スラバヤの東南アジア最大の売春街は今 ~中小企業センターへの変貌~(松井和久)

【よりどりインドネシア第71号所収】

誰がどうやって計ったのかは知りませんが、東ジャワ州の州都スラバヤには、タイのパッポンやシンガポールのゲイランを上回る、東南アジア最大の売春街が存在しました。存在しました、という過去形なのは、2014年にスラバヤ市政府によって閉鎖され、いまはもう消滅したためです。

この売春街は、通称「ドリー」(Dolly)と呼ばれていました。売春店が並ぶ通りをドリーと呼んでいたのです。しかし、ドリーは売春街の一部に過ぎませんでした。この地域を東西に延びる幹線のジャラック通り(Jl. Jarak)の両脇には売春店が軒を連ねていたほか、実は、プタット・ジャヤ(Putat Jaya)地区の路地裏にも広がっていました。

2014年に閉鎖となった後、この元売春街では、売春に代わる新たな雇用を生み出すべく、スラバヤ市政府が中心となって、中小企業センターへの変貌を推進しています。

筆者は2013~2015年にスラバヤに滞在し、滞在中に売春街の閉鎖を目の当たりにしました。たまたま、筆者の家はそこからさほど遠くないところにあり、売春店に行ったことは全くなかったものの、タクシーで夜、たまたまジャラック通りを通ることが何度かありました。

そして2020年3月、中小企業支援を行っている友人たちとともに、ドリーとプタット・ジャヤを再訪しました。本稿では、そのときの様子を踏まえて、変貌する元売春街の様子を皆さんにお知らせしたいと思います。

(以下、本文へ続く)

新型コロナをめぐるマカッサルの3事件(松井和久)

【よりどりインドネシア第72号所収】

インドネシアの新型コロナウィルス感染拡大は、収束の気配を見せることなく、全国へ拡散し続けています。

断食月頃、いったん収まりかけたかに見えた首都ジャカルタでも毎日100人以上の新規感染者が続いているほか、東ジャワ州では1日に300人を超える新規感染者の発生する日も頻発しています。新規感染者数の増加が目立つのは、東ジャワ、ジャカルタ、南スラウェシ、中ジャワ、南カリマンタンなどです。

他方、治癒率(累積感染者数に占める累積治癒者数の比率)は多くの州で上昇傾向を示しており、全国でみると、1ヵ月前の5月22日時点で24.3%だったのが6月21日には40.1%へ増加しています。また、死亡率(累積感染者数に占める累積死亡者数の比率)は、同期で6.4%から5.4%へと低下しています。治癒率の上昇、死亡率の低下という数字を見る限り、インドネシア全体としては、新型コロナウィルス感染状況が少しずつ改善へ向かっているようにみえます。

しかし、州別に細かく見ると、治癒率が逆に低下している州が見られます。この1ヵ月で治癒率が低下した州はアチェ、バリ、中カリマンタン、北スマトラ、南スラウェシの各州で、過去1週間でみると、さらに東南スラウェシ、リアウ、北マルクが加わります。これらの州では、今後しばらくは感染拡大が続く可能性があります。バリは全国平均に比べて治癒率が大幅に高く、また死亡率も大幅に低いのですが、この1週間の感染者数が今までよりも増加傾向にあり、第2波が来ている可能性があります。西ジャワも同様の傾向を示しています。

6月11日時点での感染者1名が何人に感染させるかを示す実効再生産指数を各州別にみると、最も高いのが南スラウェシで1.51、以下、1以上なのがバンカ・ブリトゥン、中スラウェシ、北スラウェシ、マルク、東ジャワ、南カリマンタン、ジャカルタ、西カリマンタンなど、全34州のうち21州となっています。もっとも、実効再生産指数自体は、5月20日時点の全国で2.5~2.6という数字からすると低下していますが、なかなか1を切れない状況にあるといえます。

インドネシアは、6月5日からニューノーマルへの移行期間へ入っており、経済活動も再開へ向けて動き始めていますが、実効再生産指数がまだ確実に1を切れず、地方では感染者増加が抑えきれておらず、バリなどで第2波が始まっている可能性も出ている状況で、決して油断できない状況にあると思われます。

そんななかで、感染拡大が最も懸念される州のひとつである南スラウェシ州の州都マカッサルで、新型コロナをめぐる3つの事件が全国的な注目を集める事態となっています。その3つの事件とは、迅速抗体検査断固拒否事件、病院からの患者遺体の持ち逃げ事件、検査できずに胎児を亡くした妊婦事件、です。以下でその概要を見ていきます。

