンの普通の二つ。
2階に上がって、注文したデザート。これが秀逸だった。
まずは、2種類のアイスクリーム+フルーツ。とくに、紅茶のアイスクリームが素晴らしかった。
次に頼んだのは、チーズケーキとフルーツの組み合わせ。これも素晴らしかった。

これらの素晴らしいデザートと一緒に味わったのが、台湾でしか味わえないお茶「東方美人」。ストレートだが味わい深いお茶だった。おまけに、ミニ月餅も出された。

この後、向かったのは、春水堂。やはり、台中に来たら、ここのタピオカミルクティーを飲まないわけにはいかない。

この春水堂、7月27日に、東京の代官山に支店をオープンさせたとのこと。評判と値段はどうなのだろうか。

そして、最後にたどりついたのは、天天見麺店の支店。ここで、老北京酢醤麺(北京風伝統的ジャージャー麺とでも言うのか)を食べた。太い手打ち麺に肉みそが面白いようにからんで、なかなかのおいしさだった。

今回は、台中での食べ歩き入門編といったところか。まだまだ行けなかったところがたくさんある。またそのうち、台中を訪れたら、続きをしたい。

台湾食べ歩き第2弾は、8月16~17日、台北にて。どんな食べものに出会うだろうか。

休暇帰国!

8月3日から17日まで、スラバヤを離れ、台湾経由で休暇帰国する。原稿締切もできる限り休載にしていただいて、しっかり休もう、と思っていたのだが・・・。

6日に大阪、7日に名古屋、9日に東京で講演の予定を入れてしまった。休暇なのに仕事を入れる、自分はまだ仕事と休みのメリハリが付けられないのだとちょっと反省している。

それでも、今回の最大の楽しみは、行きと帰りに寄る台湾。行きは台中、帰りは台北に1泊ずつし、しばらく会っていなかった友人と再会、食べ歩きとなるのが楽しみだ。

最後に台湾に行ったのはいつだろうか。おそらく、1990年代前半、もしかすると20年近く行っていないような気がする。あの頃の記憶ももう薄れていて、しかも、今や新幹線(台湾高鉄)も走っているというではないか。

インドネシアばかり見ていると、ついつい、アジア全体がどのような勢いで進んでいるかに鈍感になってしまう。インドネシアもけっこう発展したなと思っていても、実は、タイやマレーシアはさらにそのずっと先を走っていて、変化の度合いがずっと大きいことに驚いたりしたものだ。

果たして台湾はどうなのだろうか。

上記以外に、福島の実家に行って、3年前に亡くなった父の墓参りをする。あの震災の前に父は亡くなった。家族への感謝にあふれた言葉を残して。私は、父に感謝されるようなことをした覚えはなく、むしろ謝るべきことが多い。ともかく、1年に1度は父の墓前で会話したくてしかたないのである。

家の外では、予約時間の30分前に来てしまったタクシーが待機している。これから、スラバヤのジュアンダ空港へ。休暇帰国中に、人や食べ物や出来事とのどんな出会いがあるのか、 本当に楽しみである。

醜い顔

数日前、鏡で自分の顔を見て驚いた。そこには、醜い顔の自分がいた。

小説を書いているのではない。自分の顔を本当に醜く感じた。何という顔。

いろんなことがあって、いろんなことを考えていて、気分が高ぶれなかった。笑う気にもなれなかった。子連れの通りすがりの人が、私の顔を見て「あの人に怒られないようにね」という声が耳に入ったりもした。無表情で、ムスッとして、微笑のできない自分がいた。

ものすごいストレスがあるわけでもない。難しい問題を自分が抱えている訳でもない。自分でもなぜそうなのか分からない。でも、何かに対して怒っている。その何かがはっきりしない。

そしてふと鏡で自分の顔を見た。醜い顔があった。

形だけでも変えよう、と思って、昨日、ジャカルタでの用事が済んだ後、散髪した。さっぱりした。

散髪した後、なじみの麺屋で麺を食べ、その後、ジェラードを食べた。少し気分がすっきりした気がした。

ジャカルタの宿舎へ戻って、鏡をみた。いつもの自分の顔に戻っていたような気がする。すてきな顔と自分では言えないが、醜い顔はそこになかった。よかった。

そして、いつの間にか眠ってしまった。気がつくと午前3時半。7時間ぐらい寝ていたことになる。久々によく寝た。こんなに寝たのは本当に久しぶりな感じがした。そのあと、3時間ぐらいうたた寝した。幸い、今週は、本当に久々に原稿の締切がないのだ。

原稿を書かねば、といつも睡眠時間を気にしていた。2時間仮眠して原稿、と思っていたのに、寝過ごしたので、午前4時に起きて原稿・・・、といった日々。生活は不規則になった。

これが醜い顔の大きな原因だったような気もする。

でも、それだけではない、もやもやした気分がある。

自分が今何に情熱を持っているのか。それがちょっと怪しくなっているからかもしれない。他人に対して自分の発している情熱のサインが、本当の自分の心の中の正直な情熱のサインではないのではないか、と。その二つは決して相容れないものではなく、むしろ、相乗効果をもたらすと信じてきたのだが、このところ、ちょっとパラレルになっているような気がするのだ。

どうしてこうなったのか。自分でもよくわからない。いろんなことを考えてしまう。インドネシアのこと、日本のこと、家族のこと、次の世代のこと、福島のこと、生きていくということ・・・。

でも、醜い顔はもうごめんだ。毎日、鏡の前でピースサインをしてみることにしよう。

スラバヤへ戻って

7月8〜21日、シンガポールと日本へ行ったため、スラバヤを離れていた。7月9日にシンガポール、7月11日に東京、7月17日に広島、7月18日に福山で講演してきた。結局、家族と一緒に過ごせたのはわずか3日だったが、東京の盆の墓参りをしたり、妻と久々に食事をしたりすることができ、充実した濃い日本滞在だった。

シンガポールや日本での講演で、まだまだビジネス関係者のインドネシアへの期待が高いことを実感した。しかも、単に「儲かりそうだから何かやりたい」という理由ではなく、真剣に前向きのビジネスを考えようとしている方々とお会いできたのはとても有益だった。 そして、昨今のジャカルタ周辺の投資環境の状態に懸念を抱いている方々が多いことも印象的だった。私が東ジャワや中ジャワの状況を紹介すると、真剣な眼差しで聞き入っている方々が少なくなかった。

インドネシアとビジネスを始めたい方々には、是非とも成功してもらいたいと強く思う。そして、そのためのお手伝いを一生懸命させていただきたいとも思う。ただし、これからのインドネシアにとってプラスになるようなビジネス、インドネシアと一緒に自らが成長していけるようなビジネスを創っていけるように、お手伝いをしたいのである。それが、回り回って、日本に対するより深い信頼や愛着心をインドネシアのなかに埋め込んでいくことにつながると信じるからである。

もっとも、私がお手伝いできることは限られている。一人の人間がすべて万能な訳ではない。様々なプロフェッショナルと人的関係を作りながら、自分が間接的にお手伝いできる範囲を広げていきたいと思っている。人は、いろんな人に助けられながら、そしていろんな人を助けながら、生きていくものだと思う。

インドネシアと日本の、そしてアジアと世界の、将来を意識しながら、価値のある活動をしていきたい、という高い理想を掲げていたい。その実現へ少しでも近づいていくための、自分の立ち位置をきちんと見定める時期に入ってきているようにも思える。

だまされ続けるのか、あきらめるのか

参議院議員選挙が予想通りの結果となり、安倍政権は信任され、衆議院と参議院の「ねじれ」が解消された。これにより、景気回復へ一層の弾みがつくという好意的な見方と、憲法が改正されて戦争への道を進むのではないかと心配する見方とが表れている。これについては、今後の展開を注意深くみていくしかない。

それよりも、私が問題にしたいのは、「我々はだまされ続けるのか、あるいはもうあきらめるのか」ということである。選挙が終わって、東電は福島第1原発から汚染水が海洋へ流出していたことを初めて認めた。以前からその疑いが指摘されていたが、これまで東電はそれを否定してきた。