(以下、本文へ続く)

コロナ禍での中国人労働者の入国許可問題(松井和久)

【よりどりインドネシア第73号所収】

インドネシアでの新型コロナウィルス感染状況は、世界各国から見ると、数のうえでは少ないように見えますが、まだまだ予断を許さない状況にあります。

2020年7月6日現在、これまでの感染者総数は6万4,958人、治癒者総数は2万9,919人、死亡者総数は3,241人となっています。前号の発行日である2020年6月22日の値と比べた増加数は、感染者総数が1万8,113人、治癒者総数が1万1,184人、死亡者総数が741人となっています。

6月22日以降、感染者数は毎日1,000~1,600人程度増加しているのは気になりますが、治癒率(感染者総数に対する治癒者総数の比率)は6月22日の40.0%から7月6日には46.1%へ上昇する一方、死亡率(感染者総数に対する死亡者総数の比率)は同期に5.3%から5.0%へ低下しています。毎日の経過で見ても、治癒率は着実に上昇し、死亡率は着実に低下しています。

気になるのは、一部の地方では、これから感染拡大が本格化しそうな気配があることです。そこでは、一時的な現象かもしれませんが、治癒率の低下や死亡率の上昇がみられます。地理的な条件や地方への感染のタイムラグを考えると、全国での数字が改善へ向かっているように見えるからといって、インドネシアはもう大丈夫だと結論づけることはできないと思います。

このような、まだまだ警戒すべきコロナ禍の状況下で、インドネシア政府が中国からの労働者500人の入国を許可したことが問題視され、メディア等で話題となっています。今回は、この問題を取り上げてみます。

(以下、本文へ続く)

感染対策から経済回復へ舵を切ったジョコ・ウィドド政権(松井和久)

【よりどりインドネシア第74号所収】

新型コロナウィルスの感染拡大の影響は、予想通り、長期化の様相を見せています。日本を含む多くの国々で、感染拡大の第二波を警戒しつつも、経済を回す必要から、コロナとの共存を前提とした「新たな日常」「新しい生活様式」への移行、すなわち自粛や規制の緩和への動きが一般化しつつあります。

インドネシアでも同様に、感染対策と経済回復を車の両輪のようにどうバランスをとっていくかは、ジョコ・ウィドド政権の最も肝要な政策課題となってきましたが、ここに来て、政権は、感染対策よりも経済回復を重視する方向へ舵を切った様子です。

7月20日、ジョコ・ウィドド大統領は、2020年大統領規則第82号に基づき、新型コロナ対策・国家経済回復委員会(Komite Penanganan Covid-19 dan Pemulihan Ekonomi Nasional)という新組織を立ち上げました。そして、同時に、これまで新型コロナウィルス感染対策を仕切ってきた「新型コロナウィルス緊急対策チーム」(Gugus Tugas Percepatan Penanganan Covid-19)を解散し、その機能を新組織のなかに組み込みました。

ジョコ・ウィドド大統領は、新組織立ち上げの理由として「感染対策と経済回復は切り離せない。ブレーキとアクセルを制御していく」と述べました。同時に、他国のような強力な都市封鎖(ロックダウン)を行わなかったので、2020年第1四半期のGDP成長率が2.9%、第2四半期がマイナス4.3%で済んだのであって、ロックダウンを実施していたら第2四半期はマイナス17%になっていた、ともコメントしました。

この大統領発言を見る限り、感染対策と経済回復の二兎を追う形のこの委員会は、一見すると、その両者のバランスを取るための適切な組織のように見えます。しかし、これは明らかに、ジョコ・ウィドド政権が感染対策よりも経済回復を重視する姿勢を鮮明にしたものなのです。

それはなぜなのかについて、以下で見ていくことにします。

(以下、本文へ続く)

インドネシア米農業の現状を概観する(松井和久)

【よりどりインドネシア第75号所収】

新型コロナウィルス感染症が世界中へ拡大し、対策もワクチンも不確かな状態がまだしばらく続きそうです。もはや元の世界へは戻れないと人々は自覚し、コロナとともに生きる「新しい日常」への模索が始まっています。

新型コロナへの不安のなか、2020年4月21日、欧州連合(EU)、国連食糧農業機関(FAO)、国連人道問題調整事務所(OCHA)、国際連合児童基金(UNICEF )、アメリカ国際開発庁(USAID)、国連世界食糧計画(WFP)は共同で、2020年版『食料危機に関するグローバル報告書』と題する報告書を発表しました。

これによると、2019年末の時点で、55の国と地域で1億3500万人の人々が急性の食料不安(IPC / CHフェーズ3以上)を経験し、1,700万人の子どもが急性栄養不足による消耗症、7,500万人の子どもが慢性的な栄養不足のために発育阻害に陥っている、ということです。1億3,500万人のうち、半数以上(7,300万人)がアフリカに、4,300万人が中東およびアジアに、1,850万人がラテンアメリカおよびカリブ海諸国に居住している、としています。

インドネシア、とくにジャワ島は、熱帯下の豊かな土地で、食料は何でもとれ、飢餓とは無縁の世界と見なされています。筆者の経験では、1998~1999年の通貨危機から始まる経済危機・政治社会危機の時期に農業生産物の不作が重なり、あのときだけは、飢餓が起こるのではないかと心配した記憶があります。インドネシアの農業生産は、世界的に見て、決して効率性や生産性の高い生産様式を採っているわけではありませんが、それなりに何とか2億6,000万人以上の人口を養い続けてきました。

特筆できるのは、米の生産です。1980年代初頭まで、インドネシアは世界有数の米の輸入国だったのです。そこで、当時のスハルト政権は、高収量品種の苗と化学肥料・農薬を多投するいわゆる「緑の革命」を適用し、米の生産量を飛躍的に増加させて、1984年に米の自給を達成したと宣言、その奇跡に対して、国連農業機関(FAO)がスハルト大統領を表彰したのでした。

国民に米を十分に食べさせる。これがスハルト長期政権を支えた支柱の一つでした。トウモロコシ、キャッサバ、イモ類、サゴ椰子澱粉などを主食としてきたジャワ島外の人々は、米を食べることを近代化の象徴と受け止め、米を主食とするように食生活を変えていきました。その結果、主食に占める米の比率は9割以上に達しました。こうして、インドネシアの農業政策の中心は、現在に至るまで、米の生産量を自給レベルに維持していくことに置かれ続けてきました。

米の自給達成を世界へ誇ってから35年以上の年月を経た今、インドネシアの米生産に黄信号が灯り始めました。どうやら、米の収穫面積と生産量が大きく減少へ転じ始めたようなのです。

(以下、本文へ続く)

2021年度予算案と今後の経済の展望(松井和久)

【よりどりインドネシア第76号所収】

インドネシアにおける新型コロナウィルス感染拡大は、当初、ピークと見なされた8月になっても収束の気配は見えず、2020年内、あるいは来年まで続くのではないかという声が出始めています。ジャカルタでは、セミロックダウンともいえる大規模社会的制限(PSBB)からの第1段階移行期に入ったものの、第2段階へ移れず、第1段階が延長されたままとなっています。

新型コロナウィルス感染状況をみると、8月22日時点での中央政府発表の感染者数は累計で15万1,498人、死亡者は同6,594人、回復者は同10万5,198人でした。 累計感染者数は世界第23位で、東南アジアではフィリピンに次ぐ数となっています。回復者率(累計回復者数/累計感染者数)の上昇と死亡者率(累計死亡者数/累計感染者数)の低下は一貫して続き、重症化の危険は低下傾向ですが、感染者数の増加スピードは落ちておらず、陽性率は12%台から13%台へ上昇しています。若年人口の多さや検査数の不足を考えると、政府発表の数字以上に、かなりの数の無症状感染者が存在すると予想されます。

2020年8月初め、2020年第2四半期(4~6月)のGDP成長率が発表され、当初の政府見込みよりも低いマイナス5.32%となりました。この値は、1998年の通貨危機のときに次ぐ低い成長率でした。

そんななか、2020年8月14日、ジョコ・ウィドド(通称・ジョコウィ)大統領は独立記念日演説とともに、2021年度予算案の概要を発表しました。新型コロナウィルス感染拡大対策と経済回復との両立を図ることを目的とし、GDP成長率4.5~5.5%を目指す内容となりました。

もっとも、事態はより一層、厳しい方向へ向かう可能性があります。とくに、今回の新型コロナウィルス感染拡大においては、インドネシアの経済活動の中心となるジャワ島のとくに都市部での経済的な落ち込みが厳しい様子がうかがえます。筆者自身は、2021年のGDP成長率目標を達成するのは難しいのではないかとやや悲観的にみています。