海流出、東電が認める 第1原発の汚染水(福島民友)

もう2年前のことは忘れたのか。東日本大震災が起こってすぐ、ネット上では福島第1原発でメルトダウンが起こり始めた可能性が指摘されていた。日本では経験したことのない大惨事が起こる、と。

このとき、政府は「メルトダウンはない」と言い切り、ネット上の情報はデマと決めつけ、国家予算を使った監視の対象となった。そして、ネット上での予想通り、爆発が起こり、後の検証で、ネット上で指摘されていたのとほぼ同様の経過でメルトダウンが起こっていたことが明らかにされた。

政府は正しい情報を流さなかった。もし「知らなかった」というなら、政府は存在の意味をなさない。知っていたとしても、政府は嘘をつき続けた。パニックを起こさせないために、という理由で。このとき、政府は決して我々を守ってくれない、と悟った。

そして、今も嘘をつき続けている。汚染水が地下水に入り込み、その一部が海洋へ流出する可能性は相当に前から指摘されていた。でも、東電はそれを認めなかった。今回もまた、予測不可能だったのだろうか。知らなかったのだろうか。知らなかったとすれば、それはそれで大問題ではないか。

この問題に関するメディアの扱いは大きくない。多くの人々の反応が「ああ、そうか」で終わってしまうのか。

安倍政権は、原発再稼働を公約としている。福島県向けだけは「県内原発はすべて廃炉」と公約しているようだが、それを全国向けには明示していない。しかし、東電は、福島第2原発の再稼働の可能性を否定していない。「全国向けに再稼働を公約としている」という理由で、福島第2原発を再稼働させようとするのではないか、との危惧を持っている。

我々は、このままずっと、だまされ続けるのか。先のブログでも書いたが、「人の言うことをきく」ことを長所とする人間が増えた社会は、こうした公式発表を鵜呑みにし、だまされ続けることを自ら積極的に選択する社会になるのではないか。そして、「おかしい」と異議を唱える人間をあたかも異常であるかのように扱う社会になるのではないか。

一番大事なのは生活、だからお上に逆らわないほうがいい。それは一理ある。戦争遂行中の日本も、スハルト政権下のインドネシアも、多かれ少なかれ、そのような態度にならざるを得なかった。

しかし、民主化後のインドネシアでは、自分の意見を自由に述べる状況が普通になり、昨日の在ジャカルタ日本大使館前での発電所反対デモのような光景は当たり前になった。

翻って日本は、自ら積極的に、お上に対して従順な人間になろうとする傾向が強まっているような気がする。民主主義国家ニッポンで、それを「お上に強制されたから」というはずがない。参議院議員選挙を通じて、原発再稼働と憲法改正を公約とする政権を強く支持したのである。あとはそれに従え、である。民主主義のなかで、人々が自らそれを選択したのである。

そして、我々はだまされ続けるのか。いや、もうあきらめるのか。

だまされ続けるわけにはいかない。あきらめるわけにはいかない。

戦わなければならないのだ。覚悟を決めて。

長所は「人の言うことをきくこと」という若者たち

7月初め、日本の某大学の先生がスラバヤを訪れ、私に話を聞きたいといってきた。その先生によると、最近の若い世代は日本の外へ出ていこうとしない傾向が顕著で、海外で働いている人の話を伝えることで、彼らの意識を変えたい、というのがインタビューの趣旨だった。

私の生き方が果たして若い世代の参考になるのだろうか。世間から見れば、40代で安定した職場を辞め、その時々の幸運に助けられながら、裕福さとも、安定とも、名誉ある地位とも無関係な生き方を選択してしまった私の話など、彼らは果たして聞くのだろうか。

その先生曰く、学生と面接をしていて、彼らに自分の長所を尋ねた際、「言うことをきく」「言われたとおりにできる」「規則に従う」ということを自分の優れている点として答えた者が多かった、という。