今回は、2020年第2四半期のGDP成長率の中身を見たうえで、ジョコウィ大統領の発表した2021年度予算案の要点を説明した後、ジャワ島のとくに都市部における貧困人口急増の状況について触れて、今後の経済について簡単に展望することにします。

(以下、本文へ続く)

よりどりインドネシア第74号(2020年7月22日発行)

●感染対策から経済回復へ舵を切ったジョコ・ウィドド政権(松井和久)
政府は7月20日、感染対策と経済回復の両立を図る新たな委員会を立ち上げ、従来の対策チームを解散しました。しかしその狙いは感染対策から経済回復へ重点を移すことでした。松井がその背景を探ります。

●ウォノソボライフ(31):シオンタバコは絶滅するか?(神道有子)
神道さんの連載は、普通のタバコとは一味違うローカルの「シオンタバコ」の話です。その歴史をたどりながら、シオンタバコとウォノソボとの意外な関係やどう生き残っていくのかを語ってくれます。

●ジャワの羽衣伝説 – “Babad Tanah Jawi”より–(その2)(太田りべか)
太田さんのジャワの羽衣伝説、今回は異説の紹介です。異説をめぐる奇妙で意外な話や、ジャワとスンダとの王族関係などに思いを馳せます。ジャワの神話の世界が身近に感じられます。

●いんどねしあ風土記(20):ヌサンタラ・コーヒー物語(後編)~コーヒー文化紀行~(横山裕一)
横山さんのコーヒー紀行は3回目。フローレスの占いコーヒー、映画「コーヒーの哲学」のカフェ、北スマトラの極上コーヒー、注目すべきワインコーヒーなど盛り沢山です。

よりどりインドネシア第73号(2020年7月8日発行)

●コロナ禍での中国人労働者の入国許可問題(松井和久)
コロナ禍のなかで中国人労働者500人の入国が政府によって許可されました。松井はそれへの抗議行動と入国許可の背景を探りました。

●ロンボクだより(33):折り重寝る子どもたち(岡本みどり)
岡本さんの連載は、子どもたちの「折り重寝る」様子を微笑ましく描いています。コロナ禍での社会的距離のことを考えてしまいます。

●ラサ・サヤン(7):~私のインドネシア音楽~(石川礼子)
石川さんの連載は、ご自分の音楽の話から始まるのですが、それを超え、音楽を通じてインドネシアと故郷の浜松市とをつないでしまう展開がすごいです。

●いんどねしあ風土記(19):ヌサンタラ・コーヒー物語(中編)~コーヒー文化紀行~(横山裕一)
横山さんのコーヒー物語は中編です。アチェのコピ・サリン、ジョグジャのコピ・ジョス、フローレスのドリアンコーヒーが紹介されていますが、それぞれ独特のコーヒー文化、奥が深いです。

よりどりインドネシア第72号(2020年6月22日発行)

●新型コロナをめぐるマカッサルの3事件(松井和久)
住民が迅速抗体検査を拒否、病院から感染を疑われる患者を持ち逃げ、陽性となった妊婦の胎児は死亡。マカッサルで起きた3事件を松井がお伝えします。

●ウォノソボライフ(30):仕立屋さんに起こったこと(神道有子)
ウォノソボの仕立て屋さんがバズったのはなぜか。それとシラミ取りとの関係は?。連載中の神道さんが解説します。

●ジャワの羽衣伝説 – “Babad Tanah Jawi”より–(その1)(太田りべか)
太田さんは、ジャワの古典から羽衣伝説を取り上げ、羽衣伝説とジャワの王朝との意外な興味深い関係を推理します。

●ラサ・サヤン(6):中村兵(石川礼子)
モロタイ島で発見された中村輝夫という元「日本兵」は台湾へ戻りました。彼のことをもっと知ってもらいたいという石川さんの思いがこもった一作です。

●いんどねしあ風土記(18):ヌサンタラ・コーヒー物語(前編)〜コーヒールネッサンス~(横山裕一)
横山さんの連載は、満を持してのコーヒー物語の前編です。大のコーヒー好きの横山さんの心のこもったエッセイを堪能してください。

よりどりインドネシア第71号(2020年6月7日発行)

●スラバヤの東南アジア最大の売春街は今 ~中小企業センターへの変貌~(松井和久)
松井の原稿はコロナ関連を一休みし、閉鎖されたスラバヤの元売春街ドリーを変え始めた活動について紹介しました。東南アジア最大規模だったドリーはどうなるのでしょうか。

●ロンボクだより(32):ジン(精霊)と信仰(岡本みどり)
岡本さんの連載はジン(精霊)のお話です。果たして、ジンはイスラムの信仰とどのような関係でロンボクの人々に捉えられているのか。興味津々です。

●ラサ・サヤン(5)~姪たち~(石川礼子)
石川さんのラササヤンは今回も読み応えある内容になりました。石川さんの姪に対する眼差しに思わずホロリとしてしまいそうです。

●いんどねしあ風土記(17):あるイスラム教徒からみた新型コロナウィルス感染流行 〜ジャカルタ首都特別州~(横山裕一)
横山さんの連載は、イスラム教徒がイスラムの観点から新型コロナウィルス感染をどのように見ているのかを明らかにしています。納得できる面も感じられます。

モフタル事件再考~900人余のロームシャはなぜ死んだのか~(松井和久)

【よりどりインドネシア第77号所収】

インドネシアの新型コロナウィルス感染状況は、依然として警戒すべき状況にありますが、政府は経済回復優先の姿勢を示し、中国と共同でのワクチン開発に楽観的な見解を示しています。在留許可者以外の一般観光客等のインドネシアへの年内渡航は難しい情勢であり、感染の収束がいつ頃になるかの目途はまだ立っていません。

そんなインドネシアで新型コロナウィルス感染拡大が続くなか、今回は、そうした感染症に絡めた話題を取り上げてみました。それは、日本軍が関わった第二次世界大戦中のお話です。

●ロームシャの大量死とモフタル事件

第二次世界大戦中の1944年8月、日本軍による占領下のオランダ領東インド(現・インドネシア)のバタビア(現・ジャカルタ)で、900人余のロームシャが亡くなるという事件が起こりました(日本側発表では400人余)。彼らは、労働を強いられた現地人労務者であり、バタビアのクレンデル収容所に収容されていました。

労務者は日本軍による道路・空港・鉄道などの建設へ強制的に徴用された者で、ロームシャという言葉はインドネシア語でも残りました。彼らは、クレンデル収容所にいったん収容された後、東南アジア各地へ派遣されていきました。日本でも有名なのは、タイ・ビルマ間の泰緬鉄道建設ですが、オランダ領東インド領内でも多数のロームシャが徴用されました。

数字は色々あるようですが、たとえば、ジャワ島からは約28万人が徴用され、帰還できたのはわずか5万2,000人に過ぎなかったと言われています。なかでも、西ジャワの鉄道建設で9万人、スマトラ・リアウのプカンバルでの鉄道建設で7万人のロームシャが亡くなったとされます。彼らの労働は過酷を極め、食料も十分に与えられず、病気で亡くなった者も多数いたと言われます。

そうした過酷な現場へ向かう前のクレンデル収容所で、多数のロームシャが亡くなるという事件では、いったい何が起こっていたのでしょうか。彼らには、収容所で「発疹チフス・コレラ・赤痢」の混合予防ワクチン接種が行われたのですが、その後、破傷風の症状が現れて、次々に亡くなっていきました。捜査の結果、このワクチンに破傷風毒素が混入されていたことが分かりました。

同ワクチンを提供したのはエイクマン研究所とされ、同研究所のアフマド・モフタル(Achmad Mochtar)所長の責任が問われる事態となり、彼はのちに日本軍により処刑されました。モフタル所長は日本軍の信用を失墜させるための策略を企てた、という理由でした。この事件はのちに「モフタル事件」として知られるようになりました。

ところが最近、モフタル所長は濡れ衣を着せられたのであって、真相は日本軍による人体実験だったのではないか、という見解が現れてきました。

英オックスフォード大学のマラリア病専門家であるケビン・ベアード博士とインドネシア独立後にエイクマン研究所所長を務めたサンコット・マルズキ博士は、共著で出版した『モフタル事件:1942~1945年日本占領期インドネシアでの医療殺人』(J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki (2015), The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942-1945)という書物で、そのような告発をしています。