時代は変わったのだろうか。大学生は学問するために大学へ来た、そこで求められるのは批判的思考だ、と私はずっと思ってきた。自分で考えるということを鍛えはじめる場が大学だと思っていた。今、日本の大学で作り出される人材は、人の言うことを(批判的に考えることなく)そのままその通りにできる、ということを自分の長所という人材なのか。にわかには信じがたい。いや、信じたくない。

「人の言うことをきく」ということを、冗談や受けを狙ったり、皮肉を込めたりして言うのではなく、真顔で本当に自分の長所と思っているなら、あたかも、自分から積極的に人間をやめようとしているかのように思えてしまう。

しかし、その状況は学生らだけに帰せられるものなのだろうか。

大学の教師は、学問や研究の中身ではなく、自分の学生の就職率で評価される傾向があると聞く。少子化で経営が最重視されるようになった大学にとって、お客さんである学生に来てもらわないことには話が始まらないのだ。

学生の親は、親心として、子供に苦労を掛けさせたくない。できるだけ冒険せずに、楽にそこそこ安定した人生を歩んでいってもらいたい。大学へやるのは世間体もあり、大学ぐらいは出ておいてもらいたい、ということか。

研究という本分を重視してもらえない教師。自分が安心したいがために子供の将来を案ずる親。

本来ならば、大学では、経営者がしっかり経営して、教師にはじっくり研究に集中してもらえる環境を作るべきではないか。

本来ならば、子供には自分で自分の将来を切り開いていく力をつけて託し、何かあった時に支えになってあげるのが親の役目ではないか。

学生が外に目を向けないのは、学生だけの問題ではない。教師、親、すべてが絡んで、外に目を向けさせることを誰も望んでいない環境が作られてしまったのではないか。

今の日本の閉鎖的な状況を作り出している素の一つがここにある。「人の言うことをきく」、批判的な目を持たずに育ってきた次の世代がまもなく将来の日本を形成していく。自分の頭で考えることをよしとしない人間を作り続ける社会の将来が怖い。

「こうなったのは、しかたないんだ。従うしかないんだ」。

そんな世の中ではない。もっと、前向きの明るい世の中を創っていかなければならない。

アール・イズ・ウェル!

2日に1回更新が目標のこのブログも、しばし間が空いてしまった。日本に帰国中で、東京の自宅にいると、やはり自宅で家族と一緒にいるということが、生活のリズムを変えることになるのだと感じる。日頃、一緒にいないことの後ろめたさもあり、ついつい家族と一緒の時間を求めてしまったりする。

それでも、原稿の締切や講演の時間は容赦なくやってくる。インドネシアで一人でいるときよりも、もっと上手に時間を使わないと、すべてをうまくやり抜けていけない。本当は、完全な休みを作って、もっとメリハリをつけたほうがよいのだが、なかなかそうはいかなくて困っている。

先日も、ある連載の担当者が休みを取るというので、2本分をまとめて事前に提出してほしいとの連絡があった。私だって、休みなので休載してほしいと言えばよいのだろうが、連載という性格上、なかなかそうも言えない部分があり、8月の休暇帰国中も結局、原稿も講演も通常通り行うことになってしまった。

明日は東京で朝10時から夜6時まで立て続けにアポが入り、その足で新幹線に乗って広島へ向かう。新幹線の中でゆっくり休みたいところだが、金曜締切の原稿2本や上記の事前に出す原稿2本の構想をまとめる必要がある。

おっと、その前に、明日に1日締切を延ばしてもらった連載原稿にこれから取りかからなければ。

こうした合間を縫って、3連休最後の今日は妻とインド映画「きっと、うまくいく」を観に行ってきた。この作品は、コメディータッチではあるが、本質的な部分をじっくりと考えさせるとても良い映画だった。