そして2020年9月、この本のインドネシア語版がジャカルタで出版されることになり、歴史に興味を持つ若者らの間で、ちょっとした話題になっています。

モフタル事件自体については、資料が残っておらず、文献的な研究から真相を明らかにすることは難しく、間接情報をつなぎ合わせてみていくほかはありません。もっとも、ベアード氏とマルズキ氏は、当時のクレンデル収容所でロームシャが亡くなっていく現場にいた唯一の証人を探し出し、彼女へのインタビューを試みています。

また、インドネシアにおける日本軍政研究で著名であり、最近『インドネシア大虐殺』(中公新書)を出版した倉沢愛子氏(慶応義塾大学名誉教授)の記事にも、モクタル事件に関係する興味深い周辺情報があります。

今回は、それら限られた間接情報を踏まえながら、モフタル事件の真相が何なのか、900人余のロームシャはなぜ死んだのか、について、ほんの少しだけ迫ってみたいと思います。

(以下に続く)

  • モフタル事件のモフタル氏とは
  • エイクマン研究所とパストゥール研究所(防疫研究所)
  • クレンデル収容所でロームシャが次々に死亡
  • 日本軍の見解:意図的な混入
  • ベアード氏とマルズキ氏の見解:人体実験
  • 731部隊は関与していたのか
  • 私なりの個人的な推理

よりどりインドネシア第75号(2020年8月8日発行)

●往復書簡-インドネシア映画縦横無尽
第1信:『ゴールデン・アームズ』の挑戦と挫折(轟英明)
●往復書簡-インドネシア映画縦横無尽
第2信:スンバ島とインドネシア映画(横山裕一)
⇒今号から新連載「往復書簡-インドネシア映画縦横無尽」を開始しました。インドネシア映画をこよなく愛する轟さん・横山さんのお二人が熱く濃く語り合います。今号の第1・2信を掲載しますが、次号から1本ずつ掲載の予定です。『ゴールデン・アームズ』から始まる往復書簡、どんな展開になっていくか、お楽しみに。

●インドネシア米農業の現状を概観する(松井和久)
⇒インドネシアの米農業に黄信号か。収穫面積と生産量が実は穀倉地帯で大きく減少しています。松井がその状況を概観しました。

●ロンボクだより(34):地震から二年(岡本みどり)
⇒岡本さんの連載は、ロンボク地震から2年後の現地の様子を伝えています。復興にかける時間の概念が日本とはずいぶん違うようです。岡本さんはそれをどう感じているのでしょうか。

●ラサ・サヤン(8):~毒入りコーヒー殺人事件~
⇒石川さんの連載ラササヤン、今回は、かつて全国民をテレビに釘付けにした毒入りコーヒー殺人事件の話です。推理小説を読むような詳細なストーリーをご堪能ください。

よりどりインドネシア第76号(2020年8月23日発行)

●2021年度予算案と今後の経済の展望(松井和久)
⇒第2四半期のマイナス成長の後、新型コロナ対策と経済回復を目指す2021年度予算案が発表されました。今後の経済を松井が展望しました。

●ウォノソボライフ(32):良妻賢母2020(神道有子)
⇒神道さんの好評連載、今回は、地元のPKKの活動に着目しながら、ウォノソボにおける女性の社会活動と社会的地位向上を考えます。そこにはフェミニズムとは異なる面があるようです。

●プニン沼伝説(太田りべか)
⇒太田さんは、プニン沼伝説の基本型とそこからの派生型を紹介し、ジャワの民話がどう伝承されていくかを示しています。同時に、物語の最期に教訓が常に最後に書かれることに疑問も呈します。

●ジャカルタ寸景:踏切の番人たち(横山裕一)
⇒横山さんは今回は短編ですが、ジャカルタのありふれた風景の一つ、鉄道踏切の番人たちの様子をやさしい眼差しで描いています。ボランティアである彼らの思いに迫ります。

●往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第3信:「辺境」スンバ島からのスハルト体制批判映画『天使への手紙』をめぐる評価軸(轟英明)
⇒インドネシア映画往復書簡の第3信は、轟さんがスンバ島を舞台とするガリン・ヌグロホ監督の初期作『天使への手紙』を取り上げ、2つの観点から新たな解釈を試みました。映画ファンは必読の内容です。

オイルパーム農園開発と闘う慣習法社会~中カリマンタン州キニパンの土地紛争~(松井和久)