そして、この映画の最も重要なセリフを口ずさむ。アール・イズ・ウェル!アール・イズ・ウェル!と。

怒濤の1週間が終わり、次の怒濤の・・・

今週はこれまでにも増して体力的にきつい1週間だった。

月曜から金曜まで、どんなことをしたのか書き始めたのだが、全部消した。そんなことをこのようなブログで記録したところで、自己顕示以外の何物でもない。

プロフェッショナルは、大変だったことを他人に見せずに、あたかも簡単にさらっとやっているかのように見せなければならないのだ。

もっともっと、厳しい毎日を送っている人々は世の中にたくさんいる。自分など、まだまだ序の口に過ぎない。そう思って、精進しなければならないのだ。

そして、自分一人でそれをやり遂げたと思ってはならないことも肝に命じなければならない。有形無形のたくさんの方々に支えられながら、一つ一つ、やるべきことをやっていけるのである。

毎週あるいは毎月書いている連載やニュースレターも、読者の方々がいるから「書こう」という意欲が湧いてくるのである。こうした作業を通じて、ある意味での自分にとって重要な金銭的なものに限らない「資産」と「信用」を作っているのだと思っている。ありがたいことである。

そう思えば、何日も下痢に苦しんだり、睡魔と闘ったりしても、いずれ回復すれば、それらもまた心地よい記憶として自分の人生の中に刻まれていく。

明後日から2週間はシンガポールと日本。今週に負けないぐらいタフな毎日が待っている。そして、そんな日々がこれからもずっと続いていく。それを前向きに受けとめて進めていける自分であり続けたいものである。

ブルーバードタクシーが来ない

7月1日からジャカルタに来ている。先日、ジャカルタの友人宅からタクシーで宿泊先へ行くために、ブルーバードタクシーを呼ぼうとした。

まず、ブラックベリーのアプリで「今すぐに」と呼んだ。5分、10分、20分、アプリの経過報告には「タクシー探索中」の文字しかない。これはだめだと思い、アプリでの予約を取り消して、今度は電話でタクシーをお願いした。その後、5分、10分、20分、タクシーは来ない。

ジャカルタで最も信用され、スマホやブラックベリーでも配車可能なブルーバードタクシーなのに、これはいったいどうしたことなのか。やむを得ず、通りに出てタクシーを探す。友人たちも協力してくれ、やっとブルーバードタクシー1台を確保した。

このブルーバードタクシーは、私の予約を見てきたのではなかった。たまたま通りかかっただけである。ほどなく、ブルーバードから電話がかかってきて「近くにタクシーがいないのだが・・・」というので、すでにブルーバードタクシーを捕まえたと話すと「じゃあ予約はキャンセルしておきます」という返事。お詫びの言葉ひとつなかった。

捕まえたブルーバードタクシーの運転手によると、配車は地域ごとで行っており、たまたまその地域にタクシーがいないと、配車されない仕組みだそうだ。つまり、タクシーのいない地域へ他の地域からそこへ配車する形にはなっていない。おそらく、ブルーバードタクシーはGPSを活用して配車しているはずだが、GPSで区切られた地域だけを見て配車している様子。無線ならば、そんなことはないはずだ。

技術進歩でタクシーもスマートになったとはいえ、このような弊害も起きるのだと感じた次第。やはり、人間が技術を使いこなせないと、サービス水準はむしろ落ちるかもしれないのだ。ブルーバードタクシーの一件で、そんなことを思った。

 

マカッサルへ行ってよかった

前回のブログを書いた後、急にどうしてもマカッサル国際ライターズ・フェスティバル(MIWF 2013)へ行きたくなり、飛行機のチケットを購入し、6月29日の最終日だけ参加した。やっぱり、マカッサルへ行ってよかった。

午前中参加したセッションでは、3人が「10年後の自分のビッグ・アイディア」というテーマで話をした。ボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長は、環境への関心を深め、本当に社会の役に立つビジネスを行いたいと10年前に思い、それを実現させようと努めてきた。

GEインドネシアのアリフ氏は、日頃、無味乾燥で効率性を求められる職場だからこそ、魂を忘れないために、毎週金曜日に、社員がインターネット上に詩を投稿しあう活動を続けている。現場のエンジニアが編み出す珠玉の短い詩に心を打たれた。

オーストラリアから来た詩人であり大学教師でもあるルカ氏は、アボリジニや虐げられた人々が自己のアイデンティティを回復し、尊厳ある生活を取り戻す手段として、詩の活用を進めている。企業内のチームワークを高めるために、詩を作って発表することの効用を熱く語ってくれた。

詩にはそんな力があるのか、という思いにふけりながら、ふと、故郷・福島のことが頭をよぎった。再生・復興へ向かう福島で、詩の果たす役割がもっとあるのではないか。福島を忘れないことを目的に詩を綴り続ける和合亮一氏や、小学校からの詩作活動を長年にわたって進めている「青い窓」という運動。福島にはたくさんの有名無名・老若男女の詩人がいるのだ。

午後は、「植えること、書くこと」というセッションに出席した。午前中も話を聞いたボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長、自然と人間との共生について現実に即して書いた本の執筆者のポール氏、都市生活者が身の回りで植物・作物を植える活動を進める「植えるインドネシア」の地方支部「植えるマカッサル」に関わる大学生のシーファ氏、の3人が発表した。

セッションでは、友人で司会者のイダ氏から私もコメントを求められ、日本で都市の若者たちで農村へ向かう動きがあること、震災などを経て自分たちの「生きる力」を得るために農業が見直されていること、植えるという行為はすでに国境を越えて世界中に広がっていること、などを話した。

会場の外では、「植えるマカッサル」がペットボトルを切ってそこにホウレンソウなどの苗を植えたコーナーもあり、参加者が自分のツイッター名をつけ、その成長記録をツイートする、という試みも行われていた。この苗が大きくなったら、畑地に移植するのである。植えることが書くことにつながる、という試みでもある。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバルは6月25日から開催され、29日夜がフィナーレ。いつものごとく、開始予定時刻の午後6時半から大幅に遅れ、午後8時半ごろから開始した。友人のリリ・ユリアンティ氏が主催者を代表して述べた挨拶は素晴らしかった。

デモなどマイナスイメージでメディアに取り上げられるマカッサルで、実はこのような創発イベントが行われていることを皆でツイッターやFBでどんどんゲリラ的に発信しよう。このイベントは国際的であると同時に、マカッサルのアイデンティティを深める意味も持っている。誰にでも開かれていて、若い参加者がどんどん増えている。もっともっと、皆でこのイベントを盛り上げて、世界中のライターが集い、マカッサルがより輝けるようなイベントにしてきたい、と。

リリ氏の圧倒的なスピーチの後、インドネシア東部地域の若い詩人たち5名が次々に詩の朗読をした。まだ20~30代の若者たちが生き生きと自分の言葉で詩を読み上げる。その勢いと若々しさがとてもまぶしく、インドネシアの未来、とくにインドネシア東部地域の未来を垣間見るような時間だった。

フィナーレの最後は、クリスナ氏による詩の朗読で締めくくり。マカッサルの伝統衣装をまとい、伝統楽器をバックに、熱のこもった朗読のパフォーマンス。マカッサルがうねりとなって、観ている者に押し寄せてくるような、そんな気がした。

マカッサル滞在は実質わずか1日。でも、マカッサル国際ライターズ・ワークショップの最終日に参加しながら、マカッサルの大切な仲間たちに再会できたのは至福の喜びだった。彼らといろいろ話をしながら、自分の心の中に何とも表現できない熱い想いがどんどん溢れてきた。

3月末に借家の契約を終了し、マカッサルに居場所がなくなった。今回は久々にホテルに泊まった。それでも、マカッサルは旅行で訪れる他のインドネシアの都市とは同じではなかった。今、住み始めて3ヵ月のスラバヤとも根本的に何かが違う。

そう、マカッサルはやっぱり、私が帰ってくる、私が本当の自分に戻れる、大事な「故郷」なのだ。改めてそう、深く思えた。

もう一度、マカッサルに住みたい、と心底思った。涙が出てきた。自分の深いところから出てくる涙だった。自分が忘れてはいけない「原点」をもう一度確認したような気がした。

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