【よりどりインドネシア第77号所収】

経済開発に付随して起こる、開発する側と開発される側との間で生じる土地紛争は、インドネシアでは、1960年代から続く大きな問題です。

大統領府土地問題解決促進チームによると、2016~2019年に全国から666件の紛争報告があり、これは17万6,132世帯の145万7,084ヘクタールが係争地となっています。そして、コロナ禍の2020年3~7月だけで28件の紛争報告が上がっています。

今回取り上げる中カリマンタン州でも、2005~2018年に住民とオイルパーム農園企業との紛争が少なくとも345件起こっています。とくに近年、土地紛争とともに、住民側が犯罪者扱いされる犯罪化のケースが目立ってきています。

今、インドネシアの各地で、長年にわたって地域に根づいてきた慣習法(adat)に基づく資源管理を行ってきた住民が先祖伝来のコミュニティの土地や資源をどう守るかという点と、政府が伝統社会の住民のエンパワーメントを図って生活を豊かにさせたいという点とがうまく調和できずに、外来の民間大資本による開発が優先されてしまう現実があります。

今回はその一例として、中カリマンタン州ラマンダウ県バタンカワ郡キニパン村を中心とする、ラマン・キニパン慣習法社会(Komunitas Adat Laman Kinipan: 以下「キニパン慣習法社会」とする)とオイルパーム農園開発会社 PT. Sawit Mandiri Lestari(以下「SML社」とする)との紛争の話を取り上げます。

直近の出来事のハイライトは、2020年8月26日、キニパン慣習法社会のエフェンディ・ブヒン(Effendi Buhing)代表が警察に逮捕された事件でした。ブヒン代表は、SML社のオイルパーム農園開発がキニパン慣習法社会の管理する慣習法林(hutan adat)に入ってくることを阻止する住民運動の中心メンバーで、長年、運動の先頭に立ってきました。

慣習法林を守る運動を続けてきたブヒン代表逮捕の情報は、SNS等を通じて広く拡散されました。そして、全国各地の慣習法社会の連合体である全国慣習法社会連合(AMAN: Aliansi Masyarakat Adat Nusantara)などが中心となり、地元の中カリマンタン州はもちろん、全国各地で逮捕への抗議デモが起こり、国際的にも注目される事態となりました。

中カリマンタン州の州都パランカラヤでのブヒン代表逮捕への抗議デモ (出所)https://indonews.id/artikel/312338/AMAN-Adukan-Polisi-Penangkap-Ketua-Adat-Kinipan-ke-Kompolnas-dan-Divpropam/

ブヒン代表の逮捕理由は、SML社所有のチェーンソーの窃盗を首謀という容疑で、警察は「慣習林や土地紛争とは関係ない」としていますが、そのように額面通りには受け取れない背景がありました。

以下では、ブヒン代表逮捕事件の流れをみた後、キニパン慣習法社会側とSML者側の大きく食い違う言い分を照らし合わせ、慣習法社会とオイルパーム農園開発の紛争の背後でうごめく政治利権の世界へ迫ってみたいと思います。

(以下に続く)

  • ブヒン代表逮捕事件をめぐって
  • SML社側の言い分
  • SML社のオイルパーム農園開発史
  • 慣習法領域の登録
  • キニパン慣習法社会から見た変遷
  • SML社をめぐる利権構造

よりどりインドネシア第77号(2020年9月7日発行)

▼オイルパーム農園開発と闘う慣習法社会~中カリマンタン州キニパンの土地紛争~(松井和久)

⇒農園開発が進むなかで慣習法社会の存立は益々厳しくなっています。中カリマンタン州で起きたある事件を通して両者の対立の背景と解決の難しさについて考察しました。

▼ラサ・サヤン(9)~もし〇〇ならば、あなたはインドネシア人かも~(石川礼子)
⇒石川さんは今回、インドネシア人の特徴を色々な人がどんなふうに取り上げているかを豊富な例で示しました。石川さん個人の思うインドネシア人の特徴もあるあるの世界で納得です。

▼往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第4信:地方舞台の映画の意義(横山裕一)
⇒インドネシア映画往復書簡の4回目は、横山さんが地方を舞台とした映画の魅力について語ります。撮る側と撮られる側の関係を考えることでより深く楽しむことができるような気がします。

▼モフタル事件再考~900人余のロームシャはなぜ死んだのか~(松井和久)
⇒日本軍政期に起こったロームシャの大量死とモフタル事件。新説を提示した英文書のインドネシア語版が9月に発刊されます。限られた情報から何が起こっていたのか、松井が推理しました。